天空の支配者
金白色の蛍が舞う。
淡く優しい燐光を帯びた金色の髪を揺らす純白のドレスに身を包んだ女性は、純白の神殿のような場所に腰を下ろして、そこから見える緑豊かな景色を見つめながら静かに言葉を紡ぐ
「生きる事は戦う事……そして、その戦う意志を生みだすものこそが『愛』なのです。
自分の命を愛するがゆえに生きるために戦い、自分の意志を愛するがゆえに信念と正義の元に戦い、人を愛するがゆえに守るために戦う――命あるものは愛があるがゆえに争い、愛があるゆえに生きている――そう、愛とは全ての命の根底にあるもの……」
不意に大気が揺らぎ、優しい風が吹き抜ける
「だからこそ、今のままでは駄目なのです」
風に揺られた女性の煌めく髪から金色の蛍が飛び立ち、天空へと消えていった。
※
煌めく光が宙を踊り、次いでそれに続くように無数の爆発が巻き起こる
「――っ!」
「ロンディーネさん!」
爆炎を振り払い、その手の平から伸びる仮想の剣を構えたロンディーネの背後から、障壁に守られた詩織が声を上げる。
「……御心配には及びません」
抑揚のない口調でロンディーネが応じた次の瞬間、爆炎を突き破って凝縮された気の波動が両手に仮想の刃を携えた魔道人形の侍女に向かって迸る。
「はああっ!!」
それを無数の障壁と両手の仮想剣によって相殺し、同時に情報体で構成された仮想砲塔を構築し、気の波動が飛来した方向に反撃の砲弾を放つ。
本来物質によって機能する機構の全てを霊的な力を持つ情報へ置き換えた魔法武装が放つ破壊の光は、結界によって遮られ光の粒子となってかき消える。
「なんで……」
目の前で繰り広げられる戦いを見て、詩織の口から小さな声が漏れる。
ロンディーネが自分を守るために展開してくれている障壁の中から、詩織は魔道人形と相対している人物に、敵意と動揺が入り混じった視線と声を向ける
「なんで……何でこんな事を、グリフィスさん!!」
「……なぜ、ですか」
詩織の声を聞いたグリフィスは、先程まで刃を交えていたロンディーネから障壁の中にいる詩織に視線を向けて目を細める
「そうですね……強いて言えば、お互いに運が悪かったと言うべきでしょうか」
そう言ったグリフィスは、今ロンディーネ達と戦っている理由を思い出す。
――それは、舞戦祭の会場に戦艦が飛び込んできた時。グリフィスが思わず口走ってしまった一言「まだ早い」という一言を聞き逃さなかったロンディーネの追及をかわしきれないと判断した事でグリフィスは、その正体を明かさざるを得なってしまったのだ。
予定とは全く違う形で始まってしまったとはいえ、自分の計画を反故にする訳にもいかずに戦うグリフィスは、自分の迂闊さと予定を無視して計画を決行したロジオ・虹彩に内心で舌打ちをしていた
「そんな事を言ってるんじゃありません」
「……ならば、何故私達が舞戦祭会場に、このような攻撃を仕掛けたか、という事をお尋ねになっているのですか?」
「……はい」
「それは私が聞きたい事ですよ。計画では決勝が終了した直後に襲うはずだったんですがねぇ」
「っ、そんな事じゃ……」
「クク……」
明らかにはぐらかされていると理解している詩織が懸命に抗議の声を上げようとするのを、嘲るように見てグリフィスは小さく笑みを浮かべる
「それよりも、私としてはあなたのような下賤な存在がなぜ人間界にいるのか――という事の方が気になりますがね……そうでしょう? ゆりかごの人間のお嬢さん」
「……?」
もったいぶったような言い回しで言うグリフィスに、詩織は驚きと疑問が混じった表情を浮かべる
今の詩織には、王城で装霊機にインストールされたソフトによってゆりかごの人間だとは分からないような知覚妨害がかけられている
その知覚妨害も絶対に見破られないという程のものではないが、グリフィスがそれを見破っていた事に驚きを覚え、意味深な言い回しに疑問を感じていた
「おや? その表情……もしかしてあなたは御存じないのですか? それは傑作ですね……いや、滑稽とでも言うべきでしょうか。あなたは気付いていないのですか? あなたの正体を知る人間達があなたに向ける――」
「グリフィス、と言いましたね……あなたは一体何者なのですか?」
嘲るように言葉を続けようとしたグリフィスを、ロンディーネの鋭い口調が遮る
その強い口調に言葉を止めたグリフィスは、ロンディーネと詩織を交互に見て、何かを悟ったかのように小さく肩を竦めると相対する魔道人形の方へ視線を移す
「ただのしがない研究者ですよ」
「……研究者?」
怪訝そうな表情を浮かべるロンディーネに、グリフィスは「えぇ」と小さく頷いてからさらに言葉を続ける
「人が全霊命を超える……その夢に命を賭ける、ただの愚か者です」
「人が、全霊命を……?」
自分の言葉を怪訝そうに復唱したロンディーネに、グリフィスは口を三日月形に歪めて笑う
「なるほど、それは面白いお話ですね」
その瞬間、その場を静まりかえらせる程、透明で澄み切った声が響く
「……この声は」
その声に視線を向けると、そこには腰まで届く漆黒の髪をなびかせた美女が淑やかに佇んでいた
