谷底の妖艶
「妖界王様は引き籠りなのだ」
妖界を統べる三巨頭と呼ばれる妖怪の一人「乱世」の口から発せられたあまりにも予想を裏切る言葉に、大貴達は目を丸くして固まってしまっていた
(引き籠り? ……それって、あの引き籠り?)
(……なんなんだ!? 妖怪っていうのは、面白い事しかできないのか?)
乱世の言葉に 目を点にして佇む詩織の隣で、妖界を訪れた瞬間から繰り広げられてきた一連の騒動を思い出しながら、大貴は渋い表情を浮かべて肩を落とす
「妖界王様は、この世界にたった一人しか存在しない「始祖」と呼ばれる最強の妖怪。しかし、戦闘能力こそ最強だが、人見知りが激しく、面倒くさがりで、政治は我らに丸投げするという――一言で言えば戦闘力以外は全く役に立たない駄目王なのだ」
威風堂々たる重低音の声であまりにも情けない事を断言した乱世の言葉に、妖界を訪問した九世界の使者たちは、一様に心の中で同情の言葉を向けていた
(……お気の毒に)
闇の全霊命世界を統べる王は、一様に最も戦闘能力が高い者が務めている。妖界を統べる「妖界王・虚空」は、闇の神から最初に生まれた最初にして最強の妖怪。
悪魔で言えば「五大皇魔」、天使で言えば「十聖天」に相当する「始祖」は、この世界で妖界王を務める虚空一人しか存在しない。
しかし、その最強が頂点にいるからこそ、妖界が一定の安定を出ているのは確か。たった一人しか存在しないが故に、その力と存在はあまりにも絶大な効力を以って、妖界に影響を及ぼしているのだ
「……今、お話させていただく事は?」
王の中の王とまで評される「魔界王」を常に見てきた瑞希にとって、妖界王の王としての在り方はあまりにも予想の範疇を超えていたのか、同情と疲労が混じった声で問いかける
「眠っているだけなら、起こして話ができないのですか?」と遠回りに問いかけた瑞希の言葉に、法魚が口元に指を添えて思案気な表情を浮かべる
「難しいわね。この状態の妖界王様は、今までこちらが何をしようと起きた事がないから……確か、以前繭から出てこられたのは、三百年程前だったかしら?」
「さ、さんびゃ……」
ことも無げに言った法魚の言葉に、詩織は思わず声を詰まらせる
最盛期を保ったまま永遠の時を生き続ける事ができる全霊命にとって、三百年など取るに足らない時間かもしれないが、限られた時間しか生きる事が出来ないゆりかごの人間である詩織にとっては、気が遠くなるような年月だ。
三百年前を、まるで「そういえば最近、あの人見てないな」くらいの感覚で言う法魚の言葉に、改めて全霊命と半霊命の感性の違いを思い知らされ、唖然とした様子で、壇上の繭へ視線を送る
「まあ、起こす努力はしてみよう……それよりも、十世界と戦うために貴公らを使っていいと言われているのだが、間違いはないか」
「はい」
大貴が九世界の思惑を知らない事を前提にして、作為的に問いかけているのか、単純に確認の意図を持って問いかけたのか――いずれにしても重厚な声音を発した乱世に、瑞希が恭しい声音で応じる
「――そうか。では、『妖牙の谷』へ向かってもらおう」
「妖牙の谷……ですか?」
聞き慣れない単語に、怪訝そうに目を細める瑞希の言葉を首肯した乱世は、
「あそこには神器がある。それを狙う十世界との小競り合いも何度か起きているのだが、城の戦力を裂きすぎる訳にも行かなくて、辛酸を舐めていたところだ――丁度いいだろう?」
「…………」
乱世の言葉に、瑞希は無言を以って応じる
大貴が九世界の思惑を知らない事を前提にすれば、十世界と戦わせられる可能性が高いという意味で、単純に妖界側の都合で受け取れば、十世界と戦うという意味で「丁度いい」と表現した乱世の言葉に対して、瑞希は無言を以って両方の意味での肯定する
