天使の姫
アースの力によって作り出された世界と世界を繋ぐ世界の扉を通り抜けると、そこには目を奪われるほど澄み切った青空が広がっており、眼下には美しい雄大な大自然と、白亜の街が広がっている
「ここが天界……」
「そうだ」
小さな声で独白した詩織の言葉に、クロスが抑揚のない言葉で応じる
その表情には久しぶりに故郷へ帰還した喜びのようなものは感じられず、ただ戻ってきたという事実をその風景を見回して再認識しているだけのように感じられる
「……意外だな」
「何が?」
周囲を見回していた詩織は、眼下にある一点――白亜の街を見下ろしていた大貴の独白を耳にして、小さく首を傾げる
光魔神の姿で天界へと足を踏み入れた大貴は、左右非対称色の翼を広げ、隔絶した能力を持つ視力で眼下の街をくまなく見つめながら詩織の問いかけに答える
「結構文明が発達してるんだな。……」
だが、大貴の答えは詩織に向けられたものであると同時に周囲にいる天使や悪魔たちに説明を要求する問いかけでもある
(天使……じゃないな。天使に似てるが、あそこに住んでるのは半霊命か)
全霊命として超絶的な能力を持つ大貴の非対称色の眼には、眼下に広がる白亜の街に暮らす「翼の生えた人間」と、その生活がはっきりと映し出されている
眼下の街に暮らしているのは、天使のような純白の翼を有しながらも、天使よりも人間に近い生命体。その霊格を知覚すれば、それが全霊命ではなく半霊命である事も一目瞭然だ
何よりも不自然なのは、眼下に広がっている街で暮らす人々の高度な文明だ。上空から見下ろしている限り、車やバイクに近い乗り物や、機械仕掛けとおぼしき道具の数々も見て取れる。その文明は、遠目に見ている限り地球よりも確実に高い
「何言ってるの? 人間界だってそうだったんだから……あ」
違和感をぬぐえないといった様子の大貴の質問に、その意図を掴みあぐねて怪訝そうな表情を浮かべた詩織は、ふと過去の会話を思い出して目を丸くする
「気づいたか? 前に神魔達が言ってただろ? 『全霊命は強すぎて文明が発達していない』って」
「そう言われてみればそうかも……」
大貴の言葉に、かつての会話を思い出し、詩織は絶句した様子で眼下に広がっている白亜の街を見下ろす
先程まで九世界でも屈指の技術立先進世界である「人間界」にいたために先入観を持っていたが、神に等しき世界最高位の霊格をもつ「神能」の力を持ち、老いもなくすべてを力で支配出来てしまう全霊命は、世界最強の存在でありながら、技術などはほとんど発達していない
その事を完全に失念していた詩織とは異なり、その会話をはっきりと記憶していた大貴は、眼下に広がっている高度な文明を持つ街に意外な印象を覚えていた
「ああ、それは天使の街じゃない。『天界人』の街だ」
その言葉に、大貴が光魔神としての記憶を失っているため、九世界に関する知識が完全に欠落しているという情報を横目で確認したアースが簡潔に説明する
「?」
アースの言葉に、さらに怪訝そうに首を傾げた大貴と詩織を見たマリアは、「そんな説明では分かりませんよ」とクロスの実兄である最強の天使に声をかけ、静かな声でその言葉を補足する
「人間界にはいなかったので知らないのも無理はありませんが、天界人は『人属半霊命』と呼ばれる、人間に似た半霊命です。
この世界にはそれを創造した『神の意識』が浸透していて、各世界による進化や変化の差異、特定種族の有無はあれど、生物の形態は極めて似通っています」
その説明に「あぁ」と小さく声を漏らした大貴とは対照的に目を点にした状態でいる詩織に、マリアは要点をかいつまんで簡潔にまとめる
「……要は、世界にいる半霊命は、世界を創造した神の力の影響で似通っていて、ある世界にはいて、ある世界にはいない種族がいるという事です」
「ああ……確かに地球にはドラゴンとかいませんしね」
マリアの言葉にようやく合点がいったらしい詩織は、晴々とした様子で手を合わせる
