円環輪廻
天を衝き、世界を清めるかのような天力の奔流が渦巻く中心にいる灯は、薄桃色の羽衣を翻らせて、金色の剣を手に厳かに佇む
まるで戦場に咲いた一輪の花を思わせるその姿で佇む灯は、霞と微笑みを交わすと、目を見開いた叢雲へと視線を向ける
「霞」
「はい」
弾かれように身を強張らせて戦闘態勢を取った叢雲を見据えながら言葉を紡ぐ灯は、目を伏せて羽衣と翆金色の髪を翻す
「叢雲さんをお願いできますか?」
「御意」
灯の王としての言葉に、感動に心を震わせた霞は感極まった表情で恭しく頭を下げる
「堕天使王様」
「なんだ」
深く礼をした霞に見送られ、天力の限りに伸縮する薄桃色の羽衣を翻舞させて神形達を両断してみせる
常時顕現型の武器である羽衣は、灯の意思によらない自動防御の能力を持っているが、武器として振るわれた時にこそその真価を発揮するのが必定
灯が望めば刃のように鋭くも、風に揺れる花のようにしなやかにもなる羽衣が天空に軌跡を描き、天上界王の力を知らしめる
「皆さん」
顔を上げ、聞く者の心を清めるような涼しい声を天力に乗せた灯は、天上界の空で戦っている者達に呼びかける
「死なないように戦ってください。分が悪いと思ったら私かアリシア様、ロギア様あるいは悪魔の彼女の方へ逃げるのです」
その言葉は主に天上界の天上人や九世界からの客人であるクロス、マリア、リリーナ、ノエルといった天使に向けられたものだが、十世界の者達を見離すものでもない
光の力をほぼ受け付けない神形達は脅威だが、灯とアリシアならばその力をも凌駕することが出来、堕天使王と魔力共鳴した桜は造作もなくその軍勢を払滅しており、戦況は絶望的ではない
「押し付けられましたね」
要するに、「戦える人に任せてしまえ」という意味の言葉を発した灯に、神形達の特性を受けない堕天使であるオルクは、共に戦っているザフィールへ苦笑を向ける
「……任されたのだろう」
オルクの言葉に地上の天上界王を一瞥したザフィールは、信頼を寄せるような笑みを浮かべている灯から視線を離し、その身体から黒色の光を放つ
(力が強くなったわけでもない。今までも力を抜いていたわけでもない。だが、先程までとは何かが変わっている。心構えか、その在り様か……)
灯から放たれる清厳な天力の気配を知覚するザフィールは、力や意思といった神能では分からない変化を得た天上人の王の言葉に身を引き締める
「皆さん。お願いします」
天上界王として神形達に影響を受けない者達へ要請した灯は、自身の周囲に無数の光輪を展開し、そこから極光を放つ
浄滅対象を限定した光の砲撃が神形達をその光の中で無へと帰し、それらがひしめき合って埋め尽くしている空に軌跡を作り出す
「……お見事です。うまく灯様を開き直らせましたね」
圧倒的な数を誇る文明神の眷族が滅ぼされるのを見て苦々しげに歯噛みした叢雲は、その視線を落としてこの場に残った霞に言う
先程灯に相手を任され、弓剣と琵琶を手にして叢雲に向き合った霞は、その言葉に一抹の憐憫を覚えて小さく首を横に振る
「違いますよ。灯様は悩み、迷い、考え続けることを決めたのです」
敬意の籠った眼差しと声音でまるで我が事のように誇らしげに語った霞は、その思いを胸に焼き付けるように噛みしめて言葉を続ける
「私は、灯様をおだてたわけでも諭したわけでもありません。最初からあの方の中にあった、あの方自身の大元にある気持ちを拾い上げただけです
色々な人への思いで埋もれ、表に出すことを憚っておられた灯様自身の気持ちに従っていいのだと、お願いしただけです」
そこまで告げた霞は、柔らかだったその瞳に戦闘のための鋭さを宿し、金色の矛を携える叢雲に視線を向ける
「叢雲。あなたの本心を見抜けなかったのは、私達側近の力不足です。――あなたは灯様の事を分かってくれていると思っていました」
「分かっていますよ。だから、こうして引導を渡しにきたのです。灯様と、私と、この世界に。――世界の王たるものが、この世の理に許されない存在であっていいはずがない」
憐れみさえ覚えているであろう様子で告げてくる霞の言葉に答えた叢雲は、その武器を構えて臨戦態勢を取る
