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魔界闘神伝  作者: 和和和和
天上界編
268/305

最後の夜(後)







 「マリアが死ぬ」


 その事実を突きつけられた時、クロスが考えたのは〝どうすればマリアを殺さずに済むのか〟というたった一つの事だった

 今となっては、マリアが神器であることを自分に隠していたことなど気にもしていない。逆に、そう考えれば混濁者(マドラス)であるマリアが天界王に生かされた理由にも合点がいったというような程度だ


 クロスが想いを寄せるマリアは、天使と人間の混濁者(マドラス)であり、そしてその身に神位第五位の神を宿す真の意味での神器でもある

 そしてその力を必要とした時、マリアの命を奪い器であるその存在を破壊することで、内に封じられた神の力を行使するつもりだ


 故にクロスが考えたのは、マリアの命を守る方法。一介の天使である自分がどれほど力を尽くしても天界王をはじめとする世界の決定を覆すことは難しい

 ならば、マリアが殺される理由を取り除けばいい。必要なのは厳密にいえばマリアの命ではなく、マリアに宿った〝神〟。そしてその性質上、神はいざという時まで解き放たれることはない

 良くも悪くもその時までマリアの命は保証され、その時が来てしまえばマリアの命は失われてしまう――つまり、天界王を筆頭に、世界の王達が「今神の力は必要ない」と結論付ければいいとクロスが結論を出したのは必然だった。




「お前を殺せば、マリアは神器として死ななくても良くなるか?」


(……なるほど)

 クロスにその武器である大剣の切っ先を向けられた神魔は、その言葉で自分がなぜこのような行動に至ったのかを理解し、全く恐れた様子もなく視線を向ける


 その金色の双眸に映るクロスは、強い表情を浮かべていながらどこか揺れているようで、大切なものを失うかもしれないことへの恐れと、縋る様な心境を読み取ることができる

 そんな自分に言い聞かせているようにも聞こえるクロスの迷いを表しているかのように、空中に制止した大剣の切っ先は微かに揺らいでおり、今この瞬間に是が非でも自分を殺したいわけではないのだと神魔は感じていた


「しらばっくれるのは無しだ。これまでの流れと十世界の奴らの話を合わせれば、マリアの神の力が必要とされるのは、お前への対処のためだって見当がつく」

 世界に生じてきた様々な〝歪み〟。その根源とされる神魔を巡って、堕天使界が現れ、不倶戴天の敵同士であった十世界と世界が協調しようとしている

 そのことを考えれば、何を置いても九世界が世界の歪みを正そうとしているのは明白。そして、それを踏まえれば、マリアの力を必要とするかもしれないことは、十世界でも英知の樹(ブレインツリー)でもなく、神魔――世界の歪みの元凶であると類推するのは難しくない

「違うなら違うでもいい。でも、それならそれで俺を納得させるだけの理由を言えよ?」

 切っ先を突きつけたまま、強い意志の込められた視線を向けてくるクロスに、神魔は小さく息を吐いてわざとらしく肩を竦める

「……そうかもね。で、どうする?」

 クロスの言葉を否定せずに応じた神魔は、その視線をわずかに鋭いものに変えて自身に刃を向けている天使を睨み付ける

「……っ!」

 その瞳にはいつでも戦闘に入れるという意志が宿り、神魔の存在を構成する魔力もそれを反映して静かに高まりを見せ始めていた

「最初に言っておくけど、僕は別に怒ってるわけじゃないよ。もし立場が逆なら、僕もきっとクロスと同じことをしたかもしれないからね」

 眼前に突き出されたクロスの大剣の刃に手を載せた神魔は、一種の同情と共感の入り混じった表情と声で前置きをする

 もし桜を守るためにクロスを殺す必要があるなら、同じことをしても不思議ではない自負はある。だが、だからといってクロスの望みを受け入れるかどうかは全くの別問題だ

「でもそれはそれ。言っておくけど、たとえ世界のためだろうと、僕は殺されてあげるつもりはさらさらないよ。そっちがそのつもりなら、僕も一切容赦しない」

 クロスがマリアを失いたくないように、神魔も桜を残して簡単に死ぬつもりはない。たとえ自分の存在が世界の歪みの根源だとしても、世界のために死を受け入れることなど神魔にはできなかった

