覚醒の兆し
一点の混じり気もない神々しいほどの漆黒の力が天を衝く。
それを生み出している二つの魔力は、世界を黒に塗り替えるほどの力を振るい、世界が砕けてしまうのではないかと思わせるほどの力をもって荒れ狂っていた。
「オオオオオッ!」
レドの金色の手甲を纏った拳と神魔の大槍刀が真正面からぶつかり合い、そのたびに魔力が世界を揺るがせる。
二人の戦いはまさに互角。
武器のリーチで神魔が有利と思われるが、レドはその攻撃をかいくぐって無数の拳を繰り出すという応酬が行われており、その戦いはまさに拮抗していた。
「はあああっ!」
「――っ!」
懐に入られれば不利なはずの長柄武器を扱う神魔は、しかしそんな事など意に介してもいないかのように懐に潜り込んできたレドの攻撃を巧みに捌く。
光すら足元にも及ばず、刹那の時間すら存在することができない事象を超越した神速と世界を滅ぼすほどの力の激突。
目に映る事すらない神速で繰り広げられる刃と拳の応酬を繰り返して距離を取ったレドは、軽く手を払ってから相対する神魔に不敵な笑みを向ける。
「やるな……だがそれだけに残念だ。出来れば、全力のお前と戦いたかったんだがな」
「……?」
レドの言葉にその意味を把握しきれていない詩織と大貴は、結界の中で首を傾げて結界を作り出している神魔の後ろ姿に、揃って視線を向ける。
「お前の方が俺よりも僅かに強い。しかし俺達の力の差はほんの僅かしかない。だからこそ、お前は俺に勝てない」
言い放ったレドの身体から魔力が吹き上がり、その金色の手甲に魔力が収束していく。
「いくぞ!」
「……っ!」
いつ動いたのか、動き始めた瞬間すら分からないほどの速さで移動し、刹那すら存在しないほどの時間で肉薄したレドは、片腕を神魔に、その反対の腕を詩織と大貴を守っている結界に向けて魔力を解放する。
「きゃあっ」
「なっ!?」
両の腕から放たれた魔力の波動の一つは神魔の大槍刀によって相殺されるが、もう一つの攻撃はレドのもくろみ通りに結界に炸裂し、その中に他二人の視界を漆黒に塗り潰す。
それはまるで、死に呑み込まれてしまったかのような絶対的な絶望。
この力を向けた相手に、死と滅びを与えるために放たれた暗黒の力が、その意志と力を以って神魔の結界を震わせ、それに守られている詩織と大貴に魂の髄をも凍てつかせる死の恐怖を与えていた。
「この……っ!」
レドの魔力の波動を受け止めていた神魔は、大槍刀の刀身に自らの魔力を注ぎ込むと、その勢いのまま魔力砲を打ち砕いて斬撃の波動を放つ。
漆黒の闇を切り裂くと同時に放たれた神魔の斬撃の波動が黒い月の様に向かって斬るのを見て取ったレドは、余裕の表情を浮かべたまま半身をひねることでそれを回避してみせる。
「ハッ!」
神魔の魔力の斬撃波を軽々と躱してみせたレドは、嘲るような笑みを向けたまま後方へ移動して距離を取る。
その瞬間、神魔が大槍刀の斬撃に合わせて放った魔力の波動が、先ほどまでレドがいた場所を一薙ぎの下に消滅させてみせた。
「あぶねぇ、あぶねぇ」
魔力に込められた破壊の意思が世界の地表を舐めるように消滅させる様を見たレドは、どこか嬉しそうな笑みを浮かべて結界を張ったまま大槍刀を携える神魔を見て、歓喜の笑みを浮かべる。
「やるじゃねぇか、その状態で反撃まで出来るとは思わなかったぜ!? 場数も大分踏んでいるな。だが……」
