隔てられた戦場
「――動きだしましたか」
その身に甲冑を纏った戦乙女を彷彿とされる女性――神庭騎士の一人、シルヴィアは、世界と世界の中で閉じていた目を開くと、澄み渡った清流のような厳かな声音を紡いだ。
眼下に見える人間界の王都。しかし、今そこには数百の命しか存在していない事を天空に立つ紅蓮、ラグナ、茉莉の三人の全霊命の知覚能力が教えてくる
茉莉によって施された空間隔離は、全霊命の持つ世界で最も高い神格を持つ霊の力――神能によって、世界をまるで水鏡に映したかのように異空間として再現する力。その空間内に招き入れる対象も空間隔離を用いた全霊命の意志によって決定される。
茉莉が今回施した空間隔離の対象は、神能を持つ者、十世界に所属している人間とその兵装、そして一定以上の界能を有す人間。
どれも、人間界で活動している十世界の使いだというネイドという無霊命の要望に応えてのものだ
「ただでさえ、姫の意志にそっていないというのに……解せませんね」
眼下に広がる王都を見ながら、茉莉は怪訝そうにその柳眉をひそめる
「あくまで、世界には自らの意志で十世界に加盟して欲しいのです」――十世界を統べる盟主である姫、「愛梨」のその考えによって、半霊命しかいない人間界には、全霊命は派遣されておらず、十世界としての交渉も人間だけで行っていた。
今回茉莉達が呼ばれたのは、あくまでも光魔神をはじめとする全霊命の妨害をしつつ、確実に神器を確保するための手伝いをするためだ。
元々十世界は、光、闇、全霊命、半霊命を問わず、あまねく全ての世界の共存と恒久的平和尾掲げる組織。それが神器を集めるのにはある理由があるのだが、そもそも十世界の盟主たる姫は、神器を集める事をあまり是としていない。
その辺りに、十世界という組織の綻びと、十世界を構成する者達の意識の差異や食い違いが見え隠れしている
「神器を手に入れるのに、ここまでする必要があるのでしょうか」
「確かに……隔離の対象外にしたのは、神器を手に入れる『ガウル・トリステーゼ』のみ。あの場にいたもう一人の人間も隔離の側に呼びこんだから、手に入れるのは容易だろうが……どうにも取り込む対象にした人間が多すぎる」
茉莉の言葉に、漆黒の翼を持つ堕天使、「ラグナ」が同意を示すして目を細める
全霊命の空間隔離で作られた世界は、元の世界と何ら変わらないように見えるが、実際はそうではない。その風景の全ては神能によって複製された物であり、建造物や機械も問題なく動かす事ができる。
しかし、どれほど精巧に再現されていても、それらは神能が作り出した粘土細工のような物に過ぎず、また隔離を施した全霊命の力が及ばない物は再現できない。
それ故に、神の遺物である「神器」は、全霊命の力で複製できず、また仮に出来たとしてもそんな物はただの模造品。
本物の神器を手に入れるには、隔離されていない方の世界で直接手に入れる必要がある。そのため、あの場にいた戦力の低い一人を除外いて全員こちら側へ隔離している
「――ええ。確かに強者を隔離すれば、神器の奪取は容易でしょう。ですが、ならばあの軍勢の説明がつきません」
そう言って肩越しに視線を向けた茉莉は、隔離された仮初の王都に向かって進軍してくる十世界の軍勢を見て目を細める
戦える人間はもちろん、人間界特有の科学によって作られた兵や艦をひきつれて進軍してくるそれは、お世辞にも時間稼ぎという目的には見えない
「しかも、ご丁寧に結界まで張らせているんだからな」
眼下に見える王都を見下ろし、ラグナは目を細める。
茉莉が施したのは空間隔離だけではない。全霊命の放つ圧倒的な殺意が人間達に影響しないように、隔離したこの世界を茉莉の魔力が結界で天と地に分断している。
