天界の使者
「神器・墜堕星」
鮮やかな銀色の本体に装飾を施された光り輝く金色の刃。そこに色鮮やかな装飾が施された神殿のような槍を携えた金色の髪の女性――十世界盟主・愛梨を前に、神魔と桜はこれまで以上の緊張感を張り巡らせる
「桜」
「はい、心得ております」
十世界の盟主である愛梨は、世界を創造した光と闇の神に列なる九世界の全霊命とは異なる異端の存在にして、神の巫女と呼ばれる四姉妹の一人、「奏姫」と呼ばれる末妹。
光と闇、異端にかかわらず神に仕え、神に通ずる能力を持つ神の巫女の一人である「奏姫」は、全ての神器を行使する能力を持つ。
誰にでも使えるものではなく、一つ使えるからといって二つ目も使えるとは限らない神器の全てを使う事ができる奏姫が盟主であるが故に、十世界の一部の者達は神器を集め、そうして献上された神器は全て姫自身の力となる
「無駄ですよ、いかに警戒したところで、この墜堕星の力から逃れる事はできません」
警戒心を高める神魔と桜を見て、静かに言葉を紡いだ愛梨の言葉に応え、神殿の如き槍が幻想的で神聖な輝きを放つ
「……ッ!」
愛梨の呼びかけに応えて目を覚まし、その能力を解放した槍を見た神魔と桜の本能が、その力に言いようのない恐怖心をかき立てられ、神速の全速を振り絞って距離を取る。
しかし愛梨は、どんな攻撃にも対処できるように距離を取る神魔と桜を見ても、王そぶりすら見せず、ただその場に佇んだままで、まるで演舞のように神の力の欠片たる槍を薙ぎ払う
刹那、神の力の欠片たる槍の斬閃が世界に刻みつけられると同時に、清廉で澄みきった音を奏でて、世界にその力を顕現させる
「――っ!?」
「なっ……!?」
そして、それと同時にその戦いを固唾を呑んで見守っていた誰もが――十世界に属する全霊命達すらもが、目の前で起きた信じ難い光景に目を瞠る
ただ一人、その結果を見通していた愛梨が、静かに神の力の欠片たる槍を収める中で、その身を斬り裂かれた神魔と桜の身体から燃え盛る炎のようにおびただしい血炎が立ち昇り、その場に力なく崩れ落ちる
「神魔さんっ!!」
槍が振るわれただけだというのに、明らかな斬撃による傷を受け、身体から漏れ出た事で神能の残滓となって天に昇っていく炎や煙に似た血――血炎を上げて崩れ落ちる神魔と桜を見て、瑞希の結界に包まれる詩織が声を張り上げる
(斬られた!? 何で……っ!?)
身体を袈裟掛けに斬り裂かれた神魔は、自分の身に何が起きたのかを理解できず、炎のように血炎を上げる身体に鞭を打ってこの攻撃を仕掛けた相手――十世界盟主、奏姫・愛梨へと視線を向ける
「心配には及びません。少々深めに斬りつけましたが、命には別条ないはずです」
命を奪うほどではなくとも、不死身に近い生命力をもつ全霊命を戦闘不能に追い込む程の傷を与えた愛梨は、傷ついた桜を庇いながら向けられる神魔の貫く様な視線を受け止めながら言葉を紡ぐ
「――『墜堕星』は、時系列を切り刻む力を持つ神器です」
神殿を思わせる荘厳な銀の槍を一瞥した愛梨の言葉に、神魔と桜は表情を強張らせる
(時系列を支配する神器って事は、「時間」の神の欠片……光の至高神・時空神の力か)
苦痛と敗北の事実を噛みしめながら、凛々として佇む十世界盟主に視線を向ける神魔に、力によって相手の戦意を折るという、対話と心の結びつきを求める自分の流儀に反する戦いの結末に普段から浮かべている慈愛に満ちた微笑を消した愛梨は、こんな形でしか戦いを終わらせなれなかった自分を責めながら言葉を続ける
「時系列を分割して組みかえる力を持つこの槍は、本来あるべき時系列を無視し、『あなた方を斬った』をいう結果を顕現させるために、『あなた方が斬られた』という過程を顕現させたのです」