世界に存在するすべてのものは神から生まれた。天使や悪魔は、それぞれ光と闇の神の力に列なる「ユニット」であり、その姿は神そのものを模したもの。その証拠に人間界の人間達は、その神である「光魔神」の姿を元にしている。
ゆりかごのような例外的世界は別として、九世界に存在する生命体は、世界を創造した神の力の影響を少なからず受けており、全ての世界に存在する半霊命は、その根幹の部分では同一の存在であるといえる
「余談ですが、人間界の半霊命である『幻獣』は、『原獣』から派生した呼称で、世界に存在するあまねく半霊命の原型だと言われています」
「……幻獣がそれぞれの世界の環境に合わせて進化したって事か?」
眉間にしわを寄せた難しい表情で大貴の言葉に、マリアは小さく微笑んで答える
「そうですね、そういう認識で構いません」
地球でも環境に合わせて生物が適応していくように、それぞれの世界に合わせて幻獣が適応した姿が魔獣や聖獣といった半霊命だと考えている大貴の考えは、間違いではないが厳密に言えば間違っている。
世界に満ちる神の意志は、生命体の形を定め、その存在を系統化させている。世界に存在する全ての世界の中で、世界を構築する光と闇の力の割合が等しいのは人間界だけ。
つまり、人間界に存在する半霊命は、九世界において光と闇の中間に存在するものであり、その中庸性を指して「原型」と呼んでいる
「つまり『人属半霊命』とは、魔界なら『魔獣』、人間界なら『幻獣』といった各世界に住んでいる半霊命の中でいわゆる『人型』をしたものの総称だ。
だからあの街に暮らしているのは、天界の半霊命である『聖獣』の人型半霊命――『天界人』って事になる」
「なるほど、天界出身の人間って事か……って事はあんまり天使と交流ないのか?」
「……皆無ってほどじゃないが、ほとんどないな」
天界に高度な文明を持つ半霊命がいるにも関わらず、全霊命の技術力が低いという事は、その間に交流がないのではないかと考えた大貴の問いかけをクロスが肯定する
同じ天界に住まう天使と天界人でも、全霊命と半霊命は異なる存在であり、互いに不干渉を貫いている。――もっとも、交流をしようにもあまりにも強すぎる全霊命にとって、技術力の必要性を見出す事は難しいのだろうが
「……だろうな」
そこまで考えて、全霊命と半霊命の間にある大きな認識と力の差を改めて感じている大貴の横から神魔が言葉を挟む
「ちなみに、人属半霊命にもいくつか種類があって、人間界の人間に限りなく近いものから、ただ獣が直立歩行しているだけの種族まで色々なのがいるし、『世界を紡ぐ絆』っていう世界同士の強い交流を持っているから人間界や全霊命とは違った文化があって面白いよ」
一口に「人属半霊命」といっても、人間界の人間と外見では区別できない程形状が似た種族や、天界人のような有翼種、あるいは半身が獣になっているものまで、外見は多岐に渡り、中にはただ人の形に近いというだけのものもいる。
人間界には人間が存在していたためか、特に文明を築くほど高度な知性を持つ人属半霊命は存在していないが、他の世界には最低一種類はそういった種族が存在している。
何よりも特筆すべきなのは、人属半霊命は九世界とは別に、世界に無数に存在する同じ半霊命世界による「世界を紡ぐ絆」と呼ばれる同盟を築き、異なる世界同士での文化、経済、技術交流を行っている事にある。
ここに人間界が加入していないのは、例え半霊命であっても神の直系という極めて全霊命に近い出自と、半霊命として人属半霊命の力を圧倒的に上回っている人間を同胞とみなしていないためだ
「そうか……機会があったら見てみるか」
神魔の説明に、眼下に広がっている白亜の街を見下ろした大貴が小さく呟くと、その様子を見ていたアースが不意に視線を動かす
「話が逸れてしまったが、丁度いい時間だ。あれが天使の王――『天界王・ノヴァ』様が住まう『天界城』だ」
アースの声に促された詩織が視線を移すと、そこには天界の空にある何の変哲もない純白の雲が浮かび、天頂で輝く神器・神臓の太陽光に照らされたどこまでも果てしなく広がる空があるだけだった
「……?」
