そして、新たなるはじまりの序曲
――金色の蛍が舞う。
そこは、金色に彩られた宮殿のような一室。そこに舞う金白色の蛍は、空気中をわずかに漂ってから世界に溶けていく。
金色の光の発生源。淡く光る金糸の髪を持つ美女は、ドレスに似た純白の衣を揺らしながら青く澄んだ天へと視線を送る。
「あの日から、世界は大きく動き始めています……」
薄い紅で彩られた艶やかな唇が静かに言葉を紡ぐ。
「光、闇、その両質である者、そしてそのいずれにも属さぬもの……彼らが出会った時に、世界は『たった一つの未来』へと舵をきりました」
わずかに虚空を見上げ、涼やかな微風に金糸のような髪が揺れ、それによって生まれた金白色の蛍が、幻想的に女性を包み込む。
「もはや世界の命運は、掌からこぼれ落ちた砂のごとく揺蕩い、世界に混迷と変革、争乱と破滅を呼び起こす事になるでしょう……」
誰もいないにも関わらず、まるで誰かに語りかけるように独り言を呟いた金色に光る髪の美女の髪が揺らめき、金白色の蛍が天に舞い踊る。
「いつかあなたは、ここに至り、そしてあなたを殺すでしょう……それが、今あなたという存在に課せられた義務なのですから・・」
一言一言噛み締めるように言った美女は、ここではないどこかを見つめたまま小さく言葉を紡ぐ。
「早くいらしてください。わたくしの愛しい――」
※
沈んだ太陽が昇り、夜の帳に包まれた町に光が差す。この星が生まれてからの何億年という間、繰り返されてきた当たり前のようで神秘的な現象。
その光がカーテンで遮られた窓の向こうから指してきたのを感じて、詩織は寝ぼけ眼を擦りながらゆっくりと体を起した
「……朝……」
小さく呟いた詩織は、外の天気とは裏腹に優れない。
今日は休日。学校に行く必要がないため、いつもならお昼近くまで寝ている事が多い詩織だが、今日はそれ以上眠る気になれず布団から出る。
「……いい匂い……」
詩織が自堕落な休日を送れないその原因は、朝早くから部屋に漂ってくる何とも言えないこの香り。朝食が発する魅惑的でかぐわしい香りは、詩織が生まれてから嗅ぎ続けてきたものとは一味も二味も違うものだ。
「本当に、桜さんは料理上手だな……」
食欲をそそるこの何とも言えない匂いを発する料理を作った人物を想い浮かべた詩織は、わずかに表情を翳らせる。
清楚でおしとやか。家事万能で自分とは比べるべくもない容姿。全霊命の基準は詩織には分からないが、この世界で見れば間違いなく絶世というよりも神がかっているとしか思えない美貌とスタイルは詩織の劣等感をかきたてるのにこれ以上ないほどの兵器だ。
「……はぁ」
詩織は桜の事が嫌いではない。むしろ好意的な感情すら抱いている。
しかし、それはあくまでも桜の人となりに限ったものだ。詩織には――否、たとえ詩織でなくとも、自分が好意を寄せる人と、自分では絶対に及び得ない存在感を以って仲睦まじく寄り添う夫婦を前に、平然としている事などできないだろう。
そんな理由で若干足の重い詩織がリビングへ下りていくと、案の定、朝食の用意をしていた桜が花のように清楚な笑みを以って、詩織を出迎える。
「おはようございます」
「……おはようございます」
同性の詩織ですら心奪われるほどに美しい桜の微笑みに、ほんの少しだけ表情を曇らせて詩織が応じる。
「詩織さん、いつものでよろしいですか?」
「あ……はい。ありがとうございます」
そんな詩織の様子を特に気にとめた様子もなく、桜はキッチンに戻って詩織の分の朝食をきれいに並べて詩織の前に置き始める。
席にはすでに大貴、神魔、クロスとマリアがついており、既に朝食を終えたらしい両親は席から離れてそれぞれ別の事をしている。
「大貴、あんたもういいの?」
「ああ……」
昨夜席を立った大貴に視線を向けると、大貴はそれにいつものように言葉少なに応える
「おはよう、詩織さん」
「お、おはようございます」
桜と一緒に下りてきていたのだろう神魔が、テーブルに座って詩織に微笑みかける。