例え上空で戦っても、その余波が隔離された王都に届かないようにされているその作りは、人間を殺さないためという目的以上に、結界の下で戦う事を目論んでいるように思えてならない
「……まるで王位簒奪でも目論んでいるかのようですね」
「そんな事、今はどうでもいい――来たぜ」
おそらく自身の予想が外れていない事を理解しながらため息混じりに呟いた茉莉の言葉を、荒らぶる殺意が抑制された紅蓮の声が遮る
「……えぇ、気づいていますよ」
紅蓮の言葉に茉莉が応じた瞬間、天空に立つ三人の前に左右非対称色の翼を広げた大貴と純白の翼をはためかせるクロスとマリアが立ちはだかる
「こんなところまで追いかけてくるなんて、十世界っていうのも随分暇なんだな」
「そう言うな。俺達の仲だろ」
大貴の言葉に、滾る殺意を振りかざして紅蓮がその手に自身の武器である剣を召喚すると、その切っ先を大貴に向けた
大貴と紅蓮が一触即発の状態になっている傍らで、漆黒の翼を持つ堕天使――ラグナと緩やかに波打つ金色の髪の悪魔、茉莉と相対するクロスとマリアが視線を交錯させる
「クロス……」
不安をぬぐえない表情を浮かべるマリアを横目に、クロスは目の前にいる二人を交互に見る
マリアが浮かべている表情の理由は分かり切っている。金色の髪を持つ美女――悪魔・茉莉の実力は単体ではクロスとマリアを遥かに凌いでいる。仮に二人同時に戦っても、勝ち目がないだろうというほどに茉莉は強い。
しかし、ラグナの方を野放しにする事は出来ない。だからこそ、どちらかが隔絶した力を持つ茉莉と戦わねばならず、そしてクロスの性格を熟知しているマリアは、クロスがその役目を引き受けるであろう事を確信していた
「お前は堕天使の方をやれ。俺があいつと戦う……心配するな。この空間隔離を発動させてるのはあいつだ。全力では戦えない」
案の定向けられたクロスの言葉に、マリアは唇を引き結ぶ
不器用な嘘で自分を安心させようとしているが、空間隔離で割かれている程度の力で、クロスと茉莉の間にある実力差が埋まるはずがない事をマリアは十分に理解している。
しかしそれでも、長年クロスと行動を共にし、言葉に出来ない想いを押し殺してその姿を見続けてきたマリアには、自分がどれほど言葉を並べてもクロスがその決定を曲げない事は分かり切っていた
「……分かった、気をつけて」
クロスの言葉に、マリアはそれを止めたい思いを懸命に押し殺して頷く
自分達よりもはるかに強大な力を持った相手との勝ちの見えない戦い。しかし、クロスは例えそうでも――否、そうだからこそ自分が戦おうとする。クロスのそんなところをマリアはずっと見てきた。
今のマリアに出来るのは、ただクロスを信じる事だけ――勝利など信じなくてもいい。ただ、生きていてくれる事だけを願い、一刻も早くクロスの許へと駆けつけるため目の前の敵を倒す事に専念する
「女の相手は気が乗らないんだがな」
マリアの純粋な戦意を受けながらも、まったく怯む様子を見せないラグナは、その手に自身の武器である巨大な斬馬刀を持ってため息をつく
「それでも、相手をしてもらいます」
その言葉に応じるように自身の神能――「光力」が力の性質に合わせて顕現した武器である杖を構えたマリアは、漆黒の翼の堕天使に向き合う
「……先ほどの言葉、彼女を思って言ったとしても、少々無理があったのではありませんか? いくら私が結界と空間隔離を発動させているとはいえ、その程度の差で、あなたが私に勝てるとは思わない事です」
マリアとのやり取りを無言で聞いていた緩やかに波打つ金色の髪の悪魔――茉莉は、その彫刻のように整った麗しい表情で身の丈ほどの大剣を顕現させたクロスに視線を向ける
「余計なお世話だ」