「さく……」
一瞬その姿が桜と重なった詩織が思わず声を留めたのと同時に、その姿を見たグリフィスの目に、これまでとは違う明らかな敵意と警戒の色が宿る
「……天宗檀」
その言葉に百合の花のように美しい姿で歩を進めた檀は、ロンディーネの隣に立つ
「彼はわたくしが引き受けましょう。あなたはあのお方の許へ」
囁くような小さな声で紡がれた檀の言葉。しかし、それは明鏡止水の水面に生まれた波紋のようにはっきりとロンディーネの耳に届く
王族に仕える魔道人形であるロンディーネには、檀の言う「あの方」が、光魔神――大貴を意味する事が瞬時に理解できる
「……はい」
檀が知っているかは分からないが、ロンディーネは万が一の時のためにヒナから、大貴に渡す力を与えられている。
一刻も早く大貴の許へ駆けつけたいと願っていたロンディーネにとって、檀の提案は願ってもないものだった
「そういう訳にはいきませんね……『ネイド』」
会話自体は聞き取れなくとも、ロンディーネが自分に背を向けた時点で、この場を離脱するであろう事を見抜いたグリフィスの声に応え、レオタードのような服の上に、コートの様な衣装を纏った少女がその姿を現す。
その身を燐光が彩る幻想的で儚い印象を受ける少女は、決して気のせいではなくその存在が虚ろになっており、まるで半透明に透けているかのようにすら感じられる
「――魔法知能……いえ、そんな馬鹿な……」
その姿を見止めたロンディーネは、あまりの驚愕に思わず足を止めて目を見開く
「……?」
その様子に怪訝そうに目を細めた詩織の前で、ロンディーネは「ネイド」と呼ばれた少女に視線を奪われたまま、うわ言のように声をこぼす
「『魔法生命体』!?」
「現代では既に使用不可にされた禁忌の技術ですね……」
ロンディーネの言葉に、グリフィスが勝ち誇ったような笑みを浮かべ、檀は目を細める
「はじめまして、魔道人形の人。同じ無霊命同士、仲良くしましょう?」
コートの端をドレスのスカートのようにつまんで、恭しく頭を下げたネイドの丁寧な中に明らかな敵意の棘を含んだ言葉を聞いた詩織は、聞きなれない言葉に怪訝そうに眉を寄せる
「無霊命?」
「人間をはじめとする半霊命によって生み出された、意志を持った非生命体……魂を持たない存在の総称です」
「……!」
詩織の疑問を解消するように、ロンディーネはネイドに視線を向けたままで簡潔に説明する。
全霊命は神から最初に生まれたもの。半霊命とは、全霊命に次いで生まれたもの。故に、「無霊命」とはその名が示す通り半霊命によって作られた存在を指す呼び名だ。
代表的な存在としては「魔道人形」、「魔法生命体」があり、その身体を魔法や機械で作られているために平均的な半霊命よりも優れた能力を持っている。
その最大の特徴は、その意志の根幹に界能などの霊的な力を持たない事にあり、同じように人工的に作られていても、亜人のように魂や霊的な力を有する場合は半霊命に分類されるため、正確に言えば、人工的に作られた自我を有する非生命体。つまり、自己思考能力を得た機械などを無霊命と呼ぶのが正しい。
魔法知能とは、人間界で普及している思考型人工知能の総称。命令に従うだけではなく、対話やある程度自律的な判断を行う事ができる超高性能のAIであり、戦艦や重要なシステムの管理に用いられている。
そして魔法生命体とは、魔法知能の進化形として作られた完全な自我を有する「人工情報生命体」。感情を持たず、客観的で機械的な応対しかしない魔法知能とは異なり、感情を持ち、主観的で生物的な応対を可能としている。
「……魔法生命体の残存個体は存在しないと言われていましたが、まさか生き残っていたのですか?」
瞬き程の時間を要して、ネイド――魔法生命体という存在と遭遇した衝撃から立ち直ったロンディーネは、ゆっくりと言葉を選びながら訊ねる
ロンディーネが魔法生命体を前にして驚愕を禁じ得なかったのは、単に無霊命だからではない
ロンディーネが言うように魔法生命体は、現在ではすでに記録上にしか存在しない無霊命であり、人工的に生命を想像する事を禁止する法律――メルストキア条約が制定された事によって、未来永劫その存在が戻る事は無くなってしまった、幻の存在なのだ
「違います。私はマスター……グリフィス様によって再現された新世代の魔法生命体です」
「っ! ……竜人だけでは飽きたらず、こんな技術にまで手を出していたのですね……」
ロンディーネの言葉に軽く首を振って応えた、魔法生命体の少女――ネイドの言葉に明らかな憤りを見せた魔道人形の侍女だが、その可能性が高いと考えていたのかその表情にあまり驚きの色は見られない
「なぜ怒るのですか!? あなたは、私と同じなのに」
「その技術は、現在メルストキア条約によって使用が禁止されているはずです」
感情があるにもかかわらず無感情に首をかしげて見せるネイドとは対照的に、ロンディーネは怒りの色を隠さない表情で目の前の少女を見据える
「作られた命の存在は過ちなの? 人間の都合で生まれて、人間の都合で生まれる事を禁じられた……あなたはおかしいと思わないの?」
