判決の日
ゆっくりと伸ばされた手が、白い頬にそっと触れる
「――んっ」
それだけで、触れられた女性から熱を帯びた甘い吐息が漏れ、触れられた手の温もりとそれに伴う快楽と幸福感、ほんの些細な羞恥心に細い肩が微かに震える。
その声に応えるように、頬に添えられた手が、やさしく女性の頬を撫でると、その桜色の髪が清流のように手の間をすり抜け、心地よい冷ややかな手触りと花のような優しい香りを残してはらりとこぼれ落ちる
「ぁ、ん……」
微かに震える瞼が開かれると、幸福と熱で潤んだ菫色の澄んだ瞳が、自分を撫でてくれている男性の姿を捉えると、その艶やかな唇がたまらずに甘い吐息と共に目の前の男性――最愛の人の名を紡ぐ
「神魔様……」
「なに?」
壁を背にして座っている神魔の足の上に座り、身体と体重の全てを委ねた体勢になっている桜は、横抱き――いわゆるお姫様だっこをされているような体勢に近い。
その状態で神魔の手に頬を撫でるように愛撫されているため、二人の距離はかなり近く、現に今にも神魔の唇が桜のそれを塞ぐのではないかと思われるほど二人の顔の距離は近い。
「――ぁ」
澄み渡った優しい声を快楽と愛情に火照らせて神魔の名を呼んだ桜の声に応え、神魔の親指が桜の艶やかな唇にそっと触れる。
桜を腕の中に抱きかかえている神魔には、桜の象徴ともいえる癖の無い桜色の長髪が優しく絡みついており、まるで桜の花弁の中で身を寄せ合っているような幻想的で神秘的な光景を作り出している
「んっ……ぁ」
神夜の指がその形を確かめるように桜の唇を優しくなぞると、まるで口づけを交わしているかのように桜の唇が無意識にそれを求め、それによって生まれる快楽と幸福感、そして胸を締め付ける切ない感情に桜の唇から熱を帯び、さらなる熱を求める吐息がこぼれる
「桜」
「神魔、様……」
全幅の信頼を置いて心身の全てを委ねる桜は、優しい神魔の声に応えるように、その漆黒の霊衣をきゅっと力なく握りしめる。
弱々しくも確かな存在感を主張してくる桜に応じるように、神魔はその視線を絡ませたまま、元々息がかかるほどには近かった顔の距離をゆっくりと縮めていく。
普段は降り積もった新雪のように穢れない純白の肌をほんのりと朱に染め、桜はこれまでに何度も経験したにも関わらず、飽きる事など考えられない繋がりを想像して、神魔に求められるままに愛情と幸福に染まった瞳を隠すように目を細めた
「あなた達、いい加減にしなさい」
その時響いた抑制の利いた氷麗な声に、今まさに触れそうになっていた二人の唇が止まる
「え~?」
桜から顔を離した神魔が不満げな視線を向けると、檻の向こうで二人の睦み合いに背を向けながら牢の外の壁にもたれかかっていた黒髪の女性――瑞希が首だけを動かして視線を送ってくる
気が強そうな印象を受けるややつり上がった切れ長の瞳、もの静かで鋭利な氷細工のような繊細な美しさをたたえる凛とした存在感を有すの女悪魔は、牢の中で自分の目を憚らずに睦み合う神魔と桜に、内心で辟易していた
「え~、じゃないでしょう? あなた達、自分の置かれている状況を分かっているの?」
「分かってるよ。だからこうやって心残りがないように、桜とイチャイチャしてるんだから」
牢の中にいる神魔から、もはや完全に開き直った言い訳を聞いて瑞希はため息をつく
九世界非干渉世界への干渉の罪で魔界の判決を待っている神魔と桜だが、常識に照らしあわせて考えると極刑になる確率が高い。
