天界への出立
この世にあまねく無数の世界と世界、時空の狭間に存在する世界の境界。そこに浮かぶ巨大な城――十世界の本拠地では、人間界から帰還した十世界盟主、奏姫・愛梨を複数の腹心達が出迎えていた
「ただ今戻りました」
金色の髪をなびかせて優美に佇む愛梨に、円卓の神座№9「覇国神・ウォー」の神片ユニットの一人、戦王、「反逆神・アークエネミー」の神片である「先導者」をはじめとする数人の側近たちが歩み寄ってくる
「おかえりなさいませ」
恭しい所作で愛梨を出迎えた先導者――ヘイトは、自分より頭一つ分程背が低い愛梨を覗き込むようにして、今日の戦果を訊ねる
「いかがでしたか?」
「時間を欲しいと言われました」
時間を置くとはいえ、その場で断わられた事に対して苦笑しているのか、その時の事を思い出しているのか、小さくはにかんだ笑みを浮かべた愛梨の言葉に、ヘイトは目を細めてその再度目を伏せる
「左様ですか、それは口惜しゅうございますね」
仰々しい口調で言うヘイトだが、その声音は実にわざとらしく、本心からそう思っているとは到底思えない。もっとも、ヘイト――あるいはヘイト達がそれを望んでいなかったのも偽らざる本心なのだと愛梨には分かっているのだが。
最強の異端神、円卓の神座の中での別格の力を持つ「反逆神・アークエネミー」と、その力に列なる十人の眷属、「悪意を振り撒くもの」はその名の通り敵対者。
神の理に反逆し、世界の法を拒絶し、善も悪も等しく敵とする事を存在意義とするこの世における唯一絶対の神の敵対者達は、それ故に「敵」の存在を欲する。
なぜなら、敵はあくまでも勝利してはならない。なぜならどんな反逆も事を成せば革命へと形を変え、勝利した瞬間に敵は敵で無くなってしまうのだから。
そんな敵対者達が、ようやくこの世に出現した自分達と拮抗する敵対すべき相手――光魔神までが十世界に加わり、組織が盤石で絶対的なものになるのを両手を挙げて喜ぶはずがなかった
(……そうだとしても、敵意も悪意も等しく許容してこその平和です)
そんな意図的に不信感を煽る様な行動をしてみせる悪意の眷属に普段通りの慈笑を向ける愛梨は、心中で自分で自分に強く言い聞かせながらよそ風のように軽やかな足取りで歩を進める
十世界の行為と理念はこの世界を創造した神の理に反し、少なくとも現行の九世界においては過ち。だからこそ、九世界と敵対するために悪意の神が十世界に所属している事も知っている。
敵対者の存在によって、「自らの正義に疑問を問いかけ、より正しい道を模索する事ができる」のも「組織や集団が団結する」のも世界の真理。
しかし、誰かを敵に仕立てて世界を統一するという選択肢は、愛梨にはない。光も闇も異端も敵も、全てを理解し、全てを許し合い、認め合って共存する世界を作る。
例えそれがどれほど歪でも、不可能でも、非常識だとしても、それをやり遂げて成すこと。――それが愛梨のたった一つの願いだった
「ヘイトさん。あなた方の存在意義は理解していますが、今後こういった事は無いようにしてください」
普段の柔らかな声をわずかに高質化させた愛梨は、弱者の行軍を行使して人間界に敵対行動をとった悪意を振り撒くものの一人、「弱さを振り翳すもの」への非難を込め言葉を向ける
「……御意」
愛梨の言葉に仰々しく大袈裟な動作で頭を垂れたヘイトは、そのまま立ち去っていく十世界を統べる麗しき盟主の背を不敵な笑みを浮かべながら見送っていた
ヘイトらと別れた愛梨が十世界本拠地の中心部にそびえ立つ一際大きな塔の最上階にある自室へと足を運ぶと、まるで巨人の国にいる様な巨大で荘厳な装飾を施された塔を登った愛梨を、その部屋の扉の前で待っていた一人の悪魔が出迎える
「あ、姫姉様!」
「あら、『火雨』さん」