「ロンディーネさん……」
ネイドの言葉に、障壁の中に包まれた詩織がロンディーネの背に視線を向ける
確かに、人間が命を作り出す事は倫理に反しているのかもしれない。少なくともこの世界の人間達はそういう結論を出し、以降命でも機械でもない存在を作り出す事を禁じる法律を作った
その是非は詩織には判断できない。もし意見を求められたなら、「正しくは無くとも間違ってはいるとも思わない」と応える事しかできないだろう
ならば、当時者である魔道人形達――ロンディーネはそれをどう考えているのだろうか? 機械でもなく、生命でもない存在。しかし間違いなく心と命を持っている。そんな自分達をどう思っているのか――そんな疑問が詩織の喉を塞ぎ、目の前で静かに佇むその後ろ姿を見つめる事しか出来ない
詩織には気が遠くなるような時間、しかし実際には十数秒の間をおいてロンディーネは小さな笑みと共に、自身の想いを言葉として紡いでいく
「そうですね。私達は人間の傲慢と弱さの結晶です。命を作り出せるという傲慢、そして楽をしたい、危険な目には会いたくないという困難に背を向ける弱さ――そういう人の思いが利便性と能力、効率を重視した科学を作り出し、行きついた先が私達魔道人形やあなたのような魔法生命体です」
静かに紡がれたロンディーネの言葉が、荒れ狂う戦場と化した舞戦祭会場の中に響いていく
人間界の人間が科学を発展させたのは、自分達の力に限界を感じたからだ。全霊命という神に列なる絶対強者がいるこの世界で、その存在と肩を並べ九世界の一角を担う存在として自分達の弱さを克服しようと、少しでもその力に近づこうと知恵と力を研鑽してきた結果が、霊と科学と魔法が共存する今の人間界だ
だが、科学には発展と共につきまとう、もう一つの影がある。科学が発展するにしたがって、目の前に切り開かれていく「可能性」という地平に挑んでみたくなる。自分達の力は何を成せるのか、何を作りさせるのか――力を求める意志は、限界を超える願いを生みだし、やがてより高みを目指す
そして科学の便利さを知った人間は、それに頼り切るようになってしまう。能力、効率それらにおいて科学は人間を上回る。今まで危険や労力を伴って人の手で成してきた事を、機械がより安全に早く成し遂げてしまえば、人は自らの力を高める事を怠るようになり、それらが時に道を誤らせる
この世界では、気の力によって貴族、七大貴族、王族を中心に機械を遥かに超えた力を持つ者がいる。だが、数多存在する半霊命世界の中には、機械や無霊命に人間が支配されてしまっているような世界もいくつか存在するのも事実
「私達は人の罪、けれど私たちに罪がある訳ではありません。あなたは勘違いをしています。メルストキア条約は、私達無霊命の存在を否定しているのではありませんよ」
ロンディーネは、誇らしげにわずかな迷いも無い視線と言葉で真っ直ぐにネイドを見据える
メルストキア条約は、人間が自らの過ちを繰り返さないために作った法律。それは人間が自らに釘を刺して戒め、傲慢で弱かった己達を責めるためのもの。
決して魔道人形や魔法生命体の存在を否定するものではない。むしろ、無霊命に懺悔するためのものなのだと、ロンディーネは知っている。そう思っていない人間ももちろんいるが、魔道人形を城に招き入れてくれた時の王にその事を聞いていたロンディーネにとって、自分の存在に疑念を抱く事などありはしない
「……知ってる」
ロンディーネの言葉を聞いたネイドは、そう言ってわずかに肩を竦めてみせる
「まあ、私としては正直そんな事、どうでもいいの。あなたを少しでも動揺させられたらいいと思ってたんだけど、思ったほどうまくはいかなかったみたいね」
その言葉を聞いて目を細めたロンディーネに、軽い口調で語りかけたネイドは、その声に敵意と戦意を宿して自分と同じでありながら、同じではない魔道人形の侍女に視線を向ける
「――正直同じ無霊命だから、殺す事はしたくなかったんだけど、その様子じゃ無理そうね」
ネイドのその言葉に応じるように、まるで死後の世界へ続いているかのような穴が魔法生命体の少女の足元に生まれる
「……!」
「なっ……!?」
ネイドの足元に生まれた穴の中から、這い出してきたかのように現れたものを見て詩織とロンディーネは息を呑む。
ネイドの足元から現れたのは、ロンディーネよりも一回り以上大きな竜を模したのであろう機械兵器。
全体は純白の装甲に覆われており、そこにクリアブルーに輝く血管や模様を連想させる紋様が刻み込まれており、人型に近い上半身と、蛇の尾のような下半身を併せ持つその様は、竜というよりも半人半蛇といった表現の方が近いように感じられる
その竜の身体へネイドが情報体そのものである身体を吸収させた瞬間、その目に生気が宿ったような光が灯る
「分かっているとは思うけど、私達魔法生命体は超高性能の自立思考型OS。中枢システムを支配する事であらゆる機械を完全に扱う事ができる」
その言葉と同時に、竜機の身体から煌めく光の粒子が吹きだし、ゆっくりとその身体を動かす
魔法生命体は、人間界で機械やシステムを管理する思考型知能――魔法知能の上位存在。