何もない虚空に詩織が首を傾げた瞬間、まるで頃合いを見計らっていたかのように白雲が引き裂かれ、その中から巨大な城が姿を現す
「なっ……!?」
絶句する詩織を筆頭に、天界の来訪者と帰還者を白雲を切り裂いて出迎えたのは、天に浮かぶ巨大な白亜の城。
九世界では珍しくもない天に浮かぶ大陸をそのまま城へと作り変えたそれは、詩織の視界に収まりきらない程に巨大。何者かの手によって造られたとは思えないほど規格外の大きさを誇る天空大陸にして城塞そのもの。
一点の曇りもない白を基調とした白亜の外観を陽光に輝かせ、そこに施された金色の装飾を煌めかせるその様子は、城でありながら神々しいまでの神殿をも彷彿とさせる
何よりも一同を驚かせたのは、その桁外れの大きさだ。雲を切り裂いてその姿を現した天界城は、その場にいる全員が、蚤どころか微生物や原子になったのではないかと錯覚するほどに大きく、もはや巨大というよりも、一つの世界が丸ごと動いていると表現した方が適切に感じられる
「これが……天界のお城」
「こんな馬鹿でかいものがほとんど知覚にかからなかった!? ……結界の類か?」
光の輪のような結界で包まれた巨大な天空城が、眼前に出現したのを見て絶句する詩織の言葉に、驚愕を隠しきれない様子で大貴が呟く
「ああ、天界城を覆う結界は内界と外界を阻む境界。世界を超えて知覚ができないように、あの結界は内側の力を外側に漏らさないための結界だ」
大貴の言葉にクロスが抑制の利いた声で答える。
いかに全霊命の知覚能力でも、世界を超えて対象を知覚する事は出来ない。空間隔離によって作られた仮初の空間ですら、意識して知覚しない限り、外から中、中から外を知覚する事は難しい
天界城の周囲を覆う結界は、その空間隔離をさらに強化したような代物で、結界の内側と外側を別の世界として隔離し、知覚を妨げる事ができるのだ
「そんな事ができるのか?」
「天界城の中心には、この結界を発生させる神器があるんだよ」
意識すれば確かに、結界の向こうに数え切れないほどの光力を感知する事ができるが、ほとんど判別できない程巧妙に知覚を妨害する結界を見て信じ難い様子で声を漏らした大貴に、神魔が簡潔に応じる
「……なるほど、神の力か」
天界城の結界は世界で唯一無二の代物。その発生源が人間界で愛梨が見せつけた神器のような力によるものだと考えれば合点がいく
「正確には、神器から垂れ流されてる力を結界に転用しているだけで、扱ってる訳じゃないんだがな」
神魔の言葉に納得している大貴に、横から言葉を向けたクロスがその純白の翼をはばたかせて宙を滑るように移動する
天界城を包む結界は、その中枢に安置されている神器から漏れだしている力を利用したものであり、神器そのものの力には程遠い。
誰にでも使える訳ではない神器だが、何かの影響で稀に半分覚醒したような状態になる事がある。それは例えば適合者との共鳴であったり、あるいは創世の時代に神の力の影響を受けた事による半覚醒状態を継続しているなど理由は様々だ。
天界城の結界を作り出している神器は、そうして半分力を発動している状態になったものを天使の神能――「光力」によって利用しているものだ
「待たせてすまないな。天界城に入るには、『門』をくぐらなければならないんだ……こっちだ」
特異な結界で阻まれているために、天界城に入るためには結界の穴となっている『門』と呼ばれる場所を通り抜ける必要がある。
無論、中途半端な状態で施された結界である以上、一定以上の力を持つ全霊命になら力づくでその結界を破る事が可能だが、そんな事をすれば大問題に発展するのは言うまでもない。
「この結界は、幾度となく光と闇との戦いで我々闇の軍勢を阻んできた忌々しいものとして知られているわ……それをこうして通り抜けられるというのは、少々複雑ね」
結界の表面に設けられた金色の金属製の円形の扉へ向かいながら、瑞希がその凛々しい目をわずかに細めて抑制の利いた声で独白する
今は十世界という共通の敵のために一時的な協定を結んでいるが、本来光の存在である天使と闇の存在である悪魔は、殺し合う事を宿命づけられた存在同士でもある。