茉莉の言葉を花で笑い飛ばしたクロスは、自身の神能が武器として具現化した大剣に煌めく光力を纏わせて言い放つ。
マリアが全てを分かった上で自分の嘘に便乗してくれている事などクロスには分かり切っている。しかし、だからと言ってこの状況で強い方の相手をマリアに押しつけて自分が弱い方の相手と戦うなどと言う事が出来る筈もない
例え独りよがりだと言われようと、自己満足だと思われようとマリアを守る。それは、クロスが人と全霊命の混濁者として過酷な運命を歩んでいるマリアに――自分がひそかな思いを寄せる女性のために選んだ生き方なのだ
(この人、少し紫怨に似てますね……)
そんなクロスの考えを全て見透かし、茉莉は心の中でそう呟き、悲しさと懐かしさが入り混じった笑みを浮かべる
かつて茉莉が愛し、共に暮らしていた悪魔、「紫怨」。――彼は、優しく、誰よりも自分を愛してくれたが故に、自分の許から離れていってしまった。
茉莉と紫怨の間にあった、圧倒的なまでの力の差。紫怨は少しでも強くなろうと、日々努力を積み重ねていたが、ある日、紫怨をかばう形で茉莉が瀕死の重傷を負ってしまった。――その一件によって、茉莉を自分の弱さが殺してしまうのではないかと考えた紫怨は、愛する人のため茉莉に一言も残す事無く離れていった
「俺と一緒にいるために、死んでくれないか」――本当はそう言ってほしかった。どんなに力の差があろうとも、その弱さのために傷つくことになろうとも、ただ愛し合って一緒に過ごすために命をかけてほしい。……そう言ってくれる事を茉莉は望んでいた――望んでやまなかった。
しかし、それを紫怨が望まない事も、誰よりも茉莉には分かっていた。故に茉莉は紫怨を追えなかった。身体を重ね、命を共有した者同士である自分と紫怨は離れていても深く繋がっており、どちらかが死ねばすぐに分かる。――だから、茉莉は待つ事を選んだ。紫怨が自分に自信を持ち、再び自分を迎えに来てくれる日を待ち望んでいた。……しかしそれは、十世界によって叶わないものとなってしまったが。
(紫怨、あなたは今どこに……)
クロスに最愛の人の面影を重ねた茉莉が目を伏せた瞬間、その魂が打ち震える
「――っ!?」
「……!」
不意に天を仰いだ茉莉に続き、クロスも遥か上空に出現した魔力を知覚する
クロスと茉莉が視線を向ける先で、隔離されていた空間の壁が力任せに粉砕され、入ってきた人物がクロスと茉莉の間に割って入る
「紫怨――」
「……お前」
二人の間に降り立った逆立つ黒い髪をなびかせた悪魔――紫怨に、茉莉が目を見開き、クロスが目を細める
「勘違いするなよ。俺は茉莉に話があるんだ」
背後で訝しげな表情を浮かべているクロスに肩越しに言い放った紫怨は、再会の喜びと再会の悲壮の相反する感情を浮かべている茉莉をまっすぐに見つめる
「久しぶりだな、茉莉」
「……っ」
紫怨の優しい声音に、茉莉の脳裏にかつて共に暮らしていた時の光景が甦る。
どこか不器用ながらも、いつも自分の事を大切にして優しく声をかけてくれていた紫怨の――この世で最も愛する人を前に、湧き上がってくる懐古と深愛の情が茉莉の心を大きく揺さぶる
そんな茉莉の心情を見透かすように、紫怨は優しい目で愛する女性を見つめながら、そっと手を差し伸べる
「――お前を迎えに来たんだ」
優しく紡がれた紫怨の言葉に、茉莉は動揺を隠せないようすで目を見開いた。
遥か天空で全霊命達が一触即発の状態になっている頃、会場に残ったヒナ達人間界の面々は状況確認を行っていた
「……私達一部の人間だけを除いて、空間隔離がされていますね。おそらくは十世界としての配慮といったところでしょうか」
会場の窓の外を伺って、ヒナが厳かな声音で言う
