黒き翼は世界の歪みを語る
玉章の屋敷の下に広がっている地下空間。はるか深い空洞の奥底にある女神像を模した神器の前に佇む漆黒の翼を持つ堕天使は、ある一点に視線を注ぎながら、その目を細めて己の瞳に映るものを見据える
「――これか……」
紋付袴を連想させる霊衣を身に纏い、顔の下半分を隠す鎧兜のような面をつけた堕天使――「ザフィール」は、女神像の如き形状をした神器を前にして抑制の利いた声を発すると、その手に自身の神能である光魔力を具現化させた武器を顕現させる
「ゲリシュオン」
ザフィールの身の丈にも及ぶそれは、漆黒の翼を思わせる刃を備えた斧槍。吸い込まれそうな漆黒の刃は光魔力を帯びて、一点の曇りもない破壊と殺意を宿して黒く輝いている
「これが、例の神器であるならば、これを破壊すればよい……」
その手に召還した身の丈ほどの斧杖を水平に構え、その一撃を以って眼前の神器を粉砕しようとしたザフィールだったが、その刃は神器である女神像ではなく、天空から飛来した強大な魔力の一撃を受けとめるために行使される
間一髪、間に合った神魔と桜の共鳴魔力による斬撃を斧槍の刃で受けとめたザフィールは、その目に険しい色を浮かべると同時に、漆黒の翼を広げて後方へ飛び退く。
ザフィールが後方へ飛び退いた瞬間、先程までその身体があった場所を、薙刀の一閃が漆黒の軌道を残して駆け抜ける
「……外したか」
「申し訳ありません」
神魔が小さく舌打ちすると、ザフィールの胴を薙ぐ斬撃を放った桜が、目線を軽く伏せる
「思ったよりも早かったな」
神魔と桜。眼前に立ちはだかった二人の悪魔を見て目を細めたザフィールは、その意識を子の上空にいるであろう同伴者に向ける
(長時間足止め出来るとは思っていなかったが……まあ、これほどの手練ならば、オルクには荷が重いか)
オルクの存在を知覚したザフィールは、足止めを任せた同伴者が倒されたのではなく、目の前の二人を逃がしたのだと正しく理解して、戦意を高めて神魔達の背後にある女神像を一瞥する
「一応聞きたいんだけど、どちらさま?」
「……ザフィール」
神魔の問いかけに、ザフィールは、その表情を変える事無く淡々と自分の名を名乗る
「これは丁寧に。僕は神魔、でこっちが桜。僕が聞きたいのは、君の名前じゃなくて君の所属の方なんだ。……上の人達は知らないって言ってたけど、十世界? それとも英知の樹?」
自分の名を名乗ったザフィールに、神魔は自分と隣にいる伴侶を簡潔に紹介し、本題を切りだす
神魔が問いかけたのは、ザフィールの名前ではなくその所属の方。茉莉は知らないと言っていたが、その可能性を含めて、異世界に神器を狙ってやってくる確率が高い十世界と英知の樹という二つの組織の名を上げる
「堕天使界だ」
「――ッ!」
しかし、ザフィールの口から発せられたのは、全く予想だにしない回答だった。その事実に、神魔の隣に寄り添う桜も、さすがに驚きを隠せない様子を見せている
しかし同時に神魔と桜には、それに思い当たる事があった。――それは、天界で天界王に謁見した時のこと。その口から、「堕天使達が不穏な動きを見せているから気をつけるように」という旨の話を聞いている
(天界王様が言っていたのはこの事……?)
