光と闇の在り方
空間と空間、世界と世界の境界に存在する世界ならざる世界の中で、紅蓮はその真紅の髪を揺らしながら目を閉じて静かに待っていた。
どこまでも広がる無の世界は、上下左右もあらゆる現象が存在せず、生命が存在することのできない領域。
そこでこうしてこともなく滞在することができるのは、あらゆる事象と現象を超越した存在である紅蓮のような全霊命だけだ。
「……来たか」
空間を越えてきた者の存在の力――「魔力」を感じ取った紅蓮は、歓喜の色を感じさせる声で小さく独白し、閉じていた眼を開く。
「……よぉ、久しぶりだな、紅蓮」
その声の方に視線を向けると、そこには一人の悪魔が静かに佇んでいた。
老いることなく永遠を生きることができる全霊命であるが故にその顔立ちは若々しく、青年と称されるもの。
真っ先目がいくのはその左目。左右の瞳は共に鮮やかな緋色だが、左目の白目の部分が、まるで暗黒を宿したかのような漆黒に染まっている。
左右非対称の目と、額と両手両足に骨のような白い鎧を纏ったその人物は、鬣のように逆立った金のメッシュが入った黒髪を揺らしながら好戦的な笑みを浮かべていた。
「わざわざ悪いな。『レド』」
「気にすんな。で、お前が俺を呼びつけるなんて何事だ? 確か今のお前の仕事はゆりかごの世界で『ブツ』を探す事だろ?」
紅蓮の言葉に、人当たりの良い笑みを浮かべた「レド」と呼ばれた悪魔は、腰に手を当てながら率直に尋ねる。
「あぁ。だが、面白い事になった」
「……?」
怪訝なレドの言葉に口元を歪めて不敵な笑みを浮かべた紅蓮は、その瞳に子供のような好奇心に満ちた輝きを宿して、事情を説明する。
「……なるほど、天使に悪魔、それに『何か」を宿したゆりかごの住人か。確かに面白そうだ」
「まぁ、そいつの中にあるモノが例のモノである可能性も捨てきれないんでな。お前の力を借りたい」
建前とは別に、未知の敵との戦いへの期待をのぞかせる紅蓮の生き生きとした言葉に、レドは同類に対する理解に苦笑を返す。
「いいのか? お前の仲間に相談しなくて」
周囲に知覚を巡らせ、念のために視線を巡らせて誰もいないことを確認したレドからの問いかけに、紅蓮は一瞬渋表情を浮かべる。
「『姐さん』はともかく、『堕天使』の方とは馬が合わねぇんだよ」
「ククク。まあ確かに、戦闘馬鹿のお前や俺とは違うタイプだからな」
紅蓮から返された率直な意見に、噴き出しそうになる笑いを堪えて答えたレドは、すぐさまその表情を獲物を狙う獣のような獰猛なものへと変える。
気さくそうな表情から一転し、好戦的な表情を浮かべたレドは、紅蓮へと左右非対称色の目を向けると、不敵な笑みと共に口を開く。
「いいぜ、その話に乗ってやる」
※
神魔とクロスが居候することになった翌日。界道家のリビングでは、天使と悪魔という人外の存在がくつろいでいた。
光の存在である天使と闇の存在である悪魔は、永遠の敵対者。
しかしその二人――クロスと神魔は、慣れ合うことは無くとも、特に険悪な雰囲気を発することは無かった。
結果、界道家のリビングでは、日常と常識が壊される昨日までとなにも変わらない、春休みの光景が広がっていた。
一家の大黒柱である一義は会社へ、界道家の実質的なヒエラルキーの頂点である薫は台所で食器の後片付け。
詩織と大貴、クロスはリビングで他愛もない時間を過ごし、神魔はリビングの窓の外にある小さな縁側に腰掛けて無言で空を仰いでいる。
「神魔さん、何してるんだろ?」
「さぁな」
春の麗らかな日差しを浴びながら、かなり長い時間微動だにしない神魔の後ろ姿を見て、詩織が小声で待機に問いかける。
「さぁな」
しかし、そんな詩織の問いかけに返されたのは興味さえ感じていないであろう大貴の素っ気ない言葉だった。
そのぶっきらぼうに答えに、詩織は唇を尖らせて不満を露にする。
詩織も特に答えを期待していたわけではなく、大貴の性格を考えれば想定の範囲内の答えだ。
だが、それが分かっていても、ほんの数時間程度ではあるが、一応年長者である詩織は、双子の弟にぞんざいに扱われることを快く受け入れることはできなかった。
「――……」
(あれは……『思念通話』か?)