好意を寄せる相手に声をかけられた詩織は、その一瞬だけは神魔と自分の間にある決して超えられない存在の壁の事など忘れて、恋慕の情からこみ上げてくる嬉しさに表情を緩める。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
しかし詩織のそんな嬉しさも、すぐにかき消されることになる。
詩織に朝食を差し出した桜と神魔が交わす視線は、自分の入り込む隙や余地の一切無いものを孕んでおり、その絶対的で確かな愛情と信頼に詩織は表情をわずかに翳らせる。
余談だが、桜の朝食はパンかご飯かを選ぶことができる。界道家のスタイルに倣って、それに味噌汁がつく程度の簡単な物でしかないが、味噌汁とパンは手作り、しかも飽きないように毎日少しずつ味が違うという細かい配慮つき。
さらにどういう訳か、レシピの通りに作っただけで異常に美味しい物を作り出せる手腕によって生み出された桜の料理は、まさに「ほっぺたが落ちる」という言葉に恥じない異常な美味しさを生み出している。
「美味しい……」
一口含めば、詩織のように悩みを抱えていても、その美味しさに色々なしがらみを忘れ得てその味に浸ってしまう。
「……はぁ、私じゃ逆立ちしてもこんなに美味しい物つくれないよ」
その反動で、食後に完全な敗北感に打ちひしがれる事になるのだが……
「詩織さん」
「は、はい」
不意に神魔に声をかけられ、詩織は半分声を裏返らせて想い人に視線を向ける。その顔がわずかに朱色を帯びているのは決して気のせいではないだろう。
「最近、なんかあった?」
「え? な、何でですか?」
神魔の言葉に、詩織は恥じらいながらもなんとか自分の気持ちをごまかそうと、懸命に作り笑いを浮かべる。
「いや……なんか詩織さん、最近変なような気がしてさ……」
(神魔様、それはあなたのせいなのですが……)
(今頃気づいたんでしょうか?)
神魔の言葉に、桜とマリアが表情には出さずに、それぞれ心の中でため息をつく
(そうか……?)
同時に、クロスと大貴は内心で首をかしげていた。
神魔にとって、詩織は「特別な存在」ではあっても、「大切な存在」ではない。詩織を守りたいとは思っていても、愛しているという訳ではない。
だからこそ、そういった意味での詩織の感情の機微に疎くなってしまうのは仕方がない事なのかもしれない
「そんな事、ありませんよ……」
顔をわずかに俯けて、どこか陰のある声で詩織が言うと、それを聞いた神魔は詩織から桜に視線を移す。
「そう? ならいいけど」
(神魔さん、鈍いです……まあ、男の人なんてそんなものかもしれないけど……)
内心でため息をついたマリアは、神魔と詩織からクロスに視線を向ける。
「どうした?」
「何でも無い」
含みのあるその視線に気づいたクロスの言葉に、マリアはわずかに赤らめた頬を隠すように顔を背ける
「詩織さん……」
そんなクロスとマリアをよそに、神魔の事情をこの中で唯一完全に把握している桜は、自分の最愛の人に愛情を向ける少女に、わずかながら同情の意を向けるのだった。
神魔が詩織を特別視するのは、詩織がかつて神魔が失った大切な人――「風花」に似ているからだと以前桜は神魔から聞いている。
ただ、神魔は決して「詩織」を「風花の代わり」にしているわけではない。風花は風花。詩織は詩織だと分かっている。詩織が風花に似ているというのは、「理由」というよりは、「きっかけ」とでも言うべきもの。
ただ、それによって神魔がずっと心の中に抱え込んできた「過去の傷」がこれまで以上に思い出されたのは間違いない。永遠を生きる存在である全霊命は、それでも優れた記憶力を持ち、「忘却」する事は無い。
決して忘れられる事のない「記憶」は、それでも時間やそれ以外の要素によって、次第に意識の奥底に沈んでいくが、決して色褪せる事無く「覚えている」のだ。
神魔にとって風花は、間違いなく特別な存在だった、しかし同時に、その心に確かな「傷」となって残っている人でもある。