内心でその言葉を思い出し、警戒心を募らせる神魔は、身の丈にも及ぶ斧槍を手に佇む寡黙な堕天使に視線を向ける
「……その堕天使界の堕天使が、何だって妖界に来て、しかも神器を破壊しようとしてるの?」
背後にある女神像――神器を一瞥し、神魔は警戒感を露にした声でザフィールをにらみつける
その言葉に、刃の様な鋭さを宿した目を細めたザフィールは一度目を伏せてから淡々と言葉を紡いでいく
「神器とは、神の力の欠片が形を持ったもの。それ故にそれを破壊するためには神の力がいる。たとえ全霊命であろうとも、神器を破壊する事は出来ない。――しかし、それにも例外がある」
「……真の神器」
ザフィールの言葉に、神魔は神妙は面持ちで応じる
神――完全存在と呼ばれる全霊命の原型となった存在は、この世において唯一無二の存在。神の力を神以外が退ける事は適わず、たとえその力の破片に過ぎない神器であってもその例には漏れない。
しかし、神器の中でも異質な神器――「真の神器」と呼ばれるものだけは、全霊命の力によって破壊する事が出来る。無論本当の意味で破壊する事が出来る訳ではないが
「そう、真の神器だ。あれだけは、全霊命の手でも破壊する事が出来る」
神魔の言葉に抑制の利いた声で答えたザフィールは、その目に強い意志を宿して硬質な声で言葉を紡ぐ
「……何のためにそんな事を?」
ザフィールの言葉に、神魔は訝しげに眉をひそめる
言葉を発する事はないが、それに同意した様子を見せる桜も、眼前の堕天使に視線を向け、その一挙手一投足――わずかな変化さえも見逃すまいとしていた
「なんのため? ……決まっている。世界を護るためだ」
嘲笑に似た口調で前半の言葉を発したザフィールは、それと同時に予備動作を一切せずに神速の速さで神魔達の背後にある女神像に向かって斧槍を振り下ろす
しかし、その動きも神魔と桜の前に見切られており、振り下ろされた斧槍の刃は神魔の大槍刀に阻まれ暗黒色の闇と漆黒の光がせめぎ合う
「まだ、話の途中でしょ!?」
幾分か余裕があるような神魔の言葉に応じたザフィールに桜の薙刀による斬撃が放たれ、それを回避した堕天使に神魔と桜の魔力の波動の砲撃が放たれる
空中に出現した魔力の玉から解放された無数の魔力砲は、共鳴した二人の魔力によってその威力を通常じよりも大きく上昇冴えており、それをかいくぐりながら、回避できないものを斧槍の一撃で粉砕したザフィールはその目を細めて淡々とした口調で続く
「悠長にしていては、増援が来てしまうからな」
ザフィールの目的はあくまでもここにある神器。通常の神器ならば奪取するしかなかったが、これが真の神器であるのなら、破壊する事も可能になる。
今は神魔と桜の二人しかいないが、いつ増援が来るかもわからない以上、これ以上任務遂行の妨げになるような会話を悠長にしている場合ではないのだ
「……っ!」
戦略の一旦に増援を見込んでいた神魔は、相手がそれをさせないようにしていることに、小さく目を細める
見込んでいたとは言っても、精々そうなればいいなという程度でしかなく、元々誰かが増援に来てくれることそのものを期待していた訳でもないのだから、その心情を端的に表現すれば、「やっぱりそうくるか」程度のもので動揺はほとんどない。――むしろ、神魔の興味はザフィールが語ったその目的の方にあった
「世界を護る? それってどういう意味?」
「そのままの意味だ!!」
神魔の言葉に咆哮するような声で答えたザフィールは、その漆黒の翼をはばたかせると自身の周囲に数え切れないほどの黒球を出現させる。
その一つ一つが堕天使の神能である光魔力を凝縮したもの。そしてその黒球から漆黒の閃光が複雑な軌道を描きながら弧を描いて一直線に神器に向かって奔る
「させません」
