灯(ともしび)
《霞》
目の前を歩く邑岐が足を止め、名を呼ぶと共にゆっくりとその身を半身ずらし、そこにある扉を開ける
それに合わせて扉に遮られていた空間が開かれ、少し前から知覚で来ていた力の持ち主がその中から姿を現す
《こちらが新たな天上界王、灯様だ》
邑岐の声に導かれ、室内へと視線を向けた霞は、そこにいた人物の姿を瞳に映して、思わず息を呑んだ
癖のない翠金色の長髪はまるで宝石のように美しく、天上人の証である頭上の光輪に照らされてまるでそれ自体が輝いているかのように煌めく
袖のない純白のドレスに穢れのない新雪を思わせる白肌が映える極上の肢体を包み、薄桃色の羽衣を纏ったその女性は、全霊命特有の整った美貌を携えてそこにいた
《失礼しました。本日より灯様のお世話をさせていただく霞と申します》
同じ全霊命である自分が思わず時が止まったように感じられるほど、その姿に見惚れてしまっていた霞は、その女性――灯の視線に気づいてその場に跪く
《よろしくお願いします》
忠誠の言葉を奏上した霞は、ゆっくりと顔を上げ、優しく目元を綻ばせた灯を見上げる
先程まで腰を下ろしていた灯が立ち上がり、自分を見つめる穏やかな眼差しを受けた霞は、言葉は出さずに決意を抱くと共に、目を伏せて再び首を垂れた
この時、自らに誓いを立てた霞は、それを破ることなく貫き通してきた。たとえそれが法に悖ることであったとしても
「霞!」
はじめて灯にあった日の事が脳裏に巡っていた霞は、自分を呼ぶ王の声に足を止め、琵琶から奔る天力糸で神形達を絡めとり、力任せに放り投げる
今この世界を襲っている神形達は、光の神能をほぼ受け付けない特性を有しているが、光の力を無効化しているわけではない
そのため、天力糸で絡めとれば、容易に引きちぎることはできず、神格に準じた力のままに振り回せばそれが許す限りその身体を振り回すことができる
そして、たとえ天力が通じなくとも、神形同士ならばその力が減衰されることはない
通常の全霊命とは違い、全く同じ姿を持ち、全く同じ神能を持っていても、量産された別個体である衆級神形達をぶつけ合うことで攻撃とすることが出来た
「……霞」
その武器である琵琶から伸びた無数の天力糸で絡めとった神形を叩き付けることで天力が効かない相手に攻撃を仕掛けた霞は、自身の乱入に視線を細めている裏切り者の天上人――「叢雲」へ視線を向ける
先の天力糸で捉えきることが出来ず、その身に受けた光剣の斬撃によって刻み付けられた傷から血炎を立ち昇らせる霞は、弓剣を携えて灯を背後に庇う
「ご無事ですか、灯様」
血炎を立ち昇らせ、肩越しに視線を向けた霞の言葉に、灯は抑えていた感情に突き動かされるように声を上げる
「どうしてこんなことを!? 私にあんな攻撃が通らないことは分かっていたはずです!」
天力の光で霞の傷を癒す灯は、一歩間違えれば命を落としていたであろう先の暴挙に困惑を露にする
多現顕在者である灯の武器の一つ、常時顕現型の羽衣「花霊輪牙」は、自動戦闘能力を保有し、例え灯自身にその気がなくともその身を守る力を持っている
仮にあのまま神形達が襲い掛かっていたとしても、その力によって全ての攻撃は防がれていた
長く灯の傍らに仕え、その力だけではなく心までも見通している霞がそのことを失念しているはずがない。だというのに、自らその身を挺して庇った霞に、灯は困惑と動揺を隠しきれなかった
