九世界の王達
白雲の大地に建つ天上界王城、その上空に滞空する巨大な空を飛ぶ艦――人間界王旗艦「アルヴィレスタ」から、光と共に飛翔した人間界王「ヒナ・アルテア・ハーヴィン」は、翻ったその長い黒髪が流れるよりも早く、そこにいる人物に視線を向ける
「大貴さん」
「ヒナ」
戦いで受けた傷が癒え切らないその姿を見たヒナは、一瞬痛ましげな表情を浮かべるが、すぐにそれを淑とした表情の下に押し込め、敬意を以って礼する
「失礼しました、光魔神様。ご健勝のことでなによりでございます」
「ああ」
戦いで受けた傷に心を痛めながらも、その無事に安堵し、その痛みが守ったものを己の誇りとして胸に秘めたヒナの言葉に、大貴は淡泊な声で応じる
「それより、一人で出てきていいのか?」
いかに全ての至宝を持ち、人間として最強の力を持つ人間界王だからといって、護衛を付けなくてもいいという道理はないことくらいは大貴にも理解出来る
こうして真っ先に駆けつけてくれた事を内心で嬉しく思いながらも、大貴は人間界のものであろう、空飛ぶ艦船から一人で出てきたヒナに訊ねる
「この状況で護衛など無意味ですよ。それに、大貴さんがいてくださいますから」
その問いかけに、ヒナは苦笑を浮かべて周囲にいる九世界の王達をはじめとする原在達へ視線を配ってみせると、最後に何よりも深く強い信頼を置いた眼差しを大貴へ向ける
「……そうか」
その眼差しを受けた大貴は、胸の奥がむず痒くなるような感覚を覚えて、気恥ずかしさを逃がすように視線を逸らす
至宝冠の権能によって定期的に話をしていたが、今の大貴とヒナにはこうして久しぶりに直接まみえたことへの喜びが勝っていた
人間界を離れてから、今日までの期間はさほど長くはないのだが、婚約者として互いに想い合う大貴とヒナが交わす眼差しには、まるで長い年月を経て久しぶりに再会したかのような相手を懐かしみ愛おしむ感覚を窺うことができた
「詩織さんも大変でしたね」
しばし、そうして見つめ合っていたヒナは、王としての振る舞いを崩すことなく、気遣いの視線を詩織へと向ける
「いえ。私は大貴達に守ってもらってばかりでしたから」
本心では大貴との抱擁を交わしたいとすら思っているのではないかと考えていた詩織は、人間界王としての立ち振る舞いを優先させたヒナに丁重に感謝の言葉で応じる
「事の経緯は把握しているつもりでございます。歯牙にもかからぬほど些末なものではございましょうが、私ども人間界も光魔神様のために全力を以ってお力添えをさせていただく所存でございます」
胸に手を当て、腰を折って深々と頭を下げたヒナは、心からの誠意を言葉に乗せて人間の神にして自身の想い人たる大貴に伝える
事実、この場において最強の人間である人間界王の力、そして人間界の誇る九世界最先端の技術や兵器などは何の役にも立たない
神にも匹敵する力を以ってこの世界の理と事柄の全てを制する全霊命――その頂点たる原在、そして異端神の前では無力だろう
「いや、そんなことはない。俺は、お前がいてくれるだけでも気が楽になる」
むしろ足手纏いでしかないと恐縮するヒナに対して、大貴は少し照れながらも励ましの言葉をかける
もし九世界の王達が人間界の事をなんの役にも立たないと思っているのなら、ここへ連れてくることはないということを大貴は確信している
そういった場ならまだしも、世界の命運がかかった戦いが起きるかもしれない場所で義理などの理由で仕方なしに連れきてくるようなことはしないと、大貴はこれまでの旅で学んだ
今人間界がここにいるのは、九世界の王達は人間界に当てにしていることがあるからだ
それが光魔神たる大貴との深いつながり。それを分かった上で、大貴はそんなことなど関係なく、人間界――ヒナがこの場に来てくれたことに、偽りのない感想を述べる
「そう仰っていただけると光栄です」