「……!」
事象と現象には因果関係が存在し、原因と結果が正しい順序で発生する。
例えば今回のように、敵を斬り倒すためには、「戦闘」を行い、繰り出された「斬撃」が「命中」するという過程を経て、ようやく「斬り倒した」という結果を作り出す。
しかし、愛梨が行使した神器・墜堕星は、この時系列を斬り裂き、繋ぎかえる力を持つ神器。
「敵を斬った」という結果を世界に顕現させ、その結果を顕現させるために、斬られたという過程を後付けで発生させる力を持っているのだ
「――つまり、本来あるべき原因と結果の因果の過程を全て無視して結果のみを先んじて発現させるあの神器の力は、回避も防御も不可能ということよ」
「そんな……っ」
愛梨の言葉を掴みあぐねていた詩織は、かいつまんでその意図を要約した瑞希の言葉を聞いて声を詰まらせる
時系列を入れ替える墜堕星が与える傷は「確定事項」。結果が事象として先に顕現する以上、万一の偶然や奇跡などによって一命を免れるという事はありえない。
神魔と桜が命を落とさずにいるのは、その攻撃を放った愛梨自身が殺さないようにした結果を顕現させているからに他ならない
「……神の力、欠片に過ぎないとはいえ相変わらず理不尽ね」
絶句する詩織の気配を背に感じながら、血炎を上げている神魔と桜、そして二人に向かって歩み寄っていく愛梨を一瞥した瑞希は、その整った眉をわずかに歪め、不快感を露にして十世界盟主とその手に収まっている神殿の銀槍を見つめる
「避ける事も防ぐ事もできない攻撃か……反則にもほどがあるだろ」
一方、愛梨の持つ神器の力を正しく認識した大貴は、その力に目を細めてその神器の見せたあまりにも理不尽な力に抑揚のない声で抗議の言葉を呟いていた
大貴にとって、墜堕星と呼ばれる神器の力は、異端とはいえ自分の持つ太極以外で初めて目にする神の力。
自分で使っている分には実感が薄かったが、こうして目の当たりにしてみると、その絶大な力は、世界の事象や現象を否定し、自身の望んだそれを顕現させる力を持つ全霊命のそれすらも逸脱したものだと、あらためて認識させられる
「それが神器の――いえ、神の力です」
独り言に近い大貴の言葉を聞き逃さなかった新たなる人間界王――「ヒナ・アルテア・ハーヴィン」は、太極の力によって構築される結界の中から抑制の利いた声で応じる
さらに補足を加えれば、神器のそれは神の力の破片に過ぎず、その力は本来の神のそれには遠く及ばない。今目の前で振るわれている理不尽極まりない力ですら、文字通り神の力の一端に過ぎないのだ
(神の力……か)
ヒナの言葉を受けて小さく独白した大貴は、全霊命の原型にして、この世界において唯一全霊命を凌ぐ、絶対的な霊的存在――「完全存在」。……「神」と呼ばれる存在の持つ絶対的な力の影に目を細めた
「これでこの戦いは終わり――という事でよろしいですね?」
「……っ!」
戦闘続行不可能なほどの傷を受け、激しい血炎を立ち昇らせる神魔と桜にどこか悲しげな声を向けた愛梨の言葉に、二人の悪魔は目を細める
殺す気がないために戦闘不能で終わっているが、愛梨でなければ自分達がとうの昔に殺されている事、そしてこれ以上続けても勝ち目がない事を理解せざるをえない神魔と桜は無言のままで十世界の盟主に視線を向ける
「では……」
神魔達の視線を無言の肯定と受け取った愛梨は、激しい血炎を上げて戦闘を続けられない二人の悪魔に微笑みかけ、その手に携えた神殿の如き銀槍の力を呼び起こすと、その刃を一薙ぎする
「……っ!」
