救界の祈り
十聖天アリシア。――天使の原在の一人にして、禁忌の天使。
全霊命でありながら人間界の人間「ルーク・ハーヴィン」と恋に落ち、その間に全霊命と半霊命の混濁者となる愛娘を産んだ
本来なら親子共々殺されているところだが、慈愛神を娘に宿して神器となすことで天界に庇護させることに成功し、そのまま天界から姿を消し――死んだとされていた天使
「私は、あなたをアフィリアとノヴァに預けた後、聖人に捕えられ、聖浄匣塔の最下層に幽閉されていました
ですが、先日の一件で姫に助けていただき、今はこうして十世界の一員となったのです」
自らがなぜここにいるのかを端的に言葉にしたアリシアは、その眼差しで愛する愛娘たるマリアを見つめて微笑む
「本当はあの時に声をかけたかったのに……会いに来るのが遅くなってごめんなさい」
感極まった様子でマリアに微笑みかけるアリシアは、今にも幸福の涙を溢れさせるのではないかと思えるほどに満たされた表情をしており、愛娘との再会を心の底から喜び、感動さえしているのが伝わってくる
そのまま八枚の翼を羽ばたかせてゆっくりと空を滑るようにマリアの許へと近寄って行ったアリシアは、自分と変わらない背丈にまで成長した娘の姿を見回して口を開く
「抱きしめてもいいですか?」
「……はい」
心を満たす感情と衝動に突き動かされるような声音でアリシアに尋ねられたマリアは、しばし逡巡するもためらいがちにそれを受け入れる
「っ」
瞬間、もはや自身を抑えきれないとばかりに腕を広げたアリシアは、マリアの華奢な身体を抱きしめ、強く抱擁を交わす
「大きくなりましたね。もう、会えないと思っていたのに、こんな風に会うことができて――」
娘の身体をかき抱き、その温もりと存在をその腕でしっかりと確かめたアリシアは、万感の思いに声を震わせる
感極まった様子で自分を強く抱きしめるアリシアの温もりと香りを受け止めるマリアもまた、その想いにつられるように、その美貌を歪めていく
本来ならばあの時、愛梨に助け出された際にマリアに駆け寄り、抱きしめたいと思っていた。だが、消耗しきっていたあの時のアリシアにそんな余裕はなく、ようやくこうしてマリアを抱きしめることができた
聖人界でマリアを見てから今日、この時までアリシアが感じていた体幹時間は、聖浄匣塔に幽閉されていた年数よりも長く感じられるものだった
そしてまた、マリアも物心がついていないほど幼い頃に分かれた母と再会し、困惑を隠せないままに抱きしめられていると、まるでその存在――自分自身を構築する全ての要素が、己をこの世に生み出してくれた母を思い返すように、強い情感を呼び起してくる
「お、母さん……」
震える唇を動かし、言葉を紡ぐマリアは、自身でも理解できない感情のままに、母の抱擁に応えるようにアリシアの身体に手を回す
(マリア……)
(マリアちゃん)
そんなマリアの姿を遠巻きに見つめるクロスとリリーナは、再会した母と娘の抱擁を遠巻きに見守っていることしかできなかった
(聖人界め。こんな厄介な奴を隠していたのか……!)
