慈愛の翼
天を舞う闇が全方位から飛来するのを見て取り、輝く光がそのことごとくを迎撃して相殺し、空に世界の根源の力の渦を生み出す
そんな中を飛翔するのは、水晶の飾りを付けた紫紺色の髪を揺れめかせ、金色の光背から生えた翼を羽ばたかせる光の主神の一柱たる女神――「永遠神・エターナル」
その手に虹色の光を帯びた刃を持つ薙刀を携え、極彩色の虹彩を持つ瞳を向ける女神の身体には、闇色の剣がいくつも突き刺さり、血炎をくすぶらせている
永遠神は、その名の通り尽きることのない悠久と永久を司る神。その存在が永遠であるが故に、殺すことはおろか、傷をつけることさえもできない
だが、同等の神格を持つ神が相手となれば、その永遠なる存在の持つ不変性も揺らいでしまう。永遠の光を纏う女神に襲い掛かるのは、どこまでも暗く静謐な黒き闇の剣だった
「く……っ」
神速を以って迫り、まるで影のように回避も許さずに迫る闇剣を極彩色の光を帯びた刃で斬り捨て永遠神は、その極彩色の光でその涯にある闇を捉える
そこにいるのは、艶めかしい色香を感じさせる霊衣を纏った暗紫色の長髪を持つ女神「無窮神・イモータル」
永遠を司る永遠神と対を成す、虚無闇を司る闇の女神であり、その美貌は慈母を彷彿とさせる穏やかな微笑を湛えている
「ふふ、残念だわ。あなたを、こんな形で追い詰めるなんて」
白い肌に生える赤い紅で彩られた花唇を動かし、柔らかな声で語りかけた無窮神の背は、複合弓を思わせる金属質の黒翼が生えており、その左手には盾のようにも剣のようにも見える巨大弓を携えていた
その背の黒刃から放たれる闇矢がまるで意志を持っているかのように、永遠神へと襲い掛かり、そしてその巨大弓に収束された虚無闇が、極大の砲撃となって迸る
「――っ」
瞬間的に展開した永続の光障壁がそれを阻むが、すべてを虚無へと還す闇は永遠神の守りを相殺し、破滅の衝撃を巻き散らす
「永遠神……!」
虚無にして永劫の闇であると同時に、安らかな眠りを齎す揺り籠でもある無窮神の攻撃を受け、時すら存在しない常闇に永遠神が呑まれるのを知覚した自由神・フリーダムは視線を向ける
五柱全ての主神が揃っている闇とは違い、二柱欠けた不利な状態で戦いに挑まざるを得ない自由神は、仲間の危機に、自身の武器である剣の柄を強く握りしめて駆け付けようとする
「よそ見をしている暇があるのか?」
だが、そんな自由神の意識を現実に引き戻したのは、金色の縁取りがされた黒衣を翻らせる褐色の肌の男神「滅亡神・ロスト」の声だった
「く――っ」
その武器である身の丈ほどの長さに分厚い刀身を持つ鉈を持つ方ではなく、空いている方の手が自分に向けて掲げられているのを見た自由神は、焦燥に駆られて光を纏って剣を振るう
滅亡神・ロストはその名の通り、あらゆるものがいき尽きる涯――滅亡や絶滅を司る神。因果を逆行し、特定の条件を満たす対象に、同時に全ての効果を発現させることが出来る
世界を越え、種族、民族、存在――この寄りにある、ありとあらゆる全てを望むままに絶ち終わらせることのできる神がその力を応用すれば、因果を手繰り寄せて標的――神魔をその手元に呼び寄せることなど容易い
対して自由神は、光の主神の中でも正義神と並んで戦闘力に秀でた神。自由とは、自らの意思で戦うことができるということであり、戦うものを選ぶことができるということ
世界を編纂し、事象を選択する力を持つ自由神は、その武器である剣の一閃によって滅亡神が掴んだ神魔の因果を断絶して手繰り寄せるのを防ぐ
「――ッ!」
なんとか神魔を奪われるをすんでのところで防いだ自由神だったが、滅亡神が浮かべる不敵な笑みを息を呑む