しかし、神速の速さで世界を走り抜けた無数の黒閃は、宵闇に舞う桜吹雪を彷彿とさせる桜の魔力の奔流によって阻まれ、相殺されて消滅する
「今、この世界は滅びの危機に瀕している」
桜が黒閃を相殺した傍ら、互いの神能を纏わせた大槍刀と斧槍の刃を交えた神魔とザフィールは、闇よりも暗い黒の力の奔流の中で、その視線を交錯させる
「世界は歪み、軋んで悲鳴を上げているのだ」
「……どういう事?」
小さく訝しむように声を発した神魔が軽く首を傾げると、先程までその頭があった場所を閃光を貫く速さで桜の斬突が奔り抜ける
「どういう事だと? ……気づかないのか? ――いや、思い到らないのか」
一瞬でもタイミングがずれば、神魔の頭を射抜いていたであろう一撃を、強化した腕で刃の横から弾いたザフィールはその眉をわずかに潜めて低い声を発する
「……っ!?」
「世界は歪んでいる。――混濁者こそがその証拠だ」
漆黒の刃を持つ斧槍を横薙ぎしたザフィールの攻撃を回避した神魔とそれに寄り添う桜は、その言葉に訝しげに眉を寄せる
「……混濁者?」
その言葉に、一瞬混濁者が世界の理に反する存在である事を意味しているのかと考えた神魔だったが、その様子からそうではない――否、それだけではない事を感じ取っていた
その疑問に答えるように、斧槍の斬撃に合わせて光魔力の斬波を放出したザフィールが、低く鋭い声を発する
「貴様達は疑問に思った事はないのか?――なぜ混濁者が生まれるのか、と」
「?」
黒光の斬波動を魔力の一線で相殺し、消滅させた神魔と桜はその問いかけに、怪訝そうな表情を浮かべる
「それは、互いに愛し合ったからだ」
「……そんなの当たり前でしょ!?」
世界の理を超越する速さで斬撃を放ったザフィールの一撃を迎撃した神魔は、相対する堕天使に追撃を放った桜を視界の端に捉えながら反論する
全霊命はその存在そのものが世界最高位の格を持つ霊の力によって構築され、理性と本能が等しい存在。
それであるが故に、心と体は直結しており、心に反して身体が反応する事も、身体の反応に心が侵食される事はない。――つまり、心から愛し合う者としか心と体を重ねる事ができない。
そして混濁者とは、異なる種族の全霊命同士や半霊命同士、あるいは全霊命と半霊命の間に生まれる混雑者の事を指す。
混濁者とは、異なる種族、異なる存在同士が愛し合い、その間に生まれた子供。――それが世界共通の認識であり、常識だ
「――分からないのか? それこそが世界の歪みなのだ」
桜の放った魔力の斬撃を回避し、相殺したザフィールはまるで獅子の咆哮のような、低く威圧感のある声音で魔力を共鳴させる二人に言い放つ
「本来、異なる種族同士の間に愛情が芽生える事はないのだ」
「――っ!?」
抑制の利いたザフィールが言い放った言葉は、決して声を荒げた訳でもないのに、言の葉の槍となって神魔と桜の意識を鋭く貫く
「そう。犬と猫が自然の中で子を成す事がないように! 人と獣が愛し合い、子を成す事がないように! 異なる全霊命同士、異なる半霊命同士、全霊命と半霊命の間に絆は生まれても、愛と命は生まれない。――それが、本来あるべき世界の姿なのだ」
「――っ!!」
ザフィールの口から紡がれた真実の宣告に、神魔と桜は同時に目を瞠る
「何を言って……」
ザフィールが語る言葉に、神魔が驚愕と動揺を隠せない様子で声を漏らす。それは桜も同様で、その美貌には確かな狼狽の色が浮かんでおり、対峙する堕天使の言葉に二人は呑まれてしまっていた
九世界の法は理に準じている。混濁者が世界の禁忌である事も、「仮に人と獣が心を通わせたとして、その間に子供を作るべきか――否」という考えに基づいたものだ。