かつて悪魔の戦力を阻んできた神の結界を、こうして通り抜けられる事に十世界という存在の皮肉さと共に複雑な色を浮かべた表情で憂いた瑞希は、静かに目を伏せる
「――もっとも、私は天界城まで攻め入った事はないから、話に聞いただけなのだれどね」
「……はあ?」
自嘲するように笑みを浮かべた瑞希の言葉に、詩織が首を傾げ、神魔達も視線だけを送って言葉通りではないその心情を推し量ろうとする
「開けろ」
瑞希の意味深な言葉に全員が視線を送っていると、天界城を覆う結界の入り口である「門」へと到達すると、アースがその扉に向かって静かに命じる
同時に金色の金属で形作られた直径数百メートルはあろうかという巨大な円形の門が渦を巻くように開き、その内側への道を大貴達一行の眼前に曝け出す
「中へ」
アースに導かれて門をくぐった瞬間、神聖で清廉な力の波動が、その場にいた全員の知覚を純白の光で塗り潰す
「――っ!」
神器の力を利用いた結界によって、知覚を限界まで遮断している結界の内側は天使の王が住まう天界の中心。必然的に存在する天使の実力者達が無意識に放つ光力の重圧が、光の束となって知覚を染め上げて押し流していく
「……これは」
「さすがは天使の本拠地。馬鹿でかい光力がいくつもあるね」
天界城の中に満ちる清らかで穢れない力の波動に目を瞠る大貴の後方で、初めて天界の中心に足を踏み入れた神魔と桜、瑞希が神々しい光の力に目を細める
(外からじゃわからなかったけど、この門分厚い……門っていうか、金庫かトンネルみたい)
神魔が展開する結界と、出発の時にヒナから貰った装霊機の拡張データの中に入っていた霊結界に身を包む詩織は、見た事もないような巨大な門に内心で驚愕しながら好奇心に満ちた目で周囲を見回す
門の内側にいた門番とおぼしき天使達の視線を受けながら、蛍光色の光に照らされるトンネルと見紛うばかりの厚さ数十メートルはある門を抜けると、そこには遥か彼方まで続く長大な街路と公園のように開けた空間が広がっていた
「……っ」
(すご……)
城とはいっても、天界城は天に浮かぶ巨大な大陸そのもの。その広さは言葉で言い表す事すら困難な程で、とりあえず視界に映る範囲は全て城の一部であり、その一角に過ぎないという事だけしかわからない
(人間界のお城も大きかったけど、このお城はもしかしたらもっと大きいかも。端から端まで行くのに何年かかるだろ……)
あまりの大きさに驚愕を隠せない様子で周囲を見回す詩織の視界の横で、アースが遥か先を指差して口を開く
「あそこに見える一際高い建物が、天界王様がおられる『天王宮』だ」
淡々とした口調で言葉を紡ぐアースが指差すのは、この巨大な天に浮かぶ城の中で最も高い塔のような建造物。
周囲と同様に白亜の外壁と金色の装飾を施された、山よりもはるかに高いその建物は、さながら神殿や教会を彷彿とさせ、この城内でも特に目を引く建造物だ
「あそこまで一気に飛ぶぞ」
翼を広げたアースの言葉に続いた大貴達全霊命勢は、光や万象すらも超越する神速で天界城を一直線に横断し、天に浮かぶ大陸城の中心である巨大な塔の許へと飛翔する
(近くで見ると本当に大きい……塔っていうか、壁? みたいな……)
神魔の結界で守られている詩織は、結界の影響によって知覚が引き延ばされ、神速で飛行する中でも外の景色を普段と同じように見る事ができる
光すらも及ばない神速域で、どんどん巨大になっていく天界城の中枢たる建造物を見る詩織は、距離が縮まっていくに伴って明らかになっていくその大きさに内心で絶句していた。
門から入った段階で、それが巨大な建造物である事を推し量る事は造作もなかった。だが、あまりの大きさにその全容を把握できない詩織には、アースが「天王宮」と呼んだ建造物の巨大さは想像を絶するものだった
その大きさの比較を例える言葉はない。――詩織がそう感じる程に天界の中心である宮殿は大きく、あえて例えるなら惑星と砂一粒ほどの大きさの差があり、その全容が詩織の視界に収まる事は無い。