愛梨の斬閃に合わせ、再度墜堕星がその力を発動した事を証明する神々しいほどに澄み切った清廉な音が世界に響き渡った瞬間、神魔と桜の傷が一瞬にして消滅し、先程まで傷を負っていたとは思えない程の状態へと回復させる
「傷が……」
「時系列を消去したのですね……」
全霊命の再生力をもってしても完治にしばらくは掛かるはずの大きな傷が一瞬で消えた事に小さく目を瞠る神魔の隣で、桜が目を細める
墜堕星の力は、時系列へ干渉し、時間的な順序を支配する力。故に、ただ攻撃を必中させるだけではなく、「完治までの過程を破棄する」あるいは、「傷を与えた過程を破棄する」ことによって、傷や損傷を瞬時に回復させる事も可能になる
「どういうつもり……?」
「言ったはずです。私にはあなた達を殺す理由がない、と」
致命傷を与えておきながら、その傷を瞬時に治癒させた愛梨を怪訝そうに見る神魔に、十世界の盟主たる金髪の美女は、慈愛と慈悲に満ちた笑みを浮かべて微笑み返す
「後悔する事になるかもしれないよ? ……さっき言ったように、君に殺す理由がないのと同じように、僕達には君を殺す理由があるんだから」
神魔の鋭い視線を受けた愛梨は、その言葉にそっと目を伏せて慈愛に満ちた笑みを返す
「そうかもしれません。ですが、命を狙われたから殺したでは、今の世界の理と何も違いません。今あなたを殺してしまっていたら、私は本当の意味で世界の理に負けてしまった事になります」
「そう……君の敵は目の前の僕たちじゃないって事だね」
はにかむように微笑んだ愛梨の言葉に、神魔は戦意を殺がれた様な口調で答えるが、その言葉はまるで自分自身にも向けられているように感じられる
神魔と桜はあくまで眼前にいる愛梨を互いの信念の違いから否定し、戦っていたが、愛梨が戦っているのは目の前にいる二人ではなく、もっと別の――いうなれば、戦う意志そのもの
誰もを受け入れる事を願いながらも、人がそれぞれ持っているはずの敵意や違いから生まれる戦う理由を否定するというあまりにも美しく歪な矛盾。
戦いを拒み、平和を望む愛梨の心に偽りは無い。しかし、誰もが手に手を取り合う世界を望んでいながら、目の前の自分の意志を見ていないその姿に、神魔は滑稽さすら感じていた
「私にとって敵などいませんよ。あなたのような方から見れば、気に入らないでしょうが」
そんな神魔の考えを見透かすかのように、愛梨は自身の掲げる理念の矛盾を理解しつつも、それが叶う世界を思い描いて、一点の澱みの無い純粋な笑みを向ける
「……八方美人って言うか、百方美人だね。……本当に気持ち悪い」
その愛梨の言葉に、神魔は表情を消して冷ややかに答えると、その言葉を受けた慈愛に満ちた十世界の盟主は、「やれやれ」と言わんばかりに小さく息をついて優しく微笑み返す
「そうだとしても、私に出来るのはいつか私の想いがあなた達に届くと信じて伝え続けるだけです」
「やれるものなら、やってみなよ。君の想いは届かない」
慈愛に満ちた翳りの無い笑みを浮かべる愛梨と、殺意に満ちた神魔の視線が交錯し、一瞬の静寂が世界を包み込む
「……お名前、伺ってもよろしいですか?」
「神魔」
「桜です」
神魔と桜、二人の名乗りを聞いた愛梨は、その名を噛み締めるようにそっと目を伏せると、まるで握手を求めるように二人に手を差し伸べる
「神魔さんに桜さんですね……もし気が変わったら、いつでも私のところに来て下さい。歓迎いたしますから」
「遠慮するよ」
差し伸べた手と言葉に返された神魔の素っ気ない答えに、愛梨は苦笑を浮かべる
「やはり、あなたは似ていますね――死紅魔さんに」
「……っ!」
(シグ……マ?)
