MALICIOUS CRADLE:光と闇
天を呑み込む暗黒の奔流が天を衝いて吹き荒れる。全てを黒く染め上げる力を、纏うのはその闇にも劣らぬほどに黒い両刃の長い刀身を持つ大剣
剣としては長い柄を持ち、ともすれば長柄の武器をも彷彿とさせるその大剣を手にするのは、九世界の一角「魔界」を総べる王――「魔王」だった
神に最も近い悪魔――「五大皇魔」の一人にして、その中で最強の力を持つ魔界の王は、その武器に纏われた闇を斬閃と共に解き放つ
神位第六位「神」に等しい神格を得ることが出来る神威級神器――「永劫黒闇」を発動させた魔王が放つ無明の黒闇がその神格のままに威を発現させる
「暗黒神ト同ジ〝闇〟カ――ダガ」
自身へと向かって放たれた魔王の闇を見据えるのは、金属質の漆黒の身体に骨白の鎧を持つ性別不明の存在――神敵たる反逆神の眷族〝悪意を振りまくもの〟が一人にして、享楽の悪意と並ぶ「純悪」を司る存在
まるで機械で変えたような声色で話す悪意の化身――「自らを殺すもの」は、その手に携えた薙刀を思わせる刃の形状をした大槍刀で迎撃することさえもせず、魔王の攻撃の直撃を受ける
標的に命中した魔王の闇が炸裂し、この世の全てを滅ぼす暗黒の力が世界を黒く塗りつぶす
「――ッ」
しかし、その一撃を命中させた魔王は、自身の身体に生じた焼けるような痛みにその目元をかすかに歪める
それに導かれるように一瞥すれば、攻撃を命中させたはずの魔王の身体には、いつの間にか刻み付けられた傷が顕現していた
「やはりだめか」
自らの身体に生じた異変に動じることなく、苦々しげに眉を顰めた魔王は、これまで数度繰り返してきたこの現象に視線を険しくする
その間にも身体に生じた痛みはまるで溶けるように消失し、魔王の身体は瞬く間に正常な状態へと回復していた
「学習シナイナ。何度ヤッテモ同ジコトダ」
そんな魔王に追い打ちをかけるように、消失していく闇の中から無傷のままで姿を現した現した自らを殺すものは、その機械質の声で告げる
「私ヲ攻撃スルトイウコトハ、自ラヲ攻撃スルトイウコトだ」
純悪の一翼である「自らを殺すもの」は、〝自殺〟の悪意。
神能が自らの存在そのものである全霊命は、自らの力で自らを傷つけたり殺すことはできない
だが、自らその命を絶つ自殺の悪意の力はその理を歪め、〝自分に与えられたダメージや死を相手のものとする〟こと。どれほど自殺に攻撃を仕掛けようが、その傷や損傷は全てそれを与えた者のものとなるのだ
「ソシテ――」
いかなる攻撃を受けても傷つくことのない己の力を示し、手にした大槍刀を握り締めた自殺は、その場から矢のように飛翔して魔王へと肉薄していく
「私自身ノ攻撃ハ、オ前ヲ殺セル」
その神格の許す限りあらゆる事象を超越する神速によって魔王との距離を瞬く間に詰めた自殺は、悍色の悪意を纏った刃を最上段から叩きつけるように振るう
しかし、同等の神格を得ている魔王はそれに動じることなく、自らの受けた傷を相手のものとしながらも自分は相手を容赦なく殺せる悪意の斬撃を自らの武器で受け止める
互いの武器に纏わされた神闇と自殺の悪意がぶつかり合い、その力とそこに込められた意志を世界に顕現して破壊と崩壊をもたらす
「――っ」
神に叛旗する悪意の力によって砕かれた暗黒の闇が世界をせめぎ合い、神に等しいそれぞれの力が一瞬拮抗するが、魔王は即座にその異変に目を瞠る
自殺の刃――その力と接触している自らの神闇がその力を失い、削り取られるように圧倒されていく
自殺の悪意たる自らを殺すものは、自らの受けた攻撃をそのまま相手のものとすることができる