そして、人間界城と同様にそれほど巨大でありながら継ぎ目が一切見えないその外壁は、まるでそれが最初から一つの建物だったかのように錯覚させるには十分な存在感を有している
「大きすぎてなんか現実感がないです。まるで空を見てるみたい……」
視界の一面を埋め尽くす天王宮を、その周囲を取り囲んでいる城壁のような門の外から仰ぎ見た詩織は、空が白と金に染まったような光景に、思わず愕然とした声を漏らす
あまりにも巨大すぎて、本来視界に映るべきはずの空の青を全て遮っている巨大な建造物を見ながら、しかしそれ自体が光を放っているのではないかと錯覚するほど、陽が遮られていない風景に眼前の巨大建造物の持つ神秘的で幻想的な存在感が見て取れる
「この門をくぐれば天界城だ。お前達の来訪はすでに行き届いているが、あまり目立った事はしないでくれよ」
天を貫く塔を取り囲む城塞のような門を前にして背中越しに語ったアースの言葉が、自分達闇の全霊命に向けられたものであることを理解している神魔達は、互いに視線を見合わせて小さく頷く
「分かっています」
「すまないな」
一時的な協定はとはいえ、世界の創世当時から争い続けてきた光と闇――天使と悪魔の間にある確執と因縁をなかった事にする事は出来ない。天使をはじめとする光の側との存在との関係をいかに波立たせないかも重要な事だ
「大変ですね、神魔さん」
九世界の事に疎い詩織でも、天使と悪魔の中が芳しくない事は想像に難くない。
今まで敵として接し、殺し合ってきた相手と親密な関係を築く事の感情的、精神的な難しさを気遣って声をかけた詩織の言葉に、神魔は詩織の見慣れた温和な笑みを浮かべる
「詩織さんもね」
「……はい」
神魔の言葉を、「九世界非干渉世界であるゆりかごの世界出身である自分も気をつけなければならない」という意図で受け取り、詩織は小さく頷いてアースを筆頭に門の中へと入っていく神魔達の後に続く
この時、詩織と大貴だけが知らなかった。九世界が二人に告げていないゆりかごの真実を――
天王宮と呼ばれる天を衝く塔を囲む城壁に設けられた門から中に入ると、そこに広がっているのは塔を取り囲む公園のような庭園。
人工的な建造物と豊かな緑が調和し、男女問わず数え切れないほどの純白の翼をもった天使が戯れるその光景は、まさにこの世の楽園と呼んでも過言ではないものだった
「わぁ……天使が一杯」
「天界なんだから当然だろ」
眼前に広がる神話の一コマのような風景を前にして、歓喜と興奮に満ちた声で呟いた詩織に、大貴が呆れたように言う
「そういう問題じゃないでしょ!?」
この世界が天界であり、ここが天使達の本拠地の中心である事を考えれば、天使がいる事など何一つ疑問ではない。
そんな事は百も承知で言っているというのに、この幻想的な光景に対しての感動を台無しにするような双子の弟の言葉に、詩織は呆れたようにため息をつく
「そんな事じゃ、ヒナさんに嫌われるよ?」
「……何でここでヒナの名前が出てくるんだよ」
不意に婚約者候補である新たなる人間界女王の名を出され、大貴が照れ臭そうに視線を逸らす
「だって、ヒナさんが今、私の義理の妹に一番近い人だもん」
照れ隠しを兼ねて、ややつっけんどんな声で答えた大貴の言葉に、詩織は得意満面の表情でさも当然のように応える
「姉貴が義理の姉!? ……ヒナも気の毒だな」
「どういう意味かしら?」
しかし、その言葉を一笑に伏した大貴に、詩織が不満を露にした声音で、満面の笑みを浮かべる
確かに、大貴とヒナが結ばれるような事になれば、たとえゆりかごの世界の人間であろうと、詩織がヒナの義理の姉になるのは間違いない。
しかし、大貴からすれば人間界を統べる女王となったヒナの義理の姉が詩織になると言われても、違和感を拭えない。まだ、その逆ならば納得できるのだが。
双子の弟に鼻で笑われている事に、引き攣った笑顔を浮かべる詩織に、大貴はさも平然とした口調で言い放つ
「そのままの意味だろ」
視線を逸らす大貴とそれを恨めしそうに半目で睨みつける詩織。そんな二人のやり取りを横目に、神魔と桜が顔を見合わせて微笑む