自身の言葉や志を真正面から否定されているにもかかわらず、憤るどころか、成長した子供の姿を微笑ましく感じる母親のような慈愛に満ちた笑みを浮かべて応じた愛梨は、声を失っている神魔に背を向けてそのまま大貴の許へと瞬時に移動する
「……!」
「まだ、あなたの口からお答えを頂いておりませんので」
愛梨が元々ここへ来たのは、自分と十世界の理念である、光も闇も、全ての世界とそこにいる人々が手に手を取り合う恒久的平和の実現のために、光魔神――大貴に力添えを求めるためだ。
「もう一度、言わせていただきます。世界の恒久的平和のために、私に力を貸していただけませんか?」
「…………」
神魔と桜の攻撃で強制的に中断されていた会話の続きを始めた愛梨を見て、大貴は目を細めて思案を巡らせる
「……大貴さん」
手を差し伸べた愛梨の言葉に沈黙する大貴を背後から見つめ、 ヒナは祈るように胸の前で手を組む
九世界の一角を成す人間界を統べる王族として、またヒナ個人としても十世界の理念は素晴らしいとは思うが、実現性は低い夢物語だと言わざるを得ない。
十世界の理念を受け入れ難い人間界の総意として、例え勝ち目がなくともその理念に迎合する事は出来ない。万が一、大貴が愛梨と共に十世界に行ってしまえば、現在世界に残された灯火のような可能性は失われ、否応なく自分達の創造主にして想い人と敵対する事になってしまう。
例え大貴と敵対してでも十世界の理念を否定する信念を持ちつつも、そんな事態になる事を望まないヒナが心からの祈りを捧げる前で、しばしの間逡巡していた大貴は、その重い口を開く
「悪い。すぐには答えが出そうもない。……少し、考えさせてくれ」
たっぷり一分ほど黙考していた大貴がようやく出した言葉に、愛梨は優しく微笑み返して礼儀正しく頭を下げる
「分かりました。あまり急かせても事態は好転しないでしょうから。じっくりと考えて答えを出して下さい。私どもはいつでも光魔神様――いえ、ここにいる皆様をお待ちいたしております」
どこまでも慈愛に満ちた笑みを浮かべ、思わず聞き惚れてしまう様な涼やかな声で大貴と個々にいる十世界以外の全員に語りかけた愛梨は、そのままその視線を自分の身内である十世界のメンバーへと向ける
「さて、今更ではありますが、これ以上人間界の方々にご迷惑をかける訳にはいきません。今日のところは帰りましょう」
「……という事だ」
「はい」
愛梨の言葉を受け、逆立った金色の髪と額から伸びる一本の角が印象的な十世界に所属する堕天使――ラグナがその身の丈にも及ぶ強大な両刃の斬馬刀を下げると、先程まで対峙していたマリアも警戒と臨戦態勢を解いて静かに応じる
「あなた、本気じゃありませんでしたよね?」
「……乗り気じゃなかっただけだ、特に今回はな」
マリアの言葉を受けたラグナは、目の前の四枚翼の女天使を一瞥するとそのまま背を向け、堕天使の証である漆黒の翼をはばたかせ、天空へと舞い上がっていく
「嘘の下手な人ですね」
空から舞い落ちてくる漆黒の羽が、身体から離れた事で神能の供給を失い、形を失って世界に溶けていくのを眺めながら、マリアはそっと瞳を閉じた
その頃、ヒナ達を守るために大貴が離脱し戦う相手を失った紅蓮は、天使と悪魔――二人の敵と対峙している茉莉の許へ駆けつけていた
「姐さん」
「分かっています」
さすがの戦闘狂も愛梨が終戦を宣言する中で戦いを続ける気はない。
今回もまた決着をつけられなかった事を残念に感じている様な、あるいはまた楽しみが今後に繋がった事を喜んでいるかのような複雑な表情を浮かべ、自身が定めた親敵たる大貴に視線を向ける紅蓮の横でたった一人で空間隔離と全霊命と人間達の戦いを分ける結界を施している茉莉は、その瞳に宿った一抹の哀しみを隠すようにそっと目を伏せる
「では帰りましょうか」
「ウス」
「茉莉!!」
