高き理想に咲く花は
「大和撫子同好会」。……それは、古風な日本女性を信奉する集い。
曰く、男の後を三歩下がって歩くような、男を立てる事ができ、時に影となり、時に日向となって男とよりそう穏やかで淑やかな家庭的な女性。
着物を普段から着用していればベスト! との事だが、そこは無理に言及しないらしい。
現在、会長である「火之見櫓刀護」、そして無理矢理数に数えられている「界道大貴」の二名だけが籍をおいている。
いわく、女性の社会進出と、男女平等化によって女性の社会的発言力が強くなった事により、「女性が男性化している」との事。
男女平等とは、男は男らしく女は女らしく、肉体的精神的性別の違いを受け入れつつも、その権利を等しくするものであり、男女をまったく同じに扱うものではない。
どこまで分けて、どこから分けないのかが重要なのであり、女の都合の悪い事はすべてダメで、女の都合のいい事は全てOKという今の社会風潮は男女平等の名を借りた女の横暴だ! とのこと。
ただしその考えが正しいか、それとも被害妄想か、偏見かについては個人の自由な判断に委ねたいところではある。
つまり、大和撫子同好会とは、男女平等の中にあって、女性が女性らしさを見失わず、古き良き、日本女性を愛でようというという考えを持った者達によって結成された集いなのだ。――現在積極的に活動しているのは、会長一人だが。
ちなみに余談ではあるが、この「大和撫子同好会」。会長である火之見櫓刀護の母と姉が、かなり雄々しい方々で、その母と姉に散々いじめられたトラウマの産物だという事を知る者は少ない。
その日、大和撫子同好会会長「火之見櫓刀護」は、スーパーに来ていた。
実は彼女の母と姉は、その超人的な戦闘能力と引き換えにでもしたのか、家事スキルを一切持ち合わせていない。
包丁を持てば、まな板ごと食材を真っ二つに切り裂く。機械のボタンを指先で貫く。得意料理は丸焼きなどなど……言葉にすればキリがないので、火之見櫓家の家計は婿養子である刀護の父「盾一郎」と、刀護によって守られているのだ。
「俺は絶対、家事とかをやってくれる子と結婚するんだ……!」
そんな小言を呟きながら、恨みのこもった視線で食材を手にしたカゴの中に入れていく。
刀護が決意を新たにしていたその時、ふと顔を上げた刀護は、その視界に映ったモノに、その眼を大きく見開く。
「なっ……!」
――そう、それは運命だった。
翌日。登校してきた詩織、大貴、マリアの元に、芥子が切羽詰まった表情で駆け寄ってくる。
「大変だよ詩織! あの馬鹿が……」
「あの馬鹿……って、刀護君が?」
首をかしげる詩織に、もはや動揺を隠せない芥子が何度も首を縦に振る。
「……?」
その様子に、詩織と大貴、マリアの三人は訝しげな表情を浮かべ、そして互いに顔を見合わせる。その視線に促されるように目を向けると、当の本人である刀護が、窓の外に愁いを帯びた視線を向けていた。
「刀護」
「…………」
大貴が声をかけるが、刀護はそれに反応を示さず、呆けたように視線を空に送っている。
「おい」
「っ!?」
大貴が軽く頭を小突くと、さすがに我に返ったのか、刀護が大貴に気付く。
「ああ……大貴か」
「ああ……じゃねぇよ。どうしたんだ? お前がおかしいって愛崎が心配してるぞ」
「心配はしてない。」
大貴の言葉を芥子が淡々とした口調で否定する。
「なあ、大貴……運命って信じるか?」
「……は?」
「ついに壊れたか、この馬鹿」
ふと愁いを帯びた目で囁く刀護に、大貴と詩織、マリアの三人は硬直し、芥子が哀れみの視線を向ける。
「俺、ついに運命の人を見つけたんだ……・」
「っ、な……!?」
その言葉に、その場にいた全員が硬直する。
「この馬鹿のお眼鏡にかなうような女がいたって言うのか!?」
芥子の驚愕もあながち間違いではない。
そもそも「大和撫子同好会」会長を名乗るだけあって、刀護の理想の女性像は現代では絶滅したような古風な女性だ。少なくとも本人はそう、自己申告している。
