第30話『おしかり』
――パチンッ!
お母さんが七実ちゃんのことをはたいた瞬間、そんな音が響き渡った。
七実ちゃんのことを心配しているからここまで怒ってしまうんだろうけれど、多くの人がいる前で七実ちゃんを叩くことはないと思う。そのことで周りの人がこちらを見ているし。七実ちゃんが可哀想だ。
「ごめんなさい……」
七実ちゃんは涙を流しながらお母さんに謝った。
七実ちゃんのお母さんは七実ちゃんの両肩を掴んで、
「お父さんも悠太も、七実のことを心配して探し回ったんだから! まったく、どうしてあなたって子は……」
「ごめんなさい。泳いでいたら、気付かない間に遠くまで行っちゃって……」
「もう、七実ったら。海はとても危険なのよ。深いところだってあるし……今回の旅行では海で泳ぐことは許しません!」
「……ごめんなさい」
確かに、七実ちゃんの言うとおり、お母さん……結構恐いな。だからか、七実ちゃんもごめんなさいという言葉以外、あまり大きな声で出すことができていない。
「七実のことを助けて頂いて本当にありがとうございました」
さすがに、私と直人さんに対しては笑顔でそう言ってくれた。七実ちゃんのお母さんは私達に対して深く頭を下げる。
「顔を上げてください。七実ちゃんが無事にお母さんと会うことができたので、本当に良かったですよ」
「……本当にありがとうございます」
「……ただ、七実ちゃんも海で泳ぐことを夢中になってしまったことは反省しているように見えましたし、せっかくの旅行ですから……楽しい方がいいと思いますよ。七実ちゃんも今度からは気をつけて泳ぐよね?」
「……うん」
七実ちゃんはしっかりと頷いた。
「本人もこう言っているわけですし、海で泳がせてあげてもいいのでは? そうじゃなかったら、七実ちゃんにとって楽しい旅行じゃなくなってしまうかもしれません」
「……楽しい旅行じゃなくなる、ですか……」
七実ちゃんのお母さん、何か思い詰めているように見えるけれどどうしたんだろう。七実ちゃんに海で泳ぐのを禁止、って言っちゃったことを後悔しているとか?
「私からもお願いします」
七実ちゃんの背中を押したいので私もお願いする。
はあっ、と七実ちゃんのお母さんは一つため息をつくと、
「お2人の名前を教えて頂けますか?」
「藍沢直人です」
「原田絢です」
「藍沢さんに原田さんですね。お2人に免じて……七実、さっきの話はなしね。海で泳いでいいよ。ただし、周りに気をつけて泳ぐこと。いいわね?」
「うん、ありがとう! お母さん!」
ようやく、七実ちゃんから嬉しそうな表情を見ることができた。本当に泳ぐことが好きなんだなぁ。これなら、七実ちゃんにとって楽しい旅行になりどうだ。迷子になって怒られてしまったことも、いつかは笑えるようになるといいな。
「本当にお2人に七実のことを助けてもらって良かったです。ほら、七実。2人にお礼を言いなさい」
「うん。ありがとうございました。直人お兄ちゃんに絢お姉ちゃん」
「これからは気をつけるんだよ、七実ちゃん」
「楽しい旅行にしてね」
「……はい」
そして、七実ちゃんとお母さんは笑顔を浮かべながら手を繋いで、海の方へと歩いて行った。これなら楽しい時間を過ごすことができそうだ。
「頬を叩かれたときはどうなるかと思いましたけど、良かったですね、直人さん」
「そうですね。一件落着ですね」
「それにしても、直人さん。小さい子を相手にするのが上手なんですね。子供が好きなんですか?」
「特に好きっていうわけじゃないですけど、俺には3歳下の妹がいるんで、年下の女の子の相手をすることは慣れていますね」
「へえ、藍沢さんも一番上なんですか?」
「ええ、そうですよ」
なるほど、直人さんは3歳年下の妹さんがいるお兄さんなんだ。ということは、遥香のお兄さんと同じなのかな。
「私も一番上で……中学生の妹と小学生の弟がいるんです」
「だから、絢さんも迷子になっている七実ちゃんに対して落ち着いていたんですね」
まあ、妹も可愛いけれど、七実ちゃんも可愛かったな。
「藍沢様、原田様……ありがとうございました」
「いえいえ。相良さんがこんなところにいるなんて。七実ちゃんのお母さんがホテルの中まで七実ちゃんのことを探しに来たんですか?」
プールサイドにも係員はいるし、遊具を貸し出しているところにもいる。スタッフなら何人もいるのに、相良さんが一緒にいたということは七実ちゃんのお母さんはホテルの中まで探しに行った可能性が高い。
「……いえ、違うのですよ。私は彼女に……お子さんがいなくなってしまったから探してほしいと呼び出されたんです」
「えっ? そうなんですか?」
七実ちゃんのお母さん、わざわざ相良さんを呼び出すってどういうことなんだろう?
「どういうことなんでしょうね、直人さん」
「さあ……」
七実ちゃんのお母さん、相当心配していたみたいだし、ホテルの総支配人である相良さんのことを呼び出したのかな。
「ここでは人が多いですから、静かな場所に移動しましょう。お2人に話したいことがありますので。お時間は大丈夫でしょうか」
「ええ、大丈夫ですよ」
直人さん、即答するけれど……お兄さんと奈央さんに、七実ちゃんのご家族を探しに行くと伝えておいたし、後で何があったかきちんと話せば大丈夫かな。
「ありがとうございます。近くにベンチがありますのでそこにご案内します。屋外ですが、日陰になっているので今日のように風が吹いていると涼しいですよ」
そして、私と直人さんは相良さんの案内で近くのベンチへと向かう。そこには人はいないのでここなら静かに話せそうだ。私、直人さん、相良さんという並びで座る。
「俺と絢さんをここに連れてきてまで話したいこと……それって一体、何なのですか?」
「先ほどの女性……氷高裕美のことです」
「それが七実ちゃんのお母さんの名前ですか」
「ええ……」
フルネームで覚えているということは、七実ちゃんのお母さん……氷高さんは関係者に名前を知られるほどの常連さんなのかな。
「彼女のご家族は毎年夏になるとこのホテルに来てもらっているVIPなのです」
「そうだったんですか」
VIPということなら、何かあったときに総支配人である相良さんを呼び出すのも不思議ではないのかな。
「ただ、VIPとしてお越しいただいていることには理由がありまして。このことを話すのはお二方が初めてです」
「……もしかして、20年前の事件に関わっているのですか?」
直人さんがそう訊くと、相良さんは真剣な表情をしながらゆっくりと頷いた。
「その通りです。彼女は先ほど話したことの全ての始まりなのです」
「もしかして、それって……」
全ての始まり、という言葉で氷高さんが相良さんとどういう関係があるのか、おおよその見当がついた。
「彼女は円加が中学時代に告白した相手であり、円加をいじめる中心となった人物なのです」