第11話『表面上と水面下』
7月3日、水曜日。
午前9時20分。俺は雅先輩と潮浜国立大学に来ていた。俺は2時限目からなのだけれど、雅先輩が1時限目からなので朝早く一緒に来ることに。
昨日ほどではないけど、雅先輩と一緒にいるだけで周りの生徒から見られる。今は先輩が講義を受ける教室の前にいるけれど、教室に入っていく生徒のほとんどが俺達の方を見ていく。
「朝起きたら隼人君と一緒にベッドで寝ているから驚いちゃったよ」
「それを言うの、何度目ですか」
雅先輩は昨夜、寝ていた自分をベッドまで運んでくれたことでご満悦のようだ。俺が起きてからずっと笑顔のままだ。まあ、機嫌が悪いよりかはよっぽどいい。
「隼人君に抱き上げてもらえるなら起きてれば良かった」
「……寝ていたから抱き上げたんですけどね」
起きていたら何をされるか分からないので、女性恐怖症的に抱き上げることはできないだろう。それ以前に普通に自分で部屋まで移動させると思う。
「ねえ、本当に私が寝ている間に何もしなかったの?」
「……それも言うの、何度目ですか。何にもしていませんよ」
「私は隼人君と違って何時でもオープンだよ。寝ている間にキスとか色々とえっちなことをしてくれて良かったんだよ?」
「俺はそういう変な性癖はありませんから」
寝ている間にキスだなんて、自分の首を絞めているのと一緒だ。そんなことして気持ちが満たされるわけがない。
「変じゃないと思うけどなぁ。もし私ならしたいと思うし」
その言葉を聞いて、全身に悪寒が走った。まさか、口移ししてまで俺に酒を飲ませたのもそのためだったのでは……? そう思うととても恐ろしい。
「あれ、鳥肌が立っているけどここ寒いかなぁ」
「そ、そうですね。今日も朝から暑いですし、ここに来るまでに汗を掻いたから体が冷えてしまったのかもしれません」
実際に寒気も感じるし。
「……あっ、そろそろ時間だ。じゃあ、講義が終わる時間になったらここに来てね」
「分かりました」
雅先輩は笑顔で手を振りながら、教室の中に入っていった。
そして、午前9時半になり、講義開始のチャイムが鳴った。ここから1時間半は俺の自由時間だ。
水澤と岩坂から報告を受けるのは、雅先輩も講義の予定が入っている3時限目にした。なので、ここから1時間半は特に何の予定もない。
とりあえず、昨日色々なことがあった教室の近くにある休憩スペースに向かい、ベンチに腰を下ろした。1時限目の講義が始まった直後だからか、まだ誰も人がいなかった。
「……コーヒーでも飲むか」
こういう時間はゆっくりと休んで、冷たいコーヒーで英気を養おう。
俺は目の前にある自動販売機でミルク多めの缶コーヒーを買い、その場でまず一口飲もうとしたときだった。
「……隼人」
振り返ると、白いワンピース姿の奈央が立っていた。彼女は俺と目が合うと、すぐに俺のところに駆け寄り抱きついてきた。そのことで缶コーヒーを床に落とす。
「やっと隼人と2人きりになれた……」
そう言って、俺のことを見上げてくる奈央の目からは涙がこぼれていた。
「わがままなのは分かってる。でも、隼人が雅先輩と付き合っているのは嫌だよ。だって、隼人のことが好き、なんだもん……」
嗚咽混じりに言うその言葉は心の奥まで響く。雅先輩に同じようなことを言われたときも響いていたけど、それは女性恐怖症が関係していることで。心の震え方の種類が今とは全く違う。
「自分の都合のいいようにしか考えてないかもしれないけれど、雅先輩の隣にいる隼人はどこか悩んでいるようにしか思えないよ。私、そんな隼人を見てるのが嫌なの」
俺のことを抱きしめる力が強くなる。
雅先輩と付き合っているのが嫌だという嫉妬があるかもしれない。それでも、奈央は本当に俺のことを心配してくれているんだ。それはきっと、女性恐怖症以外にも理由があると思っているからだろう。
昨日は雅先輩がいて話せなかったけれど、今なら遥香と絢さんのことを話しても大丈夫だろう。それに、今を逃したら次はいつになるかも分からないし、このまま奈央に不安な想いをさせたくない。
「……とにかく、ベンチに座ってくれ。奈央に話したいことがあるんだ」
「……何のことで?」
「俺は雅先輩のことが好きじゃないし、今は形だけ付き合っていることについてだ」
「えっ……」
好きじゃない。形だけ。その言葉に驚いたのか、奈央は目を見開き、涙もピタリと止まっていた。
奈央をベンチに座らせ、俺はバッグの中にある例の写真を取り出す。
「実はこの写真のせいで、雅先輩と付き合うことになっているんだ」
奈央に例の写真を渡すと、彼女は一瞬にして驚きの表情になった。
「な、何で遥香ちゃんと絢ちゃんのキスしている写真が……」
「入手経路は今も分かっていない。でも、重要なのはこの写真のデータが雅先輩のスマートフォンの中にあって、それを使ってSNSにアップしようとしているところだ。同性で付き合うことを間違っていると晒しものにしたいらしい」
「そんな! 恋愛は自由であるはずなのに……」
「……そうして欲しくなければ、自分と付き合えって言われて。それで付き合っていく中でどうして雅先輩がそんなことをするのか本当の理由を追及しようと思って」
「だから、昨日も何も言えなかったんだ……」
どうやら、奈央は本当の理由を理解してくれたみたいだ。説明のためにも、この写真を手にしておいて正解だったみたいだな。