それが分かっている二人は、もはや完全に開き直って「人生の残りを愛し合いながら過ごすんだ」と言い張って、魔界王との謁見の後からずっとこうして愛を語らっているのだ
本来なら魔界王や重鎮が出るまでもなく、とうの昔に刑が執行されている二人の判決がここまで伸びているのは、光魔神及び人間界からの減刑の要請があるからだ。また、桜が神から生まれた最初の五人の悪魔――「皇魔」の内、今は亡き二人「久遠」と「涅槃」の娘である事も関係しているのかもしれない
「なら、せめてそういう事は二人きりの時にしなさい」
「なら、二人きりにしてくれる? 桜が恥ずかしがるから、この程度で済ませてるんだから」
「……っ」
呆れたように言う瑞希に、牢の中から神魔が抗議と不満の声を向けてくる。その腕に抱かれたままの桜は、恥じらいのためか、神魔の胸に顔を隠すようにうずめているのだが、瑞希に言わせれば「何を今更」と言ったところだ。
確かに二人は愛し合うとは言っても、具体的には神魔が桜を抱きしめて愛撫するという程度の事しかしていない。今にも口づけを交わすのではないかという時もあるのだが、神魔のそれは桜のそこへ触れる事無く、予感だけを残して去っていくというある種の焦らしが延々と繰り広げられている。
「この程度って、見ているこっちは十分恥ずかしいのだけれど?」
いかに直接的な行為に及んでいないとはいえ、そのやり取りを聞かされ続けなければならない瑞希はたまったものではない。あまりの居た堪れなさに何度も逃げ出したい衝動に駆られ、その度にそれを抑え込んできたのだ――さすがにもう限界だが。
「神魔様、わたくしも……その」
瑞希の抗議に、神魔の腕の中にいる桜が頬を赤らめながら、上目づかいに潤んだ視線を送る
神魔と同様に桜もこの状況に開き直っているのだが、元来貞淑な桜は、自分の全てを捧げた神魔以外の存在――瑞希がいる前で愛を語らう事への抵抗を隠しきれない。
「嫌だったら、振りほどいて?」
そして普段は清楚な桜が見せる、そんな愛らしく弱々しい仕草と言葉に、神魔は嗜虐心と悪戯心を刺激されずにはいられない
「それは卑怯です、神魔様……嫌ではなく、恥ずかしいだけなのですから……」
自分の答えを分かっていて、あえて訊ねてくる神魔の言葉に、わずかに拗ねたように唇を尖らせながら、桜は身体をすり寄せる
嫌だったら振りほどいて、という事は、嫌でなければ振りほどけない。桜が戸惑うのはあくまでも他人の視線と存在が気にかかるから、というだけの理由だ。
しかしそれ以前に、桜には自分から神魔の寵愛を拒否するという選択肢そのものが存在していないのだ。――なぜなら、神魔と共にあり、神魔に求めてもらえることこそが桜の幸福と願いそのものなのだから
「とにかく、少し大人しくしていなさい」
「大人しくはしてるよ? それとも、もう少し激しくした方がいい?」
「……っ」
「やめなさい」
九割本気、一割冗談といった口調で言う神魔と、その言葉に頬を赤らめる桜を交互に見て、瑞希は小さくため息をつく
通常、見られたくないような事は空間隔離をして行うのだが、瑞希の仕事には、それをさせない事も含まれている。そのため神魔と桜は、空間隔離も出来ずにこのような形で人生最後かもしれない二人の時間を過ごしているのだ
「……はい、はい」
「ふふ」
瑞希の言葉に、不満を露にして応えた神魔の様子を見て、腕の中の桜が小さく笑みをこぼす
「……まったく」
ため息をついて視線を二人から外した瑞希は、それでも背後の二人に意識は向けたままで、わずかに目を伏せる
(もしも、私にも好きな人がいたら、あんな風になるのかしら……?)
