現実と理想の境界戦
九世界創世の折に行われた世界の歴史で唯一神が引き起こした、世界最初にした最大の戦争――「創界神争」。
それに於いて、光の神位第一位である「創造神・コスモス」と闇の神位第一位である「破壊神・カオス」の戦いの中、創造と破壊の狭間に生まれたものこそが、光にも闇にも属さない異端なる存在。
神から生まれし、神ならざる神に等しき存在である異端なるものには、「異端神」という名がつけられ、中でも最強の力を持つ異端神を「円卓の神座」と呼ぶ。
しかし、当然のことながら異端の存在は、異端神や円卓の神座だけではない。
神ほどの力を持ってはいなくとも、全霊命と同等以上の力を持つ、無に属する存在は少なからず存在する。
そして、そんな異端の全霊命の中で最も有名なのが、「光」、「闇」、「無」――全ての神に仕え、全ての神に通ずる能力を持つとされる、長姉・「巫女姫」、二女・「歌姫」、三女・「舞姫」、末妹・「奏姫」によって構成される「神の巫女」と呼ばれる四姉妹だ
「彼女が『奏姫』なら、十世界が神器を集めている理由も合点がいくね」
「……どういう事ですか?」
茉莉によって隔離された人間界に出現した、金色の髪をなびかせる美しき十世界の盟主「愛梨」を見て目を細めた神魔の言葉に、詩織は首を傾げる
「神の巫女の末妹である『奏姫』は、その名の通り、神の力を奏でる能力を持っています――つまり彼女は、この世界で唯一全ての神器を使う事ができる存在なのですよ」
「……っ!」
神魔の言葉を引き継いだ桜の説明に、詩織は思わず声を詰まらせる
《全ての神の力は我等のものなのだ》
不意に脳裏に甦って来たガウル・トリステーゼ――十世界に所属する人間の言葉の意味を理解して、詩織は思わず目を瞠る
(あれは、そういう意味だったんだ……)
使用者を選び、一つ使えるからと言って他のそれも使う事ができない神器は、いかに強力な力を持っていても実用的な戦力とは言い難い。
しかし、奏姫がいれば話は別。全ての神器を扱う事ができる以上、使えない可能性を考慮に入れる必要がないのだから。
「奏姫は、神器を手に入れれば入れるほど強くなる……十世界が神器を手に入れようとするのも当然だね」
神魔が剣呑に目を細める先で、太陽のような笑みを浮かべて立つ十世界の盟主――奏姫・愛梨は、その視線をツギハギだらけの人形を抱きしめながら佇むセウへ向ける
「セウさん、私はこんな事をお願いした覚えはありませんよ」
「……はぁい」
優しい声音でたしなめられた簒奪の悪意の化神――弱さを振り翳すものは、悪戯を咎められた子供のように唇を尖らせて、愛梨から視線を逸らす
先程までその身体から迸っていた神に等しい悪意はすっかりそのなりを潜め、すでに戦意が消え失せているのが誰の目にも一目瞭然だった
「そんな返事ではいけません。一体人間界の方々にどれほどの迷惑をかけてしまったか分かっているのですか? いかにあなたが悪意であるとはいえ、こういう事は……」
気の抜けた返事が納得いかないのか、愛梨は優しく諭すようにセウに語りかける
「あー! 分かりました。ごめんなさい! もうしません……もう、白けちゃった」
しかし、そんな愛梨の言葉を遮り、セウは説教はごめんだとばかりに隔離された空間からその姿を消失させる
(なんだ、これ……?)
母親に怒られた子供が駄々をこねて部屋を出ていくような一連のやり取りを見ていた大貴は、力では圧倒的に劣っているにも関わらず、神の欠片であるセウを母親のように言いくるめてしまった愛梨――十世界の盟主を見る
セウが姿を消したのを見た愛梨は、困ったようにため息をついて、隔離された人間界とそこにいる全員を見回して深々と頭を下げる
「この度は、私の身内がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。ですが、彼女たちは、私のために動いてくれていただけなのです。全ての責任は私にあり、全ては私の至らなさが招いた事なのです」
今にも土下座しそうなほど深々と頭を下げる十世界の盟主に、その場にいた全員が毒気を抜かれたようにその姿を見る
「ですから、このような事態を引き起こした側の責任者がこのようなお願いをするのが浅ましいというのは重々承知いたしておりますが、どうか……どうかこの場は矛を収めて頂けませんか?」
頭を上げ、隔離された世界を見回して胸にそっと手を添えた愛梨の言葉が、静寂に包まれる仮初の人間界の中に神能の力によって満遍なく行き渡る
その言葉が偽りのない本心であると疑いようのないほど愛梨の眼は透き通っており、そこには誠実な謝意と全ての罪を引き受ける強く純粋な覚悟が宿っている
「…………」
(なんか、やり辛いタイプだな……)
愛梨の言葉に、大貴は対応に困って難しい表情を浮かべる
愛梨は少なくともこれまで大貴が出会ってきたどんな人間、全霊命とも異なっている
神魔達やクロス達のように理屈を立て並べるのではなく、自身の想いを素直に、ありのままに表現するその姿勢には、戦う前に戦いを否定し敵意と戦意を殺ぐような対峙しづらい雰囲気があった
世界を統一し、恒久的平和をもたらす事を理念とする十世界の組織を従えているのだから、野心や覇気にあふれているかと思えばそうではなく、常に半歩引いたところから優しい表情で見つめる母親のような慈愛と救いの手を差し伸べる女神のような献身がその存在からはっきりと感じられる