それと同時に、上空から迫りくるのは長い黒髪を翻し、右の背から黒翼を生やした四本の角を持つ神――「絶望神・ディスペア」
三又の黒矛の先端に闇を束ねた絶望の神がその力を解き放つと、抗うことを許さない終わりの力が自由神へと叩き付けられる
「――っ」
命中する攻撃を自由に選ぶことが出来る事象選択の特性を持つ自由神を呑み込んだ絶望の闇は、その力と抵抗を許さずに、その凶悪な力を知らしめる
絶望神・ディスペアの神力である「絶望」は、無力さを知らしめる力にして、心を殺す闇。
奇跡に等しい微かな希望すら存在を許さず、抗う意志も力もなくただ絶望の中で終焉を迎えさせる闇が世界を黒く塗りつぶす
だが、その絶望も無窮神の闇も、自由神、永遠神を滅ぼすには至らない。その光を持って神闇を抜けた二柱の神は、それぞれの武器を手に闇の主神達に相対する
自由神、正義神、永遠神――傷を負いながらも、全く戦意を失わない視線を向けてくる光の主神たちに、敬意と敵意を持って相対する四柱の闇の主神達は、かすかにその視線を傾ける
「――空気が変わったな」
四柱を代表して小さく独白した絶望神の視線は、殲滅神と戦っている悪意の王の先――自分達に抗う力を持たない九世界の者達が集まっている場所へと向けられていた
※
「私を、神にして」
マリアの口から発せられたその言葉は、ただ神々の戦いとその成り行きを見守っていることしかできなかった九世界、十世界の者達の間に静かな沈黙を落としていた
その中でも特に目を瞠ったのは、マリアの実母であるアリシアと、天界の姫リリーナ――そして、自らの想いを伝えたばかりの天使「クロス」だった
「マリア。それがどういうことが分かってるのか……?」
自身へまっすぐに注がれている視線に息を呑んだクロスは、焼き付いたように熱を帯びた喉を動かして声を絞り出す
その問いかけに、マリアは小さく――しかし、確かな決意と力強さを以って頷く
神となるということは、天使としてのマリアが死ぬこと。真の神器となったマリアが天使という存在の枷を取り払い、その魂を内に宿した神のそれへと変えることを意味している
「死ぬかも、しれないんだぞ……?」
リリーナもアリシアも、マリアの決意に関して自ら口を開くようなことはせず、クロスとのやり取りを見守っている
天界王「ノヴァ」、そして各国の原在達、神と戦う力を持たない者達が見守る中、クロスはマリアの意思を確かめるように言葉を並べていた
「分かってる。でも、このままじゃこの世界がどうなるか分からない」
マリアに宿った神は神位第五位。それによって闇の主神の数的優位は失われるが、その戦いで命を落としてしまう可能性が生まれる
神となって命を落とせば、確実にマリアの人格は失われる。神として死ぬことはなくとも、マリアとして死んでしまうことになるのだ
「そんなの、今までだって同じでしょ?」
だが、それはこれまで経てきた戦いも同じこと。常に命をかけ、同格とは言い難い相手とも何度も戦ってきた。それが偶然のものだったとしても、今それを理由に戦わないという選択をマリアが下すことはなかった
「なんで、お前が出て行く必要があるんだよ。このままお前が戦わなくても――」
そんな言葉に、クロスが慟哭を押し殺したような口調で声を絞り出す
本当は声を荒げて叫び出したいほどの衝動に駆られているであろうことが容易に見て取れるクロスを見るマリアは、その目を優しく綻ばせて微笑む
「クロスが私のこと大切に思ってくれてるのは分かる。私だって本当は神になんてなりたくない。ずっとクロスの傍にいたい」
「なら――」
大切に思ってくれているが故のクロスの思いを汲み取っているマリアは、寂寥感と憂いを帯びた表情でその細い指を握り締めて言う
