第4話『雨宮夏帆』
6月12日、水曜日。
今日も梅雨らしく雨がしとしとと降っている。だけど、じめじめとしていて学校に着いたときは汗をけっこう掻いてしまった。
「遥香、おはよう」
昇降口で上履きに履き替えようとしたら、絢ちゃんに声をかけられた。
「汗掻いてるね。ほら、これで拭いて」
「ありがとう、絢ちゃん」
私は絢ちゃんから受け取った汗ふきタオルで顔を中心に拭く。洗剤の香りしか感じないってことは朝練がなかったんだ。
「雨が降っているから、今日は朝練なかったんだよね」
「絢ちゃん、いつもグラウンドで練習しているもんね」
「うん。放課後の活動では筋トレとか体力作りしているんだけどね。やっぱり、グラウンドで思いっきり走りたいよ。だから、梅雨のこの時期はあまり好きじゃないかな」
「私も同じ。でも、私の場合は雨ばっかりでじめじめしているのが嫌なんだけどね」
「歩くと変に汗掻くんだよね。私は汗を掻くことに慣れているから別に良いけれど」
「さすがは絢ちゃん」
私も運動部に入っていれば、少しは梅雨の時期が嫌じゃなくなるのかな。
絢ちゃんに汗ふきタオルを返し、絢ちゃんと一緒に教室へと向かう。
「そういえば、絢ちゃん。昨日の放課後から何かあった?」
「私は特になかったよ。何人かに、生徒会室に呼び出されたことについて訊かれたけど、別れろとか処分とかの話は濁しておいた。3年の先輩から何か言われるかと思ったけど、何にも言われなかった」
「雨宮会長や波多野副会長は昨日のことについて、誰にも言わなかったのかな」
「きっと、そうだろうね。恋人宣言が校内新聞になるほどの騒ぎになったんだ。私達が別れるかどうかということだけでも、また大きな騒ぎになるんじゃない? そうなったら、生徒会長が促したことがばれるのは時間の問題だし」
「生徒会の今後の信頼に関わるだろうしね」
私達の周りの生徒の多くは、私達が付き合っていることを肯定してくれている。応援してくれている生徒もいるみたい。そのような生徒達からの反感を買ってしまうことを恐れて、昨日のことは一切話さないようにしているのかな。
「私の方も特に何もなかったよ。杏ちゃんと美咲ちゃんには話さないで、ってお願いしておいたし。あと、瑠璃ちゃんからメールが来たから教えたけど、瑠璃ちゃんにも誰にも話さないでってメールしておいたから」
「……そっか。でも、気になる人は気になるんだね」
「一緒に生徒会室に呼び出されたからね。きっと、珍しいことなんだと思うよ」
それに、一緒だから私と絢ちゃんが付き合っていることに関係しているんじゃないかって思われているみたいだし。雨宮会長の言う通り、恋人宣言についての校内新聞が発行されたことで私達のことが知られて、結構な影響力を持ってしまったみたい。
「今日は茶道部の活動はないんだよね」
「うん。だから、何かしら行動したいとは思ってるよ。何か分かったら連絡するから、絢ちゃんは部活の方に集中して」
「分かったよ。ごめん、力になれなくて」
「いいんだよ。それに、明後日から関東大会があるでしょ? そこでインターハイに出場できるかどうかかかっているんだから。それに新人戦だってあるわけだし。絢ちゃんは練習を頑張って欲しいんだ。気になっちゃうのは仕方ないけど」
卯月さんの一件があった直後、絢ちゃんは女子100mと女子200mの予選に出場して、今週末に開催される関東大会に出場する選手に選ばれた。
関東大会に出場し、上位の成績を出した何人かの選手が代表としてインターハイに出場することになっている。絢ちゃんにはこの大会で良い記録を出して、インターハイに出場してほしい。
「……分かった、遥香。関東大会に出場するからには、インターハイに出場する切符を取りたいからね。遥香に甘えて、私は練習の方に集中するよ」
