鋼の牙は記憶を抉る
九世界の一つ、「妖界」。――九世界で最も強靭な生命力と変質的な神能である「妖力」を持つ全霊命、「妖怪」が支配する世界。
その一角にある巨大な石造りの城。かつては妖界が所有する施設の一つだったその場所に、漆黒の衣を翻らせて一人の男が佇んでいた
「……いきなり呼びつけるなんざ、一体何の用だ!? 『クラムハイド』」
オールバックにした白金の髪に、左右のこめかみに蝙蝠の翼に似た緋色の妖紋を有する線の細い顔立ち。均整のとれた顔の中で血のような赤に輝く瞳を以って天を仰ぎ見ていたその男――「クラムハイド」は、背後からの野太い声にゆっくりと背後を振り返る
「遅かったな、『鋼牙』」
クラムハイドの視線の先にいたのは、ファーのついたコートのような霊衣を翻し、逆立った赤銅色の髪をなびかせ、額に四つの牙に似た妖紋を持つ精悍な顔立ちの男。
線が細く理知的な印象を持つクラムハイドとは対照的に、極めて野性的な印象を持つその男は、攻撃性の強さを思わせる鋭い真鍮色の瞳を向けて、どこか気だるそうな様子で姿勢を崩している
「俺はあんたの下であっても配下じゃねぇ。一々お前の言う事を聞いてやる義理はねぇよ」
「……三十六真組の一人である私にその傲岸不遜な言い回し……先日まで妖界城に仕えていたとは思えない粗暴さだな」
鋼牙の言葉に、クラムハイドはその目を愉快そうに細めてその挑発的な言葉を受け流す
クラムハイドは、三十六真祖の一人にして、「乱世」、「法魚」と共に現在妖界の統治を任された三巨頭の一人。そして鋼牙は萼や李仙たちのように妖界城に仕えていた妖界王直属の配下。
そういった関係もあって、既知の仲である二人は親しさと同等以上の緊張感を持った視線を交わし、互いに腹を探り合うかのように不遜にして傲慢な笑みを向け合う
しばし、そうして腹を探り合うかのように視線を交わしていた二人だったが、やがて鋼牙の方が諦めたのか、頭を軽く掻きながら話題を買える
「……嫌味を言うために呼びつけたのかよ?」
「まさか。そこまで私も暇ではないよ。……妖牙の谷の神器回収に手間取っているようだから、必要ならば力を貸してあげようかと思ってね」
煩わしそうに視線を逸らして耳を傾けていた鋼牙だったが、クラムハイドが言葉を言い終わるよりも早く怒気を宿した低い声を放つ
「余計な御世話だ。俺は退屈な城務めに飽き飽きしてたから、あんたの誘いに乗って十世界に入ってやったんだ。いくらあんだでも、俺の戦いの邪魔はさせねぇ」
その目に宿っているのは、明白な殺意。場合によってはこの場で戦う事もいとわないと言わんばかりの飢えた獣のような獰猛な視線をクラムハイドは微笑を浮かべたままで受け流す
「そう気を立てるな。しかし、いつまでも手をこまねいていてもらっては困る。どうやら九世界は光魔神を自分達の陣営に引き込もうとしているらしいからな」
「興味ねぇよ。姫のいう世界も、あんたの理想にも。話がそれだけなら俺は帰らせてもらうぞ」
クラムハイドの言葉に冷ややかに応じ、身を翻した鋼牙だったがが、まるで時期を見計らっていたかのように周囲に出現した無数の神能を知覚して足を止める
「……!」
(魔力が二つと光魔力? ……悪魔と堕天使だと?)
