神の妃
「ッ! ヒナ……」
ジェイド・グランヴィアによって、ヒナが倒された頃、空間隔離によって閉ざされた人間界のはるか上空で十世界に所属する悪魔――「紅蓮」と刃を交えていた大貴はそれを知覚で感じ取っていた
先程まで爛々と輝いていた強大なヒナの存在の力が、今にも消えてしまいそうになっているのを感じ取り、今すぐにでもこの場を放棄して駆け寄りたい衝動にかられる
だがそんな心情をかき消すかのように、魔力が凝縮された波動が、大貴に触れるか触れないかの位置を神速で通過する
「……ッ」
まるで自分の行動を先読みしたかのような攻撃に視線を動かした大貴は、「お前の考えなどお見通しだ」と言わんばかりの表情を浮かべながら魔力の残滓を纏った剣を携える紅蓮を見て内心で舌打ちをする
「油断するなよ? 殺る気がない奴を殺しても面白くないからな」
不意打ちで勝つのも、油断した相手を殺すのも気に入らない。しかし、大貴を逃がすつもりもない。――そんな考えがはっきりと伝わってくる紅蓮からは純然たる殺意が放たれており、暗に「行きたければ俺を殺してからいけ」と訴えてくる
「……後悔するなよ」
「上等だ」
自身の手に握る黒白の刀――自身の神能が戦う形として顕現した武器、「太極神」を強く握りしめた大貴の一切の混じりけのない純善な殺意を受けた紅蓮は、飢えた獣のような笑みを浮かべて、眼前の好敵手の殺意に同等の殺意を以って応じる
(死ぬなよ、ヒナ……!)
紅蓮を見据え、弱々しくなっていくヒナの力を知覚する大貴は、焦燥を懸命に押し殺して左右非対称色の翼をはためかせると、眼前の悪魔に向かって空を切る
「オオオオオオッ!!」
光と闇の両質を兼ね備える世界唯一の神能――「太極」の黒白の力と、悪魔の神能である魔力の暗黒色の力がぶつかり合い、世界を滅ぼさんばかりの二つの力が荒れ狂う
《――大貴さん》
「……!?」
その瞬間、紅蓮と刃を合わせ、荒れ狂う神格の力の渦に身を晒す大貴の心の中に、小さく……しかし、確かにヒナの声が響いた
※
(ごめんなさい、お父様、お母様、リッヒちゃん、皆さん…………)
至宝剣によって貫かれた腹部の傷から拡がり、心と身体を侵食する死の力に侵食されていく感覚に、ヒナは自らの敗北と死を認識し、斧霊の不甲斐なさと無力さと無念に唇を引き結ぶ
「まだ終わりではない」「負けたくない」「守りたい」「死にたくない」――王として、人として、女として、自分自身として諦めたくないという想いとは裏腹に、至宝剣の死の力に侵食された身体は、ヒナの意志を裏切って全く動く気配を見せない
(光魔神様……)
命を奪う死の力に侵食され、目や耳といった感覚はもちろん、存在の力を感じ取る知覚すらも、底の見えない泉の奥に沈んでいくように閉ざされていく
まるで自分だけが世界から切り離されてしまったかのような無明の闇の中、ただ孤独に命が潰えていく恐怖と絶望の中、まどろむヒナの意識に一人の人物がよぎる
その人は自分達の創造主たる神にして、将来を共にするかも知れない……否、共にしたいと心から願える人。
(――大貴さん)
徐々に薄らぎ、現実から意識と身体が乖離していく死の気配の中、ヒナは自分の中に最期に残ったたった一つの想いを愛おしく抱きしめ、そして未練と感謝をこめてその人の名を紡ぐ
初めて会った時から、その人はヒナにとって特別な人だった。光魔神である以上、彼は、ヒナ達人間達に対してより強い精神的干渉を持っている。
その影響が全くなかったとは言わない。しかし、自分の心に宿ったこの想いは決してそれだけのものではないと、日増しに自分の中で膨らんでくるその愛おしさを噛みしめながらヒナは確信していた
《何だよ》
その言葉は本当に口から紡がれたものではなく、ただヒナが自分の心の中で紡いだもの。しかし、自分の心の声に応える声に、ヒナの意識は死のまどろみの中から瞬時に覚醒する
「え、大貴さん!? どうして……?」
死の水底に沈み、本当の意味での死を待つだけだったヒナの意識の闇を切り裂いてその心に届いた光のような大貴の声。
《いや、お前が呼んだんだろ?》
突然心の中に響いた大貴の声に困惑するヒナに、大貴の少し困ったような声が返される
(私が呼んだ……確かに、そうですが……)
大貴の言う通り、先程まで大貴の事を強く考えていた事をヒナ自身も自覚してはいるが、こうして大貴と自分の心の声が届き、会話している理由にはならない
「――っ!」
(まさか、これは至宝冠の権能……!?)
