第7話『Shock』
俺は奈央と須藤さんと一緒に喫茶店から帰宅する。
「ただいま」
家に入るや否や、母さんは玄関までやってきて、
「トモちゃん!」
「歩ちゃん!」
須藤さんと熱い抱擁を交わす。何だかひさしぶりの再会のように見えるけれど、2人って定期的に会っているんじゃなかったのか?
「今日はヒロくんがイギリスから帰ってきたから遊びに来たわよ。もっと早く着くつもりだったんだけど、近くで隼人君と奈央ちゃんと会ってね。喫茶店で小一時間ほど、私達の昔話をしてたの」
「あぁ、私やお父さんが絶対に話さなかったことね。ということは、歩ちゃんは隼人から今日のことを?」
「うん。ヒロくんは、今でもあの日のことを引きずっているのね」
「まあね。お父さんは自分と同じような気持ちを遥香に味合わせたくなかったみたい。そして、遥香の付き合っている原田さんには、あなたと同じような目に遭わせたくなかったようね」
母さんは穏やかに笑いながらそう言った。さすがに母さんは父さんの気持ちを分かっていたみたいだ。
「それで、父さんはどうしてるんだよ」
「……隼人が出て行った直後から落ち込んじゃってね。リビングのソファーの上で体育座りをしたままずっと俯いちゃって」
母さんは苦笑いをしながらそう言った。
とにかく、父さんの様子を見たかったので玄関を上がって、さっそくリビングに向かう。
すると、そこには母さんの言うとおり、ソファーの上で体育座りをしたまま俯いている父さんがいた。帰ってきたときと同じスーツ姿ってことは……本当にずっとこういう状態だったんだな。
「歩ちゃんと別れた後でも、あそこまで落ち込んではいなかったわ」
俺もここまで落ち込んだ父さんを見るのは初めてだ。というか、須藤さんから父さんの学生時代の話を聞いたせいか、今の父さんは俺よりも年下に見えて仕方がない。
「……娘に嫌われて、息子に最低な父親だと言われた……」
はあっ、と重いため息が聞こえる。
遥香に大嫌いだと言われ、俺から最低の父親だと言われたのが凄くショックだったんだな。まあ、親として一発KO並みの言葉を2回連続で食らったらこうなるのも仕方ないかも。
「昔のことがトラウマになっているのは分かるけど、もっと遥香ちゃんの気持ちを尊重しなきゃダメだよ」
須藤さんが父さんの側でそう言うと、父さんは驚いたのかソファーの上でちょっと飛び跳ねた。
「あ、歩! 何でお前がここにいるんだ!」
「ヒロくんが日本に帰ってきたからってトモちゃんから聞いて。予定もなかったから、ひさしぶりに会おうかなって」
「そんなこと、俺は母さんから聞いてないぞ!」
「どうせなら驚かせた方が面白いと思って。お父さんが突然帰ってくることに驚いたからその仕返し?」
ふふっ、と母さんは笑っている。仕返し成功、といったところか。
「し、心臓に悪い。というか、最後に会ったときから歩は全然変わってないな。確か、遥香が産まれて少し経ったくらいだよな?」
「まあね。女としての磨きをかけた結果かな」
「……当時から女として磨きはかかっていたと思うが」
未だに息を乱しながら父さんがそう言うと、須藤さんは少し頬を赤くした。今はもう互いに落ち着いた大人だけど、心の奥底では父さんのことが好きな気持ちがあるのかもしれない。
「それで、どうして今日は家に来たんだ」
「さっきも言ったじゃない。予定がたまたま空いていたから」
「それだけじゃないだろう。君は何か理由があって家に来たはずだ。それに、僅かに目が泳いでいる」
父さんのそんな指摘に対し、須藤さんはふっ、と穏やかに笑った。須藤さんは何か目的があって家に来たというのか。
「……トモちゃんから遥香ちゃんのことを聞いていたんだよ。遥香ちゃんはもしかしたら、原田さんという女の子が好きかもしれないって」
「私は別にかまわないけれど、あなたは歩ちゃんのことがあったから絶対に許さないと思ったから。昨日から遥香の様子がおかしかったし、今日、お父さんが帰ってきたら原田さんと付き合っていることを話すかもしれないと思ったの。もちろん、遥香が自分でお父さんと納得させられれば一番いいけれど、何かあったときのために歩ちゃんにも助言してもらおうと思って連絡したのよ」
