帰る場所
《ねぇ、桜。……桜は、いなくならない?》
――それは、遠い日の言葉。
まるで消えてしまう幻を繋ぎ止めようとするかのように、最愛の人が発した言葉。
《……はい》
それは、桜にとっては答えるまでもない言葉。その人を愛したその瞬間から、望まれる事を心の底から願い続けている言葉。
桜は、愛しい人の言葉に穏やかでありながら、揺るぎない強さを持った口調で頷いた桜は、いつもより小さく、弱々しく見える最愛の人の背にそっと身を委ねる。
《ご心配なさらないでください》
その背に身を委ねた桜は、過去に苦しむ最愛の人を強く、しかしそれ以上に優しく抱きしめる。
《あなたが望んでくださる限り、桜はいつまでもあなたのお傍におります》
偽りのない想いと言葉で囁いた桜の手に、神魔の手がそっと添えられる。
《……ありがとう》
「桜さん、怪我して……っ」
「かすり傷ですから大丈夫です。それより、動かないでいてくださいね。……守れなくなってしまっては事です」
桜の両腕から立ち昇る血炎を見て息を詰まらせる詩織に、桜は目の前に立つレスカから目を離さずに応じる。
「随分肩入れするのね……ゆりかごの人間なんかに」
詩織に視線を向けずに応じた桜の様子を見て、レスカは意外なものを見るような視線を送る。
「神魔様に頼まれましたので」
レスカの視線や言葉など気にした風もない桜の、さも当然と言わんばかりの答え。
それを聞いたレスカは、わずかに目を細めて、たかがゆりかごの人間を守るために結界を張っている桜を一瞥する。
「頼まれた……ね」
手にした巨大な鉄扇を軽く腕の中で遊ばせたレスカは、薙刀を構えて芍薬のような美しさで佇む桜へ視線を向ける。
「男の言いなりなのね……可愛い」
「皮肉に聞こえますが?」
嘲るように言ったレスカの言葉に、桜が表情を崩す事無く応じる。その言葉には、レスカに対する不快感などは込められていないが、レスカの言葉に対する疑念が込められている。
「だってそうでしょう? でなきゃ、ゆりかごの人間を守るなんて馬鹿げた事……」
(どういう意味……?)
レスカと桜の会話に、詩織は胸が締め付けられるような感覚を覚える。
確かに九世界や全霊命達から見れば、このゆりかごの世界やそこに生きる自分たちは矮小な存在なのだと思う。
しかし、それでも神魔たちが自分や両親に対して嫌悪や敵意を見せた事はなかった。しかし、目の前にいるレスカと呼ばれる女悪魔は、紛れもなくゆりかごの世界とそこに生きるモノに対して嫌悪……というよりも侮蔑に近い感情を抱いているように思える。
「気分を害してしまったのならごめんなさい。他意は無いのよ? ただ、あなたのように言いなりになってくれる女は、男から見たら随分と都合がいいんだろうなって思っただけよ。
何しろ、ゆりかごの世界の人間を守るなんて奇特な事をする男を、咎める事も正す事もしないんだから」
レスカは、手にした鉄扇――「貫刺揚羽」を桜に向けて言い放つ。
ゆりかごの世界やそこに生きる人間を守る。――それは、九世界の中ではほとんどあり得ないと言えるほどの行為だ。
それを許し、あまつさえ協力するなど、あり得ないと言っても差し支えのない暴挙に当たる。レスカの考えは決して九世界の常識を逸脱したものではない。
「どうやらあなたは、勘違いをなさっているようですね」
「……?」
目を伏せた桜の言葉に、レスカは首を傾げる。
「わたくしは、尽くさせて頂く事や、神魔様の御心を尊重する事はあっても、言いなりになる事はございません。いかに神魔様の御望みであろうと、それが間違っていると思えばそれを正します。」