それは当然攻撃であっても例外ではなく、刃をせめぎ合わせればその攻撃の威力はそのまま魔王へと還され、自らの力が自らの攻撃を相殺する
神格が同等であるために完全にとは言わないが、自殺自身の力に加えて魔王自身の攻撃の一五分がそのまま返されれば、どちらに軍配が上がるのかは明白だ
「気付イタカ? ――自殺ノ力ハ、心ヲ殺スコトダ」
その異変に瞬時に気付いた魔王の反応に、表情のない顔でほくそ笑んだ自殺は、機械質の声で冷ややかに告げる
全霊命は自身そのものである力で自分を殺すことはできないが、九世界の者達が自ら命を絶たないというわけではない
例えば、到底かなわないほどに強い力を持つ相手と戦うことになった時、死を覚悟で挑めば、見る者によってはそれを自殺と取るだろう
故に、自殺の悪意の本質は、「自殺をする」という行為、概念そのものではなく、そこに至る過程にこそある
命あるものにとって、最も尊ぶべき生を棄てて死を選ばねばならないほどの絶望。自殺とは、全ての生きる希望が尽き果てた果てに、心が死に至ることで生まれる終望の悪意だ
「コノ世界ハ、愛デ出来テイル」
魔王の攻撃を押し返し、薙ぎ払った自殺は、機械で変えた様なその声で淡々と言葉を紡ぎ、距離を取った最強の悪魔へと向かっていく
「〝世界ノ歪ミ〟――オ前達ガソウ呼ンダモノガ、ソウダッタヨウニ。神ハ、世界ニ愛ヲモタラシタ」
悪意の眷族だけが持つ悪意の力を注がれた自殺の力が空を薙ぎ、世界にその斬閃の軌跡を残す
神速で振り払われたその斬撃を紙一重で回避した魔王は、神の闇を注ぎ込んだ黒大剣を横薙ぎに振るってその無防備な胴に打ち込むが、自らの受けて傷をそのまま相手のものとする自殺の悪意の力によってその一撃は完全に沈黙してしまう
「故ニ、世界ハ愛カラ壊レテイク。――この私が司る悪意と同ジヨウニ!」
「……!」
刃をその身に受けながらも、それをものともしない自殺の言葉に、瞠目した魔王はさらに放たれた大槍刀の斬撃を寸前で躱して後方へと移動する
「世界の歪み」――今まさに起きている、神々の戦いの根底にある事象。破壊神が二柱存在することによって、本来あるはずのない〝異種族間の愛情〟、生まれるはずのない〝光と闇の子〟といった形で現れ、世界は蝕まれた
それは、神の存在の影響が愛にこそ直結しているからこそ。生きることも、戦う事も、全てがそこへと集約されるが故なのかもしれない
そしてそれは同時に、悪意の神片たる〝自らを殺すもの〟の司る悪意に近しいものだった
自殺の悪意の本質は、心が死を望むこと。そして望んだ果てに自らの消滅があること。自殺の悪意が司る純悪には、それら「異種愛」、「同性愛」が含まれている
自ら望んで自らを殺す「自殺」。そして、自分の種を未来へと繋げることを止めて、己の存在を殺す「自殺」。
それこそが、神敵の神片たる〝純悪〟――「自らを殺すもの」の力なのだ
「自分ヲ愛スルコトガデキナクナッテ己ヲ殺シ、愛スル気持チニヨッテ自身ノ存在ヲ絶ツ――ソレガ、自殺ダ。思エバ、今コノ世界ハ、私ノ形ヲシテイルノダナ」
その仮面のような顔で軽く空を仰ぎ、暗黒神によって作り出されたこの世界を俯瞰した自殺は、機械質の声で淡々と言い結ぶ
不気味な機械声で嗤う自殺の悪意の化身は、その悍ましい力を解き放つと、大槍刀を手に魔王へと襲い掛かる
「――意外と饒舌なのだな」
神速を以ってこの世の理を置き去りにし、さながら漆黒の矢となって飛来してきた自殺をその双眸で射抜いた魔王は、握りしめた黒大剣を斬り上げてそれを迎撃する