守れなかった記憶。傷つけた痛み。そして弱かった自分。決して目を背けていたわけではないそれらの感情に、「詩織という存在をきっかけにして挑んでいる」のだと桜は知っている。
だからこそ、詩織の想いは神魔に届かない。神魔が本当に見ているのは、詩織ではなく、まして風花でもなく――自分自身の過去なのだから。
故にどれほど神魔が詩織を大切に想っていようと、それは決して恋愛感情に発展しないものでしかない
のだ
「ごちそう様でした」
「御粗末さまです」
食事を終えた詩織の背を見送った桜は、その切なげな背を見つめて小さく息をつく
「仕方がありませんね……」
「はぁ……」
自分のベッドに頭から倒れこむように寝転がった詩織は、一瞬だけ眉をひそめて枕に顔を埋める。
桜の事は嫌いではない。しかし、それを曇らせるような感情が自分の中に確かに渦巻いているのを詩織は確かに自覚している。それは悪く言えば「嫉妬」、よく言えば「羨望」。自分もこうありたいと願う気持ちと、それを手に入れている桜への妬み。
(桜さんにとって、私なんて敵じゃないんだろうな……)
桜がどの程度自分を意識しているのかは分からない。だが神魔に好意を寄せている事くらいはお見通しのはずだ。
だが、桜がいつも通りに自分に接してくれるのは、自分なんかに神魔がなびかない事を分かっているだろうと考えて、詩織はその場で寝返りを打って天井を見上げる。
(私って、結構嫌な女かも……)
桜がそんな事を思っているかなど分からない。だが、考えれば考えるほどそんな嫌な考えばかりが自分の中に広がっていくのを感じて、詩織は自嘲する。
詩織が自己嫌悪に陥っていたその時。不意に部屋の扉が3回ノックされる。
「詩織さん、桜です。少々よろしいでしょうか?」
「は、はい」
(さ、桜さん……!?)
突然の来訪者に驚愕しながらも、詩織は慌てて部屋の扉を開ける。
決して鍵をかけているわけではないが、律儀に扉が開くのを待ってくれているのは桜の気遣いだろう。
「詩織さん、少々お話をさせていただきたいのですが、よろしいですか?」
「あ、はい。どうぞ」
扉を開けたそこに、可憐な花のように佇んでいた桜の言葉に思わず頷いた詩織は、桜を部屋の中へ招き入れる。
「失礼いたします」
一礼して詩織の部屋に入った桜の背を、扉を閉じた詩織が見つめる。
腰の位置までもある癖の無い桜色の髪が軽やかに揺れ踊る様は、思わず目を瞠るほどに美しい。
「あの……汚い部屋ですけど、楽にしてください」
「御気遣いありがとうございます。ですが、すぐに済みますので、このままで結構ですよ」
詩織の言葉に優しく微笑みかけ、桜は詩織をまっすぐ見つめる。
「詩織さん」
「は、はい」
思わず背筋を伸ばして桜言葉に応じた詩織に、桜は優しく表情を綻ばせて口を開く。
「詩織さんは、神魔様の事を諦められませんか?」
「っ」
桜の口から紡がれた静かな声に、詩織の身体が一瞬跳ねる。
分かっていた事なのに――分かり切っていたはずの事実を突き付けられるだけで、こんなにも動揺する自分に半ば失望しながら、詩織は懸命に言葉を探す
「なんで……何でそんな事を聞くんですか?」
わずかに震える声で、必死に言葉を紡いだ詩織に、桜は特に動じた様子も無く応じる。
「決まっています。あなたを神魔様の二人目の伴侶に迎える『条件』を提示させて頂きたいと思いまして」
「っ!?」
桜の言葉に、詩織は目を見開く。
「二人目の伴侶」。その言葉の意味が分からないほど詩織も鈍くは無い。そして、どれほど頭で否定していても、心が歓喜の声をあげている事を詩織は確かに自覚していた。
「先日の戦いの折に聞かれたと思いますが、九世界は、『多夫多妻制』です。――つまり、伴侶を何人持っても構いません。……ですから、あなたが望まれるのであれば、神魔様の二人目の伴侶になる事も出来ます」
桜は静かに詩織に語りかける。
「っ、でも……」
言葉を濁らせる詩織に、その理由を正確に理解している桜は静かに言葉を続ける。