わずかに眉を寄せたレスカに、桜は静かに、しかし強く言葉と心を紡いで織り上げていく。
「なぜならわたくしは、神魔様に依存しているのでは無く、神魔様の幸福と、何よりも共に在る事を願っているからです」
「……つまり、あんたはそのゆりかごの女を、男が守りたがってってることに依存がないって事ね」
「はい」
レスカの言葉に、桜は何の迷いもなく答える。
「解せないわね」
「……?」
桜と詩織を交互に見たレスカが独白すると、その言葉に詩織は首をかしげる。
「ゆりかごの人間を守るなんて、どういう事かしら?まさかもう一人の伴侶ってわけじゃないでしょう?」
「え……?」
「ええ。もちろん、詩織さんは神魔様の伴侶ではございませんよ」
(……っ)
からかう様なレスカの言葉に全く動じずに応じた桜の言葉に、詩織の胸に棘が刺さったような痛みが走る。
「知ってる、ゆりかごのお嬢さん?……九世界というのは、基本的に『多夫多妻制』なのよ」
「桜さん……?」
「……互いに愛し合ってさえいれば、男性でも女性でも、伴侶を何人でも持てるという事です」
神魔への想いを断ち切れずにいる詩織に、レスカと桜が知ってか知らずか、そんな淡い希望を抱いてしまうような言葉をかわす。
「……っ!」
(九世界では、何人でも恋人になれるんだ……なら、私は例え二番目でも……)
抑えきれない神魔への想いに苦しむ詩織は、不意に語られた九世界の真実にわずかに揺れ動く。しかし、すぐに思い直して頭を振り、その考えを打ち消す。
(駄目……私が神魔さんを好きになっちゃいけないのは、二番目とか、そういう問題じゃないんだから……)
しかし、詩織が神魔への想いを殺しているのは、すでに桜という決まった相手がいるからだけではない。愛し合えば命を落としてしまう全霊命と半霊命という種族と、存在の違いによるものなのだ
だから、例え九世界の法律で何人の伴侶を持てようと、自分と神魔がそういう関係になる事は無い――否、なってはならないのだ
「ま、そんな事はどうでもいいわね……後ろの子が起きちゃったけど、続きをしましょうか」
桜と詩織を交互に見たレスカは、手にした鉄扇を構える。
「詩織さん」
「は、はい」
「もう一度念を押しておきますが、動かないでいてくださいね。さすがにこの状況では詩織さんを守りきるのが精一杯ですから」
「……っ」
桜の静かだが、反論を許さない口調に詩織は無言で頷く。
全霊命の殺気や威圧は、それだけで半霊命を殺してしまう程の力を持っている。
それから詩織を防ぐために、桜は自身の魔力によって構成した結界で詩織を守っている。しかし、結界の生成と維持に魔力と意識を割かなくてはならない分、桜の力には制限がかかっているのだ
「はぁっ!」
手にした鉄扇を地と平行に構え、レスカは光を遥かに凌ぐ速さで桜に肉薄する。
その動きを視認していた桜は、舞うように手にした薙刀でレスカの鉄扇を迎撃する。
「……きゃっ」
ぶつかり合った桜とレスカの魔力の衝撃に、詩織は結界の中でうずくまる。
桜の夜桜の魔力と、レスカの闇の魔力。ぶつかり合った二つの力は、抉り取ったような漆黒の虚を世界に生み出し、砕け散る。
「……無駄だって、分かってるでしょ?」
「……っ!」
攻撃を完全に防いだにもかかわらず、レスカは口元に不敵な笑みを浮かべる。
それを証明するかのように、次の瞬間、桜の腕から深紅の血炎が舞い上がった
「何で? 桜さんはちゃんと防いでたのに……!?」
突然腕から血炎を上げた桜を、結界の中から見ていた詩織は、自身の目の前で起きたその不可解な現象に思わず声を上げる。
咄嗟に夜桜の魔力の槍を生み出して放つ桜だが、レスカはそれを後方に跳んで回避する。