だが、その考えを持っている全霊命達も、あまりにも当たり前すぎて、その事に思いたらなかった――あるいは、思い到っていたしても、それを考えなかったのだ
――そもそも、なぜ異なる種族、異なる存在同士で愛情が芽生えるのかという、根源的な疑問に。
「かつて十聖天の長を務め、天使の王から堕天使の王となった我等の王は仰った。『本来、我等は異なる存在との間に愛を抱く事はない。天使は天使だけを、悪魔は悪魔だけしか愛さないのだ』と」
「……っ!」
黒光の極大斬波を放ちながらザフィールが重低音の声音で言葉を発すると、それに動揺した神魔と桜の反応が一瞬遅れ、漆黒の光が二人を捉えて暗黒の光の中にその存在を呑み込む
堕天使王・ロギアはかつて天界の王を務め、光の神から生まれた天使の原種にして最強の存在――「十聖天」と呼ばれる天使の一人にして、その中でも最高位の神格と力を持った天使だった。
神魔や桜と違い、九世界の創世期から生き、神の最も近くにいた世界最古の天使が言ったのならば、その言葉には十分な程の信用性がある
「だが、現に異なる種族同士での愛は、ごく少数ながらも成立している。――これが意味する事こそが、世界の歪みだ! ――そして、それほどにこの世の存在に、存在の在りようそのものに影響を与えることができるなど、神の力をおいて他にないだろう!!」
「――ッ!」
結果を断じるザフィールの言葉に、漆黒の光を切りはらった神魔と桜は、返す言葉もなく目を細める
九世界の中で神に最も近い位置にいる存在――堕天使王・ロギアだからこそ分かる。――いつの頃からか、世界は……その理と在りようは根源から歪んでしまっている。
そうでなければ、異なる種族同士の間に愛が芽生える事はなく、混濁者などという存在が生まれ出るはずがないのだ。――なぜならば、この世界の存在はそういう風にできているのだから
しかし、現にそれが起きている。ならばその原因とは、存在の根幹、世界の理そのものに亀裂を入れ、罅を生じさせる事が出来るものという事になる。――だとすれば、存在の根源、世界の仕組みそのものに影響を与える事が出来るなど、神の力以外にはありえない。
ザフィールの説明には、ある程度の筋が通っている。――もし本当に堕天使王の言葉が真実だとするならば、この世界にある神器のいずれかがその原因である可能性は極めて高い
「そして、その歪みは月日と共に大きく、歪なものになっている。異なる存在同士に愛を生み、子を成すことができるというこの歪な理の亀裂は大きくなり、そして――」
重低音の声で粛々と言葉を紡いでいくザフィールは、一拍の間をおいて重厚な声音と鋭い視線で神魔と桜に言い放つ
「在ってはならぬものを生みだした」
「――ッ!」
その言葉に、神魔と桜は瞠目し、息を詰まらせる
「在ってはならぬもの」――それは、この九世界において混濁者すら霞むほど忌み嫌われる呪われた存在。その名を知らぬ者はこの世界に無く、その歪さが分からぬ者はこの世界に存在しない。
この世にあるべき理を無視してこの世に存在する「この世の理を逸脱した存在」。――九世界の一つ「天上界」を統べる王を指すもう一つの忌称だ
「このまま世界の歪みが進行すれば、九世界の摂理そのものにどれほどの負担を与えるか分からん。ならば、その根源を正す事こそが世界を救う事になる!!」
はばたいた漆黒の翼から寄るよりも黒い光を放出したザフィールの言葉に呼応するように、光魔力の黒光が凝縮された無数の流星群が不規則な軌道を描きながら神魔と桜を強襲する
「っ、桜!」
「はい」
視線を交錯させた番の悪魔は、共鳴する魔力を極限まで高め、極大の黒桜嵐を巻き起こして光魔力の流星を一瞬にして消滅させる
「それを知って尚、邪魔をするか」
自分達への攻撃だけではなく、背後にある神器までもを守った神魔と桜を睥睨し、ザフィールは敵意の刃を隠した声を眼前にいる番の悪魔へ向ける
