第15話『あの日も 今も 未来も』
私がベッドに倒れている隙に、杏ちゃんにスマートフォンを取られてしまった。電源を切られ、彼女のポケットに入れられてしまったので、誰とも連絡を取ることができない。
「もう、あたしと牡丹だけだよ」
起き上がると再び、杏ちゃんは私に向けてカッターを向ける。
「杏ちゃん、カッターを離して。自分の命を絶とうとしないで」
「原田さんから手紙のこと、聞いたんだね。尚更、嫌になったよ」
「杏ちゃん……」
「……あたしね、ただ命を絶とうとは思ってないんだよ。手を出して」
「えっ?」
訳も分からず、杏ちゃんの言うとおりに手を出すと、私の掌に杏ちゃんの持っていたカッターが乗せられた。
「牡丹にあたしを刺してほしいんだ」
「何、言ってるの?」
「だから、牡丹にあたしを殺してほしいんだ。大丈夫だよ、牡丹が何も悪くないことは原田さん達が見ている手紙に書いてあるから」
口元では笑っているけど、杏ちゃんの視線はとても冷たく……もう生きることに希望を無くしたように見える。
「どうして、私に殺してほしいと思うの?」
「……あたしが一度、牡丹を殺しかけたからだよ」
「それって、1年前のことだよね?」
「……そうだよ。あたしのせいで、牡丹は苦しむことになった。だから、その苦しみをあたしも味わわなきゃいけないの」
そうじゃない。1年前のことは杏ちゃんが悪いんじゃない。
今こそ、本音を言わなきゃいけないときなんだ。1年前は私が本音を言えなかったからあんなことになったんだから。同じ過ちを犯してはいけない。
「ねえ、杏ちゃん」
「なに?」
「私の話を聞いてくれないかな。杏ちゃんに伝えたいことがあるの」
原田さんに背中を押されて、やっと杏ちゃんに本当の気持ちを言う勇気が持てた。思いがけないタイミングだけど、杏ちゃんに伝えよう。
「1年前、あたし……原田さんが好きだから告白したいって相談したでしょ」
「うん」
「……あれね、嘘だったんだ。原田さんのこと、いい人だとは思ってたけど……付き合いたいって全然思ってなかったんだ」
「じゃ、じゃあどうして、あたしにあんな相談をしたの?」
そう、その理由こそが私の本音。それをはっきり伝えないと。
「杏ちゃんのことが好きだから。杏ちゃんと付き合いたいって思ったからだよ」
私は杏ちゃんが好き。1年前もそうだし、今だってその気持ちは変わらない。
「でも、私はそれを杏ちゃんに伝えられなかった。好きだって言うことで、もしかしたら今までの関係さえ崩れてしまうかもしれない。杏ちゃんが離れてしまうかもしれない。それが怖くて伝えられなかったの」
「だったら、どうして原田さんに告白したいって……」
「……杏ちゃんに嫉妬してほしかったんだ。杏ちゃんといつも一緒にいたでしょ? 原田さんと付き合うことになると、杏ちゃんと一緒にいる時間はめっきり減る。だから、杏ちゃんにそれを嫌がるって思ったの」
「そんな……」
「でも、杏ちゃんがすぐに告白すればいいってアドバイスをくれて。だから、その通りにやって、振られれば杏ちゃんが慰めてくれるって思ったの。原田さん、告白しても優しく振ることで有名だったから、絶対にそうなるって思ってた。杏ちゃんに好きだって告白すればこんな回りくどいことを考えなくて済んだのにね」
今でも思い出す。原田さんに「好きです」って言ったときのことを。私はこれっぽっちも好意はなかったのに、原田さんは真摯に受け止めて……優しく断ったこと。
「すぐに杏ちゃん慰めてくれるかなって思ってた。その時に好きだって言えばいいって。だけど、杏ちゃんは私の前に現れなかった。その時に思ったんだ。私は女の子を好きになっちゃう気持ち悪い人だって」
「そんなことないよ! 人を好きになるのは自由だし、それが女の子同士でも……」
「今ならそう思える。だけど、1年前の私はまだまだ幼くて。人気者の原田さんなら好きになっても仕方ないかって杏ちゃんも笑ってくれると思ってた。でも、現れないってことは私のことを嫌になったんだなって思っちゃったんだ。そうしたら、一気に孤独感に苛まれて、もう生きる意味はないって思ったの。だから、この部屋で首を吊って自殺を図ったの。でもね、首を吊ってる間に思ってた。万が一助かっても、このことで杏ちゃんが私から離れなくなるだろうって……」
溢れる涙のせいで、杏ちゃんの顔が揺らいで見えてしまう。
本当にわがままで、幼いよ。本音を言えないことでとんでもない考えを抱いて、自分で勝手に精神を追い詰めたんだから。挙げ句の果てに、それを杏ちゃんのせいだって言っちゃったんだから。
