彼にもあった浮いた話
「うぅ……」
「……痛ぇ」
「化け物め……」
苦痛に呻く声が聞こえる。それは足元に転がった数人の男たち。
屈強な身体つきをした男達。だがそれは、その辺の不良など足元にも及ばない存在だ。その周囲に転がる鈍い光を放つ物体がそれを証明している。
「……退屈だな。某国と密輸取引をしている組織だというから、どの程度のものかと思えば……」
その中に、一人佇む一つの影があった。
腰まで届く漆黒の髪。切れ長の目。整った顔立ち。一見すると凛とした美女という印象を受けるその女性は、その拳から血を滴らせている。
それは、女性のものではない。足元に転がっている男たちの物だ。手を軽く振り払ってからその身をひるがえす。
「やはり、私を満足させられるのは君だけだ。……ダーリン」
その麗しい顔立ちに似合わない獣のような笑みを浮かべた女性は、そう言い残すとその場を悠然と立ち去っていった……。
平日のある日。夕暮れの道を、詩織、大貴、マリア、芥子、刀護の五人が一緒に下校していた。
「はぁ、何で勉強なんてしなきゃいけないんだ……。大人になって因数分解が必要だって言うのか? 普通の計算と、お金の計算さえできればいいじゃないか!?」
「同感」
憂鬱な表情で肩を落とす刀護に、詩織が同意を示す。
「こらこら二人とも。そういうので、ビルもゲームも出来てるんだよ?」
「……ったく」
そんな二人の言葉に、芥子と大貴がため息をつく。
「その通りです。教育機関というのは、社会の最も小さな縮図なんですよ。校長先生が社長さん、先生が課長や係長さん、同級生や先輩後輩がいて、社会の仕組みや、その中で生きていく術を学ぶ場所なんです。
社会に出れば、自分のしたくない仕事もしないといけない時が来るかもしれません。でも、嫌だと思ってやるのではなく、やりたい事しかやらないのではなく、その中ででも楽しい事ややりがいを見つけて、自分の力として学んでいくために勉強をするんですよ」
優しく諭すように言ったマリアの言葉に、他の面々からの視線が集まる。
「…………」
「あの……どうかしましたか?」
「いやぁ、随分説得力のある話だな、と……」
ややひきつった笑みを浮かべる芥子に、刀護が首を縦に何度も振って同意を示す。
(この間まで学校の仕組みも知らなかったような……そう言えば、勉強もやたらと出来るし……マリアさんってすごい人なのかも……)
詩織と大貴は、芥子と刀護とは全く違った意味でマリアに驚いていたのだが、それを知る由は無い。
元々必要な常識と知識を持って生まれてくる全霊命にとって、教育機関というのは円の無い者だと、話には聞いている。
しかし、学んだのか、知っていたのかは知らないが、勝っての分からない教育機関に完全に適応しいてるマリアには、詩織も大貴も驚嘆していた。
「でもそれは、出来る奴の言い分なんだ。俺達社会の落ちこぼれには、ついていけない世界なんだ!? そうだろ、詩織ちゃん!?」
「え? 私はそこまでは……」
やや演技がかった様子で言う刀護に、詩織は苦笑交じりに答えながら半歩後ずさる。
「ほっとけ。ただの現実逃避だ」
大貴が呆れたようにため息をつく。
「大貴」
「非道い! この外道鬼畜!!」
大貴の言葉に、詩織と刀護が抗議の視線を向ける。
「ふふ……」
そんな気の置けない友人同士の会話を聞きながら微笑むマリアは、まるで子供を見守る母親のような慈愛に満ちた優しい眼差しを向ける。
存在自体を忌み嫌われ、友人らしい友人のいないマリアにとって、このような友達同士の会話は羨ましく、微笑ましいものだ
そんな取りとめのない会話をしていると、不意に力強い心臓の鼓動のようなエンジン音が響き、大貴達の前に、一台の大型バイクが急停車する。
「お、っと」
「危ねぇ……な……」