「そうだね。いい事を聞いたよ」
「……?」
その言葉に微笑を浮かべて応じた神魔の言葉に、ザフィールはその眉を訝しげにひそめる
「どういう意味だ?」言外にそう訊ねてくるザフィールの言葉に、神魔はその手に持つ大槍刀の切っ先を堕天使に向ける
「これは、いいネタになりそうだ」
「……神魔様」
目に見えて邪悪な笑みを浮かべる神魔を桜が嘆息と共にたしなめる
この情報を使って、自分たちへの減刑や酌量を考えているのを見通している桜の辟易した言葉を聞きながら、神魔はその口元に笑みを浮かべる
「その話、もうちょっと詳しく聞かせてくれる?」
「……生憎と時間がないのでな」
神魔の言葉に簡潔に応じたザフィールは漆黒の光を宿した斧槍を構えて、眼前の敵の排除と神器の破壊という目的を完遂するために、純然たる殺意の籠った力を解放した
「壊れた愛が世界を壊していく……少しずつ、けれど確実に」
澄み切った静かな声が、純白と金色に彩られた眩い空間に厳かに響く
淡く輝く金白色の光を纏った髪を揺らし、神々しいほどの出で立ちを以って佇む女性は、白い肌に映える薄い紅で彩られた唇で言葉を紡いでいく
「かつて、世界に打ち込まれた破滅の楔が世界の理を歪ませ、破滅へと歩みはじめた世界の崩壊を止めるためには、あなたは死ななくてはならない。――そして、だからこそあなたは死んではならない」
誰かに語りかけるように、優しく言葉を紡いでいく女性の声に答える者はここにはいない。
しかし、それでも女性は淡々と言葉を紡いでいく優しさの中に一抹の寂しさを宿した声をここにはいない相手へと向ける
「――世界のために」
「コルヴラミナ!!」
漆黒の翼を彷彿とさせる三枚の刃を備えた円環を構えた堕天使――「オルク」がそれを相対する天使クロスへ向けて投擲する
神速で回転しながら飛翔するブーメランのような漆黒の刃を自、クロスは身の神能である光力を纏わせた斬撃によって迎撃する
「――っ!」
光の斬撃によって弾き飛ばされた刃は、まるで自我を持っているかのようにオルクの手に戻り、次いでその三つの刃が一つに重なり、円環の持ち手を持つ刃へと形を変える
(……あの武器は、変わってないな)
オルクの神能が戦う形をとった武器――「コルヴラミナ」は、三つの刃を持つ投擲武器であると同時に、鉈に近い斬撃武器としての姿も持つ二面性の武器。
堕天使になる前からオルクを知っているクロスは、かつて純白の翼を持って自分と共にいたその姿を思い出し、懐古の念に目を細める
「なんで堕天使になったオルク!?」
「クロス兄には関係ないよ!!」
かつて何度も手合わせした白い動きに重なる黒い動きに声を上げたクロスに、オルクは漆黒の翼を思わせる刃を持つ円環を振り下ろす
「――っ!」
かつては純白の翼だったその武器の刃も、今では漆を塗ったような漆黒の光沢に覆われ、その刃がクロスの刃と拮抗すると、その刃に纏わされていた漆黒の光が純白の光と共に砕けて、その欠片をまるで羽のように舞い散らせる
「関係ない訳ないだろうが!!」
激情を宿した咆哮と共にクロスが純白の光を纏った大剣を一閃させると、その威力に押し負けたオルクの身体が中空に吹き飛ばされる
「……くっ」
(さすが、クロス兄。堕天使になった僕と同等以上なんて……)
天使などの光の全霊命と堕天使、そして悪魔などの闇の全霊命は、例えるなら三竦みのような関係にある。
闇の力に対して十倍の優勢を持つ光の力は闇に強い。しかし堕天して黒く染まった堕天使の光は、闇に染まっていても光の力のため、光の力の影響を受けない。よって堕天使は光に強い。しかしその反面堕天使の力は闇の力には及ばないため、堕天使は闇に弱い。