その瞳に狩人のような鋭い眼光を宿す目を細め、血に飢えた猛獣のような獰猛な笑みを浮かべるレドの視線の先には、傷を受けた脇腹から赤い血炎を上げている神魔が映っていた。
「神魔さん」
まるで獲物をいたぶることを喜んでいるかのようなレドの声で、神魔の傷に気付いた詩織は、炎を思わせる全霊命特有の血に声を詰まらせる。
「大丈夫だよ」
そんな詩織の不安をかき消すように、肩越しに視線を向けた神魔は、口からも零れていた血炎を拳で拭って微笑みかける。
「でも……」
自分を安心させようとしてくれているのだろうことがわかる神魔の笑みに、躊躇いがちに応じた詩織は、炎の様な血が目に見えて小さくなり、瞬く間に消えていく様を見て息を呑む。
「傷が……!」
目に見えてわかるほどの速さで傷が治癒したのを見て、驚きを禁じ得ない詩織と大貴を見た神魔は、優しく微笑んで二人に背を向ける。
「このくらいの傷ならすぐに治るよ」
「だから心配しないで」と背中で語って見せた神魔は、漆黒の刃を持つ大槍刀の切っ先をレドに向け、仕切り直しとばかりに微塵も衰えていない純然たる戦意と殺意に満ちた魔力を解放する。
「ハッ、良い目だ。だが分かってるだろう? 今のままじゃてめぇは絶対に俺に勝てないってことがなァ!」
自身に向けられた神魔の大槍刀の切っ先と視線を真正面から受け止めたレドは、強く握り込んだ拳に魔力を纏わせ、まるで威圧するように咆哮をあげた。
※
「神魔……」
苛烈さを増していく神魔とレドの戦いを、紅蓮と刃を交えながら知覚していたクロスは、すぐに駆けつけられないもどかしさに彩られた険しい視線を向ける。
「やはり、後ろにあれらを庇いながらでは実力も半減だな」
「っ!」
瞬間、神魔に気を取られていたところへ紅蓮の剣が肉薄し、クロスは反射的にそれを受け止める。
漆黒の魔力を纏う紅蓮の剣の刀身と、純白の光力を纏わせたクロスの大剣がせめぎ合い、相殺された光と闇の力が火花のように飛び散る。
(不本意だが神魔を助けにいかないと大貴達が危ない。さっさと決着を付けたいのは山々だが……)
挑発的な笑みを浮かべる紅蓮を睨みつけるクロスは焦燥に駆られるが、紅蓮の戦闘力がそれをさせてはくれない。
「どうした!? 行かなくていいのか?」
「言われなくても、分かってるよ!」
純白の光を炸裂させて紅蓮を吹き飛ばしたクロスは、大剣を構え直すと、目の前で獣のような笑みを浮かべる紅蓮に声を向けた。
※
「俺達の実力は拮抗している。本気で戦り合えば勝敗は分からないだろうな。だが、今のお前は、後ろの二人を守るために自分の魔力で作った結界を維持しながら戦っている」
自分が勝利できる理由を述べるレドは、対峙した神魔にではなく、結界の中にいる大貴と詩織に向けて言葉を並べていた。
それがわかっていても、現状下手に手を出すことができない神魔は成す術もなくそれに耳を傾けていることしかできず、大貴と詩織はただ粗暴なだけではないレドの巧みな話に否が応でも意識を引き込まれていく。
「その結界を構築している間はその場所を離れられない上、それを維持するためには常に魔力を割き続けなければならない。
だが、そんなことをしてちゃあ、どれほど上手く戦闘と結界に使う魔力の配分を変動させても、それぞれに込められた魔力は俺には届かない。
――つまり、その結界を張っている限り、てめぇは俺に勝てないってことだ!」