愛梨の姿を見るなり、先端が青くなっている長い紅髪を複雑に結い上げ、まるで長いウサギの耳のように足元までリボンを垂らした女性が歓喜の色に表情を染める
「どうしたのですか?」
今にも抱きついて来そうなほど無邪気に目を輝かせている火雨に愛梨が優しく微笑み返すと、紅と青、二つの色を宿した長髪を結い上げた悪魔の女性は懐から取り出したものを喜々として差し出す
「これを」
火雨が差し出したのは、煌めく宝玉がちりばめられたまるで炎で形作られているかのような形状をした腕輪。
「これは……」
その腕輪から立ち昇る、独特の清廉な気配に息を呑む愛梨に、火雨は得意気な笑みを満面に浮かべて言い放つ
「はい。神器、『天上輪』です」
全ての神器を使う事ができる能力を持つ愛梨のために手に入れてきたそれを手渡し、「褒めて」と瞳を輝かせている火雨の様子に、十世界の盟主たる奏の姫は慈愛に満ちた微笑でその願いに応える
「ありがとうございます」
「そんな、当然の事をしたまでです」
愛梨の言葉に堪え切らない嬉しさでだらしなく表情を緩ませた火雨は、今にも舞い上がってしまいそうな様子で頬を赤らめる
十世界では、全ての神器を使える愛梨のために、一つでも多くの神器を集めて献上しようとする動きが活発になっている
十世界に所属する最強の悪魔「ゼノン」を筆頭に動いているこの「神器収集」だが、必ずしも愛梨の意志にそって行われている訳ではない
「ただ、確かにありがたいのですが、ただあまりこういう力を独占するのは……これでは、まるで武力で平和を保っているようになってしまいます」
火雨の好意に感謝しつつ、自分が戦う力を求めていない事を遠まわしに告げた愛梨の言葉に、赤と青の二色の髪を持つ女悪魔は、これ以上ないほど輝く満面の笑みを浮かべて返事をする
「はい。分かりました」
(返事だけはいつも立派なのですがね……)
喜々とした表情を浮かべる火雨を見て内心で苦笑している愛梨の背後にある下層から続く階段から重厚な足音と共に強大な魔力が姿を現す
「火雨、こんなところで何をしている?」
愛梨の背後から姿を現したのは、腰まで届く漆黒の髪に即頭部から伸びる巨大な二本の角を有した長身の悪魔
「げ、死紅魔!」
「死紅魔さん」
金色の目で自分を睥睨してくる死紅魔の視線に、先程までのご機嫌な表情が嘘のように顔をしかめた火雨と、その来訪を歓迎する愛梨の対照的な視線に見つめられる悪魔――十世界に所属する悪魔の№2である黒髪の悪魔は、十世界盟主の手に握られた物を見て瞬時に全てを理解する
「神器か。姫のためになるからって、あまりやり過ぎるなよ」
「余計なお世話よ。他の連中はともかく、私は姫姉様を悲しませるような事はしないわ」
愛梨と同じ事を言いながらも、目に見えて敵対心を露にする火雨は、突き放す様な冷たい口調で死紅魔を睨みつける
「姫姉様に気に入られるからって調子に乗ってんじゃないわよ? すぐに私があんたにとって代わってやるんだから」
舌を出して捨て台詞を死紅魔に向けた火雨は、そのままくるりと身を翻して好意に満ちた満面の笑みを愛梨に向ける
「では姫姉様、無粋な邪魔が入ったようですので、私はこれで失礼いたします」
言葉の端々に死紅魔への皮肉と敵意を露にしながら逃げるように立ち去った火雨を悪戯好きな子供に手を焼く母親のような心境で見送る愛梨は、困ったようにため息をつく
「……私の事を心配してくださっているのは分かるのですがね」
全ての神器を扱う事ができる愛梨は、神器を集めれば集めるほどに強くなる。愛梨が九世界から常に命を狙われている事を知っている十世界の面々は、その命を守るための力として神器を集めて姫に献上している
十世界に所属する者達の中で、姫の掲げる理念に心から賛同しているのは実は少数派でしかない。十世界を構築するメンバーの大半は、愛梨や、愛梨に傾倒する誰かのために組織に所属しているという者が占め、中には九世界と戦えるなどという盟主の目的とは真逆の目的のために十世界を利用する者も少なくない