 かすかに滲みだしている神魔の覇気に、クロスはその表情を強張らせて、蠢き出した滅びの闇の胎動に息を呑む


 かつて、出会ったばかりの頃には二人の間にほとんど差はなかったが、今の神魔とクロスではその神格に圧倒的といっても差し支えないほどの差がある。

 かつてもほぼ確実に神魔が勝利するほどにあった力の差は今やあまりにも大きくなり、クロスでは全く太刀打ちできないほどの力となっていた


「それでも……それが必要なら、俺はお前と戦う」

 魔力を解放していない、戦意や滅意を解放したわけでもない。ただ、牽制し自身の立場を明らかにしただけの神魔の言葉に、戦闘中のその力を思い返したクロスは、自身の全霊命(ファースト)としての存在が死を確信していながら、ほんの一縷の勝機と可能性に縋るように意思を奮い立たせる

「でも、それは今じゃないでしょ」

「あぁ、そうだ」

 その言葉に応じるように声を発した神魔に、クロスは打てば響くように答える

 もしそれが本当に必要なら、クロスは命をかけてでも神魔と戦っただろう。だが、今優先すべきは神魔を殺すことなどではないのだ


 マリアを死なせないためだけならば、例えば神魔を殺すよりも、天界の使者であるノエルから守る方が簡単だ

 なにしろ十世界には、マリアの母親であるアリシアも所属している。そこでならば、マリアは神器としてではなく生きていけるだろう


「それでも、俺にはそれくらいしかしてやれることがないんだ」

(こんなことを考えるなんて、まるで悪魔みたいだな)

 世界を守るためではなく、たった一人の惚れた女のために属する世界の意志も、世界の存亡すら除外して考えている自分に、クロスは心の中で自嘲する

 大切なもののためにそれ以外の全てを切り捨てられるのが闇の存在。だが、自分はそうではないはず。それでも、今のクロスの脳裏からは、マリアを神器として死なせないために十世界に逃がすという選択肢が消えなかった

「世界を守るためにお前を殺す必要があるのなら、俺は世界を守る方を選ぶ。――だとしても……」

 クロスの口から零れる絞り出すような声で紡がれるその言葉は、神魔の耳に届いてこそいるがほとんど独り言のようなもの

 しかし神魔は、クロスのその独白に込められた想いを正しく読み取っていた

(僕と世界なら世界を選ぶけど、マリアさんと世界は天秤にかけられない、か――まあ、普通はそんなものだよね。クロスが僕のこと、そこまで思ってると逆に嫌だし)

 何かを選ばなければならなくなった時、大切なものほど失うことを拒むのは当然のこと。

 世界――この世に存在する全てを守ることはとても尊い。だが、自分にとって大切なものの価値は、そんな自分の知らないものと比べることなどできないものだ。クロスもまた、マリアと世界の狭間で揺れ動き、迷っていた


「それは違うよ」


「?」

 そして、そんなクロスの姿に小さくため息をついた神魔は、自身に向けられた天使の怪訝な眼差しに応えるように、語りかける

「クロスがマリアさんに何をしてあげられるか(・・・・・・・・・・)よりも先に、クロスがマリアさんに何をしてほしいのか(・・・・・・・・・)が大事でしょ?」

「――!」

 どこか諭すような声音で向けられた神魔の指摘を受けたクロスは、その言葉に小さく息を呑んで目を見開く

 悪魔からそのような言葉をかけられたことに驚いたのか、あるいは虚を突かれたからなのかは分からないが、目を丸くするクロスを見据えながら、神魔はゆっくりとした口調で天使に語りかける