ようやくクロスと気持ちを通じ合わせることができたばかり。これから、二人の未来は無限にも広がっている――だが、それを分かった上でマリアは訴えるように言う
「でも、このままじゃ神魔さんが死んじゃう」
静かに絞り出されたその声は、痛みを抱くマリアの心そのものだった
「――ッ! 俺は……」
「もし、封じられた破壊神が復活して、その後世界はどうなるの?」
その言葉を聞き、それを理解しながらも拳を握り締めてクロスが発しようとした声を、マリアはあえて自ら遮る
「神魔よりも自分の方が大切だ」――クロスは、二つの命を天秤にかけ、そう答えを導き出そうとしてくれた
それは、マリアにとって嬉しくもあることだが、同時に自分のためにクロスに誰かを選んでほしくないという一人の女としての願いだった
そんな思いを感じ取ったのか、口を噤んで先程の言葉を呑み込んだクロスをまっすぐに見つめてマリアは口を開く
「もし破壊神と創造神様が戦えば、世界は必ずそれに巻き込まれる――皆が、クロスが死んでしまうかもしれない
でも、神魔さんならきっと悪いようにしない。そう思えるくらいには、私は神魔さんを信じてる――クロスだってそうでしょう?」
マリアはクロスが誰よりも心優しい天使であることを知っている。そんな人だから、混濁者である自分を受け入れてくれたのだし、自分も好きになったのだ
そんなクロスが、悪魔だからと簡単に神魔を切り捨てることなどできるはずがないことをマリアは知っている
そして、口では言わないが、クロスが神魔に親しみの感情を抱いていることをマリアは知っている。本当は神魔に死んでほしくないと思っていることも分かっている――それが、これまで築いてきた神魔への自分達の信頼だ
「そうはならないかもしれないだろ。それにあいつを破壊神にしたところで、破壊神に勝てるかどうかも分からないんだ」
マリアのまっすぐな気持ちを受け止めながらも、クロスはそれに答えることを躊躇い、苦渋の面持ちで訴えかける
封じられていた破壊神が復活したからといって、かの闇の絶対神が創界神争の再現をするかは分からない
また、仮に神魔が破壊神になったとして破壊神に勝てるとも限らない。そのリスクを前提に考えれば、マリアが神になることをクロスが同意できないのも当然だった
「そうだね」
それに応じたマリアの寂しげな声は、先のクロスの言葉の内容を肯定し了承するものではなく、そうではないことを望んでいる自身の心中を表すものだった
「でも、戦う力を持っているのに、なにも選ばずにただ決まっていくものに身を任せていくなんて、私にはできない――したくない」
ここでマリアが神にならなくとも、世界は神を中心に動き、やがて結果をもたらすだろう。だがそれをただ黙して待つことなど、マリアにはできなかった
「…………」
介入することはおろか、知覚することさえできない神々の戦いの神圧を感じながら、マリアはクロスの瞳にまっすぐに訴えかける
その真摯で真っ直ぐな眼差しは、クロスに遠い昔の自分を思い起こさせる
かつて、友であるシャリオが悪魔との道ならぬ恋に落ちた時、クロスはその前に立ちはだかった。――その結果はクロスの望んだものではなかったが、あの時かけがえのないもののために刃を取ることを選んだ自分が皮肉にも今のマリアに重なる
「それに、神魔さんはクロスを助けてくれた。だから私には、このまま神魔さんを見捨てることはできない」
リリーナやアリシア、そしてそのシャリオ達の視線を一身に受けるクロスとマリアは、互いの思いに触れ合うように言葉を交わす
《大切な人を想う心が届かないほど、遠くはないつもりなんだ》
その言葉と共にクロスの脳裏に甦ってくるのは、冥界でシャリオと再会し刃を交わした時に神魔が発した言葉