だが、来る者は拒まずを徹底し、どんな相手でも対話で心を通わせる事ができるという信条を掲げている愛梨は、メンバーの調査などろくにせずに組織に招き入れているのだ
九世界はもちろん、十世界の中ですら気を緩める事が出来ない――少なくとも、多くの者がそう感じる状態にある組織の中で、愛梨を慕う者たちがその身を案じるのは必然とも言えた
「なら、少しは自重したらどうだ?」
「……藪蛇でしたね」
愛梨の言葉に、死紅魔が呆れたように言うと、それが今回の単独での人間界訪界と光魔神との対話の事を指している事を理解して、十世界を統べる美しき美女は苦笑を浮かべる
「お前な……」
「ですが、収穫も多くありました」
他人には自分の身を案じる事を自制するように願いながら、自分は全くその態度を改める気がないその言葉に呆嘆する死紅魔の言葉を遮り、愛梨は穏やかな笑みを浮かべる
「……収穫?」
光魔神を十世界に招き入れる交渉は持ち越しになっている事を知っている死紅魔が怪訝そうな表情を浮かべる中、当の本人である愛梨はその収穫を思い出して遠い目で微笑を浮かべる
「……お元気そうで何よりでした」
「?」
意味深な言葉を嬉しそうに紡ぐ愛梨に怪訝そうな表情を浮かべた死紅魔は、何かを思い出したように胸の前で手を合わせ、「あ、それと……」と言葉を続けた十世界の盟主たる姫の言葉に意識を戻す
「それと、どうしても十世界に迎えたい方々と出会う事が出来ました。死紅魔さんによく似た悪魔の方なんですが、雰囲気や仰る事もあなたと本当によく似ていて、良くも悪くもとても正しくて頑固でとても好感が持てる方々でした」
「……俺に似た悪魔?」
嬉しそうに今日の収穫について語る愛梨の言葉に、死紅魔は怪訝そうに目を細める
困った事に十世界盟主たる姫には、自分と敵対する人間に好意を抱くという悪癖がある。
普通は敵対する相手には自分も敵意や嫌悪感を抱くものだが、愛梨は「相容れない人と相容れる事ができない者が、世界の協調と平和を実現できるはずがないではありませんか」と言って自分を殺そうとした相手を悉く十世界に招き入れたという実績を持っており、死紅魔のような真面目な腹心の頭を抱えさせている
「ええ、神魔さんと仰るのですが……」
「また悪い癖が出たか」と内心で辟易していた死紅魔だったが、次いで愛梨の口から紡がれたその人物の名にその表情を強張らせる
「神魔!?」
「……もしかして、お知り合いでしたか?」
神魔の名を聞いた瞬間に、その表情を険しいものに変えた死紅魔の様子を見た愛梨がきょとんとした表情を浮かべる
十世界に所属する全員の名前を把握している愛梨だが、その事情や十世界に所属しようとする理由を訊ねた事は無い。
もちろんそれは、興味がないからという訳ではなく、また誰かの過去を詮索する気がないからという訳でもない。
人が誰しも持っている他人には見せられない心を、相手に認められる事でその相手の意志で、その口から語ってもらえるような存在になりたいと考えているからこそ、愛梨はただ相手が自分から自分の心や想い、過去を話してくれるのを待ち続けている
その自分自身の誓いに基づいて「知り合いでしたか?」と訊ねた所で質問を止めた愛梨の眼前で、「神魔……」とその名を反芻していた死紅魔は、その口元に愛梨が見た事もない様な冷酷な笑みを浮かべる
「……ああ、随分昔に殺し損ねた愚息だ」
十世界との戦いを繰り広げた次の日、人間城の中にある貴賓室を訪れたヒナは、天界の代行者である天使「アース」と魔界の代行者である悪魔「瑞希」を伴い、大貴に神魔達と共に十世界討伐のために九世界を訪問するといった内容を告げていた