大貴のその言葉に、ヒナもまたわずかの頬を紅潮させて恭しく応じる
たとえ力になれなくとも、王ではなく一人の女として大貴の許にいたいと考えるヒナにとって、その言葉は何よりも喜びを与えてくれるものだった
(なんだ、本当にいい感じになってるのね)
その様子を遠巻きに見ていた詩織は、互いに想い合い、意識し合っていることが感じられる大貴とヒナのやり取りを見て心の中で独白する
至宝冠で会話していることは知っていたが、それを他人が知ることはできないため、その進捗を窺うことはできなかったが、神と王としてではなく、一人の男と女として二人の関係が確実に前に進んでいることが見て取ることができる
(羨ましい限りね――)
着々と進展している上に、紛れもなく両想いとなっている双子の弟を祝福しながらも、一向に片思いをしているだけの自分と比べてしまった詩織は、気を落とす
その視線を自身の想い人――神魔へと向けた詩織の目に映るのは、いつもの様にその傍らに控える伴侶と、いつの間にかそこに加わらんとしている黒髪を結った凛とした面差しの悪魔の姿だった
「肝心な時にいられなくてごめんなさいね」
「仕方ないよ。瑞希は役目があって戻ってたんだから」
無事を確かめるように歩み寄ってきた瑞希の言葉に優しく微笑んだ神魔は、その気負いを払拭するように応じる
そのやり取りに耳を澄ませていた桜は、楚々とした花を思わせる淑然とした佇まいを守ったまま、その花唇を開く
「神魔様。差し出がましいとは思いますが、今のお答えはよろしいものではないと存じます」
「え?」
自身のやや斜め後方から聞こえてきた桜に、怪訝な表情を浮かべた神魔はその意味が分からないといった様子で視線を返す
同じようにそれを聞いていた瑞希はその頬を朱に染めて気恥ずかしさから何かを訴えようとしているが、桜はそれに構わずに神魔に進言する
「瑞希さんは神魔様のことを心から案じておられたのですよ」
先程神魔が返した答えは事実そのままで、特段非難される様なこともない無難なものだった。事実神魔に悪気はなかっただろうし、まして瑞希を責めるようなつもりなど毛頭ないのは明白だ
だがそれは、こと神魔に一人の女性として秘めた想いを抱いている瑞希に対するものとしては、あまり好ましいものではない
なぜならそれは、神魔が瑞希がいなかったことに何の支障もない――有り体に言えば、なんとも思っていないといったのと同じことだからだ
神魔がはっきりと自覚していない以上仕方がないが、想い人が目の前にいながらその安否を知ることもできず、ただその無事を案じ続けるしかなかったであろう瑞希の心情を思えば、桜は同じ人を愛する女として、一言申し立てずにはいられなかった
「――? えっと……ありがとう」
そんな桜の意図を理解しきれてはいなかったが、神魔はその忠告に素直に従って、自身の考え得る最も妥当であろうと思われるものを告げる
その言葉を受けた瑞希は、普段の凛とした面差しが鳴りを潜めた気恥ずかしげな表情で視線を伏せる
「いえ、別に」
重ねた手の指をせわしなく動かしながら、できる限り平静な応対を心がけているのであろう瑞希だが、恥じらいと喜びが入り混じった思慕の情に染まった表情を全く隠せていなかった
《――桜さん》
《申し訳ありません。ですが、今神魔様の味方は一人でも多い方がいいですから》
恨めしげな視線と共に、抗議めいた声を思念通話に乗せて届けてきた瑞希に、桜はそのたおやかな居住まいを崩すことなく微笑を返す
《私は、そんなことをしなくてもずっと彼の味方よ――》
微笑みを浮かべたその面差しの下に隠された真剣な意思と、それが向かう先を正しく理解している瑞希は、桜に一瞥を向けながらその身を翻して道を譲る
《たとえ、大恩ある方に歯向かうことになろうとも》
