愚かなる贖罪
世界と世界の間に存在する世界――通称「時空の狭間」。
そこは、世界と世界が接する空間の接触点に生まれた特異な空間。世界と世界が接し、世界と世界を隔てるその空間は、その特異性により極めて異質な独自の世界を形成している。
「セ氏60℃の銀世界」、「砂漠に抱かれた密林」、「天を河が流れ、地を雲河が満たす世界」、「地から天へ上る滝」、「明ける事の無い夜に覆われ、蛍光の植物が繁栄する大地」など、その異常な世界を数えればキリがない。
その時空の狭間は、複数の世界と接し、世界を隔てているがゆえに、世界の力が歪に入り混じった世界
「くそ……っ」
そんな「過酷な自然環境」などという言葉で括れない世界で、紫怨は佇んでいた。
そこは、一面が透き通ったサファイアのような水に覆われた世界。その水の底には、青々と茂る緑がその存在を見せている。
「光魔神を覚醒させる手段はわかない……か。いやそれ以前に光魔神を覚醒させたとして……問題はどうやって十世界と対立させるかだ……」
忌々しそうに歯噛みをして、紫怨は小さく吐き捨てるように言う。
反逆神を擁する十世界を滅ぼすには、反逆神と同等以上の力を持つ光魔神の力が必要不可欠になる。しかしそれ以前に、光魔神が十世界と敵対してくれなくては意味がない。
万が一にも、あの「姫」に懐柔されて十世界に与するような事があってはならない。
「ご協力いたしましょうか?」
「っ! 誰だ!?」
その瞬間、まるで紫怨の思考を読み取ったかのようにかけられた言葉に、紫怨は瞬時に臨戦態勢を取る。
「驚かせてしまいましたか? ……失礼いたしました」
紫怨が視線を向けた先には、涼風のような優しくも儚い雰囲気を纏う、絶世の美女という表現すら霞んでしまいそうなあまりに美しい女性が、一人で佇んでいた。
整った容姿に優しく慈愛に満ちた瞳。雪のように白い陶磁のような肌に、わずかに朱色を帯びた形のよい唇。腰までもある艶やかな癖の無い黒髪は、職人の手によって幾重にも塗り重ねられた漆を彷彿とさせる。
白を基調とし、黒で縁取られた着物を身に纏ったその女性は、清楚で淑やかな美しさと、決して主張しすぎない色香を同時に併せ持ち、その完成された顔立ちと合わさり、まるで完成された究極の美そのもののようにすら思える。
(……悪魔の、女?)
まるで清流が流れるように、優美に歩み寄ってくる絶世の美女が放つ力の波長を感じ取って、紫怨は剣呑に目を細める。
(強いな。……それも桁外れに)
「そんなに警戒なさらないでください……危害を加えるつもりはございませんから」
澄んだ清流のような声で紫怨に声をかけた女性は、目元を綻ばせて優しく微笑みかける。
(確かに……戦意は感じない……か)
相手の魔力に乱れが無い事を知覚で確認した紫怨は、緊張を解く
「協力って言ったか……?」
「はい。光魔神様を完全に覚醒させ、十世界を壊滅させる……あなたの目的に協力させて頂きたいのです」
紫怨の言葉に、癖の無い黒髪を風に揺らして絶世の美女が微笑む。
「……随分詳しいな」
事情を知っているらしい女性の言葉に、紫怨は警戒感を露にする。
「わたくし共も、すでに行動を起こしております。こちらの思惑通りに事が運べば、光魔神様は確実に十世界と敵対する事になります」
(共か……)
「……そんな事が出来るのか?」
紫怨の言葉に、黒髪の美女は薄い紅に彩られた唇を微笑む形にし、そして言葉を紡ぐ。
「―――――」