「そんな……」
理路整然と自分の勝因を語るレドの言葉に結界の中から神魔を見る詩織は、言葉を失う。
その足は自分たちのために神魔が傷ついているという事実と、自責の念によってわずかに震え、今にも崩れ落ちそうになっている。
「そうなのか!? 神魔」
「まぁ、一応ね……」
わずかに語気を強め、問いただすように発せられた大貴の言葉にバツが悪そうに答えた神魔は、軽く頭をかいて二人に背中越しに苦笑を送る。
神魔が展開している魔力の結界は一種の盾であり、自分から離れた場所には展開できない。できる者もいなくは無いが、少なくとも神魔にはできない。
そして結界を維持するためには、常に魔力を注ぎ込んでいなければならない。
だからこそ結界を維持し続けるには意識と魔力を常時割いておかなければならない。
つまり、大貴と詩織を守るために結界を作っているために、その維持に必要な魔力の分だけ神魔の魔力と行動に制限を設ける事になってしまうことになってしまうのだ。
「そんなの卑怯じゃないですか! 神魔さんが全力で戦えないようにするなんて……」
「ほざけ!」
不利な状況での戦いを強要することを非難する詩織の言葉を一喝したレドは、神魔の結界の中にいる少女に侮蔑の念さえもこもった視線を向ける。
「これは遊びじゃねぇ、殺し合いだ! 命をかけた戦場で自分が有利に戦うようにするのは当然の戦略だろうが!? それともお前は自分が有利なのはいいが、自分が不利になるのは許せないって言うのか!?」
「っ、それは……」
レドの言葉に反論することができない詩織は、声を詰まらせて悔しさに唇を引き結ぶ。
詩織の脳裏に思い出されるのは昨日の戦い。紅蓮一人に対して戦うクロスに、神魔は後方から魔力砲による狙撃だけだったが、戦いに加わっていた。
その時には、確かに自分はそれを卑怯な戦い方だと感じてはいなかった。――あの時にはそんな事を考える余裕がなかっただけなのかもしれないが。
「神魔、まさかお前も卑怯だなんて言わねぇよな」
「まさか? 普通の事だよ」
レドの言葉に、神魔は表情を変える事無く応じる。
「だ、そうだぜ女。文句を言いたきゃ足手まといでしかない自分達に言うんだな」
「……っ!」
レドから放たれたその言葉に、詩織は反論することもできずに唇を噛みしめる。
この戦いが始まる前、空間隔離を施す際に紅蓮と神魔、クロスの間で行われていたやり取りの応酬の意味を理解した今となっては、自身の力の無さが恨まれてならない。
元々、自分が足手纏いでしかないことは分かっていた。
自分の我儘が聞き届けられたのも、神魔が自分の気持ちを汲んでくれたこと、そして大貴を守る以上、一人が二人になっても同じだと考えたことも想像がつく。
そうでなければ、先日の世に叱咤してでも連れてはこなかっただろう。
それでも詩織は、自分達のために傷を負っている神魔に何もしてあげられないことが悔しくてたまらなかった。
「ごめんなさい、神魔さん、私の所為で……」
自分達のために不利な状況で戦わざるを得ない神魔に、詩織は己の無力に打ちひしがれながら自責の念に押しつぶされそうになる。
「気にする事ないよ。僕がやりたくてやってる事だから」
しかし、当の神魔はそんなことなど気にした様子もなく、レドに意識を向けながら詩織を気遣って優しく微笑みかける。
「大丈夫。詩織さんは僕が守るから」
(……!)