その瑞希の無言の肯定を正しく認識した乱世は、口髭に覆われた口元に不敵な笑みを刻みこんで、その視線を隣にいる女性に向ける
「萼、李仙。彼らの事はお前に任せた」
「かしこまりました、乱世様」
「了解です」
乱世の言葉に、玉座の上に立っていた女性の一人――「萼」が頷き、大貴達の横に立っていた李仙が敬礼するようにして頷く
「……え? あの人、三巨頭じゃないの?」
それを聞いて、沈黙を守りながらそのやり取りを見守っていた詩織が思わず声を漏らす
玉座の上に立っている三人が三十六の真祖から選ばれた現代の執政者――「三巨頭」だと思っている詩織はもちろん、ほぼ同様の認識を持っていたその場にいる全員にとって青天の霹靂のようなものだった。
まさかいくら相手が十世界だとはいえ、三巨頭の一人が大貴達と共に直接出向く事に驚きを禁じ得ない様子の一同に、風に舞う花弁のように優しく降り立った萼が髪に隠されていない左目で微笑を浮かべる
「違いますよ。私はこの城に仕える妖界軍筆頭……即ち、妖界王様と三巨頭様を補佐する役割を持つ者です」
玉座の壇上にいた事と、乱世や法魚と比べてもさほど差がない妖力の大きさの所為で錯覚していたが、萼は三巨頭ではなく、妖界王と三巨頭とを補佐する、いわば宰相のような役割を担う人物。
いかに三巨頭とはいえ、好き勝手に妖界を統治する事ができる訳ではない。
妖界王の意志を組み、世界の情報を把握し、定期的に入れ替わる新たな指導者にこれまでの施政を伝えてスムーズに引き継ぐのが萼の役目だ
(そういえば、この人だけ自分が三巨頭だって言ってないかも……)
風に舞う花弁のように軽やかに歩み寄ってきた萼を見る詩織は、自己紹介の時の事を思い出して思案を巡らせる。
乱世は「三巨頭だ」と名乗り、法魚も「同じく」と自分の身分を名乗っていた中で、萼だけはそういった旨の発言を一切せずにいた。
「では三人目の……」
「三人目の三巨頭は、今は十世界にいます」
三巨頭最後の一人はどこにいるのか――そう問いかけようとした瑞希の言葉を遮り、萼がその問いに対する答えを簡潔に述べる
「――っ!」
(十世界……!)
先程までの穏やかな声音とは違い、どこか硬質な印象を受ける萼の声は、まるで溢れ出しそうな激情を懸命に抑えつけているように思える
(……何か、訳ありか?)
その様子を見て、訝しげな視線を送る大貴の周囲で同様の疑問を覚えたらしい神魔、桜、クロス、マリア、瑞希もそれぞれ何か思惑がありげな視線でその姿を見つめる
(この人、紋様がないのかな? それとも……)
そんな中、神魔が抱いていた疑問は萼の顔だった。
神魔の目的は、あくまでも「十世界を倒して、桜と共に免罪される事」。妖界の事情など本音を言えばそこまで興味がない。
しかし、人形のように整った萼の顔に、妖怪ならば誰もが大なり小なり持っているはずの「妖紋」がない事は大いに興味を惹かれる。
妖紋の色や形状、範囲は個体によってさまざまだが、必ず顔に出るという特徴がある事くらいは知っている。現にこの場にいる妖怪たちには大なり小なり顔面に妖紋が浮かんでいる。
髪に隠された顔の右側にある事も考えられるが、差し当たって神魔が最も気にかかったのは、妖界の事情ではなく、目の前にいる妖怪の素性の方だった
「では、早速妖牙の谷へ向かいます」
神魔の好奇の視線に気づかず――あるいは意図的に意識の外へ追いやって、背後にいる乱世と法魚――現在、この妖界を統べる三巨頭の内の二人に視線を向けた萼は恭しく頭を下げる
「参りましょうか、皆さん」
一言、二人の三巨頭に出発の旨を告げた萼がその身を翻すと、大貴達一行と李仙もそれに倣って玉座の間から出ていく