そのルックスと運動能力からそれなりに女性から好意を向けられることが多い刀護だが、その極端に偏った理想の女性像のために、今まで出会ったほとんどの女性に興味を示さなかったのも紛れもない事実だ。
かつて、芥子が「結局、あんたの理想の女の人ってどんな人なの?」という質問をした事があった。
その質問に対し、刀護が返した答えは、その当時の同級生たちの間では、今や伝説の名言となっている。
「理想? 理想っていうのは、目標じゃない。追い求めるから理想なんだ。だから俺は、常に理想の大和撫子を追い求めている」
その刀護の答えに、芥子が冷ややかに「あっ、そ」と返したやり取りはもはや語り草だ。
そんな訳で、誰もが思っていのだ。「この時代、刀護が追い求めているような子がいるわけない」と。それが現れたというのだから、芥子をはじめ、大貴、詩織の驚愕も当然のことだった。
もちろん、そんな事を知る由もないマリアは、ただ刀護の告白を見ているだけだった。
「へぇ……で、その事はどうなったの?」
「どうもしてない。突然の事に心奪われて、声をかける事すらできなかった……」
悔しそうに言う刀護を見て、詩織が興味津々といった様子で話しかける。
刀護を虜にした女性の事ももちろんだが、単純に年頃の女の子としてそういう話に目が無いというのがどちらかと言えば本当の理由だが。
「で? その人って、どんな人なの?」
その言葉に、恥じらいながらも目を閉じて、刀護は記憶を瞼の裏に再生しながらうっとりとした口調で言う。
「ああ……今でも目を閉じればありありと思い出せる……あの、満開の桜の花のような綺麗な髪を」
「っ!!」
「……桜色の髪? あんた黒髪派じゃなかった?」
刀護の言葉に目を見開く詩織と大貴、マリアの反応に気付いた様子もなく、芥子は刀護に怪訝そうに視線を向ける。
大和撫子たるもの、髪は黒。染めるなど言語道断!!というのが刀護の言い分だった。それが茶色でも金色でもなく、桜色となると、芥子は疑問を禁じ得ない。
「ああ。けど目を奪われたんだ……あんな綺麗な髪見た事無い。あれは染めてるんじゃない。生まれつきの色だ。そうでなきゃ、あんな綺麗な艶は出ない」
「生まれつき桜色ぉ!? そんな人間いるわけ無いじゃない」
しかし、次いで刀護が言った言葉に、芥子はさらに怪訝そうに目を細める。
染めているならまだしも、この国の人間の髪は大半が黒。たまに色素の薄い茶色などがいる程度だ。地毛で桜色など存在するとは思えない。というより、そんな人がいれば大騒動だ。
「ちょっ……マリアさん、大貴! それってまさか……」
「いや……まさか……」
「で、ですよね……」
しかし、その中で刀護が言う人物に心当たりがある詩織と大貴、マリアの三人は、二人に聞こえないように小声で囁き合う。
桜色の髪の大和撫子。そう言われて三人の脳裏には同時にその人の姿ばかりが浮かぶ。
「遠巻きにでもわかる清楚なたたずまい。整った顔立ちはまさに絶世の美貌だった。……淑やかで優雅なたたずまいと仕草で分かったんだ。……この人は完璧な大和撫子だと!」
そんな三人の様子に気付いた風もなく、刀護はうっとりとした表情で話を続ける。
「で、そんな人がどこにいたの?」
「スーパーで食材を買ってた」
「それ、あんたの妄想の産物じゃないの?」
しみじみと言う刀護に、芥子が疑惑の目を向ける。
その言葉を聞いて、思い当たる節がある詩織と大貴が顔を寄せて小声で囁く
「そういえば、昨日買い物に行ったって言ってなかった?」
「ああ……確か、母さんがお使いを頼んだって……」
「はい……確かに」
一瞬の間。もはや疑いようのない事実に、詩織と大貴は今界道家にいるであろう桜色の髪の大和撫子へ想いを馳せる。
「……桜さんだよね、それ」
「しかいないだろ……」
「ですね……」
しかし、だからこそ三人には分かってしまう。刀護の恋は絶対に実らないという事も、あの二人の間に割って入る事など出来る筈がないという事も。
「御愁傷様」
詩織と大貴、マリアが、心の中で合掌した事を刀護は知る由もなかった。
その日も何事もなく学校が終わり、詩織、大貴、マリアの三人に刀護、芥子を加えた五人は、いつものように帰路についていた。