「……というわけで、急な事で申し訳ありませんが、大貴さんには十世界と戦っていただくために旅立っていただく事になりました」
「ああ、神魔から聞いてる」
アースと瑞希の目を憚ったのか、あるいは自身の意志で伏せるべきだと判断したのかまでは不明だが、予定通りの説明をしたヒナの言葉に、大貴は小さく頷いて応じる
ヒナが説明した「十世界に対抗するために光魔神に九世界を回らせる」という目的は決して嘘ではない。
十世界に最強の異端神の一角である反逆神がいる以上、それに対抗できるのは同格の神である光魔神だけ。それを考えれば必然ともいえる判断だが、大貴は昨夜の時点で神魔からその裏に隠された思惑を聞いている。
それは、大貴にとって親しい間柄である神魔と桜の命を使って大貴を九世界側に繋ぎとめておくための方便。九世界の者達と浅からぬ縁を築かせ、十世界に敵意を抱かせる事で光魔神が十世界へ入りづらくするための布石だ
それが分かっていて、大貴は九世界側の提案を受け入れる事を肯定した。しかし、それが大貴の本当の考えではない事をしている神魔は、その姿に金色の瞳を向け、昨夜のやり取りを記憶の中に甦らせる
《俺は――お前達といく》
神魔から九世界の真意を聞き、それでも尚自分達と来てほしいと懇願された大貴は、一拍の間を置いてから、懸命に考えて出した結論を口にする
《ありがとう。……ただ、お願いしておいて言うのもなんだけど、本当にいいの?》
大貴の同意を受けて感謝の言葉を述べた神魔は、最後通告を兼ねた重い口調で、再度にして最後の確認を行う
魔王が提示したこの条件は、神魔達への罰や処刑ではなく、光魔神を九世界側に取り込むの布石や準備といってもいい。そして、おそらく一度九世界に旅立ってしまえば、大貴は魔王の思惑に乗ってしまった事になるのだ。
《ああ。いいように利用されてるっていうのは気に入らないが、九世界側の言い分も分からなくはない。……何よりも、俺は俺の目で見極めたいんだ。九世界と十世界を》
大貴からすれば、利用されているというのは決していい気分ではないが、死刑囚を生かしておく理由としては少なからず理解できる部分もある。何よりも神魔の「まだ死にたくない」という言葉に嘘は無かった
神魔と桜を処刑させない可能性があるなら、九世界が自分を取り込むために神魔達を利用し、神魔と桜が極刑を免れるために自分を利用するようにするように、自分もこれを利用して「九世界」と「十世界」という二つの世界の在り方を自分で見てみたいと思ったのだ
《そう、なら僕からは感謝の言葉以外はもう何も言わないよ……ありがとう》
(随分、ゆりかごの毒が抜けてきたみたいだね……真の光魔神への覚醒も近いかな……)
自分達のために光魔神の存在を利用する形になる事を自覚している神魔は、大貴に感謝の言葉を述べながら、内心で小さく独白する
《そっちこそいいのか? 俺が世界を回ってみて、九世界よりも十世界がいいと思ったらそっちにつくかもしれないぞ》
たった数日合わなかった間に光魔神として成長した大貴の成長を感じ取っていた神魔の思念に、大貴の言葉が続けられる
九世界が神魔達を、神魔達が大貴を、そして大貴が九世界を互いに利用しようとする思惑で動こうとする中、大貴だけは九世界に味方をする訳ではない。今の大貴が知らない九世界と十世界の在り様を見てどちらに所属するかを選ぶのだ
つまり、今の段階では親しい間柄にあある神魔達と行動を共にするつもりだが、十世界につく可能性も十分にある――少なくとも大貴自身はそう考えている
神魔から聞いて九世界側の思惑を見通している以上、それに対抗する行動を取る事はできる。すでにヒナと婚約者に成っている以上九世界との繋がりは避けられないだろうが、十世界に必要以上の損害を与えない事で十世界側とも円満とはいかなくともそれなりに良好な関係を築ける可能性はあるのだ
