界能(ヴェルトクロア)
(何でこうなったんだ……?)
目の前にいる男を見て、大貴は内心で頭を抱えていた。
《お怪我にだけは気をつけて下さい》
《キュイッ》
自分を送り出す、ヒナとザイアの笑みが大貴の脳裏にありありと思い出される。
「武器の具合はいかがですか?」
その声に、現実に意識を戻すと、目の前に立つ男――人間界最強の騎士にして、人間界軍総指令通称「大元帥」と呼ばれる男。「ガイハルト・ハーヴィン」が人のよさそうな笑みを浮かべて佇んでいた。
「……ああ、悪くない」
その言葉に、手の中にある木刀を軽く振るった大貴は、その感触を確かめて頷く。
大貴の手に握られている木刀は、武器を選ぶように言われた際に、光魔神の時に使っている武器――「太極神」にちなんで刀を選択したものだ。
人間の姿のまま戦闘を行うのは、大貴にとって初めての事だが、自身の力が戦闘特性に合わせて変化したものが刀であるなら、自分に合う武器は単純に刀だろうという見解を立てたのだ。
「では、これよりガイハルト大元帥と、大貴殿の模擬戦を開始します」
二人の間に審判役として立った、騎士団の青年が静かに宣言する。
「大貴、大丈夫でしょうか……?」
ガイハルトと向かい合う大貴を見る詩織は、不安を隠せない表情で二人がいる闘技場を見る。
「光魔神様は、我ら人間の神です。例え人間の姿を取っておられても、その界能は、人間界最強でしょう。……あくまで、界能の強さに限れば。ですが」
語調をわずかに硬くしたヒナに、詩織が怪訝そうな視線を向ける。
「……どういう意味ですか? 私は神能の強さが、そのままその人の強さだって聞いてますよ?」
詩織は、かつて神魔達から神能の強さは、そのままその全霊命の強さだと聞いている。
全ての現象と事象を、自らの力の望むままに否定し、自らの望む結果のみを顕現させる神能は、強ければ強いほどその干渉力を増す。即ち、神能の強さは、そのまま全霊命の現象否定、現象顕現能力そのもの。即ち、「絶対存在」として自らを定義する力になる。
「それは、神能の場合です。全てを力でねじ伏せられるほど、半霊命も、界能も全能ではありません」
「……!」
軽く目を見開いた詩織に、ヒナは「それに」と話を続ける。
「この第一騎士団は、人間界最強の騎士たち。当然、その全員が人間として最も力の強い『王家』に列なる者か、『七大貴族』に属する者達です」
家名である「姓」が存在しない九世界の中において、人間界はその名字を「称号」として用いている。つまり、世界がその力や才覚を認めた人間に与える「能力分類」の指標となる「姓」を持つ者は、すべからく突出した能力を持っている。
「『アークハート』、『グランヴィア』、『トリステーゼ』、『天宗』、『虹彩』、『サングライル』、『レイヴァー』。人間界最強の称号『ハーヴィン』と、それに次ぐ力を持つ七大貴族のみで構成されているのが第一騎士団です。いかに光魔神様と言えど、勝利は容易くありませんよ」
自分たちの世界の騎士を誇り、大貴が負けるかのような不安を煽る言葉を言いながらも、ヒナが大貴に向ける視線には全幅の信頼が込められている。
しかしそれは、決して勝利を確信してのものではない。勝敗などを度外視したもっと尊い、――慈しむようなものだ。
「始め!!」
同時に、鋭い言葉がヒナと詩織の意識を闘技場の上に引き戻した。
「では、いくぞ!!」
静かに言い放ったガイハルトの身体から、凄烈な「気」が噴き上がる。
「っ!」
それに一瞬気を取られた大貴が、背筋が凍るような本能的な危機を感じてその場を跳びのいた瞬間、先程まで大貴がいた場所を閃光のような斬撃が通り過ぎる。
その一撃の剣圧が大地を砕き、砕け散った破片を中に舞い上げる。その攻撃を紙一重で回避した大貴が距離を取るのを見て、ガイハルトの表情にかすかな笑みが浮かぶ。
(っ、本物と何が違うんだよ!?)