人型でありながら、まるで金属を凝り固めたような外見をした「自らを殺すもの」に魔王の神速の斬撃が直撃し、闇が火花を散らす
「生憎と、お前が司るもののことごとくは全霊命には共感どころか、理解もできないものだが、それでもただ一つ言えることがある――」
硬質な金属音を立て、自殺の頭を勝ちあげて態勢を無理矢理崩して見せた魔王は、神闇を纏わせた大剣をさらに一閃して打ち込む
「あまり見縊るなよ、自殺の悪意」
「――ッ」
魔王の斬撃が命中した瞬間、そこに注がれた闇が解放され、自殺を呑み込んで、そのまま枯骨のごとき白い大地に一点の淀みもない純然たる黒の斬跡を刻み付ける
純然たる意思によって紡がれた神の闇の力が大地を深く割断し、地の果てまで届かんばかりの裂け目を作り出す
「ク……ッ」
その割れ目の中から這い出るように姿を現した自殺は、金属質のその身体に無数の傷を刻み付けていた
「そろそろ無理が祟って来ただろう? 同等の神格を持つ者の攻撃をいつまでも無傷で凌ぎ切れるはずはないからな」
身体に罅を走らせ、その亀裂から血炎を立ち昇らせている自殺を睥睨した魔王は、その身に真黒の闇を纏って言う
「お前は自分の生を諦め、自らを殺す意思そのもの。ならば自分を癒す力なら、逆にお前に攻撃を通せるのではないか?――などという、つまらない小細工はしない」
瞬時にその傷を癒していく自殺に黒大剣の切っ先を向ける魔王は、厳かな声で威風堂々と言い放つ
自殺の悪意は、受けた傷をそのまま相手のものとするもの。ならば、癒しの力を撃ち込めんばそれが逆に相手を癒すことになるのではないかと考える者はいるだろう
だが、神の神格を持つ者の力に、そんな小手先の道理が通用するはずはない。受けた力の全てを相手に与える能力を持つ自殺もそれは動揺で、たとえ癒しの力を撃ち込もうが、それが自分に返ってくることなどありはしない
「私は貴様を、自らを殺す意思ごと滅ぼしてくれる」
神の域にある力は、事象そのものであり、事柄そのものを成す完全無欠の力。その能力を逆手にとることなどできないことを知っている魔王は、純然たる滅意に染まる黒闇を纏わせた大剣を構えて言う
その宣言を合図にしたかのように、どちらからともなく地を蹴った纏うと自殺は、神速によって一瞬でその距離を詰め、互いの武器を振るって神撃を打ち交わす
「――ッ、ソノ力ヤハリ……」
神速で振るわれる魔王の斬撃を大槍刀で受ける自殺は、その衝撃に機械質の声をわずかに揺らす
表情のない顔に浮かんでいる動揺と狼狽の感情が読み取れるかのようなその声音に耳を傾けながら、魔王は一撃一撃と共に自殺の能力によって還されてくる自身の攻撃の衝撃に眉を顰めながらも、全く怯むことなく刃を振るう
(暗黒神ノ〝闇〟――! 原初ノ神闇トナッタ魔界王ノ闇ガ、私ノ力デ返サレタ力ヲ、ソノママ吸収シテイルノカ)
魔王の神威級神器「永劫黒闇」は、闇の極神が一柱「暗黒神・ダークネス」の力の欠片たる「闇」の力の神器
神位第四位以下の全ての神の力を内包し、神位第二位に次ぐ暗黒神の「闇」の力の下位互換たる永劫黒闇は、その力を使うものを神の神格を持つ闇の化身とする力を持つ
全てを滅ぼす神の闇そのものとなった魔王の身体は、攻撃や武器、力を呑み込んで消滅させる玄奥と化しており、受けた力や武器、攻撃の威力を呑み込んで消滅させていた
そしてそれは、自殺によって返された自分自身の力の一端も例外ではなく、底のない深淵の闇そのものとなった魔王の中に一瞬の痛みを残して溶けるように消えていく
(ダガ、ソレダケデハナイ。奴ハ、自殺ヲ全ク恐レテイナイ……!)