「僕は桜と一緒にいたい。いて欲しいからそのために何をすれば桜が喜んでくれるのか、幸せになってくれるのかを考えてる。

 クロスはマリアさんに何をしてあげられるかばっかり考えてるみたいだけど、クロスはマリアさんにどうして欲しいのさ?」

「俺、が……」

 気持ちだけでは足りないものを神魔から指摘されたクロスは、その言葉を噛みしめるようにして今日までの自分を振り返る


 クロスが想いを寄せるマリアは、半霊命(ネクスト)である人間と、全霊命(ファースト)である天使の間に生まれた混濁者(マドラス)であり、そのことに生まれてからずっと苦しめられてきた

 自分が下手なことをすれば、そのことで苦しんでいるマリアを余計に傷つけてしまうかもしれない。そんな遠慮や気遣いから、自分の気持ちよりも先にマリアを思いやってしまったために、結果的に何も変わらない、現状を維持することしかできなくなってしまっているのだ


「相手を思いやるのは大切なことだよ。でも、思って大切にしてるだけじゃ、肝心なことが伝わらないこともある。

 時には、自分の我儘で相手に伝えなきゃいけないんだ。――もっと、マリアさんを信じてあげたら? 彼女はクロス如きが守ろうなんて意気込む必要がないくらいに強い人だよ」

 自身へ向けられた切っ先が下げられていくのを視界の端で捉えながら、神魔はクロスの瞳から視線を離さずにして言う

 クロスを小馬鹿にしているような言葉の最後の部分は、肩に力が入り過ぎている天使に、もっと力を抜かせるためのものだ


「男なら、特に自分の大切な(ひと)を守ろうと張り切るものだけど、それは女の人が弱いからじゃないんだよ。

 大切だから(・・・・・)守りたいのであって、守ってるから(・・・・・・)大切なんじゃない。クロスはマリアさんを守りたいの? それともマリアさんを大切にしたいの?」


 淡々と語りかけられてくる神魔の言葉は、クロスの心に強い衝撃を与え、その心の内にあるものを露にしていく

(そんなこと、言われるまでもない。俺は――)

 その神魔の問いかけに対するクロスの答えなど決まっている。――否、それ以前にクロスは自分がマリアをどう想っているのかをずっと自覚し、その気持ちを胸に秘めてきた

 だからこそ、クロスは自分のマリアへの気持ちがなにも変わっていない(・・・・・・・・・・)ことがその答えなのだと知っている

「そんなこと、お前には関係ないだろ」

 面と向かって自分の気持ちを見透かしているかのように言う神魔に、クロスは視線を逸らしてつっけんどんに言う

 だが、そんな言葉とは裏腹にその顔は照れくささとばつの悪さをあからさまに浮かべており、素直になれない内面を雄弁に物語っている

「なら。僕のところに真っ先に来るより、クロスには行かなきゃいけないところと言わなきゃいけないことがあるんじゃないの?」

 そんなクロスの反応に肩を竦めた神魔は、まっすぐだが奥手で初心な天使の背を押すように、辟易した声音で言う

「っ」

「守るとか、傷つけないとか、格好のいいこと言ってないで――」

 それが「誰のところへ行って」、「何を言え」と言われているのかを察したクロスがたじろぐ中、反論の余地も与えずに神魔の言葉が続けられる


「男をみせなよ」


 挑発めいた視線と口調でその止めともいえる一言を言われたクロスは、反論の言葉を見つけられずに苦々しげな表情で歯噛みすると、神魔に背を向ける

「……お前に言われるまでもねぇよ」

 精一杯の負け惜しみを込めて言い捨てたクロスが背を向けると、神魔は聞こえないように小さくため息をついて明後日の方向を仰ぎ見る

(っていうか、なんで僕がこんな事しなきゃいけないのさ)

 表立っては見せていないが、自分の存在への疑問や苦悩などもあるというのに、よりにもよってクロスの悩み相談と応援をしていることに、神魔は一抹の哀愁を覚えていた


「神魔」


「なに?」

 悪魔であるはずの自分が天使のキューピッドをしている皮肉に心中で黄昏ていたその時、おもむろに足を止めたクロスに声をかけられた神魔は、伏せていた顔を上げて純白の翼が生えた背を向けたままの天使に応じる