「着いたようだな」
この場に出現した強大な二つの魔力と、闇に堕ちた天使が使う黒光の力を知覚した鋼牙がその目を細める傍らで、クラムハイドはその均整のとれた顔に不敵な微笑を浮かべる
「どういうつもりだ?」
「そう怖い顔をするな。どうやら一向に戦果が得られた無い事にゼノン様が業を煮やして、戦力の補充をして下さったのだ」
真鍮色の瞳に冷ややかな怒りを映す鋼牙は、眩むハイドの言葉に忌々しげに吐き捨てる
「……余計な事を」
十世界は光と闇、全ての世界の統一と恒久的平和を掲げているが、魔界に天使のメンバーを送り込んでしまえば、九世界の中に燻っている敵意を刺激して戦火を広げかねない。
故に、魔界ならば悪魔、天界なら天使と、まずは可能な限り同じ世界の種族に十世界への合流のための対話を任せている。
その方針に従って、妖界をクラムハイドを筆頭とする妖怪達によって十世界に賛同するように働きかけているのだが、無論あまりにも手間取るようならばそれ以外のメンバーが送られてくる事がある
わざと聞こえるように舌打ちをした鋼牙の言葉など意に介した様子もなく、この場に降り立った三人の中で最も強大な力を持つ金色の悪魔の女性が、その場にいる二人を見渡して恭しく一礼する
「お初にお目にかかります。ゼノン様に命じられて馳せ参じました――茉莉と申します」
茉莉の言葉に続くように、その背後に控えていた真紅の髪の悪魔、紅蓮と金色の髪をなびかせた漆黒の翼を持つ堕天使、「ラグナ」が頭を下げる
「次の戦いにはこいつらを連れて行け。拒否は認めない」
「チッ……足を引っ張るんじゃねぇぞ」
許諾する以外に選択肢の無い命令をクラムハイドから言い渡された鋼牙は、再度苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、茉莉、紅蓮、ラグナの三人に視線を向ける
「はい」
「では、頼んだよ? 狙いは神器だけだ。くれぐれも十世界を貶めるような蛮行はしないでくれよ。私は、もう一度彼女の元へ行く。もうすぐで協力を得られそうだからね」
鋼牙が茉莉たちとの共闘を許諾したのを確認したクラムハイドはそう言い残して、その姿を眩ませる
「彼女?」
クラムハイドが姿を消した場所へ視線を送っていた茉莉が、怪訝そうな声と共に「彼女とは誰ですか?」と言わんばかりの視線を受けた鋼牙は目を伏せて、その人物――誰もが知っている有名な二つ名を紡ぐ
「……『墜天の装雷』だ」
「ッ!!」
「……ん」
閉ざされていた瞼を開き、まどろみの中から意識を回帰させた桜の視界に映るのは、漆黒の髪をなびかせる神魔の横顔。
自身の神能で構築されているために、自身の意志か心の底から心を許した人にしか解く事の出来ない霊衣には乱れ一つない。そして、横になっているために桜色の髪が床一面に開いた花のように広がり、純白の羽織りが神魔の漆黒の陣羽織と相まって美しいコントラストを織りなしている。
隔離された空間は、世界をそのまま写し取る事も出来るが、創造主の記憶や知識に基づいて形を変える事もできる。その力によってこの空間は創造主である神魔の望むままに「世界」の改変が行われている。
具体的には、その面積が圧縮されており二人で愛を語らって過ごすのに十分な程度の広さに抑えられている事、その床一面に神魔の魔力で形作られた霊衣を思わせる布団のような布が広がっていること、何よりも、空間そのものが窓の無い部屋のようになっているという最大の違いがある。
二人で過ごすために構築された空間で、仰向けに横になっている神魔の肩に近い位置に頭を置き、その間にわずかな隙間もないほど密着して一夜を過ごした桜は、その最愛の人の温もりを噛みしめながら愛おしげに目を細める
「……おはようございます」
「うん、おはよ」
仰向けに横になっていた神魔は、桜の言葉に優しく微笑み返すとその流れるような桜色の髪を右腕でそっとすくい取る
「お休みになられなかったのですか?」
神魔に髪をすかれる感覚に目を細め、身を任せる桜は慈しむような声で話しかける