その力は魔法知能と同質でありながら、それ以上の能力を持っている。――その力は即ち、機械の制御とコントロールであり、魔法生命体が操る機械は、人間界でも最高レベルの能力を発揮する事が出来る。
「マスターに頂いた私専用の戦闘装甲、『竜騎壱式・アウスロット』。これであなたを破壊してあげる」
「……!」
ネイドの言葉と共に顎を開き、咆哮した機械の竜――アウスロットを前にして身構えたロンディーネは、その手に仮想の刃を構えて対峙した
※
その頃、舞戦祭会場を疾走する大貴の前に、二メートル近い巨体を有する自立機動兵器――自動人形が立ちはだかる
「邪魔だ!」
装霊機から太刀を召喚した大貴は、焦燥で棘を持った声と共にその身体を一刀の下に両断する。
気の力を持つ人間と戦うために、障壁と同質の力でコーティングしているはずの自動人形をまるで道端の小枝のように切り捨てた大貴の前に、追い打ちをかけるように数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほどの自動人形と、機械の鎧――機鎧武装に身を包んだ兵士たちが立ちはだかる
「急いでるっていうのに……!」
小さく歯軋りをした大貴が、刀に気を注ぎこんだその瞬間、天空から飛来した一筋の流星が巨大な自動人形を真上から刺し貫く
「……あ」
天空から飛来した人物に大貴が目を丸くしていると、その人物に続くように甘く高い声が天空から降り注いでくる
「たあぁぁぁぁぁっ! です!!」
天暮ら飛来した機鎧武装が、力のベクトルを操る能力を持った巨大な槌を振り回して、その場にいた敵の軍勢を薙ぎ払う。
「おぉ、戦友よ!」
「……メリル、レスター」
眼前に佇む巨大なランスを携えた青年――レスターと、巨大な機鎧武装を駆るメリル。予選の一回戦で刃を交えた二人の救援に大貴が小さく安堵の息をつく
「っ!!」
その瞬間、背筋を駆け抜けた悪寒に大貴は反射的に手にしていた刀を振るう。
レスターとメリルにすら目視できない程の速さで斬撃を放った大貴の上空で光が弾け、砕け散った光の欠片が周囲の壁を破壊す
「……これは?」
「光速狙撃だな」
不意の一撃を迎撃したのはいいが、その攻撃に対する知識のない大貴にレスターが抑制された口調で上空を見上げて言う
「光速狙撃は、光学兵器を用いた三十万キロメートル以上離れた地点からの光速精密射撃の事ですです――しかも、この弾道は、超々遠距離狙撃ですね」
レスターの言葉を補足するように、メリルが言う
光速狙撃は、その名の通り光学兵器を用いた狙撃。霊的な力を用いずに光速で知覚領域外から襲ってくるその攻撃は、単純に約三十万キロメートル先の標的に一秒で命中する回避がきわめて困難な攻撃
強力な気の力を持つ貴族などを暗殺する際に広く用いられるこの戦術は、強力な力を持っていても反応出来ない速度と、知覚外からの狙撃によって臨戦態勢を取らせない事でその戦闘力を発揮させずに貴族級の強者を殺す初歩的な戦術だ
「気をつけろよ? どういう理屈か知らないが、敵はこの妨害結界に包まれた会場の外から攻撃を仕掛けてきやがるぞ」
「……ああ」
「ですです」
レスターの言葉に頷いた大貴とメリルは、背後で蠢く機械の兵団に視線を向ける
その頃、一人の男が超望遠スコープから目を離して軽く舌打ちをしていた
「チッ、完全に不意をついた死角からの光速狙撃を防ぐなよ……化けもんめ」
その男こそ、先ほど大貴に光速狙撃を仕掛けた男。
ロジオ率いる軍団の中で随一の狙撃能力を誇る男は、会場を包んでいる妨害結界を張っている竜人と連絡を取り、一時的に自分の攻撃だけが通過する穴を結界に開けて、そこを正確に通して攻撃をしていた。
意図的に会場に穴を開けさせ、上空からの攻撃をしやすくした場所に誘い込んだ大貴を、数で圧倒しその隙に上空からの狙撃で仕留める――世界中に放送されていたテレビによって規格外の力を持っている大貴を早めに処分するために用いた暗殺手段だったが、それを防がれた男は動揺と焦燥を浮かべつつもそれを噛み殺して第二撃の準備を始める
(この結界は、こっちが作ってるんだ、こっちから攻撃出来てもあっちからは出来ない。あんな馬鹿げた力を持つ奴と真正面から切り結んだりしたら、軍にどんだけの被害が出るか想像もつかねぇ……あいつを早々に殺すためには暗殺しかないんだ……!)
平静を取り戻すために、自分自身に言い聞かせる
暗殺は一度失敗したら、場を改めるのが基本。とはいえ、既に戦場と化してしまっているこの会場で狙撃を警戒させてしまっては次の暗殺の機会が来るかどうかも怪しい
エクレール・トリステーゼを真正面から倒すような最強レベルの人間を止めるために、既存の戦力では足りない事を認識している男は、意識を集中させて超望遠機能のついたスコープを覗き込む
その瞬間、閃光が煌めき男の持つ銃の砲身が目の前で消滅する。
「……なっ!?」
突然の事に目を見開いた男は、懐から別の銃を取り出して周囲に気を配る
(人工の竜と竜人、戦艦で目眩ましをしてたっていうのに、こんなにも早く見つけられただと!?)