天使と悪魔。光と闇――相反し、相容れることはなく、友だからでもなく、理解することもなく、それでもただ一つの願いに応えて刃を振るった悪魔の言葉
《気持ちは分からなくはないけどさ。それで全部を失ったら後悔するよ》
《同じことだ。片方でも失ったら後悔するだろ》
そして、それに次いで甦ってきたのは、その時に神魔と交わした言葉のやりとりだった
シャリオとマリアを天秤にかけて大切な方を選べばいいと、大切なもののためにはそれ以外の全てを切り捨てることが出来る悪魔らしく述べた神魔に対し、クロスは自分の考えを返した
「――あぁ、そういえば、俺は自分で答えてたんだったな」
今その時に話した内容と同じ状況になり、自分が選んでいたことに思い至ったクロスは、思わず自嘲めいた笑みを零す
「クロス……?」
その時のやりとりまでは把握していないマリアは、クロスのその様子に怪訝に柳眉を顰める
「いや、何でもない」
マリアの不安そうな視線に小さく首を横に振って応じたクロスは、一つ大きく息を吐く
それは、自身の中に溜まっていた様々な感情を吐き出しているようにも、熱くなった心を冷ましているようにも見えた
「覚悟は決まってるんだな?」
真剣な表情で問いかけてくるクロスの言葉に、マリアはそれをまっすぐに受け止めて、確固たる決意を宿した視線を返す
「私は死にに行くんじゃない。みんなと私達二人の未来を手に入れるために戦いにいくの。だから、信じて」
一つ頷いたマリアは、自らの覚悟を表明するように、優しく、そして力強く応じる
その「信じて」は、自分を信じてという意味だけではなく、神魔を信じて欲しいという思いから発せられたもの
神魔が破壊神となって勝利すること、自分が死なないこと、神となってもクロスを想い続けること――それは、マリアが今日まで培ってきた、自分を支えたくれた人に対する感謝の気持ちだった
「俺は自分のことだけだった。お前と離れるのが嫌で、お前を失うのが怖くて、お前が遠くへ行ってしまうのを止めたかった」
そんなマリアの視線を受けたクロスは、優しくその瞳を見つめて言葉を発する
それは、不器用ではあるがクロスがその本心を綴った言葉。マリアへの純粋な想いが込められた、一言一言に深い重みのある響きを帯びたものだった
「クロス」
そして、そんな迂遠で純真なクロスの告白を正しく受け取ったマリアは、胸に響くその言葉を噛みしめて頬をかすかに赤らめる
「お前は、俺だけじゃなくて皆の事を思ってくれてるんだな――大した奴だよ」
そんなマリアをまっすぐ見つめるクロスは、心配や憂いを帯びながらも、その信頼に応えんとする優しい表情で言葉を締める
そう言ったクロスの表情は、マリアを誇りに思うのと同時に、自分が愛した女性を思う男としての気持ちがはっきりと現れたものだった
「ありがとう」
自分の願いを受け入れ、そして見守る覚悟をしてくれたクロスに、マリアは謝罪とそれ以上の感謝を込めて愛言を紡ぐ
その一言にどれほどの思いが込められているか、その一言にどれほどの年月の重みが染み込んでいるかを伺い知ることができる者などいない
ただ、心を見せ合うように視線を交錯させるクロスとマリアだけがそれを知り、そして詩織、リリーナ、瑞希、アリシア、シャリオ――それを見ていた者達は、答えが出たことを理解する
「お前がこれだけの覚悟で命をかけるんだ。破壊神様と創造神様も褒美に俺を神界に連れて行くくらいのことはしてもらわないとな」
マリアを神として送り出し、見届ける覚悟を決めたクロスは、小さく笑みを零すと、努めて表情を綻ばせて言う