全霊命にとって、睡眠は娯楽程度のものであり必須ではないが、娯楽であるという事は楽しい、あるいは心地いいという事だ。現に桜も全面的に心を許している神魔の前では無防備な姿を晒して眠っていたのだから
「休んでたよ? 桜の寝顔見てたからね」
「……っ、久しぶりに眠りましたが、こうさせていただいていると、あっという間に時間が過ぎてしまいますね」
まるで一つに溶け合うように深く愛し合った熱を思い出しているかのように頬を赤らめ、名残を惜しむように神魔に自身の身体を強く押しつけながら桜が言葉を続ける
「わたくしは、朝があまり好きではありません……ですが、朝はとても幸せな気持ちになれますから好きです」
「……矛盾してない?」
愛おしさを噛みしめるように、慈愛に満ちた声で言葉を紡いだ桜に、神魔は首を傾げる
朝が嫌いなのに好きという言葉に怪訝そうに言う神魔に、桜は花のように表情を綻ばせて優しく微笑み返す
「しておりませんよ、普通の事です」
朝がくれば、一夜を共にした温もりから離れなければならない。だから切なくて好きになれない。しかし朝が来れば、今日一日を愛する人と過ごす時間を想い描く事で幸せな気持ちになる事が出来る
故に朝は嫌いで、朝が好き。たったその程度のことでどうしようもなく満たされる自分の心を確かめるように、桜は一言ずつ噛みしめながら言葉を発する
「ふぅん……そういうものかな」
そんな桜の心など知る由もなく、神魔は曖昧な返事を返すと優しく梳くように撫でていた桜の髪から手を離し、優しい声で語りかける
「さて、じゃあそろそろ行こうか」
「……はい」
神魔にとっては、特に意図もせず言ったであろう言葉。しかし、それは桜にとってとても重要な意味を持っている。
「帰ろうか」や「戻ろうか」ではなく、「行こうか」――それは、神魔にとって今いる場所が帰るべき場所である事を意味している。そこに自分がいられる事に桜はその心を幸福で満たし、もしその場所が自分自身であったらならばと、期待に胸を躍らせる
何気ないそんな一言でこれほどに心が満たされる……そんな言葉にできない幸せを覚えられる事に、桜は神魔といられる事に自然と表情を綻ばせていた
「なんか、機嫌がいいね?」
いつも自分に対して微笑みかけてくれる桜だが、今日はいつも以上に嬉しそうに微笑んでいるのを見た神魔はその様子に釣られるように微笑みながらも首を傾げる
その言葉に、自分の表情が思っている以上に緩んでいたらしい事に気づいた桜は、もう一度清楚に淑やかに微笑みかける
「そうですか? ……きっと神魔様が大切にしてくださっているからですよ」
慈愛に満ちた女神のような微笑みで、その美貌を花のように綻ばせた桜が、愛おしさを噛み締めるように言葉を紡ぐと、神魔は照れたような嬉しいような感情にわずかに頬を染める
時間さえ許せば、このままもっと愛し合いたいところだが、生憎と外の空間で待っているであろう人達を待たせすぎる訳にはいかない。今度の時はと心の中で密かに誓った神魔は、優しく微笑み返す事でその言葉に応じる
「……解くよ」
「はい」
神魔の言葉に、まるでその心を見透かしているかのように頬を赤らめた桜は淑やかに微笑んで、小さく頷く
一瞬にして空間が回帰し、現実の世界へと帰った神魔と桜は日が昇りかける前の薄明かりに照らされる室内に静かに立つ
「早かったな」
神魔と桜が回帰すると、そこには思い思いに妖界での初めての一夜を過ごしたらしい一同が、たった一人の例外を除いて二人を出迎える
「……詩織さんは?」
その場に詩織がいない事を見て小さく首を傾げた神魔に、大貴が軽く首を動かして部屋の隅に置かれたテントのようなものを示す
「あれは……?」
「ヒナが渡してた装霊機の機能の一つで、持ち運び可能の部屋みたいなものらしい」
「へぇ……」
大貴の説明に、神魔が感嘆の声を漏らす
(……なるほど、確かにあの中に詩織さんの存在を知覚できる……けど、この存在の希薄さを見ると、多分中は空間を捻じ曲げて作られた異空間になってるかな?)