「桜さんっ!」
「彼女の武器……あの鉄扇の先端に、鋭い針があるんです」
「……え?」
淡々と言った桜の言葉に、詩織はわずかに目を見開く。
「ご明察……って言いたいところだけど、バレバレよね」
軽く肩をすぼめて見せたレスカは、蝙蝠の翼のような鉄扇の先端から鋭い針を出して見せる。
その針は決して間合いの長い物ではないが、鉄扇を受け止めた瞬間、その先端から標的を狙って伸びる追撃。間合いを見切っても、そこからほんのわずかだけ伸びる攻撃が襲いかかる。
「でも、あなたにはこれを防げない。だって、防げば後ろの彼女に当たっちゃうものね」
「っ!」
レスカの言葉に、詩織は目を見開く。
爪を隠した鉄扇も、そもそも受け止めなければいい。また、その爪の伸びしろの分を計算して回避すればその力を発揮できない。
しかし、桜がレスカの攻撃を回避できないのは、桜の背後にいる詩織を守るためだ、いかに桜が結界で守っているとはいえ、戦闘と結界の両方に魔力を行使している桜の結界は、レスカの爪を防ぎきれるほどの防御力を持っていない。
「さく……」
「詩織さん」
詩織が声を上げるよりも速く、桜の静かでありながら反論を許さない声が響く。
「わたくしは、神魔様にあなたを守るように頼まれました。それに、わたくしもあなたを見捨てるつもりはございません。
――ですからわたくしは、わたくしの力の許す限りあなたを守ります。……ですが、もし力が及ばなかった時には、申し訳ありませんが見捨てさせていただきます。」
「……っ!」
桜の言葉に、詩織はわずかに目を瞠る。
「ですから、何も気に病まず、そこでわたくしに守られていてください」
「……はい」
桜の言葉に、詩織は不思議と笑みを浮かべる。
(本当……桜さんは凄いな……)
桜は神魔に頼まれたから詩織を守っているのではない。仮にそうだとしても、桜は確かに詩織を助けたいと思っている。
だから、今桜が傷ついているのも、戦っているのも――それは詩織のためでも、神魔のためでもなく、紛れもなく自分の意志なのだと桜は言ってくれているのだ。
(私に……私なんかに……)
桜色の髪が揺れる桜の背を見つめる詩織の胸に、熱いものがこみ上げてくる。
神魔はともかく、桜は詩織が神魔に特別な感情を抱いている事に気付いているはずだ。にもかかわらず、桜の最愛の人である神魔への想いを振り切れず、後ろめたさを覚えながらも桜への嫉妬に身を焦がしている詩織は、自分で自分を嫌悪しながら言葉を呑み込む。
「っ……桜さん」
「……はい」
唇を引き結んだ詩織は、さまざまな葛藤を抱えながら、それでもその一言を絞り出す。
「勝って……ください」
「はい」
詩織のその言葉に、桜は優しく吹き抜ける涼風のような声で応じる
「あら、二人きりでお話なんて随分余裕なのね」
その様子を見ていたレスカが妖艶な笑みを浮かべながら、自身の武器である鉄扇を一薙ぎすると、それに合わせて黒揚羽の紋様を思わせる魔力が桜に向かって暴風のように放たれる。
蝶の紋様を思わせる魔力の波動が放たれると同時に、桜が夜桜の魔力を放出する。ぶつかり合う艶やかで鮮やかな二つの闇は、竜巻のように渦を巻いて相殺する。
「はあっ!」
砕け散った艶やかな魔力の残滓を振り払い、レスカの鉄扇が閃く。
その攻撃を見切っていた桜は、手にした薙刀――「天桜雪花」を一閃させ、夜桜の魔力の刃でレスカを迎え撃つ
夜に舞い散る桜吹雪を思わせる夜桜の魔力によって構成された巨大な三日月状の刃が、レスカに向かって奔る。
「……考えたわね。距離を詰められなければ、私の〝爪〟も届かないものね」
「その程度。考えるまでもなく思いつきますよ」