神魔と共にいる時の桜は、これ以上ないほどに幸せな表情を浮かべている。
意識しないように気をつけていても、背後の二人のやり取りは否が応でも瑞希の知覚の全てを刺激してくる。男を愛し、男に愛される女の気持ちというのがどんなものなのだろうと考える瑞希は、無意識のうちに、桜と自分を置き換えている事に気づいて、自嘲交じりの笑みを浮かべて自分の考えを切り捨てる
「……何を」
(何をくだらない事を考えているのかしら、私)
瑞希が背後の二人に気づかれないように自嘲を浮かべた時、牢獄へと繋がる扉が開き、そこから燃え上がるような緋色の髪をした美女――「呉葉」が入ってくる
「魔王様がお呼びです」
牢の前で立っている瑞希に、厳かな声音で用件だけを簡潔に告げる
「そう、分かったわ……行くわよ、二人とも」
その言葉に頷いた瑞希が声を向けると、牢の中でそのやり取りを見ていた神魔と桜が、ようやく判決の時が来た事を理解して小さく頷く
いつの間には抱き合う様な状態を止め、肩を並べるようにして座っていることから、さすがの神魔もかつて自分と浅からぬ関係だった悪魔――風花の妹である呉葉の前で、桜と抱き合うという様な行為は避けたらしい
「……はい」
牢から出た神魔と桜を瑞希の傍らに立って見守っていた呉葉は、瑞希に連れられて部屋を出ていく神魔にすれ違いざまに言葉を残す
「幸運をお祈りしております」
呉葉にとって神魔は、今は亡き姉――風花が愛した人。複雑な心境はあるが、それでも神魔に生きていてほしいというのが呉葉の偽らざる本心だった
「ありがとう」
背を向けたままの呉葉を見て、小さく微笑んだ神魔はその背中に背を向けて、感謝の言葉と共に牢を後にした。
『――はい。こちら、昨日強襲を受けた舞戦祭会場の真下に来ております。この事件には、禁忌の存在である竜人が関わっていたと王政府からは発表されており――』
空間に浮かび上がる画面の中で、レポーターらしき女性が淡々と実況見分を交えながら事件の詳細を語っている
人間界にもマスメディアというものが存在し、そこは、よほどの才能がない限り人間を必要としない程に進化、発展してしまったこの超科学文明の中で人間が仕事をできる数少ない職場でもある。
政治を統括する王政府からの情報を機械的にただ垂れ流すだけではなく、独自の調査や事実を踏まえたうえで色々な角度から物事を捉えるため、単純な作業の効率化を可能とする機械だけではなく、独自性や偏見を持ち、その上で中庸な真実を語るために、人間が働いている
魔道人形や魔法生命体ならば人間と同等以上の報道が可能だろうが、現在自我を持った生命体を作るのは「メルストキア条約」によって禁止されている。魔道人形の大半は人間界城で働いているため、人員を確保する事を考えると、人間を雇うのが最適なのだ
その様子を客室のリビングのテーブルから朝の食卓を囲みながら見ていた大貴は、自分の隣に座って朝食を取っているヒナへと視線を向ける
昨日の事件の対応に追われ、多忙を極めている中でも自分の事を気にかけ、かつそれを感じさせないヒナの自然なふるまいに感心しつつ、当然のようにヒナが隣にいる事に、不思議な安心感を覚えている自分に、大貴は気づいていた
「……何ていうか、大変だな」
「こんな大きな事件滅多に起こりませんからね……二百年ほど前に、私が至宝冠に選ばれた時以来じゃないでしょうか?」
王城の門の前に詰め掛けている記者の群れをテレビ越しに見て、大貴が辟易した様子で言うと、ヒナはさらりと何事もなかったかのように応じる
常にマスメディアの高貴の目に晒されている王族――しかも、時期人間界王のヒナにとっては、この程度の騒動はそよ風程度のものなのかもしれない
「……へぇ」
(二百年前……)
それを聞いた詩織が思わず複雑なため息をこぼす
その主な成分は、いつものように九世界の規模や桁の違いだが、残りは「この世界でもマスコミってこんな風なんだ」という懐古の念にも似た感情と、これが二百年ぶりの大騒動だとしたら、その間どんな事を放送しているのだろうという素朴な疑問と好奇心によるものだ