「えっと……いい人、ですね?」
同様に、予想を裏切る愛梨の人柄に毒気を抜かれたように困惑気味に言った詩織の言葉に、白金色の髪を持つ十世界の盟主を見ていた神魔は、その表情を不快そうに歪めた
「……どこが?」
愛梨の言葉に一瞬目を細めたヒナは、軽く手を挙げて全ての至宝の発動を停止させる。
実質的な戦闘終了を宣言した新たなる人間界王「ヒナ・アルテア・ハーヴィン」の意志に従うように、人間界に所属する者達が次々に武器と戦意を収めていく
「ありがとうございます」
自身の提案を受け入れた人間界の人間達に再度深々と頭を下げて感謝の言葉を述べた愛梨は、そのまま天空で紅蓮と肩を並べている大貴の許へと移動する
「お初にお目にかかります、光魔神様ですね?」
「あ……あぁ」
太陽のような笑みを浮かべて微笑む愛梨に、大貴はややたじろぎながら応じる
「今日こちらへお伺いさせていただいたのは、あなたにも私達の目的――九世界の統一と恒久的平和のためにご助力を賜りたいと思いまして」
全霊命らしく、まるで作られたかのように整っている美貌が今にも触れそうな位置にあるという羞恥と、ここまで無防備に接近してきている困惑に戸惑う大貴をよそに、当の本人である愛梨は恭しく一礼してから小さく苦笑して見せる
「などと申し上げても、このような事態を引き起こしてしまった側としては、心苦しいところがあるのですが」
十世界の面々すら御し切れていない自分をたしなめながらもたおやかに微笑む愛梨は、打算などが一切込められていない純粋な目で、光魔神となった大貴の左右非対称色の目を覗き込む
「……っ、九世界の統一って言ってもどうやるんだ? 方法によっては……」
「もちろん、話し合いによって、です
無防備かつ純粋な視線から逃れるように身をよじりながら訊ねた大貴に、愛梨はさも当然のように言って、なぜそんな事を聞くのか?と言わんばかりに首を傾げる
「は、話し合い……?」
全く予想だにしていなかった愛梨の答えに虚を衝かれて目を丸くする大貴に、愛梨はまるで心を抱きしめるように胸に手を添え、慈愛に満ちた笑みを浮かべて微笑みかける
「はい。反逆神様を同胞として擁している十世界なら、力ずくで世界を一つに統一する事も可能でしょう。ですが、それでは意味がないのです。心を力で語ってしまっては、今の世界と何も変わりません。
まだ十世界でも十分にできているとは言い難いのですが、私は……いえ、私達は心を力で語るのではなく、心を言葉で語り、分かり合い、分かち合いたいのです」
一言一言を慈しみ、噛み締めるように言う愛梨は、博愛に満ちた視線を大貴に向けて太陽のような笑みを浮かべる
「この世界に一人として同じ存在はおらず、異なるが故にいさかいを生み争いを招く――それは真理でしょうし、覆す事も出来ないでしょう。
平和や愛……失う事を恐れ、守る事を欲するからこそ争いは生まれ、故に争いの無い平和な世界など、誰もが心を捨てた世界に等しいのかもしれません……」
憂いを帯びた目で大貴を見つめ、どこか遠く――叶わない幻想と、ままならない現実の境界へ視線を向けているような揺るぎない強さと迷いを秘めた目で愛梨は悲しげな微笑を浮かべる
戦いとは、「生きる」ために行うもの。
そして、生きるとは単に命があるという事だけではなく、その上に生活を営み、他者を愛し、自らの幸福を求め続ける事でもある。故に、人は争い合う。世界が、人が、愛する人が違う。護りたいものや手に入れたいものが違えばそれはどうしようもない。
誰かのために自分の大切なものを差し出す事などありえない。「国」、「想い人」、「夢」、「日常」――誰かが戦うのは自分の世界を守り、欲するからだ。
つまり、最も簡単に実現する争いがない世界とは、「何も求めない世界」だ。何も欲さず、何も願わず、何も求めず、他者に何を奪われ、蹂躙されてもそれを笑って許容し、奪い返す事も守る事もしない。何も求めず、考えなければ争いは起きない。
「しかし、それを生きているといえるでしょうか?」
自分自身の言葉を自分で否定し、愛梨は強い意志の宿った目で大貴を見つめる
「私はそうは思いません。生きるということは、生き方を――戦い方を選ぶことができるということであるはずです
私の願いは、矛盾しているのかもしれません。……それでも私は、誰もが求める夢のような世界を――夢を叶えたいのです」
「気持ちは分からなくはない。でも……」
愛梨の言葉に、大貴は言葉を濁して目を伏せる
確かに愛梨の掲げる世界は理想的だ。だが、求めるだけでは……心だけでは実現しない現実が確かにある
「分かっています。夢を成すのに想いだけでは足りない事は」
大貴の言いたい事を理解し、愛梨はその目を優しく細める
確かに、何かを成すのは『想い』だ。夢も世界も全ては「こうしたい」、「こうなりたい」という「想い」から始まり、それが実を結んで初めて実現する
だが、夢を現実にするには想いだけではなく、どうしたら実現できるのか――世界の在りようと、そこへ至るための現実の道筋を模索していく必要がある
「――ですが、誰もが戦わずにはいられないように、誰もが戦いの中で自分や他者の命が奪われ、殺める事を嘆いていない訳ではないのです。私達が望む争いの無い世界は、人が望んでいる限り手に入らないものなのかもしれません。