肩越しに向けられた神魔の言葉に、詩織はわずかに頬を染めて目を見開く。
自身の窮地や不利な状況など気にもしていないかのようなその優しい言葉と表情は、詩織の心の奥底に染み込み、不思議な安心感を与えてくれる。
同時に、詩織の心の中に温かな――今まで感じた事のないような想いが本人さえ自覚しないままに小さく芽吹く。
「大層な言い分だが、いつまで守り切れるかな!?」
そのやり取りを見ていたレドは、神魔の言葉に小さく笑みを零すと、金色の手甲に覆われた両腕に魔力を注ぎ込んでいく。
レドの魔力が漆黒の炎のように吹き上がり、全てを破壊し、滅ぼす純然たる意志が込められた力がその威を解き放つ時を待ち詫びる。
「――っ」
「行くぜ!」
その力を知覚して武器を構える神魔に、レドは地を蹴って全霊の拳を振るう。
神速で振るわれた神魔の大槍刀の斬撃とレドの拳が激突し、暗黒の破壊の力が周囲に満ちていた光を滅ぼしてしまったかのように無明へと世界を塗り替えていく。
「まだまだァ!」
最初の一撃を防がれても、レドの攻撃は止まらない。
右の拳が防がれたなら左の拳を振るい、それが弾かれたなら再度右腕から拳撃を繰り出していく。
一撃一撃に世界を滅ぼす力が込められた神速の拳が、絶え間なく撃ち込まれ、そこに込められたレドの意思のままに神魔を滅ぼさんと力を振るう。
それは、ただ純粋な力という名の破壊現象。あまねく全てを破壊し尽くす純粋な力が、神魔の存在を消し去らんと唸りを上げていた。
「く……っ」
自身とほぼ同等の神格を持つレドの攻撃をかろうじて捌く神魔の表情に余裕はなく、苦悶の表情が浮かんでいる。
大貴と詩織を守る結界と空間隔離のために魔力と意識を割いている神魔では、十全の力を振るうレドの攻撃をいつまでも防ぎきることは困難だった。
拳に込められた破壊の魔力が身体を傷つけ、神魔を圧倒していく。
時間にして一瞬にも満たない斬撃と拳撃の応酬。数えることすらできないその激突の果てに、レドの拳が神魔の大槍刀の刃を弾く。
「く……っ!」
「これで終わりだ!」
レドがその好機を逃すはずはなく、全霊の魔力を注ぎ込んだ拳の一撃を打ち込む。
瞬間、世界が壊れてしまったかと思わせるほどの圧倒的な漆黒の魔力の奔流が天を衝き、それが全てを塗り潰す。
「きゃああああっ!」
「くっ……」
それと同時にレドが放った魔力の暗黒が結界を呑み込み、神魔が展開した頑強な結界が軋むような音を立てる。
魔力に込められた存在そのものを漆黒の彼方へ呑み込んでしまうような殺意と威圧が容赦なく降り注ぎ、今にも結界が破壊されんばかりの衝撃に詩織と大貴は恐怖を覚える。
もし今神魔の結界が破壊されるようなことがあれば、外に満ちる全霊命の純然な殺意と存在が、矮小な二人の地球人から瞬く間に命を奪ってしまうことは確実だった。
生と死が入り混じった漆黒の世界が二人の感覚を閉ざし、それが行き過ぎるのを、詩織と大貴は恐怖に身を震わせながら待ち続けるしかない。
そして、永遠とも思える刹那の恐怖は、レドの魔力が消えるのと同時に消失し、かろうじて攻撃を耐えた結界に守られた大貴と詩織の姿があった。
「っ、と、止まった……?」
「姉貴、大丈夫か?」
「うん。生きてる……っ! 神魔さんは!?」
自分と大貴が無事な事を確認し、安堵の息をついた詩織は、神魔に視線を移して言葉を失う。
「――……っ!」
「二人とも無事だね?」
その声にいつもと変わらない口調で応えた神魔を見て詩織と大貴は言葉を失う。
「し、神魔さん……」
先ほどまでと同じように詩織と大貴を守るように立つ神魔の左腕が途中から失われ、その傷口からおびただしい量の血炎が立ち昇っていた。
全霊命である神魔の身体を構成する魔力が血炎として溢れ出し、世界に融けていくその光景に、詩織と大貴はどこか現実感のない幻想的な印象を感じていた。
「神魔さん、腕が、それに血も……」