「それより、大貴さん。昨日はよく眠れましたか?」
「ああ、おかげ様で」
「それは何よりです」
大貴とヒナのやり取りを見て、給仕係をしているロンディーネが微笑ましそうに目を細め、詩織が意味深な視線を送り、クロスとマリアが我関せずと言った様子で食事を淡々と続けている
(私には聞いてくれないんだ……別にいいけどね)
その様子を見ながら、詩織はヒナの大貴贔屓に内心で不満を述べる
もっとも、二人の関係――婚約者候補という立場を考えれば当然なのかもしれないが、自分は大貴と違って繊細でか弱い、無才能の人間なのだからもう少し気にかけてくれても……とそこまで考えて、詩織は自分で勝手に自己嫌悪に陥る
「……はぁ」
「どうしたのですか、詩織さん?」
「いえ、何でも……ハハ」
思わず口から洩れた重々しい吐息に首を傾げたヒナに、詩織は渇いた笑みで応える
もう少し気にかけてもらいたくて内心で愚痴を言っていたら、自分の情けなさに辟易したなどと、とても言えない詩織のぎこちない笑みに、わずかに首を傾げてヒナは優しく言葉を続ける
「ならいいのですが、詩織さんは大貴さんと違って戦いに向いておられません。昨日の戦いで気づかない内に大きな負担を受けているでしょうから、心身ともにいたわって下さい」
「ありがとう、ヒナちゃん」
図らずもヒナから向けられた言葉に、詩織は何故か感極まって応じる
(あぁ、なんていい子。……大貴にはもったいない)
「お前はどうなんだ?」
「……え?」
不意に向けられた大貴の言葉に、ヒナは思わず目を丸くする
「だから……その、ちゃんと休んでるのか?」
「……ぁ」
照れ隠しに、ややぶっきらぼうな言い方をした大貴の言葉にヒナは思わず顔を赤らめる
今回の事件では、大貴や選手たちの活躍で被害は最小限に食いとどめられたと言える。しかし、被害が最小限であるという事は、被害がないという事ではない。
大貴は、決して人の感情の機微に敏感な方ではない。それでも、ヒナが王族である自分を誇り、上に立つ者としての覚悟を持って生きている事を知っている。
そんなヒナが今回の事件で少ならかず出ている被害者と犠牲者、その家族や親しい人を思って、自分で自分を追い詰めているのではないか、という事は想像に難くなかった
「ヒナの立場を考えれば、気にするな、なんて事は言えないけど、あまり思いつめすぎないようにな。無理して身体を悪くしたら元も子もない」
「……はい、お気遣いありがとうございます」
やや不器用な印象はあるが、自分を気遣ってくれている大貴の言葉に、ヒナから思わず笑みがこぼれる
確かにヒナは、大貴の言う通り、今回の事件をこのような形でしか止められなかった事を心底悔やんでいた。
例え微塵も表には出さずとも、自分が王族として、一人の人間として責任を感じている、という事を大貴が知っていてくれている事――大貴が自分を見てくれていた事が嬉しくてたまらない。
「まあ、なんだ……」
内心で飛び上がりたいほどの嬉しさを感じているヒナに、続けて、恥じらいがちに大貴が言葉を向ける
「困ったらいつでも俺のところに来ればいい。……俺は政治的な事はからっきしだから、役には立たないだろうけど、せめて愚痴を聞いてやるくらいの事はできる。――婚約者候補だしな」
「大貴さん……」
なるべく遠回りな言い回しだが、大貴らしい優しい言葉に、ヒナはわずかに目を見開き、すぐに満面の笑みを浮かべる
「……はい、ありがとうございます」
その頬にわずかな朱が差しているように見えたのは、詩織の気の所為ではないだろう
(ふぅん…なんだかんだ言っても、そこそこ相性がいいんだ……中々お似合いじゃない)
朴念仁の双子の弟――大貴とヒナが仲睦まじくしている様子を見守る詩織は、微笑みながら二人の様子を窺う
「やはり、ここに来てよかった……」
そんな詩織の眼前で、嬉しそうに頬を赤らめたヒナは、誰にも聞こえないような小さな声で独白する。
頬を主に染めながら小さく微笑み、誰にも聞こえないような小さな声で呟いたヒナの様子に、大貴は怪訝そうな視線を向ける
「……ヒナ?」