「俺は、本当はお前にも死んでほしくはない」


「……は?」

 背を向けたまま発せられたクロスの言葉を聞いた神魔は、あまりに予想だにしなかったその内容に思わず間の抜けた声を零してしまう

「か、勘違いするなよ。お前の命で世界が救われるなんて、お前のお陰で世界が守られたみたいになるからな。そんな世界で生きるのかと思うと、ちょっと微妙な気分になるだろうが」

 そんな神魔の声が聞こえていたクロスは、思わず口にしてしまった言葉に羞恥を覚えたのか、かすかに肩を怒らせて早口に答える


 クロスは天使らしく、闇の存在――悪魔に対して一定の敵意と忌避感を抱いている。それは、草食動物が肉食動物に警戒を抱くように、そう生まれた命として当然の反応だ

 しかしその一方で極めて情の深いところもあるクロスは、神魔に対してただの悪魔だと切り捨てるには難しいだけの親しみを抱いてしまっている

 神魔(悪魔)を嫌い、神魔へと情を抱く――それは、どちらもクロス自身の偽らざる本当の気持ちだった


「変なの」

 自分の言いたいことだけを告げ、そのまま遠ざかっていくクロスの背中を見送る神魔は、その後ろ姿に小さくため息をつく


 しかし、その口元はかすかに綻び、微笑を浮かべていた





「この愚か者が!」


「……っ」

 その頃、天上界王城の中にある玉座の間では、天上界王である天上人――「灯」が、邑岐(おうぎ)の叱咤を受けて肩を小さくしていた

「客人ばかりか、堕天使王、十世界の前でもあのような無様な姿を晒すとは。――あなたには、王としての自覚がおありか!?」

「す、すみません」

 天上界王が叱咤され、ただ平謝りするという光景は人に見られれば王としての威信に関わることだ。だが、ここにいる者達にとっては――以前に比べて今は少なくなったが――ある意味で見慣れたものだった

 天上界王である灯を叱る邑岐(おうぎ)は、先代天上界王綺沙羅が居なくなってから天上界を束ねていた傑物。そんな彼から見れば、今の灯はそれほどに不甲斐なく見えるのだ

「あなたがすべきは、王としてこの世界のために思案し、行動すること。私や他の者達の機嫌や意見を伺うことではないのだ

 あなたが自らの出自の事で苦しまれているのは重々承知している。だが、王がそのような有様では、この世界に住まう者達は一層迷ってしまうだけだろう!? 王には王たる威厳が不可欠なのだ」


 邑岐(おうぎ)が怒っているのは、先の一件。十世界との取引や、堕天使王との対話で灯が見せた対応に対するものだった

 天上界王という立場にあるにも関わらず、補佐である自分の顔色を窺うような仕草、王としての決断を下すべき時にその意思を示せなかったことに対する苛立ちが邑岐(おうぎ)にそのような態度を取らせていた