それでも私は、願う事を諦めたくありません。力ではなく、言葉で心を変えたい――正しさや信念を想い合って、譲り合えるように」
心に触れるように目を伏せて自身の胸に手を当てた愛梨は、想いを噛み締めるように慈愛に満ちた笑みを浮かべて大貴を真っ直ぐ純粋に射抜く
「だって、私達には心があるのですから」
「……!」
大貴に視線を向けてはいるが、愛梨の声と意志はこの場にいる全員に向けられており、決して偽りではない本心がその優しく澄んだ声に乗って届けられる
「戦いの中で互いを認め合う事ができるように、言葉を交わして心を認め合う事もきっとできるんです。大切な人を想うように、自分と相手と誰かを想いやれば、想いと想いは繋がり、結びついて、きっと新たな世界を作り出してくれる――私はそう信じています」
そっと手を握手を求めるように差し出し、慈しむように微笑んだ愛梨に、仮初の人間界が一時の静寂に包まれ、愛梨本人と面識がある人間界王族、十世界とその理念に対してある程度の知識を持っている人間界勢や神魔達とは違い、初めて十世界の本質である盟主と大貴と詩織はその存在に言葉を失ってしまっていた
(なに、あの人……)
「あれが、十世界……敵、なんですか?」
戦意を持たず、それでも理想のため、完全に御せていない組織の仲間と向き合いながら、対話による世界統一という道を模索し続ける――愛梨の姿に詩織は敵意よりも共感や尊敬に近い感情を抱いていた
「はい」
しかし、愕然とした様子で絞り出すように漏らした詩織の声に混じった迷いを打ち払うように、瑞希の無機質で淡々とした声が響く
「でも……あの人は間違っていないと思うんです」
「……あなた如きが物事の正否を判断しようとは傲慢ですね。そもそも戦いとは、どちらかが間違っているから行うものではないでしょう?」
詩織の言葉を簡潔に斬り捨て、瑞希は大貴と向かい合っている十世界の盟主――愛梨を見て、目を細める
「……?」
(瑞希さん……?)
その言葉に目を伏せた詩織だったが、ふと動かした視界に映った愛梨を見る瑞希の目が、単純な敵意とは違う何かを宿しているように感じられて怪訝そうに眉を寄せる
そんな詩織の訝しむような視線に気づいたのか、瑞希はその瞳を普段通りの透き通った水晶のような色へと戻して言葉を続ける
「敵は私達の心が定めるもの。私達の心が相手の意志を敵と定めたその瞬間に、この世にあまねくあらゆる正義が敵になるのです」
この世界にきっと絶対的な正しさは無い。信念や愛といった個人の想いや、属する世界、国家、組織、集団によってその正しさは違っている。
故に「敵」とは、自分の信念に、自分が守りたい想いに、自分が貫きたい正義に敵対するあまねく全ての正義を掲げる者の事を指す。
詩織のそれも、九世界のそれも、十世界のそれも、形は違えど全てが正しく、等しく全てが間違っており、立場が変われば移ろい、見方を変えれば悪にすらなる。――この世に最も屍を作り出す戦う理由は、それほど曖昧で確固たるものがないものでしかない。
「それに、彼女の言葉は理想的ではあっても、正しくはありませんよ」
瑞希の言葉に、難しい顔をして考え込んでいる詩織に肩越しに視線を向けた桜は淑やかな声と、清楚な花の如き微笑を向ける
「……?」
「その証拠に十世界には、悪意が所属しているでしょう?」
「どういう……意味ですか?」
その言葉の意味を掴みあぐねて首を傾げた詩織に、桜の涼やかで耳当たりの良い声が語りかけるように言葉を紡いでいく
「そのままの意味ですよ。反逆神とはあらゆる事象に敵対する神。――故に、かの神が最も強く敵対するのは世界の理そのもの……つまりは、『神とその意志、理』です。
それであるが故に反逆神は『世界において唯一絶対の明確なる神の敵』であり、そしてそれが十世界に所属しているという事は、十世界の理念が彼らの敵対――神への反逆となるからです」
「……っ」
桜の言葉に、詩織は息を呑んで声を詰まらせる
最強の異端神である円卓の神座の一柱、「反逆神・アークエネミー」は反逆と敵対を司るこの世界において明確な唯一の神の敵であり、世界そのものの敵対者。
「反逆」するという事は、大勢に敵対するという事。それであるが故に、反逆神が敵対する大勢とは、世界そのものを形作る神の意志――「理と摂理」になる。
生まれながらに神に反逆し、敵対する事を定められた存在である反逆神とその眷属の悪意は「神の敵」と呼ばれ、それが敵対するものこそが、大勢として認識されている「正しさ」なのだ
愛梨の意志が、世界の大勢への敵対だと教えられた詩織が複雑な表情で視線を送る先で、大貴と向かい合う愛梨は優しい微笑を浮かべて言葉を続けていた
「私の意志は、世界の大局からすれば神への敵対に当たるのだそうです。だから、『敵対』の神であらせられる反逆神様達が十世界に力を貸してくださっているのだと言われます……ですが、私はそれを誤りだと考えます」
「……!?」
期せずして詩織が受けた説明とほぼ同じ内容の会話を交わしていた大貴は、愛梨の言葉に眉をひそめる
「敵対する意志があるという事は、ただ『正しい』と思われている事に準じるのではなく、それに疑問を問いかける事ができる事なのだと思うのです。
確かに、摂理は正しく、正義は尊い――ですが、誰かに言われるままそれを信じているだけでは、私達の心は死んでいるのと同じなのではないでしょうか?