知覚能力を発動させてみれば、隔離された空間内には七大貴族級の力を持つような人間しか存在していない。街に暮らしているはずの大勢の人間の気が感じられない事から、自分達だけが個々に閉じ込められたのだと分かる
元々十世界は、対話による世界平和を望んでいる。一部、十世界を利用して戦いを引き起こす輩がいるものの、少なくとも上層部に関しては九世界に実力行使を行うつもりがないというのが、世界の共通認識だ。――それを鑑みれば、この空間を閉ざした人物、あるいは閉ざさせた者は王都を戦乱に巻き込むつもりがないという意味で十世界の理念を忠実に守ろうとしているのは想像に難くない
「ですが、十世界の目的は一体なんなのでしょう? 私達をこのようば場所に隔離して……まさか一網打尽にするつもりとは思えませんが」
ヒナの言葉に、リッヒが思案を巡らせる
十世界が実力行使で世界統一を叶えようとしているなら、既にそうしているはず。何の前触れもなく突然実力行使に出るとは思えない
「そんな呑気な事を言っている場合ですか?」
試案を巡らせていた一同の意識を、静かに抑制された声が引き寄せる
その声に視線を向けると、先ほどの言葉を発した張本人――人間界七大貴族の長の一人、レイヴァー・ブレイゼルがその視線を窓の外に向ける
ブレイゼルに言われるまでもなく、その場にいる全員は、この隔離された王都の遥か遠くから、こちらへ向かって進軍している十世界の軍勢を知覚していた。
「――確かに。ご丁寧に結界を張ってくれている事を考えても、我等と一戦交えるつもりなのは間違いないな」
はるか遠くに知覚できる軍勢に眉をひそめた七大貴族の長の一人、「アドルド・グランヴィア」の重厚な声音にその場にいる全員が各々首肯する
「そうね。いずれにしろ、相手は十世界。向こうの意志がどうであれ、わざわざ生かして返す必要はないんのですから」
アドルド・グランヴィアの言葉を受けて、漆黒のドレスとヴェールを纏う黒い花嫁のような出で立ちの女性――「雨・虹彩」が穏やかな声音とは裏腹に好戦的な言葉を放つ
場に高まっていく戦意を受け、人間界軍総指令――「ガイハルト・ハーヴィン」が人間界王「ゼル・アルテア・ハーヴィン」に視線を向ける
「……王、ご決断を」
その場にいる全員の視線を受けたゼルは、眉間に皺を寄せると不満げに窓の外に視線を向ける
「――相手の目的が見える前に、その術中に飛び込でいくのは気が引けるのだがな……致し方ない」
相手が明確な敵意を持ってこちらに進軍してきている以上、むざむざやられるなどという選択肢はない。しかし、人間界の戦力を知っているはずの敵が、何の策もなく進軍してきているとも思えない。かと言ってここで手をこまねいていても事態は進展しない。実質、現状で取れる選択肢は迎撃しかなかった
「王族、六帝将、七大貴族――人間界の総力を以って、彼奴等を殲滅する! だが敵には、我等に対抗するための何らかの手段があると見るべきだ。くれぐれも注意しろ!」
「はっ!!」
ゼルの言葉に、王族、六帝将、七大貴族の猛者達が一斉に応じると王都に向かってくる軍勢と相対すべく会場を跳びだし、膨大な数の敵と戦うべく分散していく。
『失礼いたします』
それと同時に、空間に通信の画面が開く。
「――ミネルヴァか」
『申し訳ありません、あと一歩のところで隔離されてしまいました』
画面に映し出されたミネルヴァは、その背後に映っているシュヴァーンと天宗檀を一瞥してゼル達をはじめ、そこに残っている全員に事の次第を説明する。
「なるほど、狙いは神器ですか……」
ミネルヴァの話を聞いたヒナが目を細める
『Yes、宝物庫の扉の結界はともかく、神器を封じている結界は、半霊命には破れないものです。――とはいえ、時間稼ぎは難しいのではないかと』