狙撃を妨害された男は内心で舌打ちをしつつ歯を食いしばり、知覚領域を最大にまで広げて次の攻撃に備える
はるか眼下で繰り広げられている自分達の軍勢と人間界軍の戦闘は、会場の真上。はるか上空に迷彩を用いて狙撃主が隠れている事を隠すための囮
本来はエクレールやアーロンといった実力者を倒すために補佐をするのが男の役目だったが、ロジオの命令によって、予定外に参戦していた不確定危険分子――大貴を真っ先に殺す任務を与えられていたのだ
その瞬間、再度光が煌めき、男の肩を強力な力の塊が掠めていく
「……っ!」
(この軌道……まさか、下だと!?)
先程はスコープを覗いていたために気付かなかったが、この一撃によって男はこの攻撃が下から放たれたものである事を理解し、否応なく恐怖と戦慄を覚える。
男がいるのは舞戦祭地上百万キロメートルの位置。しかも漆黒の月となった会場の周囲で繰り広げられている戦いが隠蔽能力によって姿を隠している男の存在をさらに不可視のものとしている――はずだった
「一体誰が……!?」
完璧なカモフラージュによって自分の存在を覆い隠していた狙撃主の男は、先ほどの攻撃の弾道からそのおおよその方向を割り出し、装霊機に搭載されている超望遠機能のついた仮想望遠鏡を用いてその方角を見る
「――っ!」
そして、その視線の先に自分を狙撃した人物の姿を見止めた男は大きく目を見開き、歯を食いしばる
仮想の望遠機能が映し出したのは、褐色の肌に編み込まれた髪を持つ男。人間界に住む者なら――まして狙撃主を志した者ならば、その名を知らない者がいない人間界最強にして最高の狙撃主
「――ストラド・ハーヴィン……!」
その姿を見止めた男が歯を噛みしめた瞬間、天空を貫いて飛来した光を超える超速の気弾が狙撃主に炸裂し、その姿を光の中に消失させた
狙撃主の男を撃墜した人間界軍特別戦力――六帝将の一人であるストラド・ハーヴィンは、人間界王城の最も高い屋根の上に立ち、金色の装飾を施されたアサルトライフルに計上の似た銃を手にして佇んでいた
「お見事です。百万キロは離れたあの地点を、肉眼での照準で正確に射抜くなんて、完全に化け物ですね」
「照れるッス」
背後に立っている人間界軍の制服に身を包んだ女性の言葉に、ストラドは顔を赤らめる
「微塵も褒めていませんよ。凄過ぎて気持ち悪いと申し上げております」
「……もうちょっと、オブラートに包んでほしいッス」
しかし、すぐさま女性軍人の辛辣な言葉に打ちのめされ、ストラドはがっくりと肩を落とす
「しかし、よろしいのですかストラド様? あなた方六帝将はまだ参戦を許可されていないはずなのですが」
「そうッスね。けど、これもミレイユ姐さんの命令ッスから」
「どういう意味ですか?」
ストラドの言葉に、女性軍人は怪訝そうに目を細める
「いや、なんか敵軍の動きが腑に落ちないらしくって……ま、念のために見張ってろって言われたんスよ」
女性軍人の問いかけに、ストラドは簡潔に答える
「……確かに、上でもこの戦いの不自然さは指摘されています。王都上空にある舞戦祭会場を襲うには戦力が少なすぎるのではないか――と」
口元に手を当てて、軍服に身を包んだ女性は黙考しながら言う
六帝将が揃っている事は計算に入っていなくとも、王族の手の届くところでこれほど大袈裟な事態を引き起こすならば、相応の戦略や秘密兵器を用意するのが必然。
今の戦力では少々心許なすぎるのではないかという考えは、人間界に所属している者ならば誰もが抱いている疑問だ。確かにこのままいけば人間界軍は勝利できるだろう。――だからこそ、何もないとは考えにくいのだ
「ま、そういう事なんで、あんなところで狙撃している奴を迎撃するくらいはしておいた方がいいと思っただけッスよ」
「……そうですね」
ストラドの言葉に、女性軍人は静かに頷いて目を伏せる
(王族屈指の知覚能力と知覚領域を併せ持つ人間界最強の狙撃主――それに、ストラド様が王より与えられた、十二至宝屈指の火力と射程を有する十二至宝の一つ、至宝弓「ゾーラザッファー」の力が加われば、確かにあらゆる事態に瞬時に対応できるでしょうね)
あまりに圧倒的な力を持つために基本的には使わない十二至宝を持つ褐色の肌の男を横目に、軍服に身を包んだ女性は、黒い月と化した舞戦祭会場と、その周囲で繰り広げられている戦いに目を向けた
