城下に渦巻く、世界の影
「大貴!」
食事を終えた大貴が部屋に戻ると、それを待っていた詩織が大貴を出迎える。
「姉貴?」
「で、どんな話だったの?」
「ああ、それは……」
心配して訊ねてくる姉に、大貴は一瞬言い澱んで、食事会での話をかいつまんで説明する
その話を一通り聞いた詩織は、やや不機嫌そうな口調で大貴に訊ねる
「やっぱり政略結婚の話だったのね。……で、ヒナさんと婚約したの?」
「婚約っていうか、まあ、候補って感じだけどな」
「ふぅん……」
詩織は、納得したような、していないような視線で大貴を見ていたが、やがて肩を落として脱力すると力なく微笑む
「まあ、私は正直あんたとヒナさんって結構お似合いだと思ってたし、相手がヒナさんなら私も心配ないけど」
「そうか?」
(お似合い? 俺とヒナが……?)
思案しながら言った詩織の言葉に、大貴は首を傾げる。
大貴の認識の中では、自分とヒナはこれから親しくなっていくと思っている。そのため、詩織が何故自分とヒナがお似合いなどと言うのか理解に苦しむところだった
「……あんたって、結構潔癖なところがあるから、政略結婚とか嫌がると思ってたから少し意外だったわ」
一方で詩織は、大貴が政略結婚を受け入れた事に、わずかながら驚きを隠せずにいた。
昔から大貴に女っ気がない事を姉として案じていた詩織は、大貴の恋愛観や好みがどうであれ、地球――現代日本で暮らしている以上、政略結婚を許容する事は難しいだろうと思っていたのだ。
そのため、政略結婚のような気持ちが伴わない関係を受諾するとは思っていなかった詩織は、内心で驚愕を禁じ得なかった。
「まあ、俺も最初はそう思ったけどな……でも、政略結婚だからって断るようじゃ、ヒナ自身を見てないって事に気付いたからな。……まあ、きっかけみたいなもんだと思って仲良くやれるようにやってみるさ」
大貴は詩織の言葉に、まるで少し前までの自分を見ているような感覚を覚えて、自嘲気味に苦笑を漏らす。
確かに、最初は大貴も政略結婚を忌避していた。しかし、そこにどんな思惑が絡まっていようと、「ヒナ」という一人の人物を見なければならないと思い直したからこそ、大貴はヒナとの婚約関係を了承したのだ
「……ま、確かに政略結婚の相手が、運命の相手って事もあるかもね」
大貴の言葉に一瞬思案した詩織は、事情の多くを理解せずともそう納得して話を切り上げる。
(難しいものね……本当に)
内心で自嘲気味に笑って、詩織はため息をつく。
人の縁とは奇妙なもの。いつ、どんなきっかけで出会うか、どんな人と愛し合うかなど想像もつかない。結局、人生が永遠のように長かろうと、限られた刹那のような時間であろうと、縁というものは運だのみなのかもしれない。
自分のように一方通行の想いも、神魔と桜のように通じ合っている想いも、クロスとマリアのように、いつかは通じ合うであろう想いも、大貴のようにこれから形を紡いでいく想いも――全て等しく、想いの形なのだから。
「あんたがそうするって決めたんなら、あんたの思うようにやってみなさい。……ただし、婚約を断る事になるとしても、ヒナさんを裏切るような事はしちゃダメよ」
そう言って、詩織はからかう様な笑みを浮かべて大貴の鼻先に人差し指を向ける。
幼い頃から共に過ごしてきた双子の弟へ信頼の眼差しを向ける詩織は、口ではそう言いながらも、大貴とヒナがうまくいく事を疑っていなかった。
「……ああ、分かってるよ。少なくとも、ヒナ達の信頼を裏切るような事はしないさ」
「うん、よろしい。ならお姉ちゃんは、あんた達の事、応援してあげるから……しっかりやりなさい」
「そりゃ、どうも」
姉が自分の事を案じてくれていると分かっている大貴は、苦笑を浮かべて詩織をまっすぐ見つめる。
ほんの少ししか生まれた時間が違わないにも関わらず、幼い頃から過保護なほど世話を焼いてくる姉ののそういうところを煩わしく思った事もあるが、決して嫌ではなかった。
「ああ。それとこの事は口外しないようにしてくれ」