なるほど、だからこそ父さんが遥香に厳しく当たったとき、母さんは何も言わなかったんだ。自分は遥香の恋に賛成していたし、まずは遥香一人で父さんという壁を乗り越えてみることが大事だと思ったから。
「もし、あのときのことで心が傷付いているなら、ヒロくんのことを救いたいと思ったからね。何せ、元恋人ですから」
「それで、実際に今日を迎えたら、案の定、お父さんは遥香に厳しく言っちゃうんだから。遥香が可哀想でしょ」
「でも、遥香の未来を考えたら、同性で付き合っても厳しいことが待っているだけだ。それに相手の原田さんにも悪い気がして――」
「遥香はお父さんと違うわよ」
父さんの言葉をバッサリと断ち切るように母さんは言う。
「あなたに何を言われても、遥香は決して原田さんと一緒にいたいっていう意思を曲げなかった。それだけ原田さんのことが好きなんだろうし、お父さんの言う厳しいことへの覚悟があるからだと思うの。それに、お父さんの気持ちが柔だったから、歩ちゃんが男だって分かった瞬間に歩ちゃんと別れたんじゃないかしら?」
母さん、ズバリと言ってしまったな。普段はおっとりしているから、ここまで鋭い言葉を真剣な表情で言っている姿はまるで別人のようだった。
父さんにとってこれは痛恨の一言だったんじゃないだろうか。遥香や俺が言った言葉なんて比にならないくらいに。
さすがに、今の母さんの言葉には須藤さんも戸惑っている様子だった。
しばらくの間、静寂の時が流れ、
「……痛いところを突かれたな」
父さんは鋭い目つきをしながらぼそっ、と呟いた。そして、下唇を強く噛む。
「歩が男であると知ったとき、俺は……怖かった。俺と一緒にいることで歩はまともな人生が歩めなくなるんじゃないか。そして、俺自身も。怖かったんだろうな。同性で付き合っていることに対する偏見が。歩が側にいても、それを乗り越えられる自信がなかった……そんな柔な気持ちだったんだよ。歩への愛情は」
父さんの目からは一筋の涙。それは須藤さんに別れようと伝えたときに押し殺していた感情を、20年以上経った今になって解き放ったように思えた。そこには悲しみ、悔しさ、自責の念など様々な感情があるに違いない。
「私はそう思わないよ。ヒロくんは私のことを考えて別れようって言った。それに、結婚した2人の姿を見て、立派に成長した隼人君を見て……この未来で良かったなって思っているところだよ。きっと、遥香ちゃんに会ったら、その気持ちがもっと大きくなるんだろうなって確信してる」
須藤さんは喫茶店で俺と奈央に伝えた気持ちを、改めて父さん本人に伝える。
20年以上の時を経て聞いた須藤さんの本音を聞いて、父さんは右手で両目を覆う。親として、男としてさすがにこれ以上の涙を見せるのはプライドが許さないのだろうか。
「……もっと、歩の気持ちを考えていれば、同じように別れてもここまで悩むことはなかったんだろうな」
「ヒロくん……」
「まあ、そんなお父さんだからこそ、私が支えようと思ったんだけれど。話を戻すけど、遥香のことをもっと信じてもいいんじゃない。親として遥香に厳しく言っちゃう気持ちは分かるけれど。親だからこそ、真剣に向き合おうとしている娘のことを見守るべきじゃないかしら。それに、遥香はあなたが考えているよりも強い子よ」
遥香が原田さんと付き合っているかもしれないと思った瞬間から、母さんはきっと遥香のことを見守る決意でいたんだ。だからこそ、今の言葉が直接関わっていない俺でさえもとても心強く思えた。
「……まだ、俺の心は変わらない。遥香が原田さんと付き合うことを許すことはできない。大切な娘のことだからな。そこは厳しくしないといけない」
「父さん……」
「ただ、遥香はどれだけの覚悟を持っているのか。俺はそれが知りたい。坂井遥香の父親として」
どうやら、今一度……父さんは遥香と話す気になったみたいだな。その覚悟が今の父さんからは伝わってくる。全ては大切な娘に幸せな道を歩めるようにするために。
後は、遥香が父さんを納得させるだけだ。どうやって、いかにして自分の気持ちを伝えて、父さんを納得させられるかが鍵になる。
俺達は遥香が家に帰ってくるのを待つのであった。