「はい。ですが、こうせずにはいられませんでした。だって、あなたは私の――私達の〝王〟なのです。たとえ無傷で終わるとしても、その御身に刃と敵意が向けられることを容認する家臣などいるはずもないのですから」
「霞……」
その身体に刻み付けられた無数の傷から血炎を立ち昇らせながらも、さも当然のことのように優しい声で応じた霞の言葉に、灯は口を噤んで声にならない言葉を呑み込む
「何が違うのですか?」
二人のやり取りが一段落ついたと判断した叢雲は、先程わざわざ攻撃に割り込み、無傷で済むはずの灯のために傷を負った霞のその行動の教義を訊ねる
「あなたの考えの悉くです。あなたが灯様を見限るのは勝手ですが、それを灯様の所為にしないで下さい。その失望は、あなたの不相応な高望みと見当違いの代物です」
「手厳しいですね」
灯からの治癒を受け、その武器で神形達の攻撃を阻みながら答える霞の言葉に、わざとらしく肩を竦めて見せた叢雲は、その眼鏡のような装飾越しに見える怜悧な眼差しを鋭くする
「灯様は優しすぎる。いや、決断力がないと言い換えてもいい。人の意見ばかりに耳を傾け、自分の意志を通そうとなさらない
王には、時に臣民家臣、他者の意見を拒絶してでも己が意思を貫き通さんとする覚悟が必要なのです。無論、そればかりでは問題外ですが、あなたにはそもそもそれがない
王として皆の意見に耳を傾けようとする姿勢は悪くありませんが、世界を率いろうという確固たる意思が見えない。それでは臣民はついてきません。揺らぐ王の下に安心して尽くせるでしょうか」
「それは――」
叢雲の口から告げられた言葉に、灯はその表情を曇らせて視線を伏せる
光と闇の全霊命の間に生まれた、この世の理として生まれるはずのない最も忌まわしき者としてではなく、灯という個人が持つ王としての未熟さを指摘する言葉が、その胸に深く突き刺さっていた
「それでいいのですよ、灯様」
しかしその時、罪悪感を中心にその胸中で渦巻いている様々な感情を抱え込んでいる灯の様子に目元を綻ばせた霞は、身を翻して叢雲と神形達に背を向ける
「自信を持ってください。あなたがあなたの存在を負い目に感じているのなら、あなたに捧げる私達の忠誠を信じてください
私も、邑岐様も、多くの者はあなたを王として信じているのです。あなたは、王であろうとしてくださっているではありませんか」
まるで背後の敵など眼中にないかのように自分に向かい合って語りかけてくる霞の言葉に、灯はその瞳を迷いで揺らす
「でも――」
天力の結界と、琵琶から伸びる天力糸で編み込んだ障壁で神形達の攻撃を防ぎながら、霞はこれまで何度もかけてきた言葉を繰り返す
霞の忠誠はあの日から一度も変わっていない。だが、その誠意は灯に伝わってこそいても、その心を変えることはできなかった
「――あんな無様な王がこの天上界の王だとはな。霞といい、お前といい、なぜそこまでしてあの女に仕える? あれに、それほどの価値があるというのか?」
血炎を流しながら信じていた腹心に裏切られた灯に向かい合う霞のそんなやり取りを遠くから知覚の端で捉えていたサンクセラムに属する天上人「威蕗」は、嘲笑めいた声で言う
その視線の先にいるのは、周囲を光の力が効かない神形達に囲まれ、それを視線と龍爪の矛で牽制する邑岐だった
「咎人を王にする世界なんて、この世界のどこにもありはしない。まして、その存在が許されるべきものではないあの女ならば尚のことだろう?