本当にこれで正しいのか? 自分は正しい事を出来ているのだろうか? ……そう考える事、そう問いかける事こそが真の敵対であり、私達の心の在りようであるべきだと考えます」
正しさを否定できる正しさを掲げ、愛梨は大貴に自分のありのままの心を訴えかけていく
「確かに、戦いが生きる事の本質である事を否定する事はできません。ですが……だからこそ、争いの無い世界は実現できないなどと思考を止めてはいけないのです。
私は、できないと言われたら、諦めてしまうような生き方はしたくありません。間違わないように誰かの言いなりに生きるよりも、間違ってでも想いを貫いて後悔する生き方を選びたいのです」
「……!」
自分が蔑まれ、傷つく事をも恐れない強い意志の籠った瞳で大貴を見据え、愛梨はその可憐さとは裏腹に、揺るぎなないその心を大貴に魅せつける
自分の正しさを他者を否定して主張するのではなく、自分の考えが異端である事を認め、自分を否定して正しさを貫く――それがいかに困難な事か想像もつかないが、それを貫き、それを成そうとしている愛梨のその姿に、大貴は感銘を受けずにはいられなかった
「私は、世界を不戦の誓いの下に統一したいのです。できるかできないかではなく、私が私の意志でそうしたいと願っているのです」
最後にそう言葉を締め括り、愛梨はその白くしなやかな手をそっと大貴に差し伸べ、慈愛と博愛に満ちた笑みを浮かべる
「ですから……あなたの力を私に貸していただけないでしょうか?」
「……っ」
愛梨の言葉に、大貴は動揺と困惑を隠しきれずにたじろぐ
普通に考えれば愛梨の唱える事が実現性の低い理想論である事は分かり切っている。しかし、眼前にいる愛梨は荒野に咲く一輪の花のようにしなやかで気高く――手を差し伸べずにはいられないような想いと、その夢に賭けてみたいという想いが湧きあがってくる
現実と理想の狭間で揺れ動き、葛藤する大貴は差し出された愛梨の手を前に、しばし逡巡して唇を噛み締める
現実と理想……どちらも等しく正しく、同じだけ間違っている事柄を前に、自分の願いのためにどちらを取るべきかという葛藤に苛まれ、眼前の愛梨をはじめとする十世界、神魔やクロス達全霊命をはじめ、人間界で出会ったヒナを筆頭とする人間、九世界に属する者達の顔が次々とよぎっていく
「俺は……」
逡巡と葛藤に苛まれながら、絞り出すように言葉を紡いだ大貴を見つめていた愛梨は、不意に表情を強張らせてその場を飛びずさる
「――っ!!」
愛梨が大貴の前から離れた瞬間、桜色の光を纏った漆黒の力がその空間を薙ぎ払い、そこに込められた純然たる完全な殺意が、世界にその残滓を刻みつける
「なっ……!?」
突如放たれた容赦ない滅殺の一撃に目を見開く大貴の眼前で、その攻撃の主――漆黒の髪を持つ悪魔とその伴侶たる桜色の髪を持つ絶世の美貌を携える悪魔が、互いの魔力を帯びた大槍刀と薙刀を軽く振るう
「……今の一撃で終わらせるつもりだったのに、さすがは十世界盟主ってとこか」
完全に不意をついての一撃を回避された神魔は、感嘆の言葉とは裏腹に十世界の盟主を仕留め損ねた事を惜しんで距離を取った標的へ視線を向ける
「あなた方は……?」
「神魔、桜!?」
突如攻撃された事にわずかだけ驚きの色を浮かべながらも、元々命を狙われる理由に満ち溢れている事を自覚している愛梨は、特に動じた様子もなく急襲者へと視線を向ける
「悪く思わないでね、大貴君。ここで彼女を殺せば、手間が省けるんだ」
「……?」
背中越しに視線だけを向けて話しかけてきた神魔の言葉に、大貴は眉をひそめる
そもそも神魔と桜は、「九世界非干渉世界への干渉」の罪で極刑に処される事が決定されたはず。
地球に二人を捕らえに来た悪魔の一人「瑞希」が同伴している所を見ると脱獄した訳ではなく、正規の手段で訪れているであろう事は分かる。だが、その詳しい理由や経緯は分からない
神魔と桜の二人が自身の命を狙っている事を理解した愛梨は、二人の純然たる殺意を慈愛に満ちた笑みで受け止める
「それは困りましたね……私には戦う意志がないのですが」
「あなたになくても僕達にはあるんだ。戦いたくないなら、大人しく殺されてくれる?」
戦意がない事を主張する愛梨に、神魔はその手に持つ大槍刀の切っ先を向けて笑みを浮かべる。
例え自分に戦う意志があろうとなかろうと、相手に殺意があれば殺される。そんな分かり切った事が分からないわけがない愛梨は、その言葉に苦笑を浮かべる