「なるほど。確かにお前の言う通りになれば、光魔神は十世界に敵対するだろうな……」
女性の説明を聞いた紫怨は、それでもぬぐえない疑問を美女に投げかける。
先程美女がした説明の通りに事が運べば光魔神は十世界と敵対する――否、敵対せざるをえない状況になるだろう。
だが、それはあくまでも「うまく事が運べば」の話だ。そうならなくては何の意味もない。
「だが、そう都合よく行くのか?」
「ええ。もちろんです……あなたも、あの方の事はよくご存じでしょう?」
(それに、わたくし達にとっては、成功する必要はありませんからね)
本心を清楚な笑みの裏に秘め、絶世の美女は聖母のような笑みを浮かべる。
「――いいだろう、お前の申し出に乗ってやる」
(どの道、今の俺にはそれしか方法が無いんだからな……)
「ありがとうございます……では、これで失礼いたします」
礼を述べて深々と頭を下げた女性は、そのまま紫怨に背を向ける。
「待て」
立ち去ろうとする女性を呼び止めた紫怨は、聞き流される事を予測しながらも、ずっと抱いていた疑問をぶつける。
「お前は一体誰なんだ?」
「わたくしですか?」
紫怨の言葉に応じた女性は、その場で反転しする。
目を奪われるほどに優雅に、まるで舞を舞うように反転した女性は、白魚のような細い指を揃え、そっと自分の胸に添える。
「わたくしは、『撫子』と申します」
撫子と名乗った絶世の美女は、目元を綻ばせて優しく清楚に微笑みかけた――。
※
「おおおおおおおおっ!!」
咆哮を上げながら、魔力を帯びた斧槍――「天星」を振りかざす紫怨を、大槍刀を振りかざした神魔が迎え撃つ。
漆黒の魔力を帯びた二つの刃が激突し、魔力の波動と衝撃が隔離空間をも斬り裂かんばかりの猛威をふるって荒れ狂う。
「……っ!!」
互いの刃を激突させた神魔と紫怨は、そのまま相手に手を向けて魔力を手のひらに収束させる。
まるで鏡に映したかのように同じ動作で魔力を手に収束した二人は、まったく同じタイミングでその魔力を極大の魔力砲として放つ。
直径がそれぞれの身の丈の倍以上もある巨大な魔力砲が放たれ、世界すら容易く滅ぼす漆黒の力の波動がぶつかり合い、漆黒の爆発を起こす。
「ちっ」
この世界でもっとも強大な破壊力を有す神能の破壊の力を振り払った紫怨の目に、同じように魔力の爆発を振り払った神魔が、大槍刀から魔力を噴き上げながら肉迫してくる様が映る。
「はああああっ!!!」
最上段から力任せに振り下ろされる大槍刀の一撃。まるで漆黒の比翼のようなその斬撃を、紫怨は魔力を込めた斧槍で受け止める。
世界を両断するような、あまりに理不尽で暴虐な力が叩きつけられ、その衝撃に紫怨の表情に苦悶の色が浮かぶ。
神魔の魔力の込められた一撃が持つ圧倒的な衝撃が身体を奔り抜け、全身が軋むかのような錯覚を紫怨に感じさせる。
「……っ」
斬撃を受け止めた紫怨を押しきれないと判断した神魔は、大槍刀から右手を離し、その手を横に向ける。
それを合図とするかのように、最上段から振り下ろされていた神魔の大槍刀が消失し、横に延ばされた右手の中に再召喚され、神魔はそのまま大槍刀を横薙ぎに振り払う。
「そんな攻撃で……!!」
その攻撃に瞬時に反応した紫怨は、斧槍を傾けて神魔の攻撃を阻む。
身体を真横に薙ぎ払われそうになる衝撃を受け止めた紫怨は、斧槍の刀身から魔力を噴き上げて神魔の大槍刀を弾き飛ばす。
「っ!」