急停車したバイクに、思わず語気を強めた刀護は、目の前にとまったバイクを見てその語気を弱める。
その語調は、まさに竜頭蛇尾。力強かった最初の声はすっかりそのなりを潜め、刀護はまるで何かに怯えるように身体を震わせる。
「どうした?」
そんな刀護の様子に、前を歩く男二人の隙間から芥子が前に止まったバイクに視線を向ける。
芥子の視線の先に停まっている大型バイクに乗っているのは、体のラインを際立たせるライダースーツが成熟した体型の女性だと教えてくれる。その大型バイクから降りたその女性は、おもむろにかぶっていたフルフェイスのヘルメットを取り去った。
「げっ!」
「……あ」
その中から現れた顔に、刀護の顔が青褪め、大貴の顔が引きつり、覗き込んでいた芥子と詩織が声を漏らす。
フルフェイスのヘルメットの下から現れたのは、腰まで届く黒髪と、切れ長の鋭い目を持つ整った顔立ち。モデルのような細く引き締まった体型に、女性にしてはやや高めの身長が極めて印象的な美女だ。
「?」
そんな詩織と芥子の様子に、マリアが首をかしげていると、ヘルメットを取った女性が口元を歪めて笑みを向けてくる。
それは、口角をわずかに釣り上げただけの笑み。そしてその笑みを浮かべて威風堂々と仁王立ちするその姿は威厳に満ちており、まるで女戦士を彷彿とさせる。
「久しぶりだな、ダーリン」
「……えっと……」
目の前の女性から紡がれた予想外の言葉に、珍しく大貴が言葉を詰まらせる。
「あの、あの方は……?」
明らかに動揺している大貴の様子に訝しげな視線を送ったマリアは、囁くような小さな声で隣にいる詩織に声をかける
「ああ、あの人は亜弓さん。『火之見櫓亜弓』さんです」
「火之見櫓って……」
軽く目を瞠るマリアに、芥子が淡々とした口調で言う。
「そ、刀護のお姉さんよ」
「……そうなんですか」
(確かに、刀護さんと顔立ちはどことなく似ているような……)
そんな事を考えながら、亜弓と呼ばれた長身の美女を観察していたマリアは、次の瞬間背筋に冷たい者を感じて反射的にその場から飛び出す。
「っ!?」
刹那、空気を震わせる衝撃波と、轟音が周囲に響く。
一瞬にして大貴との間合いを詰めた亜弓は、その長い脚を鞭のようにしならせて一瞬のうちに四度。しかも左右同時に連続の鋭い蹴りを放っていた。
常人には回避はおろか、反応すらできないであろう鋭い攻撃、しかし、咄嗟に飛び出したマリアは、その手で亜弓の蹴り全てをはじき返していた。
「なっ!?」
「っ!!」
それに亜弓が目を見開き、刀護と芥子が同時に息を呑む。
マリアの能力を知っている大貴と詩織は、別段驚いた様子も無くその光景を眺めている。
「マリアちゃん、凄……っ」
「姉貴の攻撃を、あの位置から全部防ぐって……」
目にもとまらない攻撃の応酬に息を呑む芥子と刀護の眼前で、全ての攻撃を防がれた亜弓は瞬時に後方に飛び退く。
「驚いたよ。まさか私の攻撃を防げる奴が、お爺様と母上、ダーリン以外にもいるなんて……本当に世界は広い……!」
マリアから距離とった亜弓は、そう言いつつも歓喜に満ちた獣のような表情を浮かべる。
(この表情……)
その表情は、マリアにとってなじみ深いもの。戦場で強者に出会い、歓喜している姿。全霊命ほど純然としたものではないが、亜弓のそれはそれに近いモノを宿している。
つまり亜弓は、自分の攻撃を防いだマリアという存在との出会いと、これから行われるであろう戦いに歓喜しているという事になる。
(咄嗟に防いでしまったけど、失敗だったかもしれません……)
マリアが天界から与えられた役目は、大貴の護衛。だからこそ、大貴に攻撃を加えようとした亜弓から咄嗟に大貴を守ってしまったが、それが少々早計だったかもしれないと内心で自分の行動をわずかに悔いる。