ふと思い出したように大貴が付け加える。
いずれは発表する事になるかもしれないが、今はまだこの話を広めないようにと人間界王から事前に頼まれているのだ
「分かったわ。大丈夫よ、私、口は固いから」
念を押して言った大貴の言葉に、詩織は胸を張って得意気に言う。
「あーあ、これで私だけ一人かぁ……なんか遣る瀬ないな」
大貴に背を向けた詩織は、自分だけが片想いでいる事に肩を落とす。
クロスとマリアが両想いなのは疑うべくもなく、大貴とヒナもこれからではあるが、詩織から見ればお似合いだ。そして神魔と桜は言わずもがな――自分だけが、行き場のない想いを向けている。
神魔への想いは消せない。いつか消えてしまう想いだからと諦める事も出来ない。目を閉じれば思い浮かぶのは神魔の事ばかり。
今この瞬間にも、神魔が処刑されてしまうのではないかと思うと居ても立ってもいられない。しかし、今の自分には何もできない。ただ案じる事しかできないもどかしさが募っていくばかり。
ともすれば、最悪の結果ばかりが頭をよぎり、泣き崩れそうになるのを懸命に押し殺している詩織は、次元の壁を隔てた遠い世界にいる想い人に、想いを馳せる
「さて、と……私はそろそろ寝ようかな。なんか色々ありすぎて疲れちゃった」
神魔の事を案じると溢れそうになる涙を堪えるように頭を軽く振った詩織は、大貴やクロス、マリアに心配をかけまいと努めて気楽な口調で呟く
「お休みなさいませ」
「お休みなさい」
ロンディーネに見送られて、詩織は貴賓室に設けられた扉を開く。
「――っ」
詩織達が宿泊しているこの貴賓室には、寝室を兼ねた個室がいくつか設けられている。地球にある実家の詩織の部屋よりも一回り以上広い寝室に入った詩織は、三人は横になって寝られるであろう大きなベッドの上に力なく倒れ込む。
極上の布地の心地よい感触に包まれながら今日の出来事を思い返し、そしてこれからの事を思って唇を引き結ぶ。
「会いたいよ……神魔さん」
詩織の頬を伝う一筋の涙を、天頂に煌めく月だけが優しく照らしていた。
「……どうだった人間界の王族は?」
詩織が寝室に入っていったのを見て、クロスは大貴に声をかける。
別に詩織がいる前で話しにくいという事ではなかったが、詩織は大貴の事で頭が一杯だったようなので、話が一段落するのを待ったにすぎない。
「ああ。……何て言うか、王に誇りを持ってるんだなって気がした。少しでもいい王であろうとするところとか、世界の事を優先させる考え方は正直、色々考えさせられたよ」
クロスの言葉に、大貴はゼルやヒナの事を思い出して呟く。
人間界の秩序のために、光魔神である自分と婚約関係を結ぶ。上辺だけを見れば、権力を得たいがため義にも見える。しかし、ゼルやヒナが見ていたのはそんな事ではない。
人間界の秩序、その未来、そしてそこに生きる人々。――民のためなどという安易なモノではなく、人々の上に立ち、率いる王としての自覚と誇り。王として誰よりも高みにあろうとする意志だった。
「……世界を統べる王ってのは、民を支配する者だ。力ある者が支配するからこそ、秩序が生まれる。誰もが等しいなら、秩序は生まれない。弱い者は強い者に従い、強い者は弱い者に尽くされる義務がある。
だからこそ強者は、常に自分自身で自分を律し、秩序を司らなければならない。人間界の王たちに何かを感じたならそれをよく覚えておけ。……民のために尽くすなんて寝言を言う奴は、王でも支配者でもないんだ」
「…………」
クロスの言葉に、大貴は無言で思案を巡らせる。
世界を会社に例えるならば、王は社長だろう。王が何よりも重要視しなければならないのは、民の幸福を守る事ではなく、世界の――会社の利益を考える者だ。
もちろん社員――民の事も考えているだろうが、経営がおぼつかない会社が社員に高い給料を支払う事はできない。会社が利益を上げているからこそ、社員に高い給料を支払う事が出来るのだ。