「~~っ」
「その人」の事を思いだしているのか、日がな一日中あらゆる事が上の空の刀護を気味悪そうに見て、芥子が詩織に話しかける。
「ねぇ、どう思う?」
「え、どうって?」
「あの馬鹿の言ってた事。あいつが言う様な人なんて、あいつの妄想の産物じゃないかと思うんだけど」
芥子の言葉に、詩織は言葉を引き攣らせる。
「え!? えぇっと……ど、どうかなぁ?」
刀護が言っている人物が「桜」である事は、刀護と芥子以外の三人には分かっている事だが、それを話してしまえば、事態がややこしくなる事は目に見えている。
(でもよかった、ここに桜さんがいなくて……)
心の中でそんな事を考えながら、詩織が胸を撫で下ろしていると、隣を歩いている芥子の足が不意に止まる。
「ポピーちゃん?」
「し、詩織……あれ……」
まるで幽霊でも見たかのように身体を硬直させ、わずか震える手で指し示した方向を見て、詩織は言葉を失った。
「っ!!」
そこには、季節外れの桜が咲いていた。
そして、それが見慣れた人物の一部である事を瞬時に理解する。癖のない艶やかな桜色の髪。普段は下ろしているその髪を束ねた絶世の美女が静謐に佇んでいた。
(さ、最悪のタイミングだーーーーーっ!!!!)
「あ……ああ……」
絶世の美貌と、桜色の髪というこの世ならざる容姿。神話の世界から抜け出したかような、その幻想的で神秘的な存在を前にして言葉を失う芥子と刀護の横で、詩織、大貴、マリアの三人は、心の中でこの最悪の邂逅に頭を抱える。
「今お帰りですか?」
そんな詩織達の心労など知る由もなく――あるいは、何か気付いていたのかもしれないが、桜は詩織達にいつものようにおしとやかに花のような笑みを向ける。
「は、はい……」
頷きながら、詩織は眼の前の桜を見る。
今日の桜は、普段の羽織を纏った着物姿ではなく、袖の長いセーター風の上着にロングスカートという出で立ち。首から上と、手以外には肌を見せず、落ち着いた色合いでまとめられた質素でありながら清楚な印象を受ける洋装を身に纏った桜は、普段のイメージとは異なるが、思わず息を呑むほどに美しい。
さらに、着物よりは体型を推し量りやすい洋服は、その上からでも、神の芸術、あるいは神の如くと比喩しても差し支えが無いほどに完成された無駄のない理想的で完璧なスタイルをはっきりと感じさせる。
余談だが、桜の服は購入したものではない。全霊命の纏う霊衣は、それぞれの神能が防御の形に顕現したもののため、神能を操作し、意図的にイメージで上書きする事で、衣装の形を変える事が出来る。
町の中で活動する際に目立たないようにと霊衣を変化させた桜だが、容姿や身体の色彩までは操れないため、特徴的な桜色の髪はそのままだ。
「ちょっ、詩織!!」
「きゃっ」
その姿を見た芥子は、桜が親しげに話しかけた詩織を捕まえ、桜に背を向けて耳元に囁きかける。
「何、知り合いなの!? あの化け物と!!」
「いや、化け物って……」
芥子の言葉に、詩織は思わず苦笑する。
芸術品と見紛うばかりの整った清楚な美貌は、異性のみならず同性も息を呑んでしまうほどに美しく、触れる事すら憚られるほどに神々しい。
まるで神の彫像のごとき美しさを持ったその女性は、この世のものとは思えないほど幻想的で神秘的な美しさを孕み、清楚で淑やかなその内面を見ている者に嫌味なく、しかしはっきりと認識させる。
嫉妬や対抗心など微塵もわき起こらない。ただ茫然としてその神々しい美しさに目も心も奪われ、呆けたように佇んでいる事しかできない。
「化け物でしょ、アレは! っていうか、あれ人間!? あんな生き物の存在が許されるの!?」
「ポピーちゃん……」
この世に存在している事が疑問に思える完全な美しさを宿しているように思える桜に、芥子はまるでおとぎ話の登場人物にでも会ったかのような驚きを伴った声で詩織に話しかける。
(まあ、人間じゃないっていうか……このやり取り、マリアさんの時にもやったような……)
そんな既視感に見舞われながら、桜は乾いた笑みを芥子に向ける。