詩織が使っているテントのようなものは、人間界の科学を用いて作られた簡易生活空間。ヒナが出発の前に装霊機の収納領域に組み込んでおいた宿泊用の個人部屋になっており、内側は空間を歪曲して、テントの大きさからは想像もできない程広大な空間になっており、ベッド、シャワールームなど快適に過ごせる空間が整っている。
さらに防衛用の迷彩に加え、機能空間を歪曲させている関係上、全霊命の知覚をわずかに妨げる力をも有し、万が一神魔達と別行動を摂らざるを得なくなった時に、一定時間ならば身を守りながら隠すことまでも想定されている。
「一日の三分の一から四分の一の睡眠を取らないといけないなんて、ゆりかごの人間っていうのは不便すね」
神魔達やクロス達と違い、地球で暮らしたことがない李仙が「面倒くさそう」と言わんばかりの様子で呟くと、その声を向けられた萼は、髪に隠されていない左目で視線だけを向けて答える
「慎みなさい李仙。全霊命と半霊命は違うのですよ」
「へぇい」
萼の言葉に不承不承といった様子で頷いた李仙は、両腕を組んで枕代わりにすると、そのまま壁に寄り掛かって軽く天井を仰いだ
「……随分、お楽しみだったようね」
神魔と桜が並んで腰を下ろすのを見た瑞希が、彫像のように整った氷麗な顔に微笑を刻み、涼やかな声を向ける。
魔界の牢にいる時と、天界城にいる時。常に神魔と桜の愛情深い姿を、頼んでもいないのに散々見せつけられてきた瑞希は、ようやく二人きりで過ごせたらしい二人にほんの些細な意趣返しをする
その言葉をどのように受け取るのかは未知数だったが、瑞希の言葉に返された、幸福に満たされた淑やかな桜の微笑を見れば、その答えは十分なものだった。
「お楽しみ? 一体あの二人は二人きりでナニを……」
「李仙、少し黙っていなさい」
ごくりと息を呑み、何を妄想しているのか目に見える表情で鼻息を荒くする李仙に、萼は冷ややかな視線を向ける
「姐御。一人身同士、是非今度」
「……その口、しばらく開けないようにしてあげましょうか?」
下心丸出しのきりりとした紳士的な表情で力強く言い放つ李仙に、萼は絶対零度の殺意が込められた柔らかな笑みを返す
「すみませんでした」
萼の殺意に満ちた満面の笑みに、さすがに生命の危機を覚えた李仙は、恐怖に震えた声で表情を引き攣らせる
(あ、姐御が怒った所初めて見た……)
「……?」
李仙はこういう性格のため、妖界城の中でも管理者の立場にある萼に何度も注意され、たしなめられてきた。その度に何度も萼に似たような事を言った覚えがあるのだが、ここまで逆鱗に触れた事は記憶にない
初めて見る萼の反応に恐れ慄き、身を震わせる李仙の横で居住まいを正した萼は髪に隠されていない目をわずかに細める
(……こんな些細な事で苛立つなんて、私もまだまだ未熟ですね。……あの人に会ったからでしょうか)
内心で呟く萼の脳裏に甦るのは、昨日久しぶりに再会した絶世の美貌と無数の伴侶、数え切れない子供を持つ「玉章」の姿。
自分にとって祖母に当たる玉章は、萼にとっては親類と呼べるほどの付き合いがない。仕方がない事と割り切っていることとはいえ、玉章が母を見殺しにした事も紛れもない事実。
決して割り切れない事実と、家族という心の中に刻みつけられた二度と取り戻せないであろうかけがえのない存在に、萼の心は否応なく揺れ動く
(……思えば、矛津さんや棕櫚さん達、ここにいる人達全員が自分にとって近しい親類という事になるのですね)
いかに玉章が祖母だといっても、萼はここにいる面々と親しいというほどの間柄ではない。改めてそう認識した萼は、既にこの世にいない両親と家族という繋がりを求めるかのようにその目をわずかに細める