「何でもありません。――では、申し訳ありませんが、私は仕事がありますので、失礼させていただきます」
「ああ」
大貴に優しく微笑みかけ、ヒナは一言言い添えて腰を上げる
「今日はしっかりと休んで、明日に備えて鋭気を養ってください」
「あ、ああ……」
(そういえば、まだこれがあったな……)
ヒナの言い残した言葉に、大貴はその事を思い出して内心で憂鬱な気分になる。
元々昨日の舞戦祭は成り行きのようなもので、大貴には明日に予定されている七大貴族への光魔神お披露目パーティに、主役として、そしてヒナの婚約者として出席する事になっている。
ヒナとの婚約関係に関してはともかく、大勢の人間の好奇の目に晒されるというのは、人によるかもしれないが、大貴にとっては正直いい気持ちがするものではない。
元々自分から目立つ事を好まない大貴のそんな心情を把握しているのか、ヒナが部屋を出た後に後ろで給仕係をしていたロンディーネが苦笑交じりに言葉を続ける
「明日の光魔神様のお披露目パーティに参加するため、今日には世界各地から七大貴族の主要な方々が城に到着されるはずです。時間があればお会いしてみてはいかがですか?」
「……ああ、考えておくよ」
大貴達との朝食を追え、部屋を出たヒナを神妙な面持ちのシェリッヒが出迎える
「ヒナ様」
「……どうでしたか?」
次期王であり、姉であり、上司であるヒナと肩を並べて歩くシェリッヒ――リッヒは、調査の結果を端的に説明する
「今回の主犯である、グリフィス、エストの二人は、いずれも登城の履歴はありませんでした、また、ロジオ・虹彩も、禁書庫への侵入、情報の持ち出しは不可能だと断定いたしました」
「そうですか……やはり、最低でももう一人、彼らの後ろにいる、という事ですね」
その言葉に、やはりといった様子でヒナが呟く。
竜人を作り出した技術、魔法生命体を生みだした技術――犯人が禁書庫からこれら禁忌の技術を盗み出した事がほぼ確実である以上、犯人には、最低でも禁書庫に侵入できる人物である必要がある。――即ち、王族か七大貴族、一部の特権階級を持つ者。
しかし、グリフィスにしろエストにしろ、そもそも城に来た事がなければ、話にならない。無論何者かの侵入を許した可能性もあるが、それは城、禁書庫のセキュリティ上あり得ないと言っても過言ではなく、正規の手段で入って持ち出したと考えない方が不自然だ
「はい。恐らくは。光魔神様が捕らえて下さった二人が回復し次第、事情を聴取いたします」
「お願いしますね。……さすがにその黒幕も、今回の事があったすぐ後で動いてくるとは考えづらいのですが、念のために調査を急がせて下さい」
「はい」
危機感と焦燥を露にするヒナの言葉にリッヒは静かに頷く
これまで禁書庫からの情報の持ち出し、舞戦祭会場の襲撃と、相手の言いように行動されてきた。この世界を預かり、そこに生きる人々の命と生活を預かる王族の責務として、これ以上後手に回る訳にはいかない――ヒナとリッヒには、そんな決意と感情がありありと浮かんでいた
「……ところで、光魔神様とのお食事はいかがでした?」
「い、今はそんな事を話している場合ではないでしょう!?」
ふと話題を切り替えてきたリッヒを窘めつつ、ヒナの表情が一気に赤く火照る。
「婚約者としての親睦を深める」、「昨日の事件の説明」など色々な建前を用意してはいるが、ヒナの目的が単に光魔神――大貴と一緒に時間を過ごす事にあると知っているリッヒは、動揺する姉の姿を見て少し意地の悪い、それでいて微笑ましいものを見る視線を向ける
「では、明日のご予定はいかがされます? 主にパーティが終わった後の事なんですが」
「な、何の事を言っているんですか?」
リッヒの言葉に顔を赤らめたまま、動揺を隠せない様子でヒナが応じる。
とはいえ、ヒナの脳裏ではおおよそリッヒの言わんとしている事が分かっている。それでもあえて言わないのは、それを口にしたら「そんな事を考えていたんですか?」と揚げ足を取られてからかわれる事がわかっているからだ
「いえ、寝所などをご一緒されるのかと思いまして」
「…………っ」