せめぎ合わせれば自殺の力によって力負けしてしまうため、神速で振るわれる連続の斬撃を凌ぐ自殺は、その際に衝撃波と共に飛び散る闇と悪意の力の欠片の中から、魔王を見据える
確かに魔王は神器の力によって、自らに与えられるダメージを限りなくゼロに近いところまで減衰させることが出来る
それがこうして刃を打ち交わせる要因の一つであることは間違いないが、それは何よりも魔王が強いのは、〝攻撃した自分の力がそのまま自分い返されてくる〟という事実、そして自分の力で自分が殺される恐怖の前で居竦むことなく刃を振るうことができる意思だ
(私ノ力ニ微塵モ臆スルコトノナイ意思。絶望ノ中デモ自ラノ生ト勝利ヲ信ジ、諦メズニ戦ウコトガデキル意思――)
自分の攻撃がそのまま自分を害する自殺の悪意は、自分の力が決して自分を傷つけることのない全霊命にとっては特に忌むべきものとして映るだろう
だが、その力を前にしても魔王の刃、その力に通わされる自殺を滅ぼさんとする純然たる戦意と滅意には翳りや揺らぎは微塵もない
(生キルタメノ「勇気」――)
全霊命はもちろん、神においても重要なのは「戦う意思」。それによって神格の力はこの世界に望むままにその力を発現する
自ら生きることを諦める絶望に屈することのない不屈の意思。それがあれば、自殺の力は必要以上にその猛威を振るわない。
だが、それが頭でわかっていも心の中で何の迷いや躊躇いもなく振るうことができるとは限らない。〝自分で自分を殺してしまうかもしれない〟――そんな考えがわずかにでもよぎれば、それは〝自らを殺すもの〟の力の思う壺だ
「オオオオオッ!」
「――ッ」
自らを殺す力の恐怖に打ち勝った魔王が振るう大剣の刃が眼前へと迫るのを見た自殺は、それを阻むべく刃を振るう
自分の命を自分で絶つ、神敵の眷族だけが持つ純悪の悪意に染まった力が斬撃と共に凶大な奔流となって迸るが、魔王はそれに怯むことなく神闇を纏わせた大剣の切っ先を向けて、その中へと飛び込んでいく
〝神の闇〟と〝反逆〟。――神に反逆する悪意と、神の欠片たる純黒の闇がぶつかり合い、刹那の拮抗を持って混じり合う二つの力の渦を巻き起こす
それによって巻き起こされた神域の神格の力が粒子となって溶け、消失していくと、そこに現れたのは、右の胸を漆黒の刀身を持つ大剣によって貫かれた自らを殺すものと、それを刃で貫いた魔界王・魔王の姿だった
「――見事ダ」
鎧のような身体に深い亀裂を生じさせ、そこから真紅の血炎を立ち昇らせる自殺の悪意の化身は、神に最も近い最強の悪魔にして、神の闇を行使する魔界の王に、勝算の言葉を向ける
機械質の声で一言そう告げた自殺は、黒い刀身から注ぎ込まれる滅びの闇にその存在を呑み込まれ、悪意の力の粒子となって世界に溶けていく
自分の手で自分の命を奪う悪意が、他者の手によってその命を奪われ存在を失っていく様はどこか儚げに感じられる
「……っ」
自らを殺すものがその存在を完全に消失させるのを見届けた魔王は、崩れ落ちそうになる身体を大剣を地面に突き立てて支える
「やはり、奴を殺すとかなりの負荷が来るな……しばらくはまともに動けそうもない」
自身の受けた力と現象をそのまま相手のものとする自殺の悪意の力によって、自らに「死」の概念を与えられた魔王は、なんとか神器の力でそれを凌いだものの、しばらく戦うことが出来ないほどのダメージを存在に負ってしまっていた
「……他の王達の勝利を信じるしかないか」
助勢することが困難なほどの損傷を受けた魔王は、存在に負ったその力の余韻に歯噛みしながら、他の悪意と戦っている九世界の王達へと思いを馳せるのだった