その時、大貴達が妖界での一夜を過ごした部屋の片隅に置かれたテントの扉が開き、身支度を終えた詩織が顔を出す
「おはようございます」
「おはようございます」
「あれ、桜さん早いですね?」
桜の声に出迎えられた詩織は、目を丸くして神魔と寄り添うようにしている桜色の髪の絶世の美女に視線を向ける
「そうですか?」
時間は天に輝く神臓が夜天を照らす月から、世界に降り注ぐ陽光へ切り替わったばかりの頃。これから徐々に日差しが強くなっていく、いわゆる夜明けの頃。
隔離された空間の中で神魔と桜がいかにして過ごしているのかなど詩織には知る由もないが、何をしているにしてももう少しゆっくりしてくると思っていただけに、これほど早く戻ってくるとは計算外だったと言わざるを得ない
「…………」
しかし恋する乙女である詩織の目は、いつものように神魔の隣に寄り添っている桜の距離が普段よりほんの少し短くなっている事を正確に見抜き、平静を装っている微笑の下で未だに抜けきっていない惚気た感情を見通していた
普段と同じ、しかし愛と幸福に満たされた桜の淑やかな微笑を見た詩織は、自身の中に沸々と湧き上がってきている焼けるような感情を懸命に抑え込む
(仕方ない事とはいえ、朝から少し憂鬱……)
想いを寄せる人と自分ではない、そして自分では絶対に勝てないと思わせる女性が愛し合い、互いを慈しみ合いながら寄り添う姿に嫉妬を覚えつつ、詩織は割り切れない自分の感情にもどかしさと切なさを覚えていた
「穏やかですね……」
昨日と同じように、棕櫚に朝食を御馳走になった詩織は、眼前に広がっている光景を見て呆けたように声を漏らす
衣食住すべてに困る事無く、経済や職業といった概念が極めて希薄な全霊命達の日常は、とても穏やかなものだ。
戦いがない時は日がな一日のんびりとしていたり、何もせずに無為に過ごしたり、何か趣味があればそれに没頭したり、実に刺激の無い平々凡々な日常を娯楽らしい娯楽もなく過ごしている
玉章を中心とした谷底の街も、その例に漏れる事はない。ある者は朝から日向ぼっこをし、ある者は空を流れる雲を延々と見つめている。
一部は研鑽のために刃を交えて戦っている者もいるようだが、ほとんどの者は何をするでもなく、何もしない事を満喫しているような――少なくとも地球人である詩織の目から見れば、怠けている、だらけていると言っても差し支えがない様な光景が広がっている
「そう? こんなものだよ?」
詩織の呟きに、たまたま隣にいた神魔が軽く小首を傾げる
「……そういえば、何もしないことを苦痛に感じるかどうかが永遠を生きる事ができる存在かそうでない存在かの違いだって、いつか言ってたっけな」
眼前の光景を見て大貴がいつか神魔達から聞いた言葉を思い出して合点が言ったように呟く
この世における最強の存在として世界に君臨する全霊命にとって、その命を脅かすものは同じ全霊命しかなく、神に限りなく近いその力は、あらゆる病や老いをもその身から排除している。
老いることなく、衰える事を知らず、殺されるまで最盛期を保ったまま永遠を生きることができる全霊命にとって、何よりも必要とされるのはその身に与えられた永遠に等しい時間を過ごす力だ。
永遠と悠久を生きる存在にとって、何よりも要求されるのは何の変哲もない日常を何事もなく過ごし、そこに何の苦痛も感じない感情……即ち地球で言えば、朝起きて仕事や学校へ行って帰宅して眠る――そんな何の変哲もない平々凡々で刺激も変化もない日常を苦痛なく過ごす事ができる力。
寿命が短い生命体ほどその人生に刺激と彩りを求める。永遠の灰色よりも一瞬の極彩色を求めると表現する者も中にはいるが、それは大きな間違いだ。
不変を楽しめるか否か、あるいは変化を求めるか求めないか――平凡な日常を虹色と捉え、何もせずに充足した日々を過ごせるかどうかが、永遠を生きる存在と、そうでない存在の決定的な精神的差異となる