闇の神に狙われ、今にもその手中に落ちてしまいそうになっている神魔はもちろん、マリアの中にいる光の主神「慈愛神・ラブ」の力があれば、数的不利にある光の神の戦力になり、創造神に狩りを作ることが出来る
神魔が破壊神として神成し、封じられた破壊神を取り込むことが出来れば、それは神魔に貸しを作ったことになる
「ふふ、そうだね」
緊張を和らげようとしているのか、自身の中にある不安を払拭しようとしているのか、そんな冗談めいたクロスの言葉に微笑を零したマリアは、一度目を伏せる
「リリーナ様、天界王様、アフィリア様――お母さん」
想いを伝え、想いを受け取ったクロスから視線を外したマリアは、自分を支えてくれた人たちへと向き直る
「勝手に決めてしまってすみません。でも、私のこの力で、私は私の大切なものを守りたいんです」
アリシアが神を宿さなければマリアは生きていなかった。天界王とアフィリアがいなければ、今こうしていられなかった。リリーナがいてくれたから今こうしていることできる
例えそれが天界の利益のためであったとしても、今自分がここにいられることに深い感謝を抱いていることを伝えたマリアは、深く頭を下げる
「マリアちゃん」
そんなマリアの姿にリリーナが声を詰まらせ、天界王・ノヴァとアリシアが頷き、アリシアが慈しむような眼差しを送る
自分を生かし、認め、支えてくれた人達に挨拶をしたマリアは、再びクロスの方へと向き直る
それが、準備ができたことの合図であるとを正しく理解し、自分の手で神にしてほしいという無言の願いであると分かっているクロスは、マリアに一度鷹揚に頷いて応じると、その手に自身の武器である大剣を顕現させる
マリアを神にするのに特別な方法は必要ない。その身体を貫き、天使としての生を終えさせればよいだけのことだ
「でも、いくら大丈夫だってわかっていても、やっぱり死ぬのは少し怖いな」
剣を手にしたクロスにその目元を綻ばせたマリアは、可憐な声を紡いで言う
それと同じ思いからなのだろう――剣を握る手をかすかに震わせているクロスへ語りかけたマリアは、一歩前へと踏み出してその距離を縮める
「ねぇ、クロス。少し頼らせてもらってもいい?」
「ああ」
死の恐怖を押し殺すように、無理に作った笑みを浮かべるマリアは、クロスの答えに目を伏せて恥じらいながら言葉を紡ぐ
「手を繋いでいてほしいの。――あなたの温もりで、私がこの世界に留まることができるように」
たとえ死を迎えても、クロスの温もりが自分の意思を髪としてこの世界に留めてくれると信じているマリアは、そう言ってゆっくりとその手を差し出す
「任せろ」
それに答えたクロスは、マリアの手に自身の手を重ね、解けることが無いように指を絡める
「お前を一人にはしない。仮にお前が神になってこの世界を離れることになっても、俺も神器を見つけて、
お前のところに行く」
「信じてる」
手のひらを重ね、互いの温もりを伝えあったクロスとマリアは、一度額を合わせると至近距離で見つめ合って言葉を交わす
「ずっと一緒だ」
「はい。ずっと一緒だよ」
互いの想いを確かめ合うように微笑み合い、番い添い遂げる誓いの言葉を交わした天使達は、手を繋いだまま寿ぐように互いの名を呼ぶ
「クロス」
「マリア」
その時互いの気持ちが通じ合わせたまま、クロスの大剣がマリアの胸がの中心を貫く
一瞬その痛みに眉を顰めるマリアだが、すぐさま安らかな表情を浮かべると、不安そうな表情を浮かべているクロスに自ら唇を重ねる
「――ッ!」
神にするためとはいえ、自らの手で愛する女性を傷つけることに苦悩を覚えていたクロスは、それに全く反応することが出来ずに目を丸くする
繋いだ手と重ねた唇を介して伝わってくる互いの温もりを噛みしめるクロスとマリアは、瞼を閉じてその愛に心を委ねていた