距離を取りながらガイハルトを見た大貴の目に、険しい色が浮かぶ。
今行われているのは、あくまで模擬戦。そのため大貴の刀も、ガイハルトの長剣も刃の付いていない練習用の武器に過ぎない。
しかし、界能――「気」の力によってその力を強めているガイハルトの攻撃は、訓練用の武器であっても、十分以上の破壊力を生み出している。
「ならば、これはどうだ!?」
距離を取った大貴を一瞥したガイハルトは、殺傷力の弱い長剣に自身の気を注ぎこみ、その力を斬撃の波動として放つ。
天を衝くような金色の三日月。圧倒的な力を内包した刃の波動が大地を引き裂きながら、大貴に向かって一直線に奔る。
「……っ!」
その攻撃をよけられないと判断した大貴は、自身の身体から膨大な量の気を放出する。
神能だろうと、界能だろうと、その使い方は基本的に変わらない。ならば、これまでその力を使って戦ってきた大貴に、その力を使えない道理は無い。
「おおおおおっ!!!」
大貴の身体から噴き上がる界能。その圧倒的な力の大きさと、天災のような規模に、観覧している騎士たちからもどよめきが起きる。
(さすが、光魔神様だ。不慣れであろう人間の姿での戦闘でもこれほどの力を)
人間界最強の称号「ハーヴィン」そしてその中でも間違いなく上位に位置する最強の騎士である自分すら圧倒する絶対量の界能。
人間界軍最強の騎士としての自信を踏み躙るような圧倒的な力を前にしながら、ガイハルトの心にはそれ以上の歓喜と闘志が湧きあがっていた。
「それでこそ、この模擬戦を行った甲斐があるというもの……!自分よりも高みにある力に触れるこの機会。存分に堪能させて頂きましょう!!」
自分の内から湧き上がる強大な存在へと挑む闘志に、ガイハルトの表情に思わず笑みが浮かぶ。
そして、次の瞬間、ガイハルトは地を蹴り、大貴に肉迫する。
「はああっ!!」
目にもとまらぬほどの移動速度。界能で強化された身体。物理法則の束縛を退けた事による物体における限界突破。
そしてそこに鍛え抜かれた技によって大貴との間合いを詰めたガイハルトは、その速さのままに最上段からの斬撃を振り下ろす。
いかに動きが速くとも、知覚能力による先見と、界能自体の絶対量の差。それによって大貴の目は、ガイハルトの動きははっきりと捉えていた。
「なっ!?」
しかし、その動きに合わせて放ったはずの攻撃は、ガイハルトの身体をすり抜けてしまった。
まるで幻影のように攻撃がすり抜けた事に目を瞠る大貴の背後から、ガイハルトの横薙ぎの斬撃が大貴の身体を捉える。
完全に居を突かれた大貴は、その攻撃をよけきれずに持っていた木刀でかろうじて防ぐ。
「っぐ……」
しかし、ガイハルトの洗練された攻撃は、全身を粉砕されるのではないかと錯覚するほどの衝撃と共に、大貴の身体を一直線に吹き飛ばす。
「キュ、キュウッ!!」
ほぼ水平に大貴が吹き飛ばされたのを見て、ザイアが声を上げる。
「え?」
それを冷静な目で見つめるヒナと、あまりの高速戦闘で動体視力が追い付かず、何が起こっているのか分からない詩織。三者三様の視線が闘技場に向けられる。
ガイハルトの一撃を受けきれず、そのまま水平に吹き飛ばされた大貴は、木刀を地に刺してその衝撃を殺してから地に足をつける
「……つっ、なんて馬鹿力だ」
あまりに重い一撃に、痺れた腕を軽く振るった大貴に追い打ちをかけるように、超速で肉薄したガイハルトがさらなる追撃をかける。
「っ!!」
互いに人間の中でも群を抜く界能の持ち主。物理法則の束縛を逃れ、物質の限界を超える二人の攻防は、常人には視界に収める事すらできないほどの速さで繰り広げられている。
人間界でも屈指の実力を持つ最強の騎士団に所属する者たちですら、その動きを完全に捉えられているのは、半数にも満たないほど。
武器同士がぶつかり合う衝撃、それに続いて発せられる破砕音が、二人の移動速度が音の速さを軽く凌駕している事を証明している。
「そろそろ、終わりにしましょう」
「っ、何だと!?」
ガイハルトの言葉に、人外の超速戦闘に対応している大貴が目を細める。
これはあくまで模擬戦。当然このままわざと負けても問題は無い。しかし大貴には、不思議とわざと負けるという選択肢は無かった。――否、そんな考えなど、今の大貴の頭の中には微塵も存在していない
「はあっ!!」
荒れ狂う力の中、残像を引きながら怒涛の連続攻撃を繰り出してきたガイハルトの攻撃を捌き切った大貴は、そのまま刃を翻して、ガイハルトを横薙ぎにする。
ガイハルトは、その斬撃を木刀で受け、その威力を利用してそのまま斜めに攻撃の軌道を逸らす
「なっ……!?」
(いなされた!?)