「これまで、何度もきかせてきたでしょう!? 何も、完璧な王たれと言っているわけではない。そのために我々があるのです」

「……はい。すみません」

 天上界王という座に就いてはいるが、灯はただ最強の天上人たる神格を有しているに過ぎない。力があることと王としての器があることは必ずしも同義ではない

 特に灯の場合、光の全霊命(ファースト)と闇の全霊命(ファースト)の間に生まれた最も忌まわしきものというその出自も相まって、自身への自信が著しく欠如している


邑岐(おうぎ)様、そのくらいで。灯様も十分に反省しておられるようですから」

「……」

 何万年以上も言い続けて尚、今も変わらない灯に苦言を呈する邑岐(おうぎ)を見かねたように、霞が制止の声をかける

 その言葉に苦虫を嚙み潰したように歯噛みした邑岐(おうぎ)は、喉まで出かかっていた声を呑み込んで背を向ける

《あまり灯様を甘やかすな。この方を今でも王と戴くことに不満を感じている者も少なくないんだ――下手をすれば、そういった奴らが動き出すかもしれん》

《……分かっています》

 すれ違いざま、直接意識に語りかけてくる邑岐(おうぎ)からの思念通話に、霞は一瞬その目元に険しい表情を浮かべて応じる


 実際、今は表面上の平静を保っているが、最も忌まわしきものである灯を王とすることに不満を抱く天上人達も多い

 そんな者たちが見ている中で王としてみっともない姿を見せれば、この世界が内側から混乱することもなりかねないのだ


「霞?」

 二人が何か思念で通話していることを知覚した灯は、不安の色を浮かべた瞳を霞に向ける

 その揺らぐ瞳には、自分を庇ってくれている霞が邑岐(おうぎ)と何を話しているのかが分からないことに対する強い不安が現れていた

「大丈夫ですよ。邑岐(おうぎ)様はあなたに期待して信じておられるから、気持ちが急いてしまっているだけなんです。

 あなたからすればそれは重すぎるのかもしれませんが、あの方はこの世界の王はあなたをおいて他にいないとお考えなのですよ。――そうでなければ、いかに綺沙羅様の最期の頼みだからといって、邑岐(おうぎ)様があなたを王にはしません」

 王としての自信が揺らいでいる灯と目線を合わせた霞は、その不安を和らげるように優しく微笑んで慰めと励ましの言葉をかける

邑岐(おうぎ)様がお怒りになっておられる本当の理由は、あなたが王として軽んじられるようなことが我慢ならないからなのです」


 光の世界は闇の世界と違って力こそが王たる条件ではない。確かに灯はこの世界にたった一人残った原在(アンセスター)の神格を持つ最強の天上人だ

 だが、それ(・・)が灯が天上界王である理由ではない。少なくとも、代行して預かっていただけとはいえ、世界を総べる者の座を邑岐(おうぎ)が灯に譲ったのは、灯こそが王に相応しいと考えたからだ


「……そうでしょうか?」

 しかし、霞のその言葉も王としての未熟と、何より最も忌まわしきものである後ろめたさから自身への自信が弱い灯には容易に信じられることではなかった

 普段なんとか取り繕っている王の仮面の下にある本心の動揺に呼応するように視線を彷徨わせる灯は、苦悶に歪めた表情から震える声を絞り出す

「霞。私は、もう――」

 途中まで零れたその言葉の先が灯の口から零れることはなかったが、霞には聞こえない声で紡がれた「天上界王を辞めた方がいいのではないか」というその心の声が聞こえてくるようだった

「灯様」

 そんな灯を励ますようにその細い手を自身の両手で包み込んだ霞は、可憐な微笑みを向ける

「全ては、あなたの御心のままに」

 このやり取りは、これまで幾度となく行われてきたもの。故に、霞から伝えられる言葉はすでに全て灯に伝えてあり、その意思を問うことしかできない

 天上界王相談役として、王としての成長、一人の天上人としての成長を見守って来た霞は、姉あるいは母のような慈しみの気持ちで灯の傍に寄り添うのだった





「――!」

(こんな時に限って)

 神魔と別れたクロスがマリアの光力を辿って天上界王城の中へと入ると、そこには出かける時にはいなかった天界の姫であるリリーナと四煌天使の一人にして天界からの使いである「ノエル」が集まっていた

 神魔に発破をかけられたからというわけではないが、一つの決意を胸にしているクロスは、自分が離れている間にリリーナとノエルがマリアといる間の悪さに内心で苦虫を噛み潰す