※
「――っ」
その身に純白の光を纏い、六対十二枚の翼を広げた堕天使王「ロギア」は、白く染まった剣を手に知覚と意識を最大まで引き上げる
神威級神器「極聖白光」を発動し、黒き翼の堕天使から純白の天使の如き姿へと回帰したかつての十聖天の長にして天使王だった男は、その翼から光の雨を放つ
六対十二枚の翼から放たれた幾千もの白い光の流星は、それ自体が意思を持っているかのように、二つの群れに分かれて天を翔ける
ロギアが放った二つの光の流星群が向かう先にいるのは、神敵の神片――「純悪」の一角をなす悪意の化身――「狂楽に享じるもの」の二人だった
「ふふっ」
自身へと迫る光の流星を見据えて微笑を浮かべた〝女の享楽〟は、横長の瞳孔を持つ妖艶な美貌でそれを見据え、凶々しい形状の鎌を振るってそれらを相殺する
「ウラァ!」
そして、もう一つの光の流星を薙ぎ払って相殺した〝男の|享楽〝ウォール〟は、横長の瞳孔にロギアを映し、獰猛な笑みを浮かべる
全く同じ形状の武器を持つ二人の〝狂楽に享じるもの〟は、一つの神能が形をとった、一人で二人、二人で一人の存在
虐殺と拷問――心と身体を蹂躙することを愉しむ享楽の悪意は、男と女の姿でロギアに襲いかかり、波状攻撃を仕掛ける
「――っ」
左右、前後、上下から襲い掛かってくる享楽の悪意の斬撃を光となって回避し、純白の翼を羽ばたかせて飛翔するロギアは、神光の砲撃を放って迎撃する
「うふふ」
純白の極砲を、鎖で伸ばした凶鎌の刃を振り回して打ち砕いた女の享楽は、光の粒子となった光が溶けていく様に、恍惚とした表情を浮かべる
「早く、あなたを滅茶苦茶にしたいわ」
溢れんばかりの情動を抑えるように爪を噛み、愉悦めいた表情を浮かべる女の享楽は、ロギアを打ちのめして、嬲り、犯す光景を想像して艶めかしい息遣いで言う
「ねぇ、享楽。早くこの方を倒しましょう? わたくしに彼を楽しませて頂戴」
それに答えるように、男の享楽の武器である大鎌の禍々しい形状をした凶刃を持つ鎌が飛来し、ロギアの傍らを掠めていく
「――ッ」
鎖で柄と繋がった刃が神速で天を奔る様は、まるで鋼質の鳥が翼を飛翔しているかのよう。その一撃を掠められたロギアは、傷口から伝わる痛みとその刃によって斬り裂かれた霊衣を一瞥し、忌々しげに眉を顰める
(神能を破壊し、いたぶる力……)
かすかな血炎を上げる傷口に焼けるような痛みを覚えながら、ロギアは男女の享楽が操る刃を回避して、光の砲撃によって迎撃する
悪意の眷族の一人である、「狂楽の享じるもの」の力は、男と女二つの姿を持っていることだけではない
強さと弱さから相手の心と身体の尊厳を踏み躙る享楽の悪意は、〝霊〟の力を破壊し、痛みを増大させて回復を妨げる力を持っている
神能そのもので構築された全霊命の身体、あるいは霊衣を容易く斬り裂き、回復を遅らせる
ロギアの神威級神器「極聖白光」は、光の極神「天照神・コロナ」の力の欠片たる「光」の神器。
その神光によって獲得した神の神格とそれに比例する力を得た今のロギアは、光によってあらゆる傷を浄滅させ、どのような傷もたちまち癒す力を持っている。だが、その回復が今は滞り、刃を重ねる度に回避しきれない悪意の棘がその身体に無数の傷を刻み付けていっていた
「そういえば、そもそもあなたは、何で堕天使なんかになったのですか?」
虐殺や拷問を司る悪意であるが故に、相手を痛めつけ、いたぶる特性を持つ享楽の悪意をロギアに叩きつけて傷を刻む女の享楽は、その痛みにも臆することなく刃を振るうロギアを見て、おもむろに口を開く