世界を正しく、あるべき形とするためにも、あの王は滅びねばならない。この世界に――俺達の生きる場所に、禁忌はいらない」
天上界王補佐を務め、かつて姿を消した先代天上界王「綺沙羅」に代わって天上界を治めていたこともある天上人へ視線を向けた威蕗は、最も忌まわしき者である灯を王として戴くことを是とする男に向けて言い放つ
そこにあるのは、世界を創造した神の直系たる存在として当然の反応。そして、この世界に生きる者としての当然の道理と意思だ
「なぜ、そこまであの女にこだわる? 綺沙羅様と同等の力があるからか? 神器を使えるからか? なぜ、お前ではだめだった」
全方位から襲い掛かる神形達を龍爪の矛と天力の結界で裁く邑岐は、自身へ突き出された文明の力を持つ光剣を防いで威蕗へと視線を返す
「何度も言わせるな。私より、灯様の方が王として相応しいからだ」
自身の天力と文明の力のせめぎ合いがもたらす火花を浴びながら歯噛みした邑岐は、その手に携えていた龍爪の矛から放出した光を炸裂させる
「なぜだ?」
包囲された神形と戦っている邑岐の動揺を誘うような目的ではなく、威蕗は純粋な疑問としてその理由を訊ねる
先代天上界王である綺沙羅がいなくなってから、天上界を治めていた邑岐の君主としての実力を十分だと感じていた威蕗からすれば、灯を二代目の王に立てたことは消化しきれないことだった
代行の時も、あくまで天上界王代理を名乗り、決して王を襲名しようとしなかった邑岐に疑問を覚えていた威蕗は、これを絶好の機会と考えてその意図を尋ねる
(なぜ――か)
全方位から襲い掛かってくる神形達を相手にするので精一杯のため、まともに話すこともできない邑岐は、その問いかけに、遠い昔の記憶を呼び起こしていた
《ありがとうございます》
邑岐の脳裏に真っ先に甦ってきたのは、遠い昔に聞いた、震える声で紡がれた感謝の言葉
忘却を知らない全霊命の身ではあるが、邑岐はたとえそうではなくともその時の事は片時も忘れることなく、今でも鮮明に――それこそ、今でもその時間が自身と共にあるかのように思い出すことができた
それは、天上界へと連れ戻した先代天上界王「綺沙羅」の命をその手で奪い、その後味の悪い感触を抱いたまま先代の王が命を賭して守った禁忌の愛娘の許へ戻った時に灯からかけられた言葉だった
《ご面倒をおかけしてしまってすみません》
その手で、王として忠誠を誓った綺沙羅を殺めざるを得ず、心痛に顔を歪めた邑岐は、自分を見た灯が立ち上がり、深々と頭を下げるのを、虚を突かれた様子で見てしまう
《母の……母の最期の願いを聞き届けてくださってありがとうございます。そして、あなたにそのようなことをさせてしまってすみませんでした》
思わず立ち尽くしたままその姿に視線を向けてきた邑岐に構わず、灯は泣いているような笑みを浮かべて言葉を紡ぐ
かすかに震える声が努めて言葉を形作っていくと、邑岐は不思議と胸を引き裂かれるような息苦しさを覚えてしまう
《ありがとうございます》
その言葉に今度こそ目を瞠ってしまった邑岐に、灯は最愛の家族を喪失した痛みに震えることで言葉を続ける
《この世界へ来て、あなた達を見て、母がどれほど慕われていたのか、王としてどれほど信頼されていたのかが伝わってきました
これほどに、母のために仕えてくださってありがとうございます。そして、私のためにそんな母を手にかけさせてしまってすみません》
それが世の理だとはいえ、自らの自らの母を殺めた男に対し、感謝の言葉を述べることがどれほどその心を痛めるのか想像もつかない。それと同じことができるものが、この世にどれほどいるだろうか
父や弟と引き離されてしまったために、今この世界で最も信頼できる唯一の存在であるはずの綺沙羅を処刑された悲しみに打ちひしがれながらも、それを手にかけた自分を気にかけて言葉をかけてくれる心根の優しさに、邑岐は胸を打たれるという感情がどういうことなのかを理解する
理屈ではない。その時、邑岐は〝この人こそが王なのだ〟と確信した
その考えも、王としての在り方も、綺沙羅とは似ても似つかない。だが、母の誇りと名誉を思い、それを手にかけた者の気持ちにさえ、自分の心を痛めながらも思いやる可憐でか弱くも高潔な在り方に、邑岐は王の器を見た
窓から差し込む光に照らされ、輝くような幻想的な美しさを湛えていた灯が見せる博愛と痛みの表情から目が離せなくなっていた。だからこそ邑岐は、灯を王とすることを決めたのだ