《――その時は、僕が君を殺すよ》
そんな大貴の思惑を全て見通し、理解し、認めた上で魂が凍てつくような声音で告げた神魔の言葉に、大貴は「らしいな」と思いながら苦笑を噛み殺した声で答える
《……だと思ったよ》
「それよりも、姉貴もついてくるのか?」
神魔が昨夜のやり取りに記憶を遡らせていると、不意に大貴の口から出た言葉に意識を現実に引き戻される
「なにその言い草は? 不満なの?」
その言葉に、詩織は不機嫌そうに唇を尖らせて大貴の顔を覗き込む
「いや、別にそういう訳じゃないけど……」
光魔神である自分はともかく、ただの脆弱なゆりかごの人間でしかない詩織を十世界と戦うための九世界の訪界に同伴させるのは危険極まりないのではないのか――そんな意志の籠った視線を大貴から注がれたヒナは、目を伏せてから抑制の利いた静かな声音で応じる
「詩織さんの身体には十世界が狙っている神器、『神眼』が融合しています。今回は退いてくれましたが、また彼女を狙って襲ってこないとも限りません。ですから、彼女も特別に同伴していただく事になったのです」
「……っ」
「そういう事」
ヒナの説明に、眉間に皺を寄せる大貴と得意満面な笑みを浮かべる詩織が対照的な表情を見せる
詩織の身体に融合した神器・神眼は人間界の技術はもちろん、ここにいる天使や悪魔の誰にも取り出す事が出来ない程完全にその魂の奥底に隠れてしまっている。
今回は撤退させる事ができたが、十世界がまた詩織の中にある神眼を狙ってこないとは限らず、もし全霊命がくるような事があれば人間界の力では到底守り切る事は出来ないだろう。
ならば、多少の危険は伴うが、大貴や神魔達といった気心の知れた全霊命と行動させた方が、はるかに安全だと判断されたのだ
しかし、それは表向きの理由に過ぎない。その本当の思惑に一人だけ気づいていない詩織の周囲で、神魔達がそれぞれに表情を浮かべてそのやり取りを見つめる
(特別に、か。物は言いようだね)
(生き餌って事か)
折角光魔神が来界したというのに、「何も起りませんでした」では意味がない。それでは大貴に九世界と縁を結び、十世界と敵対させるという目的が果たせなくなる。
だからこそ、一つでも多く十世界が襲ってくる理由――大貴が十世界と戦うための要因を用意する必要があった。詩織に融合した十世界が欲しがっている神器「神眼」は、まさにそういう意味で最高の撒き餌の一つと言える
(ったく、理由も間違ってはいない分、否定がしづらいな)
そのやり取りに、大貴は内心で舌打ちをして詩織とヒナを交互に見る
九世界側の思惑はともかく、詩織が狙われかねないという事実そのものは否定し難い真実だ。故に大貴達の側としてはそれを受け入れる以外に選択肢はないといってもいい
相手の思惑が分かっているというのに何もできない事に苦々しい表情を浮かべている大貴の視線の片隅で、人間界王の背後に控えていた黒髪の悪魔が一歩前に出る
「二人の監視者を兼ねた魔界の代表として、私も光魔神様の訪界に同伴させていただきます」
「……分かった」
黒髪を結いあげた氷麗な顔立ちの女悪魔――「瑞希」の進言に、大貴は小さく首肯を示す
死刑囚である神魔と桜の監視という名目ではあるが、瑞希の実際の目的は光魔神の護衛と覚醒の手伝い、そして九世界各世界との繋ぎだ。
「とりあえず、普段通りの口調で話してくれればいい」
「……そう、分かったわ」
瑞希とその背後にいる九世界の思惑を全て理解した上で応じた大貴の言葉に、氷麗な顔立ちをした黒髪の女悪魔はしばし逡巡してから小さく肯定の声を返す
瑞希の顔見せと紹介が済んだのを確認し、ヒナの背後に控えていた長い金髪をなびかせる天界の大天使――「アース」がゆっくりと前に歩み出る
「とりあえず、お前達には手始めに天界に来てもらう」
「分かった」