「……クロス」


 とはいえ、そんな本心を顔には出さずにクロスが純白の翼を羽ばたかせながら近づくと、それに気づいたマリアが不安の色を浮かべた表情で応じる


 城内の空間を拡張し、隔てているために天上界王城の内部は全く別の空間――異世界とも呼べる状態になっており、全霊命(ファースト)の力でも外側から知覚することが難しい

 城内に入ってそれを知覚したのと同様に、自分の帰還を察したマリアが浮かべているその表情に言い知れぬ不安を覚えたクロスは、逸る気持ちを抑えるようにして訊ねる


「どうした?」

 顔を伏せ、沈痛な面持ちでその言葉に唇を引き結ぶマリアの様子に、クロスは自分がいない間に何かがあったのだと確信する

 問い詰めたくなる気持ちを抑え、その口が開かれるのを待っていたクロスに応えたのは、マリアではなく四煌天使の一人にして天界からの使いでもあるノエルだった


「夜が明ける前に、天使マリアを天界へ連れて戻ります」


「!」

 先程マリアに告げたものと同じ要件を口にしたノエルの言葉に、クロスは弾かれたように顔を上げる

 驚愕と許容しかねる内容に対する不満に彩られたクロスの視線をまっすぐに受け止めたノエルは、その凛とした面差しを崩すことなくそれに答える

「明日になれば、十世界――いいえ、アリシア様がマリアを迎えにやってきます。彼女の答えがどうであれ、二人が接触することは好ましくないと判断いたしました」

 そう言ってその事情を告げるノエルの言葉は、まるで有無を言わさぬ決定であるかのように淡々と響き、クロスとマリアの耳朶を打つ


 ノエルはマリアが実母アリシアに促されるまま、天界を離れて十世界についていく可能性を否定していないわけでも肯定しているわけでもない

 ただ、万が一明日の十世界との接触で予期せぬ事態が発生した際、神器であるマリアを守るために最も確実でリスクの少ない手段を提示しただけ。


「それに、明日の次第によってはこの天上界がどのような戦局に巻き込まれるかわかりません。そうなった時、天使マリアを失うことだけは断固として阻止する必要があります

 しかし、我々の陣営は堕天使王を数に入れたとしても原在(アンセスター)二人。対してあちらは二柱の異端神と神片(フラグメント)までも保有しています。世界を歪める元凶だというあの悪魔に彼らの意識が向いている今、天使マリアを安全圏に下げるのが最も効率の良い手段だと判断いたしました」


 何しろ、十世界側には九世界最大の戦力が集結しているにも関わらず、こちらには堕天使王ロギアと天上界王灯、そして神器と共鳴できるという光魔神が最大戦力となる

 そんな中で不測の事態が起こった際、天界最後の切り札ともいえるマリアを失うわけにはいかない。不確定要素の多いこの世界から、安全な場所へ連れていくのが情策というものだ


「あらかじめ告げておきますが、私はこの一件に関して天界王様より全権を委任されています。たとえリリーナ様であろうと、それを妨げることはまかりなりません」

「……っ」

 納得のいかない表情を浮かべているリリーナの視線に応じたノエルは、天界の王女を前にしても一切怯むことなく、毅然とした態度で応じる

 その言葉に反論する言葉を見つけられず、口ごもってしまったリリーナから視線を外したマリアは、その事情を察したであろうクロスに視線を向ける

「クロス……」

 自らの死もクロスとの別れもずっと覚悟していたことではあるが、いざその事実を前にすれば、未練が全くないというわけにはいかないものだ

 今更天界の決定に逆らう意志はない。それだけの情けをかけてもらったと自分を言い聞かせながら、マリアはもう会えなくなるかもしれない想い人をその胸に焼き付けようとする

「それは、今すぐでなくてもいいんですよね?」

 混濁者(マドラス)として生まれ、神器として生きてきた己の運命に来る時が来たのだと受け入れようとするマリアに視線を向けたクロスは、ノエルへ向かい合う

「それは、別れを交わす時間が欲しいということですか?」

 マリアに注がれる視線を遮るようにして立ちはだかったクロスの凪いだ感情を宿した瞳に、反抗心のようなものがないのを見て取ったノエルは、その意図を確かめるように問いかける