「確か、堕神も真の神器から神化したんだったな? その辺りに関係があるのか?」
「――っ」
女の享楽の攻撃の合間を縫うように凶鎌を振るった男の享楽の斬撃を寸前で防いだロギアは、光と悪意が相殺して生じる火花と共にわずかに後方に下がる
「あら、そうなのですか? なら、あの堕神はかつては闇の全霊命だったということなのですね」
ウォールの斬撃にわずかに体勢を崩したロギアに追い打ちをかけるように、肉薄してきていた女の享楽が、わざとらしい口調で語りかけると同時に凶鎌による斬撃を見舞う
そこに込められた悪意の力の噴嵐がロギアを呑み込み、その身に纏われた守りの白光に浄化されて消滅していく
全霊命ならば誰もが神の器となることはできるが、神となるためには、一つの理がある
それは、光の神となることができるのは光の全霊命だけであり、闇の神となることができるのは、闇の全霊命だけ。という至極単純なもの
光の全霊命に闇の神を封じることもできるが、その場合真の神器となった人物は、その神の力と一体化し、神化することはできない
そして、神位第六位の闇神の一柱「堕神・フォール」は、かつて真の神器だった。神を宿し、全霊命から神となった堕神は、かつて悪魔、鬼、死神、妖怪のいずれかであったことは明白
そして、堕天使王となったロギアが、その恩恵を受け、天使を堕落させて闇の翼を与えるほどの力を授かったとなれば、その間にただならぬ関係や因縁があったことは想像に難くない
「もしかして、最強の天使様が、闇の存在に恋してしまったのでしょうか?」
まるで、戯曲を読むかのように、大げさな抑揚をつけて言う女の享楽の斬撃がロギアを捉え、それを受け止めた純白の剣とせめぎ合って、光と悪意の火花を散らす
「光の存在を愛するために、女は神となり、そしてお前は闇の女と結ばれるために自らの存在を闇へと落としめることを選んだ」
「光と闇の全霊命の許されざる愛が、天使に闇の翼を与える呪いとなってしまったとしたら……なんてロマンチックなんでしょう?」
それに続き、男の享楽が斬閃と共に反逆の力の波動を叩きつけ、そこに女の享楽の横薙ぎの斬撃が撃ち込まれる
二人で一人であるその存在に相応しく、一つの言葉を二人で分けて紡いだ狂楽に享じるものは、それぞれの顔に嘲笑めいた悪辣な表情を浮かべていた
「なっ!?」
しかし、次の瞬間表情は凍り付かせた女の享楽が横長の瞳孔を持つ瞳をゆっくりと下に下げると、そこに純白の槍刀の刃が自身の胸部を穿っているのが映る
(全てを照らし出す光の力ですね)
自身の腹部を貫いた純白の槍の刀身を一瞥した女の享楽は、そこに込められた滅与の思念と概念、そしてそれに伴う死感の痛みに愉悦の笑みを浮かべる
闇を払い、世界を満たすものが光。光とはどこにでもあり、一度差し込めばそこにあるものを普く照らし出す
その光そのものである光の神の力があれば、全ての攻撃は必ず届く。全ての場所に存在し、全ての場所がその手の内である光の神の力の一端にして一質。その力を以って、ロギアはその槍の刀身を女の享楽へと突き立てていた
「――さすが。下卑た妄想だ」
悪意の力の渦の中から現れたロギアは、その身にあらゆる力を阻む光を纏い、それでも防ぎきれなかった分の傷から血炎を揺蕩わせながら、鋭い意志の込められた瞳で女の享楽を射抜く
神能による護り、霊衣を含め霊の力を破る享楽の悪意の力に傷つきながらも、恐れ臆すことのない意志の光を灯すロギアは、光を伝って純白の槍刀へとその力を注ぎ込む