働いている社員の中には、出世できずに会社の待遇に不満を漏らす者も多いだろう。会社の経営者であり続けるために、社員のために働くと声高に叫ぶ社長もいるかもしれない。
しかし、それはただの人気取りだ。その会社が大きければ大きいほど、そこには大勢の人間が働いている。優れた者がそうでない者を従える事で、一定の秩序の元に会社というシステムが機能するのだ。全ての人間の言いなりになっていては、その機能が正常に作用しなくなるだろう。
もちろん、正当な評価と利益の還元は絶対の条件だが、少数のために大多数を切り捨てるような人物は英雄ではあっても王ではない。
英雄は、恵まれない者を救って終わりだが、王は全ての人間の生活を未来まで守り続け、与え続けなければならない。――ゆえに「王」とは、救うものでも、尽くす者でも、守る者でもない。支配し、与える者でなければならないのだ。
そしてゼルやヒナは、「王」として自分たちの身で成せる最大限の力を得ようとしているに過ぎない。
背を向けて民を率いる王としてのその在り方に、わずかながら感銘を受けつつ、大貴は自分のこれからの在り方――力の導く先を思案する。
強い力を持っているからこそ、それを用いてどんな世界を描くのか。大貴は、世界を変える事も壊す事も出来る自分に委ねられた責任を噛み締めていた。
「なあ、ロンディーネ」
「はい」
大貴はわずかに沈黙してから、ロンディーネに視線を向ける
「……明日は、城の外を見に行ってもいいか?」
大貴の脳裏によぎるのは、シェリッヒに言われた「街を見てきてはいかがですか」という言葉。
その言葉に他意は無く、単純にヒナ達が統べ、守る世界の王の城の中という特別な空間ではない日常を見てみたくなったというだけの話だ。
「無論です」
大貴の言葉をどう解釈したのかは分からないが、ロンディーネは、侍女として完璧な所作で恭しく頷く。
その頃、自室で睡眠用の薄手の服に着替えたヒナは、鏡台の前に座り、風呂上がりだからという理由だけでなく頬を染めている自分の姿を鏡に映す。
「……少し、逸りすぎたでしょうか……」
わずかな後悔と不安に、ヒナは鏡に映った自分に話しかけるように言葉を紡ぐ。
その脳裏によぎるのは、食事を終えて大貴と部屋を出た時の事だった――
「……大貴さん」
「ヒナ?」
部屋を出た所で大貴を呼び止めたヒナは、その手から蛍光色の光を放つカードのような者を手のひらから出現させて大貴に差し出す
「……これを」
「これは?」
何も書かれていない光のカードを見て首を傾げる大貴の問いに一瞬言い澱んだヒナだが、意を決して言葉を続ける
「……私の部屋の情報鍵です。それがあれば、私の部屋のロックを外せますので……」
頬を赤く染めるヒナの言葉に誘われるように、情報データで構築された鍵は宙を滑り大貴の前で静止する。
「遠慮なさらずに、いつでもお越しください」
言葉を選んで微笑んだヒナの言葉に、大貴は小さく頷いてその鍵を受け取る。
顔を赤らめるヒナとは対照的に、平然としている大貴は照れていないのではなく、ヒナ――女性から自室の鍵を渡されるとい事が意味する事に全く気付いていないだけだ。
異性に対して多感な思春期の少年とはいえ、暗喩的な表現を察する事が出来るほど、大貴は人間として成熟しておらず、異性の感情の機微に鋭い訳でもない。
「……ああ、分かった」
ヒナの言葉の意味を掴みあぐねる大貴だが、ヒナの真剣な眼差しに半ば押し切られるような形で鍵を受け取ると、身体に融合させた装霊機にそれをインストールし、情報を取得する。
人間界では、個人の認証に装霊機を用いた情報認識を利用している。
扉の鍵や、条件や制限が設けられた個室や区画への出入り、乗り物の起動などを行う際に、レーダーのような物で装霊機ににインストールされている鍵のデータや、ライセンスを読み取る事で個人証明を行う技術。
それを行う事で、鍵を持つ者は検査などをする必要が無くなり、同時に許可を持たない者の立ち入りや、侵入をシャットアウトできる。
(やはり、女性の方からいきなりお誘いするというのは、よくなかったでしょうか……?)