「例えば、愛したお方に家庭があったとして、『家庭があるから愛してはいけない』のですか? 例え、伴侶を持っていても、子供がいても、その人を思う気持ちは確かな愛情なのではありませんか?」
「っ、それは……そうかもしれませんけど……」
桜の言葉に、詩織は言葉を濁らせる。
確かに浮気だろうと不倫だろうと、「愛」という感情が根底にあれば、それは「愛している」と言って差し支えはないものだろう。
だが、だからと言って詩織にはそれを許容する事は出来ない。
「御存じでしょうが、わたくし達全霊命は、殺されない限り永遠に最盛期を保ったまま生き続ける事ができます。
限られた時間の中で恋をし、愛を育むあなた方半霊命と違い、永遠に近い時間を生きられるわたくし達には、恋と愛の時間は問題ではないのです。」
澄み渡った清流のような清らかな声が、穏やかな口調で紡がれる。
全霊命に寿命と老化はない。だから彼らが恋愛対象とするのは、過去と今に生きてる人に限らず、未来に出会う人も含まれる。
「すでに家庭がある方、お付き合いされている方がいる方……それは、たまたま自分よりも先に愛し合った方がいるという事にすぎません。
そういう方がいるから愛せない……ですが、それはその相手を見ていないのと同じではありませんか? 愛しているのか、愛していないのかという事が大切なのであって、既に相手がいるからとそれを拒否すれば、それは感情以前の問題で否定してしまっています。」
そう言って、桜は自分の胸にそっと手を添える。
「『恋愛対象として見れない』という理由で断っていただかなくては、愛した方の想いも、愛された方の想いも踏み躙られたのと同じです」
「でもっ! やっぱり……そういうのは駄目ですよ……。だって好きな人がいるのに他の人となんて……」
桜の言葉に傾きそうになる心を必死に押し留め、詩織は絞り出すように言う。
「わたくしは、人の持つ魅力というのは人それぞれだと思っております。詩織さんの女性としての魅力と、わたくしのそれは決して同じではないでしょうし、どちらが優れているかという事ではないと思います。
大切なのは、目の前にいる人を見て、異性として愛せるか、愛せないかではありませんか? 既に愛した方が次に他の方を愛したからといって、決して最初に愛された方が愛されなくなったという事ではないのですよ?」
桜の言葉に、詩織は唇を噛み締める。
「でも……」
「詩織さん。あなたが縋っているのは、この世界の……いえ、この国の制度ですよ?」
「っ!」
桜の言葉に、詩織は目を見開く。
確かに、一夫一妻制度はこの国の法律で定められた法。世界には一夫多妻を認めている国も宗教も確かにある。
ほんの数百年前までは、この国にも「大奥」に代表されるような一夫多妻の象徴のようなものがあったのも確かだ。それが意味するところは、一夫多妻はあくまでも法であり、体制であり、世界にとっての「摂理」ではないという事だ。
現に人間に最も近いと言われるチンパンジーやゴリラのような霊長類は、細かな差異はあれど、優れた雄が多くの雌を娶る事ができる社会体系を持っている。それは人間も同様であり、常に伴侶を求め続ける事はその遺伝子に刻まれた種としての生存本能ともいえる行為なのだ。
そしてそれは、この星に住むほぼ全ての生物が行う社会体系だ。例え伴侶が一人でも、子供が巣立ってしまえば新たな伴侶と番を作る。
極端な言い回しを借りれば、一夫一妻という制度は、人間という生物の仕様に合っていないと言ってもいい。
「でも……私と神魔さんは……」
桜の言葉に詩織は言い澱む。
桜の言い分は、もはや価値観や主観、世界観の違いというどうにもならない考え方の相違だ。それを是とするか否とするかは、個人の判断に委ねるしかないだろう。
しかし、詩織が神魔と結ばれない理由はそんな事ではない。全霊命と半霊命という、存在の違いから生まれる「九世界の禁忌」なのだ。
「ええ、ですから、条件を提示させていただきにきたのです」