最下段からの斬り上げで大槍刀を弾き飛ばされ、がら空きになった神魔の胴に紫怨の斧槍の刃が光を斬り裂いて奔る。
しかしその攻撃は、神魔を包み込むようにして顕現した魔力の結界によって阻まれる。紫怨の刃が神魔が作りだした結界を削り取り、魔力の粒子を巻き上げる。
「っ、さすがだね……!!」
神魔と紫怨の力はおおよそ拮抗しているため、紫怨の力をもってしても容易に砕く事は出来ない。
その一瞬の隙に体勢を戻した神魔が、魔力を込めた袈裟がけの斬撃を放つと、紫怨はその攻撃を後方へ飛び退いて回避しながら同時に極大の魔力砲を放つ。
「逃がすか!」
全てを滅ぼす漆黒の砲撃が咆哮し、斬撃を放った神魔を呑みこむ。
光をも滅ぼす完全なる破壊の闇が炸裂し、漆黒の太陽を生み出す。その攻撃に込められたあまりに純然な殺意が破壊を巻き起こし、写し取られた虚構の街を一瞬で薙ぎ払って平地へと変えていく。
「……この程度で終わりじゃないだろ!?」
その黒い爆発を無言で見つめていた紫怨は、その中で急速に高まった魔力に目を見開いた瞬間、漆黒の爆発が貫かれる。
「当然だよ!!」
それの放つ強大な魔力を知覚し、身の危険を感じた紫怨が咄嗟に身を捻った瞬間、魔力を帯びた神魔の大槍刀が神速で回転しながら飛来し、紫怨の身体を掠める。
「ぐっ……!」
(武器だけを飛ばしてきたか……!)
投擲された大槍刀は、さながらドリルのように触れるもの全てを砕き貫く槍。掠めただけで紫怨の身体を傷つけ、血炎を上げさせる圧倒的な威力を持っている。
しかし、全霊命の攻撃は、武器を手放したくらいでは終わらない。それを十分に理解している紫怨は、既に知覚に捉えている神魔に向き直る。
大槍刀を投擲した神魔は、光を遥かに凌ぐ速さで漆黒の爆発を振り払って飛翔し、紫怨の上空に移動していた。
「はあああっ!!」
天に掲げた神魔の腕に大槍刀が召喚され、その刀身から漆黒の魔力が噴き上がる。
全霊命の武器は、全霊命本人の神能が、本人の力の特性に合わせて具象化した「戦うための自分の姿」。
その武器は本人の意志に応じて具現化し、例え手元を離れても自由自在に再召喚できる。つまり、全霊命が武器を手放したからといって油断するなど具の骨頂だ。
当然、紫怨もそんな事は百も承知している。それ故に神魔の手に呼び戻された大槍刀を見ても全く動じた様子も見せず、自身の魔力を込めた斧槍での迎撃に移る
天を覆い尽くすほどの漆黒を纏う神魔の大槍刀の一撃に、際下段から斬り上げられた紫怨の斧槍の刃が激突し、ぶつかり合った究極の破壊力持つ漆黒の魔力が荒れ狂う。
「――っ!」
拮抗した力によって同時に弾き飛ばされた神魔と紫怨は、体勢を崩したことも構わずに相手にさらなる追撃を加える。
光を置き去りにする刃の応酬。縦横無尽、変幻自在の刃が、互いに相手の命を刈り取ろうと奔り、二人の間でぶつかり合って漆黒の火花を散らせる。
「はあああっ!!」
「おおおおっ!!」
万象を超越する神速で打ちあわされる二人の刃は、暗黒の力を世界に刻みつけ、滅びの力の渦を生み出す
魔力の凝縮された大槍刀と斧槍の刃がぶつかり合い、拮抗する事で生み出された漆黒の力の渦が砕け散り、その威力で吹き飛ばされた神魔と紫怨は、そのままそれぞれの武器に再び魔力を注ぎ込む。
「オオオオオオオッ!!!」
一閃された二人の刃から、扇状に漆黒の魔力の波動が迸る。
天を斬り裂く魔力の斬撃波がぶつかり合い、一瞬の拮抗の後に砕け散って漆黒の力の波動が世界に舞い踊る。