自分と大貴が会話している理由を思案していたヒナの脳裏に、ふとそれを合理的に説明できる理由がよぎる
王を選定する力を持つ十二至宝の中核「至宝冠・アルテア」――人と神を司り、神の意志をこの世に示すこの至宝器の権能があれば、王と共に至宝冠を継承した自分と大貴が心の中で会話できる事も説明がつく
全霊命には元々、その霊の力である神能を介して意識の中で会話する「思念通話」の力がある。至宝冠にも同様の事ができると考えれば、こうして心の中で対話できるのも当然と言えた
(長らく人間界には光魔神様がいなかった事を考えれば、この権能を私が知らなかった事も合点がいきますね)
神と対話する至宝冠のこの権能も、対話する神がいなければ使う事ができない。
先の光魔神が命を落とし、人間界から姿を消して気が遠くなるほどの年月が過ぎてしまっている現在では、この権能が忘れ去られてしまっていたのだろう
(今、ようやく分かりました……至宝冠は、神が人にその意を示すための依り代ではなく、人と神を繋ぐ祭壇だったのですね)
大貴と会話ができる理由をそう結論付けたヒナは、自分の心の中に届いた愛しい人の声に喜びと気恥かしさを覚えながら、この奇跡のような対話に昂る想いを愛おしげに噛み締める
自分と大貴が繋がっている。そう考えるだけでまるで大貴に抱きしめられているような安堵感と幸福感に満たされ、死の間際だというのに自分でも信じられない程穏やかな気持ちになる事ができた
《ヒナ?》
「あ、いえ……何でもありません」
しばらく沈黙していた事を訝しんだのか、再度声をかけた大貴にヒナは慌てて応える
《そうか》
「……申し訳ありません、大貴さん」
大貴の声にその心を高揚させていたヒナだが、その声にこれが最期の会話になるであろう事を思い出して弱々しい声で目を伏せる
《――負けたのか?》
「……はい」
人間のそれを遥かに上回る全霊命の知覚能力でおおよその現状を把握しているであろう大貴に抑制の利いた声で発した確認するような問いかけられたヒナは、己の不甲斐なさを恥じ、無力さを噛みしめながら弱々しい声で応じる
王として世界の全ての命運を背負いジェイドと対峙したというのに、力及ばずこうして力尽きようとしている現状が歯痒くて仕方がない
《諦めるのか?》
自身の無力さを呪い、自身を苛んで唇を噛みしめていたヒナの心中に、大貴の穏やかな声が囁きかける
「え?」
自分自身が十世界に所属する全霊命と戦っている最中だというのに、大貴はそんな事はおくびにも出さずに淡々とした口調で語りかける
非難する訳でも激励する訳でもないその言葉に、ヒナはわずかにその目を瞠り遠く同じ空の下で戦っている大貴へと意識を向けていた
《お前はまだ生きてる……なら、戦う事を諦めなければまだ戦えるはずだ》
「…………」
心の中に淡々と響く大貴の言葉に耳を傾けるヒナは、それを噛み締めるように目を細める
《負けたから死ぬんじゃない。死んだ時に負けるんだ――なら、生きてるってことは負けていないって事だろ》
大貴の言葉に、ヒナは目を閉じて瞼を固く結ぶ
「ですが……」
夢や信念は負けたから諦めるのではなく、諦めたその瞬間に閉ざされてしまうもの。そんな事はヒナ自身も分かっている。
未練がない訳がない。諦めたくないはずがない。人間界を、そこに暮らす人々を守り、そして自分も生きて幸せになりたいに決まっている。――しかし、そんな想いとは裏腹に死の力に侵食される心と体がそれを不可能だと訴えてくる
《お前ならできる》
「……っ!」