光の力でありながら闇に染まり、闇に染まっていながら光の特性をも併せ持つ――故に「光魔力」。それが九世界の十番目の世界の支配者である堕天使の力なのだ
堕天使となり、光への抵抗力を以って増大した黒光の力を力任せに押し返してくるクロスに目を細めたオルクは、その四枚の黒翼からかつての知人である天使に向けて黒閃の雨を放出する
「アリアが悲しむぞ!!」
黒閃の雨を力任せに粉砕したクロスは、純白の光力を放出しながらオルクに向けて声を荒げる
神々しいほど神聖な光を放ち、まるで純白の太陽のような輝きを放つクロスを見たオルクが目を細めるが、そうしたのはただ単に、その眩さからばかりではない。その証拠に、その表情には一抹の憂いを見て取ることができる
「……何も知らないんだね、クロス兄」
「?」
淡々と抑制の利いた声で言葉を発したオルクに、クロスは訝しげに眉をひそめる
「アリアは、『英知の樹』に行ったよ」
「なっ……!?」
オルクの言葉に、クロスは驚愕と動揺に目を見開く
その一瞬の隙を逃すオルクではなかった。それと同時に神速で宙を翔けたオルクは、その手に持つ刃でクロスの身体を袈裟掛けに切りつける
「くっ……」
オルクの黒翼刃の斬撃を受け、肩口から胸の辺りまでにかけてを斬り裂かれたクロスの身体から、炎と見紛うばかりの赤い血炎が上がり、その顔が苦悶に歪む
(アリアが、英知の樹に……)
攻撃を受けたと同時に放った横薙ぎの斬撃でオルクを遠ざけたクロスは、血炎の上がる自身の傷に手を添えて回復の光を生みだしながら、その脳裏にかつてオルクと共にいた一人の女天使の姿を思い浮かべる
英知の樹――九世界において十世界よりも古くから存在し、現在では世界の敵対勢力として十世界と二分される組織。
世界に散った神の力――神器を集め、世界の理の涯へと到達する事を目標とするその組織は、十世界と違い、その全容のほとんどが不明。かろうじて分かっているのは、無数の神器とその使い手が種族を問わずに所属しているという事くらいだ
「……ッ」
「なぜ、英知の樹に……そう問いかけようとしてクロスの口はその言葉を紡ぐ前に、その声を呑み込む
なぜなら、アリアの事もオルクと同様によく知っているクロスにとっては、そんな事を問いかけるまでもなくその理由に察しがつくからだ
「アリアは、神を殺すつもりなのか?」
「……」
クロスの問いかけに、沈黙を返したオルクの姿が、その問いに是と答えている
(……神を殺す?)
そのやり取りを遠巻きに眺めていたラグナは、その言葉に眉をひそめる
元々神眼をはじめとする神器の回収が目的だったラグナがクロスと共にここへやって来たのは、十世界でもない堕天使が、妖界にやってきた目的に単純に興味があったからだ。
もう一人を追って、地下の戦いを見物しに行ってもよかったのだが、眼前の堕天使が先程まで矛を交えていた天使――クロスと既知の関係である事を知り、こちらの方がより深い情報を得られると考えて傍観に徹する事にしたのだ
そして、その堕天使――オルクの言葉に耳を傾けていたラグナは、その言葉に少なくない憐憫の情を覚えていた。
ただし、それはオルクにではなく、二人の会話に出てきたもう一人の「アリア」と呼ばれた人物に対してのことだ。
神を殺すために英知の樹に入ったというのならば、その理由は限られている。そしてラグナにはその言葉のやり取りから、標的は違えど、おそらくは自分と同じなのだろうという事を察することができた
(そうか……俺と同じか……)
小さく内心で独白したラグナは、そっと目を伏せてこの世界のどこかにいる相手の事を思い浮かべて、唇を引き結んだ
舞い散る花弁のような妖力が金属質の音楽を奏で、無数の鎖楔を中空に弾き上げる。まるで意志が宿っているかのように自在に揺らめく筆の穂を揺らめかせる玉章は、その傾国の美貌に微笑を浮かべ、対峙する女妖怪――虎落へ向ける