「……お前達も下がってよいぞ」
「はい」
乱世の視線を受け、玉座の間に待機していた「リシア」、「弔」、「今際」の三人は、それぞれ一礼して部屋を後にする
「――これでよかったの?」
「何がだ?」
玉座の間から自分達以外の存在がいなくなったのを視覚と知覚で確認して発せられた法魚の問いかけに、乱世が視線を向けずに答える
「白々しいのね。あの子を行かせた事よ」
乱世が意図的に自分の問いかけを受け流しているのを理解している法魚は、小悪魔のような意味深な笑みを浮かべる
「鋼牙と因縁浅からぬ萼を向かわせるなんて、まるで踏み絵をかしているかのようではなくて?」
不敵な笑みと共に、試すような口調で訊ねてきた法魚に、乱世はその視線だけを向けて抑制の利いた声で答える
「なぜ、お前がその結論に至ったのか理解に苦しむな。萼は、この妖界城で長年に渡って三巨頭を補佐してきた実力者だ。
出自がどうであれ、その能力は虚空様にも認められた申し分ない人材だ――何より、妖怪の十世界を率いているのが『鋼牙』である以上、実力的に見ても同行者に選ぶのは必然というものだろう?」
どこか白々しくも聞こえる乱世の言葉に、法魚は微笑を浮かべて肩を竦めると、その視線を萼達が消えた玉座の門の扉へと視線を向ける
「ものは言いようね」
「言いがかりだ」
法魚の言葉に、十字傷のような紋様が刻まれた顔をわずかにしかめた乱世は、その身を翻して玉座から降りる
「儂は、萼が妖怪と悪魔の混濁者だからといって、それを理由に虐げるような事はせん――だからといって、幸せを願っている訳でもないがな。それは、妖界を統べる上で必要のないものだ」
「幸せになるのは自由で、なれるかどうかは運次第って訳? ……薄情な人ね」
「普通の事だ」
巨躯を揺らしてゆっくりと歩き去っていく乱世の背を見送りながら、冷ややかな微笑を浮かべた法魚がその身を翻し、ゴシックドレスのような霊衣を閃かせると同時にその場から陽炎のように姿を消す
『…………』
全員が玉座の間から退出し、室内が無人となった瞬間、玉座の上――そこに残されていた漆黒の繭に亀裂が入る。
それは決して卵が割れるように不規則なものではなく、まるで三日月が出現したかのように出現し、次の瞬間、その亀裂はさながら瞼のように開き、その中に隠されていた巨大な眼が大貴達が去った玉座の間の門へと視線を送り続けていた
世界と世界の狭間に漂う巨大な浮遊大陸――十世界の本拠地の一角では、その端正な顔立ちを憂いに染め上げた茉莉が、静寂の中一人で佇んでいた
「浮かない顔だな」
「……死紅魔様」
背後から声をかけてきた死紅魔――十世界に所属する悪魔の№2の姿を見止めた茉莉は、その目をわずかに細めて、まるで逃げるように視線を逸らす
「いえ、気のせいです」
小さく長い睫毛を震わせる茉莉の脳裏に甦るのは、紫怨の言葉と姿。――今でも鮮明に思い出す事ができるほど自身の心と身体に刻み込まれた愛する人の温もりと愛情が疼かせる茉莉の心中は、紫怨の許へ帰りたい、愛されたい、共に生きたいというささやかな願いに塗り潰されていた。
しかし、それができない事を知っている茉莉は、せめてその身体に刻まれた愛する人との思い出だけは手放したくないと言わんばかりに、まるで自分で自分の身体を抱きしめる
「そうか」
決して言葉通りの心情ではない事を分かっていながら、死紅魔は茉莉に慰めの言葉をかける事すらできなかった
《お願いです、命だけは――》
遥か昔、死紅魔との戦いに敗れた茉莉は、もう一度生きて紫怨と再会するために、必死で命乞いをした。