感情を押し殺した茉莉の無機質な声に紅蓮が頷いた瞬間、それとは真逆の方向から愁いの表情を押し殺す金髪の女悪魔を引き止める声が響く
その声に視線を向けた茉莉と紅蓮の視線の先にいるのは、全身から血炎を立ち昇らせる身の丈ほどの両刃の大剣を携えた天使・クロスと茉莉の最愛の人――紫怨の二人
「私には話す事はもうありません」
「それでも待ってくれ。俺はそんな言葉じゃわからない……俺はお前を守るためだって自分に言い聞かせて結局お前を傷つける事しかできなかった
そんな間違いだらけの俺だけど、間違えたからこそもう間違えたくないって思ってる。今の俺じゃ、お前を守るなんてできない――二人がかりでこの様だからな」
懸命に茉莉に言葉を向け、自嘲の笑みを浮かべた紫怨は自身の身体から立ち昇る真紅の血炎に視線を落とす
紫怨とその背後で事の成り行きを見守っているクロスの身体には茉莉によってつけられた少なくない傷から血が立ち昇っている。しかし、その傷は数こそ多いもののどれも浅いものばかりで、意図的に殺傷力が抑えられている事が十分に理解できる
結界と空間隔離を同時に行い、さらに決して弱くない紫怨とクロスの二人を同時に相手取り手加減をして圧倒する。――相手が愛する人だった事もあり本気で殺意を持てなかったにしてもその実力に圧倒的な差があるのは明白だった
「けど、俺はもう自分の弱さを言い訳にしないって決めたんだ。……俺は弱い。お前よりもずっとずっと」
どれほど追いかけても、より遠くにいるように感じられる茉莉の強さ。自分の弱さが茉莉を殺す事を恐れるあまり、その強さに隠れた茉莉の弱さに背を背けてしまった自分を悔いながらも紫怨は自身の本当の願いを穏やかな瞳と声に乗せて愛する女性に届ける
「でも、それでも言わせてくれ」
茉莉を失いたくないからこそ距離を置いた。茉莉を守りたいからこそ強くなりたいと願った。しかしその根底にあったのはたった一つの願い
間違えて遠回りして、ようやく辿りついた自分の本当の心を悲しみに揺らぎ、切なさに曇っている茉莉へ向ける
「俺は、お前を離したくない」
「――っ」
紫怨の言葉に、茉莉はその頬を主に染めて目を見開く
もっと早く紫怨がこうしていてくれたら――あの時望んだ言葉を自分に向けて紡いでくれる紫怨に、茉莉は湧き上がってくる切なさと愛しさを懸命に抑えつけ、すぐにでもその腕に身を委ねてしまいたい衝動を必死に堪え、逃げるように最愛の人から顔を背ける
今の自分と添い遂げようとすれば紫怨にどんな危険が及ぶかわからない。愛する人を傷つける事しかできず、守りとおす事も出来ない自分の中途半端な強さと弱さを思い知らされた茉莉は、かつて自分が望まなかった事を紫怨に望んでしまっていた
「……もう、私の前に姿を現さないで」
「お前が俺を嫌いになったらそうする」
茉莉の言葉に、紫怨はわずかに声を穏やかな色に変えて真っ直ぐに愛する人へ言葉を向ける
紫怨と茉莉はかつて――否、今でも愛し合う恋人よりも深い関係にある。小さなすれ違いから二人の距離は離れてしまっているが、その心は限りなく近い位置にあるといってもいい。
そんな関係であるために、茉莉の心を誰よりも理解している紫怨にとって、それが本心を押し殺しているが故の言葉である事は十分に理解できる
自分の愚かさに茉莉が愛想を尽かしてしまったのならその言葉を受け入れる努力はする。しかし、そうではないと分かっているからこそ紫怨は心に誓ったのだ――例えどれほど無様でも、今度こそ大切なものを離さないと。
「……っ、お願いだから……本当に、もう……」
自分の心を見抜いている紫怨の言葉に、その声を震わせて懇願するように言葉を紡いだ茉莉は、目の前にいる想い人と、懸命に偽っている自身の心から逃げるように空間隔離を解除し、この世界そのものから姿を消す
「っ!」
茉莉が人間界から時空の門を開いて移動するのと同時に、隔離されていた空間が崩壊し、世界が現実のそれに回帰する