「……っ、やっぱり強いな……」
「そっちこそ……」
全身から血炎を立ち昇らせながら向かい合った紫怨と神魔は、肩で呼吸をしながらも、互いの力を讃えて口元に笑みを浮かべる。
命をかけた戦いの中で、互いを理解し、認め合っていく二人の間には、敵意と殺意と共に鳴り立つ親近感が生まれ、敵対者同士でありながらも、確かに深い友情のような感情が芽生えていた
「……何で紫怨は光魔神を覚醒させたいの? っていうか、何で十世界を滅ぼしたいの? って聞くべきかな」
十世界に所属しながら、そこを滅ぼす事を目的とし、光魔神の覚醒を求めて今回の戦いを引き起こした調本にであろう紫怨を前に、神魔は静かに問いかける
「――お前にはいい女がいるな」
自分の問いかけ受けた紫怨が、どこか寂しそうな表情を浮かべたのを見た神魔は、神妙な面持ちでその言葉に応じる
「桜の事?」
眼前の相手の心を見極めようと「それで?」と先を促す神魔に、紫怨はわずかに目を細めて言葉を続ける。
「……俺にも、惚れた女がいた――いや、いるんだ。『茉莉』っていう大切な女が」
「――っ!」
(茉莉……って)
紫怨のその言葉に、神魔の脳裏にかつて戦った悪魔――「茉莉」の姿がよぎる。
十世界に所属し、紅蓮たちの上司。そして神魔達を遥かに凌ぐ力を持つ悪魔「茉莉」。桜との魔力共鳴が無ければ、神魔では手も足も出ない実力者だ
「お前も知っての通り、全霊命の伴侶でお前たちのように実力が限りなく近いなんてそうそうある事じゃない……俺たちのようにな」
紫怨の表情に、隠しきれない愁いが浮かぶ。それは弱い自分自身へ向けられる憤りと、後悔と懺悔によるもの
そしてそれと同時に、神魔には紫怨の気持ちも、これから何を語るのかもおおよそ察しがついていた。
神魔と紫怨の力が拮抗しているならば、神魔よりもはるかに強い力を持つ茉莉と紫怨の間にも大きな力の隔たりがあるのは必然の事だ。
九世界では、自分と桜のように力が拮抗した伴侶よりも、紫怨や茉莉のように力に差がある伴侶の方が多い。
自分が桜より弱かったら、弱くなってしまったらという不安を抱えている神魔にとって、眼前の紫怨の姿はある意味で自分の姿でもあるように映っていた
「茉莉と一緒になって……俺は、必死に強くなろうとした。だが、あいつは俺なんて足元にも及ばないほどの天才だった。俺がどれだけ強くなろうと必死にもがいても、茉莉はそれよりも強かった……」
己の無力さを噛みしめながら言い放った紫怨の手は強く握りしめられ、波立つ心を表しているかのように微かに震えている
その姿に、一抹の同情と憐れみを抱きながらも、神魔はそれを意識の隅へと追いやって紫怨の言葉に耳を傾ける
「そして、その日が来た」
静かに言い放ち、「その時」を思い出しているらしい紫怨は、唇を噛み締める。
「ある日、俺たちは強大な力を持つ悪魔と戦い……俺をかばって茉莉が致命傷を負った」
「……っ!」
当時の事を思い出しているのだろう紫怨は、固く拳を握りしめて言葉を震わせる。
「なんとか生き延びて、茉莉も助かった……。あいつは俺に心配かけてすまないって謝った……その時、俺は怖くなったんだ……」
一瞬の間をおいて、紫怨は絞り出すように淡々とした口調で静かに言い放つ。
紫怨の脳裏によぎるのは、過去の情景。全身から血炎を紅炎のように立ち昇らせ、弱々しく横たわった最愛の人の姿と、申し訳なさそうに、懸命に笑みを浮かべるその弱々しい笑顔。
