第10話『雨宮夏芽』
私、美咲ちゃん、霞先輩は話し合いの会場となっている部屋に入る。
部屋の中にはテーブルを挟んだ2つのソファーに6人の人が座っていた。雨宮会長と夏帆さんが座っているソファーには4人で、もう1つのソファーには2人。おそらく、雨宮家と松雪家で分かれて座っているんだろう。
雨宮家のソファーには私達から向かって右から、雨宮会長のお父さん、雨宮会長、雨宮会長のお母さん、夏帆さんの順に座っている。雨宮会長のお母さんが若々しいから、一瞬お父さんと3人娘が座っているのかと思った。
松雪家の方のソファーには黒いスーツ姿を20代前半くらいの男性と、和服を着た20代くらいの男性が座っている。スーツ姿の人が松雪雄大さんで、和服を着た人の方が松雪家当主……かな。松雪雄大さんは誠実そうに見えるけれど、当主の方は……怒っているからかとっても面倒臭そうな人に見える。
「君達か……大事な話し合いの邪魔をしたのは。そういえば、君達は夏芽さんと同じ身なりをしている」
「私、雨宮夏芽さん、夏帆さんと同じ私立天羽女子高等学校に通っている一年の坂井遥香といいます」
「広瀬美咲と申します。遥香ちゃんのクラスメイトです」
「波多野霞です。夏芽さんのクラスメイトです。さっきは大きな声を出してしまって申し訳ありませんでした……」
と、霞先輩は深く頭を下げた。
「顔を上げなさい。波多野さん」
そう言ったのは、雨宮会長のお父さんだった。
「あなたのおかげで、夏芽は本音を言いそびれずに済んだからね。……あぁ、名前を言っていなかったね。私は夏芽と夏帆の父で雨宮秀樹といいます。そして、夏芽の隣に座っているのが妻の由美)」
「初めまして。夏芽ちゃんと夏帆ちゃんの母の由美と申します」
秀樹さんと由美さんはほんのりと笑みを浮かべている。2人はどうやら、私達が一度、話し合いの流れを断ち切って良かったと思っているみたい。
「あなた達……どうしてここに来たの! これ以上私のことに関わらないで、って学校であれほど言ったじゃない! 私の答えは学校で言った通りなんだから……」
雨宮会長は怒った表情を見せ、強い口調でそう言う。彼女は今でも、なるべく私達に迷惑がかからないようにここから追い出そうとしているんだ。
だけど、私達は雨宮会長の思惑通りにはなれない。そうなったら、きっと……雨宮会長は本音を言わないだろうから。
「雨宮会長は今回のことについて、学校で何の答えを言ってくれましたか? 私は今回のことで苦しんでいるとしか聞けていません!」
私がそう言うと、雨宮会長は右手でブレザーの胸元のあたりを掴み、焦った表情をして視線をちらつかせる。
「わ、私は……」
「……答えは決まっていると言いたいようですが、それならどうしてすぐに答えが言えなかったんですか?」
雨宮会長はきっと、本音とは違うことを答えとして言わなければならないと考えていたから、なかなか言えなかったんだ。
だけど、その状態がいつまでも続いてはいけない。
「私達も、雨宮会長の御両親も、夏帆さんも……この場にいる全員があなたの本音を聞きたいと思っているんです。どんな内容でも、言わずに自分の中に閉じ込めてしまうより、言った方がよっぽど心が軽くなると思いませんか? それに、人間って不器用なところもあって、言わないと分からないことって意外とあるんですよね。だから、思い切り……自分に素直になって言ってみませんか?」
私からはこのくらいのことしか言えない。ただ、本音を言うことがどれだけ大切かどうかを雨宮会長には知って欲しいな。
あとはもう、雨宮会長次第だ。今、私が言ったことで雨宮会長の背中を少しでも押すことができたのなら嬉しい。
雨宮会長はしばらくの間、俯いてまま何も言わなかったけれど、
「……申し訳ありません。松雪雄大さんとの結婚の件はお断りします」
と、耳を澄ましてやっと聞こえるくらいの小さな声で。だけど、確かに言った。
「……私には恋人として付き合いたいと思っている人がいます。その人とは、そこに立っている波多野霞さんです」
すると、雨宮会長は顔を上げ、真剣な表情で霞先輩のことを見る。彼女に向けられていた視線は松雪家当主へと移る。
「本当に勝手なことだと思っています。私が断ることで、合併の話がなくなるかもしれないと考え、悩み続けました。坂井さんの言う通り、そのことで苦しみ続けて……その所為で彼女達をはじめとする多くの方々に迷惑をかけてしまいました。八つ当たりのようなこともしてしまいました。それも全て、霞さんのことが本気で好きだからです」
そして、雨宮会長の目からは一筋の涙。口から出す言葉だけでは、自分の本音を出し切れないからだろう。
「私は自分の気持ちに嘘を付きたくないと思いました。私は好きな人と一緒に未来を歩んでいきたいです。それが私の本音です。今日、この場になって断る形となってしまい、誠に申し訳ありませんでした」
そう言って、雨宮会長は松雪家当主に向かって深く頭を下げた。
やっと、本音を口に出すことができたんだ。まずは自分の気持ちを第一にして、その想いを言葉に乗せることができたんだ。霞先輩のことが好きで、彼女と一緒にこの先の未来を過ごしていきたいということを。
今の雨宮会長の話を聞いて、松雪雄大さんは爽やかな笑みを浮かべてただただ頷いていた。彼なら雨宮会長の気持ちを受け入れてくれるだろう。
しかし、
「冗談じゃない!」
松雪家当主は顔を真っ赤にしてそう叫ぶ。雨宮会長が結婚の話を断ったことに納得できないからだろう。
「結婚の話を断るだと? 君は両家がそれぞれ運営している会社のことを考えたことがないのかね? 更なる発展のためには合併しか方法がないのだよ! それを無視して、こんな小娘と付き合う? ふざけるな! 女同士の恋愛など碌なものではない……」
