第2話『神崎雅』
神崎先輩の後ろを歩いていると、自然と注目が集まる。何があったのかと興味津々だったり、俺の存在を邪魔者扱いのように見ていたり。神崎雅という女子生徒の存在の大きさがひしひしと伝わってくる。
香水を付けているのかどうか分からないけど、神崎先輩の方から甘い匂いがしてくる。これがスイーツの匂いだったらいいんだけどなぁ。
「私の甘い匂いに惹かれているのは分かってるよ。あと、君が甘い物好きだっていうのは知ってるよ。空き時間とか売店でお菓子買っているのを見たことあるし」
まさか、俺の心を読んだっていうのか? こっちを見ているわけでもないのに。でも、今の話からして俺の甘い物好きを知っていて、わざと甘い匂いがする香水などをつけているんだと思う。
「……たまに昼食のデザートでスイーツ食べていますよ。それに、家では夕飯後に必ず何か食べますけど」
「す、筋金入りの甘い物好きなんだね」
神崎先輩は苦笑いをする。
とにかく、神崎先輩のペースにしてはいけない。彼女から甘い匂いの他に危険な臭いもする。女性恐怖症でなくてもそれは変わらないだろう。
「さてと、ここら辺でいいかな」
気がつけば俺と神崎先輩以外は誰もいないところまで来ていた。授業中だけれど、キャンパス内にこんな閑散とした場所があったとは。
神崎先輩は俺の方に振り返って、
「隼人君のことが好きなんだ。私と付き合ってくれないかな」
可愛らしい笑みを浮かべ、上目遣いで俺のことを見ながら俺にそう言った。
その瞬間、俺はどきっとした。ただし、悪い意味で。
「と、唐突ですねぇ……」
最悪のパターンだ。2人きりになって告白される。神崎先輩は俺のことを欲しがるような眼差しで見ているが、女性恐怖症の俺にとってはそれが一番恐いんだ。
「ねえ、私と付き合ってよ」
俺に着るワイシャツの袖をギュッと掴まれる。
学部一番の人気を誇る神崎先輩から告白されたら、大抵の男子であれば受け入れるだろう。だって、自分のことを好きなのだから。
だけど、俺の答えは――。
「ごめんなさい。俺、女性と付き合う気は当分ないんで……」
当然、神崎先輩と付き合う気はない。こうやってきっぱりと断るのが一番だ。
俺がそう返事をすると、神崎先輩は目に涙を浮かべて露骨に悲しそうな表情を見せてくる。あっ、俺を口説く気でいるぞ、この人。
「そう言うのも、隼人君には幼馴染の女の子がいるからだよね……」
「幼馴染の女の子?」
「毎日一緒にここに来てるじゃない。文学部にいる香川奈央ちゃんと……」
同じ学科の水澤や岩坂のことならまだしも、奈央のことまで知っているのか。しかも、俺と幼なじみということまで。人気者には自然と情報が集まってくるものなのか? 恐ろしいな、大学って。
「あの子と付き合うつもりなの?」
「……どうでしょうね。幼なじみですから……」
「でも、私よりも付き合う確率は高いんだ」
「えっ?」
「だって、私にはきっぱりと断ったじゃない! 女性と付き合う気は全然ないって! それなのに、幼なじみの女の子とは付き合うかどうか分からないって。ねえ、どうして! あの子よりも私の方が可愛いでしょ!」
神崎先輩は俺の胸に顔を埋めてきた。その瞬間に彼女の髪から甘い匂いが香ってくるし、何よりも体に柔らかいものが当たって気持ち悪い。
ああ、地獄だ。2人から離れたときからずっと感じていた不安は、きっとこのことを予感していたからだ。
だけど、これは神崎先輩から離れられるチャンスだ。それに、ピンチはチャンスという言葉だってあるくらいだし! 少し乱暴になるけど、この場面を切り抜けないと。
「……俺は奈央の方が可愛いと思いますし、それに一番可愛い女の子は俺の妹ですから! そんな妹と毎日暮らしていたら、神崎先輩に告白されても何とも思いませんよ」
すみません、神崎先輩。あなたと付き合う気もないし、一刻も早くこの状況を抜け出したいんです。ちなみに、妹が一番可愛いのは本当だけど。
俺がそう言うと、暫くの間は泣き声が聞こえていたが、それは段々となくなっていき、
「はあっ」
突然、それまでの涙が嘘だったような、つまらなさそうにため息をつく声が聞こえた。
「……ここまでもしてもダメだなんて。やっぱり、他の男子とは違うわね」
今までと比べて明らかに声のトーンが低い。
俺から離れた神崎先輩の目尻は全く赤くなかった。ということは、今までの行動は全て演技だったってわけか。彼女は何を考えているんだろう?