「仲がいいですね」
「そうだね」
アースに連れられ、天界王がいる巨大な塔へ向かって歩いていた大貴達一行を出迎えるように一陣の風が優しく吹き抜ける
『――――』
「……!」
毛先を軽く撫でるようにそよ風が吹き抜けた瞬間、その場にいた全員が小さく目を瞠って歩みを止める
先程まで言葉を交わしていた詩織と大貴ですら言葉を失い、周囲を見回すようにして一筋の風が運んで来た「もの」に耳を傾ける
「なに、今の……?」
「……歌?」
優しく吹き抜けたそよ風が運んで来た声――一定の旋律を刻む歌を耳にして詩織と大貴は、まるで魂を抜かれたかのように立ち尽くして懸命にその歌声の出所を探す
風が運んできた歌声は清流のように住みきっており、まるで神の福音の様に神々しく、聞く者の魂を虜にしてしまうような魅力と、心をつかむ旋律を兼ね備えており、その声によって紡がれる歌は、それを聞いた者の心を一瞬で歌に取り込んでしまうほどの力を有していた
「わぁ……綺麗な声。それに、凄く素敵な歌ですね」
文字通り心を洗い流すような歌声に耳を傾け、表情を綻ばせる詩織の隣で、その歌に耳を傾けていた桜と神魔が、どこか興奮した様子で事を場交わす
「この歌……神魔様」
「うん……『歌姫』の歌だ」
驚きというよりも歓喜を滲ませる神魔と桜の姿は、その歌を聴けた事に対する喜びを如実に表してておりその歌声を心に刻み込もうとしているかのようにさえ思えた
「……?」
そんな神魔と桜の様子に怪訝そうに大貴が視線を向けた先は、塔の周囲を取り囲む庭園に植えられた一本の樹のの根元に咲く、緋色の花弁と純白の葉を持つ一輪の花
しかし、数歩その花に歩み寄った大貴は、それが花ではない事に気づく。引き寄せられるように数歩それに歩み寄った瞬間、朱花から紡がれていた歌声が止まり、その花――夕焼けの空を思わせる鮮やかな朱色の髪をなびかせた五対十枚の白翼を持った天使がその姿を見せる
全霊命の例にもれず、造形されたかのように整った左右対称の顔立ちは、花のように可憐で太陽のように眩しく、まるで全てを包み込むような包容力を感じさせる。
腰元まで伸びた鮮やかな朱色の髪に孔雀の飾り羽根に似た装飾品を纏うその様は、髪に不死鳥を宿しているかのように眩い。
朱色の髪に生える白く細い肩を露出された振り袖に似た白い着物を風に遊ばせるその姿は、あまりにも幻想的で儚い美しさをたたえていた
「お待ちしておりました。光魔神様とその御一行の方々ですね」
そよ風のように静かに大貴達の許へ歩み寄った朱色の髪を持つ美天使は、朝と夜の境界を思わせる紫色の瞳を抱く目を慈愛に満ちた色に染め上げて優しく微笑む
「……はい」
その微笑みに、半ば気圧されるように大貴の口から呆けたような声が漏れる
眼前で微笑む朱色の髪の美天使は、威圧している訳でも強大な光力を放出している訳でもない。
ただその美しすぎる美貌で、目も眩むような微笑を向けているだけにすぎない。にも関わらず、その美貌と美声はその存在を魂の奥底まで刻みつけ、見る者を半歩下がらせる程の存在感を十分に持っていた
「――っ」
(綺麗な人……桜さん並みだ)
桜に勝るとも劣らない絶世の美貌を見て心奪われている詩織の前で、孔雀羽の装飾で飾り付けた朱色の髪を持つ十枚翼美日天使は、微笑みをたたえたまま胸に手を当てて軽く頭を下げる
「お初にお目にかかります。天界王・ノヴァの娘――『リリーナ』と申します」
大貴達に頭を下げた朱色の髪の天使――「リリーナ」にその場にいた全員が息を呑む中、それを見たアースが呆れたように嘆息しながら言葉を剥ける
「リリーナ様、なぜここに? 謁見の間で待っていて頂ければすぐにでも向かったのですよ?」
「気になさらないでください。ただ私が待ち切れなかっただけですから」
アースの言葉に紫色の瞳を向けて微笑み返したリリーナは、その視線を大貴に向けてもう一度軽く頭を下げる
「ここからは私も同行させていただきますので、よろしくお願いいたします。――では参りましょうか、天界王様がお待ちです。」