その時、正確にその命を断ち切ったクロスの刃によってマリアは死を迎え、その身体が存在の戒めを失い光力へと還ってほどけていく
純白の光となってその輪郭が朧げに世界へ溶けていくマリアとクロスは視線を交錯させ、そしてその光は緩やかに世界に対する存在量を失う
――しかし、次の瞬間光へと溶けて消えたはずのマリアの存在が再び光となってその場へ収束し、クロスの手を強く掴んだ
死によって天使としての存在の枷を解き放ち、その存在に融合していた神の力が顕在化し、マリアの魂を核に、その意思を軸に新たにこの世界に自らの存在を再定義する
その背から六対十二枚の純白の翼が広がり、一度クロスを抱擁するように閉じてから大きく開いて白い羽を舞い踊らせる
薄桃色の上着を羽織った金縁の純白の霊衣が長い裾を翻らせ、その金色の髪は天使だった頃よりも一回り長くなってオーロラのように揺らめく
白い花のような冠髪飾りを付け、半透明のヴェールをなびかせる姿となったマリアは、自身が神として正しく生まれ変わることができたことを理解して、クロスに慈愛に満ちた笑みを向ける
「あれが――」
「慈愛神」
新たに生まれ変わったマリアの姿に姉のように接したリリーナが声を詰まらせ、その神としての名を母であるアリシアが紡ぐ
最期を迎えた時と同じように、今すぐにでも唇を重ねられるほどの至近距離で存在を再構築したマリアは、クロスに一度頷き、微笑みかけると反転して空へと舞い上がっていく
「恩愛神」
指を絡めて結んでいた手を解き、クロスの温もりを名残惜しく思いながら、慈愛神として神化したマリアは、自身の神力を武器として顕現させ、その手に身の丈ほどの長さ持つ長杖を握り締める
先程までクロスと繋いでいた手で純白の柄に金色の装飾、輝く宝珠を備えた杖を握り締めたマリアは、十二枚の白翼を広げる
「皮肉なものだ」
神となり、もはや自分達の知覚では捉えることのできない戦いへと赴いたマリアのいた場所へ視線を向ける天界王・ノヴァはその口を開いて独白する
一見独り言のようなその言葉が、しかしこの場にいる天使達――そして自分へ向けられたものであることを正しく理解している天界王妃「アフィリア」は、マリアの消えた空に向けていた目を瞼の下に隠して口を開く
「九世界の王達はそれぞれの戦場で戦っているというのに、私達天使だけがなにもできず、この事態を静観していることしかできないのですものね」
この場から姿を消した九世界の王達は、暗黒神によって作られた別の世界で、反逆神の神片達と戦っているであろうことを、この場にいる誰もが理解している
だが、今の天界、天使には神威級神器のような、神の神格を持つものと戦う力と術がない。故に、天界だけが、今後の世界を左右するこの戦況に於いて、ただ事態を静観しているだけだった
「そして、天使が最後に自分達の希望を託したのが――」
かつて創造神の勝利により、世界の主導を得た光の世界――その中でも中心的役割にいた天使が、この局面で何もできていない無力感を、払拭したのが慈愛神として覚醒したマリアだったことは、天界にとって運命めいた皮肉な事実だともいえる
「よりにもよって、混濁者なのだからな」
本来この世に存在を許されないものだった、全霊命と半霊命の混濁者。その存在に、神を宿し神器となってことでその存在を許されていたに過ぎないマリアが、今天界を代表して戦いに赴いている事実に、ノヴァはその目を細めて感慨の声で独白する
「――……」
(見ていますか、ルーク)
そんな天界王と天界王妃のやり取りを横目で見て微笑を浮かべたアリシアは、マリアの父であり、自分が愛した人である人間を思い返して心の中で語りかける