「…………」
その様子を見ていた桜が、不意に目元を緩める。
「う、美しい……」
そんな桜の笑みに、思わず刀護の口から言葉が漏れる。
刀護や芥子には知る由もないが、そもそも桜はこの世界の人間ではない。そのため、桜はこの世界の人間では決して持ち得ない美しさと存在感を有している。詩織や大貴のように耐性が無い芥子や刀護がその美しさに呑まれてしまうのは当然であり、仕方がない事だった。
「詩織さん達のお友達ですか?」
澄み渡った清流のような清らかな声に、まるで国王に拝謁した庶民の如き緊張に、身体を強張らせた芥子と刀護が順に自己紹介をする。
「あ、愛崎芥子です」
「火之見櫓刀護です」
「ご丁寧にありがとうございます。わたくしは、桜と申します。これからも詩織さんや大貴さんと仲良くしてあげてくださいね」
自己紹介をした二人に、目を瞠るほどに優美な所作で桜が一礼する。
「大貴!!」
「?」
その流麗な所作に見惚れていた刀護は、ハッと我に返って大貴を捕まえて桜に背を向ける。
「おま、お前、桜さんと知り合いなのか!? どんな関係なんだ!?」
「関係、って言われても……知り合いっていうか、なんていうか……」
齧りつくような勢いで耳元で囁く刀護の質問に曖昧に答えを返す大貴に、刀護は今にも泣き出しそうな声音で大貴に言う。
「何で、俺に教えてくれないんだよ!? どう見ても俺の好みドストライクの大和撫子じゃないか!! そうだろ!? 親友!!!」
(そう思ったから言ってないんだよ。絶対ややこしい事になるだろ!)
小声で叫ぶ親友の慟哭に、本心を言える筈もなく、かと言って本当の事を言える訳もなく、大貴は言葉を濁す事でその場をやり過ごす。
「いや、なんて言うか……すまん」
「あの……」
「あれは気にしないでください。それよりも、桜さんは何でここに?」
大貴と刀護のやり取りに首をかしげる桜に、マリアが同情と苦笑がない交ぜになった表情で応える。
「ええ、少々手紙を出してきたところです」
「手紙?」
マリアの質問に答えた桜の言葉に、詩織が首を傾げ、大貴も怪訝そうな表情を見せる。
この世界に知人と呼べるような人がいない桜にとって、差出人がいないはずの手紙など無用の長物であるはずなのだ。しかしその疑問に桜が答える。
「はい。何でも雑誌の懸賞というものに応募なさるそうで」
「ああ、お母さんか……すみません、桜さん」
桜の言葉で「手紙」の意味を理解して、詩織が謝辞を述べると、桜が小さく首を横に振って見せる。
その時に微かに揺れる桜色の髪が、まるで風に舞う桜の花弁のように舞い踊り、その楚々とした美しさに芥子と刀護が息を呑むのが伝わってくる。
「いえ薫さんは、何かに理由をつけて、わたくし達が家の中ばかりにこもっていないようにと気を使って下さっているのですよ。」
「……達?」
「はい」
桜の言葉に首を傾げた芥子の傍らで、詩織はその言葉の意味するところを瞬時に、そして正確に理解していた。桜と「達」という括りで数えられる人物など、一人しか考えられない。
「偶然だね」
すると、まるでそのタイミングを見計らっていたかのように、黒を基調とした洋服に身を包んだ神魔が顔を出す。
町中で目立たずに行動するために普段の霊衣ではなく、黒の洋服を纏った神魔は、その顔立ちとあいまって穏やかそうな好青年に見える。
「っ、神魔さん」
突如現れた想い人に、詩織の頬が一瞬火照る。
「レジが混んでいたので、神魔様が先に行っているようにと言って下さったんです」
神魔の姿を見止めた桜が、特に説明を求められたわけでもなく幸せそうに微笑んでわずかに頬を染める。
それは、まるで秘密のデートの時に知人と出会ってしまったような、どこか苦しい言い訳にも似た惚気た言葉。
「お待たせ、桜」
「今お帰りだそうですよ」
詩織達とその友人たちに軽く会釈をした神魔の元へ、桜がそっと寄り添う。
「あの……そっちの人は?」
なかなかに整った優しげな好青年と、わずかに頬を朱に染めた絶世の美女。当然のように寄り添い合う二人の、あまりにも絵になるその光景に芥子は詩織に問いかける。