自分を守るために自分の元を離れていった紫怨が帰ってくるまで死ぬわけにはいかない。そんなことをすれば紫怨が誰よりも傷つく事を知っている茉莉には、例え無様でも生き延びなければならない理由があったのだ
《――もう、行け》
自分を切り伏せた死紅魔は、幸いにも命乞いをする相手にわざわざ止めを刺すタイプの悪魔ではなかった。
全霊命には、光闇問わず基本的に二通りの考え方がある。「後顧の憂いを絶つためにも、敵対した相手は確実に滅殺する」者と、「殺すつもりでは戦うが、仮にそれで死ななかったならそれで戦いを終わりにする」者。
事象を意のままに現象として顕現させる全霊命ほとんどの戦いでは相手を殺してしまう事が多いのだが、稀に殺し損ねた場合は大別してこの二通りに分けられている。
また、後者であったとしてもその理由は様々で、命乞いをする女を殺す趣味がないという者、あるいは生かしておいても自分にとっての脅威ではないと考えた場合、もしくはただの気まぐれと理由は定かではない。
いずれにしても、死紅魔が自分を見逃してくれるという以上、茉莉はその場からできるだけ早く逃げ出すつもりでいた
《待て》
しかし、それを遮るように死紅魔に背を向けた瞬間、茉莉の前に立ちはだかった人物がいる
茉莉の前に立ちはだかったのは、短い金色の髪と頭の両側から伸びる四本の漆黒の角を持ち、金色の装甲に縁取られた漆黒の鎧を身に纏った男。
そして、何よりも茉莉を震え上がらせたのはその身に纏うあまりにも強大な魔力。自分が手も足も出なかった死紅魔を遥かに超越し、加えて戦闘時ですらないというのに、魂を切り裂くのではないかと思われるほどの殺気と恐怖を纏っていた
《――ゼノン》
死紅魔の呼んだ男の名を聞いた茉莉は、驚愕と恐怖に声を失わざるを得なかった
《ゼノ……っ、皇魔の!?》
闇の神から最初に生まれし、最強にして原初の悪魔たる五人。――「五大皇魔」と呼ばれる悪魔の中で、最強を誇る魔界王・魔王に次ぐ実力者。
かつて魔界王の座を巡って魔王に破れ、そのまま姿を消していた最強の悪魔。それこそが「ゼノン」だ
驚愕を禁じ得ない様子を見せる茉莉に、それを肯定するような不敵な笑みを浮かべたゼノンは、その視線を背後にいる死紅魔に向ける
《その女、中々腕が立つ。我等のために働いてもらおうではないか》
《――っ》
その後知った事だが、ゼノンは十世界に所属し、そこにいる悪魔たちを統べる者だった。
いかに死紅魔が実力者でも、直属の上司にあたる人物――まして、最強の悪魔の一角を前に異議を唱えることが出来る筈もなく、その目に宿った「逆らえば殺す」という意志の前に、茉莉は成す術もなく十世界へ加わる事になった
(でも私が……彼らがしている事は――っ)
決して望んで入った訳ではない十世界だったが、茉莉は組織に対して好感にも似た感情を抱いている。
その最たる要因は、ほとんどの十世界メンバーがそうであるように「姫」という唯一無二の存在によるもの。そして小さいながらも十世界の小隊を任され、紅蓮やラグナといった仲間たちと接する内に自然と組織に居心地の良さを覚えていた
だからこそ……姫をはじめ、そこに生きる十世界のメンバーと絆を結んでしまったために、茉莉は彼らを利用している自分自身への自責の念を募らせずにはいられなかった
「……死紅魔様」
「何だ?」
茉莉の口からポツリと出た声に、その様子を見ていた死紅魔が静かに応じる。
その美貌を愁いと悲しみで染め上げた茉莉は、まるでここではないどこか遠くにいる別の誰かを求めるかのように視線を彷徨わせる
「ゼノン様の目的は一体なんなのですか? みなさんの忠誠心を利用して、姫にすら使えない神器を集めさせて……」