※
一方その頃、舞戦祭会場ではリィンがエストと接触を果たし、隔離していた空間を開く
そして、それによって知覚から完全に分断されていた三人の存在が同一空間上に回帰し、大貴達の知覚に反応する
「っ! この気は……!」
「ルカちゃんのですですね……でも」
「かなり弱っているようだ……」
ルカの気を感知した三人は、大貴、メリル、レスターの順で言葉を紡ぎ、すぐさま行動に移る
「ここは俺に任せて先に行け」
「レスター……」
その提案に、二人と無数の敵兵を交互に見て逡巡した様子を見せる大貴に、レスターは自信に満ちた視線で心配無用と語りかける
「急げ、ルカはお前のパートナーだろ」
「ああ」
大貴が頷いたのを確認したレスターは、手にしたランスの柄を握り締めると、機鎧武装へと視線を向ける
「メリル、道を切り拓くぞ!!」
「了解ですです!!」
レスターの言葉にメリルが応じ、ランスに纏わせた気と力のベクトルを一点に収束した超エネルギー波を一つに重ね合わせて放出する
「ハアアアアアッ!!!」
これが同じ気の力同士だったならば、相殺してその威力は殺がれてしまっただろう
しかし放出されたのはレスターの気の力と、魔法によって制御される超絶なる物理の力。二つの力は重なり合い、増幅する事は無くとも拡散し、一直線に軌道上の敵と壁を薙ぎ払う
荒れ狂う力の暴風は、障壁や超金属で構成された鋼の騎士達をことごとく粉砕し、一直線に続く巨大な道を孤児上げる
「すまない、恩に着る」
レスターとメリルの力によって一瞬こじ開けられた敵軍の穴に大貴が飛びこんでいくのを見送って、レスターは自嘲交じりの笑みを浮かべる
「律儀な奴だ。まったく」
「……ですですね」
自身の背丈程もあるランスを片手に立つ普段よりも小さく見えるレスターの背を機鎧武装の操縦席から見つめるメリルは、ランスを持つ相棒の手がわずかに震えている事に気づいて優しい口調で応じた
天空を飛翔しながら赤いドレスに身を包んだ女性の竜人、ヘルミナは恐怖と戦慄に目を見開いていた
(何……一体何なの、この人間は!?)
動揺と戦慄を隠しきれないヘルミナに、流星の如き刃が複雑な軌道を描いて襲いかかってくる。
「くっ……!」
膨大な気が込められたその刃を、自身の気を纏わせた鞭で弾いたヘルミナは、眼下に嘲るような微笑を浮かべて立っている雪色の少年に向かって口腔内からライムグリーンの液体を吐き出す
超スピードで放たれたその液体は雪色の髪の少年――シグロ・虹彩に命中して弾け、鼻をつく刺激臭を伴って煙を立ち昇らせる
「……ひゅう~。まさか、毒酸を吐き出すなんて、顔に似合わず意外とはしたないんだね」
しかし次の瞬間、その液体が一瞬でかき消され、その中で自分の周囲に投剣を浮かべて結界を展開したシグロが無傷で佇んでいた
「……っ」
感心したような言葉とは裏腹に、完全に小馬鹿にしているシグロの口調に、ヘルミナの額にわずかに青筋が奔る。
一口に竜といっても、その種類は多種多様。破壊の炎を吹くものもいれば、全てを腐敗される毒霧を吐き出す竜もいる。ヘルミナの身体を構築する竜は、そういった毒や酸を操り支配する竜族。
先ほど口腔内から吐き出した毒酸は、障壁程度なら造作も無く溶解させ、一滴で竜の命すら脅かす事が出来るほどの猛毒。溶解した際に生じるガスにも毒性があり、周囲に満ちれば貴族級の人間ですら侵す事が出来る。
にも関わらず、そんなヘルミナの戦術を読み切っているかのようにシグロはその副産物の毒煙すら浄化して無力化させてくる
ここまで自身の戦略を打ち砕かれれば、冷静な知能派であるヘルミナですら焦燥にかられるのは必然と言えた
「ホラ、僕に気を取られ過ぎだよ?」
「……っ!」
シグロの言葉に目を見開いたヘルミナは、四方八方から襲いかかってくる気を帯びた投剣に気付き、瞬時に上昇してそれを回避する
しかし、ヘルミナに回避された投剣は、すぐさま軌道を変えて絡み合う糸のような軌道を描いて麗しき竜人に命中する
「……く、ぁ」
自身の肌を覆っている肌と見紛うばかりの滑らかな竜鱗を砕かれ、鮮血を舞い散らせるヘルミナは、三日月形にした口で笑う忌々しい少年を見て目を細める
(何故!? ……こんなことできる筈がないのに!!)