「――貴様は、なぜ灯様が未だ王位におられるか分かるか?」
灯を王とすることを決めた胸の奥に秘する過去の記憶へ思いを馳せていた邑岐は、神形達を退けながら、厳かな声音で威蕗に問いかける
「王が嫌ならば王位を譲ってしまえばいい。なんなら、十世界へ行くという手段もあったはずだ。かの組織ならば、最も忌まわしき者である灯様も温かく迎えるだろうからな
だが、灯様は今でも王たり続けている。その傍に仕える私も、弱音を聞いたことはあっても、王を辞めたいと聞いたことはない」
戦いながら投げかけられる邑岐の問いかけと言葉に、威蕗はそこに込められた灯の意思を探ろうと視線を険しくする
「私も霞も、あの方に王を辞めろとは言わなかった。だが、あの方がそれを望まれたなら、引き止めることもなかっただろう」
灯が天上界王であるのは、最強の天上人である綺沙羅と同等の神格を有し、神威級神器を使えるからという理由は間違っていない
だが、そんな力や思惑などとは関係なく、確かに灯は自らの意志で王座に在り続けていることを、邑岐はよく知っていた
「あの方は、王であることを望んでいるのだ」
厳格な口調で言い切った邑岐は、神形を斬り伏せると、その視線で威蕗を射貫く
「最も忌まわしき者として、生まれながらに忌避される運命を以って生まれ落ちたながら、その当たり前の感情を以って自身を拒絶するお前達のような者のことをも守りたいと心を砕いておられる」
今持てる全ての言葉を尽くし、邑岐は灯の王としての美点をとなる心の優しさを語る
灯がこれほどに苦しんでいるのは、自分を信じてくれる人の期待に応えたいと願い、全ての天上人のためにその心を砕き、王たる己の在処を迷いながらも常に問いかけているからだ
「それがどうした? そんなことは王である理由にはならないだろう。王には力と器が必要だが、それがあの禁忌を王に据える理由にはなりえない」
邑岐の言葉を受けた威蕗は、その言わんとしていることを否定はしないが、承服しかねる意思を表す
この世界の王――特に九世界の王には二通りしかいない。〝最も優れている王〟と〝多くの同胞に王として支持された者〟。前者は闇の世界を占め、後者は天界王、聖人界界首などが相当する。
特に光の世界に関していえば、闇の世界のように、力だけで選ばれることはない。灯はその意味で王として過不足ないといえるかもしれないが、禁忌の存在をそれ以前のことだと考えられている
優れた者が人の上に立つことも、みんなに信頼される者が上に立つのも容易な事だろう。だが、何も知らないほとんどの者が拒否反応を起こすような人物が、自身を受け入れない者達を守り、慈しんで心を砕くことがどれほど困難な事かが分からないわけではない
「そうだ」
威蕗のその言葉に、一度深く息を吐いた邑岐が答える
「だから、それは灯様が自ら証明しなければならない」
龍爪の矛の柄を強く握りしめ、そう告げた邑岐は、再び自身へと向かって来る神形を正面から見据えて迎撃する
「灯様」
諭すように呼びかけ、灯と視線を躱した霞は、穏やかに微笑んで言葉を続ける
「もうあなたは、散々迷って、悩んできたのですよ。答えは出ましたか?」
王座についてから幾星霜、長いとも短いともいえる年月を過ごしてきた灯は、常に自らに王としての在り方を問いかけてきた
だが、その答えを灯に与えられる者などいるはずもない。そこに答えなどはないからだ
「あなたはもう十分に王としての務めを果たしておられます。きっとあなたのお母様も――綺沙羅様も、あなたの気遣いに感謝していると思います」
「霞……」
続いて告げられたその言葉を聞いた灯は、驚きのあまりにその眼を丸くして、透き通るように澄んだその瞳に霞の姿を映す
「ちゃんと気付いていましたよ。あなたは、お母様のことを大切に思っているのだと。綺沙羅様の王としての名誉と誇りを守り、引き継ぐために王になられたのだと」
初代天上界王綺沙羅は、禁忌を犯して闇の存在を愛し、その間に生まれるはずのないものを産み落とした
しかし、それだけではなく、綺沙羅は一度一度天上界を見捨てている。
地獄界王黒曜との一騎打ちで消息不明となった綺沙羅は、そこで夫となる赤鬼「火暗」と出会い、恋に落ちた。このことが、天上人達からすれば、その時に天上界へ戻ってくるという選択肢を選ばなかったと取られてしまう
許されない愛に身を焦がし、禁忌の存在を産み、隠れるように生きてきたその生き方だけを見れば、王としての責務を放棄し、民を見捨てたと取られても仕方がない