「あ、あの人は『神魔さん』っていって、桜さんの旦那さんだよ」
詩織の説明に、芥子と刀護が硬直する。
「だっ……!!!」
特に、羨望の眼差しを向けていた刀護は、まるで天上の楽園から地獄の底に突き落とされたような絶望に打ちのめされていた。
(瞬殺。……って、まあ、あれが一人身な訳ないか)
内心で納得しながら、芥子は寄り添う神魔と桜に視線を向ける。
同性である芥子から見ても非の打ちどころのない美人である桜が、独身であるはずがないと、芥子は心の中で納得する。
もちろん美人過ぎて声をかけられないという可能性もあるが、それは置いておいても寄り添い合う神魔と桜はまさに理想の夫婦だった。
「じゃあ、僕達が一緒だと気を使うだろうから、先に帰るね」
「あ、はい」
神魔の言葉に頷いた詩織は、しかし神魔に寄り添う桜が刀護から一歩離れるのを見た。
「神魔様、少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「え? それは構わないけど……」
突然の桜の言葉に神魔が応じると、桜は目を瞠るほど流麗な仕草で恭しく一礼する。
「ありがとうございます」
頭を上げた桜は、芍薬のように立ち、その手の中に夜桜の魔力で小さな花びらを生み出す。
神魔と桜は人間に化ける事が出来ないため、今も悪魔のままであり、周囲に影響を出ないように抑えているが、身体からは魔力を放出している。
ただ容姿がかろうじて人間に近いため、霊衣からこの世界の服に着がえればなんとか溶け込めるという程度にすぎない。つまり、本人たちの意思一つでいつでも魔力を行使することができる。
「なっ……!?」
突然桜の手の中に生まれた花びらに、刀護と芥子が息を呑む。
刹那、風に舞ったかのように空を踊った花弁は、刀護と芥子を包み込んでから消失する。
「……桜さん?」
身体から力が抜けたように脱力し、目の焦点が合っていない芥子と刀護を見て桜が穏やかな笑みを浮かべる。
「わたくしは少々目立ちますからね。申し訳ありませんが、わたくし達にかかわる部分だけ記憶を消させていただきました」
「そう、ですか……」
簡単に説明をした桜は、その場で身を優美に翻して神魔の隣に寄り添う。
「もういいの?」
「はい。お手間をおかけいたしました」
いつものように隣に寄り添った桜を見てわずかに首を傾げた神魔だったが、それ以上桜に何かを尋ねる事無く気を取り直して自らの伴侶に声をかける。
「じゃあ帰ろうか、桜」
「はい、神魔様」
神魔の言葉に頷き、その横に寄り添うその姿を見送って詩織は息を呑む。
(違う。桜さんは気付いてたんだ。刀護君が桜さんに好意を寄せてた事……)
脱力した刀護と芥子を見て、詩織は確信に近い感覚を胸に抱く。
おそらく桜はかなり早い段階で刀護の気持ちに気付いていた。・・とはいえ、かなり分かりやすかったためそれなりに鋭い人物ならすぐにでも気付けただろう。
「ま、記憶を消せば失恋した事も忘れるか……」
二人の背を見送って、刀護と芥子に視線を向けた大貴が呟く
「それだけじゃありませんよ」
「?」
「この二人があなたたちの友人という事は、神魔さんと桜さんがあなたたちの知り合いだと知ってしまったという事です。
記憶を消されなければ、このまま私たちは二人の素性を聞かれたでしょうし、それを曖昧に誤魔化しても調べられてはひとたまりもありません。まして、それを学校などで言いふらされたり、あるいはなんだかの手段で彼らからマスコミなどに情報が流れては事ですから……その都度記憶を改竄するのも面倒ですしね」
桜の容姿は目立ち過ぎる。この世界ではありえない生来の桜色の髪。さらにそのこの世ならざる美貌もそれに拍車をかけている。
九世界非干渉世界であるこの世界で九世界の事を話す訳にはいかない上、桜本人としてもそういう煩わしいのは遠慮したいのだろう。
(そう言えば、桜さんみたいな美人が町中を歩いてて、そういう業界の人とかに声をかけられなかったとは思えないな。……もしかして、いちいち記憶を消してたのかな?)