「…………」
伸ばした手も、想いを込めた心も茉莉を引き留めるには至らず、己の不甲斐なさと無力感に打ちひしがれるように唇を噛み締める紫怨を一瞥した紅蓮は、その姿に複雑そうな色を宿した視線を向けると、まだ人間界に残っている十世界の盟主――愛梨の元へと赴く
「姿を現すな? ……今のお前を見て、そんなことできる訳ないだろ……」
震える拳を握りしめた紫怨は、自身の言い表せない感情を押し殺すように唇を噛み締め、しばらくの間茉莉が消えた方向へ視線を向け続けていた
空間隔離と結界が解け、現実の人間界に世界が回帰したのを見届けた愛梨は、十世界の全員が世界を離脱したのを見届けてこの場にいる全員に恭しく頭を下げる
「……大変ご迷惑をおかけいたしました。この償いはいずれ」
厳かな声音で言葉を紡いだ愛梨は、人間界から帰還するべくその神能を介して異なる世界と世界を繋ぐ時空の扉を開く
「では」
「ちょっと待って」
天を彩る極光の幕を思わせる金色の髪をなびかせ、背を向けて時空の扉に向き合った愛梨を神魔の声が引き止める
「なんでしょう?」
その言葉に身体を半分向けて応えた愛梨に、神魔は真剣な面持ちで問いかける
「十世界には、僕に似た死紅魔って悪魔がいるの?」
「はい。私が最も信頼を置く仲間の一人です」
神魔の言葉の真意を測りあぐねたのか、わずかに首を傾げた愛梨だったが、すぐにいつも通りの優しく愛に満ちた笑みを浮かべる
「そう、ありがとう」
愛梨の言葉に目を伏せた神魔は、その口元に不敵な笑みを浮かべてどこか歓喜にも似た色を宿した感謝の言葉を十世界の盟主に向ける
「……では今度こそ、これで失礼いたします」
神魔が納得したらしい事を認識した愛梨は、それに小さく目礼して帰すと自身を世界を繋ぐ時空の扉をくぐる
「……神魔様」
時空の扉が閉じ、愛梨が姿を消したのを確認した桜は、美しき十世界の盟主が姿を消した空間に視線を向けている最愛の人へ愁いを帯びた菫色の瞳を向ける
「正直、命令だからやるだけで、十世界潰しなんて乗り気じゃなかったけど、個人的に戦う理由ができたみたい。……こういうのを巡り合わせっていうのかな」
自嘲じみた笑みを浮かべながらも、その瞳を冷徹な色に染め上げながら応えた神魔はわざとらしく肩を竦めると、いつも通りの表情を桜に向ける
「じゃあ、行こうか」
「はい」
神魔の言葉に恭しく頷き、最愛の人と共に鮮やかな桜色の髪を躍らせて身を翻らせた桜の視線の先に懐かしい顔ぶれが下り立つ
「久しぶり……ってほどでもないかな?」
自分達の前に降り立った大貴、詩織、クロス、マリアに順に視線を向けた神魔が苦笑混じりに再会の言葉を述べる
「まあ、時間の上ではな」
「……だね」
神魔と桜が「九世界非干渉世界への干渉」の罪で捕らえられてから、実質的にはまだ一週間も経過していない。にもかかわらず、まるで何年もあっていなかったかのような錯覚を覚えているのは大貴だけではないだろう
どちかといえば軽い挨拶で再会を喜ぶ大貴とは裏腹に、瑞希に連れられて神魔と改めて対面した詩織はその目から大量の涙を流して、極刑を下され永遠に会えないと思っていた想い人の姿に声にならない嗚咽を噛み殺す
「本当に……神魔さんですよね?」
「……うん」
目の前に神魔がいる事がまるで奇跡のように感じられ、涙に震える声で目の前の事実を現実として認識しようとしているかのような詩織に、再会を果たした悪魔の青年が優しい声音で応じる
「夢じゃありませんよね?」
「もちろん」
再度目の前の事実を確かめるように問いかけた詩織は、今まで大きな戦いの渦中にいたために神魔と桜の帰還と再会を喜んでいる暇もなかった
しかしそれが落ち着いたことと、神魔の存在を改めて認識し、その優しい声を耳にした事で安堵の感情と共に今まで抑えていた感情と麻痺していた感覚が甦るとともに懸命に抑えていた気持ちが決壊し、その感情に任せて涙をこぼしながら愛する人の胸に飛び込む