(羨ましいけど、こんな生活絶対無理。一週間で飽きる)
目の前に広がる何事もない一日を何をする訳でもなく過ごす妖怪達を見て、詩織は一抹の羨ましさと同時に、こんな日々を何日も送れないと自分の中で結論付ける
「……こんな静かな日々がいつまでも続いていればいいのですけどね」
「そうだね」
静かに慈しむような言葉を紡ぐ桜に神魔が応じ、互いに視線を交わして微笑み合う様子を見て、苛立ちを覚える詩織の横から一行の先導役を任されている妖怪――萼が優しく声をかける
「仲がいいのですね」
「まあ、永い事一緒にいますから……ね?」
「はい」
萼の言葉に微笑んだ神魔の言葉に、わずかにはにかんだような淑やかな笑みを浮かべて桜が応じる
「……少々羨ましいですね。私にはそういう方がみえませんから」
肩を並べて寄り添う神魔と桜を見て、萼が髪に隠されていない左目を細めて微笑む
どこか儚げに微笑むその姿は、どこか寂しげに見え、玉章の面影を感じさせるその美貌は高嶺の花のような近寄りがたい雰囲気と共に、岩壁の花のように見る者の足を止める不思議な魅力を纏っている。
その気になれば一通りの男を虜に出来そうな容姿をしているにも関わらず、伴侶となる人がいないのは単純にまだそういう人と巡り合っていないのか、あるいは他の理由があるのか、いずれにしろ神魔達はそれを訊ねるほど萼の事情に干渉するつもりはなかった
「姐御」
萼の話を聞いていた李仙は、きりりと表情を引き締めて、自分の直属の上司である美女に熱い視線を送る
李仙の熱い視線を、それとは真逆の冷ややかな表情で受け止めた萼は、神魔と桜に向き直って儚げな笑みを浮かべる
「私にはそういう方がみえませんから」
(二度言った! 大事な事だから二度言った!!)
そのやり取りを見ていた詩織は、李仙の言葉をまるで聞いていないかのように無視した萼の言葉に心の中で思わず声をあげる
(もしかして李仙さんって、萼さんの事好きなのかな?……)
文字通り袖にされ、項垂れて崩れ落ちる李仙に視線を向けた詩織は、これまでの言動を思い返して一つの結論を導き出す
(……うん。ただ女の人が好きなだけだ)
「いつまでそういているのですか、我々は――ッ!」
がっくりと項垂れている李仙に視線を向けた萼が、抑制の利いた声で嗜めようとした瞬間、その目を小さく瞠って視線を遥か上空へ向ける
「神魔さん……?」
その場にいる自分を除く全員が一斉に空を仰いだのを見て、詩織は恐る恐る一番近くにいた神魔に声をかける
「この力……妖怪が複数と、それに……」
詩織の声を受けた神魔は、その言葉に答える事はせずに上空を睨みつける
玉章が治めるこの街は、妖牙の谷と呼ばれる妖界最大の渓谷の底に作られている。この場にいる全員が、遥か高く、まるで天までそびえ立っているのではないかと思えるほどの大地の裂け目の上に出現した無数の神能を知覚して上空を見上げていた
「なんで妖界に?」
その中にいくつか覚えのなる力を知覚し、大貴が驚きと呆れに加え、歓喜にも似た感情が入り混じった声で上空を見上げる
大貴の知覚は、崖の上に出現した二つの魔力と一つの光魔力の正体を、茉莉、紅蓮、ラグナのものであると正しく捉えており、もはや腐れ縁とでも言わざるを得ない接触に、悪友と出会ったような感情を抱かせていた
「姐御」
「分かっています……この妖力――『鋼牙』ですね」
一方で上空に出現した無数の妖力を知覚した李仙の言葉に、萼が神妙な面持ちで応じる
崖の上に無数に出現した神能の中で、突出して強力なものは二つ。――一つは「茉莉」、そしてもう一つは鋼牙の妖力だ。