「――いつか、俺の弱さが茉莉を殺すんじゃないかって」
「…………」
嗚咽にも似た声で絞り出された言葉に、神魔は目を細める。
紫怨の言葉は決して他人事ではない。それは、神魔自身はもちろん、この世界に生きている誰もが無関係でいられない事柄だ。
「いや、ずっと思ってた事だった……でも、その時俺ははっきりと理解したんだ。『俺は強くならなければならない』と」
そう言った紫怨は、神魔を見ながらも、どこか遠くを見るような目で言葉を続ける。
「――だから俺は、あいつから距離を置いたんだ……『強くなりたい』ってな……」
そう言った紫怨は、唇を噛み締める。
紫怨は、何よりも茉莉を傷つける事を……今度こそ取り返しのつかない事になるかもしれない事を恐れていた。
《……少しでも早く帰ってきてね。待ってるから……》
紫怨の脳裏には、その言葉を告げた時の茉莉が見せた悲しそうな笑顔が強く焼き付いている。
「……俺はただ逃げただけだったんだ。あいつから、俺自身の弱さから……」
歯を食いしばった紫怨は、拳を強く握りしめ、わき上がる感情を抑える事が出来ずにその身を震わせる。
「ある日……偶然再会した茉莉は、十世界に入っていた」
「……!」
紫怨の言葉を聞いた神魔は、その眼に剣呑な光を灯す。
《――紫怨……っ》
その日、偶然にも再会した茉莉は、十世界の一員になっていた。
しかし、紫怨を何よりも絶望させたのは、その時の茉莉の表情だった。
見られたくない姿を、もっとも見られたくない人に見られたという願望―。見られたくなかったという希望とそれが叶わなかった絶望。
愛しい人と出会えた喜びと、愛しい人と共にいけない痛み。そんな自分を見せる事を拒むように、茉莉は紫怨から目を背けた――。
「その時、俺は自分がどれだけ馬鹿だったかようやく気付いたんだ。……だから俺は十世界に入ったんだ」
紫怨は、わずかに声を震わせる。
紫怨も茉莉自身が望んだのなら十世界に茉莉がいても構わなかった。しかし、そうではない事は茉莉の姿を見た瞬間に理解できていた。
――だからこそ、紫怨は十世界に入った。
十世界は、その盟主である姫の意向で「来る者は拒まず」を方針としているため、所属するのは簡単だ。さすがにその逆はそうでもないだろうが。
《紫怨、何で……!?》
十世界に入っていの一番に会いに行った際、茉莉は驚愕に目を見開いた。
《お前を……あんな顔をしたお前を放っておけるわけ無いだろ……茉莉、俺と一緒に……》
《駄目……だよ》
手を伸ばした紫怨から目を背けた茉莉は、その目元を微かに震わせ、何がかしらの感情を抑え込んでいるのが一目で分かった。
《私は、紫怨と一緒にはいけないの……》
《何でだ、茉莉!?》
震える声でようやく言葉を捻りだした茉莉に、思わず紫怨は詰め寄る。
《紫怨と別れた後、私はある悪魔と戦って……負けたの。その時命と引き換えにして、今の私がいるの……》
《――っ》
茉莉の口から語られた事実に、紫怨は思わず口を引き結ぶ。
いくら強いと言っても、茉莉は最強ではない。茉莉より強い者も確かに存在するのだ。そんな事は分かっていたはずなのに……その事実を失念していた事に、紫怨は自分を責めずにはいられなかった。
いくら十世界が寛容な組織でも、一度入ってしまえば簡単に抜ける事は難しいだろう。例え姫が許してもその周りには、そんな「裏切り」を許さない忠臣たちがうようよいるのだ。