自分が遮る形となっていた神魔へと続く動線を譲り、忠臣の礼を向ける先にいるのは瑞希達が仕える存在――九世界の一角たる魔界を総べる王だった
「しばらく見ぬ間に、随分と力を付けたな」
「お褒めに預かり恐縮です」
瑞希に続いて頭を下げ、臣下の礼を取った神魔と桜をその金色の瞳で睥睨した魔界王「魔界王・魔王」の言葉に神魔は淡々とした声で応じる
「そして、これほどの脅威になるとは思っていなかった」
そして、二の句を継いだ魔王は神魔から立ち昇る圧倒的なまでの魔力を知覚して、細めた瞳に剣呑な光を灯す
その言葉を魔王の背後で聞いているのは、魔王の妻にして悪魔の原在たる五大皇魔の一人「シルエラ」、そんな二人の息子である「爾王」とベルセリオス、魔界の宰相である「ゼオノート」の四人
以前、地球への無断滞在で捕らえた時からさほど時を経ていないというのに、神魔の神格は比較にならないほど強大になっている
それは、当時圧倒的なまでの力の開きがあったベルセリオスでさえも、今戦えば神魔の方に軍配が上がるだろうほどだった
本来ではありえないほどの神格の成長。――それが、「全てを滅ぼすもの」に由来するのであれば、魔界王達は全力を以って神魔と相対する覚悟だった
「お前は、どうするのだ?」
この世の理の歪みの原因たる可能性がある神魔を睥睨した魔王は、その視線を桜へと向けて問いかける
桜は、今は亡き五代皇魔「久遠」と「涅槃」の愛娘であり、魔王から見て姪のようなもの。もしこのまま神魔を〝全てを滅ぼすもの〟として、滅ぼさねばならなくなった時、その命まで奪うのは忍びなかった
「わたくしは神魔様を信じておりますので」
それに対する桜の答えは、どこか曖昧なもの
しかしそれは、自分の想いを神魔の重みとしないための桜の貞淑な意思からくるものでしかなく、その中には「何があっても共に在り続け、最悪の場合は神魔と共に死ぬ覚悟もできている」という決意が秘められている
神魔が道を誤ったのならば、その前に立ちはだかって正すことをしただろう。だが、存在そのものが危険と断じられたのならば、神魔に命尽きるまで寄り添うのが桜の決意だった
「……そうか。やはり、涅槃の娘だな。そういうところがよく似ている」
「ええ、本当に」
一切の躊躇いや迷いのない桜の言葉を受けてその姿に皇魔の一人である最強の悪魔の面影を見た魔王が視線を向けると、それを受けたシルエラが同意を示す
「いずれにしても、盟約は変わらぬぞ」
「心得ております」
九世界不干渉地域であるゆりかごに無許可で滞在した神魔と桜には、魔界王から極刑が言い渡されている
しかし、九世界にとって重要な戦力となるであろう光魔神と深いつながりがあったことから特別な恩赦が与えられ、十世界盟主である姫を殺すことで免罪されることになっている
そしてそれは今も変わっていない。だが、もし神魔が〝全てを滅ぼすもの〟として、排除するべき対象となった時、先の条件とは別なる理由でその命を奪わなければならないことを魔王は残念に思っていた
「ならばよい。その時まで、存分に語らうがいい。――さほど時間は残されていないだろうがな」
告げるべきことは告げたと判断した魔王は、神魔と桜、そして瑞希を一瞥すると、その身を翻して背を向ける
「――……」
(ことは、もう来るべきところにまで来ている。あとは――)
遠巻きにそのやり取りを見守っていた深雪は、小さく唇を引き結ぶと自分の息子である神魔へ視線を向ける
「!」
その時、自身へ注がれる視線に気付いた深雪は、それが向けられている方向――魔王の背後につきたがっている黒髪の青年へ視線を止める
(爾王様)
その人物――魔界王・魔王とその伴侶であるシルエラの実子「爾王」は、かつて深雪が魔界王城に仕えていた頃、直属の上司だった
自身へ注がれる視線に気づいた深雪が会釈を返すと、爾王はそれ以上何かをすることもなく、小さく口端を吊り上げて魔王の後に続く