少し大胆すぎたかと反省しつつ、ヒナは落ち着かない様子で扉を鏡に映った自分を交互に見る。
鏡に映った自分は、自分で見ても分かりやすいほどに顔を赤らめており、ヒナは、自分のそんな反応に新鮮な驚きと共に、どこか胸がくすぐったくなるような感覚を覚える。
「……まあ、いきなり来て下さるはずはないですよね」
異性に鍵を渡すという事の意味を、ヒナは十分に理解している。
しかし、大貴の誠実な人柄を見抜いているヒナは、その意味に頬を染めつつも、しばらくの間はそれが意味を成さないであろうことも予想がついていた。
「今日はもう休みましょう。明日もこう……大貴さんにお会いするのですから」」
鏡に映った自分にそう語りかけたヒナは、鏡台を閉じて立ち上がると、部屋の隅に置かれた大きめのベッドに向かって歩いていく
しかし、その途中でふと足を止めたヒナは、肩をすくめながら恥じらいに頬を染める
「……で、ですが、念のためにもう一度くらいお風呂に……何か粗相があってはいけませんし」
その様子を見ていた者がいたならば、息を呑むような美貌を朱に染めるヒナの可憐な色香に、心臓を握り潰してしまったかもしれない。
ヒナは、自分でも意外なほどにときめいている鼓動を確かめるように、自身の胸に手を当ててそっと目を閉じた。
それと同時刻。王の執務室では、空間に浮かんだ画面をゼルとフェイアが見つめていた
「あなた……」
「ああ。『レイヴァー』からの連絡だ」
わずかに目を細めるフェイアの言葉に、ゼルは小さく頷いて見せる
二人が見つめる画面には、七大貴族の一角である「レイヴァー」から城に行くという旨の書面が映し出されている。
「……あの方が直接城にお越しになるなど、何万年もなかった事ですね」
「ここに七つの貴族の当主格が一堂に会するなど、いつ以来の事だろうな」
空間に映しだされた画面に目を向けていたゼルは、それらを見渡して重々しい口調で口を開く
「……三日後。その日に、全ての貴族の主だった者がここに集う」
ゼルの言葉は、二人だけの部屋に静かに響いた
大きめのベッドに腰掛け、背中側にある大きな窓から月光を浴びる大貴は、ヒナから渡された情報鍵を手の平に顕現させて視線を送る。
「……この鍵、いつ使うんだ?」
――ヒナと大貴の距離は、まだまだ遠いようだ。
九世界の太陽であり、月である神器「神臓」は、時間によって光量を調整する能力を持っており、太陽の状態の神臓は、天頂に在りながらも朝の優しい光で世界を照らしている。
その光に照らされる貴賓室の中で、大貴と詩織、そしてロンディーネがヒナ、クロス、マリアの三人と向き合っていた。
「申し訳ありません、本来でしたら私が同行するべきなのですが、私は少々人目に付きますので……」
白い小竜――「ザイア」を肩に止まらせている大貴にそう言って、ヒナはわずかに表情を曇らせる。
王族、まして次期王であるヒナは人間界では有名人だ。姿形は変装である程度ごまかせるが、その身に纏う規格外の気は誤魔化しきれない。
仮に抑えていても、万が一力を発揮するような事があり、大貴との関係を知られるのはまだよくないとして、同行を控える事にしたのだ
「気にするな、ロンディーネもついてきてくれるんだから大丈夫だ」
「……はい」
昨夜婚約者候補となった二人の寄り添う姿は仲睦まじく、知らない者が見れば夫婦のように見えるかもしれない
「大貴さんの事、くれぐれもお願いしますね、ロンディーネ」
そんな二人のやり取りに、詩織やクロス達と同様に思わず目を奪われていたロンディーネは、大貴の言葉に頷いたヒナの言葉に、一瞬で居住まいを正して頭を下げる。
「かしこまりました、ヒナ様。」
(大貴さんか。……私も行くんだけどな……)