問いかけるような形を取っているが、茉莉の中ではゼノンの目的に一つの可能性を見出している。
十世界の盟主「奏姫・愛梨」――異端を含めた全ての神に通ずる「神の巫女」と呼ばれる異端の存在の末妹にして、全ての神器を使う事ができる能力を持つ者。
元をただせば、現在十世界に浸透している「姫の御身を守るために神器を集める」という行動の発起人はゼノンだ。確かに神器を集めれば集めるほど姫は強くなり、その身を害される危険が低くなる。
だが、茉莉や死紅魔といったゼノンの息がかかった者は、そこに含まれる真意を承知している。――ゼノンが、十世界が持つ姫への忠誠心を利用し、世界に散らばった神器の中から目的の力を持つものを探しだそうとしている事を。
ゼノンにとって大切なのは、神のごとき強大な力を手に入れられる神器ではなく、全ての神器を使う事ができるはずの姫が使えない「真の神器」を手に入れる事。そして、真の神器を知っていれば、それが何を意味するのかを推測する事は難しくない
「……さぁな。俺もお前と同じで、利用はしても、信用されてはいないらしいからな」
何も言わずとも、自分の推測を正しく認識し、理解してくれていると確信し、問いかけた茉莉の言葉に、死紅魔は金色の瞳を抱くその目をわずかに細めて抑揚のない口調で応じる
その言葉を聞いた茉莉は、その目をそっと閉じて何かを決意したように――あるいは、自分の心を押し殺してしまったかのように、先程までの愁いを帯びた表情を消し去ってその身を翻す
「そうですか……失礼いたします」
「……次は妖界だったか?」
波打つ金色の髪を翻した茉莉は、背中から向けられた雄々しい力強さと、大樹のような安心感を兼ね備える死紅魔の声に小さく首肯する
「はい。……ゼノン様から神器奪取の命令を受けました」
「そうか」
簡潔に応じた茉莉の声に抑制の利いた声で応じた死紅魔は、その姿が見えなくなるまで波打つ金色の髪を持った美女を無言のまま見送っていた
「『妖牙の谷』とは、妖界のなかでも指折りの巨大な渓谷です」
完全に広がる巨大な渓谷を見て、妖界の代表者として大貴達に同行する事になった萼が簡潔に説明する
「お、大きい……谷っていうか地割れ?」
一行の眼下に広がるのは、底が見えないほど深く割れた大地に、その側面の岩壁からさながら牙のように真横に伸びている鍾乳石のような形の岩の数々。
まるで大地が牙の生えた口を大きく開いているかのような、幅も深さも把握しきれない渓谷は、「妖牙の谷」という名前の由来をそのまま表現しているかのように思える
「では参りましょう」
「ああ」
萼の言葉に頷き、大貴を筆頭に、神魔、桜、クロス、マリア、瑞希、詩織、李仙が大地に生じた裂け目へと呑み込まれるように、飛び込んでいく
(……かなりの数の妖力があるな)
妖牙の谷と呼ばれる大地の裂け目の中に、大小様々な無数の妖力を知覚した大貴の前方で、着物のような霊衣をはためかせながら萼が静かな声で言葉を発する
「ここは、『玉章』という妖怪の縄張りで、妖界王様のご意向によって、神器の守護をお願いしております」
(なるほど、それで十世界の人達も神器を奪えないのね……)
萼の説明に、神魔の結界に守られながら同行する詩織は内心で納得しながら、左右の壁から牙のように突き出す鍾乳石のような岩を見回す。
谷とは言っても、その端から端までの広さは軽く数千キロメートルにも及んでいる。遥か遠くに見える牙のような鍾乳石が生えた岩壁の中を飛翔していく様は、まるで巨大な怪物の口に飛び込んでいくような錯覚を覚える。
全てを超越する神速で移動する一行は、ほとんど刹那の時間でながら、どこまで続いているのかも定かではないほど深い谷の深淵部にまで到達する