(こういう再会もあるのですね――もっとも、そういう意味ではあちらの方が重大でしょうが)
遠い昔の記憶に浸り、長らく離れていた魔界に蚕の念を抱いた深雪が視線を向ける先には、天界王ノヴァとその妻である十聖天の一人アフィリアを出迎えるクロス、マリア、リリーナ、ノエルの姿があった
天界から来ているのは、天界王ノヴァと王妃アフィリアの他には、クロスの実兄である「アース」をはじめ、「ファグエム」、「オルセウス」、ノエルを除いた四煌天使の全員
「ノエルよ。まずはこうして我らが出向いてきてしまったことを詫びよう」
その三人の天使を背後に従え、傍らにアフィリアを控えさえたノヴァは、自分達を出迎える天使達に、威厳を感じさせる重厚な声音で語りかける
ノエルが天上界にいるのは、天界王が〝世界を滅ぼすもの〟――神魔という存在と、それがもたらす危機に対応するため、天界の切り札中の切り札ともいえる真の神器たるマリアを迎えにいかせたため
本来ならば、命令を下した以上玉座に座してその任務遂行を待つべきだったが、事情が変わったために、こうして自ら天上界を訪れることになってしまったことを謝罪する
「いえ、滅相もございません。全ては私の至らなさ故の事です」
決して自分の力を信じていないといった理由からではないと念を押すノヴァからの言葉の意図を正しく汲み取って、ノエルはその御前で跪いたまま深く頭を下げ恭しく応じる
「いや、文明神の侵攻の中、お前はマリアを守って戦ってくれた。感謝しよう――お前達にもな」
謝罪と労いの言葉を送ったノヴァは、その視線を同様に傅いているクロスとリリーナに向けて、同様の意思を伝える
「は」
重い響きを帯びて返されたクロスとリリーナの声は、先のやり取りへの不満を抱いていることを感じさせるには十分なもの
だが、二人が何に対してその不満を抱いているのかを理解しているノヴァは、あえてそれを聞き流すことで決定が覆ることはないと暗に告げる
「それよりも、マリア、クロス――それと、リリーナ。場合によっては、お前達と行動を共にしていた悪魔を殺すことになるだろうが、覚悟はできているな?」
情が深い三人の性格を熟知しているノヴァは、たとえ天使という存在として敵対関係にある悪魔であっても、長い間行動を共にしていれば気持ちを移してしまうことを察していた
そのこと自体を咎めるつもりはないが、九世界を総べる全霊命の中で、最も他者に共感しやすい天使の特性を知っているノヴァは、必要な時に三人が動けなくなる可能性を摘んでおく必要があった
「心得ております」
その言葉に、しばしの間を置いてリリーナが恭しく応じると、クロスとマリアは同意を示すように頭を下げる
(――マリア)
そうしている間にも、マリアの口が何度か開いては噤まれるということを繰り返していることに、天界王ノヴァとその側近達は気づいていた
俯いているために表情をうかがい知ることはできないが、アフィリアには、その些細な所作から今のマリアの胸中が手に取るように分かっていた
(大切な人が――死にたくない理由ができたのですね)
王の前で視線や顔を動かすというような不敬な真似はしていないが、何かを言わんとして逡巡するマリアの意識は、確実にクロスへ向けられている
本来ならばすでに殺されている天使と人間の混濁者であるマリアは、ノヴァとアフィリア、そしてその身に宿った神――「慈愛神」によって生かされたことを自覚していた
マリアは自分が混濁者であることを恨めしく思ったことはあっても、そのことを恨んだことはなく、むしろこれまで生かしてくれたことに感謝すらしていた
必要な時がくれば神器として死ぬ覚悟も、生きる覚悟もしていた。長年思い続けたクロスへの想いも胸に秘めたままそれを成し遂げることもできただろう