「どうやら予定外の乱入者の方もみえたようですし、そろそろ終わりにいたしましょう」
玉章の言葉に、虎落がその端正な顔立ちに小さな苛立ちを浮かべ、低く抑制した声を向ける
「……手を抜いていたように聞こえますわよ?」
虎落の言葉に、この街にいる全ての妖怪の母、あるいは妻である絶世の美妖は、紅で彩られた唇を微笑の形に変えて、聞く者の心を虜にしてしまうような妖香を纏った声を発する
「まさか、本気で戦っていたとでも思っているのですか?」
「……っ、強がりを」
その言葉に一瞬動揺を浮かべた虎落は、その目を細めて一抹の不安を振り払うように言葉を発する
確かに今自分が相対する女妖怪――玉章は、かつて除籍されたとはいえ、妖界王にその実力を認められ、この世界の代行執政者の証である三十六真祖の名を冠していた人物。その実力も才覚も折り紙つきだ
しかし、知覚によって玉章を見ている限り、力を隠して戦っていたようには見えない。虎落自身、自分の力が三十六真祖に匹敵するものであることを自覚している分、それに伴う動揺は小さくないものだった
「……本当にそう思うの?」
そんな虎落の動揺を嘲笑うかのように、玉章は含みのある妖艶な笑みを浮かべる
「現に、あなたはわたくしに対して、能力を発動できていない。それこそが、わたくしとあなたの間に、決定的な力の差がない証拠でしょう!?」
玉章が見せるその余裕に、逆に焦燥を煽られる虎落は、狼狽した様子で声を張り上げる。
その言葉は、玉章に向けたものというよりは、その言葉に流されそうになる自分を鼓舞し、戦意を殺がれないようにするためのように感じられた
「私の能力の事をよくお勉強したのね。えらいわね」
しかし、そんな虎落の言葉を一笑に伏し、玉章はまるで小馬鹿にするように称賛の言葉を送る
確かに虎落の実力は三十六真祖に勝るとも劣らない。だからこそ、玉章は自身の妖力が持つ特性の真価を発揮する事が出来ないでいた。それは虎落の推測と大きく外れてはいない――そう、それだけは。
「けれど、忘れているのではない? ここがどこなのか?」
静かに装言葉を向けた玉章は、一度目を伏せてこれまでの表情を一瞬にして消し去り、次いで目を開くと同時に冷ややかで冷酷な殺意に満ちた表情を虎落に向ける
「――私の家よ」
その言葉が意味する事に一瞬気がつかず、目を瞠った虎落だったが、対峙する玉章の身体からこれまでのそれを凌ぐ鮮烈な力が噴き上がると同時に目を瞠る
「それがどうし……っ、まさか」
ここは、確かに玉章の家。そしてここにいるのは、外から来た一部の客人を除けば、玉章自身の身内ばかりだ。
それが意味する事を瞬時に理解し、目を見開いた虎落の耳に、玉章の美声が紡ぎ上げた言葉が届く
「妖力共鳴」
その瞬間、玉章の身体から、これまでとは桁外れの規模の妖力が噴き上がり、同時に戦場の各地でも同様に強大な力が現出する。
ここにいるのは、玉章自身の子供とそして、その伴侶。全霊命は、契りによってその存在の力を交換し合い、互いの命を共有することで、その神能を共鳴し、高めることができる。
すなわち、この妖界ばかりではなく、九世界で最も多くの伴侶を持つ玉章は、その全ての伴侶と同時に妖力を共鳴させ、その力を相乗的に高めることができる
「くっ……」
(なんて、妖力規模なんですの……!? これではまるで……・)
自身の力をも超越して高まっていく玉章の妖力に知覚を焼かれながら、虎落は戦慄に身を震わせる。
三桁では足りない程の数の伴侶が一斉に妖力を共鳴させ、互いに力を高めていった結果。その力の大きさは、虎落のそれを遥かに凌いでいく
(まるで、妖界王のそれではありませんか!!)