驚愕に目を見開く大貴に、ガイハルトはそのままの速さで肉迫する。
「っ」
(反応が……)
ガイハルトの動きを確かに認識し、それを迎撃しようとした大貴だが、見えている世界に、身体がついてこない
「っ!」
言う事を聞かない身体に内心で驚愕しながらも、大貴は無理矢理身体に気を注ぎこみ、体の動きを力任せに矯正する。
刃を受け流されて崩された体勢から懐に潜り込んできたガイハルトに、木刀を斬り返しての斬撃を放つ。
刹那、二人が交錯し、一瞬の静寂が場を包む。
「……っ」
巻き上げられた粉塵が視界を遮り、その場にいた誰もが固唾を呑んで闘技場に視線を送る。
その粉塵が消えると、そこには互いの首筋に木刀をあてがった大貴とガイハルトの姿があった。
しかし、ガイハルトの木刀が大貴の首筋を触れているのに対し、大貴の木刀はガイハルトの首から拳一つ分以上離れた場所で止めらている。
「……俺の負けだな」
大貴が息を吐き出してから木刀を下ろすと、大貴の首筋から木刀を離したガイハルトが小さく微笑む。
「いい経験をさせていただきました。……もし機会があれば、その時は本気で戦って下さい」
「そう言うあんたも本気を出してなかっただろ? むしろ、本気を出してたら、もっと簡単に勝ってただろうからな。」
「どうでしょうね。まあ、いずれにしてもここでは、被害が出過ぎるので互いに本気は出せないでしょうが」
大貴が呆れたような言葉に、ガイハルトは微笑む事で応じる。
界能の力は、強大であればあるほど破壊力を増していく。いかにこの闘技場が強固であろうとも、人間界最強レベルの気の力の激突と、それによって生まれる力があれば、その被害は途轍もないものになる。――そのため、二人はその戦闘力をある程度抑えたところで戦っていた。
「残念でしたね」
いつの間にか観覧席から二人の元に歩み寄っていたヒナは、手にしていたタオルを大貴に差し出す。
「……ああ、悪いな」
タオルを受け取った大貴の言葉に、ヒナは目元を綻ばせて微笑んでから口を開く
「……界能は、神能に限りなく近い能力を持っていますが、神能ほど完全に事象を支配できません。――結果的に、体勢を崩したり、技術を駆使する事で、自分より力の大きな者とも渡り合う事が出来るのです」
「……なるほど、道理で反応出来てるのに、身体が動かないと思った」
攻撃を受け流され、崩された体勢からの反撃が遅れた事に合点が言ったように頷く大貴に、ヒナが微笑みながら深々と頭を下げる。
全霊命同士の戦闘では「攻撃をいなす」、「その力を利用する」と言った事は無い。というよりも不可能なのだ。
なぜなら、神能は、絶対的な霊の力によって全ての現象を否定し、自身を「絶対」として定義する力。自身がその力そのものである全霊命は、筋力や、運動エネルギーといった「理由」を根本的に無視した「絶対滅殺攻撃」を相手に対して打ち込んでいる。
「いなす」にしろ「その力を利用する」にしろ、それを行うためには、物理的な論理が要求される。――即ち、「運動エネルギー」と「それに伴うベクトル」を持つ攻撃を、論理を応用してその向きや軌道を変える事を。
しかし、全霊命の攻撃には、その論理そのものが存在していない。彼らは筋力よって武器を振っているのでも、攻撃しているのでもなく、過程が存在しない「現象」として攻撃を放っている。
――つまり、いなすために、あるいはその力を利用するために必要な要素そのものを持っていない。結果的にいなす事もその力を利用する事もできず、真正面から「力」そのもので押し勝つしかない。
対して界能は神能とは違う。ほんのわずかだが、肉体と言う物理要素を含んでいるために、「いなす」「力を利用する」という事を可能とする。
そこが、神能と界能の唯一にして最大の違い。
過程を無視して現象そのものを顕現させるのが神能。過程に含まれる不利な要因を弱め、有利な現象のみを強化して現象を作り出すのが界能。
「なにはともあれ、お疲れさまでした。色々と気を揉んでおられるようでしたので、このような形で気分転換をしていただこうと思ったのですが……いかがでしたか?」
「それなら、そう言ってくれ……」