だが、クロスから想いを告げられ、自分の気持ちが結ばれたことを知ってしまった今、マリアはこれからも愛しい人とずっと一緒にいたいという気持ちを抑えることが出来なかった
「天界王様、一つだけお伺いさせてください」
自分の気持ちと、天界への恩の狭間で揺れるマリアが、その気持ちを言葉にすることを躊躇って沈黙していると、まるでそれを悟ったかのようにリリーナが口を開く
「なんだ?」
天界王と王妃の娘ではあるが、親としてではなく王へ接する臣下としての礼を尽くす言葉遣いでリリーナは話しかける
「マリアの力が必要ではないと判断されれば、神器を解放することはないのですよね?」
普段の「マリアちゃん」ではなく、あえてマリアと呼び捨てにしたリリーナは、その内に秘められた神の力を使う条件を再確認する
「――他の王達が許せば、な」
その言葉に思案気に目を細めたノヴァは、さりげなく周囲にいる九世界の王達へ意識を向けて、リリーナの問いかけに淡泊に応じる
マリアの中にある神は神位第五位相当。それだけで、天界は他の世界に対して極めて有利な切り札を有していることになる
今は、共通の目的のために黙しているが、いざ神を解放せずにこの件を乗り切った時、他の世界が天界だけがその力を持っているかを許すかどうかは未知数だった
「――その子の力を、使うつもりですか?」
その時、二人の会話を遮るように凛と澄んだ声が響き、上空から下りてきた天使が天界王達から少し離れた場所に足を降ろす
「――アリシア」
マリアの実母にして、天使の原在である十聖天の一人――「アリシア」の姿を見て、アフィリアがその名を呼ぶ
同じ十聖天である二人の天使が視線を絡ませ合い、その間に張りつめた天力がせめぎ合うことで空間が軋みを上げる
「答えてください、アフィリア」
「――必要とあれば使います。あなたは、そのために神を利用したのでしょう」
母として娘の幸福を願うアリシアの言葉に対し、アフィリアは天界の王妃として、世界にとって最善となる選択肢を答える
天使と人間の混濁者であるマリアが今日まで生きて来られたのは、天界王の庇護があったから
ただ同じ十聖天だからという理由で王を動かすには足りないと考えたアリシアは、マリアに神を宿し真の神器とすることで、天界が庇護するに足る理由を用意した
「あなた達には感謝しています。私が、今更何かを言えるような立場にないことも重々承知しています――ですが、恥を忍んで申し上げれば、マリアを死なせたくはないと思っています」
それが今使われようとしていることを望まないアリシアは、天界の決定を譲る気のないアフィリアに視線を向けて言の葉を紡ぐ
今がどうであれ、天界王とアフィリアが娘を守って、育ててくれたのは事実。娘のために神を宿し、二人を利用したことを理解しているアリシアは自分の言い分がいかに身勝手なものなのかを知りながら、それでも願わずにはいられなかった
「それは、母親ならば当然でしょう」
同じく娘を持つ母親として、その思いを軽々しく扱うことのできないアフィリアは、重い声音でアリシアに答える
「――一つ、聞かせてください。あなた達は違うのですか?」
厳かに紡がれたアフィリアの言葉を受けたアリシアは、一瞬だけ瞑目すると、凛とした眼差しを向けて問いかける
「あなた達にとって、マリアはなんなのですか?」
その心の一片さえも見逃すまいとするかのように、アフィリアとノヴァを見据えたアリシアは、凪いだ水面を思わせる抑制のきいた声で訊ねる
天界が混濁者であるマリアを生かしてきたのは、神を宿す器であるから。そう仕向けたのはアリシア自身であり、それが天界王と王妃としての合理的な判断であることも重々承知している
だが、論理と感情が同じであるとは限らないことをアリシアは知っている。たとえ建前の理由があったとしても、ノヴァとアフィリアにとって、マリアは「ただの神器」なのか、あるいは少なからず情を移した人物であるのかを、問いかける