涙を噛み殺すような弱々しいヒナの声を、静かで抑制された大貴の力強い声が打ち払う
無責任に向けられた大貴の言葉は、本来なら満身創痍の身であるヒナに向けるようなものではない。もしこの場でそれを聞いていた者がいたなら、大貴を非難したかもしれない。
しかし、ヒナはそんな事を微塵も気にしていないどころか、どこか恍惚としているかのようにすら感じられる表情でその声に耳を傾ける。
「その程度の傷で死ぬな」、「諦めるな」、「戦え」――痛みと死へと沈んでいく孤独な闇の中で目を背けそうになる王としての責任と生きる意志を呼び起こしてくれるような言葉を待っていた
心のどこかで敗北を認め、諦めかけていた弱い自分を叱咤し、手を引き、強く背を押してくれる事を期待し、心の片隅でまだ先代に甘えている今の情けない自分を否定してもらいたかったのかもしれない。
《少なくとも俺は勝手にそう信じてる。誰が認めなくても、誰が信じなくても、俺だけは胸を張って言ってやるよ――『お前は人間界王になる女』だ、ってな》
まだヒナが王位を継承した事を知らない大貴の言葉に、新たに人間界を背負って立つ女王の唇から小さな微笑がこぼれる
「非道い御方ですね……命はあるとはいえ、満身創痍である事には違いない、か弱い女性に命がけの戦いを強要するなんて」
自分の身体は死に蝕まれ、大貴の励ましの言葉など本来なら気休めにもならない事をヒナ自身が一番よく分かっている。
しかし、不思議な事に大貴の声は自分に力を与えてくれる。
大貴が自分を信じてくれていると、誰が見ても安い励ましにしか聞こえない言葉にすらヒナの心は晴れやかに高揚していた
それが、光魔神たる大貴の加護によるものなのか、自分の想いが成す奇跡なのかは分からない
しかし、ヒナは今まで死が蝕んでいたはずの自分の内から新たな力が生まれ出るのを確かに感じていた
《悪い、勝手な事言って……》
自分でも無理矢理に言っている事を理解しているのであろう大貴が、自分の意地の悪い言葉に申し訳なさげに応える
脳裏に響くその声を聞いたヒナは、そっと目を伏せて、頬をわずかに朱に染めながらその想いを噛み締めるように、愛おしげに言葉を紡ぐ
「……やはり、そんな非道い御方と添い遂げられるのは、私しかおりませんね」
《はぁ!?》
心を介して返ってきた大貴の動揺と気恥かしさに裏返った声に、満足気に微笑んだヒナはその表情を凛とした人間界王のそれに戻す
「それともう一つ」
《……?》
静かで厳かな声を大貴に向けたヒナは、抑制された声で強い決意の籠った声で、至宝冠を介して繋がっている想い人に向けて高らかに宣言する
「――私はもう、人間界王です」
それと同時、満身創痍だったヒナの意識は現実世界に回帰し、丁度自分に確実に止めを刺すべく肉薄して至宝剣を振り下ろしたジェイドの斬撃を、黒白の神気を纏わせた黄金の槍で防ぐ
「なっ!?」
(馬鹿な、至宝剣の死の力は確実にこの女を蝕んでいるはず。どこからこんな力が……!?)
至宝剣の権能によって、確実に死の縁まで追い込み、先程まで死の境をさまよっていたはずのヒナがそんな事を全く感じさせない力で自身の攻撃を防いだ事にジェイドは驚愕を禁じ得ない
いかに至宝冠の権能によって神格を得、至宝竜を纏っているとはいっても、簒奪の悪意で神格へと堕ちた今の自分の力をあれだけ受ければ、確実にその命を落とすはず。
――にも関わらず、ヒナの身体からは衰えている様子を見せないどころか、先程までよりもさらに強大な神格化された光と闇の気が立ち昇っていく
「――っ!?」
(太極気が死の力を浄化していく……!?)