取るに足らないことで詩織がわずかに不満を浮かべている傍らで、神魔と同じ九世界の出身者であるクロスは、ある可能性に思い至って眉を顰める。
思念通話とは、文字通り全霊命が持つ神能の力を介して行われる意識内での通信の事だ。
全霊命の力である神能は、種族はもちろん個人でも異なり、誰一人として同じ者はいない。
その神能に己の神能を共振させることで、互いの意識を一瞬だけ共鳴させ、声に出さずとも会話や映像を送ることができるのだ。
(――いや、そんなはずは無いか。思念通話は、世界を超えては繋がらないんだからな)
しかし、自分の頭に浮かんだその考えをクロスは即座に否定する。
神能を介した思念通話の効果は本来相容れることのない光と闇の全霊命の間でも有効だが、世界――すなわち次元や時空を隔てては交信することができない。
そして、クロスの知覚には、この地球と呼ばれる大地はもちろん、その外に広がる暗黒の世界の中にも全霊命の存在は認められなかった。
(いや、待てよ。例外もあったな。ってことは――)
しかしその時、クロスの脳裏に一つの可能性がよぎる。
そうして思案を巡らせていたクロスは、己の視線に気づいたらしい神魔に視線を向けられていることに気づく。
「――!」
神魔の金色の瞳から送られてくる視線を受けたクロスは、忌々しげに舌打ちをして視線を逸らすと、その思考を切り替える。
(あいつ、何を企んでるんだ?)
結局、神魔がゆりかごの世界に留まろうとする理由は分からないままだ。
その金色の瞳に映る思惑を測り兼ねるクロスの脳裏には、昨夜神魔と交わした会話が甦っていた。
※
《ところであの事は隠しておく気?》
昨夜、就寝となって解散し、詩織と大貴、一義と薫が各々の部屋に戻っていく中、神魔はクロスに静かに問いかける。
神魔の言葉の意味する所はクロスも十分承知している。
昨日の会話の中で説明を避け、言葉を濁した部分。――ゆりかごの真実に関する真実に関してのことだ。
「お前だってそうしただろ?」
「クロスが一向に言わないから、そういう方面に話をずらしただけだよ。何しろ天使は一応九世界の秩序の守護者って事になっているしね。その意志を汲んであげただけ」
「それはご親切にどうも」
神魔の皮肉めいた言葉に、クロスは感情のこもらない淡々とした口調で応えると、しばらくの沈黙の後でゆっくりと口を開く。
「……この世の中には、知らなくてもいい真実も、知らずにすむ方が幸せな事もある……特にこの事はな。知ったところでどうする事もできないしな」
「つまり、隠し通したいって事?」
「……ああ」
しばしの逡巡の後に口を開いたクロスの言葉に耳を傾けていた神魔は、その意志とそこに含まれる意図を汲み取って静かに目を伏せる。
「そう。なら僕は何も言わないよ」
咎める事も、肯定する事もせず、ただ抑揚のない口調で小さく応じた神魔は、そのまま踵を返すと自分の部屋へと戻っていった。
※
「それにしても神魔さんって、悪魔って感じしないよね。優しそうで全然怖くないし……クロスさんは天使ってイメージだけど」
「……そうだな」
思考の海に浸っていたクロスが意識を戻すと、その耳に声を潜めた詩織と大貴の会話が滑り込んでくる。
詩織の言葉に神魔とクロスに一瞥を向けた大貴は、その様子を観察して自らの意見を述べる。
「案外、天使と悪魔ってそんなに違わないものなのかも」
いくら声を抑えていようと、全霊命は半霊命以上に聴覚も優れている。
そのため、声を抑えているつもりでも詩織と大貴の会話の内容は、クロスには筒抜けだった。