「ま、確かに誤魔化すよりも記憶を消した方が早いか」
「それだけじゃないと思います……」
「と、言いますと?」
マリアの問いかけに、詩織は慎重に言葉を選びながら口を開く。
「多分ですけど……桜さんはこの世界の存在じゃなくて、九世界の存在ですから。マリアさんみたいに人間の姿になれない桜さんは、悪魔の姿のままです。
だからこの世界の基準から大きく外れている自分を基準にして考えないように、刀護君が自分を忘れてくれるように願って、桜さんは刀護君達の記憶を消したんだと思います」
(なるほど……そこまでは思いつきませんでしたね)
詩織の言葉に、マリアは内心で感嘆し、大貴も「なるほど」関心しながら頷いている。
全霊命が殺気で半霊命を殺せるように、全霊命の存在は、半霊命にとって、天上の存在そのもの。
決して届かない存在。手を触れる事すら――そう考える事すらおこがましく思えるほどの存在である全霊命の持つ永遠にして不変でありながら、一瞬の幻のごとき美しさは、決して半霊命には持ち得ないものだ。
桜の絶世の美貌は、あくまで悪魔である彼女だからこそ持ち得るものであり、半霊命――このゆりかごの世界の人間には永遠に手に入れる事が出来ないものだ。
例え刀護が桜の事を人妻だと諦めても、その美しさを記憶として持ち続けている限り、それを求めてい舞いかねない。しかし、全霊命以外が持ち得ない美しさを追い求めても手に入るはずがない。
だからこそ桜は刀護の記憶を消し、理想を理想のまま、夢想と幻想として刀護に残す事にしたのだ。――他ならぬ刀護のために。
「さすが……」
(いえ、あなたにはよく分かるんですね。彼と同じように、決して届き得ない存在に恋し、自分でも敵わないと分かり切っている相手に嫉妬し続けているあなたには……)
マリアは、詩織にかけようとした称賛の言葉を遮って、切なく苦しい感情に身を焦がしているであろう詩織が見送っている方向へ視線を向ける。
決して叶わない恋に身を焦がし、決して敵わない恋敵と向かい合う詩織は、誰よりも刀護と桜の気持ちが理解できた。なぜならば、それは詩織が抱いている想いそのものなのだから
「でも私は……忘れたくはありません……」
小さな……今にも消えてしまいそうな小さな声で、詩織は神魔と桜が去った方向へ視線を送っていた。
翌日。
「なんか、すげぇいい事があったような気がするんだよなぁ……」
「すごくいい事?」
机に頬杖をつき、眉をしかめた刀護の言葉に、芥子が首を傾げる。
「あぁ……例えば俺の好みに合う絶世の大和撫子とお知り合いになったような……」
「……!」
刀護の言葉に、事情を知っている詩織、大貴、マリアの三人はわずかに目を見開くが、すぐさま芥子の冷淡な言葉が刀護の向けられる。
「はあ? あんたついに頭おかしくなったの?」
「そんなことねぇよ! 例えばって言っただろ?」
「随分具体的な『例えば』ねぇ」
疑惑の視線を向ける芥子に、刀護が抗議の声を上げる。
「何だよその目は!? バカにしてるのか?」
「えっ!? 馬鹿にされてないと思ってたの??」
「お前ぇ……」
芥子と刀護のいつも通りのやり取りに、大貴が呆れたようにため息をつき、詩織とマリアは微笑ましそうに視線を送る。
(記憶が無くなっても、刀護君は結局刀護君か……)
(さすがに気が利く桜さんでも、あの性格が元からって言うのは気付けなかったみたいですね)
「いい加減に諦めて、普通の子で彼女でも見つけたら?」
「嫌だね。俺は夢に生き、理想に死ぬ男なんだ」
「バッッッカじゃないの」
得意気に言い放った刀護に、かなりの間を貯めた芥子の暴言が浴びせられる。
(この二人……もしかしてお似合いなんじゃないか?)
いつものやり取りに辟易しながら、大貴は落胆のため息をつく。
高き理想に咲く花は、水面に映る虚像の如く
手にしようと掴んでも、掌の中からこぼれ行く。
高き理想に咲く花は、天に煌めく月のごとく
手を伸ばしても、その手は虚しく空をきる。
「俺は、大和撫子と恋をするんだ!!!」
高き理想に咲く花は、それでもこの心に咲き誇る。――。