久しぶりに知覚する懐かしい妖力に、敵意を滲ませた神妙な面持ちを浮かべる萼の視界に、上空から次々に降り立ってくる無数の存在が目に入る
崖の上から飛翔し、次々に地上に降り立つ妖怪達を大貴達を筆頭とした面々がその様子を睥睨していると、そこに一際大きな妖力が降り立つ。飛翔する力があるにも関わらず、意図して重力に任せて地面に激突したその影は、その重量と衝撃のままに粉塵を巻き上げる
他の面々の追随を許さず、さながら隕石を思わせる強大な力と存在感を振り撒くその影は、粉塵の中から真鍮色の瞳を煌めかせて、歓喜とも嘲りとも取れる声で微笑を刻む
「……これは、これは。随分珍しい奴がいるじゃねぇか」
その言葉と共に粉塵が取り払われ、姿を現した赤銅色の髪を持つ男が冷ややかな視線を向けて佇んでいる萼を見て、獣のように獰猛な笑みを浮かべる
「なあ、萼」
「……っ」
口角を吊り上げ、獲物をみつけた獣のように獰猛な光を宿す赤銅色の髪の男――鋼牙に、静かに標的を定める狙撃主のような視線で萼が答える
「知り合いなのか?」
その様子を傍らで見ていたクロスの視線に小さく首肯した李仙が淡々とした口調で説明を始める
「奴は『鋼牙』。三巨頭の一人、クラムハイドと一緒に十世界に寝返った妖怪で、それまでは姐御と一緒に妖界城に仕えていた男だよ」
「……なるほど」
萼の代わりに説明する李仙の言葉で合点がいった様子でクロスが呟く傍らで、大貴はもういい加減見慣れた真紅の髪の悪魔と対峙していた
「こんなところに来てまで会えるなんて、運命を感じるな」
「そんな運命、何一つ嬉しくないけどな」
紅蓮の言葉に小さく応じた大貴が、自身の力が具現化した刀――「太極神」を顕現させると、それに答えるように真紅の髪の悪魔も自身の魔力が自分の特性に合わせて顕在化した武器である剣を出現させる
「そう言うな。何度も命をやり取りしている仲じゃねぇか」
まるで親しい者同士が交わす挨拶のように、互いに武器を顕現させた大貴と紅蓮が視線と殺意を交差気させて、臨戦態勢に突入する
光と闇が同居する光魔神の神能――「太極」の力と、紅蓮の身体から放出される漆黒の魔力がせめぎ合い、その場にいる全員の知覚を刺激する
「……これが、光魔神の力か」
「光と闇の神能が同率で存在してるなんて……不思議な感覚」
純然たる殺意が込められた大貴と紅蓮の力に、矛津と棕櫚が感嘆の声を漏らしながら目を細める
世界最高位の霊格神格を有する全霊命が放出する意識――殺意や戦意は、神能のそれとは別に、世界に現象として影響を及ぼす。
現に地球では、その霊格によって世界を滅ぼしてしまわないために隔離された空間内で戦闘を行っていたが、霊的に格が高い九世界では地球のような下位世界ほどその力も影響をもたらさない。
人間界で空間隔離が行われたのは、単純に戦場を分けるためのものでしかなく、その証拠にシルヴィアとジュダは通常の人間界世界でその力を振るって戦っている。
つまり、霊格が高い九世界でこそ、全霊命達は容赦なくその身に宿った神に最も近い力を如何なく発揮する事ができるのだ
「瑞希さん、詩織さんをお願いします」
「……いいでしょう」
大貴と紅蓮が臨戦態勢に入ったのを一瞥した神魔の言葉に、瑞希は小さく首肯して魔力の結界を展開して詩織を守護する
瑞希が詩織を結界で包んだのを確認した神魔は、隣にいる自身の伴侶――桜に視線を向けて、共に歩を進め、金色の髪をなびかせる茉莉に対峙する
「……いくよ、桜」
「はい」
身の丈にも及ぶ漆黒の両刃刀を備えた槍――大槍刀と呼ばれる形状の武器を構えた神魔と、薙刀状の武器を優美に構えた桜が魔力を共鳴させるをのを見て、茉莉は自身の武器である槍を顕現させ、魔力と戦意を解放する
「……『神眼』を持つ彼女も同行させているのですね」