「そんなことは無い」
「!」
聞き耳を立てるつもりはなかったが、「天使と悪魔はそんなに違わない」という大貴の言は、クロスにとって無視できるものではなかった。
内緒話に答えられ、思わず目を瞠った詩織と大貴に、クロスは不快感とも不満とも取れる視線を向けて答える。
「天使と悪魔――というより。光と闇の全霊命は決定的に違うんだよ」
「そうですよね。光と闇ですもんね」
その口調からクロスが神魔と同列に考えられることを良く思っていなと感じたのだろう詩織は、取り繕うような笑みを浮かべる。
そう言った詩織の視線はさりげなく神魔へと向けられ、その反応を窺っているが、クロスと同様に話が聞こえていたはずの悪魔の青年は、それに対して一切の反応を見せていなかった。
「使う力が『光』と『闇』とかそんな事じゃない」
人間――特に日本人である詩織には、理解できないが、地球にも人種、宗教の違いによる諍いは確かにある。
そういったものと近いものだと考えていると思しき詩織の反応に、クロスは小さく息をついてその間違いを指摘する。
「え?」
自分の考えを見透かしたように否定の言葉を告げてきたクロスに、詩織は目を丸くする。
「闇の存在は、大切なモノを守るために他の犠牲を恐れない。……自分にとって大切なもののために、それ以外を切り捨てるんだよ」
詩織と大貴の視線を受け、神魔へと一瞥を向けたクロスは、簡潔に答えを述べる。
「あの……それっていけない事ですか?」
憤りを通り越して、どこか憎悪のようにも感じられる口調で言い放つクロスに、大貴と顔を見合わせた詩織は、恐る恐る問いかける。
「誰にだって、大切な人はいるだろうさ。もし、大切な人と赤の他人の二者択一を迫られれば、前者を取ることはまあ、珍しいことじゃない。
だが、何事にも限度ってもんがある。そして、闇の存在はそれが極端なんだよ」
詩織が、自分の言いたかったことの本質を理解していないと察したクロスは、補足する意味で言葉を続ける。
「例えばお前達が大切な人一人と、一万人の命を天秤にかけなければならなくなったら、どっちを取る?」
「え? それは……」
クロスの問いかけに、大貴と顔を見合わせた詩織は答えに窮して沈黙を返す。
クロスの言はあくまでも仮定だが、それを考えると答えに困るのが人情というものだろう。
確かに、大切な人は助けたい。だが、そのためにどれほど多くの人を危険に晒せるか――これは、そういう問いかけだった。
「まあ、そんなこと言われても答えに困るよな。――だが、闇の全霊命は、間違いなく一万を切り捨てる」
「!」
抑制された声で断じるクロスに、詩織と大貴は目を瞠る。
忌避とも取れる感情が込められているにも関わらず、クロスの言葉に反応しない神魔の態度が、その言に偽りがないことを何よりも物語っているように感じられた。
「たとえば、一番大切なもののためなら、二番目に大切なもの――親や兄弟だって手にかけるぞ」
口調や視線からクロスのその言葉が、その言葉が決して脅しではないことを理解した詩織と大貴は、自身の背に冷たいものが流れるのを感じていた。
「闇の存在は決して邪悪じゃない。むしろ神魔のように優しく、穏やかな性格の奴の方が多い。あいつらの心の在り様はむしろ、俺達光の存在よりも一途で純粋だ。
だが、だからこそ闇の全霊命は危険なんだ。たった一つのために、それ以外の全てを切り捨てる事をいとわないあいつらの心は、純粋と言う名の狂気ともいえる」
「……っ!」