そんな景色を前にした詩織は、神魔の痛々しい姿に顔を青褪めさせ、悲愴な表情を浮かべる。
この状況の中で詩織が冷静さを保っていられるのは、神魔の傷口からあふれ出しているのが、血液ではなく血炎だからだ。
もし大量に噴き出す神魔の血が炎のような幻想的なものでなく、液体として噴き出していたならば、そんな大量の血を見た事がない詩織は、間違いなく気を失っていただろう。
「痛っ、大丈夫。僕達全霊命は生命力が強いから、この程度じゃ死なないよ」
これまで生きてきた中で直面したことのない光景を前に立ち尽くす詩織と大貴に、神魔は事も無げに応じる。
人間ならショック死してもおかしくないほどの激痛と出血でも、全霊命の命を奪うことは出来ない。
それは、全霊命という存在の生命力の強さの証明であると共に、神能の結晶であるその身体は、意志によって痛覚をある程度遮断する事もできるからだ。
「驚いたな。咄嗟に腕で防ぐとは――しかも、反撃までしてくるとは思わなかった。今度は当たらなかったが」
その時、距離をとっていたレドは、片腕を欠損した神魔を見て驚愕と感嘆の入り混じった声を発する。
あの一瞬、レドは自身の攻撃が命中する前に自身の腕で神魔が攻撃を受けるのを目の当たりにしていた。
腕一本を引き換えに自分の攻撃を凌ぎ、しかも反撃まで繰り出して来た。
そんな神魔の強さに、レドはこの戦いを心から楽しみ、その強さを心から称賛していた。
「まだ戦れるか?」
「もちろん」
それを見て笑みを浮かべたまま拳を構えたレドに、神魔も大槍刀の刀身に漆黒の魔力を纏わせて応じる。
「神魔さん」
「大丈夫です。それより、二人はそこから動かないでください。今の僕じゃ動き回られると守りきれないから」
「……はい」
「ああ、姉貴は任せてくれ」
失われた腕の苦痛にわずかに顔を歪ませながらも、不安を与えまいと穏やかな口調で言う神魔に、詩織と大貴はその言葉に従うしかない。
(神魔さん……)
腕から真紅の炎を立ち昇らせている神魔の背を見て、詩織は祈るように手を合わせる。
戦う力を持たない自分たちが何をしても、神魔の足手まとい以外のものになれない事を自覚している大貴は、片腕を失っても尚、自分たちを守るために立つ悪魔の背に思わず声が漏れる。
「なあ、何でそんなになってまで俺達のこと守ってくれるんだ……?」
「僕がそうしたいから。だよ」
躊躇う事無く言い放たれた神魔の言葉に、大貴と詩織は目を見開く。
(たった、それだけ、か……)
使命でもなく、義務でもなく、仕事でもなく、自己満足以外に利益も見返りもない。
しかしそれに躊躇いもなく命を懸けている神魔の行動と心の有り方は人間の心理では理解し難いもの。
そしてそれは詩織と大貴に全霊命――悪魔という人あらざる存在に対する畏怖と尊敬の念を抱かせるには十分なものだった。
「だから、二人は何も気にしないで僕に守られてて」
(……っ!)
神魔の言葉に詩織は声にならない想いに拳を握り締め、その横で大貴は神魔の背に視線を向ける。
《闇の存在は、大切なモノを守るために他の犠牲を恐れない。……自分にとって大切なもののために、それ以外を切り捨てるんだよ》
その時、神魔の後ろ姿を見つめる詩織の脳裏に甦ってきたのは、少し前にクロスから聞かされた話――光と闇の存在の違いについてだった。
悪魔をはじめとした闇の存在は、自身の大切なもののためにそれ以外を切り捨てる、恐ろしいほどの純粋さを有しているという。
まだ、全霊命という存在について分からないことは多いが、これまでのことを思い返せば、少なくとも自分の命の価値を低く見積もっているということはないことは間違いない。
つまりそれは、神魔は今自分の命よりも、ただの人間でしかない自分達の命を大切に思ってくれているということなのではないかと詩織には感じられた。
(神魔さんは、私達のために自分の命を懸けて戦ってくれてる。それは、私達の命を自分よりも大切にしてくれているってこと……?)