魔界側だけの許可では、闇の世界とはともかく光の世界に入る事はできない。そのために最初に天界へ行く事をあらかじめ聞いていた大貴が小さく頷く傍らで、その手に仮想によって構築されたカードを浮かび上がらせたヒナが、それを詩織に差し出す
「詩織さん、これを」
「……これは?」
ヒナから差し出された情報が形を成した仮想体を見て怪訝そうに眉をひそめる詩織に、新たなる人間界王は優しく微笑んでその問いかけに答える
「装霊機の拡張データです。九世界の方々では気の回らない事もあるでしょうから」
「ありがとうございます」
ヒナの言葉の言わんとしている事を察し、詩織は感謝の言葉を述べる
神魔やクロスはともかく、桜とマリアは気がよく回る方だ。だが、全霊命と半霊命という根源から全く異なる存在である以上、どうしても気が回らない事がある。
例えば睡眠や食事、排泄、洗濯などの生活の基盤から、九世界の過剰な環境に対する影響、病、怪我などの活動面に関してまで、ヒナが用意した拡張データには考え得る一取りの事態に対応する情報が幅広く詰め込まれている
「他の方々と違い、あなたは特にか弱いゆりかごの人間です。くれぐれもご自愛いただき、決して無理はなさらないでください」
「ありがとうございます」
ヒナにとって詩織は、将来義理の姉になるかもしれない重要人物であり、詩織にとってもヒナは将来義理の妹になるかもしれない人物。
互いに相手に対して同じ親近感を覚えながら微笑みを交わし、詩織がデータを装霊機にダウンロードしたのを見届けたヒナは、その足で大貴の許へ移動する
「本当なら、もっとくつろいでいただきたかったのですが、このような事になってしまい、人間界の代表として真に心苦しく思っております」
人間界王という立場として大貴に九世界を訪界させる本当の理由を話す事ができない葛藤と、これから本格的な十世界との戦いに赴く大貴を純粋にその身を案じる表情で深々と頭を下げる
「……気にしなくていい、何もな」
「――っ!」
小さく息をつき、自分は全てを知っていると匂わせる口調と言い回しで答えた大貴に、ヒナははっとした様子で軽く目を瞠る
「俺は俺の意志で世界を見に行くんだ。だから気にしなくていい」
「……はい」
再度念を押すように言った大貴の言葉に、ヒナはかすかな微笑を浮かべて頭を下げる
「大貴さん、あの……」
公的な呼称である光魔神ではなく、私的な呼称を用いた事で私用である事を匂わせたヒナは、人間界王としてではなく、その婚約者候補である一人の女性としての言葉を大貴に向ける
「今の私は至宝冠を介して大貴さんと繋がっています。ですから、時々……いえ、気が向いた時にでも構いませんので、連絡をしていただけますか?」
頬を赤らめて俯くヒナは、恥じらいを滲ませた声で上目づかいに大貴を見つめる
十二至宝の一つである「至宝冠・アルテア」は、神と人を繋ぐ「神意」の至宝。光魔神が現れ、王位を継承したヒナは、「王の選定」、「太極気」以外にもう一つ、「神と意志を通わせる事ができる」という権能がある事を発見していた
思念のみで言葉を交わし、本来は不可能な「世界」を隔てた思念通話も可能とする至宝冠を介せば、九世界のどこにいようとも会話をする事ができるのだ
「ああ、分かった」
本当は毎日でも連絡をもらいたい思いを懸命に呑みこんだヒナの言葉に、大貴は小さく頷いて恥じらいながら俯いている婚約者候補たる黒髪の美女に微笑みかける
「……ありがとう、ございます」
大貴の言葉に表情を輝かせ、まるで先ほどの言葉を噛み締めて、これから始まるであろう想い人との世界を超えた界話に思いを馳せているヒナを見て、大貴は意を決したように目を伏せる
「なあヒナ」
「はい」
不意に大貴の口から続けられた抑制の利いた声に、ヒナは顔を上げて自分よりほんの少し高い位置にある視線を受けとめる