ヒナの存在の根幹から生み出される太極気の力が、至宝剣によってその心身を浸食していた死の力を浄化していくのを見たジェイドは、驚愕を禁じ得ない様子で距離を取り、注意深げにその様子を伺う
「……ようやく分かりました」
黒白の神気をさながら二刀の龍のように絡みつかせ、至宝槍を携えて静かに佇むヒナがその口から感慨深そうな声を紡ぐと、ジェイドはその意味を掴みあぐねて怪訝そうに眉を寄せる
「?」
「私は、あの方のために王に選ばれたのですね」
やや俯きがちにしていた顔をゆっくりと上げたヒナの表情は、清々しいほどに晴れ渡っており、何かを悟ったように輝いていた
もちろんヒナ自身も理解している事だが、その考えはありえない。なぜならヒナが王に選定された時、大貴はおろか、その両親ですらまだこの世界に生を受けていない。
いかに至宝冠が神意を司る至宝であるとはいえ、当時反逆神によって存在を封じられていた光魔神が、大貴の身に宿る事など予測できたはずはない。
しかし、そんな事は分かっていて尚ヒナはそう信じ、思い込む事にする。――「この出会いは運命という名の奇跡なのだ」と
自分の希望と自分自身の気持ちを確認し、静かに声に発したヒナの声はジェイドの耳には届かない程小さなもの。
他の誰でもない自分自身に向けた言葉を噛みしめながらヒナは先程まで死に瀕していたとは思えない程穏やかな笑みを浮かべて天を仰ぐ
(見ていてください、大貴さん……私の戦いを。――私の勝利を)
結界で隔てられた天空より高い空の上で、未だ十世界の全霊命と戦っている崇拝する神にして、恋慕う人へと想いを馳せたヒナは、一拍の時間を置いて凛ととした視線でジェイドを見据える
「来なさい」
厳かで抑制の利いた声がヒナの口から紡がれる。
「なっ……!?」
端的で、たった一言に全ての意志を内包したその声が響いたのと同時に、ジェイドは自分の身に生じた異変に驚愕を禁じ得ずに目を見開く
ヒナが発したのはただの言葉。それ以上でもそれ以下でもないもの。本来ならそんなものがこの戦場で役に立つはずがない。
しかし、ただの声に過ぎないその言葉がヒナの艶やかな唇から発せられた瞬間、ジェイドの身体の内側と腕に、ジェイドの意志とは全く異なる意志が顕現していた
(これは、至宝剣と至宝珠を呼んでいるのか!?)
手に持った紅の至宝剣とその存在と一体化している至宝珠。ジェイドが行使しているはずの二つの至宝がヒナの――新たなる人間界王の声に応え、その元へ参じようとジェイドの体内で荒れ狂う
(人間界王は、十二の至宝の真の支配者……いや、これが彼女が王として選ばれた理由という事か!? まさか、こんな事ができるとはな……)
自分の元を離れ、ヒナの元へと向かおうとする至宝剣と至宝珠の脈動を力任せに抑え込みながら、ジェイドは内心で唇を噛み締める
現在では六帝将などに下賜されている十二至宝だが、かつてはその全てが人間界王――人間の神たる光魔神の意を世界に示す、神の代行者の所有物だった。
歴史を振り返ってみても、王や王の継承者を除く王族と王が十二至宝を用いて戦った歴史はほとんどない。そのため、ヒナがジェイドの所有下にあるはずの至宝を呼ぶ事ができる理由ははっきりとはわからない。
ただ一つ分かっているのは、今のヒナはさながら神の啓示のように、光魔神によって生み出された至宝を統べる事ができるという事実。もしこれがヒナ自身に与えられた力だとすれば、ヒナは歴史上最も神と強く繋がった人間界王という事になる
(だが……ッ!!)
「オオオオオオオオオッ!!!!」
自分の身体の内側と外側で荒れ狂う二つの至宝の力に歯を食いしばりながら耐えていたジェイドは、悪意の神に列なる者との契約によって得た簒奪の力によって、ヒナの召還を力ずくで退けてみせる
「……!」
簒奪の悪意によって神格へと堕ちたジェイドとヒナの力はほぼ互角。その力を以って極めて優位な干渉力を持って作用したはずのヒナの至宝の召還を阻み、再度至宝剣と至宝珠を支配下に置いたジェイドは、その存在から生み出される悪意色の力を纏って不敵な笑みを浮かべる
「貴様の思い通りにさせると思うか?」
「――ならば、力づくで取り戻すまでです」
人間界王による至宝の支配を拒絶したジェイドの言葉に、ヒナはそれを上回る美しく洗練された芸術のような笑みを浮かべて再度宣言する
「至宝召還」
ヒナの言葉と同時にその周囲を取り囲むように七つの光の柱が天から降り注ぎ、その光は新たなる人間界王の周囲を回遊しながら、それぞれ「旗」、「槌」、「杖」、「弓」、「手甲」、「盾」、「本」へと形を変える
「っ!!」
(あれは……十二至宝!? 街の外で戦っている六帝将に下賜した至宝を呼びもどしたのか!!)