「……わぁ、光ってる」
谷の深淵部に足を踏み入れた一行を出迎えたのは、一面に生えた光輝く苔のような植物に覆われた岩壁と地面、そしてその上に作られた人工的な巨大都市の姿だった。
まるで光の絨毯の上に作られたような巨大な都市は、白地の壁に漆黒の瓦が敷き詰めれた日本家屋を思わせる構造。母屋らしき高さ数百メートルはあろうかという屋敷と繋がるように無数の離れが並んでいるその様は、一つの巨大な屋敷のようでもあり、巨大な都市のようでもある。
自ら発光する苔のような植物に覆われた街の大地は、まさに光の絨毯と表現するにふさわしく、宙空に舞う光る胞子が蛍のように舞うその幻想的な光景は、思わず息を呑む程に美しいものだった
「でも、なんかちょっとちぐはぐな感じ」
「……全霊命の街だからだろ?」
周囲を見回して、どこか訝しげに言う詩織の言葉に警戒心を解く事無く大貴が応じる
明らかに高度な文明によって形作られた街だが、そこに建造物以外の文明的な産物が見受けられないのは、一重にこの街に暮らしているのが妖怪――あらゆる文明を超越する全霊命だからだろう。
そんな事よりも、大貴が警戒しているのは、ここに暮らしているであろう数え切れないほどの妖怪達が様々な感情の宿った視線を向けている事だった
(明確な殺意はない……けど、警戒はしてるみたいだな)
上空から突然現れた天使と悪魔と異端神の混じった集団に対して、警戒しない方が不可能というものだろう。それが分かっている大貴は周囲の妖怪達に気を配りながら、向こうの出方を伺う
「お前ら下がれ」
「兄貴……!」
その時、響いた男の声に妖怪たちの人垣が真っ二つに割れ、そこから一人の妖怪が悠然と前に歩み出る
引き締まった細身の身体に、額に漆黒のバンダナを巻いた燃えるような炎色の髪。妖怪特有の黒色の紋様に彩られた精悍な顔立ちを持ったその男は、男の強さと野性的な色香を放ちながらその翠色の瞳でその場にいる来訪者達を見回す
「お久しぶりです萼様。直々にお出ましいただけるとは光栄ですね」
「お久しぶりですね、『矛津』さん。玉章さんはいますか?」
萼の素性を知っているらしい矛津と呼ばれた炎色の髪の男は、その言葉に同性すらも魅了してしまうのではないかと思える不敵な笑みを浮かべて怪しげな笑みを浮かべる
「ええ、奥にいますよ」
「そちらは?」
「この世界へのお客様です」
萼の背後へ訝しげに視線を送った矛津の言葉に、妖界を統べる役目を与えられた美女は意味深な笑みを浮かべる
確かに、事情を知らされていない者からすれば普段全くと言っていいほど交流がない九世界の――まして敵対する存在である光の全霊命がいることなど異常事態でしかないだろう
「……なるほど。では、こちらへ」
ここで追及するのが自分の役目ではないと判断したのか、その場で身を翻した矛津に先導され、大貴達は萼を筆頭にその後に続く。
(そのまま入るんだ……)
建造物そのものは和風の建造物に似ているというのに、靴を脱がずに奥へ入っていく事に若干違和感を覚えながらも、そう言う者なのだろうと自分の中で納得した詩織はその後に続く
「なんか、時代劇みたいね」
「……ああ」
街の中心にある城のように巨大な母屋の中へと入ると、内部は襖に仕切られた無数の部屋と通路が縦横無尽に交差しており、まさに時代劇に出てくるような城のような印象を覚える。
至る所に埋め込まれた柱に開いた穴から発せられる、炎のものとも、電気のそれとも違う光に照らし出される廊下を矛津につられるまま一直線に歩いていくと、一同の前に他のものとは一味も違う豪華絢爛な襖に囲まれた部屋へと辿りつく
「こちらです」