茉莉よりはるかに強い力を持ったそれらと対峙して、生き残る術などあるはずがなかった。茉莉が何よりも恐れていたのは、最愛の人を――紫怨を失う事なのだ。
《ごめんなさい。ごめんなさい……紫怨……》
顔を伏せ、唇を引き結んで何度も弱々しい声で謝り続けた茉莉を声も出せずに見つめていた紫怨は、己の無力を心の底から呪う事しかできなかった……
「――その時、俺は決めたんだ。十世界を滅ぼしてでも……茉莉を縛るあらゆる恐怖を、俺が取り除くってな」
静かに、しかし揺るぎない決意を秘められた視線が神魔を射抜く。
はっきりとは言わなかったが、茉莉は十世界の中にあってその盟主「姫」ではない別の「意志」によって十世界に縛りつけられている。
早くからそれを見抜いた紫怨は、十世界という強大な組織の中にある茉莉が恐れる何かから茉莉を取り戻すため、そいつらが隠れ蓑にしている十世界そのものを滅ぼす事を決めたのだ。
(十世界で暗躍する奴なんて大体想像はつくがな……)
「何者か」が十世界という組織と、姫という存在を隠れ蓑に暗躍している事は分かったが、それが誰なのか、何人いるのかなどは一切分からなかった。
それほど巧みに自らの思惑を隠しているため、「そいつら」を証明する証拠はない。だからこそ、紫怨は、臥角をはじめとする「同志」を集めるのに多大な時間を要したのだ
紫怨の言葉に、神魔は言いながらも口元を歪める。
「……くだらない理由だね。彼女を解放するためだけに、十世界を滅ぼす――そのために光魔神を復活させるなんて」
「かもな……だが、俺にとって、茉莉よりも大切なものなんて無い」
そう言い放った紫怨の心に答えるように手にした斧槍から、漆黒の魔力が噴き上がり、荒々しく荒れ狂う。
(姫には悪いが……俺は茉莉のためにあんたの理想を潰させてもらう……!!!)
紫怨は、十世界の理想に共感してはいないが、「姫」に対して敵愾心などは無く、むしろ好意的な感情を抱いている。それは茉莉も同様で、それが茉莉を苦しめるジレンマの要因の一つにもなっている。
「うん、でもその意見には、僕もおおむね同意かな」
互いに最愛の人を持つ悪魔同士通じ合うものがあるのか、神魔は紫怨に賛同して笑みを浮かべると大槍刀に魔力を注ぎ込む。
「でも、それは間違ってる」
そう言った神魔は、紫怨に視線を向ける。
「……たとえ力が足りなくても、守れなくても、傷つけても、苦しめても、苦しめられても……何があっても離れるな」
「……っ!」
静かだが、強い口調で紡がれた神魔の言葉に、紫怨は微かに目を見開く。
「どんなに想ってても、手の届かないところに逝っちゃったら意味無いんだよ?」
(僕みたいに、ね……)
そう言った神魔の脳裏によぎるのは、詩織に雰囲気の似た一人の少女。桜と出会う前に行動を共にし、今も神魔の心に消えない思い出となって残っている少女――「風花」の姿。
「失うくらいなら離れた方がいい、なんてただの思い上がりだよ。失うくらいなら、はっきりと言えばいいんだ――『俺と一緒に死んでくれ』って」
神魔の言葉に、紫怨はわずかに目を瞠って息を呑む。
「っ、そんな事……!」
強く唇を噛み締めた紫怨の手が、力を入れすぎて震える。
「ああ……それも考えた。でも、たとえそれが自己満足だろうと、何であろうと……俺はっ!茉莉を死なせる事だけはしたくなかったんだ……・!!」
言い放った紫怨が噴き上げた魔力が、斧槍の刃に収束する。
それを見た神魔も、全身全霊の魔力を自身の武器である大槍刀に注ぎ込んでいく。