その一方でそれを見ていた邑岐は、周囲にいる者に聞こえるほどの歯軋りの音を立てると、その心の中で聖人界への怒りを募らせる
聖人界はアリシアを捕えていたことを世界に隠していた。それが暴かれ、今十聖天の一人である天使が十世界と共にこの世界に現れているとなれば、その責任を問い質したくなるのも無理からぬことだろう
「マリア」
現状を考えると、かなり長いと言わざるをえないほどの時間娘の身体を抱きしめ、それでもまだ足りないといった様子を見せるアリシアだが、名残を惜しみながらその抱擁を解くと、息がかかるほどに近い距離でマリアと視線を交錯させる
「今更、こんな風に名乗ることをあなたが許してくれるのかは分かりませんが、お母さんはずっとあなたのことを思っていました
あなたが生まれたあの日から……聖浄匣塔の中でも、片時もあなたの事を忘れたことはありません。だから――」
先程まで抱きしめていた娘の温もりを惜しむアリシアは、その細い肩に手をかけたままマリアを見つめ、その心の奥へと囁きかけるように、穏やかな声で言葉を紡ぐ
「私と一緒に十世界に来てくれませんか?」
「!?」
アリシアの口から告げられた言葉に、マリアは驚愕に目を見開き、それを聞いていた大貴達――そしてクロスが特に動揺を露にする
「あなたにとってこの世界はとても生きづらいでしょう? でも姫の許でなら、あなたもその生まれに縛られることなく生きていくことができる……そんな世界をつくることができるんです」
そう言って微笑みかけるアリシアの言葉は優しく諭すように響き、母を思い返していたマリアの心の芯に溶けるように染み込んでいく
「――……」
「アフィリアやノヴァへの恩義や、世界の在り方――あなたはきっと、そういったことを考えているんでしょう?」
それを聞いて戸惑いに唇を震わせるマリアが言葉を紡ぐよりも先に発せられたアリシアの声が、その口を再び噤ませてしまう
アリシアの言葉はマリアの核心を射ていた。たとえ神器としての力に利用価値を見出したからとはいっても、天界王とアフィリアは、全霊命と半霊命の間に生まれた混濁者たるマリアを庇護し、その存在を尊重してくれた
天界の姫であるリリーナは自分を妹のように思ってくれており、おかげでどれだけ救われたかわからない
確かに、自分が混濁者でなかったら、あるいは混濁者が許される存在だったならばと考えたことは一度や二度ではない
だが、自らの願望のためこの世界の摂理を否定し、世界の在り方を捻じ曲げることなど許されることではない
法や摂理を守らないことは罪だが、罪を犯すことが悪なのではない。その罪が罪であることを否定しようとすることこそが悪なのだと知っている
混濁者、最も忌まわしきもの、全てを滅ぼすもの――それらは存在することに罪はない。だが、その存在は世界の在り方として容認されることはない。
正しさとは犠牲者に優しい顔をすればいいというものではない。虐げられるものが、弱者が、否定されるものに手を差し伸べることが常に尊いわけではないのだ
「あなたはとても優しい子に育ったのですね。今のあなたを見ていれば、あなたは決してただ誰にも愛されず、不幸なだけの人生を歩んできたのではないと分かります」
自身の問いかけに、マリアが少なからず同調を得ているのを見て取ったアリシアは、柳眉を顰め苦しそうな表情を浮かべている愛娘に、愛おしむように言葉を重ねていく
「でも、理として正しいことと、心を偽ることは同じことではないのですよ」
マリアは、世界の法と理においてなにが正しいのかを知っている。だが、それと混濁者として生きねばならない己の気持ちを割り切れるのかは別の問題だ
「私はあなたを心から愛しています。だからこそ、あなたであることに誇りをもって欲しい……そのためにもお母さんと一緒に来てくれませんか?