矛津の言葉を聞きながら、大貴はその襖の向こうから漂ってくるあまりにも強大な妖力を知覚し、身を強張らせる
意図的に威圧しているのではないのだろうが、普通にしているだけで溢れ出す強大にして巨大な妖力の波動が、襖の向こうで鎮座していた
(この妖力……相当強いな)
「……母上。お客様がおいでです」
「母上?」
「お母さんなんだ」
その襖の前で膝をつき、中を伺うように声をかけた矛津の言葉に、大貴と詩織が小さく目を見張る
「珍しいお客様ばかりね……入って頂きなさい」
「はい」
矛津の言葉に、打てば響く様なタイミングで襖の向こうから返されたのは妖艶な色香を纏った涼やかな女性の声。こちらから相手の妖力の大きさが知覚できるように、向こうからもこちらの力を知覚できる
魔力が三つに、光力が二つ、太極と界能が一同に会している事を「面白い」と表現したその女性の言葉に、小さく頷いた矛津は、大貴達が真っ先に中に入れるように横に移動して襖を開く
「――っ!」
「いらっしゃい。ようこそ、というべきかしら?」
襖が開くと同時に、大貴達の視界に映ったのは、一面畳張りの室内とその中央に敷かれた真っ赤な布団の上に横たわる一人の女性だった。
大貴達を出迎えたのは、癖の無い濡れ羽のような漆黒の髪を揺らし、それとは対照的な雪のように白い肌を持つ美女。桜のような近寄りがたい神秘的な美しさではなく、異性を惹きつけて止まない妖しい蜜のような色香を纏っている。
その色香を目元を彩る緋色の妖紋と、妖艶な唇の紅が引き立て、黄金比で作られている様な体型を際立たせるチャイナドレスに似た衣の上に、着物のような上着を羽織った妖艶な美女は、襖の向こうで立ち尽くしている大貴達に慈愛に満ちた穏やかな微笑を向ける
(わぁ……色っぽい)
見ていると引き込まれて、抜け出せなくなってしまうような不思議で怪しげな魅力を持った女性を前に、同性であるはずの詩織も思わず見惚れてしまう
桜やマリア、これまでに出会った全霊命達の例にもれない美貌を持つ女性だが、その身から漂う色香は、詩織が今まで出会った事のない危険で、しかし甘美な匂いを醸しだしている
「お久しぶりです、玉章さん」
「久しぶりね、萼ちゃん……いつ以来かしら? お城から出てくるなんて、珍しいわね」
小さく黙礼した萼に妖艶な笑みで応じる玉章。二人の視線が交錯し、しばしの沈黙が場を支配する
(……なんだ? この二人、訳ありか?)
一触即発という訳ではないが、何か意味ありげな視線を交わす二人に、大貴をはじめその場にいる全員が怪訝そうな表情を浮かべる。
唯一の例外は、同じく妖界城から遣わされた李仙だが、肝心の本人は玉章の色気に当てられ、鼻の下をのばしてだらしない表情で食い入るようにその姿を見ている
(いつ見ても、エロい人だね~ウヒョヒョヒョヒョ)
誰の目にもいかがわしい事を想像しているのが一目で分かる表情を見せる李仙に、説明を求めようとした瑞希は冷ややかな視線を送る
(……駄目ね、この人)
「それで、そちらのお客様は?」
萼から視線を逸らした玉章が、甘美な響きを持つ声で問いかけると、一度目を伏せた萼は、気持ちを切り替えて静かな声音で応じる
「ええ。そのお話で伺いました」
「――なるほど。話は分かったわ。こちらとしても願ってもない事ね、戦いの度に家族が傷つくのは私も心苦しかったところなの」
一通り萼から説明を受けた玉章は、大貴達の事情を察して妖艶に微笑んで腰を上げると、ゆっくりと大貴の下に歩み寄る
「それにしても、この子が光魔神とはねぇ……中々可愛いじゃない」
「――っ」
吐息がかかるほど近い位置で見つめられ、大貴は反射的に顔を赤らめる
(この人、動きが一々エロい! なんか、絶対変な事しそう!!)