感嘆の声を漏らしたレスカに、桜が淡々とした口調で応じる。
レスカの武器「貫刺揚羽」に仕込まれた爪と呼ばれる針の射程は短い。しかも鉄扇の先端からしか伸びないという弱点も兼ね備えている。
本来は鉄扇を打ち込んでから、さらに敵の身体を貫くための〝隠し針〟。それこそが、貫刺揚羽の爪の正体。つまり、距離と攻撃を防ぐ角度を間違えなければ、さほどの脅威にはならないのだ。
「……でしょうね」
桜の言葉に、レスカの口元に笑みが浮かぶ。
血炎を上げている桜の腕の傷は、全てこの爪でつけたモノ。その程度の事は何度か対峙すれば、誰にでも分かる事だ。
「ま、実行できればだけど」
言い放ったレスカは鉄扇を一閃させ、その巨大な夜桜の刃を粉砕する。
「隠し針はあくまでおまけよ。最初から私の武器の本質は、敵を粉砕するこの鉄扇なんだもの」
鈍い光を放つ重厚な鉄扇をかざし、レスカは不敵な笑みを浮かべる。
「……そうでしょうね」
しかし、その言葉を見透かしていたかのように言った、桜が地を蹴ってレスカに肉迫する
「なっ……!?」
「力と力による戦いが本質の悪魔が、そんな隠し武器を本質にしているとは思っておりませんよ」
共学に目を見開くレスカに、桜の薙刀が一閃される。
(そんな馬鹿な!? 結界を維持したまま向かってくるなんて!?)
目の前で幻のように砕け散った桜の姿に、レスカが目を見開く。
全霊命が展開する神能の結界は、その維持に常に意識を力を割き続ける必要がある。そのため、実戦で使う際には結界を張る者はその場を離れないのが鉄則であり大原則になっている。
戦闘に意識を割くほど結界が脆くなり、結界に意識を割くほど戦闘力が低下するのだから、距離を取って援護する程度が精々なのだ
だからこそ、結界を展開したまま直接戦闘に入った桜の行動に意表を突かれたレスカは、桜の攻撃への反応がほんの一瞬だけ遅れる。
「……くっ!!」
刹那。閃いた薙刀の刃が閃き、レスカの腹部を横一文字に斬り裂く。
咄嗟に後方へ跳んで回避するが、薙刀の刃に宿った夜桜の魔力がレスカを追撃し、レスカの身体に一筋の傷をつけていた
「驚いたわ……まさかこんな事ができるなんて、ね」
血炎を噴きあげる胸元を一瞥したレスカに、桜は静かな視線を向ける。
「ありがとうございます……神魔様にも褒めて頂いたのですよ」
静かに言い放った桜は攻撃の手を緩める事なく、天に昇る龍のように薙刀の刃を閃かせる。
地上から天空へ上る斬撃を一歩下がってかわしたレスカの肩口の霊衣が割け、宙に舞い散ると魔力の残滓となって世界に溶ける。
「……一つ、質問してもいいかしら?」
桜の斬撃が紙一重で自分を捉えた事に動揺することなく、レスカは背後に体重をかけた仰け反るような姿勢で鉄扇を横薙ぎに放つ。
薙刀を天に掲げた状態の桜に、真横から神速の鉄扇が襲いかかる。
「……何でしょう?」
それを知覚で把握していた桜は全く動じる事なく、手にしていた薙刀を翻して鉄扇を迎撃する。
神速でぶつかり合った刃と鉄扇が魔力の火花を散らし、意識の破壊と魔力の渦を生み出す二人の乙女が視線を交錯させる。
「何であなたは、男にそこまで尽くすの?」
「どういう意味でしょう?」
レスカの言葉に、桜は眉一つ動かす事無く応じる。
「単純な好奇心よ。あなたの行動原理には、必ず男が関係している。……まあ、惚れた男に尽くしたいっていうのは分からなくもないけれど……もしかして、何か返せない義理や恩義でもあるのかしら? と、邪推をしたくなっただけ」
レスカの唇が妖艶な笑みを浮かべる。
事実、これまでの桜の発言、行動は神魔のためという絶対原則がその根底にあった。詩織を守っているのも、戦うのも、全て神魔のため。