娘を殺させないために神器を譲り渡し、同胞達の手によって処刑された母を王として罵る言葉がもっと広がっていても良かったはずだ
そうならなかったのは、禁忌の存在である灯が王を継いだから。
全てのものから忌み嫌われるその身が王座にあることによって、あらゆる負の感情が灯に注がれ、それより前に世界を守っていた者達――邑岐や母が素晴らしい王だったのだと、天上界の人々に思わせているのだ
《灯。お母さんは、許されないことをしました。大切なものを――守るべき大切なもの達を傷つけるようなことをしてしまったんです》
幼い頃、愛おしげに抱きしめながら母に聞かされた言葉が、灯の胸の奥から湧き上がってくる
天上界王という立場でありながら、天上人達と異なる道を行き、許されないながらもかけがえのない幸福に生きることを綺沙羅は少なからず悔やんでいた
《ねぇ、灯。もしかしたら、お母さんの事を殺したいくらいに許せない人と出会うかもしれません。その時は、でもその人達を憎んだり、悪く思わないで上げてください
悪いのはお母さんなんです。でもお母さんはその人達の事を裏切ったんじゃありません――守りたかったんです。いえ、今でもそう思っています》
王であることよりも、愛しい人の妻であり母であることを選んだ綺沙羅だったが、王であることを棄てたわけではなかった
愛情と責任の狭間で苦しみながらも、惜しみない愛情を注いでくれた母の温もりと気持ちを、灯は肌を通して心の奥底から感じ取っていた――それは、全く同じ神格と魂を持っていたからではなく、母と娘として通じ合っていたからだと、今の灯は信じている
《でも、お母さんは今。あなたや示門、お父さんが何よりも大切なのです――いえ、そんな言い方をしたら卑怯ですね。あなた達は何も悪くないんですから》
自嘲めいた悲しげな笑みを浮かべながら、ほんの少し抱きしめる力を強めた綺沙羅の温もりに、幼い灯は目を細めて自分自身に誓った
――大丈夫ですお母様。お母さまが立派な王であることを私は知っています。だから、心配しないでください。お母さまの想いも守りたかったものも、私が全部引き継いでみせます――
あの日、母を失った日に灯は、自分自身に誓って王になった。
だが、やはり王は意気込みだけで務まるものではなかった。最も忌まわしき者としての後ろめたさ、人の気持ちを思いやる優しい元来の性格もあって、徐々に心の身動きが取れなくなっていた
自分に向けられる不信、不満――そういったものを敏感に感じ取ってしまったが故に、それに答えられない自分を悔やみ、どうすれば王として十分な人物になれるのか――考えるほどに、その迷いが灯を縛りつけていった
「もう十分に迷って、悩んで、考えて来られたのでしょう? それでもまだ答えが出ないなら……答えを見失ってしまったなら、何も考えずにひたむきに向かっていくしかないのです
王として認めてもらうのではなく、自分が王なのだと認めさせること。〝私が王だ〟と言い切ってください」
「霞……」
まっすぐに灯を見据える霞は、天力の結界と天力糸が阻む神形の攻撃に耐えながら、努めて笑顔を維持し、優しく訴えかける
それは、これまで霞がずっと心に秘めてきた灯への思いと信頼。いつか、王を辞めたいと願った時にその意思を束縛しないように寸前で留めてきた言葉だった
「いつも言っているではないですか。あなたはあなたのまま王であればいい。最も忌むべき者であったとしても、私達はあなたこそがこの世界の王に相応しいと思っています
ならば、あなたにはあるはずです。王として願う世界の形が。あなた自身の意思が。ですから、教えてくれませんか? あなたの願いを。――それが、この世界の行くべき先へとつながる道なのです」
そこまで述べたところでその身を翻して灯に背を向けた霞は、神形と叢雲に向かい合ってその力を振るう
「灯様。あなたは、今何を望まれるのですか?」
これ以上会話に時間をするための時間を維持できなくなったために反転した霞は、全霊の力を振り絞って神形の軍勢を退ける
「霞、どうして今頃……」
「――お見通しなんですね。私が待っていたことも」
背後から聞こえてきたその声に、霞はその目を柔らかに細めて聞こえないように小さく抑えた声で呟く
王を支えるべき天上界王相談役として仕えながら、いつ「王を辞めたい」と言われるかと考えていた霞は、自分の心境を見抜いていた灯からの問いかけに一呼吸分の間を置いてからゆっくりと口を開く