先程まで周囲に従えていた神形達は灯によって討滅され、一対一の状況が作り出されている。今日まで仕えた叢雲を手にかけることを望まないが故の灯の配慮なのかは分からないが、いずれにしろ霞と命をかけた一騎打ちをするしかないことだけは確かだった
「残念です。ですが、灯様の信頼を裏切ったあなたを、私は許しません」
叢雲の言葉に哀愁を帯びた声音で応じた霞はその身に天力を漲らせると、今日まで天上界の宰相を務めと男に敵意を向ける
純然たる意思に彩られた天力がせめぎ合い、視線を交錯させる霞と叢雲は、どちらからともなく地を蹴り、神速を以ってその刃を振るった
※
命を持たないにも関わらず神格を持つ文明神の眷族達が神速で天を翔ける。無数の装備を備え、それらを展開して万全の戦闘態勢を取るそれら神形の隊列を分断するように薄桃色の羽衣が二条の槍となって迸る
そこに注がれた天力によって盾と障壁ごと力任せに神形の身体を穿った羽衣は、その隙を縫って放たれる砲撃すらも弾き、龍のような蠢きによって絡めとり、神格の力のままに鋼鎧のような身体をへし折る
意思も痛覚もないため、鈍い破砕音と共に声もなくへし折れた神形を絡めとった薄桃色の羽衣がそれを地面にたたきつけ、その勢いのままに灯の身体を空の只中へと誘う
金色の剣が天力の光と共に閃き、踊る羽衣が周囲の敵を薙ぎ払い打ち払う。無数に展開された光輪から放たれる天力砲がさらにそれに追い打ちをかけて神形を軍勢を薙ぎ払い滅していく
「――ッ」
それを見て瞠目する威蕗を見て邑岐は口端を吊り上げ、王に続かんと咆哮を上げて龍爪の矛を振るう
「灯様」
出雲、真響、北斗――十世界、九世界の天上人が目を奪われ、天使達もがその戦う姿に畏敬の眼差しを向ける傍ら、結界の中からそれを見ていた詩織は、双眸に映る羽衣と金閃を閃かせる灯の姿に魅入られる
「すごい……すごく、綺麗」
「さぁ、皆さん。この世界の王が戦っております。皆さんもそれに続いてください」
灯の戦いに目を奪われている者達の意識を引き戻すように声をかけたアリシアは、純白の十字杖を振るって光力の光で神形達を滅却していく
その反対側では、それと対を成すような純黒の光が迸り、漆黒の翼を広げたロギアが神形達をことごとく滅ぼしていく
「――っ、このままじゃヤバい」
純白と漆黒、金色の清浄な光が煌く度、神形達が滅ぼされていく戦況を見てとった特級である「リオラ」は、神を殺す特性が具現化した神器の剣を握り締めて戦況を打破するべく身を翻す
「――ッ! ちっ」
しかし、その行動を見通していたかのように漆黒の光がその背後から迫ると、リオラは神殺の剣でそれをかき消して舌打ちをする
そこにいるのは、先の黒光を放った堕天使「ラグナ」。十世界に属し、文明神と浅からぬ因縁を持つラグナは、焦燥に駆られて苛立つリオラに低く抑制した声で追及する
「まだ、俺の質問に答えてないぞ」
「教えるわけないでしょ。馬鹿じゃないの」
文明神がいる場所を知りたがっているラグナの要求を当然のこととして突っぱねたリオラは、魂が竦むような恐怖の闇に追い立てられるように声を荒げる
「そんなことより、あれを放っておいていいと思ってるの!?」
「――……」
切迫した心境が伝わってくるリオラの言葉に剣呑な光を双眸に灯したラグナは、そうならざるを得ないであろうその原因へと知覚を傾ける
「ぐ、うっ」
頑強な白鎧を纏う特級神形「クレメウス」は、全身を撃つ衝撃に苦悶の声を上げながら吹き飛ばされる
白亜のように美しかったその鎧は至る所がひび割れており、これまでその身にどれほどの力が襲い掛かったのかを雄弁に物語っている
「っ!」
相手の神格と等しくなることによってあらゆる神能を無効化する事ができる神器の力を無視して響いて来る攻撃に体勢を崩したクレメウスは、自身の眼前に迫っている悪魔の姿を見て瞠目する
黒よりも黒い魔力を放つその悪魔――「神魔」は、そのままその手でクレメウスの頭部を掴まえると、身の丈にも及ぶ大槍刀をその身体に突き立てんとする
「――っ」
神魔の大槍刀が今まさにクレメウスの身体に突き立てられんとした瞬間、影の因果を総べる神器を持つ特級神形である「ミルトス」が肉薄し、傷ついた白鎧の同胞へ触れる