毒の竜の力を持つヘルミナは、その体そのものが毒の塊だ。一見女性の柔肌に過ぎないその身体もヘルミナの意志によって致死性、溶解性、腐食性と言った毒性を帯びる事が出来る
並みの刃ならばその肌と変わらない外殻に触れて溶けて崩れ落ちる、気を纏わせた武器で近づいて来るなら毒の香りで侵す、科学や魔法の力ではそもそもその肌を傷付けられない――自身の体の能力を誰よりも把握しているヘルミナは、しかし、全く想定していなかった攻撃によって窮地に追い込まれていた
「なぜ……何故、気を纏わせた武器を操作系武装のように操ってくるの!?」
もはや動揺を隠せないヘルミナが恐慌にも似た感情のこめられた声を上げて、シグロを睨みつける
ヘルミナを恐怖させるシグロの戦術は、気を纏わせた刃をまるで操作系武装のように無線で操ってくるという非常識な攻撃だった。
気――界能は接触しているものにしか注げない。これは世界の常識だ。例えば気を纏わせた剣を敵に投げつける事はできる。しかし一度投げてしまったら、その剣をもう一度手で握らない限り気を注ぎこむ事は出来ないのだ
しかしシグロは違う。気の力を注ぎこんだ投剣を離れた位置から自在に操ってくる。投剣の移動速度は気の力によって現在存在するどの操作系武装よりも速く、その威力は七大貴族を冠するその力に依存している。
シグロのそれは、その性能を機械の能力に依存するという操作系武装、気の力を充填するため、力を使いきる前に自身の身体に戻さなければならない天翔武装――その二つの欠点を完全に克服した究極の遠隔操作系戦術だった
「……さて、ここで質問です」
「!?」
動揺を隠せずにいるヘルミナにいつも通りの満面の笑みを向けるシグロは、指を一本立てて見せる
「操作系武装の製造理念は一体何でしょう?」
「馬鹿にしているの?」
動揺と焦燥の影響で何故か癪に障り始めたシグロの口調と言葉に憤りを感じながらヘルミナは自身の昂った精神を抑えながら抑制の利いた視線で雪色の髪の少年を睨みつける
「ブッブゥーッ、時間切れでぇーす。人間が操作系武装を製造したのは、全霊命の自立型武器を自分達のものにしようとしたから、が正解でしたぁ」
「……っ」
まるで意図的に怒りを煽ろうとでもしているのではないかというシグロの言葉に、ヘルミナの眉間にわずかに皺が寄る。それでも感情に流されないのは、そうなれば相手の思う壺だと分かっているヘルミナの冷静な状況判断と戦況分析によるものだ
「自身の神能が武器として形を成した全霊命の自立型武器は、世界に対して絶対的な干渉力を持っているために操作系武装が共通して持っている、『無線ではその威力や移動に性能としての能力しか発揮できない』っていう弱点がないんだよ?
人間界では長い年月を要して、ようやく使用者から独立して気の力を行使できる武器――天翔武装を実現したけど、気の蓄積のためのリロードをはじめとしてまだまだ改良と改善の余地がある事は否めないよね」
うんうんとわざとらしく頷きながらシグロが言う。
そもそも操作系武装をはじめとする無線での操作系武器は、全霊命の同系武器を一つの完成目標としている。
その能力の全てを自身の霊の力に依存する完全な独立機動武器。現に全霊命は離れた場所に自身の力で構成した結界を展開したり、直接触れ続けていなくとも封印や結界を維持し続けられる能力持っているのだ
「じゃあ、第二問。全霊命には使えている独立型の武器が、何故半霊命には使えないんでしょうか?」
「……空間を満たす世界の界能――元素に力の発動を阻害されるから」
「大正解!!」
激昂しそうになる感情を懸命に抑えて言ったヘルミナに、シグロがわざとらしく親指を立てて称賛の声を上げる
自身の力の影響による完全制御の独立機動武器を持つ全霊命と持たない半霊命の最大の違いは、その霊格――即ち、神能と界能の違いによるものだ。
事象や現象そのものとして力を顕現させる神能そのものによって作られた自立型の武器や力は、最初からそういうものとして定義されている上に、その力が永久無尽蔵の全霊命そのものから供給され続ける事になる。
対して、事象に干渉する事で現象を書き換えている界能の操作系武装は、強化、移動に関して常に情報を書き換え続けなければならない。しかし、そのための力である思念が世界そのものの界能である元素によって阻害されてしまう以上、直接触れていなければ力を伝達できない界能の力は離れた位置にある対象に伝える事が出来ないのだ。
「……馬鹿にしているの?」
常識ともいえる質問をされた事で馬鹿にされていると感じたのか低く抑制された言葉を向けるヘルミナに、シグロは薄く笑みを浮かべる
「じゃあ、最後に質問。何故僕が実現不可能なはずの全霊命と同質の自立型武器を使えるんでしょうか?」
「それを聞きたいんでしょう!?」と言わんばかりに目を細めたヘルミナに、軽く手を広げて見せたシグロが満面の笑みを向ける
「答えは簡単。実は僕、手を離しているけど、離してないんだよね」
「!?」
その言葉に怪訝そうに目を細めたヘルミナに、小首を傾げるようにしてシグロが続ける
「分からない? 今僕は、武器を離しながら触ってるんだよ?」
「……っ、まさか!」
シグロの言葉に、ヘルミナの脳内で構築された仮説。それに気付いた竜人の麗人が目を見開いたのを見て、雪色の髪の少年は勝ち誇ったような笑みを向ける
「気付いた? そう……空間だよ。正しくは空気だけどね」
「馬鹿な……っ、体が空間に触っているからといって、それを介して武器にも触っているなんて事にはならないはず……そもそもそんな事ができれば……」