ミネルヴァの言葉の意図を十分に理解したうえで、今までその言葉に無言で耳を傾けていた人間界王は、腑に落ちない様子で言葉を続ける
「確かに、主戦力を隔離してしまえば、ガウル・トリステーゼの力なら問題なく神器を手に入れられるだろう――だが、それだけではあるまい。」
「はい……神器を獲得するだけなら、あの軍勢の意味はありません。この世界――あるいは、私達の命が目的だとしても、十世界が今頃実力行使に出るとは思えないのですが……」
ゼルの言葉を肯定しつつ、ヒナは疑問を隠せない様子で言う。
これまで実力行使を望まず、対話による世界統一を目指してきた十世界が突然武力行使に出るとは考えにくい。確かに、意志の統率の取れていない組織として未熟な部分も多く併せ持つ十世界だが、ここまで顕著な直接的行動は珍しいと言わざるをえない
「……この戦い、十世界の意志の影で何者かの別の意志が働いているのかもしれんな」
ふとゼルが呟いたその一言はその場でまるで波紋のように染みわたり、その不吉な言葉を聞いた者達の心に錘のように圧し掛かる
「いずれにしても、我々は出来る事をするしかないのだ。――ミネルヴァ、シュヴァーン、天宗檀。お前達も戦線に合流しろ」
『Yes』
「かしこまりました」
場を取り直すように、威厳に満ちた声音で命令を下したゼルに、画面越しにミネルヴァ、シュヴァーン、天宗檀の三人が応じる
「――我々も、覚悟だけはしておかねばならないかもしれないな……」
「……」
どこか遠くを見る様な視線で紡がれたゼルの言葉に、その場にいる全員が息を呑む。
「頼むぞ、ザイア」
「キュウ!!」
戦意と決意を宿したゼルの言葉に、先代の光魔神によって生み出された、半霊命が振るい得る最強の力を持つ十二の至宝の一角を成す子犬ほどの大きさの竜――至宝竜・ザイアローグは、力強く高らかな咆哮を上げた。
けたたましい轟音を上げて、宝物庫の扉を守っていた結界が粉砕される。
「……っ!!」
幾重にも張り巡らされた障壁の結界が粉砕される様子を、詩織は声を発する事も出来ずにただ見つめていた。
その扉の前に詩織に背を向けて立つのは、人間界の七大貴族にして、十世界に所属している大男「ガウル・トリステーゼ」。先ほどまでガウルの神器獲得を阻むために戦っていたミネルヴァ、シュヴァーンそして天宗檀は、一瞬にして姿を消してしまったため、その扉の結界を破壊する事を阻める者はここにはいなかった。
(あんな大きな扉が一撃で……!)
轟音とともに、瓦礫となって崩れ落ちる扉だった物を見て、詩織は声を詰まらせる
ミネルヴァ達が姿を消してすぐ、詩織に「邪魔をするなら、命はない」と脅しをかけたガウルは、気を凝縮した拳の一撃によって、結界ごと扉を粉砕して見せたのだ。
結界の粉砕に時間がかかれば、城に仕える騎士をはじめ、自動人形など空間隔離に巻き込まれなかった人物や警備がやってくるだろう。しかし、ガウルはそんな暇など与える気がないとばかりに、一撃の下に結界を粉砕した
崩れ落ち、目の前に広がった空間を前に小さく笑みを浮かべたガウルは、宝物庫となっているその空間の中へと足を踏み入れる。
この宝物庫の中に収められているのは、極限の域に達した科学と、霊を用いた技術である「魔法」を持つ人間界ですら作り出せないような秘宝や、あるいは現在では法などによって製造を禁止された兵器や道具などの実物。
「なるほど……ただ入っただけでは、宝物を持ち出せないようにしてあるのか」
さながら宇宙のような領域――空間の澱みとなっている宝物庫の中を見回して、ガウルはその用心深さに感嘆して鼻を鳴らす