「隼人が神崎先輩と付き合っているって噂を聞いて、隼人を探しに行ったら本当に神崎先輩と一緒にいて。女性恐怖症のこともあるし、神崎先輩みたいに面識が全然ない女性と付き合うなんて考えられなかった。でも、それよりも隼人が他の女性と付き合っているのが嫌だった。だから、きつく当たっちゃったんだと思う。だから、ごめんね」
そう言ってしょんぼりしている奈央の頭を、俺は優しく撫でた。
「……奈央は何も悪くないさ。人は時として、わがままになるものだから。それよりも本当のことを全然言えなかった俺の方が悪かった。本当にごめん」
「そんなことないよ! 遥香ちゃんと絢ちゃんのことを考えたら、言えなくなっちゃうのは当然だよ」
雅先輩はそれを見越して、昨日……奈央に対してああいう態度を取った。周りの人間を自分の思い通りに動かすのが本当に上手い人だ。
「……隼人が雅先輩とキスをしたのを見てとても胸が締め付けられた。もう、隼人は雅先輩のものになっちゃう。諦めていた部分もあったの。でも、いつもの隼人じゃない。何か理由があるのかもしれない。雅先輩が1限に講義があるのを知って、この時なら一人きりの隼人と会えるかもしれない。だから、思い切って来てみたの」
そういえば、水曜日は奈央も2時限目からだからゆっくり家を出てたな。
「……やっぱり、幼なじみは違うな」
「えっ?」
「雅先輩は言ってただろ? 幼なじみなんてたいしたことない存在だって。だけど、俺はとても大きな存在だと思うんだ」
「隼人……」
きっと、幼いときから俺のことを見ていたから、奈央は昨日の俺がいつもとは違うことを感じ取ってくれたんだ。俺が全然言葉に出せなくても、雅先輩と付き合っていることが本意ではないのではないかと疑ってくれた。
「それに、俺にとって今の雅先輩のポジションは奈央しか考えられない」
「……それって、もしかして……」
見る見るうちに奈央の顔が赤くなっていく。まあ、奈央が思っていることはたぶん正解だ。
「……理由が分かるまでは、雅先輩の彼氏として過ごすつもりだ。その間、奈央が嫌に思うことを雅先輩としてしまうかもしれないけれど、絶対に帰ってくるから。だから、ちょっとの間我慢してくれないか」
「……う、うん。分かった」
今のこの状況がいつ解消されるか全く分からない。水澤と岩坂が何か情報を手に入れることが出来れば、それが現状を打破する一人の鍵になるかもしれない。
「ねえ、隼人」
「何だ?」
「私に手伝える事ってないかな。遥香ちゃんや絢ちゃんのためにも……」
「……お前は雅先輩にとって一番の厄介者だからな。下手に動けば、奈央に本当のことを知られていることがばれてしまう。雅先輩の過去については水澤と岩坂がサークル関係から調べてくれている。だから、奈央は俺達と距離を取っておいてほしい」
今はまだ俺が探っていることに気付いていないようだけど、それがばれたら何かまた別の手段で俺のことを脅迫してくるかもしれない。
「……でも、何か協力してもらうことはあるかもしれない。そのときは頼むよ」
「分かったよ」
今のところは何もないけど、事態によっては奈央に協力を仰ぐ可能性は十分にある。
「……遥香ちゃんと絢ちゃんにこのことを伝えておくよ」
「そうだな。それでも、普段通りにしていてくれって言っておいてほしい。天羽女子にも雅先輩の協力者がいる可能性は高そうだから。雅先輩のことだ。何か変化があると知れたら、俺以外に脅迫の事実が認知されていることがばれるだろう」
「分かった。そこは念を押して言っておくね」
「あと、そのことに関して一切連絡しないで欲しい。雅先輩、俺が風呂に入っている間とかにスマートフォンのチェックをするから」
「とにかく、これまでと変わらず接しなきゃいけないわけなんだね」
「そういうことだ。雅先輩は人を観察する力が卓越している。そういう人に対してはそれまでと変わらず過ごしていくのが一番だ」
「そっか。了解」
表面上ではこれまでと変わらず、雅先輩の知らないところでどれだけ動くことができるか。そこがポイントになるだろう。向こうにはいつでも放てる爆弾を持っているから。
「じゃあ、早く私もここから離れた方がいいね」
「まだ1限が終わるまで1時間くらいあるけどな」
「……絶対に帰ってきてよね。私、待ってるから」
そう言うと、ようやく奈央はいつもの笑みを俺に見せてくれた。
「あっ……」
そう言うと、奈央は近くに落ちていた缶コーヒーを拾い、俺に渡す。
「はい。さっき落としちゃったやつ」
「……すっかり忘れてた。ありがとう」
俺が礼を言うと、奈央は照れくさそうに笑った。
「……隼人は隼人だった。それが分かって安心したよ。今でも雅先輩と一緒にいることに嫉妬しちゃうけれどね。隼人、頑張って。助けてほしいことがあれば、いつでも言ってきていいから」
「ああ、そのときは頼む。……できるだけ、早く帰ってくるから」
「うん、約束だよ。じゃあ、また」
「ああ」
奈央はゆっくりと立ち去っていった。
何とか奈央に本当の事情を伝えることができて良かった。そして、奈央を介して遥香と絢さんにもこの現状を知ってもらうことができる。
「それだけでも、進展したのかな……」
そうであると信じたい。
そして、俺はようやく缶コーヒーを飲む。コーヒーの冷たさと甘さが、体にじんわりと染み渡っていくのであった。