第38話『ハートブレイク』
「とりあえず……こちらの方は藍沢さんのことを物凄く怒っていました。氷高さんを殺すことをどうしても許してくれないと」
もちろん、直人さんが言うことが正しいけども。
『まあ、殺人はいけないことですからね。俺と話したときは、死者は裁けないから止められないと言っていましたけれど』
「そんなことも言っていましたね。藍沢さんのことを分からず屋、と言って暫くの間、絢さんの胸の中で泣いていましたよ」
それだけ、直人さんに氷高さんへの殺害計画を否定されたことにとてもショックを受けていたと思う。
『水代さんが泣きたくなる気持ちも分からなくはないけど……直人さんの言っていることは正しいよ』
彩花ちゃんの声でそう言われると、てっきり彩花ちゃんが喋っていると思ってしまうけれど、話しているのは遥香なんだよな。電話だとこういうときにややこしくなるな。
「……俺もそう思っているよ。だから、泣き止んだらすぐに、俺達も水代さんに殺人や氷高さんを自殺に導くことだけはしてはいけないって強く言ったよ」
『そのときの氷高さんの様子はどうでしたか?』
「みんな分かってくれない、と泣いていました。ただ、絢さんが、水代さん自身が自殺したときに自分の家族や相良さんが悲しんだように、氷高さんが亡くなればご家族が悲しむんじゃないかと言って、水代さんを説得していました」
『そうですか……』
水代さんが亡くなったときにご家族や、相良さんが悲しんだように、氷高さんが亡くなったら彼女のご家族が悲しむと思って。
「絢さんのおかげで、藍沢さんへの怒りが収まったように見えましたね。ただ、氷高さんへの恨みは当然消えておらず、どうにかして復讐したいと言っていました」
『なるほど。まあ、復讐というのは聞こえが悪いですが、氷高さんに自分がこれまでやってきたことがどれだけ酷いことであるかを分からせる必要があると思います。おそらく、相良さんもその方法を考えているんでしょうね』
「俺もそう思います」
そして、それを私達が滞在している火曜日までに果たさなければいけない。もし、ダメだったら、水代さんは氷高さんを殺害するために動き出すだろう。
『そういえば、入れ替わりそのものについてのことは話していましたか?』
「絢さん達と説得していく中で水代さんが話してくれました。俺達が考えていたように、氷高さんに脅迫されている相良さんを助けて欲しいために、彩花さんと遥香の体を入れ替えたと。そうすれば、2人が自分の味わった苦しみを分かってくれ、俺達6人が協力して、20年前の事件に辿り着くと考えたそうです」
『俺に話してくれた内容と同じですね』
「そうですか。おそらく、自分の気持ちを話したのに、藍沢さんに殺人をしてはいけないと言われたので怒ってしまったんでしょうね」
『そう、かもしれませんね……』
水代さんの気持ちは分かるけど、それでもやってはいけないことがある。その一つが殺人なんだ。そういう考えが直人さんと重なっていて良かった。
「そういえば、俺達と氷高さんに接点を持たせるために、娘の七実ちゃんにも入り込んだと言っていましたね」
『そうだったんですか。あっ、そういえば……絢さんと一緒に氷高さんを探しているとき、七実ちゃん……気付かない間に家族が見えないところまで泳いでいたと言っていました。それは、途中で水代さんが七実ちゃんの体に入り込んでいたからだったんですね……』
おそらく、目的を果たすために、私達の誰かが氷高さんと直接会った方がいいだろうと思って、七実ちゃんを迷子にさせたんだ。
『水代さんは彼女なりに、俺達にこの現状を伝えようとしていたんですね。相良さんから氷高さんによる脅迫の話を聞き、このホテルや水代さんのご家族のことを心配しているということまで知ったので、水代さんは彩花や遥香さんの体に入り込む形で、自分の想いを伝えに来たということですね』
「その想いというのが、相良さんへの愛情と、自分を虐めて今は相良さんに脅迫している氷高さんに対する恨み……ということですか」
『ええ。ただ、俺は氷高さんへの殺害を否定してしまった。だから、絢さん達に説得をしようと遥香さんの体に入り込んだのだと思います。でも、良かったですよ。殺害だけでも思い留めることができて。本当にありがとうございました』
「礼を言うなら絢さんに言ってあげてください。彼女が……が、頑張りましたからね」