アースと共に肩を並べ、その華奢な身体を覆い尽くすほど大きな十枚の純白の翼と孔雀の飾り羽に似た装飾に彩られた朱色の髪を見せて歩くリリーナの背を見る詩織は、隣を歩いている大貴にそっと耳打ちをする
「天界のお姫様かぁ……綺麗な人だね」
「……そうだな」
自身の問いかけを小さく首肯した大貴の言葉に、意地の悪い笑みを浮かべた詩織はからかうようにその脇腹を肘で軽く小突く
「浮気しちゃだめよ? ……あ、でも九世界だから別にいいのか」
「……桜といい、美人過ぎて、何て言うか、ちょっと近寄り難いんだよな」
ヒナと自分の事をあからさまにからかってくるお年頃の双子の姉を一瞥した大貴は、呆れと疲れの混じったようなため息で呟く
存在そのものが霊の力の顕現であるため、全霊命は総じて浮世離れした造形の美しさを持っている。
そんな全霊命の中でも、さらに整った容姿を持つリリーナや桜は、まさに「この世のものとは思えない」という表現が適切な美しさを持っており、どこか現実感が感じられない。それと比較してという訳ではないが、どちらかといえばヒナの方が大貴としては気楽で好みだ
無論、ヒナも人間界の人間としては相当優れた容姿の持ち主であって、比べるべきものではないのは十分承知の上だが。
「ハハ、まぁね」
そんな言葉に出来ない大貴の内心まで正しく洞察し、自身もまた、その現実離れした絶世の美女である「桜」の伴侶である神魔に好意を寄せている詩織は、大貴の言葉に自分自身を重ねてどこか寂しげな表情で小さく独白する
「リリーナ様は、『天界王・ノヴァ』様と『女王・アフィリア』様の間に生まれたご息女で、かの『神の巫女』の一人である『歌姫』と同格に語られる九世界の歌姫です」
詩織と大貴の会話を聞きながら、マリアが淡々とした口調で二人に説明する
「神の巫女」と呼ばれる異端なる存在――「巫女姫」、「歌姫」、「舞姫」、「奏姫」の四姉妹。十世界の盟主である奏姫を擁する四姉妹の巫女の中で、神に歌を奉納する「歌姫」と同格に扱われる九世界の歌姫こそが、天界の王女である「リリーナ」だ
「その歌は聞く者を魅了し、天使や光の軍勢はおろか、敵対しているはずの闇の存在や悪魔たちでさえリリーナ様と戦うのを拒むほどなんですよ」
さらに続けられたマリアの言葉に、詩織が目を丸くして反対側にいる神魔と桜に視線を向ける
「そうなんですか?」
「そうだよ。彼女と彼女の歌は魔界でも大人気だから」
詩織の言葉を肯定した神魔の言葉に、その隣にいる桜とやや後ろを歩いている瑞希が小さく首肯して同意を示す
「九世界における知名度と、人徳だけなら天界王様すら凌ぐとまで言われてるな」
それを聞いていたクロスが半ば感心したような、呆れたような口調で自分達の王の愛娘である朱色の髪の天使を見る
「九世界の中で、おそらく唯一闇の側から好意を以って接される天使――それがリリーナ様なんです」
九世界の歌姫とまで呼ばれるリリーナは、その歌と必要以上に戦いを好まない温和な性格もあって、光の存在でありながら闇の存在から好意的に受け止められる例外的な存在だ。
かつて悪魔たちの集団に襲撃された際、そこにリリーナがいたために悪魔たちがその攻撃を中断して撤退したというのは、もはや九世界中で伝説的な事柄として語り継がれている。
それほどに世界中で好意を以って受け止められているリリーナは、九世界で最も世界に影響を及ぼせる存在の一人として数えられるほどで、場合によっては天界王よりも世界に対する影響力を持っているとまで言われている
(九世界のアイドルみたいなもんか……)
簡潔に説明された信じ難いリリーナの逸話の数々に、感嘆と驚嘆を覚えながら淑やかに歩く天界の姫君の後ろ姿を見る大貴の耳に、さらに説明を続けるマリアの言葉が入ってくる
「……そして、闇の存在すら戦いを避けるその姿を指して、リリーナ様は『歌姫』以外にもう一つ、こう呼ばれております」
そう言って一旦言葉を切ったマリアは、一拍の間を置いて厳かな声音で言葉を紡ぐ
『闇にすら愛された天使』