愛する人に尽くしたいという気持ちは、同じ女としてレスカにも分からないわけではないが、まるで神魔に尽くす事を生き甲斐にしているかのような桜に、何か恋愛以外の感情があるのではないかと勘ぐっていたのだ
「……愚問ですね」
レスカの鉄扇を弾いた桜は、薙刀を構えてながら表情を一切崩す事無く静かに言い放つ。
「お慕いする殿方にお仕えするのに、特別な理由など必要ありません」
一切の澱みも、迷いもない言葉に、レスカはわずかに眉をひそめる。
「神魔様の喜びはわたくしの喜びです。神魔様の悲しみはわたくしの悲しみです。神魔様の幸福はわたくしの幸福です。――神魔様と共に在り、共に時間を共有し、想わせていただき、時折愛していただく……。わたくしにとって神魔様にお仕えする事は、わたくし自身の望みでしかないのです」
(……本当にすごいな……)
桜の言葉に詩織は目を見開き、自分を守ってくれている愛する人の最愛の人の背中へ視線を送る。
(そんなに神魔さんの事を想えるなんて……桜さん、本当に……本当に神魔さんの事が好きなんだ……)
桜が神魔といる時に見せる、愛色に染まった幸せそうな表情を思い出す詩織の頬に一筋の雫が伝う。
(本当に、羨ましいな……・)
神魔の隣にいるのが、桜ではなく自分だったら……愚かだとわかっていても、詩織はそう考えずにはいられない。心を引き裂かれるような桜への嫉妬と羨望に、まるで自分の心を掴もうとするかのように胸元を掴んだした詩織の手は、微かに震えていた。
「私には、ちょっと理解しがたいわね」
「そうですか? 普通の事ですよ」
鉄扇から魔力の刃を放ったレスカの言葉に、それを夜桜の旋風でかき消した桜が応じる。
桜にとっては思いもつかない事なのか、レスカの考えに桜は心の底から疑問を投げかける。
「……あいにく、私は尽くすよりも尽くされたい方なの」
「分かっておられませんね」
「……?」
刃と鉄扇を打ち合わせ、魔力と殺意の入り混じった衝撃をまき散らしながら、清楚な大和撫子と妖艶な美女が交錯する。
互いの命を刈り取る殺伐とした戦闘を行いながらも、二人が交わしている会話はそれとはまったく異なる色恋の話。それを聞いているものがいれば、そのギャップに困惑した表情を見せるだろう。
「尽くす尽くされるではありません。ただ、お慕い申し上げているだけです」
「……どこが違うのかしら?」
桜の言葉にレスカが静かに言う。
「愛に見返りを求めるものではありません。ただ幸福を願う事……そしてその幸福を求める事。愛とは得るものでも、与えていただくものでも無く――捧げるものなのです」
「でも、その気持ちが一方通行じゃ意味無いでしょ? 少なくとも愛してもらわなきゃ」
鉄扇の一撃を弾いだ桜は、切り返した一撃でレスカの首を横薙ぎにする。
「愛しているから、愛してくださいとでも仰るおつもりですか?」
桜の横薙ぎの一撃を紙一重で回避したレスカは、至近距離にいる桜に鉄扇の先端を向けて極大の魔力の波動を放つ。
「でも、そういうものでしょう? 愛しているからこそ、その寵愛を一身に受けたいっていうのは普通の心理だと思うけど?」
黒揚羽の羽紋を思わせる魔力が桜の視界を埋め尽くす。全てを破壊し、漆黒の彼方へ消し去るその力を夜桜の闇が引き裂いてかき消す。
「その通りです。もちろん、わたくしも神魔様のご寵愛を賜れた時は至上の悦びを覚えます。ですが、それは求めるものではなく求めていただくものです」
「やはり理解に苦しむわ。……あなたは一体どうなりたいの?」
桜の言葉に首を傾げたレスカは、魔力を凝縮させた鉄扇を天空から振り下ろす。