「苦労はない、でしょ?」
原理を説明されたにも関わらず、さらなる混乱に陥るヘルミナの言葉を遮り、シグロは鋭い視線で竜の麗人を射抜く
「だよねー? 僕も思うよ。でもさ、エクレールさんもやってるんだから、僕にだってできると思わない」
そのシグロの言葉に、ヘルミナの脳内で様々な言葉ピースが嵌まっていき、そして一つの答えを浮かび上がらせる
「あなた、まさか……風属性の!?」
「正解~。僕はエクレールさんと同じ、属性の過剰適合者だよ。ただし、風属性の、だけどね」
絞り出すようなヘルミナの言葉に、シグロは得意気な笑みを以って応じる
シグロ・虹彩は、風属性の過剰適合者。風――即ち「気体」に対して高い気の干渉率を誇っている。
通常は風や空気を自分の武器として操るのだが、風属性に極めて高い適合率を持つシグロは、エクレールが水と自身の身体を融合させていたように、気体そのものに意志を通わせる事が出来る。その力があるからこそ、投剣が身体から離れていても、空気を介して繋がっているという状況を作り出す事ができるのだ。
(そんな馬鹿な……それが本当なら……っ)
シグロの力を理解したヘルミナは恐怖に身を強張らせる。
シグロの戦術は、風――気体と適合率の高いシグロにしか出来ない事。風属性に適性があれば誰にでもできるという事では無い。
故にヘルミナが恐れているのはそんな事ではない。大気を満たす空気と繋がっているという事は、即ち――
「理解したかな? 僕の力が及ぶ空間は、僕の領域。今君がいるその場所は、僕の掌の中に等しいんだよね~――あ、そうそう。だからって世界の果てまでも届くなんて事は無いから安心してくれていいよ」
「……っ!」
自身の予測が外れていなかった事に、ヘルミナは目を見開き、咄嗟に翼をはばたかせてシグロから距離を取ろうとする
空気そのものに意識を介する事が出来るという事は、自分が今いる空間そのものが、自分達の体と同じくシグロの力が及ぶ領域そのものという事になるということ。
一刻も早くその領域から離脱しない限り、自分はシグロの掌の上で転がされる獲物に過ぎないのだ
「っ」
全速力でシグロと距離を取ろうとしたヘルミナだったが、不意に何かに絡め取られてその動きを奪われる
「……ま、君が今から飛んで離れられる程度の距離なら、僕の領域内なんだけどね」
「何……?」
小さく呟いたシグロの言葉は、既に距離を取っていたヘルミナには聞こえない
空気そのものに力を流して操るシグロは、自身の力で制御した空間を瞬間的に硬化させてヘルミナの身体を空気の腕によって絡め取っていた
「そうか、空気を硬化させて……こんなもの」
シグロが空気を使って自分の動きを止めた事に気付いたヘルミナは、自身の気を放出してその破壊を試みる
いかに空気を制御しているとはいえ、他者の霊の力に干渉できないという霊の力の絶対定理は変わらない。ならば、気の力を放出すればこの空気の腕の拘束を解く事は難しい事ではない
「……なっ!?」
しかし、次の瞬間ヘルミナは自身の眼前に広がる光景に息を呑む
シグロの装霊機に収納されていた千や万では足りないであろう数の投剣が空中に龍の如く渦を巻き、その全ての刃にシグロの気が込められていく
「残念、君はここで終わりだよ」
次の瞬間、解放された投剣が光となって飛翔し、ヘルミナの全方位から襲いかかる
七大貴族に数えられるシグロの気の込められた投剣の飛翔速度は光の速度に迫るほど。全方位を埋め尽くす閃光剣を回避する手段など存在するはずがなかった
「……ぁ」
光の刃を全方位から受けたヘルミナの身体は、その威力の前にことごとく破壊され、塵ほどの大きさに分解されて大気中で消滅する
「……ふう」
その光景を見ていたシグロは、満足げに息をついた。
※
その頃、エストとリィンは、血の海に沈むルカに背を向けて離れようとしていた足を止めていた
満身創痍のルカを残していく事に思うところがあったからではない。二人が離脱するよりも早く、この場所に辿り着いた者がいたからだ
「エスト様」
「お前は……」
二人の前に立っているのは、敵軍の群れを通り抜けてきた大貴。
肩で軽く息をする大貴は、エストとリィンを見てからその背後で地の海に沈んでいる満身創痍のルカへと向ける
「……ルカ」
自分の傍らを通り抜けていく大貴を見過ごしたエストは、ルカを抱え起こした大貴に肩越しに視線を向ける
「命はある。今から治療すれば助かるはずだ」
「待てよ」
抑揚のない口調でそう言い残したエストを、背後から大貴の声が引き止める
その声に一度足を止めたエストだったが、今度は視線を向ける事すらなく背を向けたままで大貴に語りかける
「俺は行かねばならんのでな……できの悪い妹だが、気に入ったなら勝手に持っていくといい」
「待て!!」
「……何だ?」
先ほどよりも強い口調で引き留められたエストは、足を止めて背後に体を斜に向けて立つ。
その隣で臨戦態勢を取るリィンは、ルカを抱えた大貴から放たれる王族すら凌ぐのではないかと言うほどの絶大な気の奔流に冷や汗を流す
「妹……だと? お前一体……」
全身から戦意のこもった気を立ち昇らせている大貴を前にしても平然と佇んでいるエストは、小さく笑みを浮かべながらやや見下ろすようにして、妹が舞戦祭に連れてきた計算外の男を睥睨する
「実力はあるのに、頭はよくないらしいな。この状況を見れば分かるだろう?」
そう言って目を伏せたエストは、ルカを抱えている大貴に視線を向けてその手に風車の羽を思わせる刃幅の広い剣を召喚する
「俺の名はエスト。十世界に属する、この事態を引き起こした元凶だ」