影の因果の力を用い、捕らえられたままであってもその束縛から逃れられる神器の力を以って、ミルトスはクレメウス共々神魔の手から逃れる
それが早いか、ミルトスの一連の動きを金色の双眸に映していた神魔は、魔力を炸裂させて黒黒の力を振りまくと、大槍刀を一薙ぎして背後に肉薄していた特級神形であるベヘネヴィーラを迎撃する
その武器である銀の鎌矛で咄嗟にその斬撃を阻んだベヘネヴィーラだったが、神魔の魔力はそれをも圧倒して存在を瞞にする無秩序であるその身にダメージを与える
「あれはヤバいわ! うまく言えないけど、ヤバいなんてもんじゃない! あのまま放っておいたらどうなるかわかったもんじゃない!」
自身の姉妹兄弟たちが三人がかりで、神器も持たないたった一人の悪魔に圧倒される異常な光景に不安を掻き立てられるリオラが声を荒げる
まるで神話に謳われる黙示録が迫っているかのように、目に見えない滅びに突き動かされているリオラの切迫した声に滅びの闇と化した神魔を一瞥したラグナは、視線を戻してその武器である斬馬刀の切っ先を向ける
「そんなこと、俺には関係ない」
「――そう。なら、こっちも同じことを言うだけよ」
ラグナの言葉に歯噛みしたリオラだったが、感情の昂ぶりを抑えるかのように、大きく一度深呼吸をして呼吸を整えると、険な視線を向けて言う
「ミルトス!」
「はい。姉さん」
リオラが声を上げた瞬間、その背後に短く切りそろえられた白銀の髪を揺らめかせる女性が現れる
先の神魔の攻撃の直撃を寸前で回避したらしく、傷ついたその身体には純黒の魔闇の残滓が絡みついていた
「しまっ――」
それを見たラグナが反射的に刃を振るおうとするも、それよりもリオラの身体に接触したミルトスが裏因果の力によって影動する方がはるかに早い
あらゆるものに付随する影という概念、事象として移動する神器の力によって離脱したリオラを逃したラグナは、歯噛みしてその視線を二人が移動したであろう方向へと向ける
「死になさい」
妹機に当たるミルトスの移動によって瞬時にこの戦場における最大の脅威――神魔の許へと移動したリオラは、神を殺す力が形となった神器剣を最上段から振り下ろす
速さではなく、最初からそこにあったかに等しい移動を以って神魔の背後を取ったリオラは、それに対する一切の油断なく一撃で確実に仕留める意思を以って刃を振るう
「――ッ」
しかし、全霊の力を込めて放たれたその斬撃は、おもむろに延ばされた神魔の腕によって真正面から掴み取られ、縫い付けられたように止められる
「嘘でしょ!? 私の剣を素手で掴み取るなんて……!」
神だけが神を殺せるこの世の理から生まれた神を殺す剣を防ぐでも回避するでもなく、掴み取ったことにリオラは信じ難い驚愕と戦慄の入り混じった表情で声を上げる
神に最も近い全霊命の力である神能にもその能力をいかんなく発揮できるはずの剣を掴み取った神魔は、そのまま力任せにリオラを投げ飛ばす
「――ッ」
剣ごと振り回し、投げ飛ばされたリオラは、滅闇が具現化したような純黒の魔力を注ぎ込んだ大槍刀を振りかぶっているのを見止めて息を呑む
そのまま神魔が振り薙いだ大槍刀の軌跡に沿って、全てを滅ぼす闇が凝縮された斬撃の波動が天上界を貫くようにして迸った
「――っ」
(なんという力だ。ただの悪魔が共鳴しただけで、まるで原在のような神格を得るとは それにあの異常な強さはなんだ? まるで、これほど離れているというのに、まるで光でできた我が身さえも闇に呑み込まれてしまうかのような底知れない闇――)
その力の奔流を知覚したサンクセラムの首領たる天使「レイラム」は、その滅びの力に自らの存在が委縮するのを感じる
(恐れているというのか? この私が……)
純白の大槍刀を握る手が魂の根源――否、もっと深い、原初の領域から生じているような恐怖によって震えているのを見て、レイラムは歯噛みする
光を至上のものとして掲げ、光の大義を世界唯一のものとする崇高な思想を掲げる筆頭たる自分が滅ぼすべき闇に怯えていることに、レイラムは惨めさとやり場のない憤りを覚えていた
(ロギアとアリシア――二人も、原在がいては……それに、なんだあの悪魔の番は!)