「っ、一体何なんですか!? 突然攻撃してくるなんて……っ!」
しかし、やってしまった事を無かった事に出来る筈がない。マリアは、一瞬頭をよぎった不安や懸念を振り払って目の前の亜弓に視線を向ける。
「スキンシップだよ。私とダーリンの」
「スキンシップ……?」
首をかしげるマリアに、背後から顔を出した詩織が説明する。
「亜弓さんって、昔から強い人に目が無くて、会う人会う人にあいさつ代わりに攻撃を仕掛けてて……大貴だけが、唯一亜弓さんの挨拶代わりの攻撃を無傷で防いだんです」
「ああ。あの時の衝撃は忘れられない……家族以外で私の攻撃を防がれたのは、ダーリンが初めてだ。……あの瞬間から、私はダーリンに心を奪われてしまったんだ」
詩織の説明に、亜弓が頬を染めて恥じらいの表情を見せる。
「……どこの女戦士だよって感じだな」
それに小声で呆れたように呟いた刀護の言葉は、その場にいる大半の心情を表わしたものだったが、それに反論する者もいない。
刀護や、亜弓と付き合いの長いマリア以外の面々にとって、このやり取りがいかに無意味なものかというのは身に染みて分かっている事だからだ。
「えっと……」
状況に困惑したマリアが視線を向けると、詩織はそれを説明を要求されていると受け取って、話を続ける。
「私も詳しくは知らないんですけど、刀護君のお家って、結構古くからある「なんとか流」っていう実戦武術の道場なんですって。……それで亜弓さんは、そこの師範代。家の中でも二番目くらいに強い人らしいんです」
その詩織の説明に、亜弓は腕を組んでしたり顔で応じる。
「フム、それは少し違うな、詩織ちゃん。家で一番強いのは、祖父の『大矛』。次が母の『斧香』だ。私は三番目だな」
「……だそうです」
亜弓の説明を受けて、詩織が苦笑するのを横目に、芥子が意地の悪い視線を刀護に向ける。
「ちなみにあんたは?」
「あんな超人的化け物と一緒にするなよ。姉貴は武者修行とか言って、母親と何も持たずにジャングルにもぐったり、野生の獣に喧嘩を売ってみたりしてるんだぜ? いくらなんでも俺はそこまで人間やめてねぇ」
「なにを情けない事を言っているんだ? 私がダーリンに嫁いだら、家はお前が継ぐんだぞ!? この愚弟め」
芥子の言葉に抗議する刀護に、亜弓が呆れたように言う。
「お断りだね。それなら大貴に婿に来てもらえよ」
「ム……それも捨て難いな」
「おい。俺に拒否権は無いのか?」」
亜弓と刀護の姉弟会話に、大貴は肩を落とす。
どうやらこの姉にしろ弟にしろ、大貴と亜弓が結婚する事を前提に考えているらしい。
「大貴」
そんな大貴の肩に手を置いて、刀護が真剣な眼差しを向ける。
「俺に、それを否定する度胸があるように見えるか?」」
「威張って言うな」
情けない事を格好いい表情で堂々と言い放つ刀護に、大貴は呆れ交じりの視線を返す。
「……えっと……」
そんなやり取りを見て困惑の表情を浮かべるマリアに気付かないのか、刀護が半泣きにも似た表情でさらに言い放つ。
「俺ん家では、爺ちゃん以外に家の女性陣に頭が上がる奴なんていないんだよ!!」
恐怖で身体を震わせる刀護の様子を見て、芥子はマリアに囁きかける。
「まあ、そんな訳で頭の上がらない男勝りな母と姉に散々トラウマを植えつけられた弟は、あんな感じになってしまった。と」
「あんなですか……」
芥子の言っているのが、刀護が高らかに宣言する「大和撫子同好会」の事を指していると察したマリアは、納得と哀れみの視線で刀護を見る。
「何というか……御愁傷様ですとしか言えませんね」
「ま、ある意味で被害者だからねぇ、あの馬鹿も」
必死に笑いをかみ殺す芥子の言葉を詩織が引き継ぐ。
「えっと……それで、それ以来亜弓さんは定期的に大貴に挑みかかってくるんですよ」