「それは無理な御相談ですね。さすがの私も、戦いたくない主義を貫くために、殺されて差し上げられるほど慈悲深くはありませんので。――『神奏者』!」
その手の平から生まれた力が、愛梨の手の中に顕現し、身の丈に匹敵する金色の装飾を持つ白亜の杖となる。
杖の先端にある金色の装飾は、まるで三日月を連想させ、そこにはめられた宝玉は星を思わせる。そしてその三日月に似た装飾の欠けた部分に歯車と太陽を合わせたような装飾が施されている。
まるで天にあまねく光を形取ったかのようなその形状は、異端の存在にして世界を想像した「神の巫女」と呼ばれる者の一人である愛梨の存在を表しているかのように思える
「ですが殺したくないというのも本心です。上手に避けて下さいね。出来れば、あなた達を殺さずに戦闘を終えたいので」
自身の身の丈にも及ぶ神々しい杖を携え、殺意と戦意を共鳴する魔力に乗せて放出する神魔と桜を見る愛梨は、その身に魔力を共鳴させる二人と同等以上の異端なる神能を纏って微笑む
「――!」
(こいつ、強い……!)
愛梨の身体から吹き上がる神能を知覚した大貴は、その力の大きさに驚愕を覚えつつ、かつて地球に訪れ、神魔を圧倒した悪魔――「ベルセリオス」と同等以上の力を放つ十世界の盟主に目を細める
「……桜」
「神」の位には遠く及ばないとはいえ、「神の巫女」と呼ばれる存在の一人である愛梨の力は、九世界王にすら匹敵する。
その実力が自分達より頭一つ以上抜きに出ている事を知覚する神魔は、自分に寄り添うように淑やかに立つ桜色の髪の伴侶に視線を向ける
「はい」
神魔の声に応えた桜は、その存在の力である「魔力」を放出し、それとほぼ同時に解放された神魔の魔力が共鳴して二人の身体を桜色を帯びた暗黒の闇が取り巻く
伴侶となった全霊命は、互いの神能――神魔と桜の場合は魔力を共鳴させ、その力を増大させる事ができる。
存在の根幹で混じり合い、互いの命を共有し合った愛し合う者同士でのみ可能なその力によって、単体では決して及びえない愛梨の力に、神魔と桜。一つとなった二人の力が迫っていく
「この共鳴率……あなた達は相当に存在の相性がいいのですね」
存在の力を共感し、共鳴して魔力を増大させていく神魔と桜を見て、自身の武器である太陽と月と星を模した金色の装飾を持つ白亜の杖を構えた愛梨は、慈愛に満ちた笑みを浮かべる
愛梨が微笑んだのとほぼ同時、天空で魔力を共鳴させていた神魔と桜が同時に空を蹴り、この世の万物万象を超越する神速で愛梨に斬撃を打ち込む
「……!」
時間すら存在しえない刹那で同時に打ち込まれた大槍刀と薙刀の斬撃を愛梨の力を宿した杖の柄が受け止めると、共鳴した共鳴と異端に属する神能がせめぎ合い、世界を滅ぼすほどの力を振り撒く。
神魔と桜、愛梨の世界最高位の神格を持つ霊的な力――神能に込められた純然たる殺意が物質界に現象として顕現し、隔離されて生み出されたこの仮初の世界の大地を粉砕していく
その衝撃に撫でられる人間界の王族や七大貴族達は世界最高位の存在の中でさらに高位に属する力に、恐怖と畏怖を込めた視線を向けていた
「これは予想以上ですね……素敵です」
魔力を共鳴させ、全霊命の中でも間違いなく上位に位置する力へと昇華した神魔と桜の斬撃を受けとめる愛梨は、比較的余裕のある表情で感嘆の声を上げて微笑む
「それは、どうもっ!!」
愛梨の微笑を一瞥した神魔の声に、大槍刀を薙刀に注ぎ込まれた魔力が噴出して、愛梨を呑みこんで漆黒の爆発を巻き起こす
暗黒の爆発が桜吹雪を纏って天を貫き、その中から全くと言っていいほどダメージを受けていない愛梨が姿を現し、後方へ飛び退いて距離を取る
「……」
愛梨が距離を取るのと同時に、存在を共鳴させ互いの魔力を纏った神魔と桜が両側から挟みこむように愛梨に肉迫し、右から大槍刀の斬撃、左から薙刀の斬撃が放たれる。
一撃一撃に世界を滅ぼすほどの破壊力が込められた、秒間に両手で数えられない桁の斬撃の雨が左右から麗しき十世界の盟主へと降り注ぐ
「はああああっ!!」
一心同体と言っても過言ではないほど息の合った神魔と桜に挟撃される愛梨は、自身の武器である杖を使って巧みに攻撃を弾きながら、舞うような動きで二人の攻撃をかいくぐる
(殺意を持たないのに力が十全に機能してる――殺意の無い殺意って訳か。厄介な人だな)
桜と息のあった斬撃を繰り出す神魔は、自分達の力を攻撃を柳の葉のように受け流す愛梨を見て内心で毒づく