詩織の言葉の意味を十分に承知している桜は、穏やかに微笑む。
「わたくしは、神魔様の幸福を心から望んでおります。ですから、神魔様が望まれるのであればあなたを二人目の伴侶として迎え入れる事に抵抗はございません」
「なっ……!?」
桜の言葉に、詩織は小さく目を見開く。
桜のその言葉は、つまり九世界の法律を真正面から否定するだけでなく、自分と神魔、そして詩織が九世界から命を狙われてもいいと宣言しているようなものだ。
「でも、それじゃあ、神魔さんと桜さんだって……」
九世界で混血児を意味する混濁者の中でも、全霊命と半霊命の間に生まれる混濁者は特に忌み嫌われ、その両親子供共容赦なく殺されるという事実を、同じ全霊命と半霊命の混濁者であるマリアから聞いて知っていた。
「神魔様の幸福に比べれば、それ以外の全ては瑣末なことです。わたくしの命も、詩織さんの命も、神魔様のために使い捨てる事など当然の事です」
しかし、詩織の言葉に桜は当然のように微笑み返す。
「えっと……それってどうなんでしょう?」
神魔のためならば命も惜しくないと、平然と、当然のように言い放った桜の言葉に、詩織は思わず戸惑いがちに苦笑する。
どこか軽い口調で当然のように言い放った桜の言葉を聞けば、神魔が桜にとってどんなモノを天秤にかけても釣り合うものが無いほど、重要な存在なのだと否が応でも詩織に理解させるだけの説得力がある。
しかし、それを平然と言えてしまうところが、人間と悪魔の決定的な違いなのだろうとも理解する事ができた
「もっとも、神魔様は嫌がられるので、本当に命をかけるような事は致しませんが」
「はぁ……」
ほんのわずかに苦笑した桜の言葉に、詩織はどこか上の空で同意を示しながらも、同時に背筋に冷たいものも感じずにはいられなかった。
桜は、文字通り自分自身の全てを神魔に捧げている。桜にとっては、自分の命すら神魔の所有物であるという認識のため、神魔の望まない事はしないし、許可なく命を棄てるような事は無い。逆に言えば神魔が望めば、命を捨てる事もいとわないだろう。
その自分を顧みないほどの純粋さと一途さに感嘆しつつ、同時に神魔のために全てを切り捨ててしまう桜に恐怖すら覚えていた。
「ですが、わたくしは妻として神魔様が間違いを犯すのを、指を咥えてただ見ているつもりもございません」
「……!」
不意に真剣な眼差しを向けてきた桜に、反射的に詩織は身体を強張らせる。
「どんな理由があろうと、それが何よりも優先されるという事はございません。全霊命と半霊命の混濁者は、世界最大の禁忌の一つです。――当然、わたくしは、神魔様がそうなる事を止めさせていただきます」
厳かな声音でそう言葉を続けた桜は、静かに詩織に視線を向ける
誤解している者も多いが、桜は決して神魔の言いなりになるだけの都合のいい女ではない。神魔が違いを犯そうとしているなら、それを止めるのが妻であり、伴侶である桜の務め。桜はそれを十分に理解し、実践しているのだ。
「ですが、わたくしの制止を振り切り、神魔様が御自身の命すらかえりみずにあなたを愛し、伴侶として迎え入れたいと願われるのであれば、わたくしはその神魔様の御心に従い、あなたと神魔様のためにこの命を賭けてでもお力添えする所存です」
目を伏せ、わずかに切なそうな表情を浮かべた桜が、静かに言う。
神魔の過ちを命を賭けてでも止めるのが桜の務め。しかし、神魔が命を賭けてでも守りたいもののために命をかけるのも桜の願い。
もしも神魔が自分の言葉を振り切り、命をかけて詩織を求めるならば、その命のために全てを敵に回すのは桜にとってある意味当然の選択でもある。
「ですから、わたくしがあなたに求める条件はたった一つです」
わずかに痛みを堪えるような表情を見せ、桜は詩織に微笑みかける。
「あなたから神魔様に気持ちを伝えないでください。」
「……っ!」
桜の言葉に、詩織は息を呑む。