「挑みかかっているというのは、大いに語弊があるな。あくまでも私達なりの愛情表現――スキンシップというやつだよ。お義姉さん」
含みを持たせた亜弓の視線に、詩織は苦笑する。
確かに、大貴と亜弓が結婚したら、詩織は亜弓の義理の姉という事になる。しかし大貴と詩織は双子の姉弟で亜弓から見れば年下だ。そんな年上の相手に、義理とはいえ「姉」呼ばわりは、詩織に複雑な感情を抱かせる。
「それに、姉貴がやってるのは正面切ったストーカーだからな……っ!?」
嘲るように言った刀護は、一瞬にして顔をひきつらせる。
その視線の先には、鬼人のごとき表情で、獣の笑みを浮かべる姉が佇んでいた。
(っ、ヤバイ……)
「本当は、ダーリンとスキンシップをして終わりにするつもりだったんだが……どうやらそんな訳にはいかなくなったよ」
全身から闘気を噴き上げた亜弓は、まるで武装した戦士のような洗練された殺意をマリアに向ける。
「……!」
(ゆりかごの人間にしては、かなり強い『界能』の力……! これは驚きましたね)
亜弓の身体から噴き上がる闘気に、マリアは内心で感嘆の声を漏らす。
「そう言えば、名前をまだ聞いていなかったな。――皓満真月流戦武術師範代・火之見櫓亜弓だ」
「マリア……マリア・ヘヴンズワールドです」
うっかり偽名を忘れかけていたマリアは、ふと思い直して、今名乗っているこの世界での偽りの名を名乗る。
「マリアか」
それを特に気にとめた様子も無く、亜弓は好敵手として自分の記憶に刻みつけるようにマリアの名を呼ぶと、戦闘態勢を取って拳を握りしめる。
「……いざ尋常に勝負!!」
「拒否は……出来ないんでしょうね」
充実し、身体にめぐっていく力を知覚しながら、マリアはそれが無駄であると分かっていても、一応確認の声を向ける
「ああ、もちろんだ! ダーリン以外で私の攻撃を防いだ強者。……ここで戦わなければ、女が廃るってもんだ!!」
当然と言うべきか、必然というべきか、マリアの言葉を退けた亜弓が威風堂々と言い放つ。
(廃らないと思うんですけど……)
詩織は、内心でそんな事を考えるが当然口には出さない。
「困りましたね……私は必要以上の戦いを望まないんですが……」
「平和主義も何も知った事じゃない! いや、それを貫きたければ、力づくで私を退けるんだね! ……女なら、拳で語れ!!」
それでもなんとか争いの矛を収めようとするマリアの言葉に、亜弓は獣すらたじろぐ様な狂気の眼差しを向ける。
(あぁなった姉貴は止まらねぇんだよな……)
(いやぁ……むしろ逆なんじゃ?)
(女の子は拳じゃ語らないと思う)
刀護が肩を落とし、芥子は内心でそんな事を考える。
芥子自身、刀護のように古風な女性像を理想としたりはしないが、さすがに拳で語るのはないな、と思っているため、一応内心でこっそりと亜弓の言葉に意を唱えておく
「マリア」
「……大丈夫です。それに、彼女の標的は私のようですから」
援護を申し出ようとした大貴を制して、マリアは目の前の亜弓に視線を向ける。
(この身体で戦うのは、あまり得意ではないんですが)
そう言って、マリアは持っていたカバンを詩織に預ける。
人間と天使の混濁者であるとはいえ、マリアは基本的に天使の姿で戦う事がほとんど。
物心ついたときから天界の王宮に半ば軟禁状態でいたため、天使以外と触れ合う機会など無かったという事もあって、人間の姿での戦闘経験は限りなく皆無に近い。
「はあっ!!!」
しかし、そんなマリアの考えなど知る由もなく、亜弓は力強く地を蹴る。
刹那、その姿を陽炎のように消失した亜弓は、瞬き一つほどの間にマリアとの距離を一瞬にしてゼロにする。
「疾っ……」
芥子の驚嘆の声を聞きながら、刀護は姉の動きに眉をひそめる。
(おいおい、素人相手に本気出しすぎだろ?)