「……ねえ、隼人君」
「何ですか?」
「……本当に私と付き合うつもりはないの?」
「さっきも言ったじゃないですか。俺は――」
「YESって言いたいんだろうけど、君は必ずNOって答えることになるよ」
「どういうことですか?」
どうして神崎先輩はそこまで自信を持って言えるのだろうか。それは、さっきから感じる変な胸騒ぎが関係しているのか。
神崎先輩はスカートのポケットから写真のようなものを取り出して俺に見せる。
「どうして、あなたが……」
俺が不意にそう声を漏らしてしまったのは無理もない。
彼女が持っている写真に写っていたのは、天羽女子の制服を着ている遥香と絢さんがキスをしていたシーンだったから。
「あなたの言う一番可愛い妹さん、こっちの茶髪の女の子よね。坂井遥香さん。それでこっちの金髪の女の子が原田絢さん。この2人、付き合っているんだよね」
奈央のことなら大学の生徒から教えてもらったという理由で納得ができる。
だけど、遥香と絢さんが付き合っていることについては……自然な流れで知ったとは思えない。その証拠に2人のキスシーンを撮った写真を現像したものを持っている。絶対に俺に見せるためだろう。
「女の子同士で付き合うなんておかしいことだよね」
神崎先輩はそう言って写真を見る。そして、嘲笑う。
そんな態度を目の前にして、黙ってはいられない。
「……俺はそう思いませんが。たとえ、相手が同性でも人を好きになるのは自由です。大切な妹と妹の彼女のことを嘲笑わないでくれませんか」
神崎先輩に苛立ちさえも感じてしまうのは、絢さんと付き合う前に遥香が女の子同士で付き合うことを悩んでいたことを知っているからだ。女の子同士で付き合うことをしてはいけないんじゃないかと。それでも、遥香は自分の気持ちを信じて絢さんに告白し、彼女と付き合っているんだ。
遥香と絢さんのおかげで、女の子同士で付き合うことを決めたカップルがいくつもできたことを俺は知っている。神崎先輩の嘲笑はそれらの人達全ての気持ちを蔑んでいる。
「妹のことを馬鹿にする女性と付き合う気なんてありません。さっさとその写真を俺に渡してください。そうしたら、俺は水澤と岩坂の所に戻りますから。さあ、早く」
俺が右手を差し出すと、神崎先輩は笑ったまま2人が写っている写真を俺に渡す。まあ、不純な動機で撮影されたけど、この写真に写っている遥香と絢さんは可愛いし……とりあえず、俺が持っておくか。
「じゃあ、俺はこれで失礼します」
そして、マルチユーススペースに戻ろうと神崎先輩を背にしたときだった。
「隼人君は必ずNOって答えることになるのを忘れているんじゃないかなぁ?」
神崎先輩の威勢のいい声が響き渡る。
振り返ると神崎先輩は余裕の笑みを浮かべていた。それは今の言葉が必ず実現する理由があるっていう意味なのか?