《大丈夫。詩織さんは僕が守るから》
そして、そんな考えに至った詩織の脳裏に、先程神魔からかけられた言葉が鮮明に思い起こされる。
神魔が自分のことを自分よりも大切に想ってくれている――その可能性に思い至った詩織は、顔が火照るのを自覚する。
(それって、神魔さんは、私のことを自分の命よりも大切に想ってくれてるってこと? それって、もしかして……)
頭では勘違いかもしれないという可能性がよぎりながらも、命を懸けて自分を守ってくれる神魔の後ろ姿に、詩織の心はこの想いを信じたいという願いに傾いていく。
(もしかして、神魔さんは私のことを――)
「まぁいい。俺としては不本意な形ではあるが、お前を弱らせる事には成功した。これで計画を始められる」
そんな詩織の心中など興味もなく、レドは左腕を欠損した神魔を見て勝ち誇ったように笑みを浮かべる。
「計画?」
その言葉に怪訝な表情を浮かべた神魔に不敵な笑みを返したレドが小さく指を鳴らすと、それを合図として周囲に魔力の渦が生まれ、その中から巨大な獣が現れる。
それは漆黒の体毛に覆われた全長三メートルはあろうかというゴリラに似た巨大な生物。頭部には巨大な角、禍々しく爛々と輝く血のような目と鋭い牙。
数十匹同時に出現したその獣は、高い知性を感じさせる統率のとれた動きでゆっくりと移動して神魔の結界を取り囲む。
「な、何だ? こいつら」
「……魔獣か」
周囲を取り囲む巨大な獣を警戒して視線を動かす大貴と詩織の正面で、神魔はレドを敵意や戦意とは違う憤りを宿した目で睨み付けた。
※
「っ、ゆりかごの世界に魔獣まで持ち出してきやがって――ッ!」
下で繰り広げられる戦いに知覚を傾け、クロスは純白の両翼から光の雨を紅蓮に放つ。
「あいつ一人ではレドを相手に脆弱な人間二人を守って戦うのは難しい。そんな事は最初から分かっていたことだろ?」
そんなクロスの光の雨を漆黒の魔力の刃を放ってかき消し、紅蓮は獰猛な笑みを浮かべる。
結界を維持したまま全力で戦えないのは九世界では常識。
そのため神魔に結界を任せるならば、クロスがその前で結界とそれを作っている神魔を守って戦わなくてはならない。
だが、それが分かっていても、紅蓮が立ちはだかっている今、クロスは神魔の元に駆けつけることはできなかった。
「言われなくても分かってる! だからさっさとお前を倒さなきゃいけないんだろうが!」
純白の光力を大剣の刀身に纏わせたクロスは一条の白い流星となって飛翔し、紅蓮を打倒するべく向かっていく。
「そう言うなよ! 楽しもうぜ!?」
自身の誘いに乗り、闘志と戦意を剥き出しにしたクロスを迎え撃つべく、紅蓮は歓喜の声と共に魔力を纏わせた剣を振るう。
「オオオオオオオッ!」
二人が激突した瞬間、光力と魔力が砕けて生み出された白と黒の花弁を持つ花が宙に開いた。
※
「……魔獣?」
周囲を取り囲む巨大な漆黒のゴリラに似た魔獣に怯えた視線を向けて、詩織が小さな声を漏らす。
神魔の結界の周囲を取り囲む魔獣は、一定以上の距離を保ち静観を決め込んでいる。その獣とは思えない冷静な佇まいに詩織の背を嫌な汗が流れる。
「魔獣は魔界に住む獣だよ。知性が高くて高い戦闘力を持ってはいるけど、彼らは半霊命だから大丈夫。
半霊命は全霊命には絶対に勝てないから。僕がここにいる限り、彼らは攻撃してこない」
(神魔がここにいる限り、か……つまり神魔がいなくなったらあいつらが襲ってくるわけか)
神魔の言葉に、大貴はその意味を正しく理解して周囲を取り囲む魔獣を見回す。