「……!」
全霊命である神魔からすればほぼ零距離からでも詩織が抱きつくのを回避する事は造作もない。しかし、あえてそれをせずに詩織の望むままにさせるのは、自分達がどれほどこのか弱い少女に心配をかけたかを分かっているからだ
「よかった……もう、会えないと思っていました」
「ごめんね、心配かけて」
神魔の胸に顔を埋め、とめどなく溢れる涙と感情に震える声で安堵の言葉を紡ぐ詩織は、今この場所に確かに神魔が存在している事を確かめるように、しばらくの間その身を愛する人に委ね続けていた
《えっと……》
自身にとって決してただの他人ではない詩織の抱擁を受ける神魔は、涙に震えるか細い肩に視線を落としつつ、一向に離れる気配がない少女にやや困惑しながら、声ではなく意志で相手を通じ合う思念通話によってこの様子を見ている伴侶に困惑した声を向ける
《まあ、今回のような場合は仕方がありませんね》
神魔の思念通話を受けた伴侶たる絶世の美貌を携える桜色の髪の女性――桜は、詩織の想いを知っているが故に自身の最愛の人に想いを寄せるゆりかごの人間の少女の姿を閉ざすように目を伏せる
「……契約違反ではありますが、今回だけは多めに見て差し上げます」
そのまま一分近く神魔の胸に顔をうずめて泣いていた詩織は、鬱積していた不安や恐怖の感情を想い人の胸の中でひとしきり発露させ、落ちついたところでゆっくりと数歩後ろへ離れて、はにかんだ恋する乙女の笑みを見せる
「ごめんなさい、変な事して……」
「気にしないで」
反射的にしてしまった事とはいえ、自分のした事を思い出して羞恥と恥じらいに頬を染める詩織の言葉に神魔は苦笑を浮かべて応じる
詩織にとって神魔は愛する人だが、神魔にとって詩織は特別な人ではあっても愛する人ではない。互いに互いを思いながらも本質的に全く異なる感情を向け合う二人には当人たちでも分かっているであろう大きな差異とズレがある
目の前の青年を恋愛対象として見る少女と、目の前の少女を異性として意識していない青年。二人が見つめ合う距離は近いようで遠く、二人の距離を象徴しているかのようだった
手を伸ばしても届かない、しかしたがいに手を伸ばせば届く距離で見つめ合い、目元に浮かぶ涙を袖で拭った詩織は晴れ渡った空のような笑みを浮かべる
「お帰りなさい、神魔さん」
「……ただいま」
詩織の言葉を受けた神魔は微笑を浮かべて、優しい声で少女に微笑み返す
「桜さんもおかえりなさい」
その後向けられた詩織言葉に、桜は流れるような所作で軽く一礼して応える
同じ人を愛していながら、片方はその寵愛を受け、片方はその想いに気づいてすらもらえない。同じでありながらも対照的な二人の女性は、まるで何か言葉を交わしているようにしばらくの間見つめ合いそして互いに微笑み合う
「……?」
そんな二人の女性のやり取りに神魔を筆頭とする男性陣不思議そうに小首を傾げ、二人の関係と想いを理解しているマリアは無表情でそのやり取りを見つめる
「大貴さん。立ち話もなんですから、続きはお部屋の中でされてはいかがですか?」
その様子を横から見ていた新たなる人間界王――「ヒナ・アルテア・ハーヴィン」の言葉に、大貴はヒナの心遣いに感謝の言葉を向け、神魔達に声をかける
「ああ、悪いな……おい、話の続きは城の中で聞かせてくれ」
「そうだね。大貴君にお願いしたい事もあるし」
「……?」
その様子をヒナが遠巻きに見ていると、そこへ長く艶やかな黒髪を頭の後ろで一つに結った女性が歩み寄ってくる
「失礼いたします、人間界王様……でよろしいでしょうか?」
「はい。先ほど継承したばかりですが」