「ありがとう、絢ちゃん」
「だけど、無理だけはしないで。あと、何かあったらすぐに連絡して。それだけは約束して欲しい」
「うん。約束する。だから、こっちの方は任せておいて」
絢ちゃんと一緒でもいいだろうけど、今回に限っては私だけで行動した方がいいかもしれない。一緒にいたら、雨宮会長がどう動くか分からないし。それに絢ちゃんには大会の方に集中してほしい。
気付けば、1年2組の教室の前に着いていた。
私達は教室に入り、杏ちゃんと美咲ちゃんのところへ行く。
「おはよう、杏ちゃん、美咲ちゃん」
「おはよう、片桐さん、広瀬さん」
私達がそう声をかけると、杏ちゃんが焦った表情になる。
「2人で一緒に来て大丈夫なの?」
「一緒に来ることくらいは大丈夫だと思いますよ、杏ちゃん」
「でも、あの生徒会長なら一緒にいるだけで何か言ってきそうじゃん!」
「そこまで頭の固い人ではないと思いますが……」
「女の子同士の恋愛がダメダメって言っている人の頭が固くないわけがないじゃん」
「そうかもしれませんが……」
杏ちゃんの言うとおり、雨宮会長なら……私達の気付かないところで監視している可能性はありそう。ただ、一緒に教室まで来たことくらいで、私達を処分するほどの頭の固さではないと思いたい。
「きっと大丈夫だよ、杏ちゃん。ね? 絢ちゃん」
「そうだよ。場を考えて、真面目に学校生活を送っていれば処分はされないよ。……ね? 遥香」
「絢ちゃんの言う通りだよ」
誰もいないお手洗いの個室で大人のキスをして、それがとても気持ち良くて止まらなくなった私達が言える立場ではない気もするけど。絢ちゃんも同じことを考えているのか、私と目が合うと絢ちゃんの頬がほんのりと赤くなった。
「そうです。真面目に学校生活を送れば、処分の必要はないのです」
「えっ?」
私達は声の主の方に視線を向ける。
すると、そこには雨宮会長と同じクリーム色の髪が印象的な女の子が立っていた。ただし、雨宮会長とは違ってセミロングだけど。
「夏帆ちゃん。おひさしぶりです」
「おひさしぶりなのです。美咲ちゃん」
「えっ、美咲ちゃん……この女の子と知り合いなの?」
「ええ。だって、彼女……雨宮会長の妹さんですから」
『えええっ!』
美咲ちゃんからさりげなく言われた衝撃の事実に対して、私、絢ちゃん、杏ちゃんは思わず叫んでしまう。
まさか、この女子生徒が雨宮会長の妹さんだったなんて。クリーム色の髪と可愛らしい顔立ちが似ているなとは思っていたけど。
「でも、会長とは違ってツンとした感じではないというか……」
「お姉様は雨宮家次期当主として、生徒会長として大変なのです。だからこそ、常日頃から凛としているのです」
「な、なるほど……」
雨宮会長、妹さんにお姉様って呼ばれているんだ。
「申し遅れました。私、1年1組の雨宮夏帆と申します。美咲ちゃんとは同級生ということもあって、色々な機会でご一緒すればいつも遊んでいました」
「雨宮会長と一緒の時もありましたが、気付けば夏帆ちゃんと遊んでいたことが多かったんです。そういえば、高校に入学してからは一度も会っていませんでしたね」
「そうですね。なので、正直ここで美咲ちゃんと再会できたことはとても嬉しいのです」
「私も嬉しいですよ」
お金持ちだと、やっぱりお金持ち同士で繋がりがあるんだなぁ。今一度、美咲ちゃんがお嬢様であることを思い知る。
それにしても、美咲ちゃんと夏帆さんが並ぶとまるで姉妹のように見える。夏帆さんが杏ちゃん並みに小柄だからかな? 胸は杏ちゃんよりも大きいけど。
「……今、夏帆さんとあたしで何か比べてなかった?」
「気のせいだよ」
そういえば、夏帆さんはさっき処分とかそんなことを言ってなかったっけ?