「分かっているはずですよ、あなたには」
「私は――」
背中越しに届けられた霞の言葉を聞いた灯は、小さく目を瞠って空を仰ぐ
そこでは神形達との戦いが繰り広げられている。天上界に属する者も、十世界に属する者も含め、天上人達が天力をほぼ無効化してしまう文明神の眷族と戦い傷つけられている光景が胸に深く突き刺さってくる
霞が言うように、言われるまでもなく分かっていた。今がおそらく王として君臨し続けるのか否かを決める最初で最後の決断の時なのだと。
世界の危機に自分の迷いで足を止める者が王であっていいはずがない。今、自分自身の心と向き合い、決断を下し、示さなければ、王でいてはならない
そして、そう考えれば灯にはもはや結論は決まっていた
「私は、誰も傷つけたくありません、死なせたくありません。お母様が愛し、守りたかったこの世界を守りたいです」
胸を締め付けられるような思いと共に絞り出すようにして告げられた灯の言葉に、霞は目を細めて微笑む
「はい。では――」
王として生きることを選んだことを喜んでいるとも、選んでしまったことに寂しさを覚えているとも取れる今にも泣き出しそうな笑みを浮かべた霞は、神形達を阻んでいた天力の結界と琵琶から伸びる天力糸を消失させる
「お願いします。私達を助けてくれませんか?」
阻むものを失い、神速を以って迫って来る神形達の凶刃が霞の前に迫った瞬間、光が煌めき、そのことごとくが両断される
「!」
それを見ていた叢雲は、天を奔る薄桃色の羽衣と、その先端に巻きつけられた金色の剣が奔った神速の煌軌を目に焼き付ける
それは、灯が持つ常時顕現型の羽衣に多現顕在者として持つもう一つ武器である剣の柄を絡めとって振り回した斬り薙ぐ
最強の天上人としての神格により、凡百な神形の守りなどいとわずに両断して見せた灯は、羽衣の先に結われた剣を自身の手中に再召喚して軽く振るう
そこから零れた天力の燐光が煌めくと共に放たれた清浄にして清廉な気配を持った天力の輝きが、静かを世界を波立たせていく
「――っ」
苛烈にして静謐な最も神に近い神格を持つ最強の天力が天を衝くと、それを知覚した叢雲、威蕗らサンクセラムに属する者達は根源的にその身を竦ませ、邑岐や霞達はその頬を綻ばせる
「霞様」
出雲や真響ら天上界に属する天上人達が、王の放つ清烈な天力の気配に視線を向ける中、灯は厳かな声音で口を開く
「叢雲さん」
「っ」
心の奥まで沁み入るような声で呼び止められた叢雲が身を強張らせると、灯は剣の切っ先を下げたまま、苦笑するようにして言葉を続ける
「私は、きっとあなた達が望むような王にはなれません。でも私はあなた達が望まない王でいることが出来ます」
叢雲や威蕗の期待に応えられない自身の王としての力のなさを悔やみながら、それでも灯は誰かのためではなく、自分自身のために王であることを宣言する
誰かに望まれた王ではなく、自分が望む王でもない。ただ今ここにいる自分を王として認めてもらえるように願う灯は、剣を持っていない左の手で自身の胸に手を当てて慈しむように目を閉じる
「この身は世界に存在することが許されない禁忌。それでもこの命は、母が命を賭して守ってくれたかけがえのないものです
私が王であることが正しいことなのかは分かりませんし、今でも自信が持てません。きっとそれが私で、私の性分ですから、死ぬまで変わらないでしょう」
禁忌の存在であることを受け入れ、否定することなく受け入れて慈しむ灯は、心に灯った微かな灯に触れるように一言一言を紡いでいく
灯が自身の存在を嫌悪することなく、己のことを思い、信じることができるのは、今日まで培ってきた人との信頼があるから
一点の翳りもない母の純粋な愛情に、この世界で唯一の光と闇の家族の思い出、そして自分を信じてくれる者達の心――今日まで触れてきた心と世界が、灯の意思と心をまっすぐに支えてくれているのだ
(なんだ? 雰囲気や気配が変わったわけでもないのに、灯様がまるで別人のように見える――?)
何も変わっていないというのに、相対する灯の様子に違和感を覚える叢雲は、その姿を食い入るように見つめる
「それが私です。そしてそんな私を王として認めてもらえるように――」
そんな叢雲の視線に答えるように伏せていた目を開いた灯は、透き通った瞳を抱く双眸を細め、自信のない自信に彩られた言葉を微笑を共に手向ける
「私は私らしく、王らしくない王であろうと思います」