最後の言葉に対して堪忍袋の緒が切れそうになる。まるで、私と絢ちゃんが付き合っていることまで馬鹿にされているようだったから。
必死に堪えていたけれど、我慢できなくなって抗議しようとしたときだった。
「これ以上の言動を慎んでください」
秀樹さんが落ち着いた口調で言った。松雪家当主に向けられた秀樹さんの視線は静かな怒りに溢れていた。
「人を好きになる気持ちこそ、一番自由であるべきなのではないでしょうか。娘の恋愛について嘲笑わないでいただきたい。父親としてとても腹立たしく思います。松雪雄大さんとの結婚の話はなしにすると同時に、合併についてもなしにすることに決めました」
「な、なぜだ!」
すると、秀樹さんはソファーに置いてあるクリアファイルを取り、ファイルからホッチキス止めされている紙を取り出す。
「松雪家が運営している会社について徹底的に調べさせてもらいました。どうも、ある年を境に前年度と比べて利益が同程度か、前年よりも落ちるばかりではありませんか。その境となった年はあなたが社長として就任されたときからです」
「うっ……!」
「それでも元々の利益が大きいので赤字には程遠いですが、下落の一途を辿ればいつかは赤字の時代に突入します。そこで疑問に思ったんですよ。あなたがどうして合併の話と、夏芽と雄大君の結婚の話を持ちかけたのか……」
「そ、それは世界有数の規模に……」
「それは合併を綺麗に見せる名目に過ぎないでしょう。本当は利益が下がるばかりのこの状況を打破したかっただけではありませんか? 無理矢理にでも合併をすれば、今よりも断然美味いものが自分に返ってくると踏んで」
秀樹さんがそう指摘すると、核心を突いているのか松雪家当主はしどろもどろになる。何だか見苦しい。
「なぜ、こうなってしまうのか、今日で全て分かりましたよ。あなたは食品の向こう側にいる人のことを全く考えていない。我々食品業界の使命は、食べ物を通じて人々に笑顔になってもらうことなのです。ほんのささやかな幸せをもたらすことのできる商品を常に追究していかなければならない」
同じ食品メーカーの社長でも雨宮秀樹さんの方が、社長としても人としても数段に上であることは高校生の私でもすぐに分かった。
「今の御社と合併しても何の相乗効果は期待できませんね。手っ取り早い方法としては、雄大君に社長の座を譲ることではないでしょうか? 来年の春に社会人となるのですからそうした方がよろしいのでは? 雄大君の方がよっぽど期待できますがね」
落ち着いた口調で言っているけど、その内容はかなりきつい。今のままでは会社が衰退していく一途を辿るだけだって言っているようなものだし。あと、松雪雄大さんって大学生だったんだ。
「よって、合併の話はなかったことにしてもらいましょう。そして、夏芽と雄大君の結婚の話もなかったことに。それでよろしいですね?」
これは完全に雨宮家のペースだ。どう考えても、合併の話も結婚の話も破談だ。松雪家当主はもう諦めてしまったのか、顔色が悪くなっている。
「それでいいです」
代わりに雄大さんが言う。それにしても、スッキリとしているように見える。この話がむしろ破談になって良かったような。
雄大さんは少し恥ずかしそうに笑う。
「……実は僕も夏芽さんのように好きな人がいまして。女性ですけどね。本音と建前、どちらを優先すれば良いのか迷ってしまい、僕はあっさりと建前を優先してしまった。最後まで迷い続けた夏芽さんは素晴らしいと思います」
なるほど。雄大さんも雨宮先輩と同じように好きな人がいるんだ。ただ、彼の場合はその相手が異性だけど。
「……私も建前を優先しなければならないと考えていました。ですが、霞や坂井さん達のおかげで、最後には本音を言うことができました。私一人ではきっと、建前の方を優先してしまったと思います」
雨宮会長は頬を赤くし、笑みを浮かべながらそう言った。
「合併はせずに、お互いに切磋琢磨していきましょう。そして、いつか……御社とコラボした商品を出したいと僕は考えています」
「……私もそれが一番だと思います。いつか、実現させましょう」
そして、雨宮会長と松雪雄大さんは握手を交わした。
どうやら、今日の話し合いには大きな意味があったみたいだ。これからを担う若い二人がちゃんと未来のことを話し合って、納得のいく形で合意したのだから。
「コラボか、それはいい考えだな。楽しみだ」
秀樹さんも納得したようで、笑顔で頷いていた。
「……それでは、私達はこれで失礼します。父がご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。夏芽さんの彼女さんと後輩の方々にも、父が失礼なことを言ってしまいましたね。本当に申し訳ありません」
「いえいえ、そんな……」
正直、女の子同士で付き合うことを馬鹿にされたときは我慢できなかったけれど、秀樹さんが見事に言い負かしてくれたからもう気にしていない。
「それでは、失礼します。ほら、行きますよ。父さん」
そして、松雪家の2人は部屋から出て行った。
一時はどうなるかと思ったけど、最良な形で話し合いを終えることができたんじゃないだろうか。それは雨宮会長が、自分の本音を自分の言葉で伝えることができたからだと思う。
雨宮会長と霞先輩は目が合うと互いに頬を赤くし、恥ずかしそうに笑い合う。
「ねえ、霞」
「……なあに? 夏芽ちゃん」
「あなたに言わないといけない大切なことがあるの」
今、この場において雨宮会長が言わなければいけない大切なこと。それが何なのか分かりきっていた。彼女はとても素敵な笑顔を見せていたのだから。