「いつまで待っててくれる?」
「……え?」
神妙な面持ちで発せられた大貴の言葉に、一瞬何を何を言われたのかわからない様子で目を丸くしていたヒナだが、すぐさまその雪のように白い頬を夕焼けのように赤く染め上げる
「い、いつまででも待っております。いつまででも」
動揺と困惑、しかしそれ以上の高揚を感じさせる様子で答えたヒナが見せる普段とは違った初々しい反応に、大貴は苦笑して言葉を続ける
「そんなに待たせるつもりはないさ。……そうだな。今回の件が終わったら、俺達の関係にも決着をつけようか」
「あの、それって……?」
大貴の口から出た予想だにもしなかった言葉に、ヒナはこれまで以上に狼狽した表情を浮かべる
どちらにも取れる大貴の言い回しに不安と期待が入り混じった視線を向けるヒナに大貴やこれまでに効いた事がない様な穏やかな声音で優しく囁く
「心配しなくても、期待しててくれればいい」
「……ぁ」
照れくさそうに視線を逸らし、独り言のように呟いた大貴の言葉は、しかしはっきりとヒナの耳に届き、その胸と心をかき乱して火照らせる
真っ赤に染まった顔で大貴から向けられた夢のような言葉に聞き入っていたヒナは、幸福に彩られた表情で微笑む
「はい、では期待してお待ちしています」
幸せのあまり、涙を浮かべたヒナの微笑に大貴も小さく目を伏せて答える
「ああ。覚悟しておけよ」
その様子を微笑ましそうな表情で微笑む神魔と桜が、遠巻きに見守りながら微笑みを交わす
「中々いい雰囲気じゃない?」
「そうですね」
まるで二人の空気に当たられたように互いに一歩ずつ距離を近づける神魔と桜を、クロスとマリアは羨ましさと呆れが同居した表情で見つめ、詩織は複雑な表情を浮かべて目を伏せ、瑞希が無表情のまま視線を逸らす
「そろそろいいか? 悪いが、あまり待たせる訳にはいかないんでな」
急な出立になってしまった事を詫びながらも、アースは天界で待っている天界王の事を言葉の端に見え隠れさせながら声をかける
「……はい」
「ああ」
アースの言葉に大貴とヒナが小さく頷き、神魔、桜、詩織、クロス、マリア、瑞希がそれぞれの表情で肯定を示す
「ならいくぞ――天界へ」
それを見回したアースが天界へと続く門を開き、厳かな声音で言葉を紡ぐ
「御気をつけて。皆さまの行く先に、幸多からん事を」
腰を折って深々と頭を下げたヒナの言葉を背に、一同はアースが開いた世界を繋ぐ時空の門へと足を踏み入れる
全員がその中に入ると時空の門は静かに消失し、そこには普段と変わらない人間界城の一室だけが静かに存在していいた
「……どうがご無事で。その時までに女性として、王としてあなたに相応しい自分になっている事を誓います」
先程まで言葉を交わしていた想い人の姿を思い出すように目を伏せ、大貴と過ごした記憶に心と意識をしばしの間浸らせていたヒナは、恋する乙女と世界を統べる王という二つの自分が入り混じった表情に清々しい笑みを浮かべて身を翻す
この日こそが、後に語られる新たなる世界創世の始まりになるとは、この時は誰一人として知る由もなかった。
――ただ一人の例外を除いて。
「ようやく、この時が来ました。……この壊れた世界を正し、あるべき形に世界を作り直す新たにして真なる創造の時が」
荘厳なる装飾が施された白亜の城の中、白を基調とした衣に身を包み、膝裏まで届くほど長い金色の髪を揺らす女性が厳かな声音で言葉を紡ぐ
その動きに合わせて燐光を帯びた髪がかすかに揺れるたび、そこから生まれた白金色の蛍が天を舞い、幻想的で神々しさを感じさせるほど美しい光景を作り出す
「もうすぐ……もうすぐ会えますよ」
愛おしさを噛み締めるように、涼やかなで慈愛に満ちた神聖な声音でそう呟いた女性は、白い肌に映える淡い紅で彩られた唇に小さな微笑を刻むのだった
人間界編―了―