元々愛梨の力は全霊命としては最高位に近く、九世界の王に比肩するほど。単体としての力では神魔も桜も上回っており、いかに魔力共鳴で力を上げたとしてもそこには決定的な地力の差が表れてしまう。
しかし、全霊命の力である神格の霊・神能は、意志の力によって世界にその力を顕現させる。殺意がない攻撃は攻撃力が落ち、戦う意志と覚悟の無い者はその力を十分に発揮する事が出来ない
本来ならば、いかに強大な神格を有していようが、全く殺意を持たない愛梨はその本来の力を発揮できないはず。
にも関わらず、愛梨は殺意を全くもたない状態で自身の力を完全に扱っている。――それが、神の巫女としての力なのか、愛梨自身の力なのかは判別がつきかねるところだが
「もうやめませんか? 私には、あなた達と戦う理由がありません」
「僕達にはあるよ、あなたを殺す理由が!」
斬撃の檻の中から訴えてくる愛梨の言葉を切り捨てた神魔は、斬撃と同時にその掌から凝縮した魔力の破壊砲を十世界の盟主に向けて放つ
「……っ」
刹那、漆黒の闇が世界を塗り潰し、夜の闇よりもはるかに暗い完全なる無明に閉ざされた世界に、桜色の花弁が美しく幻想的に舞い踊る中、共鳴によって強化された神魔の魔力砲の破壊力によって仮初の人間王都が軋み、この隔離空間を展開、維持している茉莉はその威力にわずかに眉をひそめる
世界を闇にとざす無明が世界を支配して間もなく、煌めきが桜舞い散る闇を切り裂いて、その中からやはり無傷の愛梨が姿を現す
「――っ!」
神魔の魔力砲を逃れた愛梨が小さく安堵の息をついたのも束の間。闇を舞い散る桜の花弁が竜巻に巻き上げられたかのように渦を巻いて絡み合い、無数の桜花刃となって十世界の盟主を取り囲むようにして全方位から襲いかかる
全方位から襲い来る桜色の龍刃を回避しながら、すれ違いざまに杖の一薙ぎで粉砕した愛梨の背後に桜の花が揺らめく
「っ!」
小さく目を瞠る愛梨の背後で、闇に紛れて肉迫した桜が神魔との魂の契りによって強化さえた夜桜の魔力を纏った薙刀を振るう
天空に桜の花が舞い散り、世界を滅ぼすほどの力に宿っていた破壊の意志が世界に事象として干渉し、重々しい破壊の衝撃が仮り初めの人間界を揺らす。
「……素晴らしいですね。互いを理解し合い、互いを信じ合い、無条件に想うあなた達の姿は、私の想い描く理想の世界にとても近いです」
完全に不意をつかれた形になったが、間一髪のところで桜の一撃を受けとめた愛梨は、その美貌に純粋な自分への殺意を宿す桜色の髪の美女を見て微笑を浮かべる
「言ってなよ!」
瞬間、愛梨の背後から暗黒色の魔力を纏った大槍刀が振り抜かれ、暗黒色の斬閃が世界を二つに断絶せしめる
「――ですから、あなた達も力を貸してくれませんか? この世界を、この世界に生きる全ての人達を、あなた達のような絆で繋ぎましょう」
神魔の斬閃を杖ではなく、自身の力で限界まで強化した腕で受け止めた愛梨は、刃を受けとめた手から血炎を上げながらも、優しく慈しむような微笑みを向ける
誰をも魅了する太陽のような眩さと、花のような可憐さを合わせ持つ愛梨の微笑に、神魔と桜は静かに抑制された声で応じる
「嫌だ」
「お断りいたします」
刹那、神魔と桜が同時に斬撃を放ち、愛梨を中心に暗黒色の斬閃が交差し、桜の花弁が舞い散る
「確かに、あなたが言うように人と人は分かりあえるでしょう」
紙一重で前後からの斬撃による挟撃を回避し、距離を取った愛梨に視線を向けた桜の言葉に、神魔が大槍刀の切っ先を向ける
「でも、同じだけ分かり合えないんだ!」
静かに言い放った神魔は、大槍刀の刃から極大の魔力の斬撃波を放出する
「…………」
神魔が放った斬撃波を、杖の一薙ぎで相殺した愛梨は、まるで底まで見通せるほど澄んだ大海のように清らかな瞳を対峙する二人の悪魔に向ける
「この世界に生きる全ての者は誰一人として同じではなく、違うが故に分かり合う事も敵対する事もできる――他者を認めるという事は、他者を認めないという事と同義の筈です」
神魔の斬撃を軽々と防いで見せた愛梨に、桜の魔力が凝縮した力の刃が、渦を巻く蔓のように弧を描いて絡みつく
「……っ!」
「人と人が認め合えない事を認めないなんて、随分押しつけがましい事だね」
蔑むような冷淡な声で言い放った神魔は、桜と魂を共鳴させた魔力を纏わせた大槍刀の刃を天空から愛梨に向けて振り下ろす
神魔が放った漆黒の斬撃は天空から一直線に隔離された仮初の世界を貫き、微塵も揺らぐ事のない殺意の力が大地を引き裂いた