天を貫く魔力の刃を、その場で舞うように回転しながら薙刀の刃で弾き飛ばした桜は、穏やかで優しい口調でレスカにほほ笑みかける。
「女性は家を守るものです。」
「……家?」
怪訝そうに眉をひそめるレスカに、桜が淡々と言葉を紡いでいく。
「はい。ですが、家とは、単なる建物としての家ではありません。身体と心を休め、もっとも安らぎを得られる居場所です」
「……居場所」
「はい……癒しを得られる。心も身体も安らげる場所。どんなに傷ついても、疲れても、帰ってきたいと――ずっとここにいたいと思っていただける……」
そっと目を伏せ、まるで恋文を読み上げるような愛おしそうな口調で、桜は言葉を紡ぎあげていく。
「わたくしは、神魔様にとっての家で在りたいのです」
「……」
(帰る場所……)
清楚で穢れない美しさをたたえる桜の表情は、抑えきれない幸福に彩られていた。
揺るぎなく言い放った桜の表情に思わず息を呑んだレスカは、一瞬だけ目を瞠り、すぐに今まで通りの妖艶な笑みを浮かべる。
「なるほど……。男の傍にいて、そこが自分の居場所であり、男の居場所である事……それがあなたの愛情なのね……」
「女性は、殿方に愛していただいた時、至福の幸福を覚えます。そして女性は、愛していただいた以上の愛情で、殿方を抱きしめて差し上げるものです」
「……ふふっ」
「おかしいですか?」
思わず声をこぼしたレスカに、桜は静かに問いかける。
「ええ。そうね……とってもおかしいわ」
桜の言葉にほほ笑んだレスカは、そっと目を伏せると、一瞬の沈黙の後に目を開く。
「でも、とても素敵ね」
同時に、鉄扇から黒揚羽の羽紋を思わせる魔力が噴き上がる。
「はい」
天へ逆巻くレスカの魔力を見た桜の身体から、それに応じるように夜桜の魔力が噴き上がる。
二人の美女の魔力が渦を巻き、一切の雑念が削ぎ落とされた純正の殺意に彩られた魔力が二人の武器に収束していく。
(……本当に素敵ね)
心の底から神魔を信頼しきっている桜を見たレスカは、内心で小さくつぶやき、唇に微かな笑みを刻む。
瞬間。桜とレスカは、どちらからともなく弾かれたように距離を詰める。
「はああああああああっ!!!」
艶やかで美しく、儚くも麗しく、恐ろしくも高貴な闇がぶつかり合う。
時間すら存在しない刹那の一撃。桜の花弁と蝶の羽を思わせる魔力が天を舞い散り、世界を美しく彩る
(……綺麗……)
まるで時間が止まってしまったかのような光景に、詩織は思わず息を呑む。
砕け散った魔力が舞い散る様は、まるで桜吹雪の中を舞う蝶のごとく。命のやり取りがなされているというのに、そこに広がっていたのは、そんな事を全く感じさせないほどに幻想的で美しい光景だった。
「っ、桜さん……」
その中で向かい合い、視線を交錯させる桜とレスカの姿に詩織は息を呑む。
互いに放ったのは、必殺の意志を込めた一撃。レスカの鉄扇は桜の腕を砕き、桜の薙刀はレスカの身体を貫いていた。
「……強いのね……」
互いに血炎を上げる中、最初に口を開いたのはレスカだった。
「はい……あなたよりも、ほんの少しだけ……生きることへの執着が強かったようです」
桜の言葉に応じたレスカは、自分の胸に深々と突き刺さった薙刀の刃を見る
互いの全霊をかけた最後の一撃。……・それが相手の命に届いていたのは、桜の攻撃だった。
「そうね……死んでしまったら、愛しい人といられないものね」
「……はい」
悲しげに眉を寄せ、口端から血炎を上げるレスカの言葉に桜が静かに応じる。
(もし……もし私がこの子と同じように、あなたに愛してもらえていたら、勝ったのは私だったかしら……?)