空間の澱みとは、装霊機のように空間に物体が収納されている空間。上下すら感じられない、まるで夜空を歩いているような錯覚を覚えるその空間に臆することなくガウルは、一歩一歩奥へと歩を進める
地面などが存在するとは思えないこの空間には、様々な宝物が沈んでおり、それを取りだすための「鍵」を用いる事でまるで海の中から宝を引き上げるように、それを取りだす事ができるようになっており、鍵を持たないガウルにはここの宝物に手をつける事は出来ない。
「――だが、これだけは空間の中に隠せなかったらしいな」
地面すら存在しないのではないかと思われる空間を歩きながら、宝物庫の奥に向かって歩を進めていたガウルは、不意に目の前に出現した物を見て足を止める。
ガウルの眼前に現れたのは、人間の目線程の高さを持つ台座。質素ながらところどころに装飾が施されたその台座の上には、光り輝く球体が安置されている。
様々な色が混じり合う事無く淡く輝いている玉を包み込んでいるのは、幾何学模様が刻み込まれた金属質の板が包帯のように巻きついたガラスを思わせる半透明の球体。二重になっている球の形状が目のようにも見える、その宝玉から溢れだす淡い光に込められた知覚を塗り潰さんばかりの神々しさに、ガウルは自身の魂が畏怖の念に震えるのを感じていた。
「……これが、『神眼』か」
台座の上に置かれた淡く輝く球を見ただけで、ガウルは確信を持って断言する。
あふれ出る光は神々しく、ただの玉であるにも関わらずその存在感は圧倒的。何よりも、そのあまりの神格の高さに空間の海に沈めておけない事こそがその球体が目的の物――神器・神眼である事の証明と言える
眼前にある神器に、まるで引き寄せられるように手を伸ばしたガウルだが、その手が台座に近づいた瞬間、その周囲に展開された光輝く半透明の結界にその手が阻まれる
「……本当に念入りな事だ」
まるで透明なケースのような結界に包み込まれている台座を一瞥し、ガウルは忌々しげに目を細める。台座――というよりはそこに安置された神器に触れられる事を拒むように展開されている結界は何人の侵入も阻むもの。
扉の結界を一撃の下に粉砕して見せたガウルでさえ、この結界を破壊できない事を瞬時に理解させられるもの。――なぜならば
「……奴らの結界か。さすがは人間界――この世界で唯一全霊命の支配する八つの世界と深い親交を持つ世界なだけはある」
台座を包む結界を前に、ガウルは苦々しい口調で吐き捨てる
神器「神眼」を包み込む結界は、半霊命のものではなく、九世界の伝手を使って施された全霊命のもの。例え七大貴族に数えられていようが、ガウルには――否、たとえ人間界王であってすら力任せには破壊できないようになっている。
裏を返せば、それほどまでに「神器」が九世界にとって価値のあるものである事の証明になるのだが、いずれにしても人間界は神器を奪わせないために、人間界王にすら解けない結界でそれを包み込んでしまっていた。
「……確かに、普通の人間ならばここで諦めるだろうな」
目の前に立ちはだかる結界を前に、ガウルが自嘲混じりの笑みを浮かべる
人間界王にすら破壊できない結界で包まれている以上、この結界はどんな人間であろうと、どんな技術や技能を駆使しようと持ち去る事は出来ない。人間――半霊命には手も足も出ない以上、この神器を持ち去る事は人間界王の命を取るよりも難しいと言えるだろう。
「――普通なら、な」
しかしそれは普通の人間に限れば、の話。ガウルには破れなくとも、ガウルの所属する組織――「十世界」にはこの結界を破る事ができる全霊命が数多く存在している。
世界間において必要最低限の接触しかも持たず、ほとんど交流の無い九世界とは違い、十世界は積極的な世界同士の交流を掲げる組織。その中では全霊命同士、全霊命と半霊命の協力関係を推奨している