「夏帆さん、どうして2組に来たの?」
「……本来の目的を忘れるところだったのです。私がここに来た理由は、お姉様の命令によって坂井さんと原田さんの監視をすることになったのです」
「私と遥香を監視だって?」
「そうなのです。2人が学校で不埒なことをしないかどうか監視せよと言われたので」
「ふ、不埒なことなんて……し、しないよね? 絢ちゃん」
「う、うん。そうだよ。これからするわけないって」
私達は苦笑い。
まさか、昨日のキス……夏帆さんは知らないよね? 雨音で聞こえないからってお互いに声、出しちゃったけど。どうしよう。キスに夢中だったから、誰かがお手洗いに入ってきたかどうかなんて分からないし。
「ちなみに、どのくらいのことだとアウト、なのかな?」
「そうですね。お姉様からは生徒の前でキスしたらアウトだと言っていました」
「キス、なんだ……」
さすがに人前では恥ずかしくてできないな。でも、昨日は我慢できなくて個室でしちゃったけど。この様子だと夏帆さんに昨日のキスのことはばれてないみたい。
「とにかく、授業の時以外は、お二方が不埒なことをしないように見張るようにとお姉様に言われました」
雨宮会長自らやればいいのに、と思ったけど……生徒会長だからやらなければならない仕事がたくさんあるんだろう。けれど、雨宮会長が私達のことを相当気にしていることが分かる。妹を監視役にさせるんだから。
「普通に過ごしていれば大丈夫だよ、遥香」
「そうだね」
「きっと、雨宮会長に報告することは何もないと思うよ。それに、明後日から私は関東大会に行くから学校にいないし」
「なるほど。個人的に報告がなければ一番良いのです。私が報告したことで、お二人が停学や退学処分になるというのは気分が悪いのですので」
夏帆さんのためにも普通に生活しないとね。
「校外では監視するつもりはありませんが、天羽女子の生徒の前ではイチャイチャしないでいただきたいのです。目撃されて、そのことが学校に流れれば悪影響を及ぼしかねないので」
雨宮会長も他の生徒に悪影響を及ぼすから、今回の話をしたんだ。とにかく、他の生徒の前で絢ちゃんとイチャイチャしなければいいってことね。
「先ほど、お2人が一緒に教室に来たところを見ていましたが、それはセーフなのです」
さすがにそれは大丈夫なんだ。ちょっと安心した。
「それではもう少しで朝礼が始まるので、私は教室に戻ります。私がいなくなったからといって、変なことはしないでくださいね」
「分かってるよ」
「それならいいのです、坂井さん。あと、お姉様から言われましたが、原田さんよりもあなたの方が要注意人物だそうです」
「私の方が?」
「ええ。なので、あなたを中心に監視せよと言われました。放課後はあなたの方について回ろうと思います」
「それでいいと思うよ。絢ちゃんは大会の方に集中するから、部活動の方に精を出すって決めたから」
「……そうですか」
夏帆さんは何一つ表情を変えることなくそう言った。
別れるかどうかを訊かれて、迷いなく別れないと答えたから雨宮会長は私の方が危険だと感じたのだろう。
「それでは、私はこれで。もう一度言いますが、私がいなくなったからと不埒なことはしないほしいのです。常に私の目があると思って欲しいのです」
「分かってるって。絢ちゃんと変なことはしないよ。何だったら、夏帆さんのいない間のことは杏ちゃんや美咲ちゃんから訊いていいから」
「……分かったのです。しつこくてすみません。それでは、また後で」
そう言って、夏帆さんは教室を後にした。多分、次は1時間目と2時間目の間の10分休みの時間に来ると思う。
「妹を監視役にするなんて、雨宮会長は本気で私と遥香を処分したいみたいだな。絶対に別れないって答えたからかな」
「きっとそうだろうね。でも、普通に学校生活を送っていれば大丈夫だよ。夏帆さんも報告はなるべくしたくないみたいだし」
「……そうだね」
そう、普通に生活していれば大丈夫なことなんだ。監視役の夏帆さんがいるからと言って何も心配することはない。
「雨宮会長はハルと原田さんのことを目の敵にしているんじゃない?」
「ど、どうだろうね……」
女性同士で付き合うことを悪く言っていると知ったからか、昨日から杏ちゃんは尖った言葉をチョイスしているような。
「でも、話を聞く限り、雨宮会長はお二人を目の敵にしているように思えますね。授業中以外は実の妹である夏帆ちゃんに監視させるほどですから」
「徹底しているよね」
「ええ。私個人の意見ですが、昔の雨宮会長を知っている身としては、何か相当な理由がなければこんなことはしないと思います」
「……きっと、そうだよね」
「私も2人が停学や退学処分を受けて欲しくないので、夏帆ちゃんがいないときは私が様子を見ますね。2人なら大丈夫だと思いますけど」
「大丈夫さ、遥香と私なら。ね? 遥香」
「うん、絢ちゃん」
きっと大丈夫だ。私達なら。
今日から、少しずつ雨宮会長に迫ってみよう。授業以外は夏帆さんがいるんだし、彼女から話を聞くのもいいかもしれない。
それから程なくして朝礼のチャイムが鳴り、私達は自分の席に着くのであった。