先ほど自分にしたように、六帝将に預けていた至宝を自分の許へと呼び戻し、それによって十二至宝の内十個までを従えるヒナを見て、ジェイドは忌々しげに唇を噛み締める
そんなジェイドの様子など気にも留めず、至宝甲を両手両足に武装として纏い、「旗」、「槌」、「杖」、「弓」、「盾」、「本」の六つの至宝を体内に取り込んで収めたヒナは、まるで別人と見紛うばかりの神々しさと威厳を携えて、己の敵である不死の簒奪へ視線を向ける。
「ゆきますよ」
思わず息を呑んだジェイドの耳に、ヒナの厳かな声音が届いたかと思った瞬間、天空に蒼き至宝の弓――「至宝弓・ゾーラザッファー」が顕現し、そこから黒白の神気を宿した矢が放たれる
「――くっ!!」
光すら貫いて放たれた至宝弓の一撃を、ジェイドは反射的に至宝剣の一薙ぎで相殺する。十二至宝屈指の火力を持つ至宝から放たれた一撃の威力に、ジェイドはその整った顔に苦悶の表情を浮かべる
(この威力……至宝弓だけではなく、至宝旗も併用しているのか……ッ)
至宝弓が放たれるよりも前に、すでに発動していた至宝旗の権能により、全ての至宝とヒナは共化され、ただでさえ強力な至宝冠と至宝竜による神格がさらに高い次元まで高められている。
その力によって強化された至宝弓の一撃の威力は凄まじく、最大火力で直撃すれば、二つの至宝の力によって不死の存在となったジェイドですら容易く滅ぼす事ができるだろう
「だが、この程度で私を倒せるなどと……」
「複製」
かろうじて至宝弓の一撃を相殺した刹那、ジェイドの耳にヒナの抑制の利いた荘厳な声が届く
「――ッ!」
その声に目を見開いたジェイドの視界に映ったのは、静謐に佇むヒナの周囲に浮かぶ無数の蒼月。ヒナに従うように天に舞う金色の光を放つ蒼い月の正体は、数十に及ぶであろう至宝弓。
「『至宝書』か……!」
おびただしい数に増殖した至宝弓を見て声を詰まらせたジェイドは、ヒナが従える本来ありえない数の至宝の正体を正しく認識する
英知と記憶を司る十二至宝「至宝書・ファルシュ・メティウラ」の権能。この世にある全てを記憶し、使用者の界能を用いて記憶を再現する力。
太極気と至宝竜の神格によって至宝すら複製したヒナが軽く手を振ると、それが合図であったかのように天空に月のごとく浮かぶ無数の至宝弓が一斉に矢を放つ。
太極気の加護を得た至宝弓の矢は、黒白の神気を纏って宙空を縦横無尽に駆け回り、総裁と迎撃を諦めて回避に徹するジェイドに容赦なく襲いかかる
「くっ……!」
光を穿ち、世界に唯一差し込む黒白の光明とも言える至宝の矢の雨をかろうじて回避するジェイドは、霞めるだけで身体を穿たれるであろうその破壊の矢の余波に悪意に毒された身を焼かれながら、その包囲網を力任せに突破する
「これが、本当の人間界王の戦いか!! デタラメにも程があるな!」
「『至宝槌』」
しかし、それで安堵している暇はジェイドには無い
至宝弓の矢の包囲網を突破したジェイドへ視線を向けるヒナは、自身の身の丈よりも巨大な至宝の槌を荘厳な声音と共に軽く振るう。
「っ!!!」
その声と同時に天空から差し込む月光が遮られ、それに誘われるように上空を仰いだジェイドは、天空を埋め尽くさんばかりの巨大な槌が天空から星が墜ちるように飛来してくるのを見る。
星が落ちるというよりも、空が落ちてくると言った方が適当に思える巨大な槌が黒白の神気を纏いながら超光速で飛来し、逃げ場がないほどに巨大で逃げ切れない程に速い天の落星がジェイドを捕らえ、その権能である「破壊」の力を炸裂させる
「ぐっ、オオオオオオオオオオオオオッ!!!」
全霊の力を込めた至宝剣で迎撃を試みるジェイドだったが、墜ちてきた天の如き至宝槌が持つ神格化された破壊の権能に、禁忌と悪意と神の加護によって生まれたその身体が悲鳴を上げる
太極気を纏った至宝槌の破壊力は凄まじく、空間ごと世界を力任せに叩き壊してしまえるほどの力がジェイドの身体を駆け巡り、その身体を破壊していく
「――複製」
全身全霊の力を振り絞り、墜ちてくる天の槌を受け止めるジェイドは、周囲の空間さえ震わせる破壊の音を振りまいている天槌の轟音さえも斬り裂いて届く、抑制の効いたヒナの澄んだ声に目を瞠る
「っ!!」
ヒナが何をしたのか、視界を覆い尽くすほどに巨大な槌を受け止めているジェイドの目には見えなかったが、戦場の中でもよく通る死刑宣告のごとき声と、その知覚がこれから起こることを正しく伝えてくる
(もう一つ、だと!?)