隔離された空間の中で二人の魔力がせめぎ合い、世界を軋ませる。あらゆる意識が殺ぎ落とされた純然たる殺意と力を宿した武器をそれぞれが構える。
「いくぞ……っ!!」
静かに言い放った紫怨が武器を携え、漆黒の流星となって神魔に肉迫する。
全てを超越し、刹那すら存在しえない神速によって世界の全てを滅ぼす力を込めた斧槍を力任せに振り抜く。
「おおおおおおおおおおっ!!!!」
それを微動だにする事無く迎え撃つ神魔は、大槍刀を構えて肉迫した紫怨に静かに言い放つ。
「君に足りないのは、自分の弱さを相手に背負わせる『弱さ』だよ」
「っ!!」
瞬間、神魔の大槍刀と紫怨の斧槍が真正面から激突し、漆黒の力が世界を呑みこむ。
火山の大噴火すら霞んでしまうほどの漆黒の力の奔流が天を衝き、膨大にして絶大な破壊と滅びの力が漆黒の波動となって、隔離された世界に広がっていく。
完全に制御された神能は、定めた対象にしか作用しない。しかし、その力と共に放たれる最高位の霊的存在としての全霊命の放つ純然たる殺意が、物質世界にその現象を顕現させ、眼下に広がる世界を瞬く間に薙ぎ払っていく。
膨大な力の奔流が世界を駆け巡り、眼下に広がる街並みを滅却すると同時に、漆黒の力が砕け散り、その中から至近距離で向かい合い、赤い炎を上げている神魔と紫怨の姿があった。
「……ぐ、っ!」
神魔の刃は袈裟がけに紫怨の斬り裂き、紫怨の刃は神魔の肩口を斬り裂いて食い込んでいた。
(ま、茉莉……っ)
神魔の大槍刀に斬り裂かれた紫怨の身体が崩れ、そのまま地上へと落下していく。
肩口を切り裂いた斧槍が魔力の粒子となって砕け散り、その構成を失うのを一瞥した神魔は地上へと落下していく紫怨に視線を戻す
「……死んではないか……」
神魔の斬撃は確かに紫怨を斬り裂いたが、それは紫怨の命を刈り取るには至っていない。それは紫怨の魔力が弱まりながらも、消えていない事を知覚が教えていることからも確かだ
地上に降り立った神魔を知覚すると、地面に横たわったままの紫怨がうっすらと目を開く
「――俺の弱さと命を、茉莉に背負わせる弱さ……か。確かに俺はあいつを守りたいと――肩を並べる事ばかり考えて、あいつを頼ることも、甘える事もしなかったな……」
「誰だってそんなもんだよ。ま、程度問題だけどね……男なら誰だって、好きな女くらい守りたいものでしょ?」
神魔の言葉に、全身から血炎を立ち昇らせている紫怨は微かに目を細めて自嘲するように笑みをこぼす。
「ああ、だが現実っていうのは本当にままならないな……だからこそ、お前たちが羨ましい」
笑うように言いながらも、その心の内を吐露する紫苑の言葉に、神魔はその視線で理解を返す
神魔と桜の実力はほとんど拮抗している。だからこそ紫怨と茉莉のように圧倒的な実力差に苦しむ事はない
だからこそ紫怨は神魔と桜を羨まずにはいらない。そしてまた神魔も紫怨の事を他人事とは思えないのだ
「神魔」
「……なに?」
「お前なら……もしお前が俺の立場だったら、お前はどうした?」
縋るように、どこか弱々しくも感じられる紫怨の言葉に神魔は目を伏せる。
もしも桜が神魔よりも遥かに強く、共に戦っても力が及ばずに桜を傷つけてしまうかもしれないとしたら……。
「さぁね。紫怨と同じようにするかもしれないし、紫怨とは違うようにするかもね」
「……そうか」
決して他人事では無く、しかし結局は仮定の話でしかない紫怨の問いかけに、神魔は一瞬の思案の後、閉じていた目を開いて静かな声で言い放つ。