今日まで母としてあなたになにもしてあげられなかった私に、母としてあなたのために何かをして、一緒にいさせてほしいんです」
マリアの苦悩は突き詰めれば、マリアを全霊命と半霊命の混濁者として生んだアリシアの責任だ
だが、それでもアリシアはマリアを母として愛している。だからこそ、自分と自分が愛した人の間に生まれてくれた娘であることに心から感謝し、そしてこれまで一緒にいられなかった分一緒にいたいと考えていた
「あなたは、愛されたいと思っても――いえ、どんな幸せを望んでも許されるのです」
世界の正しさはマリアの存在を許さない。だがそれでも、この世界に生まれたマリアは、生きることを――幸せになってもいいのだということを、アリシアは心のままに語りかける
「わ、私は――」
現状を受けてはいるが、現状に何の不満もないわけではない自身の心を見透かしたようにまっすぐに瞳を重ねてくるアリシアに、マリアは困惑を禁じえず逃げるように視線を逸らす
その視界が映すのは、母とのやり取りを不安そうな面持ちで見守っているクロスの姿。
もし母の提案を受け入れ、十世界に身を置けばクロスと離れ離れになってしまう。それどころか敵として相対することになってしまうだろう
母と再会できたことも、その愛情に触れることができたことも素直に嬉しい。だが、それでもマリアは今までの自分を否定し、ずっと想い続けてきたクロスと離れることを決断できなかった
「アリシア」
神から最初に生まれた、神に最も近い天使たる十聖天の一人でありながら、愛娘のために世界の理に敵対する意思を露にしたアリシアに、ロギアは視線を向ける
その静かな声から怒りや失望といった感情は感じられないが、それでもその決断に共感し、同調することはできないロギアの意思が宿っていた
「申し訳ありません、ロギア様。でも私は、あなた達と敵対することになっても、この願いを実現すると決めたのです」
しかし、そんなロギアの声を聞いたアリシアは、マリアの温もりをその腕の中に感じながら、母として、女として、一人の天使としての決意を告げる
「それで、私が今日こちらに来た理由なのですが――」
そんな母と子の再会を優しい目で見つめていた愛梨は、おもむろに二人から視線を外すと、今後の話に意識が向いている大貴達全員に聞こえるように声をかける
「今日は皆様に提案があって参った次第です」
先程のアリシアの宣言に眉を顰め、一瞬とはいえ今にもその命を奪いかねないほど確実に険悪な雰囲気を放っていたロギアの意識を自身に惹きつけるように声をかけた愛梨は、自分自身がここを訪れた理由を改めて告げる
「提案?」
それを聞いた大貴が息を呑み、アリシアから意識を移したロギアがその視線を険にするのを視界に収めながら、愛梨は神妙な面差しで頷く
大貴達ばかりではなく、この世界を総べる天上人――その代表格である邑岐が怪訝な声を発して眉をひそめると、愛梨は「はい」と答えて小さく頷き、その視線を大貴へと向けて手を差し伸べる
「あなたの同行者に宿った神器『神眼』を私に渡しては頂けないでしょうか? 私ならば、あの神器を無傷で取り出すことができますし、皆様の争いの禍根を断つお手伝いができるのではないかと愚考するのですが」
「……!」
愛梨の口から告げられた提案に、大貴はもちろんその場にいる全員が息を呑む
大貴の同行者――双子の実姉である詩織に宿った神器「神眼」は、創世から今日、そして未来までこの世界に起こったこと、起こりえること、あらゆる事柄を識ることができる力を持つ神器。
その力を用いれば、平行線をたどる〝全てを滅ぼすもの〟と世界を救う手立てに関して一つの答えを得られるであろうことは間違いない
「死紅魔さんは、彼の事を世界を滅ぼす元凶だと言いました。そして先日地獄界で相まみえた覇国神さんの眷族が、彼の存在を極めて危険だと仰ったのです」
そしてそんな一堂に対し、神魔へと一瞥を向けた愛梨はその心のままに言葉を紡ぎ、ここを訪れた理由を明らかにしながら、その根拠と共に語りかけていく
「私達は未だ言葉を交わしても心を通わせることができずにいます。ですが、この世界の在り様と存続に関わることとなれば無関係というわけにはいかないはず
今は共に手を取り合い、共に神魔さんと世界を救う手立てを模索するべきであると進言させていただきます」
打算などが一切ないことを示すように、その心を飾ることなく真摯に語りかける愛梨は、その胸に手を当てながら九世界と理解と十世界との協力を訴えかける
(――奏姫の言葉に嘘はない)