「……一時間で結構です。二人きりで話をさせてください」

 それに対し、慣れない敬語で応じたクロスはノエルの問いかけを肯定しながらも、「別れを交わす時間が欲しいのではない」という意志をその言葉の端に匂わせていた

 ノエルにとってクロスという天使は、同じ四煌天使「アース」の弟であることを知っている程度でさほど強い繋がりなどはない。だが、その面差しや眼差し、何よりその在り方に同じ四煌天使の面影を見たノエルは不思議と懐かしいような感覚を覚えていた

(……なるほど。兄弟ですね、アースさんにどこか似ています)

 その申し出を拒否することはもちろん容易だ。だが、十世界が「明日の朝に来る」と告げた以上、それまでは何もないだろうし、慌てて連れ出す必要もない

 何より、今はその決定を当人に伝えただけ。これから先程の話を天上界王にして許可を得る必要もあり、多少の時間を与えることは吝かではないと結論付ける

「いいでしょう。ただし、くれぐれも変な考えは起こさないことです」

 クロスがマリアを逃がしたりしないように念のため釘を刺す言葉を投げかけたノエルは、その身を翻して二人の許を離れていく

「ごめんなさい二人とも。私には何もしてあげられなくて……」

 ノエルが翼を広げ、この城内の空間から出て行ったのを見届けたリリーナは、自身の無力を嘆きつつ二人に謝罪の言葉をかける

「いえ。リリーナ様はもう十分に私のために心を砕いてくださいました。感謝こそすれ、謝っていただくよなことはなにもございません」

 マリアにとってリリーナは実の姉のように慕う人物。天界の姫としての立場もあるリリーナが自分のために不利な状況に陥るのは本意ではないマリアは、そう言って微笑むことでその気持ちに感謝する

「せめて……せめて、最後までマリアちゃんが死ななくていいように力を尽くします」

「ありがとうございます」

 リリーナの深い優しさが伝わってくる言葉に胸を打たれたマリアが感謝の言葉を述べると、先程のやり取りを聞いている天界の姫はクロスと二人きりの時間を少しでも長く作ってあげるために早々にこの空間を離れていく


「マリア」


「はい」

 朱い髪をなびかせ、純白の翼を羽ばたかせたリリーナの姿が消えるのを見届けたところで、クロスはマリアへ呼びかける

 だが、決心こそして二人きりになったものの、いざその時が来ると跳ねるような鼓動が言葉を塞いでしまう

「――……」

 真剣な眼差しで自分を見つめてくるクロスの顔をわずかに上目遣いで伺いながら、その沈黙に重ねた手の指を絡ませていたマリアは、その静寂に耐えかねて口を開く

「ク、クロス。神魔さんと一体何を話してたの?」

 もう会えなくなるかもしれない想い人と見つめ合う沈黙を打ち消すように他愛のない話題を切り出す

 マリアにとってクロスは初恋の相手。生まれてから今日までずっと片時も変わることなく、文字通り自身の一生をかけて想い慕い続けてきた人と会えなくなるかもしれないと考えると自身の気持ちを抑えきれなくなってしまうと感じての言葉だった

「あぁ。それは…………もしあいつが本当に世界の歪みの元凶なら、俺は躊躇わずにお前を殺すって言ってやっただけだ」

「それだけ?」

 自分と一言二言話してから「二人きりで話がある」と出て行った後ろ姿を思い返すマリアは、クロスの言葉に応じる

 本心では友情にも近い感情を抱いているが、天使らしく悪魔である神魔の事を嫌っているクロスが、ただそんな話をするために呼び出すとは思えないマリアは、その心中を見透かさんとばかりに澄んだ視線を向ける