この場にいる人間の中では刀護以外知らない事だが、火之見櫓家が代々身内のみで相伝してきた武術――「皓満真月流戦武術」とは、人が人ならざるモノと戦うために生み出されたとまで言われる戦闘術。
古今東西、あらゆる武器、武術はもちろん、医術、暗殺術、魔術、陰陽道などといったモノまで組み込み、独自の体系で進化させた武術なのだ。
格闘技とは異なり、戦場で生き残るためにいかなる非道な手段を用いようと、勝ち残るための「戦う術」であるこの戦武術は、本来なら、多少運動能力が優れている程度で、相手が出来るようなモノではない――はずだった。
それを分かっている刀護は――否、それを分かっているからこそ、誰よりも驚愕に目を見開く。
「……っ!」
一瞬で間合いを詰めたのは亜弓。しかし、その動きにマリアは完全に対応し、亜弓が繰り出した拳と蹴りの連続攻撃全てを軽やかな身のこなしで回避したのだ。
「っ、やるじゃないか……」
笑みを浮かべながらも、信じられないといった様子の亜弓とは裏腹に、マリアは亜弓の攻撃を冷静に見つめていた。
(若干とはいえ、「界能」を用いて強化された攻撃。……ゆりかごの人間にしてはやはり高度な技術ですが……やはり、このくらいのものでしょうね)
同じ「人間」とは言っても、亜弓とマリアでは根本が異なる「人間」だ。亜弓がゆりかごの世界――「地球」と呼ばれるこの地で生まれた人間であるのに対し、マリアに混じった人間とは、光と闇の力を同時に持つ神「光魔神」の系譜に連なり、九世界を統べる「正統な人間」。
同じ人間、同じ半霊命であっても保有する存在の力の量も質も、桁も、規模も全てがマリアとは違いすぎる。
さらに、この世界よりも霊的な力の扱いに長けている九世界の出身者であるマリアにとって、慣れない人間の身体でもその霊的な力である「気」をほぼ完全に扱う事ができる事も、二人の実力に開きをつけている原因の一つだった。
「まだまだぁ!!」
しかし、そんな事を知る由もない亜弓の攻撃は止まらない。その長い脚からくりだされる脚がまるで鞭のようにしなり、槍のようにマリアに向かって奔る。
それを身体を捻って何なく回避したマリアが後方に飛ぶと、空を切った亜弓の蹴りがそこにあった金属製の道路標識を真っ二つにへし折る。
「ちょっ、嘘ぉ!?」
「人間業じゃないね……」
それを見て、詩織と芥子が驚愕に思わず言葉を失う。蹴りで道路標識を示すための金属性の支柱をへし折るなど、もはや人間の所業とは思えない
「ハハッ! 滾るね!!」
マリアがいともたやすく自分の攻撃をよけていくのを見て、亜弓が抑えきれない歓喜の笑みを浮かべる。
長年戦いに明け暮れてきた亜弓は、目の前の可憐な少女の実力が、自分の予想以上であった事を瞬時に理解して内心で舌打ちしていた。
とても可愛らしく、可憐な花のよう。簡単に手折られてしまいそうな目の前の金髪の少女は、その見た目にそぐわない人智を超えた生き物なのだと亜弓は理解していた。
「さあ! もっといくよ!!!」
高らかに宣言した亜弓は、全ての攻撃の速度を上げる。
(これで終わりにします!!)