二人のやり取りを聞きながら、仕方ない事と分かりつつも肩を落とす詩織を横目に、大貴は肩に止まっていたザイアをヒナに預ける。
「じゃあ、行ってくる」
「はい、御気をつけて行ってらしてください」
大貴からザイアを受け取ったヒナは、大貴に優しく微笑みかける
「では、参りましょうか」
「ああ」
「はい」
ロンディーネの言葉に頷いた大貴と詩織は、部屋を後にする
「キュゥ……」
「大丈夫ですよ。大貴さんは、すぐに帰ってみえます」
大貴がいなくなった事で悲しそうに声を上げるザイアを、ヒナがその白い手で優しく撫でる。
「…………」
その様子を見ていたクロスとマリアには、夫を見送り、さみしそうにしている子供を慰める母親のようにしか見えない事は、二人の心の中に留められた。
世界の中核をなす九つの世界の中で、唯一高度な産業と科学技術を併せ持つ人間界の都市――まして世界の中枢である人間界上の城下に広がる街「アルテア」は、人間界でも屈指の繁栄と賑わいを見せている。
流線形を主体とした建造物や、高層ビル群。白を主体とした清潔感ある街並みに、空に映しだされる画面が看板の役割を果たしたり、宣伝を映し出している。
バイクや車、空を飛ぶ乗り物などが街を往来する大都会でありながらも美しく整備され、自然と調和した街並みは、まるで雄大な大自然と向き合ったかのように心の琴線を揺らすような感動すら覚える。
「お城から見てた時も思いましたけど、凄いところですね」
思わず感嘆の息を漏らす詩織に、ロンディーネは穏やかに微笑んで応じる。
「この街――『王都・アルテア』は、人間界城を中心に円形に広がる約一兆人超の人々が暮らすこの世界の首都です。人間界王の御膝元と言う事で、人間界でも屈指の大都市で、様々な企業などの中枢も置かれています」
簡単に言ったロンディーネは、柔らかな表情で大貴に視線を向ける
その豊かな表情と感情表現は、魔道人形であるロンディーネを人間と遜色のない存在に見せており、大貴と詩織の脳内からもその情報が欠落してしまっているほどだった
「さて、ではどちらへ参りましょうか?」
「やっぱり、ショッピングです!!」
「……姉貴……」
屈託のない笑顔で声を上げた詩織の様子に、大貴の表情にあからさまな拒絶と嫌悪の色が浮かぶ。
今は空間内に物を収納できる装霊機を持っているため、荷物の持ち運びには苦労しないかもしれないが、大貴は荷物持ちよりも詩織の買い物に要する時間も苦手としている。
「女の嗜みなの。」などと言われても、男の自分には微塵も関係ないのだが、それを言ったところで聞き入れないのが姉だった。
「いいでしょ?」
できれば遠慮したいと思っている大貴の考えを容易に見抜き、詩織は反論を許さない笑みを向ける。
「……ああ」
粘っても根負けする事を知っている大貴は、せめて少しでも早く終わる事を祈りつつ、肩を落とす。
「ほら、行くわよ」
「あ、おい」
嬉しそうに大貴の手を取った詩織が、大貴と向かい合ってその手を引こうとするが、大貴に視線を向けていたために背後への注意がおろそかになり、道を歩いていた人の胸に背を預けるような形でぶつかってしまう。
「……っと」
「あ、すみません」
背中からぶつかってしまった相手に、詩織は深々と頭を下げる
そこにいたのは、眼鏡をかけた背の高い金髪の青年。細身で整った顔立ちを持ち、瞳には理知的な光を宿した青年は、その優しげな風貌に笑みを浮かべる
「いえいえ、お怪我がなくて何よりです」
眼鏡の向こうに見える理知的な目を優しく細めた青年の言葉に、詩織は再度頭を下げる
「本当にすみません、私の不注意で」