「――私達は、世界と天界にとって最善の道を選ぶだけです。そこに一個人の情などを差し挟む余地はありません」
静かに紡がれたアリシアの言葉に、それとは対照的な苛烈な感情が宿っていることを理解しているアフィリアは、それに対して王妃としての威厳に満ちた厳かな声音で答える
その答えに一瞬だけ眦を動かしたアリシアだったが、アフィリアとノヴァは自分達の感情を明かすつもりはないと、その視線をまっすぐに受け止めるだけだった
「いずれにしろ、私に今あなた達の正しさを咎める資格はありませんね」
これ以上追及してもその決定を変えることはできないと判断したアリシアは、目を伏せて天界を治める二人の天使に横身を向ける
「そして同時に、私達の正しさに従う必要も……ですね」
マリアへとさりげなく視線を向けたアリシアの心を見透かすように、その澄んだ眼差しを向けたアフィリアは静かに語りかける
それは、理を犯す愛を貫き、娘を生かしたいという自分の願いのために神器へと変え、十世界に身を置いたアリシアの生き方を一人の女として肯定するものでもあった
「全てはこれから、奏姫が見る世界次第だ」
アフィリアとアリシア――十聖天にして、各々の立場に立つ二人に対し、天界王ノヴァは離れた場所で二柱の異端神に囲まれている十世界盟主愛梨に視線を向ける
「せめて、それがマリア達にとって幸いなものであってほしいと思います」
アフィリアとノヴァの気遣いに軽く目礼したアリシアは、一言寂しげに響く声音で呟いて自らの意思で天界に背を向けると十世界へと進んでいく
「…………」
そんな天使達のやり取りを上空から見ていた堕天使王ロギア――かつて、十聖天筆頭にして、最強の天使、そして初代天界王であった男は、その視線をゆっくりと動かして天上界王城の一角に集まっている他の王達へと双眸を向ける
そこでは、天上界王灯の許へと歩み寄った地獄界王「黒曜」が、どこか懐かしげな表情で語りかけているところだった
「大きくなったものだ」
「地獄界王様」
同行してきた鬼の原在――「六道」の五人を置いて、単身で気さくに声をかけてきた黒曜に、灯は軽く一礼をする
〝最も忌まわしき者〟として生き、その上で王であることを選んだ灯の慈寂の面差しに、黒曜は見間違えるほどに増した人としての深みを感じて感嘆混じりに言う
「先日、王会議で会ったばかりだが、これまでこうして世間話をする機会もなかったからな」
「その節はお世話になりました」
先日の王会議の話題を切り出した黒曜に対し、灯はそれよりもはるか昔――母「綺沙羅」と共に地獄界にいた時の事を思い返して言う
捕えられ、牢にいた間も黒曜は自分達に対して十分なほどの温情を与えてくれていた。頭では分かっていても、そのことについて正面から向き合えずにいた灯は、天上界王として新たに踏み出す自分のために、その事を思い返しながら目礼する
「感謝されるほどのことはしていないさ――結果的に言えば、綺沙羅を殺す要因になったのだから、むしろ恨んでくれていい」
「いえ。黒曜様方には、あの時からずっとお礼を申し上げなければならないと思っておりました。私が今あるのもあなた様のお陰です」
何の皮肉でもなく、純粋に心からそう思っていることが伝わってくる灯の真摯な声音に、肩を竦めた黒曜は、その高潔な心の在り様に素直に関心しながら、それに報いることができるように努めて応じる
「本当に立派になったものだ、本当なら示門にも見せてやりたいところだが、さすがに今回連れてくることはできなかったからな――なにか言伝でもあれば、伝えておくぞ」
自身を含めた鬼の原在――「六道」だけで天上界に来ている黒曜は、地獄界に置いてきたもう一人の最も忌まわしき者へと思いを馳せながら、穏やかな声音で語りかける