たった四人。しかし、それだけでサンクセラム、神形の軍勢、その全ての戦力を圧倒し、戦況を優位に決定づけている者達にレイラムは歯噛みする
この天上界への侵攻と粛清は、文明神の眷族の力を頼りにしている面が大きい。光の力を限りなく無効化できる文明神の人形たちがいたからこそ、天上界王灯の誅滅を行うことを決定したのだ
事実その力は破格の優位性をもたらし、神器を持つ特級神形達の力によって不確定要素であった堕天使王を含む堕天使達をも完全に抑え込み、確実に勝利を得て目的を遂行できるはずだった
だが、今戦況は完全に覆り、圧倒的な数を持ちながらも、レイラム達サンクセラムと神形の軍勢が完全に劣勢に追い込まれていた
(あんな奴らがいるなど、聞いていないぞ。このままでは――)
「レイラム様!」
武器を握る手に力を籠め、最悪の事態を想定したレイラムが険しい表情を浮かべると、サンクセラムに属する天使の一人が不安な表情を浮かべながら、判断を仰いでくる
その表情から、自分と全く同じことを想像しているであろうことを見て取ったレイラムは、その視線を舞うような戦景で神形達を滅ぼしている天上界王へと向ける
「このまま退いては、我々の正義が揺らぐ。せめて灯だけでも――」
翠金の髪と薄桃色の羽衣、そして白の衣を翻らせて金色の斬閃と光の砲撃を放つ灯に、義憤と敵意を等しいものとする視線を向けたレイラムは、せめて無残な撤退と敗走だけは避けようと決意する
その瞳で当初からの標的である、この世に在ることを許されない禁忌の存在――天上界王灯を射抜いたレイラムは、純白の大槍刀を握る手に力を込める
だがその時、その視線を遮るように純黒の闇が揺らめいた
「――!」
ある程度の指揮権を得ている神形と共に持てる力の全てを用いて今まさに戦いに望もうとしていたレイラムは、それを見てつんのめるように前のめりに留まる
純白の翼で制動をかけ、移動を止めたレイラムの視線の先には、滅闇の魔力をその存在の力とする悪魔が、桜色の髪と着物の霊衣の裾を翻して淑やかに佇んでいた
「貴様……」
「お初にお目にかかります。わたくしは桜と申します」
その人物を見たレイラムは、たった一人で特級達を圧倒する悪魔を伴侶とし、魔力を共鳴させてそれに通じる力を得ている女悪魔――桜を睨み付ける
敵意をあからさまにするレイラムとは対照的に涼やかな面持ちで向き合う桜は、その武器である薙刀の柄を両手で持って刃を横に向けており、戦闘の意思がないかのように見受けられる
「サンクセラム代表、天使レイラム様でよろしいですよね?」
「――」
まるで知己の相手に話しかけているかのような、敵意のない穏やかな声音だが、レイラムには桜との面識はない
世界――特に闇の世界には良くも悪くも名を知られている自覚があるレイラムは、桜が自分の名を知っていることにはさして疑問を抱かず、警戒心を露にした険しい表情で一輪の花のようなたおやかな佇まいに意識を巡らせる
その時、この隙を衝くようにして神形達がレイラムと相対している正面以外の包囲から一斉に襲い掛かる
個々の人格や命を持たない――与えられていない――が、戦闘の情報を共有しているために、桜を排除するべき脅威と認識している神形達による奇襲めいた攻撃だったが、そんなことなど意に介さないかのような滅びの風が一吹でその存在を一瞬にして消失させる
「――っ」
最強の全霊命である原在と同等の神格、それだけでもありえないというのに、共鳴によってある意味でそれらすら凌ぐ〝神魔〟の危険な力を有している桜に、レイラムとサンクセラムの天使が瞠目する
「そんなに警戒なさらないでください」
周囲にいる神形やサンクセラムのメンバーなど視界にも入っていないかのように、レイラムだけを見据える桜は、慈愛すら感じられる優しい声音で言の葉を紡ぐ
「風花さんの関係者と申し上げればわかりますか?」
「!」
わずかにその声に硬質さと鋭さを帯びさせた桜に、レイラムは目を見開きまるで亡霊に会ったかのような表情をみせる