知性が高いという言葉の通り、魔獣たちは静観に徹するのみで、決して神魔を煽る様な威嚇はしない。
いかに隻腕になっていても自分たちの力が及ばない相手だと理解し、不必要に怒りを買うのを避けているのだ。
「さて、ルールは理解出来たな? ……しっかり守れよ!?」
凶悪な笑みを浮かべたレドは、魔力を込めた金色の拳を構えて神魔に向かって地を蹴る。
「オラアアッ!」
「……ッ!」
怒号と共に放たれたレドの攻撃を大槍刀で受け止めた神魔は、その衝撃と失った腕の痛みに顔を歪めて歯を食いしばる。
そんな神魔の状態を認識しながら、レドはその攻撃を緩めることなく怒涛の攻撃を繰り出していく。
「ハハハハッ!」
瞬きほどの一瞬で数千、或いは数万を越える斬撃と拳撃の応酬が漆黒の魔力の波動を撒き散らせながら隔離された空間を震わせる。
歓喜の感情を撒き散らしながら、その攻撃には純然たる殺意が込められる。
一撃一撃に確実に相手をしとめる一撃必殺の意志が込められた神魔とレドの攻撃が敵を殺すために踊り狂う。
「こ、の……ッ!」
しかし隻腕になった上、魔力を全力で使えない神魔と万全のレド。その激突の結果は火を見るよりも明らかだった。
「ハアアッ!」
刹那、魔力を込めて放たれたレドの拳が大槍刀ごと神魔を弾き飛ばす。
「くっ!」
(やっぱり、僕を倒すよりも結界の前から引き離してきたか……!)
レドの攻撃は神魔を倒す事よりも結界から遠ざける事を目的としていた。
分かりきってはいた事だが、神魔にはそれが分かっていてもそれ以外の行動の選択肢は存在しなかった。
大槍刀で受けることで直撃は避けたものの、レドの拳撃の衝撃によって殴り飛ばされた神魔の身体は立ち並ぶ高層ビル群を軽々と貫通して地面に墜落し、天をつくほどの粉塵を巻き上げる。
「っ、神魔さん!」
「神魔……!」
詩織と大貴が声を上げ、同時に神魔がいなくなった事で二人を包む結界がその力を失って薄れていく。
「神魔……っ!」
その様子を見ていたクロスは目を見開き、紅蓮は口元に笑みを刻む。
「おっと」
大貴と詩織の元へと駆けつけようと純白の翼を広げたクロスに、背後から紅蓮の斬撃が迫る。
「く……っ、どけ!」
漆黒の軌跡を描く斬撃を大剣で受け止めたクロスは、その威力に歯噛みし、せめぎ合う刃を挟んで紅蓮を睨みつける。
「おいおい、まだ戦いの途中だぜ? 向こうに行くなら、決着をつけてからだろうが!」
「……っ」
そんなクロスの視線に口端を吊り上げた紅蓮は、その視線を大貴へと向ける。
「そんな顔するなよ。ようやくあいつの中にあるモノが見れるんだぜ?」
「結界が……っ」
レドによって神魔が結界の前から引き離された事で、張り巡らされた魔力の結界がまるで空気に溶けるように消えていく。
そしてそれは同時に、魔獣たちを阻んでいた檻が消えるのと同義。
「おっと、俺達の気配で殺しちまったら意味ねぇな」
同じころ、それを見ていたレドは、小さく呟くと共に大貴と詩織、魔獣達を包み込むように魔力の結界を展開する。
それは大貴と詩織を全霊命の存在と力の圧から守り、逃げ場を塞ぐ役目も兼ね備えた結界という名の檻だった。
「ガアアアッ」
その様子を見ていた魔獣たちは、大貴と詩織との距離を縮めて威嚇の声を上げる。
魔獣に取り囲まれる今の詩織と大貴は、ライオンの檻に投げ入れられた無力な兎と同じだった。
「……っ」
周囲を取り囲む魔獣を見て大貴は息を呑み、詩織はその場から動く事すらできなくなってしまっていた。
獣といっても魔界に住んでいるというだけあって、向かい合うだけで魔獣と自分達との「格」の違いを思い知らされる。