「だが、生憎と俺とあいつの関係は、お前達が思っているようなものじゃない」
厳かな声と共に放たれた言葉と共に、純白の槍刀から光の翼が生えて飛翔し、その斬閃によって女の享楽の身体を両断する
光の斬閃を天空に刻み付け、享楽の悪意の片割れを両断した槍刀を自身の手に帰還させたロギアに、身体を両断されたまま目を見開いていた女の享楽の双眸が向けられる
「無駄ですよ」
横長の瞳孔を持つ瞳でロギアを射抜いた女の享楽は、一瞬にして両断されたその身体を修復すると、そのままの勢いで凶鎌を振りかぶる
「私達は、二人で一人。どちらかを殺しただけではどちらを殺すこともできません」
「っ」
その最中に横から肉薄してきた男の享楽の斬撃を受け止めていたロギアは、自身へと放たれたもう一つの享楽の悪意の斬撃を光の結界で防ぐ
霊の力を剥ぎ破る享楽の悪意が、神光で織り上げられた光の結界を砕いて相殺し、力の残滓が世界へと溶けていく中、男の享楽を振り払って飛翔したロギアがおもむろに口を開く
「お前達こそ分かっていないんじゃないか? 光は全てを審らかにする。お前たちが同じものだと明らかならば、その力は一撃でお前達に届く」
「ッ!?」
淡々とロギアの口から紡がれた言葉を聞いた二人で一人の享楽が瞠目した瞬間、二人の胸部に光が灯り、先程女の享楽を斬り裂いた純白光の斬撃が、再びその力を発現させる
(わたくし達の存在の繋がりを辿って攻撃を……!)
(因果系統の力か)
先程女の享楽が受けた一撃に、二人の享楽の悪意は口端から血炎を零して目を瞠る
もし、享楽の悪意としての特性がなければ絶命していた先の斬撃の衝撃に、男女二人の享楽は呻き声を零してロギアを見据える
同等の神格によって防いだため、死を与えられることこそなかったが、天照神の光の欠片による粛清の輝きの力に、二人は確かな損傷を受けていた
しかし、一歩間違えば死に至っていたであろう、その一撃を受けた享楽の顔に浮かんでいるのは、喜悦とも取れる狂悦の表情だった
「――ク、ハハハハッ! いいぜ、こうでなきゃぁなァ!?」
二人の享楽が笑みを浮かべたのは、自らが死に瀕する――命を失うかもしれないという極限の状況を愉しんでいるから
死と臨するからこそ、命あるものは最も恐るべき終わりを回避するために最も高揚し、生きている事実に興奮することができる。享楽――あらゆることを、悪しく楽しむ悪意の本性をむき出しにした二人の享楽は、その一撃に怯むことなくロギアへと襲い掛かる
「もっと楽しませてくれよ!」
その数の優位を最大限活かすために二手に分かれた男と女の享楽は、ロギアを挟み込むようにして迫り、その斬撃を見舞う
神速で振るわれた斬撃を光となって紙一重で回避したロギアは、そのまま男の享楽へと、その純白の槍刀を突き立てる
「――っ!」
しかし、その胸の中心を穿ったロギアは、槍の柄を掴んで口端を吊り上げる不敵な笑みを浮かべた享楽に、思わず息を呑む
「ッ!」
瞬間、男の享楽の身体から生えた女の享楽の手が、凶々しい形状の刃の切っ先をロギアの胸の中心に突きたてる
「ガ……ッ」
胸の中心に刃を突き立てられ、激痛と共に血炎を零したロギアに、その斬撃の主である女の享楽は、男の享楽を貫いたままで語りかける
「わたくし達は同じ存在。だから、こんなこともできるのですよ」
「狂楽に興じるもの」は、一つの存在で男女二つの人格と姿を持つ悪意。一つの命を二人で共有し、二つの身体を一人で共有している
ならば、その存在を片方に回帰させ、そこから再び身体を顕現させることなど造作もないことだ
(ここまで、この戦い方を温存してたのか……!)