ヒナの気遣いに気付いた大貴は、小さくため息をつく。
神魔と桜の処刑の事、慣れない特別待遇などで神経をすり減らしていた大貴を見かねたヒナは、一時でも心労を忘れられるよう気遣い、大貴に身体を動かさせるため、あえてガイハルトとの模擬戦をさせていたのだ
一歩間違えば余計なお世話になる事を、決して嫌味に感じさせない形でやり遂げるヒナに半ば感心している大貴に、ヒナが微笑む。
「あなたには人間界のよいところを見ていただきたいですし、何より、ここにいて下さる間は少しでも心安らかに過ごしていただきたいものですから
……あなたのようにお優しい方は、気にしないで下さいとお願いしても聞いて下さらないので、多少強引でも、気を紛らわせて差し上げないといけませんから」
「優しいかどうかは置いておいて、見透かしたように言われると、ちょっと癪だな」
的を射たヒナの言葉に、わずかに渋い顔をして大貴が呟く。
「私などまだまだですよ」
謙虚に応えるヒナに視線を送っていた大貴は、再び小さくため息をついてから、ヒナに微笑みかける。
「……ま、でも気分転換にはなったな。ありがとな、ヒナ」
「勿体ないお言葉です」
大貴のその言葉に、ヒナはわずかに頬を染めて軽く頭を下げる。
「キュ、キュウッ!」
そうしている二人の周囲を、ザイアが嬉しそうに声を上げながら円を描くように飛び回る。
「ふぅん……あの二人、結構お似合いかも」
その様子を見ていた詩織は、大貴の傍にそっと寄り添うヒナと、そのヒナを見つめる大貴の様子を見て小さくほほ笑んだ
丁度その頃、闘技場を見渡せる窓際から、その光景を見つめている人影があった。
そこにいたのは、漆黒の髪を肩のあたりで切り揃え、その体のラインを際立たせる服に身を包んだ色香に満ちた女性。その女性は、窓から見える大貴とヒナの姿を見て薄い紅の塗られた唇に妖艶な笑みを浮かべる。
「あら、『ミレイユ』様?」
そうしていると、女性に声がかけられる。
「リッヒ……久しぶりね」」
その声に視線を向けた「ミレイユ」と呼ばれた女性は、ゆっくりと自分に歩み寄ってくるウェーブのかかった金色の髪を持つ美少女――ヒナの実妹「シェリッヒ・ハーヴィン」を見て目を細める。
「リッヒ」とは、シェリッヒの愛称。ヒナや両親など親しい人がシェリッヒを呼ぶときに使う愛称だ。
「お久しぶりです。直接お会いしたのはいつ以来でしょうか?」
「さあ、もう覚えてないわね。それよりも、しばらく見ないうちに随分綺麗になったわね」
「ありがとうございます。ですが、私などまだまだですよ」
シェリッヒの言葉にほほ笑んだミレイユは、そのまま視線を窓の外に戻す。
「あれが例の『光魔神』様ね?」
「はい。よくお分かりになられましたね。人間の姿を取っていらっしゃったのに」
優美な所作で歩み寄って来たシェリッヒは、呟いたミレイユの言葉に、その視線がヒナと一緒にいる大貴に向けられているのを見て感嘆の息を漏らす
「一目見ればわかるよ。あの戦い方は、神能の戦い方だもの。無限に尽きない力と絶対の力で押し切る絶対勝者の戦い方……私たち人間の――界能の戦い方じゃないわ」
「なるほど、さすがに目が利きますね」
口元に笑みを浮かべたままで言うミレイユに、シェリッヒは納得して頷く。
シェリッヒ自身、光魔神を見たのは王との謁見の間でだけ。その時は左右非対称色の翼がある光魔神の姿だったため、人間時の大貴の姿には見覚えがない。かろうじて顔立ちと、ヒナが傍に寄り添っている事で判別できた程度だ。
「それにしても、いくら木刀だけのお遊びとはいえ、あの雑な戦い方で坊やとあそこまで渡り合えるなんて大したものね。さすがは我らの神ってところかしら。」
「ガイハルト様を坊や呼ばわりできるのは、父とあなた方くらいのものですね」
大貴とガイハルトの戦いを見ていないため、ミレイユの言葉には答えられないシェリッヒは、代わりに別の言葉に苦笑して、目の前の人物に微笑みかける
「人間界特別戦力、『六帝将』が長。――『ミレイユ・ハーヴィン』様」