「あなたにそんな想いを抱かせていたと知れば、神魔様は御心を痛められるでしょう。ともすれば、その罪の意識から、あなたの想いに応えてしまわれるかもしれません。そんな同情のようなものは、あなたの望むとこではないでしょう?」
淡々と言葉を紡いだ桜の言葉に、詩織は無言で頷く。
「ですから、神魔様が、神魔様ご自身の意志であなたを愛し、求められる事。――それが、わたくしがあなたに望む条件です」
「……神魔さんが私に……」
桜の言葉を反芻するように、詩織が小さく呟く。
詩織から気持ちを伝えず、神魔が詩織を愛して詩織を伴侶して望む。……それが、桜が詩織に求めた唯一無二の条件。
(でもそれは……神魔さんが桜さんを振り払う位に、私を好きになるって事……)
詩織は、拳を握りしめる。
神魔と桜。その愛情と絆の堅固さと深さをずっと見てきた詩織には、神魔が桜と同等以上の愛情を誰かに注ぐ姿など想像できない。
だからこそ、心のどこかで思ってしまう。――「そんな事が出来る筈は無い」と。
「……余裕ですか?」
軽く握りしめた拳が震え、絞り出すような声で詩織が言う。
「私が、私なんかが、神魔さんにそんなに思ってもらえるはず無いじゃありませんか……!」
噛み締めるように、目の前に咲く桜に言葉を絞り出す。
詩織にとって桜は、何一つ勝てる気がしない絶対的な存在。その人が愛し、愛される人と同等以上の存在になるなど、詩織には想像もつかない事だった。
「あなたには、皮肉に聞こえるかもしれません。ですが、可能性は低くないと思っているからこそ、わたくしは、こうしてここに来ております」
「っ!?」
しかし、詩織の言葉に反して桜は静かに微笑みかける。
詩織は、風花に似ているという桜にすらない大きな優位性を持っている。少なからず神魔の心の琴線を揺らす存在である風花に似ているという事は、それだけ神魔の心に近いという事。
そのため、桜はお世辞でも何でも無く、詩織に神魔が自分と同じ感情を抱く可能性が高いと考えている。
「もちろん、これはわたくしが提示させていただいた条件にすぎません。伴侶が一人だけでも何も問題はございませんし、九世界ではそういう方の方が多いのも現実です」
一度目を伏せた桜は、静かに言葉を続ける。
一夫一妻が伴侶を一人しか持てない制度だとすれば、多夫多妻は、伴侶を複数持ってもいい制度。複数持つ事は強制でもなければ法律でもない。
あくまでも特定の異性に対し、「たとえ二番目以降だとしても自分の生涯をかけて添い遂げたい」と考える関係を築き上げた者達がそれを成すのであって、そうでなければそうである必要はない
「もちろん、このまま神魔様を諦めて頂いても構いませんが、いずれにしてもあなたの口から神魔様にお気持ちを伝える事だけは御遠慮ください。このお話をわたくしがさせていただいたのは、あくまでもあなたへの同情にすぎないのですから」
「……同情、ですか?」
詩織の言葉に目を伏せた桜は、一拍の間をおいてから意を決したように詩織をまっすぐ見据える。
「もしも……もしもわたくしがあなたの立場なら、こうしていただきたいと思ったからです」
「!」
わずかに目を瞠った詩織に、桜は自分の胸にそっと手を当てて穏やかに微笑む。
「わたくしなら、たとえ何番目であっても、心の底から愛するお方と共に居させていただきたいと思ったからこそ、わたくしはこうしてここに来たのです」
静かに言った桜の紫色の瞳には、揺るぎない決意と、桜の真意がはっきりと宿っている。
「確かに、安い同情と思われるかもしれません。勝者の優越感と蔑まれるかもしれません。」
桜の清流のような涼やかな声が、言葉を織り上げる。
桜は、自分がしている事が自己満足に過ぎない事を十分に知っている。もしも詩織が神魔と恋仲になるような事になれば、最愛の人である神魔の命を危険にさらす事になるのだから。
本来なら、こんな事をする必要はなかった。ただ黙して詩織の気持ちが神魔から離れるのを――あるいは、詩織が諦め、この世での一生を終えるのを待てばよかったのだ。