初めて悪魔や天使を見たときほどではないが、それに近い感覚――「別格の存在を見たときに覚える畏怖と恐怖」が二人の心を塗り潰していた。
「ガルッ」
魔獣たちは一声呻いて、鋭い爪を持ったゴリラのような腕を軽く振るう。
「っ」
その手の爪が大貴の服を撫で、その繊維を軽々と引き裂く。
「大貴!」
嬲っているのか、一切殺気のこもらない攻撃を加えてゴリラに似た魔獣はその表情に邪悪な笑みを浮かべる。
それはまるで、人間の子供が捕まえた虫の手足を千切る様な無邪気でそれ故に邪悪な笑み。
(遊んでやがる……これを引き出すためか……)
自身の胸に手を当てて、大貴は内心で吐き捨てるように言う。
レドが自分達を覆い尽くすように結界を展開した事は知っている。
それが身体の中に封じられた何かを取り出すために、全霊命の存在によって自分が死なないようにするためだという事は容易に推察できる。
「ガル、ガルッ」
命令でもされているのか魔獣たちの凶悪な腕は決して殺さないように、大きな怪我もさせないように、ただ身体を掠める程度に大貴に触れるだけ。
しかし魔獣の圧倒的な力に大貴の身体は軽々と宙に舞う。
「く、そ……」
(このままじゃ、殺される……っ)
大貴の心を恐怖が支配する。
「大貴……!」
(このままじゃ、大貴が……)
恐怖に震える心と頭で詩織が考える事が出来たのはたったその程度の事。何かしようと、何かしたいと思うのに身体は全く言う事を聞いてくれない。
「……少し、痛めつけたほうがいいか?」
その様子を見ていたレドは、小さく呟くと指笛を吹く。
その甲高い音に反応して一匹の魔獣が大貴の腕をその爪で切り裂く。
「……ぅ、くっ」
(こんな所で死ぬわけには……いかない)
魔獣の爪が優しく撫でるだけで大貴の腕は切り裂かれ、鮮血が迸る。
(死にたくない……)
「っ」
思わず口元を押さえる詩織の目の前で魔獣たちの爪が大貴の身体を撫でる度に、その身体から赤い血が踊る。
(死んで……たまるか!)
「い、や……」
声にならない声を震わせる詩織の傍らで、大貴は死の恐怖の中で自分の内に何かが目覚めるのを感じ始めていた。
「――……?」
(何、だ? この感じ……)
身体が傷つけられ、流れ出る血と共に死が迫り、死の恐怖が心身を塗り潰していく中で、魂の奥から何かが沸き上がってくるような、自分が塗り変わっていく感覚。
(力が欲しい……生きるための力が)
周囲を囲んで今まさに自分を嬲り殺そうとしている魔獣を見て思う。
(力が欲しい。守るための力を)
視界の端で無力と恐怖に震える姉を見て、自分たちを守ろうと腕を失っても微動だにせずに立ち続けた神魔を思い出す。
秘められた力を呼び起こす鍵は、我を忘れるほどの怒りか死の恐怖。それは全霊命でも半霊命でも変わらない。
そして今逃れられぬ死の恐怖に直面している大貴は、それによって自身の魂の奥底に眠る力の鍵を開こうとしていた。
――これは「救い」。これは「呪い」。
いつか「その時」が来たとき、この子はきっとその身に宿した逃れる事は出来ないこの「運命」に命を懸けて立ち向かわなければならないでしょう。
その時は今。
それが早かったのか、遅かったのか、それは誰にも分からない。
しかし大貴が生きるために、「その力」を求めた事で「界道大貴」という存在に融合したその「力」が目を覚まし、自分自身が求めるままに眠っていた力を呼び起こす。
「――さあ、見せてみろ」
そんな大貴の変化と力の脈動を感じ取った紅蓮とレドが同時に口元に笑みを浮かべた。