暗く、深い闇の中。小さな明りにだけ照らされているその場所には、重厚な鉄格子がそびえ立っている。そこは巨大な牢獄。そしてその中では、二つの影がまるで一つの存在であるかのように寄り添っている。
「神魔様、御身体の具合はいかがですか?」
暗い牢獄の中、身も心も捧げるように、神魔にしなだれかかっている桜の肩に手をまわした神魔は、優しく、強く、離さないようにと桜の華奢な体を抱き寄せる。
互いに身を寄せ合う神魔と桜は、牢の中に入れられていても一切の拘束をされていない。そのため、自由に身体を動かす事ができる。
「うん、もう大分いいよ……桜は?」
「わたくしの心配は不要です。わたくしの方が、神魔様より傷が浅かったのですから」
微笑む桜に微笑んだ神魔は、肩を抱いているのとは反対の手で桜の髪を優しく撫でる。
最愛の人に優しく撫でられる感覚に、眼を細める桜は、さらなる温もりを求めるようにその身体を神魔の身体に擦り寄せる。
全霊命はいかなる傷でも死んでいない限り痕一つ残さずに治癒する。さらに悪魔をはじめとする闇の全霊命は、光の全霊命のように治癒能力を持たないかわりに、高い復元再生力を持っている。そのため、二人の傷はすでにほとんど完治していた。
「そうはいかないよ。僕を心配するのが桜の役目なら、桜を大切にするのが僕の役目だからね」
互いの傷が既に完治に近い事を分かっていながら、互いに思い合う二人は互いを想い合って身を寄せあう。
「……っ、はい」
神魔の手で優しく撫でられながら、神魔の言葉に恋色に染まった表情に幸福色の笑みを浮かべる桜は、言葉に出来ない愛しさを噛みしめて最愛の人の体に身も心も委ねる。
「でも、ごめんね。僕の我儘で桜まで」
不意に桜を撫でていた手を離した神魔は、口調を重々しいものに変える。
この事態を招いたのは、神魔が詩織に過去を重ねて固執した結果だ。それによって桜も巻き込まれると分かっていながら、その優しさに甘えていた自分自身を責める神魔に、桜は神魔の手にそっと自分の手を添えて首を小さく横に振る
「いえ、全てはわたくしの意志です。……確かにこうなってしまったのは残念ですが、わたくしは神魔様がどこか知らないところで、わたくしを置いて命を落としてしまわれる事のほうが耐えられません」
そう微笑んだ桜は、無償の愛情と全幅の信頼を込めた視線で神魔を見つめる。
桜にとって神魔は存在意義に等しい。自分が生きている事の意味と等しく――あるいはそれ以上に価値がる事に思えるほど、桜にとって神魔は尊い存在なのだ。
自分のために、神魔を愛して生き、神魔のために死なず、神魔と共に死ぬ。それが、桜が神魔と生涯を共にすると誓った時に自分自身で立てた誓い。
「……そうだね。ありがとう、桜……」
その言葉に、神斗はわずかに朱を帯びた桜の頬にそっと手を添える。
「……ぁ」
まるで口づけでも交わそうとするかのように、頤に手を添えられ、神魔と視線を交わした桜は、拒絶する意志など生まれる余地のない愛情と恥じらいと幸福に身を任せる。
長い睫毛が微かに震わせ、熱っぽく薄紫色の瞳を潤ませる桜は、神魔の身体に添えた手と腕にわずかに力を込め、離さないように、離れないように身を寄せる
「……仲がいいのはいい事だと思うけど、私がいる事を忘れているんじゃないの?」
そうしていると、流れるような漆黒の髪を頭の後ろで一つに束ねたその女性――「瑞希」が、氷麗で凛とした表情で牢の外から静かに声をかける。
「もしかしたら最後になるかもしれないからね。せめて二人の触れ合いくらいは大切にしたいでしょ? 見張りがいなかったら、もう少し色々とできるんだけどね」
当然瑞希の事を失念していない神魔は、軽い口調でそういうと優しく桜を抱きしめる。
「……もう、神魔様ったら」
神魔に優しく抱きしめられた桜は、頬を朱に染めて神魔の温もりに身を委ねる。
「そうね。私も仕事じゃなかったら、そうしてあげたい気分よ」
牢屋の中でされている物とは思えない胸焼けがするような甘いやり取りを見せつけられ、惚気た会話を聞かされる瑞希は、その氷麗な表情を微かに綻ばせてため息をつく。
「なら、二人きりにしてもらいたいかな? 別にここから逃げられると思ってなんていないんだし」