事実を事実として告げるクロスの淡々とした言葉に、詩織と大貴は小さく目を瞠って息を呑む。
人は誰もが天秤にかけるべきもの、順位をつけるべきものを持って生きている。
愛、友情、仲間、敵――たったひとりの人間とおびただしい数の人間。
そして生きていく中で、その取捨選択を迫られた時、闇の全霊命は、それを迷うことなく選び取り、切り捨ててしまう。
例え身内や友人であろうと、そのために殺す事を躊躇わないその在り方は、一点の曇りもない純粋な黒。そして、それこそが闇の存在の最大にして最悪の特性だった。
「だから気を付けろよ? あいつの大切なものを害せば、お前達も容赦なく切り捨てられるぞ」
確信を持って脅しと警告の言葉を発したクロスに一瞬怯んだ詩織だったが、即座に意識を強く持って言葉を返す。
「で、でも、それでも神魔さんはただ悪い人じゃありません」
真っ直ぐ目を見て怯む事無く、力強く言う詩織の言葉にクロスはわずかに目を細める。
「……そうだな。それだけ注意しておけば、普通に接している分には問題ない」
(普通に接している分には、な)
最後の言葉は口に出す事無く、心の奥に留めてクロスは神魔の背中に視線を向ける。
この会話が聞こえていながら沈黙を守る神魔の後ろ姿に、クロスは敵意とまでは言わないが、決して好意的ではない警戒の視線を送る。
否定することがないからというのもあるだろうが、まるでその会話が聞こえていないかのように振舞うその姿が、クロスには好ましく思えなかった。
(神魔さんはそんなことしない。私達のこと……私のこと、理由もなく切り捨てたりなんてしない)
そんなクロスの態度を横目に、詩織は自分に言い聞かせるように強く心の中で言葉を結ぶ。
神魔は大貴と自分を助けてくれた命の恩人だ。
その優しさと強さは、詩織の心にしっかりと刻み付けられている。今の詩織にとって、神魔は大切な家族と日常を守ってくれたヒーローと呼んでも差し支えのない存在だ。
そんな人物を、悪魔だから、闇の存在だからという理由で嫌うことなどできるはずはない。
だからこそ、そんな人物が自分達を見捨てる人であるはずがないと、クロスの言葉を否定する想いが詩織の中で強く燃え上がっていた。
「わ、私は――」
「――ッ!」
詩織が言葉を発しようとしたその瞬間、身体を貫くように奔った感覚に、神魔とクロスは同時に顔を上げ、空を仰ぎ見る。
「どうしたんですか?」
その鋭敏な反応に、思わず言葉を止めた詩織は、困惑した様子で神魔とクロスに尋ねる。
「もう戻ってきやがった! しかも二人に増えてやがる」
「え? ……!」
一瞬クロスの言葉の意味を掴みあぐねていた詩織だが、すぐに昨日出会った紅蓮という悪魔の姿が脳裏をよぎり、その意味を理解する。
視線を送れば、とっくにその意味に気付いている大貴が警戒を強めていた。
「どうしてここが……!?」
神魔とクロスにつられ、部屋の大きな窓から外へ出た大貴と詩織は、宙に浮かんでこちらを睥睨してくる紅蓮と、左目だけが白目の黒い黒眼となっている悪魔の姿を見止めて息を呑む。
まるで何の迷いもなくこの場所を訪れた様な紅蓮ともう一人の悪魔の姿に、詩織の口からは疑問の言葉が零れる。
地球、日本、仮に東京だけを探したとしてもこんなに簡単に個人の居場所を特定できたことに疑問を覚える詩織に、紅蓮の隣にいる左右非対称色の目を持つ悪魔が事も無げに応じる。
「このゆりかごの世界で、魔力と光力を垂れ流していれば、馬鹿でも分かるだろ?」
「だろうね。一応聞くけど、要件は?」
