第9話『家出』
5月8日、水曜日。
今日も陸上部の朝練に行ってから教室へと向かった。
教室には既に遥香がいたので、私は彼女のところに直行する。恋人宣言をしてから教室でも遥香と一緒にいる時間が本当に多くなった。
「おはよう、遥香」
「あっ、おはよう。絢ちゃん。朝練、お疲れ様」
遥香の笑顔を見ると心が安らぐ。遥香があまりにも可愛すぎて、勢いでキスをしてしまいそうになる。でも、さすがに恥ずかしすぎて実際にはできないけれど。恋人宣言をしたときはしちゃったけどね。
「そういえば、昨日は卯月さんの家に行ったんだよね」
「うん。うちの制服が着たいって言われて。私の制服を着させてあげたよ。結構似合ってたなぁ」
昨日の卯月さんの制服姿を思い出す。今、クラスメイトとしてここにいても違和感は全くないだろう。
そんなことを考えていると、遥香は不機嫌な表情を見せ、頬を膨らませる。
「どうしたの、遥香」
「……いや、ただ……羨ましいなと思って」
「羨ましいって何が?」
「だって、絢ちゃんの制服を着たんだよ。ということは、絢ちゃんに包まれるってことじゃない。だから、羨ましいなって」
「あははっ、そういうことか」
そういえば、卯月さんも私の制服を着たときに同じようなことを言ってたな。意外と二人は似ていたりして。
「私の制服が着たいならいつでも言ってよ。ね?」
私は遥香の頭を優しく撫でる。こうしていると、何だか妹を説得しているような感じだ。
しばらく頭を撫でていると、遥香も納得したのか笑みを取り戻す。
「じゃあ、今ここで着させて貰おうかな?」
「そんなの恥ずかしいよ!」
「あははっ、そうだよね」
意地悪な笑みを浮かべて遥香は声を出して笑っている。それがちょっと悔しくて、私だってちょっと虐めたくなる。
「……遥香が先に脱いでくれるなら、考えてあげてもいいよ?」
と言って、私は遥香の耳を甘噛みした。
「ふあっ」
ちょっとした倍返しだ。みんなの前で可愛く喘いじゃえ。
「絢、ちゃん……」
遥香の呼吸が段々と荒くなって、私の首筋に彼女の温かな吐息がかかる。それが意外にも刺激的で気持ち良くなってしまう。
2人きりならこのまま耳を甘噛みし続けるけど、ここは学校だ。遥香の耳元から顔を話そうとするけど、背中に腕を回されてしまう。
「絢ちゃん。もっとしてよ……」
すぐ目の前から放たれる遥香のとろけるような視線に引き付けられ、自然と顔を耳元に戻してしまう。
再度、遥香の耳を甘噛みしようとしたときだった。
「何をやっているんですか?」
広瀬さんのそんな声が聞こえた。私達は慌てて抱擁を解く。
気付けば、私達のすぐ側に呆れた表情をした広瀬さんが立っていた。
「2人が恋人同士なのは周知の事実ですけど、朝からべったりしているのはいささか刺激的過ぎではありませんか? 遥香ちゃんの喘ぎ声、教室中に響いていましたよ。だから、見てください」
広瀬さんに言われて教室を見渡すと、教室にいるほぼ全ての生徒が私達のことを見ていた。中には頬を赤くしている生徒も。
こりゃ、倍返しなんて考えた自分への罰かな。今、凄く恥ずかしい
。
「場所を考えないといけないね、絢ちゃん」
「そ、そうだね」
「そういう問題なのですか? つまり、もう2人は色々なことを……?」
「……ま、まあ……してるよね。恋人同士だし」
「そ、そうだね」
まあ、嘘を言ったところでどうにもならないので、遥香の言うことに頷く。
すると、今まで冷静だった広瀬さんの頬も赤くなる。
「お、女の子同士でも……す、するのですか」
へえ……と、広瀬さんは頷くだけで、次の言葉が出てこない。どうやら、私達がそこまでしていることに衝撃を受けているようだ。
何だか気まずい空気になってきたな。何か別のことを話さないと。
「そういえば、広瀬さん。今日はちょっと遅かったよね。何かあったの?」
「今朝ではないんですけど、色々と……」
と、広瀬さんは何時になく曇った表情を見せる。何かあったのかな。
「何かあったの? 美咲ちゃん」
「ええ、実は……杏ちゃんが私の家に家出して来たんです。杏ちゃんにはこのことは言わないで、って言われたんですけどね」
「でも、どうして広瀬さんの家に家出をしたんだろう?」
「卯月さんの御両親から、杏ちゃんの家に卯月さんが退院したという連絡が入って。いつか、自分の家に来るかもしれないって怖がっていて。会いたくないって言われても、そんな気がしてならないと……」
「それで、場所の分からない美咲ちゃんの家に来たってわけなんだね」
片桐さんは卯月さんから逃げてしまっているんだな。それだけ、卯月さんに対する罪悪感が大きいってわけか。片桐さんが卯月さんと会いたいと思っていれば、卯月さんを説得するだけだったんだけど。
「思ったよりも、2人の間にある溝は深いみたいだね」
「そうみたいですね。卯月さんの方はどうですか?」
「思った以上に元気な感じだよ。1年前と同じようなことになる心配はいらないと思う。だけど、やっぱり片桐さんのことになると、会いたくないの一点張りで……」
「そうですか」
「2人は片桐さんの側にいてあげて。特に広瀬さんは。私は今日も卯月さんに家に来て欲しいって言われているから、片桐さんに会ってくれるかどうか説得してみるよ」
「でも、説得できたとしても、杏ちゃんが……」
遥香の言わんとすることも分かる。仮に卯月さんを説得できて片桐さんに会いに行っても、家出している今の状態では片桐さんを追い詰めるだけかもしれないということ。
「……難しいところだよね。でも、このまま何もしないよりは、絶対にいいと思うよ。理由なんて分からないけどさ」
そうだよ。何もしなかったら、2人の仲は元には戻らない気がする。
それに、昨日からずっと考えているんだ。卯月さんは片桐さんとの距離をわざと取っているんじゃないかと。頑なに会いたくないと言っているのも、それが原因なんじゃないかと。
「このままだと、卯月さんの望む結果になると思う。でも、卯月さんや片桐さんの進むべき結果にはならないと思う。その進むべき結果に辿り着けるように、私達で2人を支えていきたいんだ」
それが私の一番の願いだった。卯月さんと片桐さんには、顔を合わせてもう一度本音で話し合って欲しいから。
そんな私の想いが通じたのか、遥香と広瀬さんはまるで納得したかのように爽やかな笑みを浮かべた。
「そうだね。何もしないのが一番嫌だもん。杏ちゃんが元気を取り戻せるように、美咲ちゃんと一緒に頑張るよ」
「私も遥香ちゃんと同じことを考えていました。杏ちゃんのことは私達に任せてください。卯月さんの方は引き続き、卯月さんの方をお願いします」
「2人とも……ありがとう。じゃあ、2人が仲直りできるように頑張っていこう」
私がそう言うと、私達は互いに頷き合った。
私達がやっていることは間違っているかもしれない。でも、何にもやらないのが最も間違っている。それを今一度、確かめ合ったのであった。