その言葉にヒナがその新雪のような白い顔を真っ赤に染め上げ、一瞬の間硬直する
《――いつでも俺のところに来い》
リッヒの言葉に、大貴の声が頭の中で何度も反芻される。
大貴にとっては、ヒナを元気づけるための慰めの言葉に過ぎなかったのだろうが、ヒナにとっては色々な意味を含んだ言葉だった
(いつでも……朝も、昼も、夜も……ずっと一緒に……)
「ヒナ様?」
「な、何でもありません。それは、大貴さんがお決めになられる事です。それよりも、行きますよ。私達には、やらなければならない事が山のようにあるのですから」
さすがに姉の様子に不安を覚えたリッヒの言葉で我に返ったヒナは、ふいと視線を逸らして足早に歩いていく
「……はい」
しかし、普段は凛としたその横顔が、おそらくはリッヒの言葉で想像した何かの影響で、隠しきれない喜びに緩みきっているのを普段から行動を共にする妹は見逃さなかった
「……あの、ところで昨日はクロスさんとマリアさんは何をしてたんですか?」
ヒナが部屋を出た後、ふと思い出したかのように詩織が肩を並べて食事をしている二人の天使――クロスとマリアに視線を向ける
「何を、って。普通にこの部屋で大貴の戦いをテレビで見てたな」
「はい」
キョトンとした様子で言うクロスに、マリアが優しく微笑んで続く
「まあ、お前の言おうとしている事は分かるが、今回の事態は人間界内の出来事だ。もちろん、頼まれれば力を貸したが、頼まれてもないのに出ていくのは内政干渉――余計なお節介ってもんだ」
「そう言われると言い返せませんけど……なんか複雑です」
まるで自分の考えを見透かしたように言うクロスに、詩織は納得いかない、といった表情を浮かべる
「……まあ、世の中、思った事が正しい訳じゃないさ。特に人と人との事はな」
クロスの言葉に詩織は考え込むようにして目を伏せる。
自分が正しいと信じた事が他人にとってもそうであるとは限らない。考え方の違う者達が生きるための決め事である法や掟には、時にままならない事もあるというのは詩織にも分かる。
現に、神魔と桜は自分たちの信念に従った結果、世界の法に抵触し、今まさに極刑に処されかねない状況に陥っているのだ
(神魔さん、大丈夫だよね……)
期せずして、無理矢理神魔の事を考えないようにしていた詩織は、それを思い出して不安と絶望に目の前が真っ暗になりそうになる
「なんて言ってますけど、クロスったら大貴さんや詩織さんの事を何度も飛び出して行こうとするんですよ?」
「……余計な事は言わなくていいんだろ?」
得意気に言い放ったクロスは、マリアに苦笑しながら視線を送られて、照れくさそうに視線を逸らす
先程まで言っていたクロスの言葉は、クロスのものではなく、今にも飛び出して行きそうだったクロスを窘めたマリアの言葉だ。クロスはそれを受け売りしたに過ぎない
「……へぇ」
その場にいる全員の視線に、いたたまれなくなったのか視線を逸らしたクロスを見て、微笑ましそうに微笑んだマリアは、その視線を詩織と大貴に向ける
「それに、私達が出ていくと何で天使がここにいるんだ、って話になってしまいますからね。まあ、基本的に人間界は他の九世界と縁が深いのでなんとでも言い訳は立つんですが、目立ちすぎますから。よほどの事がない限り出ていくつもりはありませんよ」
そう言って、マリアは飲み終えたティーカップをソーサーに戻す
人間界は、九世界で最も技術の発達した技術立先進世界。その技術を他の――主に全霊命が統治する世界に伝えるため、最低限の交流しかもたない九世界の中で唯一他の世界と頻繁にやり取りしている世界でもある。
この世界にマリア達全霊命がいる理由はいくらでも捏造できるのだが、目につかないに越した事はない。
「それに、私達がここで差し出がましい事をすれば、やはり人間は全霊命の力を借りなければ何もできない、なんて考える人も出てくるかもしれませんよ? ――今回の犯人達のように」
「……!」
その言葉に詩織は小さく目を瞠る。
グリフィスやエストが今回の事件を起こしたのも、元を辿れば彼らの劣等感――全霊命や上位の人間に対する憧れと恐怖が原因と言ってもいい。