まるで旋風のように荒れ狂う拳と蹴りの乱舞。並みの人間には回避するどころか、目視する事すら不可能であろう攻撃を、マリアは流れるように受け流し、すれ違いざまに掌底を見舞う。
「……っ!!」
マリアの攻撃が亜弓を捉え、その身体をその衝撃が駆け抜ける。
瞬間大気が軋んだかのような威力によって生じた波動のような衝撃が亜弓の身体を貫く。
「っ……がっ!!」
この世界の正統な人類の「気」によって強化された掌底での打撃。しかしその霊的な力の扱いに慣れたマリアの攻撃は、百戦錬磨の亜弓ですら経験したことが無いほどの圧倒的破壊力を以って亜弓の身体を吹き飛ばす。
「しまっ……」
(力を入れ過ぎ……っ)
掌底の威力に宙を舞う亜弓を見て後悔するマリアだが、それは時すでに遅い。まるで砲丸投げの玉のように吹き飛ばされた亜弓の身体は、そのままコンクリートの地面に叩きつけられ、その勢いのままに地面を数度跳ねてようやく止まる。
「……嘘」
その光景に、その場にいた面々はもちろん、少し前からその光景を眺めていた通行人達も思わず言葉を失う。
可憐な少女が、同じ女性とはいえ人一人を数メートル以上吹き飛ばしたのだ。そこにいた全員が絶句するのも仕方のない事だった。
「す、すみませ、大丈夫でしたか?」
その中ですぐに我に返ったマリアは、加減を間違えて吹き飛ばしてしまった亜弓に駆け寄る。
「クク……くはははは……」
しかし、土煙りの中から聞こえてきた声にマリアが足を止める。
「?」
首をかしげるマリアを見上げながら、ひび割れたアスファルトの上で大の字に横たわった亜弓が口元に笑みを浮かべる。
その身体を所々血で染めながらも、心の底から嬉しそうに笑う亜弓はどこか晴れ渡ったような表情で自らの敗北を認める。
「参った。私の負けだよ……」
「姉貴が……負けた?」
目の前で起きた信じられない事態に、刀護が息を呑む。
確かに亜弓は本気を出していない。本当の皓満真月流戦武術は、相手を殺すためにある技。いくら亜弓でもそんな危険な技を弟の友人にくりだす事はしない。
しかし、その辺の凶器よりも危険な亜弓の攻撃を涼しい顔で回避し、鍛え抜かれた亜弓を一撃の元に倒すなど、刀護には考えられない事態だったのだ。
「……マリアちゃんって何者?」
絶句する刀護に代わり、芥子は思わず声をこぼしてしまう。
刀護ほどでは無くとも、詩織も芥子も亜弓の実力と恐ろしさを知っている。だからこそ、その芥子をあっさりと倒したマリアの実力に驚嘆を隠せないのだ。
「え、えっと……」
(天使だよなんて言えないし……どうしよう)
いくら芥子が親友でも、本当の事を言う訳にはいかない詩織は、返答に困って困惑の表情を浮かべる。
「それにしても世界は広い。こんなにも強い奴がいるなんてな……」
(あ、なんか嬉しそう……)
(嬉しそうですね)
(嬉しそうだな)
言った亜弓の表情に、その場にいた全員が共通の認識を示す。
「こんなダメージを受けたのは久しぶりだ。……すまないダーリン。どうやら今日のスキンシップはお預けになってしまったようだ」
「いや……まあ……」
敗れたにも関わらず、満足し、充足した笑みを向けてくる亜弓に大貴は戸惑い価値に応じる。
「あの、病院に行かれた方が……血も出てますし……」
仰向けに倒れている亜弓を見て、恐る恐るマリアが言う。
殺さない陽に手加減したとはいえ、マリアの攻撃は常人なら確実に死んでいるほどの破壊力を持っていた。いくら人間離れした頑丈さを持っているとはいえ、亜弓も無事ではないだろう
「そうだな……っと」
マリアの言葉に笑みを浮かべながら立ち上がった亜弓は、不意にその体勢を崩す。いくら平然としているように見えても、マリアの攻撃によってかなりのダメージを受けていたため、身体を支える事が出来なかったのだ。
しかし、亜弓が倒れる前に、そのモデルのような細く引き締まった身体を大貴の腕が支える。
「っ……」
「大丈夫……ですか?」
腕の中にいる戦闘狂の女性は、一応とはいえ同級生の姉。つまり目上の人間だ。一応気を使って敬語で話しかけた大貴の言葉に、その腕に抱かれた亜弓は小さな笑みを浮かべる。
「敬語はいいよ。私たちの仲じゃないか、ダーリン」
「……これに懲りたら、誰かれ構わず戦いを挑まない事だ」
亜弓の言葉を受けて、いつも通りの砕けた口調に戻した大貴に、亜弓は不敵な笑みを向ける。
「バカを言わないでくれ。おかげでこんなにも強い奴と出会えたんだ。これからも私は戦い続けるよ」