神魔の言葉に、紫怨は最初からその答えを予想していたのただ一言呟く。その眼は神魔から虚空に映され、何を見ているのか・・見ようとしているのかは神魔にはうかがい知ることのできない事だ。
「…………」
その様子を見ていた神魔が、無言のままで背を向けると紫怨が神魔を引き止める。
「止めを刺さないのか?」
その言葉に足を止めた神魔は、紫怨の方を振り返る事無く口を開く。
「最後の一撃……僕は本気で殺すつもりだった。でも殺しきれなかった。……この程度で諦めるつもりは無いんでしょ?」
神魔が最後の一撃で紫怨を殺せなかったのは、単純に紫怨の実力と運によるもの。神魔にとって生死は戦いの結果でしかなく、わざわざ止めを刺そうとは思わない。
現に紫怨も、神魔の攻撃でかなりの負傷を負っているが、決して戦えないほどではない。その気ならばとっくに神魔に向かってきているだろうし、そうなっていれば神魔も容赦はしていない
「…………」
問いかけに沈黙を貫く紫怨を肩越しに一瞥した神魔は、それを肯定と受け取ってさらに言葉を続ける。
「なら、その拾った命で十世界と戦って死んでよ。今ここで僕が殺しても何の得にもならないからさ」
静かに言った神魔は、そのまま紫怨を振り向く事無く歩き去っていく。
紫怨が十世界の壊滅を諦めていないなら、そうしてもらうのが神魔達九世界側からすれば最も都合がいいのは明白。それをわざわざ止める義理などあるはずがない。
「……生き残ったのは俺だけか。命があっただけ重畳とするか、それとも……」
自分以外の全員が命を落とした事を知覚で理解した紫怨は、切り取られた空間の空をうつろな目で見つめながら小さく呟く。
臥角、レスカ、ハイゼル、椰子白。共にここに来た四人の仲間の姿が紫怨の脳裏をよぎり、そして茉莉の姿が思い浮かぶ。
「いや……これでいいんだろうな。生きていれば、また会える……」
乾いた声で自嘲気味に言った紫怨は、歩き去っていく神魔の背を一瞥する。
「あいつ……あの人に似てるな……」
神魔の背に、その人物の姿を重ね合わせた紫怨は、そのまま虚空へと視線を戻した
「……神魔さん」
神魔の姿を見止めた詩織が結界の中で呟くと、その結界を展開している桜が恭しく一礼する
「お疲れさまでした、神魔様」
結界の中の詩織を見た神魔は、両腕から血炎を立ち昇らせながらも結界を展開している桜に優しく微笑みかける。
「ありがとう、桜」
「いえ、当然の事です」
その言葉に嬉しそうに目を細めた桜の様子を見て目元を綻ばせた神魔は、そのまま結界内の詩織に近づいて穏やかな声音で囁きかける。
「大丈夫? 怖くなかった?」
「あ、はい……ずっと気を失ってましたし、桜さんが守ってくれましたから……」
「そう、よかった……詩織さんに万が一の事があったら、どうしようってずっと心配してたんだ」
「っ……!」
安堵の表情を浮かべて微笑みかける神魔の笑顔に、詩織は必死に抑え込もうとしていた感情が再びわき上がり、嬉しさと切なさがその胸中を満たす
「…………」
神魔の言葉に顔を赤らめながらも、苦しそうに胸を掴んで俯く詩織の様子を無言で見つめる桜は、そっと目を伏せる。
「さて、帰ろっか」
クロス、大貴、マリアが集まって来たのを知覚で感じ取った神魔が言う。
「はい」
その言葉に、苦しくも愛おしい感情を押しとどめた詩織は、目の前の最愛の人に満面の笑みを向けて頷くのだった