(私達の娘は、あんなにも立派に成長して、幸せになりましたよ)
天使と人間の混濁者という禁忌の存在として生まれながらも、それに呑み込まれることなく、多くの人に愛され、愛する人を見つけられた娘の姿を、アリシアは母として誇り、愛おしく見送っていた
※
「退け」
大剣に纏わせた破壊の力を振るった闇の主神の一柱――「殲滅神・カタストロフ」の力が、破滅を振りまいて世界を黒く染め上げる
全てを許さない殲滅の闇を結界で防ぎ、距離をとるのは神敵たる反逆神・アークエネミーの神片の頂点たる悪意の王「マリシウス・マリシオン」だった
「手応えが薄い。悪意の王の権能――〝偽善〟か」
形あるもの、命あるもの、存在するもの、その全てを滅ぼすことが出来る自神の力を受けながらも、不敵な笑みを浮かべている悪意の王の姿に、殲滅神は不快感を浮かべて三つの目をわずかに細めて険しい表情を見せる
悪意を振りまくものの王であり、反逆神・アークエネミーに次ぐ悪意である「マリシウス・マリシオン」は、「偽善」の悪意の化生
自らの劣等感を満たし、弱さから目を背け、欲求を満たし、自尊心と承認欲求を満たすためだというのに、それがさながら世界のためだとばかりに騙り、正当化する悪意
権利を主張し、多様性を重んじることを求めながら、自らを否定することを許さない。事柄を己に都合のいいように解釈し、他者を蹂躙する正しさの皮を被った悪意
「〝自分は正しく悪くない。悪いのは他人と世界〟と宣い、〝誰かのため〟と謳いながら、自らの利己を満たす正しき理を歪める悪意の力……浅ましいことこの上ないな」
自身に降りかかるあらゆる事象の責任を転嫁し、己に都合のいいように書きかける偽善の悪意の力に、殲滅神は滅びの闇を従えながら独白する
純然たる殺意に染まった殲滅神の三つの視線を受け止める悪意の王は、口端を吊り上げて悪辣な笑みを浮かべる
「――……」
そんな悪意の王にわずかに眉を顰めた殲滅神は、自神の前に立ちはだかる障害を取り除くべく、全てを滅し尽くす闇を解放する
「――!」
その時、それぞれの知覚が伝えてきた事柄に小さく目を瞠った殲滅神と悪意の王は、その視線を向ける
「――慈愛神」
今まで眠っていた神が目覚めたのを知覚した殲滅神は、その名を小さく口にして純白の翼を広げている神の姿を三つの目に映す
瞬間、その一瞬の隙を衝いた悪意の王が最上段から斬りかかってくるが、殲滅神は渾身の叛逆を滅びの闇の一太刀で軽々と受け止める
「さぁ、これで戦況は五分五分だぜ?」
「それがどうした? それでも俺達がすることは何も変わらない」
慈愛神の覚醒によって闇の神の数的優位が失われたことに口端を吊り上げて喜悦を露にする悪意の王に淡泊に応じた殲滅神は、その大剣を一薙ぎする
激しい神戦を繰り広げる殲滅神と悪意の王の傍らをは、十二枚の純白の翼を広げて神速で通り過ぎた慈愛神――「マリア」は、一直線に神魔の許へと向かう
「――!」
「させません」
それを見た滅亡神が手を翳し、因果を手繰り寄せて神魔を自身の許へ呼び寄せようとするが、マリアはその身体から光を放つ
慈愛神となったマリアから生じた温かな光が神魔を包み込み、因果の影響からその存在を守ると、滅亡神は忌々しげに眉を顰める
「慈愛神の守りか」
光の主神の一柱である「慈愛神・ラヴ」はその名の通り愛の神。その神力である「慈愛」は、慈しみの光であり、あらゆるものを退ける守りと癒しの力だ
「マリアさん……?」
純白の翼から生じた光で、慈母の抱擁のように包み込まれた神魔は、結界の守りによる知覚の共有によって、自身を守ってくれた人物が誰なのかを理解する
「少し待っていてくださいね」