風花は、かつて光と闇の戦いにおいてレイラムの大切な者達を滅ぼした悪魔。そしてレイラムがサンクセラムに闇の存在への憎悪と敵意を植え付け、光によって世界を満たすことを至上の目的とするサンクセラムを興すきっかけとなった存在
故に風花はレイラムにとって、遥か遠い昔にその命を奪うことで仇を取ったとはいえ、数多屠滅してきた闇の存在の中でも特に忘れられない人物だった
「――あの女の仇討ちという訳か」
光の正義を掲げていても、殺した者に殺された者を大切に思う者の憎悪が向くことを身をもって知っているレイラムは、淑然とした佇まいで言う桜の言葉に視線を細める
「いいえ」
しかし、臨戦態勢を取ったレイラムは、それに対して返された桜の声に虚を衝かれたように瞠目する
「わたくし自身は風花さんとはなんの縁もございません」
「どういう――?」
他人事のように告げる桜の言葉に怪訝な表情を浮かべたレイラムは、桜色の髪を揺らす悪魔の様子を注意深く窺う
自分と風花との繋がりを知る由もないレイラムは、自身へと向けられる桜の楚々とした瞳を見つめて、自身の記憶を思い起こす
「――っ」
(そういえば、あいつの魔力は、あの日――)
その時、レイラムの脳裏に甦ってきたのは、目の前にいる桜ではなく、圧倒的な力を以って文明神のユニット達を圧倒する神魔の事だった
永遠の時を生きながらも、忘却を知らない記憶力を有する全霊命として、遠い昔――風花を殺したあの日に知覚した力がレイラムの脳裏に思い出される
(まさか、あいつはあの時の――)
ほとんど歯牙にもかけず、記憶の中に埋もれていたその人物の力を思い返したレイラムが息を呑むのを待っていたかのように、桜がその可憐な唇を開く
「ただ、わたくしは極めて私的な理由で、あなたを滅ぼさせていただきたいのです」
詩を遊むような淑やかな口調で言の葉を紡いだ桜は、神魔と共鳴した魔力を高め、自身の武器である薙刀を構える
さながら、神魔にとって仇である天使の命を他の誰にも奪わせないとばかりに、あるいは神魔に手を下させまいとしているかのように、または神魔が直接手にかける価値もないと断じるように自らの意思を力と共に示した桜は、全てを滅ぼす純黒の魔力を薙刀へと注ぎ込む
「く……ッ」
清楚にして献身的な純然たる殺意に彩られた魔力を向けてくる桜を前に、レイラムは自身の光力を最大まで高めて純白の大槍刀の切っ先を向ける
サンクセラムの天使、武装を展開した神形の軍勢がその周囲に陣形を敷き、桜を迎え討たんとする
だが、次の瞬間レイラムは自身の視界に、一片の桜の花弁が舞うのを幻視する
「――え?」
それがなんだったのか、レイラムにはその知覚を持ってさえ理解することが叶わなかった。気が付いた時、すでに眼前に桜の姿はなく、その背後で癖のない艶やかな桜色の髪が静かに揺らめく
手にした薙刀を構えた桜の背後では、レイラムと陣形を組んでいた天使、神形達が胴から身体を真っ二つに斬り分けられていた
(ば、ばか、な……っ)
全く知覚することさえ出来ず、身体を両断されていたレイラムは、想像を絶するその力に言葉を失い、背後に背を向けて佇む桜へ視線を向ける
いかに共鳴によって原在に近い神格を得ているとはいえ、全く反応できないままただ一刀の下に分断された信じ難い驚愕の中、レイラムは自分のあまりにも呆気ない最期を悟る
そして半瞬遅れて、レイラムの命を死が支配していく
神速の知覚の中、ゆっくりと自身の身体が光力へと帰し、世界へと溶けてく喪失と共にレイラムの光は、魔力の闇へと呑み込まれる
ゆっくりと振り返り自身の闇が引き起こした終滅を見届けた桜は、まるで黙祷を奉げるかのようにその胸にそっと手を当てて目を伏せるのだった
※
硬質な足音を響かせながら静謐さに満ちた長い廊下を抜けると、そこには一際広大な空間が広がっていた
まるで神殿の一室を思わせる高い天井と広大な空間が広がるその場所は神々しい空気で満たされており、一歩踏み込むだけで魂の髄から引き締まるような感覚を覚える