だからこそクロスとマリアは、人間界でも事件に絡むとすれば、人間界王から直接の打診があった場合か、全霊命が関わる場合だけにしておくのが妥当だと考えている。
「――それに、私達は、人間界の人間が、全霊命の力を借りなくても、自分達で目の前の試練や事件を乗り越える力を持っていると知っていますから」
最後にそう締めくくってにっこりと微笑んだマリアは、人の手で作られた魔道人形であるロンディーネよりも整った造形をした顔に満面の笑みを浮かべる
「堅苦しい話はここまでにしましょう」
「……はい」
マリアの優しい声に詩織は小さく頷く。
確かに、これ以上この話をしてもマリアやクロスにやり込められるだけだと分かっているし、自分が口をはさむのもおこがましいだろうと考えて詩織はその提案を受諾する
「それでは光魔神様、本日はいかがなさいますか?」
一連の話が終わるのを待っていたのか、給仕係をしていたロンディーネが礼儀正しく訊ねると、大貴は視線をわずかに天井に向けて黙考する
「……そうだな、まあ、昨日の今日だ。ヒナの言う通りゆっくり羽を休めるとするか」
「年寄り臭いわよ、大貴」
疲れたように息を突く大貴と、ため息混じりにその様子を嗜める詩織を見て、ロンディーネは苦笑しながら一礼する
「かしこまりました」
ロンディーネは、人の手によって生まれた魂の無い存在――無霊命だ。
しかしロンディーネ達魔道人形には、確かに自我と思考能力がある。だからこそ、この城内や人間界の中では、無霊命は、人間と同列に扱われている。
そして、ロンディーネは、目の前にいるこの青年――光魔神こそが、自分が人間界王やヒナをはじめとした王族と同様、自らの命を賭してでも仕えるべき価値がある主である事を、昨日の事で確信していた
「――では、何か御用がありましたら、遠慮なくお申し付けください」
「ああ、悪いな」
「もったいないお言葉です」
深々と腰を折るロンディーネに、大貴はもはや諦めの境地に達した表情で応じる
自分でも忘れてしまいそうになるが、大貴はまだ中学生だ。ごく平凡な家庭で育った大貴が、見た目こそ若々しいが、自分より何倍、何十倍も生きている年上の人間に様づけで呼ばれる事に抵抗を覚えないはずはない。
何とか普通に接してもらおうとしたのだが、どうにも頑固が人が多く、昨日のロンディーネのように人の目を気にする場合を除けば、ヒナ以外はほとんど砕けた態度で接してくれない。
長年待ち望んでいた人間の創造主たる神を前にして、そんな態度が恐れ多いという気持ちには一定の理解を示せるのだが、大貴としては敬われる事に対して苦手意識を拭い切れない――とは言っても、残念な事にもう半ば諦めているのも事実ではあるが。
「大変ね、光魔神様」
そんな大貴の心情を手に取るように理解して、詩織が意地の悪い笑みを向ける
「……やめてくれ、本当に」
そんな姉の言葉に、大貴は心から切実にそう願った。
重厚な扉を開き、瑞希に連れられた神魔と桜は、魔界を統べる最強の悪魔――魔界王・魔王がいる部屋へと歩を進める。
神から生まれた最初の五人の悪魔、皇魔の長、魔王とその妻シルエラ、そしてその息子である爾王とベルセリオス、そして魔界の宰相であるゼオノートが無言のままで二人を迎え入れる
「……下がれ」
「はい」
玉座の間近まで神魔と桜を先導した瑞希は、ゼオノートの言葉に頷いてその場からゆっくりと後方へ下がる
それを無言で見送った魔王は、遥か高い位置にある玉座から、その金色の瞳で神妙な面持ちで判決を待つ神魔と桜を見下ろす。
「神魔、桜」
「――はい」
その言葉に、神魔と桜が静かに応える
並んで立ち、判決を待っている神魔は、自分の袖をそっと掴んでいる桜の微かに震える手を、無言で優しく握り返す
その動きに気づいていないはずなど無いが、それを咎める者はこの場にはいない。その様子を無表情に見つめながら、悪魔の王――魔王は、厳かな声音で判決を言い渡す
「――九世界非干渉世界への干渉の罪により、お前たちを極刑に処す」
こうして、魔王の口から神魔と桜の死刑宣告が下された。