「そうはいかないわ。万が一という事もあるから」
瑞希が見ている事に不満をにじませる神魔の言葉に、瑞希はわずかに口元を綻ばせる。
ここは牢屋とは言っても、全霊命を閉じ込めておけるような力は無い。神能の発動を封じる手段がない以上、この牢屋は罪を犯した者を刑が執行されるまでを入れておく場所でしかない。
そのため、見張りとして瑞希が立っているのだが、牢の見張りは瑞希一人。逃げようと思えば牢を壊して逃げるのは容易だ。しかし、ここにはベルセリオスやそれ以上の力を持った悪魔もいる。
ここで力づくで逃げたとしても、すぐに追いつかれるのは目に見えているし、何よりそんな事をすれば容赦なく命を奪われる事になる。
神魔達は大貴と人間界の取引については何も知らないが、こうして連行されるという事は極刑以外の判決が下る可能性もあるという事だという事も十分に承知している。だからこそ、こうしてなんの拘束もない状態でも大人しくしているのだ
「ちぇ」
「ふふ」
瑞希に一刀両断にされた神魔が不満そうに声を漏らすのを見て、桜は頬を染めて微笑む
(でも、いいものね……全てを許せる相手がいるといものは……)
その様子を氷麗な表情で見ていた瑞希は、その表情にわずかな笑みを浮かべる。
(もし、あれが私だったら……)
瑞希も一人の女性。今は特定の相手や想い人はいないが、神魔と桜の仲睦まじい様子を見ているとわずかな羨望や憧れが湧きあがってくる
そんな事を考えて、ふと神魔に信頼しきった様子で身を委ねている桜の姿を自分に置き換える。
(……私ったら何を考えているのかしら。そんな人並みの幸せを求めるなんて……)
不意にそんな事を考えた瑞希は自嘲するような笑みを浮かべて、その考えを振り払う。
(私は裏切り者。どこにも居場所なんてないんだから……)
そう思い直した瑞希の氷麗な表情には、わずかな影が差していた。
「……!」
「この魔力……」
その時、不意に近づいてきた魔力を感知し、瑞希と神魔が反応する
「神魔様?」
表情を強張らせた神魔に何かを感じた桜は、身体を起こして神魔を見つめる。桜の知覚でも、自分たちと同等の魔力が二つこの場所に来ているのが分かる。
しかし、その魔力は桜の知らない人物の者。此処にいるという事が常時魔界城にいるような悪魔だろうから瑞希が知っているのは当然だが、その人物を神魔が知っているという事は、神魔の知り合いだという事になる。
(わたくしが存じないという事は、わたくしと出会う前のお知り合いという事ですね……)
神魔の知り合いならば、妻として礼を尽くさねばならないと考えた桜は、後ろ髪を惹かれる思いで神魔に預けていた身体を離し、姿勢を正してその客人を迎える準備をする
「……どうしたの?」
「牢の中にいる人に用があって来たのよ」
瑞希の言葉に淡白に答えたのは、燃えるような赤い髪を頭の後ろで束ね、肩を出したドレスのような服の上にケープに似た衣をまとった整った顔立ちの女性。
その芸術的な身体のラインを強調するドレスのような霊衣を纏ったその女性は、決して強く主張はしないが、思わず息を呑むような静かな大人の色香を纏っている。
その女性の背後から姿を見せたのは、腰まで届くような長い黒髪を頭の横で束ね、着物と巫女服を合わせたような白地の着物を身に纏っている。
まるで人形のように整った顔立ちをした清楚で可憐な雰囲気を纏ったその女性は、牢屋の中にいる神魔と視線を交わすと深々と頭を下げた。
「お久しぶりです……お兄さ……いえ、神魔さん」
その視線をまっすぐ受け止めた神魔は、目の前にいる二人を見つめてから口を開く。
「『呉葉』、『紗茅』」
「っ、この方々が……」
その「名」を聞いた桜が軽く目を瞠るのを横目に、神魔は眼前に立つ二人の女悪魔に視線を向けて神妙な面持ちで頷く
「うん、風花の妹たちだよ」
この話の最後に出てきた「紗茅」は、「茅|(かや)」を時計回りに回転させ、上下逆にして「やか」と読んで頂きたかったのですが、字を反転させられなかったので、お手数ですが、皆さんの脳内で「茅」の字を時計回りに回転させ、上下逆にして読んで下さい。