まるで睦み合う男女のように身体を絡める玉章の妖艶な動きに、それを旗目で見ている詩織も、伝播したように顔を赤らめる
「あまり、からかわないでいただけますか?」
「からかっているつもりはないのだけれど……まあ、いいわ。矛津。この子たちの面倒を見てあげて頂戴」
冷ややかな視線を向けてくる萼の言葉に、肩を竦めてみせた玉章は大貴から身体を離して、一同の背後で先程までのやり取りを見ていた矛津に視線を向ける
「はい」
「あなた達も、何かあれば、矛津に聞いてくれればいいわ。別に、私の所に来てくれてもいいけれどね、もちろん、そちらの天使の子も」
「あ、ありがとうございます」
意味ありげな熱の込められた視線を向けられ、反射的に声を上ずらせたクロスを横目に、マリアが視線を逸らす
「……ふぅん」
それを見て微笑ましげに目を細めた玉章は、視線を萼に向けて優しく微笑みかける
「矛津。皆さんを開いているお部屋に案内してあげなさい。私は彼女とお話があるから」
「はい。では、先に参りましょう」
萼を指して微笑んだ玉章の言葉に小さく頷いた矛津は、大貴達に声をかけて部屋を後にする
全員が部屋を出て、その力が遠く離れていくのを見届けた玉章は、その視線を萼に向けて優しく微笑みかける
「……あなたもここに滞在していくのでしょう?」
「はい」
「そう。ではゆっくりしていくといいわ――私は、ずっとここにいるのだから」
微塵も揺れる事のない妖艶な色香に満ちた声で紡がれる言葉。――玉章の言葉の意味を正しく把握している萼は、髪に隠れていない左目を一度閉じて、どこか悲しく切ない微笑を浮かべる
「お心遣い感謝いたします――ですが、私はあなたを殺しませんよ」
それとほぼ同時刻、矛津に連れられて屋敷の中を歩く中、詩織がたまりかねたように背を向けて淡々と歩を進める炎色の髪を持つ妖怪に声をかける
「あの……萼さんと玉章さんってどういう関係なんですか?」
(なんでうちの姉貴は、こうも平然と初対面の人に話しかけられるんだ?)
さりげない世間話のつもりなのだろうが、どちらかと言えば人と親しくなるのに少々時間がかかるタイプの大貴は、双子の姉の馴れ馴れしさ――友好的な態度に感心しつつ、そのやり取りに耳を傾ける
「……随分と無神経な質問をされますね?」
そして、その言葉に先頭を歩く妖怪から返されたのは、冷ややかな声音に彩られた言葉だった
「すみません」
矛津が殺気や怒気を発した訳ではないが、訊いてはいけない事を訊ねてしまったらしい事に詩織は反射的に半身を退いて、わずかに怯えたような声で謝罪する
「いえ、別に怒っている訳ではないのですが……」
詩織の声に恐怖の色が混じった事に気づいて、気まずそうに苦笑した矛津は、それによって全人の意識と視線を集めてしまった事に気まずそうに顔をしかめ、やがて、根負けしたように一同に背を向けたまま、躊躇いがちに口を開く
「今は亡き萼の母君は、母の実子――つまり、彼女は母の孫なのです」
「――……っ!」
矛津の口から語られた事実に、その場にいた全員が目を瞠る
さすがに李仙もそれは初耳だったらしく、目を丸くしながら「萼様が、玉章様の孫……確かに、エロい体つきはよく似ている」などと真剣な面差しで呟いている
まったく緊張感が感じられない言葉を呟いている李仙に苦笑を浮かべる一同の中、ここまで話を聞いたのならばとばかりに、瑞希が抑制の効いた声で問いかける
「それだけ、ですか? ……失礼ですが、あの二人の間には何か特別な感情があるように見受けられましたが」
その質問に、矛津は答えない。
答えるのを躊躇い、しばし逡巡していた矛津だったが、やがて意を決したように淡々とした口調で言葉を発した
「祖母と言っても、面識はあまりありませんからね。何よりも複雑なのでしょう――自分の娘を……母を見殺しにした、玉章を祖母と慕う事が」