その場に足を踏み入れた人物――十世界魔界総督にして、最も神に近き悪魔の原在の一人でもある「ゼノン」は、誰に言われるわけでもなくその場で跪き恭しく首を垂れる
何も知らない者はもちろん、ゼノンという最強の悪魔の人格を知っている者が見れば、さも当然のように自然に傅くその姿に驚きを覚えただろう
だが、この場でその所作を取るのはゼノンにとって――否、仮にこれが魔界王達であったとしても同じことだ
そう言えるだけの、そう思わずにはいられない空気がこの場には満ちているのだ
そしてその発生源は跪いたゼノンの正面から放たれている
そこにあるのはゼノンであろうと見通すことが出来ない深い暗黒の闇。――否、そこに闇など存在していないのだが、その場にいる者達の存在が玄奥の闇となって感じられるのだということをゼノンは知っていた
「お前が選んだ悪魔――紅蓮が殺生神へと神化し、光魔神と戦っている」
そんなゼノンに対し、低い男の声がかけられると同時に、その傍らの空中に収束した闇が無数の円形の空間を作り出し、そこに様々な光景を映し出す
天上界王がその光の力で敵を浄化させる様子、堕天使王がその漆黒の光で敵を消滅させる様、文明神の眷族達と戦う者達、殺生神となった紅蓮と光魔神が相対する姿、護法神と合流した九世界の王達、最強の悪意を従えた反逆神、そして覇国神に真剣な表情で訴えかけている十世界盟主たる「奏姫・愛梨」――それはいずれも今現在の天上界を取り巻く光景だった
「奴め、我らに利用される代わりに我らを利用しおった」
「申し訳ありません」
暗黒から紡がれた高潔な気品を感じさせる女性の声に、ゼノンは自身の最上級の敬意の籠った謝罪の言を述べる
「よい。中々に不遜ではあるが、弁えるべきところは弁えておった。それが契約でもあるしな。そのくらいでなくては卿も冷めるというものよ
これで我らはまた一柱の戦力を手に入れた。仮に彼奴が光魔神に敗北して死のうとも、殺生神の力は我らの許へ還り再誕を待つだけ。――必要ならばまた別の器へ入れればすむだけのことよ」
「寛大なお心遣い痛み入ります」
紅蓮を器として選んだ身として、責任を感じながら無礼を謝罪したゼノンは、どこか愉しげな女性の声に心からの言葉を返す
この女性の言葉の端から楽しんでいるような心情を感じられるのは気のせいではない。待ちわびていたその時を前に、それを隠しきれないのだということをゼノンは重々承知していた
「ゼノン、間もなく我らの悲願が叶う。お前に十世界に潜り込ませ、真の神器を集めさせたのも我らの本懐を成就させるため――」
その女性の言葉に続くように、深淵の闇の中から先の男の抑制された声が届けられる
それと同時にゼノンの前に広がっていた闇が晴れるように薄くなり、そこに隠していた中央最奥部に鎮座した神々しい光の宝玉を露にする
闇のヴェールに抱かれていたその宝玉は、内側に極彩色の光を内包する光輝で神々しく透き通ったものであり、まるで世界に浮かんでいるように金白色の燐光を纏ってその場に存在していた
「かつて創造神によって封じられた我らの神、破壊神様を復活させるためだ」
「はっ。承知しております」
暗黒に覆われたこの場には似つかわしくない神光の結晶である宝玉が再び純闇の帳に閉ざされると同時に聞こえてきた厳かな声に、ゼノンは恐縮しながら応じる
「肝要なのは、奏姫に神眼を使わせること――もっとも、もうその必要もないかもしれないがな」
女性の声で紡がれたその言葉と共に、ゆっくりと伸びてきた〝闇〟が手のような姿を形どり、特級神形を圧倒する神魔を撫でるように動く
「我らが出る刻も近い。この機を逃すなよ?」
暗黒の中から聞こえてくるその声に、ゼノンは最上級の敬意が込められた声で応じる
「心得ております――〝終焉神・エンド〟様。〝暗黒神・ダークネス〟様」
闇の創世神――神位第三位「極神」に名を列ねる二柱の神の名を畏敬の念と共に呼んだゼノンの言葉が、静かに闇の中に響いた