まるで親族のことを話しているかのように、温かな声音で言う黒曜の言葉に、離れ離れになった双子の弟を思い返して、灯はその目を細めて可憐に微笑む
「お心遣い痛み入ります。それでは、〝私はそれなりに元気でやっています〟とお伝えいただければ幸いです」
「分かった。必ず伝えよう」
灯のその言葉に、黒曜は鷹揚に頷く
一見、何気ない口約束に過ぎないように聞こえるその言葉の裏には、世界全てを巻き込んだこの一大一件を終わらせ、世界を守るという王としての確固たる意思が込められていることを、灯は正しく理解していた
「堕天使王、反逆神に覇国神――それに、護法神か。面白れぇことになったな」
その傍ら、漆黒の翼を広げて中空に佇んでいる堕天使王や、十世界、そして自分達をこの世界へと導いた護法神とその眷属を三つの目に映した冥界王「冥」は、その口端を吊り上げて言う
「どこがだ。明らかに異常事態だろ、めんどくせぇ」
静観な面差しに悪戯めいた笑みと、戦意から来る凶相を浮かべた冥界王の言葉に、妖界を総べる妖怪唯一の原在――〝始祖〟たる「妖界王・虚空」は辟易した様子で言う
「うちの人が申し訳ありません、妖界王様。悪気はないのですが」
それを聞いていた冥界王妃「時雨」は、三つの目を伏せて深々と自身の夫である冥の言動に謝罪を述べると、虚空の傍らに同行する長い髪で片眼を隠した女性妖怪――萼がそれに応じて腰を折る
「お気になさらないでください」
自分が面白いと思うことを優先する冥のように、虚空はただの引きこもりで面倒くさがりなだけだと知っている萼は、時雨の言葉を受け入れる
「相変わらずだな、お前達は」
「――マキシムか」
その時、横からかけられた声に視線を向けた冥は、腕を組んで佇んでいる聖人界最強の聖人――「マキシム」に三つの目を向ける
九世界唯一の民主主義世界を総べる三メートルほどの体躯を持つ光の存在達は、アリシアに討たれ、五人となってしまった聖人の原在――「天支七柱」全員と、聖人界界首である「シュトラウス」揃って来界していた
「まったくだ。神すらも絡んできているというのにな」
光の存在達の中でも特に潔癖で、闇の存在の事を特に敵視して嫌悪する聖人の代表である界首「シュトラウス」は、冥界王と妖界王からあえて視線を逸らしながら、その意識を自分達を連れてきた護法神へと向けて非難混じりに言う
円卓の神座№10に名を置く異端神――「護法神・セイヴ」は、光の絶対神たる創造神に忠誠を誓った神臣。
かの神がここにいるということは、不可神条約によって神の世界への干渉を禁じている創造神自らが行動を起こしているのと同義だ――もっとも、問い詰めたところで、その意思を知ることは叶わないために九世界の王達は黙殺しているが
「そのような目をするものではありませんよ、聖人界界首様。今は、九世界十世界全ての力を賭して、世界のために戦う時です」
危機感と焦燥に苛立ちを露にする聖人界界首に対し、穏やかな声で諌めるように語りかけたのは、妖精界を総べる王「アスティナ」だった
「……分かっている」
そう言ってシュトラウスは、その視線を少し離れた場所に佇んでいる褐色の肌をした精霊の女性――月天の精霊王である「イデア」へと向けて不満を滲ませた声で言う
かつて、闇の世界と共闘し、光の世界に敵対して被害をもたらした過去から、月の精霊を好ましく思っていない光の存在も多い。特に、潔癖の過ぎる聖人はその傾向が強いが、今それを持ち出すほどシュトラウスも場を読めない人物ではない
「気にしなくていいわよ」
しかし、そこに宿った隠せない侮蔑の眼差しに、長いライトパープルの髪を揺らめかせた切れ長の目の美女が静かな声音でイデアを慰める
薄く引かれた紅で目元と唇を彩り、凛とした清純さの中に儚げな艶を感じさせる面差しを持つその美女は、精霊の四種族の一角――「湖の精霊」の証である蜻蛉を思わせる四枚の翅を有している