胸を穿たれ、虐殺と拷問を司る享楽の悪意による激痛に蝕まれながら、ロギアはその目的を瞬時に理解する
「ふふ。大丈夫すぐには殺しませんよ? いたぶって、嬲って、弄んで、たっぷり時間をかけて遊びましょうね」
その胸の中心を穿った凶鎌の柄を握り直し、その刃をさらに抉り込むように動かす女の享楽は、愉悦の表情を浮かべて、興奮を露にして言う
「あなた、まさか……っ」
だが、次の瞬間、女の享楽はロギアの胸を貫く鎌の感覚に、信じ難いものをみるように目を見開く
「ッ!」
だが、それに気付いた時にはすでに遅かった。ロギアの手にあった純白の槍刀の柄が光によって伸び、二人の享楽の悪意を纏めて串刺しにする
「な……っ!?」
(神能を破壊する享楽の力を受けているのに、どうして動けるのですか!?)
霊の力を破る享楽の悪意を身体に直接撃ち込まれれば、魂と存在が痛み、まともに戦うこともできないほどになるはず
だが、その悪意を受けながら、ロギアは全く衰えることなく男の享楽と共に、自身を貫いている――その事実に、女の享楽は横長の瞳孔を持つ瞳を丸くして驚愕を露にする
「おかしいとは思わなかったのか? 俺だけが神の力の一端を神器を使うことなく行使できることを」
二人の享楽をその純白の槍刀で貫いたロギアは、戦慄の表情を浮かべている男と女の悪意に、抑揚のない声で語りかける
「堕天使王・ロギア」は、天使を堕天使にする力を持ち、〝生きた神器〟と呼ばれている。
光の存在である天使を闇の存在である「堕天使」へと変えるその力は、「堕神・フォール」の力によるもの
それ自体にはなんの問題もない。だが問題は、ロギアが神器を使うこともなく、その存在に堕神の力を宿していることだ。そんな力を持っている者は他にない
「俺は、もう死んでるんだよ」
その言葉の意味を瞬時に理解し、隠しきれない驚愕にその目を見開いた二人の享楽を視線で射抜いたロギアは、その事実を端的に告げる
「今の俺は、堕神によって作られた命によってこの存在を保っているに過ぎない。極聖白光を使うことができるのは、その命を形作っているのが、俺の魂の残滓だからだ」
かつて、天使王ロギアは死んだ。その命を堕神・フォールが繋ぎ合わせ、それでも足りない部分をその闇で補った結果、ロギアは世界で最初の堕天使となった
天使を堕天使へと変える力は、神器となったロギアの存在――その命を形作る堕神の力によるものなのだ
「俺の命は堕神の手の中にあるのであって俺の中にはない。それを知らなかったお前達が俺を殺すことは不可能だ」
いうなれば、ロギアの存在は堕神に直結している。故に、例え同等の神格をもっていようと、享楽の悪意が死を与えるには、その命は遠すぎる
決して殺すことができないわけではないが、ロギアという存在を殺そうとする意思を注がれた神能では、その力が殺がれてしまう
「悪いが、この秘密はあの世までもっていってもらうぞ」
「――ッ!」
神の神格を持つ自らの存在そのものである武器にロギアがその意志と力を注ぎ込むと、純白の輝きを放った槍刀が全てを滅浄する光の奔流となる
二人の享楽を貫いたまま光となった純白の神光が天を衝き、それはさながら墓標のように闇色の空に輝く
「――……」
全てを滅却する聖白光が消え去り、そこに存在していた二人の狂楽に享じるものの存在が消失しているのを見届けたロギアは、全身から血炎を立ち昇らせていた
胸の中心に凶鎌の刃が突き立てられていた傷痕は、未だ癒える気配はない。いかに神威級神器の力と以ってしても、同等の神格を持つ享楽によって受ける傷は、確かにロギアの存在を害するだけの力を持っていた
「あとは任せるぞ」
遠い日――かつて、自身が堕天使となったその日へと想いを馳せたロギアは、その瞳に移した堕神の姿を思い返すと、まるで力尽きたかのようにその場で態勢を崩して地面へと落下していく
骨を思わせるほどに白く、何もない大地へと墜落したロギアは、黒く澄んだ空を見上げるとゆっくりと手を伸ばす
闇に隠されてみることのできない光源を掴もうとしているかのように伸ばされた手が空を切り、太陽さえ存在しないこの世界の闇を掴むと、ロギアは他の王達の勝利を願って厳かな声音で語りかけるのだった