分かり切っていたその答えに応じた神魔は、その金色の双眸に強い戦意を宿して二人の来訪者を見据える。
全霊命は相手の力を知覚することができる。
それは全霊命に限らず、霊的な力を有する存在ならば、ほとんどが有している能力であり、その知覚を逃れたいならば、身体に満ちている力を隠さなければならないというのは、世界の常識だ。
紅蓮達がこの場を容易に見つけられたのは、神魔とクロスが魔力と光力を隠していなかったからにつきる。
二人がそれをしなかった理由は至極簡単。
天使や悪魔が自身の神能を、同格の神格を有する全霊命の知覚から隠すことは不可能だからだ。
どんなに力を抑えて隠しても、相手がその気になれば見つかってしまう。
しかも、全霊命にとって、この地球をくまなく捜索することは造作もない。
さらに、紅蓮達の狙いが大貴であるのなら、霊的な力の隠匿方法を知らない地球人から目的の人物を特定するなど簡単なこと。
自分達の力を隠せない。大貴も力を隠せない。――ならば、隠す必要などないというのが、神魔とクロスの判断だった。
「その小僧の中の力とやらを見定めに来てやったぜ」
「だと思ったよ」
左右非対称色の目を持つ悪魔が大貴を指さして言うと、神魔とクロスの表情と気配が一気に鋭いものに変わる。
「んじゃあ、早速始めようか! ――『金剛炎』ッ!」
瞬間、左右非対称色の目を持つ悪魔の拳が漆黒の魔力に包み込まれ、燃え盛る炎のような装飾を施された金色の手甲が顕現する。
「神魔!」
「分かってる」
自分の身の丈に匹敵するほど巨大な白銀の大剣を召喚したクロスが声を上げると同時に、神魔が大貴を庇うように移動する。
「さて、じゃあ隔離してもらおうか」
それを見た紅蓮は、クロスと神魔を交互に見比べて勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「――!」
その言葉が意味することを分かっている神魔とクロスは、共に舌打ちをしたくなる気持ちを抑え込んで平静を装う。
紅蓮と左右非対称色の目を持つ悪魔は、その注文の通りに神魔かクロスが空間隔離をするのを待っているのか、武器を構えていても今すぐ戦闘に移る気配は無い。
先程から詩織と大貴が動き回っているのがその証拠だ。
もし二人が本気で今すぐ戦おうとしているならば、先日のようにその力の圧力と殺気で二人は動く事も出来なくなっていただろう。
しかし楽観はしていられない。二人は神魔とクロスが空間隔離を施すのを待っているだけに過ぎない。
あまり時間をかければ、痺れを切らしてこの場所で戦闘に入るのは二人の様子から明らかだった。
「仕方ない、僕がやるよ」
しばしの逡巡の後に神魔が決意と共にその重い口を開く。
「詩織さんは、ここで――」
「私も連れていってください」
こちらの世界に残るように言おうとした神魔の言葉を遮った詩織は、力強い声で懇願する。
「何馬鹿な事言ってるんだ!? 危ないからここで待ってろ」
「嫌! 大貴だけを危険な目に合わせるわけにはいかない」
自身の胸に手を当ててはっきりと言い放った詩織の目は、自分が足手纏い以外の何ものでもないことを分かった上で発した言葉であることを雄弁に物語っている。
姉の身を案じてその言葉を即座に否定した大貴の剣幕にも動じず、詩織は神魔に自分の気持ちを訴えるように視線を送る。
「詩織さん……」
その目に宿るのは、純粋に弟を案じる姉の優しさと傲慢。
自分が何もできないことを分かっていながら、自分の目の届かないところで弟が危険な目に会うことを許容できない。