「え、ええ……」
殺害を思い留める決め手になったのがキスなんて、なかなか言い出せない……よね。
『絢さん、説得していただいてありがとうございました』
「い、いえいえ……ただ、私は水代さんの話を聞いて、自分の思ったことを彼女に伝えただけですよ」
『さすがは絢ちゃんだね! 元の体に戻ったらたくさんキスするね』
彩花ちゃんの声でも『絢ちゃん』と言ってくれると嬉しいな。
「キ、キスね」
さっきのことを思い出してしまって、思わず変な笑い声を出してしまう。
「えっと、その……遥香。隠しておいちゃいけないと思って言うけれど」
『うん、何なの?』
「その……水代さんを説得できたんだよ。できたんだけどね、その……く、キスしないと氷高さんを殺すことは止めるつもりはないって言われちゃって。直人さんにも同じことを言えば良かったとも言っていて」
隠すよりは正直に伝えた方がいいとは思う。
『それで……しちゃったの?』
低い声で遥香はそう問いかけてくる。
『正直に答えて。隠しちゃいけないと思っているんだよね?』
「……うん。水代さんとキス、しました」
『そっか……』
そうだ、もう一つ……遥香と直人さんには伝えなきゃいけないことがあるんだ。
「あと、彩花さんともキスを……しました」
『う、ううっ……』
遥香はそう嗚咽を漏らすと、彼女の泣き声が電話の向こうから聞こえてくる。やっぱり、泣いてしまうよな。
「ごめんなさい! 遥香! 直人さん!」
本来はしてはいけないことだから、2人に対して謝る。私は直人さんの恋人である彩花ちゃんとキスをしてしまったのだから。
『……そのキスは彩花からしたいと言ったのですか?』
「は、はい。キスをしないと気持ちが抑えられないと言われて。彩花さんの表情を見たら断り切れなくなって。本当に……ごめんなさい」
『……2人の体が入れ替わったことの影響が大きいんだと思います。仕方のないことです。それに、実は俺も……ついさっき、遥香さんからキスをされそうになっていて……その時に坂井さんから電話がかかってきたんですよ。ですから、お互い様です。少なくとも、俺はそう思っています。彩花が意識を取り戻したら、それを伝えておいてくれますか』
「分かりました」
きっと、ショックなはずなのに、直人さん……落ち着いてお互い様だと言ってくれるなんて。彼は本当に優しい人だと思う。
『遥香さんのことは……俺に任せておいてください。ですから、彩花のことを宜しくお願いします。彩花の想いをできるだけ受け入れていただけると嬉しいです』
「……分かりました。遥香の方も同じようにしていただければ。遥香が嫌だと思うことをしなければ……いいですから」
遥香も直人さんに好意を抱いているように見えた。今の状況を考えたら、遥香の嫌なことをしなければそれでいいと思っている。
『大丈夫です。遥香さんや……絢さんが嫌だと思うことは絶対にしませんから。それだけは安心してください』
「……はい。でも、遥香の気持ちをなるべく受け入れてあげてください。お願いします」
『分かりました』
何だか、精神的にも遥香との決定的な溝ができてしまったような気がする。信頼できる直人さんが遥香の側についていてくれることが唯一の救いだ。
「……俺と奈央もついていますから、絢さんと彩花さんのことは任せておいてください」
『はい。宜しくお願いします』
「こちらこそ、遥香のことを宜しくお願いします。何かあったらまた連絡しましょう」
『分かりました。おやすみなさい』
「はい、おやすみなさい」
そして、こちらから通話を切った。
私、間違ったことをしちゃったのかな。キスをしたいっていう彩花ちゃんの気持ちを受け入れた結果、遥香の気持ちを傷つけてしまった。これからどうやって2人に接すればいいのか分からなくなってくる。
「絢ちゃん……」
「……色々と分からなくなってきますね。水代さん達のことも、私達のことも」
「……あまり時間はないけれど、焦らなくていいんだよ」
そう言うと、奈央さんは優しい笑みを浮かべて私のことを抱きしめてくる。焦らないように、か。それができれば一番いいけれど。
「温かい紅茶でも淹れるね」
「……ありがとうございます」
とりあえず、まずは彩花ちゃんが起きたら、彼女に水代さんとのことを話さないと。それまでは、紅茶でも飲んで気持ちを落ち着かせることにしよう。