ジェイドが渾身の力を以って防ぐ天の槌の上空。そこにもう一つ顕現した落星の至宝槌が何を意味するのかは、もはや語るまでもない
超光速で落下した黒白の天槌は、ジェイドに受け止められていたもう一つの槌に叩きつけられ、その圧倒的な質量と破壊力を何倍にも変えてその下にいる矮小な人間に見舞う
たった一発の墜槌を全霊で防いでいたジェイドに、その連撃を防ぐ事はできない。何倍にも増幅さえた二つの星槌の威力に呑み込まれたジェイドはそのまま地面に叩きつけられ、神格化された破壊の力が黒白の光の柱となって天を穿つ
「……ガハッ」
至宝槌による破壊の衝撃が収束し、砕け散った世界の破片の中にうずもれていたジェイドは、簒奪の頃も諸共無残に破壊された身体を起こして苦悶の声と共に吐血する
至宝剣、至宝珠の権能によって限りなく不死に近づいているが故に先ほどの攻撃でもジェイドは命を落とす事なく、破壊されつくした世界の中で生き続ける事が出来ていた
そして、それこそがヒナの狙いでもあった。今のジェイドならば死なないと思っているからこそ、至宝槌による容赦ない破壊攻撃を躊躇いなく繰り出す事が出来たのだ
至宝槌の力によって破壊された世界の瓦礫の中で、血に塗れているジェイドが至宝珠と至宝剣の権能によって全快するよりも前に、ヒナは命を落としていてもおかしくない程の傷を負っている簒奪者に向けてそっと手を差し伸べる
「再度命じます――私の許へ戻りなさい」
ヒナの口から厳かな声音で言葉が紡がれた瞬間、相当離れているためにその声が聞こえていないにも皮割らず、ジェイドの体内で再度、神の力が鼓動する
「ぐっ!?」
真なる主に呼ばれ、その元へと帰ろうとする至宝の意志が脈動してジェイドの身体を焦がし、内側から張り裂けるのではないかと思われるほどの脈動を生みだす
「さ、させる……ものか……ッ!」
一度目がそうであったように、自身の簒奪の気を全開にして懸命に王による至宝の召還を妨げようとするジェイドだったが、肉体はおろか、魂すらも打ち砕かんばかりの破壊力を持った至宝槌の破壊の力を受けた反動でその力は先までの拘束力を失ってしまっていた
(グッ、先の一撃で身体が……女王め、謀ったな!?)