何より、大貴のために神魔とクロスに命を懸けて戦わせておいて、肉親である自分が何もせずいることを許せないという強い意志が感じられた。
「神魔!」
詩織を説得しようとした神魔に、急かすようにクロスの言葉が叩きつけられる。
「……っ、仕方ないか」
結局大貴を守るしかない以上、一人でも二人でも大差はない。そう判断した神魔は、諦めたように独白すると、自身の魔力を使って空間を隔離する。
空間隔離とは名ばかりに、魔力の酔って映し出された仮初の世界は、全霊命一人一人が天地創造に等しい力を持っていることの証明でもある。
魔力によって切り取られ、全ての人がいなくなった虚構の世界の中で、神魔は大貴と詩織を魔力の結界で取り囲む。
「さて、舞台は神魔がお膳立てしてくれたことだし、俺達はとっとと始めようか。……あいつらが生きていられるうちにな」
「……てめぇ」
眼下の神魔と大貴、詩織を一瞥して笑みを浮かべた紅蓮の言葉に静かな怒りを内包する声を発したクロスは、自身の身の丈にも及ぶ大剣を顕現させてその切っ先を向ける。
※
「ハアアッ!」
「く……っ」
クロスと紅蓮が対峙している時、その下では大貴と詩織を守る結界を展開した神魔と、金色の手甲を装備した左右非対称色の目を持つ悪魔が物理的破壊力を伴った殺意をぶつけ合っていた。
神魔が持つ大槍刀の斬閃と、レドの拳がぶつかり合って砕け散った神格の意志が空間隔離によって作られたこの世界の街並みを薙ぎ払い、瓦礫の山に変えていく。
世界を滅ぼす力を持った魔力に付随された破壊の意志によってもたらされる破壊は、いかなる天変地異や兵器よりも大きな被害をもたらす。
ここが空間隔離された世界でなければ、ただの一合で東京が更地になっていただろう。
「勇ましい事だな。そんなに必死になる辺りに、余裕がないぜ?」
「……っ」
世界を砕くほどの殺気にも動じず、嘲るように言い放つ敵の言葉に神魔は忌々しげに歯噛みする。
「結界と空間隔離――これらは生成と維持に余計な力を消費する。俺たちみたいに実力が拮抗している相手と全力で戦う時には、ハンデ以外のなにものでもないもんな!」
そう言い放った左右非対称色の目を持つ悪魔は、半ば勝利を確信しているかのような表情で、金色の手甲を纏った腕を神魔の正面に向ける。
「やっぱり、このために二人できたんだね……」
「アァ」
神魔の言葉に左右非対称色の目を持つ悪魔が口元を歪める。
「どういう事……?」
「クロスと紅蓮を戦わせてその間に俺を狙うって事だろ」
レドの言葉に首をかしげる詩織に、大貴は神魔と戦っている左右非対称色の目を持つ悪魔から視線を外さず、苦々しげな声で言う。
「そういう事、だ!」
言い放つと同時に地を蹴った左右非対称色の目を持つ悪魔は、目にも留まらぬ疾さで神魔に肉迫し、金色の手甲をまとった拳を放つ。
世界に法則を置き去りにする、光も物理も時間も空間も、この世の全てを超越する全霊命の速さ――「神速」。
その神速で放たれた拳は、全く同じ神速で振り抜かれた神魔の武器である漆黒の刀身を持つ大槍刀によって防がれる。
世界の枠を超越する速さと世界を滅ぼす程の力が込められた金色の手甲と、漆黒の大槍刀がぶつかり合い、そこから生み出される衝撃が世界を轢き千切る様に軋ませ、魔力の火花を散らせる。
「そういえばまだ名乗っていなかったな。『レド』だ」
「……神魔」
手甲で武装した拳と、大槍刀の刀身が金属音を立てて擦れ合い、二人の鋭い視線が交錯する。
神魔は大槍刀の柄を握る片方の手を離し、「レド」と名乗った左右非対称色の目を持つ悪魔に向けた掌に魔力を収束させる。