「頼めるか」
ガウルが声をかけると、その背後に人影が立つ。
そこに立っていたのは、幾重にも分かれた角を持ち、まるで白眼をむいているような瞳の無い目が特徴的な全霊命。最強の異端神、「円卓の神座№9、覇国神・ウォー」の力に列なる存在――戦兵の男、ジュダだった。
「……ああ」
ガウルの言葉に、静かに頷いたジュダは、自身の力が武器として具現化した、銃のシリンダーのような機構を備えた剣――「爆雷天槌」を召喚する。
ジュダから吹き上がる全霊命の力である神能が、剣の刃に絡みつき、この世で最も神に近い力が目の前にあるものを破壊し、無に帰すべく昂っていく
そして、ジュダが神器を守っている結界を破壊するべく刃を振り上げようとした瞬間、戦争と闘争の神でもある覇国神の力に列なる戦兵の戦闘本能が警鐘を鳴らす
「――っ!!」
その瞬間、ガウルによって破壊され、ただの穴と化していた扉の向こうから光の矢がジュダに向かって飛来する。
七大貴族であるガウルにすら知覚する事が出来ない程に強大で、認識する事が出来ない程の速さで飛来した光の矢をジュダは刃の一振りで粉砕する
「なっ!?」
突如、自分を包み込むように発生した結界にガウルが目を丸くしている前で、光など足元にも及ばない程の神速の斬撃で光の矢を破壊したジュダは、瞳の無い目でその矢が向かってきた方向を睨みつける
「さすがね」
ジュダの視線の先、人間界城の宝物庫の扉から入ってきたのは、その身に神々しい輝きを宿した白銀の鎧を纏った戦乙女。
その手に自身の武器であるハルバートを握ったその女性は触れ難いほどに気高く、圧倒するほどに力強く、目を奪われるほどに美しく空間の澱みとなっている宝物庫内に足を踏み入れる。
「――貴様は……」
目の前に現れた戦乙女の如き女性を見て、ジュダが目を細める
そこに現れたのは、ジュダ達戦兵が仕える神「覇国神」と対になる神――最強の異端神、円卓の神座№10「護法神・セイヴ」の力に列なる存在。
戦兵達とは、鏡合わせのような表裏一体の関係であり、決して相容れる事のない対極に位置する者達。――「神庭騎士」と呼ばれる存在だった。
「ゆりかご以来ね」
「ああ」
凛とした表情を花のように綻ばせて微笑んだ戦乙女、「シルヴィア」の笑みにジュダは不敵な笑みを浮かべて応じる。
かつて光魔神を巡って、数多存在するゆりかごの世界の一つの中にある星「地球」で戦った関係であるシルヴィアとジュダは互いを認識し合った上でその会話の内容とは裏腹に、一触即発の雰囲気を醸し出している
「――さて、悪いけれど退いてくれるかしら? 今はまだあなた達に神器を渡す訳にはいかないの」
その整った顔に浮かべていた微笑を消し、美しさと力強さが同居する凛とした視線でジュダを睨みつけたシルヴィアは、その手に持ったハルバードを構える。
シルヴィアの身体から吹き上がる神能には、純然たる殺意と戦意が込められており、ジュダが拒否しようものなら容赦なく戦いを始めるであろう事が容易に見てとれる
「今は、か」
シルヴィアの言葉に見え隠れする思惑を一笑にふして、ジュダは眼前で静謐に佇む戦乙女に、瞳の無い視線を送る
「――生憎だが、我々は今、神器を必要としているのだ」
「そう……残念ね」
ジュダの言葉に、シルヴィアが目を伏せて静かに呟いた瞬間、二人の身体から「戦」と「秩序」という互いの存在を象徴するかのような相反する力が噴き上がる。
「ぐっ……!」
その強大な力の波動に、ガウルは歯を食いしばり、全身を奔る力の圧力に全霊で堪える
存在として神に近い全霊命が放つ神々しく隔絶した力の圧力を人間が知覚すれば、そのあまりの強大さと、そこに込められた純然たる殺意にその存在を焼き尽くされて命を落としかねない。