永遠に近い時間を、最盛期のまま過ごす事が出来る全霊命にとって、ゆりかごの人間の寿命である百年など、瞬きに等しいほどの時間で過ぎ去ってしまうものなのだから。
しかし桜はそれをよしとしなかった。もしも自分が詩織の立場だったらと考えると、このまま終わらせていいものかどうか迷わずにはいられなかった――だからこそ、こうしてこの場で詩織に奇跡のような可能性を提示しているのだから
「――ですが、同じ殿方を愛した者同士だからこそ、この世界であなたの気持ちを一番理解できるのもわたくしなんですよ」
「っ!!」
桜の言葉に詩織が息を呑む。
詩織にとって桜がそうであるように、桜にとっても詩織は自分の伴侶である神魔を想う恋敵。しかし同じ人を好きになっているからこそ、その気持ちが一番分かるというのも事実だ。
だからこそ、桜は詩織にこの条件を提示した。同じ人を愛した者だからこそ、その想いが届かない事の苦しさがどれほどのものか分かる。
桜の想いを理解した……否、理解させられた詩織は、唇を引き結び、手を握りしめ、慟哭の声を上げる。
「でも、嫌じゃないんですか? 自分の好きな人が、自分以外の誰かと……なんて」
しかし、口ではそう言いながらも詩織は桜の答えを予想出来ていた。
《愛しているから、愛してくださいとでも仰るつもりですか?》
詩織の脳裏によぎったのは、レスカと戦った時に桜が言い放った言葉。
桜は、愛に見返りを求めていない。ただ自分が愛している事、愛した人が幸福である事だけを望んでいる。
「愚問ですね。わたくしの望みは、神魔様の幸福のみです。神魔様が幸福でいてくだされば、わたくしもまた幸せです。
仮に二人目、三人目と伴侶を増やされても、神魔様のご寵愛を賜れなくなったとしても、わたくしは、神魔様の幸せだけを望んでおります」
詩織の予想を裏切る事無く、桜は当然のように清楚な笑みを浮かべて、花のように微笑む。
「詩織さん達この世界の人々にとって、愛とはいかに早く出会い、いかに早く関係を結ぶかという事なのでしょう。……ですが、わたくし達にとってそのような事は関係ないのです」
微笑んだ桜は、慈愛に満ちた笑みを詩織に向ける。
「愛とは、奪い合うものでも、独占するものでも無く……尊び、分かち合うものなのですから」
「っ!!」
恋と愛。その二つの感情に彩られた桜の幸せそうな微笑みに、詩織は思わず目を奪われる。
その整った綺麗な顔がほんのりと火照り、愛しさを噛み締めるような表情を甘い吐息をこぼす。
神々しいほどに美しい桜が纏う純粋な恋と愛の感情。それは詩織に完全なる敗北感を与え、同時にずっと押し殺してきた羨望の感情を湧き上がらせる。
「……一つだけ、聞いてもいいですか?」
「はい」
全霊命と半霊命が結ばれてはならないなら、この気持ちは忘れなくてはいけない。
詩織は自分にずっとそう言い聞かせ、自分の気持ちを殺し、忘れようとしてきた。しかし桜が提示したのは、詩織の想いが叶ってもいいのだという――詩織にとっての微かな希望。
「もし、桜さんが私の立場なら……桜さんはどうしたんですか?」
震えるような詩織の言葉。漠然とした希望に縋るような、危うく、しかし奇跡を願うような言葉に桜は
いつものように優しく微笑む。
「……わたくしは、神魔様を心からお慕い申し上げておりますから」
「っ!!」
それだけで十分だった。桜のその言葉が、桜の真意をはっきりと詩織に伝えてくる。
(――それなら、私は……)
桜の言葉に、詩織は表情を引き結ぶ。
自分の気持ちは嘘ではないし、中途半端な気持ちで神魔に恋をしているつもりはない。例え、いつか覚めてしまうと言われても、いつか後悔すると言われても、この想いは、今この瞬間のものなのだから。
(私は、何一つ桜さんに勝てない。……私と一緒になっても神魔さんが苦しんで、私は死んで、家族が悲しんで、神魔さんと生まれて来た子供が世界から忌み嫌われて、命を狙われて……かかわった人がみんな不幸になっても……!)