「!」
刹那、神魔の手の平に収束された魔力が全てを滅ぼす破壊の砲撃として放たれる。
解放された神魔の魔力が漆黒の砲撃となって、目と鼻の先にいるレドに向かって一直線に世界を貫く。
「オラァ!」
眼前まで肉迫した神魔の魔力砲を、高らかな咆哮と共にレドの拳の一撃が打ち砕き、霧散させて消滅させる。
「――っ!」
「驚いてる場合かよ!」
自身の魔力砲が打ち消されたことに瞠目する神魔に、間髪入れずに放たれたレドの拳が炸裂する。
神速で放たれた漆黒の闇を纏う金色の拳は、しかし寸前で神魔の大槍刀の柄に受け止められていた。
「ハッ! それで止めたつもりかよ!」
咆哮と共に声を上げたレドは、さらに力任せに拳を振り抜く。
「っ!」
全霊の魔力が込められた一撃は拳を防ぐ大槍刀の柄を神魔ごと呑み込み、遥か地平の彼方まで漆黒の力が迸る。
「きゃあっ!」
「く……っ」
その衝撃に結界ごと神魔が吹き飛ばされたのか、空中を移動する感覚に詩織と大貴が身を寄せ合って衝撃に耐える。
しかし、予想された衝撃はいつまで経っても訪れることはなく、大貴は現状を把握するべく閉じていた瞼をゆっくりと開いていく。
「これは……」
その大貴の目に真っ先に映ったのは、先ほどまでと同じように自分達を守って立つ神魔の後ろ姿。
大槍刀を携えて佇む神魔は、先程の一撃によって生じたと思しき煙を身体から立ち昇らせているが、まるで何事もなかったかのように力強く立つその様子に、安心感が込み上げてくる。
しかし、続いて周囲に視線を巡らせた大貴は、そこに刻み付けられた力の痕跡に言葉を失う。
先ほどの攻撃で神魔と結界に守られた大貴たちが移動させられたのは数十メートルほど。
だが、隔離された空間の世界には、遥か地平の彼方までレドの攻撃が刻み付けた破壊の痕跡が残っていた。
幅数十キロ、距離すら分からないほどに刻み付けられた一直線の破壊痕は、結界に守られた大貴たちよりも後ろに、底が見えないほど深い亀裂をもたらしていた。
隔離された空間は、魔力によって写し取られた世界。
それはつまり、風景や景色こそ同じでも、その世界の強度は同じではないことを意味している。
もし先の一撃が空間隔離の外で放たれていたなら、すでに地球は跡形もなく消え去ってしまっていただろう。
「やるじゃねぇか神魔」
周囲に刻み付けられた惨状に絶望感を覚えていた大貴と詩織の耳に、この光景を作り出した悪魔の愉悦の言葉に彩られた好戦的な言葉が届く。
漆黒の魔力を纏う金色の手甲に覆われた腕を広げ、嬉々とした様子をみせるレドの言葉を静かな面持ちで受け止めた神魔は、小さく嘆息してから口を開く
「随分と余裕だね」
「あ……?」
明らかに追い詰められているのに、どこか挑発するようなその余裕めいた神魔の言葉に一瞬怪訝な表情を浮かべた瞬間、レドの頬に小さな傷が生じる。
(これは……さっきの一瞬につけられたのか?)
レドにとっては取るに足らない――ダメージなどと呼べるほどのものではなかった。
しかし、先程の状態から自分の身体に傷をつけた神魔の戦闘力の片鱗を目の当たりにしたレドは、興奮にその身を震わせて獰猛な笑みを浮かべる。
軽く指先で傷をなぞると、小さな切り傷は一瞬にして消え去り、わずかに立ち上っていた血炎も完全に消えてしまう。
全霊命にとって何ら問題にならないかすり傷が一瞬で完治したのを見て取ったレドは、しかし先ほど以上の歓喜に身を震わせて、左右非対称色の目で神魔を見据えた。
「上等だ。俄然燃えてきたぜ!」