先程までの攻撃が自分を瀕死に追い込んで、今度こそ至宝剣と至宝珠――失われた二つの至宝を取り戻すためのものだと理解した瞬間には時すでに遅し。
ヒナの召還に応えた二つの十二至宝――「至宝剣・セイオルヴァ」と「至宝珠・イグニシス」がジェイドの身体から分離し、二つの流星となって天に昇る
「っ、ガアアアアアッ!?」
ジェイドの支配を逃れた二つの至宝は、ジェイドの身体から飛び出してその真の所有者たる人物――「ヒナ・アルテア・ハーヴィン」の許へと帰還する。
至宝剣・セイオルヴァは他の武器の至宝と同様にその周囲に浮かび、至宝珠・イグニシスはそのままヒナの身体に溶け込んで一体化する
(これが、至宝珠の権能……まるで、私が新しく生まれ変わるようです)
ヒナの身体――その存在そのものと一つに融合した至宝珠は、その権能によって、ヒナをその存在の根幹から作り変え、半霊命でありながら全霊命のそれに限りなく近い、不死身にして無限の力を持つ存在へと昇華される
「こ、これは……神格がさらに高まっていく……」
魂と心――存在の力を神格へ昇華させる至宝冠、その身体を神格へと昇華させる至宝珠、そしてその神格を世界に顕現させる至宝竜。三つの至宝の力によって限界まで高められた神格がヒナの力をさらに高め、世界唯一の半神半人へとその存在を完成させる
十二の至宝を全てその身に纏い、世界を震わせる程の神気を放出するヒナを地上から見上げていたゼル達は、その神々しいまでの聖魔の力の奔流に心を奪われながら、畏怖と敬愛の入り混じった念を完全なる人間界王に向ける
「……十二の至宝が、一人の王の下に集った」
「あれが、完全な人間界王……」
緋蒼の白史によって二つの至宝が失われ、六帝将に六つの至宝を下賜した事で、歴史に語られるだけとなった十二の至宝を統べる人間界王の最強形態。
伝説の力を身に纏ったヒナは、閉じていた目をゆっくりと開いて、自身から生まれる神々しい黒白の神気に宿る最愛の神の気配に目を細める
(これが光魔神様の……大貴さんの力……!)
自分の中から湧き出してくるこれまで以上の神格を帯びた太極気は、確かに自分の中から生まれているのに、自分だけのものではないかのような――自分の中に光魔神がいるように思えてならない
(これが、十二の至宝の真の権能……)
至宝冠、至宝珠、至宝竜の権能によって神に近づき、神と繋がる。――神を想い、神に思われ、心を通わせる「十二至宝権能・神愛」
「――さあ、共に参りましょう」
自分の魂と力と身体の中に、確かに感じられる神の存在に慈愛に満ちた笑みを浮かべたヒナが、囁きかけるように言葉を紡ぐと、その身に宿った十二の至宝がその力を解放し、黒白の光が天を貫く
「こんな……こんな馬鹿な事が!!」
至宝の力が天を貫き、愕然として目を見開くジェイドの視界を黒白の神気が埋め尽くし、世界の全てを光と闇が覆い尽くす
「これで終わりです、ジェイド・グランヴィア」
抑制の利いた宣言と共にヒナが解放した太極気を纏う十二至宝の力を見て、ゼルが声を詰まらせる。
「あれは、かつて人間界王が行使したとい神宝の最大顕現。……十二至宝の全ての力を用いて放つ、人間界王の究極奥義……!」
十二至宝が欠けたその時から失われていた人間界王だけに許された半霊命最強の力の顕現。神に愛され、その力を持つ事を許され、その加護を受けるものだけが行使する事ができる神に近しき一撃。
「『神宝王義』――」
世界が光と闇に閉ざされ、隔離された時が制止した世界の中で人間界王だけが、唯一の存在としてその権能を解放する
『太極神武乱舞!!!!!』
光と闇、破壊と創造、生と死の力が複雑に混ざり合いながらジェイドを呑みこみ、記憶された力の奔流が永遠に降り注ぐ中、世界からその存在を忘却させ、無慈悲なる神の裁きを以って、完全なる終焉を確定する
神の意志を以って王が定めた対象を、世界から完全に消滅させる事象の力が渦を巻き、技も力も全てを超越した、抗う事を許さない絶対なる力の奔流がジェイド・グランヴィアを呑みこみ、永遠に連鎖する聖魔の神撃が簒奪の力ごとその存在を滅却していく
「あと……あと一歩で、世界がこの手に収まるはずだったというのに……なぜ、こんな……こんなッ!!」
世界の全てを超越せしめた、神格の力の奔流に呑み込まれたジェイド・グランヴィアはもはやその存在を維持する事が出来ず、神々しき光と闇の神気の奔流によって世界から消滅する
「見事だ。あれこそまさしく、真の人間界王の姿……!」
十二個全ての至宝を従え、その絶対なる神意と神愛を以って世界に害なす敵を討ち滅ぼしたる、気高く神々しきその姿は、まさに神の意志の代行者にして人々を統べる王の姿。
悠久にも等しき時間を経て世界に再臨した完全なる人間界王――「ヒナ・アルテア・ハーヴィン」は、その勝利によってその威光と存在を世界に知らしめていた