「NO……つまり、俺があなたと付き合うってことですか?」
「その通り」
「俺のことを甘く見ないでもらえますか。俺は絶対に――」
「可愛い幼なじみがいるから? 妹の恋愛を馬鹿にされたから? うん、それらはきっと私と付き合わない立派な理由になるよ。でもね、私にはそんなことも関係なく隼人君が私と付き合っちゃう決め手があるんだよね」
「決め手ですって?」
再び神崎先輩はスカートから物を出す。今度はスマートフォンだ。そして、画面を俺の方に見せる。そこにはさっき受け取った写真と同じ遥香と絢さんのキスシーンが表示されていた。
「さっきの写真のデータ、ここにあるから」
「だから、何だと言うんですか?」
「……もし、私と付き合わないって言ったら、この写真をSNSで全世界に公開する。この2人は同性なのに付き合っていて、人前でキスをするような間違った人間だってね。それで世界中から叩かれまくればいい」
SNSに公開したら、一瞬にして全世界に遥香と絢さんが付き合っていることが知られることになるだろう。でも、
「あなたの思い通りにはならないと思いますけどね。世界には同性で付き合うことを禁止している地域があるかもしれません。でも、ここは日本です。同性で付き合うことが悪いことだという風潮はありませんよ。まあ、あなたのように文句を言う人はいるとは思いますがね」
「何を言っているの? 既に高齢化社会になっていて人口も減り始めてる。社会はそんなことに歯止めをかけたいと思っているの。そんなことを考えたら、同性で付き合うなんてもってのほかなんじゃないの?」
急に国単位の話になってるよ。
確かに、同性の間からは子供は作れない。神崎先輩の言っていることが間違っていると言ったら嘘になるだろう。けれど、
「それでも、同性を好きになってしまうのはいけないことなのでしょうか。俺はそう思いませんけどね」
「……じゃあ、私が何をしてもいいって言うんだね?」
どうやら、神崎先輩はこの写真を本気でSNSにアップするらしい。
遥香と絢さんならどんなことがあっても乗り越えられるだろう。だけど、そんな2人に迷惑をかけさせるようなことはできない。ましてや、こんなことで2人に火の粉を浴びせるようなことは絶対に避けなければならない。
まさか、神崎先輩は俺がこんな風に考えることを想定して、この写真を用意したっていうのか?
しょうがない、ここは神崎先輩の言うことを聞くしかない。
「……分かりました。付き合いますよ」
俺がそう言うと、神崎先輩は嬉しそうに笑った。
「……嬉しいな。隼人君と付き合うことができて」
本当にそうなのか? 俺と付き合いたいだけで、こんなことまでする必要はないだろう。絶対に何か別の理由があるはずだ。
「こんなことをしちゃったけれど、隼人君のことが好きなのは本当だよ」
神崎先輩は可愛らしく笑うけれど、今の言葉は絶対に嘘だ。本当に俺のことが好きだったら、そんなに冷たい瞳で俺のことは見ないはず。だからと言って、神崎先輩に好きになってもらうようにはしない。
俺はただ、神崎先輩がこんなことをする本当の理由が知りたいだけだ。それには彼女の側にいるのが一番だろう。女性恐怖症の俺にとっては危険なことだけれど。
「これから毎日ずっと一緒にいようね。そのために、今夜から私の家に住んで」
「……えっ?」
思わず間の抜けた声を出してしまう。
「ずっと一緒にいるっていうのは、大学の外でもだよ?」
「そ、そうなんですか……」
同性で付き合うことは批判しても、付き合う人と同棲はしたがるのか。
考えが甘かったな。まさか同棲の流れになるとは思わなかった。しかも、今夜からって。女性恐怖症である俺にとって相当厳しい展開になってきたぞ。
「隼人君はこの後、授業は3限だけだよね?」
「ええ、まあ」
「私、4限まで授業があるの。だから、4限が終わる時刻になったらまたここに来て。そうしたら、私の家に行こう?」
「は、はい……」
「何だか変な声になってるよ。それに、さっきから額に汗が浮かんでるし。もしかして、今夜から私の家で住むことになるから緊張しちゃってるの?」
「そ、そういうことにしておいてください」
本当は女性恐怖症の症状なんだけれど。
「やっぱり、隼人君って面白い。他の男の子とは違うよ。あっ、私達は付き合うことになったんだから私のことは下の名前で呼んで」
「……分かりました、雅先輩」
俺がそう言うと、雅先輩の頬が赤くなる。
「……隼人君に名前で言われるとキュンってきちゃうね。今夜から本当に楽しみになってきちゃった。じゃあ、私は用事があるからまた後でね!」
雅先輩は手を振って、俺の元から立ち去った。
ようやく1人になったのはいいけれど、どっと疲れが襲ってきた。ここ数年で一番長く、家族と奈央以外の女性と2人きりで話したと思う。
「さてと、これからどうするか……」
相手が雅先輩なだけに、今の状況を誰も伝えない方がいい気がする。
でも、マルチユーススペースに戻ったら、彼女と何があったのか水澤と岩坂に訊かれるだろうし、いずれは奈央にも追及される。きっと、日が変われば遥香にも。
雅先輩にばらまかれた悩みの種は続々と芽が出ていくのであった。