※
「……まったく、これだから全霊命同士の戦いというのは……!」
「まるで世界の崩壊ですね」
「全員、巻き込まれないように気をつけて下さい」
砕け散る大地を見て、忌々しげに目を細め、その力に恐れ慄きながら、崩れ落ちる地面の顎に呑み込まれないように距離を取るヒナ達を、黒白の力が包み込む
「これは……」
「力の重圧が弱まった……」
自分達を包んだ黒白の結界の力が、世界を軋ませていた全霊命の力の圧力を遮ったのを知覚して、人間界の王族、七大貴族を筆頭とする実力者達が安堵の息をつく中、結界を展開した張本人が左右非対称色の翼を広げて舞い降りる
「遅くなった」
「た……光魔神様」
ゆっくりと降りてきた人間の創造主たる神――光魔神を見たヒナは、思わず緩んだ表情を凛と引き締めて目礼する
「感謝いたします」
ヒナの声を聞きながら、大貴はどこか上の空といった様子で神魔と桜、愛梨の戦いへと意識を向ける。
その脳裏には、優しく微笑んで手を差し伸べる愛梨の姿が目を閉じればすぐに思い出せるほど、はっきりと焼きつけられていた。
※
「あなたの言う事は分かります」
「……!」
世界を貫いた漆黒の斬撃が砕け散り、その中から神々しい杖を携えた愛梨が厳かな声を紡いでその視線を神魔に向ける
「ただ、私は分かり合えない事を認めて、『だから分かり合えない。殺し合っても仕方がない』で終わりにしたくないのです」
先ほどの一撃を完全に防がれた事に警戒し、距離を取った神魔と桜に視線を向ける愛梨は、訴えるように自分の心を言葉に乗せて届ける
不戦の誓いを胸に、神魔と桜の明確な殺意の籠った攻撃をただ防ぐだけでとどめながら、愛梨は戦いや力ではなく、心と言葉で語りかける
「……いえ、たとえ分かり合えなくとも、理解し合えなくとも構いません。ですが、あなた方がお互いを想い合うように、私達は全ての人を想いやる事ができるはずです!」
まるで心に触れるように胸に手を当て、自分の想いを込めた言葉を精一杯紡ぐ愛梨の言葉に、神魔と桜は不快感をあらわにして目を細める
「舐めるな」
「無礼な方ですね」
同時に天を蹴った神魔と桜の存在の力が共鳴し、誰よりも強く魂そのもので繋がった二人の魔力が重なり合って、一つの極大の斬撃として放たれる
「っ!!」
二人の斬撃が一つに紡ぎ上げられ、桜の花弁を纏う漆黒の斬撃が愛梨を捉える
(先ほどよりも、力が上がって……?)
斬撃を受け止めた杖から伝わってくる重複した魔力の衝撃に目を細める愛梨を力任せに弾き飛ばした神魔と桜は、互いの武器の刃を合わせてその切っ先を十世界の盟主に向ける
「桜が――」
「神魔様が――」
神魔と桜の声が重なり、怒気に満ちた声と淑凛とした声が一つとなって愛梨を射抜く
「“桜以外の全ての他人”よりも価値があるわけない!」
「“神魔様以外の全て”より価値があるはずがありません!」
自分にとって、今共に戦っている伴侶が、他に比肩されるもののない大切な存在である事を強く宣言した神魔と桜は、全てを超越する神速で愛梨に肉薄し、目にも止まらない斬撃と魔力波を間髪いれずに叩き込む
「あなたの志は素晴らしいと思います。ですが、あなたの心には世界への愛はあっても、人への想いが欠落しています」
「……っ」
舞うように放たれる桜の薙刀の斬撃を捌きながら、愛梨はその言葉に小さく目を瞠る
「この世界に生きる全ての者は、愛であれ殺意であれど、人を想って生きるのであって、世界のために生きるのではありません。世界のために人の想いを殺せば、世界は虚ろなものになり下がってしまうでしょう」
この世界に自分と同じ存在は一人としていない。容姿も心も全てが違い、違う事を受け入れるからこそ、認め合う事も拒む事も出来る。
ただ、仲良しこよしをしているだけでは、ただうわべを取り繕ったに過ぎない。問題を先送りにし、別の問題を作り出すだけに過ぎない。なぜならば、人が人である限り、自分は自分でしかなく、どこかの誰かではない故に人は人を拒まずにはいられないのだから
「あなたには、全ての人が同じくらい大切に見えてるんだろうね」
桜の斬撃の合間を縫って放たれる破壊力に満ちた一撃が放たれ、それに合わせて桜の攻撃が繰り出される事で、完全に愛梨の反撃を封じ込める
元々殺すつもりがないとはいえ――否、殺すつもりで戦っていないために、愛梨は明確な殺意と戦意を以って攻撃を繰り出してくる神魔と桜の攻撃を前に、防御に徹さざるを得ない