「眠っているとき、私は何度も苦しい気持ちになった。それはきっと、自分のわがままで杏ちゃんを苦しめたからだって。目が覚めても、杏ちゃんに本音で向き合うのが怖い気持ちが変わらなかった。だから、1年間眠ったことを口実にして杏ちゃんを突き放すことで、自分の本音からずっと逃げてたの」
原田さんに恋人になってと迫ったのも、杏ちゃんのことを諦めるためだった。でも、原田さんにはそんな私の心をとっくに見透かされていた。
「嘘をつけば何時かはボロが出るんだよね。原田さんには気付かれてたよ。だから、今度こそ杏ちゃんに本音を伝えようって思ったの」
「牡丹……」
私は杏ちゃんの手をぎゅっと握る。
「私は杏ちゃんのことが好き。これからもずっと一緒にいたい。だから、もう……二度と死ぬなんて考えないで! その苦しさは私が十分知ってるから。辛いことがあったら私のことを頼ってよ」
好きだという真っ直ぐな気持ちを、どうして今まで言えなかったのだろう。嫌いだって言う嘘は何の躊躇いもなく言えたのに。それだけこの言葉の重みを感じていたからなのかな。
この手を離すつもりはない。杏ちゃんが離そうとしても、また握るつもり。
「……ねえ、牡丹」
「なに?」
「あたしも牡丹に言いたいことがあるの。もう、何度も言ってるけど」
「うん」
「あたしも牡丹のこと……好きだよ。出会った日から、ずっと好き。だから、原田さんに告白するって聞いたとき、あたしももっと素直に本音を言えれば良かった。好きだって言えれば牡丹が眠ることもなかった。寂しい想いをさせて、苦しい想いをさせて本当にごめんなさい」
「杏ちゃんは全然悪くないよ」
「……あたし、牡丹が眠っているのを見て、死ぬことよりもずっと辛かった。近くにいるはずなのに、決して手に届かないところに牡丹がいるんだと思って。だけど、そんな考えをハルやサキ、原田さんが変えてくれたんだ。牡丹は眠っている。けれど、確かに目の前にいるんだって。そう思うと、気分が軽くなった」
「……そっか」
「だから、意識が戻ったって聞いたときは本当に嬉しかったんだ。これで、また牡丹と話せるんだって。本音を伝えるチャンスができたって」
「ごめんね。みんなで面会に来てくれたときに、あんな言い方しちゃって」
好きだって言ってくれたことが嬉しかったのに、まだ自分の本音を言う勇気がなかったせいで、杏ちゃんを突き放してしまったから。
「……気にしないでよ。幾ら悔やんだって、過去には戻れないんだから。大事なのはこれからの未来なんじゃないかな。自殺しようとしたあたしが言うのも何だけど」
「杏ちゃんの言うとおりだと思うよ」
「それなら、あたしに一つ提案があるの。これからのことで……」
杏ちゃんは頬を赤らめて、私のことをじっと見つめてくる。
「あたしと付き合ってください。恋人として……一緒にいてください」
「はい。よろしくお願いします」
杏ちゃんの提案に、即答した。私も同じことを考えていたから。
「ありがとう……ありがとう……」
そう言うと、杏ちゃんは私の胸の中に顔を埋めて思い切り泣いた。一年分の苦しみを全て流し出すかのように、大声で泣いた。
「ずっと一緒だよ、杏ちゃん。だから、安心して泣いて」
ゆっくりと杏ちゃんのことを抱きしめた。
随分と大きく遠回りをしてしまったけれど、1年間もかかってしまったけれど……私達はようやく互いの本音を分かち合うことができたんだ。これも全て、原田さんや坂井さん、広瀬さんがいたからだと思う。2人だけでは辿り着けなかっただろう。
「片桐さん! 大丈夫か! 今、泣き声が聞こえたけど……」
制服姿の原田さんが焦った様子で部屋に入ってきたけど、私達のことを見て目を見開いている。
「杏ちゃん! 早まらないで!」
「そうです! 話し合えばきっと――」
「もう、大丈夫だよ」
今も泣き続ける杏ちゃんを抱きしめながら、私はそう言う。
3人は今の私達の姿や、床に落ちているカッターを見てどうなったのか分かったんだと思う。皆、ほっとした表情を浮かべて、それはやがて笑みへと変わっていった。
しばらくして、杏ちゃんは泣き止んだ。そして、落ち着いたところで、
「ハル、サキ、原田さん。心配かけてごめんなさい。それと……ありがとう」
杏ちゃんは満面の笑みで3人にそう言った。
それに対して、3人は温かい笑みを返した。それは杏ちゃんとの絆の強さを表しているようだった。