瑞希が結界で守護している詩織を一瞥した茉莉が、その涼やかで聞く者の心に染みいる透き通った声で呟くと、その言葉に神魔が目を細める
「やっぱり、その情報はそっちにいってるんだね」
「ええ。そして、神眼の回収も命じられています」
茉莉の涼やかな声は、知覚を強化する事ができる瑞希の結界の力によって、詩織の耳にも届く
詩織の存在の奥深くにまで逃げ込んだ「神器・神眼」は、九世界の技術や全霊命の力を以ってしても摘出する事ができない。それを回収するという事は、詩織の肉体そのものを直接破壊する事を意味している
「……御心配なさらずとも、姫の力があれば彼女を傷つける事無く神器のみを取り出す事ができるはずですよ?」
詩織から神魔達に視線を移し、茉莉は静かな声で語りかける
全ての神器を使う能力を有する姫ならば、詩織の存在に融合してしまっている神眼に直接呼びかけ、真の使用者として摘出する事は確かに可能だろう。しかしそれは、十世界の手に一つ神器を渡してしまう事を意味している。九世界の立場として、それを容認する事など出来る筈もなかった
「だとしても、それは無理な相談だね」
「……そうですか。では、仕方がありませんね」
予想通り――というよりは、型どおりの神魔の答えに、自身の魔力を己の武器である槍に通わせて茉莉が抑制の涼やかな声で言い放つ
「あなた達とこうして刃を交えるのは二度目になりますね。……異なる世界で再会して、また戦う事になるなど、紅蓮さんの言葉を借りる訳ではありませんが、私達の間には奇妙な縁があるのやもしれませんね」
以前九世界でゆりかごの世界と呼ばれる宇宙の中にある地球という惑星で、刃を交えた神魔、桜と茉莉が人間界での邂逅を経て、世界という枠を超えたこの場所で再び刃を交える。――いかに十世界が世界の枠組みを超えて活動する組織とはいえ、決して確率の高い事ではないだろう
「ただの偶然だよ」
しかし、茉莉の言葉を軽く鼻で嗤いとばした神魔は、桜と共鳴させた魔力を解放するのだった
「――『夜行』!」
萼の凛として声が響くと、その腕の中に萼自身の妖力が自らの特性に合わせて戦う形として顕現した武器が出現する。
それは、一振りの太刀。美しい曲線を以って反り返ったその刀身には、波のような刃紋が浮かんでおり、戦うために形作られたはずの武器を一つの芸術の域まで昇華させているように感じられた
「……オイオイ、お前は俺に刃を向ける前に、向けるべき相手がいるんじゃねぇか?」
夜行と呼ばれる太刀を携えた萼を一瞥した鋼牙は、わざとらしく肩を竦めると、嘲るような声と共に目の前にいる妖界城からの使いである美女の背後に視線を向ける
鋼牙の視線の先にいるのは、万人を魅了する色香と美しさをたたえる絶世の美貌を持つ傾城傾国の美女。この街の中心にして、九世界で最も多くの伴侶と子供を持つ妖艶。
「……」
鋼牙の言葉に、屋敷の中から出てきた自身の祖母にあたる人物――「玉章」の妖力を背後に知覚しながら、萼はその唇をわずかに引き結ぶ
かつて共に妖界城で妖界王に仕え、萼よりも早く、萼よりも永くその場所にいた鋼牙は、萼の事情に、ある意味で本人以上に精通していた
「悪魔と恋に落ち、娘をこしらえた実の娘が助けを求めて身を寄せていたにも関わらず、仕方のない事とはいえ妖界に差し出して処分させた、その女をな」
鋼牙の言葉に、萼と玉章の二人が、どこか面影の似た面差しをわずかに翳らせる。
それは、鋼牙の言葉が真実である事の証明であると同時に、二人の心にわずかながらにその事柄に対するしこりが残っている事を感じさせるには十分なものだった
「……っ!」
(悪魔と妖怪の混濁者……!)
鋼牙の言葉で、萼が妖怪と悪魔の混血児――混濁者である事を理解したマリアは、その姿に自身の幻影を重ねて、小さく目を見開いた