「えぇ。分かっていますよ〝フリージア〟」
その湖の精霊――「フリージア」の言葉に宿った気遣いに微笑を以って応じたイデアは、シュトラウスなど眼中にないといった様子で視線を逸らす
「お久しぶりですね、詩織さん」
「アイリスさん!」
そんな王達の下を離れた日輪の精霊――「アイリス」に、声をかけられた詩織は、妖精界で自分達の案内役をしてくれた精霊との再会に嬉々とした様子で目を輝かせる
「お話は伺っています。大変なことになりましたね」
「アイリスさんも来ていたんですね。気付かなくてすみません」
知覚を持たないために、声をかけられるまでアイリスに気付かなかった詩織が頭を下げると、日輪の精霊の少女は薄く笑って応じる
「詩織さん達が妖精界を離れられてから、私は父に代わってアスティナ様のお傍でお仕えしているんです」
「そうだったんですね。おめでとうございます」
自分達が離れてから、よりアスティナの側近として出世していたアイリスに心から祝いの言を述べた詩織は、その背後にいる精霊の王達を見る
背に生える翅を見れば、一目で精霊と分かる者達は精霊王アスティナと、月の精霊王イデア、蜻蛉のような翅をもった紫色の髪をした美女と、肥沃な土の色をした髪と鞘翅が目を引く精悍な面立ちの男性が顔を列ねている
「あのお二人は?」
特に妖精界に滞在していた時には見なかった二人に、詩織が怪訝に訊ねると、アイリスは「あぁ」と小さく声を発して口を開く
「湖の精霊王〝フリージア〟様と、森の精霊王〝ユグド〟様です――精霊の原在ですよ」
「なるほど」
アイリスの言葉に、詩織は妖精界滞在中には会うことがなかった二人の精霊王の姿に思わず声を漏らす
「今、この場には九世界の主要な方々が勢揃いしていますからね。このようなこと、九世界の歴史上でもなかったことですよ」
「そうなんですね」
この場に集った早々たる面々を見回して言うアイリスの言葉に、詩織は感嘆めいた声を漏らす
九世界についてあまり詳しくはない詩織には、ここに王達が集っていることの本当の意味と価値を理解することは叶わない。
だがそれでも、これまで触れ合う中で個々が尊敬に値する人々であることを知っている詩織は、その面々が顔を揃えた光景に、心なしが胸が震えるのを感じずにはいられなかった
「……!」
そんな中、アイリスの視線に誘導されるように、九世界の王達を見ていた詩織の視線が、その中の一人を捉えたところで不意に止まる
(イデアさん、神魔さんを見てる……?)
未だ変わらない淡い恋慕の情を寄せる相手だからだろう――意識せずとも神魔を気にかけていた詩織は、必然ともいえる理由で、同じ人物へ意識を向けている月天の精霊王が目に止まる
ここにいる誰もが、少なからず〝全てを滅ぼすもの〟である神魔の事を気にかけている。ここに集った王達の目的の一つでもあるのだから、それは当然なのだが、神魔を見つめるイデアの眼差しはそういったものとは違うことを詩織は本能的に感じていた
その眼差しは、桜や瑞希、自分が抱くような特別な人へ向けるものでもなく、大半の者が向けている興味と思案でもなければ、敵意などでもない。強いて言えば、神魔の母である深雪が向けているような、包容力を感じさせるものだった
(でも、なんで――?)
その理由が分からず、視線を向ける詩織など意にも介さずに神魔をその双眸に映すイデアは、一抹の憂いを宿した視線を慈しむように細める
(そういうことだったのですね。あの子が〝玖琅〟の後継――)
神魔の姿に、かつて自分が出会った似てもいない人物の面影を重ねたイデアは、護法神へと軽く視線を向けると、微笑と共におそらくこの場にいる王達の誰もが知らないであろう事実を確信する
(〝破壊神を継ぐ者〟だったのですね)