「そんなことはいいだろ?」

 昔から自分の本心を見抜くことに長けているマリアにこれ以上追及されれば、神魔と何をしていたのかを知られてしまうと考えたクロスは、その追及を振り払うようにして言う

 神魔となにをしていたのかを知れば、マリアが怒るであろうことはクロスには容易に想像がつく。そしてマリアに怒られ、注意されることがクロスは苦手だった

「よくはないでしょ。そんなんじゃ……」

 そんなクロスのどこか子供のような態度を窘めるように語りかけたマリアの脳裏に「私がいなくなったらどうするの?」という言葉がよぎる

「……お友達がいなくなっちゃうよ」

 クロスの傍に自分がいられなくなったことを想像し、胸を詰まらせたマリアはその真意を隠すように取り繕う

「違う。俺は今お前とそんな話をしたいんじゃないんだ」

 話題が変わってしまったクロスは、意を決してマリアを見据える

 普段ならここでそのまま話を有耶無耶にして待っていただろう。だが、確固たる決意を以って今この場に望むクロスは、強引に話を引き戻す

「……!」

 そんな対応にマリアは、小さく目を瞠る

 自分へ向けられるクロスの眼差し。普段とは違うその挙動――それらが、マリアの女の勘に訴えかけ、胸の鼓動を高鳴らせる


「マリア。お前はどうするんだ?」


「…………」

 真剣な眼差しを向けるクロスからの問いかけを聞いたマリアは、何を問われているのかを理解して目線を伏せる

「天界王様達の言うように、神器として死ぬことを受け入れるのか? それとも十世界に行くのか?」

「それは……」

 答えに窮している自分を問い詰めるように次々と投げかけられるクロスの言葉を聞くマリアは、視線を惑わせて言い澱むしかない


 神器として死ぬことを受け入れているわけではない。母と共に十世界へ行くことを望むわけではないが拒絶することもできない

 頭で正しいと思っていても心が受け入れない。心で受け入れたいと思っていても、正しさを考える理性がその道を選ぶことを躊躇わせる。今マリアは自身の心と理性の間で揺れ動いていた




「俺の傍にいてくれ」



「……え?」

 故に、その答えに窮していたマリアは、クロスが告げたその言葉が耳から流れてきた時、その意味を咀嚼して理解するまでに一拍以上の間を要することとなった

「だから、神器として死ぬな。十世界にも行くなって言ってるんだよ」

 思わず顔を上げ、丸くした目でクロスを見るマリアは、その表情と言葉に急速に自身の中で熱が高まっていくのを感じていた

「ク、クロ、ス……?」

 これまでにないほど強引に告げられたクロスの言葉に、マリアは困惑しながらも自身の中に喜びが満ちていくのを感じていた


 神器として死ぬことも、十世界に行くことも望まない。――今までと変わらぬ日常を送ること。それは、ある意味で叶うはずのないマリアの願いだった

 何より、それを求めてくれたのが、ずっと想いを寄せていたクロスだったことがマリアに一人の女として無上の幸福を与えてくれる


「そんなことできないなんて言うなよ? 俺はお前がどうしたいのかを聞きたい」

 言葉を詰まらせ、しどろもどろに言い澱むマリアに、クロスは緊張と気恥ずかしさで朱を帯びた顔でまっすぐに問いかける

 条理に照らして考えればその願いの実現性が乏しいことは間違いない。だがクロスはそれができるかどうかではなく、マリアの気持ちを知りたかった


 もしも許されるのならば、何を望むのかを訪ね、そしてその実現のために命を賭すに等しいクロスの覚悟が込められた言葉に、マリアはその心のままに生きたくなる衝動を呑み込む

 クロスへの想いと、自分のためにクロスに迷惑をかけることはできないという逡巡と思考の軋轢がマリアの口を閉ざしていた


「いいか。一度しか言わないからな」


 だが、そんなマリアの心の迷いなど知ったことかと言わんばかりに歩み寄ったクロスは、照れ隠しをするように視線を明後日の方向へ向けてゆっくりと彼我の距離を詰めていく

 手を伸ばせば触れられるほどの距離までマリアに近づいたクロスは、ゆっくりと顔を近づけてその金糸の髪が揺れる耳元で囁く



「――――」



「……っ」

 その言葉に目を見開き、顔を紅潮させて呆けたようになって言うマリアから数歩距離を取ったクロスは、気恥ずかしさに顔を背けながら不安の色を隠せない視線を向ける




「……返事を聞かせてくれるか?」






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