力を解放すると同時にその力がこの世界に生きる人間達を殺さないように、ジュダはガウルを、シルヴィアは宝物庫全体と自分達以外を結界で包み込む。
「律義なものだな。人間を守るために結界を張るなど……ここはゆりかごとは違って、全霊命の意志の影響も最小限に抑えられるというのに」
「ふふ、お褒めに預かり光栄ね」
ジュダの言葉に、シルヴィアは微笑を浮かべて応じ、自身の武器であるハルバードを構える
世界最高位の霊格を持つ全霊命の意志は、世界に現象としてそれを顕現させる力を持つ。
かつて戦ったゆりかごの世界とは違い、最高位に近い霊格を持つこの人間界ならば、全霊命の力の影響も最小限に抑えられる
しかし、それでも全く影響が出ないという訳ではなく、その神格の影響が半霊命である人間に及ばないという訳ではない。
それを避けるためにシルヴィアは結界を展開し、自分達の力の圧力が外界に影響を及ぼす事を避けているのだ。
だが、それを空間隔離ではなく結界として行使しているのは、ジュダの目的が神器の確保にある以上、隔離したところで無意味だからだ
「――いくぞ」
ジュダが静かに言い放った瞬間、二人はどちらからともなく地を蹴り、時間や距離など全く存在しえない全てを超越した速さで肉薄し、互いの武器をぶつけ合う。
戦乱と秩序の力がぶつかり合い、ジュダは戦いを楽しむかのように口元に笑みを浮かべ、シルヴィアはただ無機質な感情で相対する。
シルヴィアのハルバート――「クラウスターズ」とジュダの剣「爆雷天槌」が、世界をも容易く砕く神に最も近い力を纏って刹那すら存在しえない神速の斬撃の応酬を繰り出す。
一秒に数億回では利かない、全方位から一度に攻撃されているにも等しい斬撃の応酬を繰り返され、速さ力を超越した破壊の力がぶつかり合う。
一切の混じり気のない純然たる殺意を互いの神能に乗せ、命を刈り取る攻撃を繰り出しながら、ジュダは神器を守る結界を破壊する隙を伺い、シルヴィアはそれをさせまいとする。
二人の全霊命――それも間違いなく上位に位置する力持った二人の激突で生じる力の圧力が結界で遮られていても世界を塗り潰し、人間界城、王都――そしてはるかかなたにいる人物や人間界に住む半霊命、「幻獣」もその力に恐れ慄き、まるで世界の終焉を目の当たりにしているかのように立ち尽くす。
半霊命にはもちえない純然たる殺気は、神格の域にまで昇華し、結界がなければそれだけで命を奪い、世界を破壊する程の力を有している。
世界に対して物理的、現象的な干渉を引き起こす事すらできる殺意と破壊の意志をまき散らしながらも宝物庫が崩壊しないのは、一重に「守護」の力を持つ神庭騎士、シルヴィアの結界の力によるものだ
「――っ」
宝物庫中から溢れだしてくる、純然たる戦意と殺意、そして神に最も近い力の波動を、シルヴィアの結界に包まれながら宝物庫の外で見守っている詩織は、久しぶりに感じる全霊命同士の殺し合いが放つ威圧に、立ち上がる事も出来ずただ身を震わせていた
「なんか凄い事になってるね」
その時、恐怖に震えながらも、宝物庫の中から噴き出してくる絶大な力から目を離す事が出来なくなっていた詩織の意識を、背後からの静かな声が引き寄せる
「――っ!」
そこにいた人物を見た詩織の目が驚愕に見開かれる。
詩織の視線の先では、月光に照らしだされる橙色の髪をなびかせた美女が、普段の穏やかな表情とは裏腹な険しい視線を宝物庫の中へ向ける
「……どういう状況かいまいち分かりかねてるけど――今、大事件の真っ最中だよね?」
「ミリティアさん!」
詩織の声を受けて佇むその人物は、舞戦祭において「舞戦姫」と謳われる美女――「ミリティア・グレイサー」だった。