「いえいえ、むしろあなたのような可愛らしいお嬢さんにぶつかっていただいたのですから、私が感謝の言葉を述べなければならないくらいです」
「そ、そんな……」
(社交辞令だぞ、姉貴)
褒められてまんざらでもない表情を見せている詩織の様子に、大貴はその背後で呆れたように息をつく
「では、これで失礼します」
そう言って立ち去っていった男を見送る詩織に歩み寄った大貴は、その男の背を見て怪訝そうに眉を寄せる
「……あいつ、目が腐ってるのか?」
「殴るわよ?」
大貴の言葉に怒りの笑顔で返した詩織は、ふと気付いて男が歩き去った方向へ視線を向ける
「名前……聞いとけばよかったかな……」
大勢の人で賑わう王都も、道を逸れて裏通りに入れば、人の数は少なくなる。人間界でも屈指の治安を保たれているため、裏道に入ったところで、人が少なくなる程度だ。
そんな裏通りをあるく金髪の男は、まるで汚い物を払い落そうとするかのように先ほど詩織とぶつかった場所を手で軽く払う。
「あの女、人間ではなかったですね……あの力の小ささから見て、ゆりかごの人間でしょうか? ……全く穢らわしい事です」
「十世界に所属している癖にそんなこと言っていいの?」
吐き捨てるように言った男の耳に、頭上から幼い少女の声が届く。
その声に視線を向けた男は、歩道に並んだ街灯の上に腰掛けた幼い少女を見止めて、不快そうに眉をひそめる
「『セウ』ですか……」
男に「セウ」と呼ばれたのは、足元まで届く髪をツインテールにして、つぎはぎのされた大きなぬいぐるみを抱きしめた可愛らしい容姿の少女。
身長は男の半分ほど。どう見ても子供にしか見えないその少女は、街灯の上に腰掛けて足をぶらぶらとゆすりながら、屈託のない無邪気な視線を男に向けてくる。
街灯の上でゆらゆらと足を揺らすツインテールの少女の姿を見止めた青年は、敵意と嫌悪感を露にした攻撃的な口調をセウに向ける。
「構いません。私が十世界に所属しているのは、人の手で全霊命を殺す力を手に入れる研究のために過ぎないのですから」
理知的で穏やかに見える青年の顔の裏に隠された、獣の光を宿した眼光をよそ風程度に受け流した少女はわざとらしく肩をすくめて見せる。
全ての世界と、そこに生きる者達の調和を謳う十世界において、他種族への嫌悪は可能な限り失くすべきものだとされている。しかし青年は、ゆりかごの人間への、そして全霊命への嫌悪を隠す事無く少女に向ける
「一応私も全霊命なんだけど……?」
「そうでしたね。ではあなたは、あの馬鹿共でも使って遊んでいなさい。悪意の名に恥じぬようにね」
金髪の青年はセウの言葉を聞き流し、そう言い残して歩き去っていく。
本来なら裏切りと取られても仕方ない言動の数々。しかし青年は、自分の本心を目の前の少女に見せた所で何も起こらない事を確信していた。
なぜならあの少女は――否、少女達は、それを楽しんでいるのだから。
――悪意を振り撒くものであるが故に。
不機嫌と敵意を露にする青年の背中を見送るセウは、その可愛らしい表情に無邪気な笑みを浮かべる
「ふふふ……言われなくてもそうするよ。もっとも、その馬鹿共に自分が含まれてるって気付いてるのかな? 『教授』――いや、『グリフィス』君?」
金髪の青年――グリフィスを、不敵な笑みと共に見送ったセウの周囲には、黒く澱んだ何かがうごめいていた。
遥か地平の彼方まで美しい街並みが広がっている王都アルテア。白を基調とした美しく洗練された高層ビルを彷彿とさせる建造物の屋上に一つの人影が立っていた。
「ん……いい風」
地上数百メートル。ビルの縁に立つその女性は、王都の空を吹き抜ける風にうっとりと目を細めて地を蹴り、森の木々のように立ち並ぶ摩天楼の中へとその姿を消した。