神魔と――全霊命と半霊命が恋をするという事はそういう事。不幸しか生まない。犠牲者しか生み出さない。悲劇しかない愛。
(それでも、私は神魔さんが好き!! ……だから私は……)
だから詩織は、決意しなくてはならない。
もしも神魔と愛し合えた時、一時の自分の幸せのためにその愛によって生じたあらゆる痛みや、罪や、罰を……自分と、自分たちに関わった全ての人に押し付ける覚悟を。
桜のように、自分が報われなくても「神魔が幸せならいい」などとは言わない。思わない。思ってあげない。……ただ神魔の幸せが幸せだと桜が言うのなら、自分は神魔を独占し、愛されたい願おうと誓う。
「わたくしの話はそれだけですので……では失礼いたします」
立ちつくし、微かに震える詩織から視線を逸らし、そのまま身を翻した桜が部屋から出ていこうと扉へ向かう。
「私はっ!」
「……!」
その詩織の声に、桜の足が止まる。
桜色の髪が揺れる背に、詩織はこぼれそうになる涙を堪えながらはっきりと言い放つ。
「私は、桜さんみたいには思えませんから! ……桜さんにだって負けません。私は、神魔さんが好きだから! 私は、神魔さんを一人占めしたいんです!!」
九世界の理由など、詩織には知った事ではない。例え我儘であろうと、神魔に自分だけを見ていて欲しい。自分だけを愛して欲しい。
その自分の気持ちに嘘はない。神魔を想う心に任せて、その気持ちに従う。
「私に情けをかけた事、きっと後悔させて見せます!」
自分でも最低だと思う。自分を想ってくれる桜に、自分が劣等感から反抗しているだけだというのは自分自身が一番よくわかっている。
それでも、詩織は桜に言い放つ。――「自分も神魔が好きだ」と。桜のようにではなく、自分らしく神魔に想いを伝えるために。
桜の条件に則って、言葉で伝えるのではなく、自分という存在をありのままに見せてその想いを自分に向けるために。
「…………」
その言葉に、桜は何も応じる事無く部屋を後にする。
「――私、負けませんから……」
確かな決意のこもった詩織の言葉は、一人きりになった部屋の中で、静かに響く。
世界は変わりゆく。人の思いを受けて、人の望まぬ方向へと。
世界は移ろいゆく。出会いと別れを繰り返し、想いを生み、育んで変わっていく。
――それは、永遠の不変。そして不変の永遠。この世に生きる全てのモノは、決して変わる事の無い、変化という理の中で、決して見果てぬ夢を見る。
運命と呼ぶ現実に揺蕩いながら、世界という激流に溺れ、そして想いの水底へ沈んでいく。
小さな決意を胸にした少女は、変わらない想いを胸に、自らを変えようと一歩を踏み出した。
しかし、誰も気づいていなかったのだ。
この時、彼らの日常は、すでに終わりを告げていた事に……。
ゆりかごの世界編 ―了―