「ったく、いつかひどい目にあうぞ?」
「その時は、ダーリンが助けに来てくれるだろう?」
呆れたように言う大貴に、亜弓は信頼しきった表情を向けて微笑む。
「どうだろうな」
その様子を見ていた詩織は、ふと何かを思いついたような意地の悪い笑みを浮かべると、亜弓を支えている大貴に視線を送る。
「そうだ。大貴、亜弓さんを病院に送っていってあげなさいよ」
「は? 何で俺が……」
当然抗議をする大貴に、詩織は腰に手を当てて窘めるように言い聞かせる。
「決まってるでしょ!? 今まともに動けない亜弓さんを病院まで支えていけるのなんて、あんたくらいのものなんだから」
亜弓は女性らしい体型をしているが、背は高く鍛えているため筋肉もそれなりについている。必然的にそれに伴う体重もあるため、女性では運ぶのは難しいだろう。
もちろん、マリアがその気になれば一人で運べるだろうが、詩織としては断固としてそんな事をさせるつもりはない。
「刀護がいるだろ?」
この場合最適であろう実弟に視線を向ける。
「あぁ……って、いや、俺はホラ! このバイクを家に持って帰らないといけないから!!」
頷こうとした刀護だが、詩織と芥子、何よりこの世界で最も恐ろしい姉からの視線を受けて、咄嗟に亜弓が乗って来たバイクに手を乗せる。
「お前ら……ったく、仕方ねぇな」
そんな姉たちの思惑に気付いているのか、それとも単にお人よしなだけなのか、小さくため息をついた大貴は、同意を示して亜弓に向き合う。
「ダーリン」
それを見た亜弓は、今までの獣のような笑みからはまったく想像の出来ない、恋する乙女のような甘えた表情で大貴に両手を広げて見せる。
「…………」
「ほら、大貴」
「……絶対、楽しんでやがるな……」
その様子を見た詩織の意地の悪い笑みに愚痴をこぼしながらも、大貴は亜弓に背を向ける。
確かに詩織が面白がっているのは間違いないが、亜弓が満足に立てないほどのダメージを受けているのもまた事実だと分かっているからだ。
「じゃあ、私たちは先に帰ってるから」
大貴の鞄を預かった詩織の声を背に聞きながら、亜弓をおぶった大貴は、まるで甘えるように体重を委ねてくる亜弓の体温と呼吸を感じながら近くにある病院に向かって歩き始める。
「あの……」
「なに?」
亜弓を背負って病院へ向かった大貴の後ろ姿を見送りながら、マリアが詩織に声をかける。
亜弓の性格でうやむやになってしまったが、亜弓が大貴に好意を抱いているのは間違いないらしい。そう考えると、マリアには二人の関係が気になってしまう。
「実際あの二人はどうなんですか?」
「見ての通り、亜弓さんの一方的な片思い」
マリアの言葉に、淡白に詩織が応える。
「結構お綺麗な方だと思うんですけど……」
亜弓は性格がやや好戦的だが、顔立ちは刀護の姉というだけあってかなり整った部類だ。背も高くすらりとしていて、しかも鍛えているというのに筋肉質でもない。間違いなく美人と呼んで差し支えのない人物だ。
「う~ん、まあ、大和撫子同好会って訳じゃないけど、大貴はああいう性格だから。もうちょっとおとなしいのが好みなのよ……多分」
「多分……ですか?」
「そう、多分。だって、いくら双子の姉弟だからって、好みのタイプまでは知らないもん」
「そう、ですか……」
自分の双子の弟の色恋にさほど興味がないのか、詩織が軽く肩を竦めたのを見てマリアは歩き去っていく二人の背に視線を戻す。
「結構、お似合いにも見えるんですが……」
そんなマリアの独白は、誰の耳にも届く事無く夕日に染まった都会の空に溶けていった。
「フム……こんなのも悪くないな。いや、かなり嬉しいものだ」
大貴の背に身を任せる亜弓は、頬を赤らめて大貴に甘えるように体を密着させる。
目を細めて大貴に身を任せる亜弓からは、先ほどまでの女戦士のような鋭い闘気は全く感じられず、ただ恋する乙女の表情で大貴を見つめる。
「ダーリン」
「……何だ?」
目を細めて大貴に声をかけた亜弓は、大貴の首にまわした手にわずかに力を込める。
「今度は、御姫様だっこを所望させてもらってもいいか?」
恐る恐る、ねだるように言った亜弓の言葉に、一瞬の沈黙の後に大貴は口を開く。
「……お断りだ」
「照れなくてもいいんだぞ、ダーリン」
「照れてない」
沈みゆく夕日に照らされながら、重なった二つの影は、そんな他愛もない会話を繰り返していた。