「他人を区別しない奴は、そこにいる自分以外の人の事を見てない! 結局ただ世界を自分の思う通りにしようとしてるに過ぎない。自分だけを肯定して、自分以外の全てを否定しているだけなんだ!」
「……っ」
間断なく叩きつけられる斬撃と咆哮に歯噛みし、整った柳眉を顰めた愛梨その威力によって吹き飛ばされる
「気持ち悪いよ、博愛主義者」
刹那、命を共有し、魂を共鳴させて生み出された魔力が込められた神魔の斬撃が冷ややかな声と共に愛梨を捉え、金色の髪をなびかせる十世界盟主の身体が桜の花弁を纏う暗黒の力に呑み込まれた
※
「どうしたの?」
神魔の力が世界を何度目かの暗黒に閉ざす中で瑞希は、結界で守っている詩織が、唇を噛み締めて今にも泣き出しそうな表情を浮かべている事に気づいて視線だけを向けて訊ねる
瑞希の言葉を受けた詩織は、しばしの間言うべきか言わざるべきが逡巡していたが、その想いを胸にしまいきれなくなったのか、抑制された震える声を絞り出す
「分からないんです……あの人が言ってる事は凄く魅力的だけど、神魔さん達の言う事も間違ってはいない気がします……どっちが、一体どちらが正しいんですか?」
堰を切ったように溢れ出す感情に任せて吐露した言葉に、瑞希は小さく息を吐いてその視線を戦場へと戻す
「どちらが正しいとか、そんな大仰な話ではないわ」
「?」
瑞希から返って来た返答の意味を掴みあぐねてわずかに目を瞠る詩織に、一つに結った漆黒の髪をなびかせる悪魔は、凛とした水晶のように透き通った涼やかな声音で言葉を続ける
「理想を掲げなければ、現実は良くならない。理想を求めるあまり現実を疎かにしては意味がない。現実はままならないけれど、変えた所で良くなるとは限らない。変えなければ変わらない問題があるけれど、変えた所で別の問題がある――つまるところ、どちらがいいのかという程度の事に過ぎないわ」
端的に言い放ち、簡潔に話を断じた瑞希の言葉に、その背を見ていた詩織は静かに息を呑む
愛梨の理想も、神魔達の現実論も決して間違ってはいない。ただ、現実を良くしようと理想を掲げても、それにこだわり過ぎて現実を崩壊させては本末転倒になる。
何事に対しても有効な都合のいい手段など、この世界には存在しない。世界にある万物万象は陰陽表裏一体。有益な面が大きければ大きいほど、それに比例して不利益な面も大きくなるものだ。
故に、九世界と十世界のいさかいも、その本質は、何を「否」として何を「是」とするか、そしてどこにリスクを取るかという一点に集約されると言っても過言ではない。
愛梨と神魔達の戦いを一言の下に切って捨てた瑞希は、首を動かして頭だけを背後に向けると、その切れ長の鋭い目で詩織を見据える
「ゆりかごの世界の人間であるあなたは、どちらを選ぶのかしら?」
「……っ」
桜の見る者を包み込んで癒す花のような笑みとは違い、見る者の心を惹きつける氷の彫刻のような無機質な中に人の温もりを内包している様な美しさを持つ微笑をたたえた瑞希の視線に、詩織は息を呑んでその瞳に魅入られた
《お前の理想は立派だ。だが、忘れるな。この世界において停滞や無難は堕落でしかなく、実の無い理想は悪益でしかない》
(まったく、あの人と同じ事を言うんですね……)
その頃、神魔の放った魔力の力に呑まれた愛梨は、結界を展開して自身の身を守りながら、先程までの神魔と桜の言葉に、それと同じ事を言うもう一人の人物を重ねて苦笑を浮かべる
(分かっています。でも私は……それでも叶えたい世界があるのです)
神魔と桜、そして脳裏によぎる人物の言葉に微笑み、心の中で応えた愛梨は、自身の力を解放して魔力の斬撃波を破壊する
「っ!」
「手厳しいですね、現実主義者の方は。――ですが、それを受け入れなければ、私の求める未来は何一つ叶わない……」
神魔の放った漆黒の斬撃波をかき消した愛梨は、優しく強い決意を宿した言葉と共にその腕の中に自身の武器である杖とは異なる武器を召喚する
「ならば私は、いつまででも語りかけます。あらゆる敵意と殺意も受け入れて、私の心と、あなたへの願いを」
愛梨の腕の中に顕現したそれは、抜けるように鮮やかな白銀の柄と眩い金色の刃を持つ槍。その刃に刻まれた紋様は、彫刻のように繊細で、随所に施された装飾は、さながらステンドグラスのように色鮮やか。
槍という形状でありなががら、戦うための武器だとは到底思えないそれは、見る者の心を洗い流すかのように神々しく輝き、神殿のように荘厳な存在感を放っていた
『神器・墜堕星』