その目を細め、優しく神魔に微笑みかけたマリアが顔を上げると、その身に滅亡の闇を纏った闇の神が鉈のような武骨な大剣を携えて、迫ってくるところだった
それを知覚するが早いか、マリアから純白の光が迸り、次の瞬間無数の極大光が天空から降り注いで滅亡神を直撃する
「――っ!」
慈愛神は、守りと癒しの神であると同時に敵対するものに無慈悲な粛清を与える神でもある。その力を以って放たれた慈悲の光に打ち据えられた滅亡神は、その光の威力に歯噛みしながらも、戦意に満ちた獰猛な笑みを浮かべて、一撃の下にそれを霧散させる
「目覚めてすぐ、ここまで力を使えるとはな」
あらゆるものを死に絶えさせる滅亡神と、あらゆるものを愛し守る慈愛神は、対になる神同士。覚醒した慈愛神が自分の相手として申し分ないことを見て取った滅亡神から、絶滅の闇が迸る
「…………」
同格の神でなければ、相対するだけで滅ぼされてしまう終約の闇に存在を刺されるような感覚を覚えるマリアは、光の結界に包んだ神魔を詩織や瑞希、九世界の者達が集まっている一角へ向けて移動させる
まるでゆりかごのように慈愛神の力に守れた神魔は、揺蕩うようにそこへとたどり着き、瞬間慈愛の守りがそこにいる者達を包み込む
「――!」
マリアの結界によって、主神までの神格を持つ者たちの戦いを目にすることが出来るようになったことに息を呑む九世界の面々の中で、詩織は無事に届けられた神魔に涙を浮かべながら駆け寄る
「神魔さん!」
「詩織さん、瑞希……」
涙を浮かべ、心底安堵した表情を見せる詩織に半ば呆けたような視線を向ける神魔は、その背後で同じように佇んでいる瑞希に視線を動かす
神魔の視線を受けた瑞希は、無事なその姿に目を細めると、一度だけ頷いて応じる
「……クロス」
そして、そのまま首を巡らせた神魔は、そこに佇んだまま結界の外で慈愛神となったマリアを見つめている天使の名を呼ぶ
マリアがなぜ神となったのか神魔には分からないが、それでもそれがもう一人の破壊神である自分を守るためではないかということには考えが及ぶ
「勘違いするなよ」
しかし、そんな神魔の考えを否定するように一言発したクロスは、その視線を向けて言葉を続ける
「マリアが神になったのは、お前のためなんかじゃない。この世界と、あいつが守りたいもののためだ。ただ――」
託されたマリアの意思を低く抑制された声で告げたクロスは、有無を言わせずに一方的に話を進めると、神魔から神々の戦いに身を投じた想い人へと視線を移す
「必ず勝て」
「……!」
世界を守るために神となることを選んだマリアの思いを無駄にしないため、封じられた破壊神との戦いで勝利することを要求するクロスの言葉に神魔は小さく目を丸くする
そう言い放ったクロスの横顔は、マリアの思いを代弁しているだけとは到底思えないもの。勝利を信じ、願いを託すようなものであることを、神魔は感じ取っていた
「約束するよ」
それを言葉にすれば、友情ではない。だが、これまで培ってきた信頼と絆に裏打ちされたクロスの言葉に、神魔は強く決意を持って応じる
「神魔」
その時、かすかに噛みしめた唇を開いた瑞希の呼びかけに、神魔は視線を向ける
その凛麗な美貌に真剣な表情を浮かべた瑞希は、詩織の背後から前へと歩みでて神魔との距離を縮めていく
まるで、決意を改め、確かにするように一歩一歩ゆっくりと進み、神魔との距離を詰めた瑞希は、その瞳をまっすぐに見つめ、深く深呼吸をして口を開く
「私は、あなたを愛しているわ」
「!」
意を決して告げられた瑞希の告白を受けた神魔は目を丸くし、詩織もまた、この状況で発せられた予想だにしない言葉に、詩織もまた驚愕に瞳を揺らし、交互に二人を見比べるしかなかった