玉章の強大な妖力に身震いし、愕然とした表情を浮かべて佇んでいた虎落の意識は、身体に奔った不自然な衝撃によって現実に引き戻される
「なっ……!?」
その衝撃に視線を動かした虎落は、自身の身体に纏う己の武器――鎖楔が、無数に枝分かれした玉章の筆杖の穂に絡め取られているのを見て目を見開く
(しまっ……)
「これの意味が分かるわね?」
虎落の武器を自身の武器で絡め取った玉章は、その美貌に勝利の確信に満ちた微笑を浮かべて優しく語りかける
虎落は玉章の妖力特性を熟知していた。だからこそ、その言葉が意味する事も、自身の重大な失策も瞬時に理解できていた
「終わりよ」
玉章が無機質な美声を発した瞬間、絡め取られた鎖楔がまるで風化したように強度を失い、崩れ落ちていく
「くっ……」
自身の戦意の具現化である武器が破壊された事で、魂そのものにダメージを受けた虎落の口から真紅の血炎が噴き出し、その表情が苦悶に歪められる
(わたくしの妖力が、玉章の妖力で中和され……)
玉章の妖力特性は「色」。神能をはじめ、あらゆる力には色――即ち性質や特性、形質がある。玉章の妖力は、それを使う者の魂、霊格に合わせて最適化し、影響を与える事が出来る。
例えば同色を重ねて色を強化したり、いわゆる差し色のように力を際立たせたり、反対の色を混ぜる事で力を弱めたりする事ができる。
いわば存在そのものに対して干渉するこの能力の性質上、同等以上の力を持つ者に対してその効果を発揮しにくいという欠点はあるが、一度その力が振るわれれば、中和によって相手の力をほぼ完全に封殺する事が出来る妖界屈指の比類なき力でもある
「く……ッ!」
自身の妖力が中和され、己の武器がその形を無に還されたのを見てた虎落は、自身の存在そのものが発する危険の信号に反射的に距離を取る
先程までの意気を失い、焦燥を剥き出しにした虎落に視線を向けた玉章は、その手に持った身の丈に近しい長さを持つ筆に似た形状の武器の巧みに操り、その先端にある長い穂を、まるで舞うように踊らせる
「無駄よ。言ったでしょう? あなたはもう終わりだと」
その言葉と同時に、玉章が自身の武器である筆杖を地面に突き立てると、そこからまるで絵具が染みだすように妖力が凝縮された純白の線が地面に円を描くように広がっていく
身の丈にも及ぶ筆杖から奔る白線は、瞬く間に虎落を取り囲むと、そこから天に向かって白い妖力が噴水のように噴き上がる
「これは……っ!?」
瞠目する虎落の眼前で、渦を巻くように絡み合う白い妖力が天に昇っていき、まるで蕾のようにその空間を閉ざしていく
「閉じ込められる……!?」
玉章の妖力が凝縮された純白の蕾に、虎落は小さく目を瞠り、閉じていく天頂に向かって神速で空を翔ける
力づくで破ろうにも、周囲を奔る白の妖力は、玉章が虎落の妖力を中和するように色をつけたもの。容易に破る事が叶わない事くらいは一目で分かる
「無駄だと言ったでしょう? 私の妖力は、すでにあなたの存在を捉えているのだから」
「――っ!!」
静かに紡がれた玉章の言葉に目を瞠る虎落は、閉じていく純白の花弁の内側に出現した槍を思わせる無数の白い棘に背筋を凍てつかせる
「そんな、このわたくしが、こんなところで……ッ」
まるで天に向かってそそり立つ蕾のように形を成した玉章の妖力の蕾は、その内側に生じた槍棘を以って、虎落の身体を全方位から優しく抱きしめるように閉じる
「さようなら」
「あああああああああああッ!!!!!」
花弁の中から響く断末魔を聞きながら、玉章は静かに目を伏せる
「相手に合わせて色を変え、相手の色に染まり、自分の色を差し、時にその色を際立たせ、時に自らが最も美しく咲き誇る。――それこそが私の力。まるで女の在るべき姿を体現しているようでしょう?」
勝利の微笑を浮かべながら言葉を紡いだ玉章が筆杖を軽く振るうと同時に、純白の花弁が解けて白炎の粒子となって天空へと解けていった