命の終わりに、身体が魔力の蛍へと変わっていく様子を一瞥したレスカが内心で呟く。
そっと手を伸ばしたその先にあるのは、レスカが十世界に入るきっかけになった愛する人の背中。ずっと恋焦がれていた、自分を見てくれない想い人の背中。
(……そんな事は無いわね。きっと……)
自分の命を刃で貫いた桜へ視線を移動させたレスカは、内心で自答して自嘲する。
(ごめんなさい……あなたの願い、叶えられなかった……『死紅魔』様……)
愛しさと、悲しさに目を潤ませたレスカは、決して届かない想い人に手を伸ばし、そしてその手を掴む。
そうして、想い人の手を取ったレスカは、魔力の残滓となって舞い散り、まるで死の葬礼を彩る蛍のように世界に溶けていった。
「桜さん……」
魔力の残滓となって世界に溶けていったレスカを見送った桜は、結界の中にいる詩織に優しくほほ笑みかける。
整った容姿、舞い散る桜吹雪のような癖の無い長髪。白磁のような白い肌に、細くしなやかでありながら、細すぎず女性特有の柔らかさを感じさせる体つき。
永遠の時を生きる事が出来る全霊命だからこそ持ち得る熟成した女性の包容力と色香に初々しい乙女のような可憐で犯しがたい雰囲気が混在し、同居している幻想的な美しさ。
全ての女性の魅力が凝縮されたような、人間では決して持ち得ない神秘的な雰囲気を持つ恋敵は、同性である詩織であっても思わず息を呑むほどに美しい。
(本当、敵わないな……)
春風のように優しく佇む桜を見つめていた詩織は、自嘲するように微笑む。
清楚でおしとやか。ただ神魔のために献身的に尽くし、それを自身の至上の喜びとする――まるで女性の理想の一つがそのまま形になったような桜に、詩織はどれほど足掻いても勝ち目など無い絶対的な敗北感を覚えずにはいられない。
「詩織さん?」
「あっ、なんでもありません……」
いつの間にか武器を消し、戦闘状態を解除して戻ってきていた桜の声に詩織は思わず声を上げる。
「どこか痛いところなどはございませんか?」
武器を消し、詩織を守っている結界の元へ戻ってきた桜の言葉に、詩織はうなだれるようにして頷く。
「……大丈夫です。それより、桜さんの方が……」
レスカの鉄扇を受け、大量の血炎を上げている桜の腕を見て詩織は眉をひそめる。
桜の傷は自分を守るために戦ってついたもの。いくら全霊命が生きている限りあらゆる傷を癒せるとはいえ、その傷は、詩織に自身の無力さを痛感させるには十分なものだった。
「御心配には及びませんよ。……この戦いももうすぐ終わりです。あなたの事はわたくしが責任を持ってお守りいたしますので」
(少々気になる事もありますし、ね……)
詩織に微笑みながらも、桜はわずかに意識を尖らせる。
「……ありがとうございます……」
空をそっと見上げた桜を見つめ、詩織は震える唇で言葉を紡ぐ。
「桜さん……」
「はい……っ!」
「?」
詩織の言葉に視線を向けた桜は、不意にその表情に険しいものを浮かべ、詩織から視線を逸らし、ある一点を見つめる。
「なっ!? こんな、事が……」
「桜さん……?」
その様子に首を傾げた詩織の言葉すら耳に入らない様子で、桜はその表情に隠しきれない驚愕を浮かべる
「……これが……っ」
「なっ……!?」
精悍な顔を驚愕に染めながら、臥角は目の前にいる人物を見る。
「馬鹿な……っ」
目の前で渦巻く強大な力。白と黒、光と闇の力が渦を巻き、荒れ狂う。
その力の発生源となっている人物を見つめ、臥角は、息を呑み震える声でその言葉を絞り出す。
「これが――『光魔神』……!!」