いかに強大な界能の力によって数億年にも及ぶ長大な寿命を持っている人間界の人間とはいえ、殺されるまで最盛期を保って生きていられる全霊命の前ではそんなものは無いに等しく、至宝冠による神託も手伝って、人間界王は九世界の中で最も代替わりが激しい。
当代の王が「ゼル・アルテア・ハーヴィン」である事を知っている瑞希が確認を取る形でヒナに問いかけたのは、人間界王の証「至宝冠・アルテア」を戴いているのを認識しているからだ
確認するように問いかけた瑞希の言葉に、肯定の意を示したヒナの言葉を受けた氷麗な黒髪の女性は、王と対話するのに相応しくその場で恭しく跪く
「知らぬ事とはいえ、ご無礼をお許しください。私は魔界王様の命により馳せ参じました、『瑞希』と申す者です。人間界王様、よろしければこの後お時間を頂きたいのですが」
「……わかりました」
存在としては人間よりもはるかに上位に位置しているというのに、本心から最大級の敬意を払う瑞希の言葉に、ヒナもまた王として厳かな声音で応じる
「……ところでお前達は極刑だって聞いてたんだけどな」
「まさか、通達が間違っていたのですか?」
そのやり取りを横目に、極刑を言い渡されたと聞いてた神魔と桜が事もあろうの魔界側の同伴者を伴って戻ってきた事に、クロスとマリアが疑問を向ける
九世界では、あまりにも強大な力を持つ全霊命を閉じ込めておけないため、その大半の世界で一部の例外を除き「極刑」、「労働奉仕」、「無罪」の三つしか判決が存在せず、実力だけがものを言うという価値観も手伝って裁判などが開かれることなく刑が執行される。
九世界非干渉世界――「地球」への干渉と不法滞在の罪で極刑を言い渡されたと聞かされていた神魔と桜がここに戻ってこられたという事は、その執行が行われていないという事は極刑を免れたという事になる
魔界側が意図的に間違った情報を人間界に伝える必要性は感じられない。そんな理由もあって、極刑を言い渡されたはずの二人の悪魔が戻ってきた事に疑問を禁じ得ない様子の二人の天使の問いかけに、神魔がわずかに肩を竦めて答える
「いや、死刑だよ?」
「え? それって、どういう……」
自身が極刑に処された事を事も無げに言う神魔の様子にクロスやマリアが目を瞠り、詩織が言葉を失う中、大貴はヒナに言われた言葉を思い出していた
《特別な極刑を処す、と……》
(これが特別な極刑って事か……?)
「なあ……――っ!?」
訝しげに目を細め、神魔達のその事を訊ねようとした大貴が口を開こうとした瞬間、世界を神聖で強大な神能の力が呑み込む
「光力!? ……天使か」
(まったく、次から次へと……!)
知覚を光で満たす様なその神能が天使の力――「光力」である事を知覚した大貴がもう何度目になるかもわからないほど次々に世界を超えてやってくる九世界の住人達を内心で忌々しく感じながら、突如世界に顕現した光力に導かれるままに視線を天に向ける
その場にいるほぼ全員が天を見上げる中、人間界の上空に開いた世界を繋ぐ門から純白の翼をはばたかせて光臨したのは、腰まで届く金色の髪に純白の一対二枚の翼を持った美青年の天使。
性別を問わずに見る者を惹きつける、男性特有の力強さの中に繊細さを宿した顔立ちと、畏怖と崇拝の念を同時に抱かせるような神々しく神聖な光如きの存在感を纏ったその天使は、白を基調として金色の縁取りがされた霊衣をはためかせながら、ゆっくりと地面に降り立つ
「……『アース』様」
突如人間界に顕現した腰まで届く金色の髪を持つ天使を見て、マリアの口からため息のようにその名が紡がれると、神魔と桜の表情が一瞬にして強張る
「アースって、あのアース!? 天界最強の『四聖天使』の!?」
天使の中でも最高位に近い位置にいる天使の光臨に驚愕の色を隠せない神魔と桜の言葉に、アースと呼んだ天使から目を離す事無くマリアは厳かな声音で言葉を続ける
「はい。アース様は神から生まれた天使の祖――『十聖天』を除けば最強の天使。そして、クロスのお兄さんです」