(何より、この世界が滅びて困るのは十世界も同じ。同じ目的と利害が一致するならば、あの女の力を利用するのも一つの手立てやもしれん)
手を差し伸べ、その気持ちを言葉として伝えた愛梨の言葉に、頭上に光輪を持つ者達の王たる灯は目を細め、邑岐もその有用性を認めざるを得ない
神の巫女の末妹「奏姫」である愛梨は、全ての神器を使う能力を持っている。神眼を使うことができるばかりではなく、その対処に様々な神器を行使して対応できるという利点もある
その力を以てすれば世界が手をこまねく全てを滅ぼすもの――そして世界の歪みに関する真実を詳らかにすることは九世界、十世界双方にとって利益になる。つまりそれは、この一点に限れば九世界と十世界、相容れない思想と信念を持つ者達が手を取り合うことのできる可能性を示唆していると言えるだろう
「以前、私はあなたに誓いました。――〝きっとあなたを救ってみせます〟と。今こそ、その時の言葉を実行させていただけませんか?」
その提案に様々な思索が巡らされる中、不快感を滲ませている神魔へと顔を向け、真剣な眼差しを送る愛梨は、以前死紅魔を失った時に告げた思いを果たすべく、その意思と誓いを告げる
「――……」
その提案を聞いていた邑岐は、判断を確かめるべく灯へと視線を向けるが、それに気づいた天上界王たる最も忌まわしき者は、困惑した様子で顔を伏せてしまう
「すぐに答えを出すことはできない」
その反応を瞳に映した邑岐は、小さく息をつくと愛梨に向かって声を上げる
「はい。存分に話し合っていただければと思います」
「そういう訳にはいかんぞ、姫」
しかし、その時さらにその背後の空間が歪み、そこから愛梨に倍するのではないかと思わせるほどの巨躯を持った大男が姿を見せる
「――ッ!」
その男が姿をみせた瞬間、まるで世界が怯えているかのように震え、さらにその存在の重みに耐えかねるかのように軋みを上げる
(こ、この神格。まさか……ッ)
圧倒的威圧感を誇るその人物から放たれる圧力に、風も衝撃も生まれていないというのに吹き飛ばされるのではないかと錯覚する圧迫感を覚える大貴は、左右非対称色の瞳にその姿を映す
二メートルはゆうにあろうかという大柄の体躯。加えてその身を包む軍服を思わせるコート風の霊衣の上からでも筋骨隆々とした身体つきを見て取ることができる
逆立った黒髪と髭はさながら鬣のよう。額だけを守る兜のような装甲に、側頭部から伸びた太く巨大な二本の角と口から除く鋭い牙は、まるでその人物の攻撃性と野性的な獰猛さを表しているかのようだった
軍服型の上着の肩部には角を思わせる金色の鎧。そこから除く胸部、腕、足には暗紺色の鎧が纏われており、まさに戦場に佇む修羅という印象を見る者に与える
抜身の刃というよりは、破壊と暴力が凝縮した化身の如き威圧感を備えたその大男の鋭い目は、瞳のない白い眼。
それは、大貴も幾度となくみたこともあるとある種族に共通する特徴。――紛れもなく戦の神の眷族に列なるものが持つそれと同じものだった
「覇国神さん」
堕天使王ロギア、天上界王灯をはじめとする全霊命達をその存在だけで圧倒するその大男の正体に思い至った大貴の考えを肯定するかのように、愛梨がその名を呼ぶ
「――っ!」
(やっぱり、こいつが覇国神……!)
最強の異端神円卓の神座№9「覇国神・ウォー」。神位第五位と同等の神格を持つ戦争と征伐を司る異端神に、大貴達はもちろん、天上界の天上人、ロギアが率いる堕天使達までもがその動きを止め、まるで捕食者を前にした小動物のように息を殺して、その出方を窺っていた
「姫。話し合いをするのは結構だが、あまり時間をかけてもらっては困る。早急に答えを出してもらえ」
その大柄な身体で愛梨を見下ろした覇国神は、牙の生えたその口を開いて野太い声で語りかける
「ですが……」
「我らは何も奪わぬ。奪うやもしれんのは、かの歪みの元凶の命のみ。ならば、王も寛大な決断を下されるだろう」
早急な結論を求められ、戸惑いを露にする愛梨を瞳のないその双眸に映した覇国神は、逡巡する十世界の盟主の背を押すように抑制の利いた声でそう告げる
神魔へと瞳のない目を向けた覇国神の言葉は愛梨に向けられたものではあるが、同時にこの場にいる全員――特に、天上界王灯に対してのものでもある
世界の恒久的平和を理念とし、言葉による理解を重んじる愛梨は邑岐の提案を快く受諾し、先の提案を受け入れるか否かの対話を重んじた
だが、事は一刻を争うかもしれないこと。最悪世界の歪みの元凶たる神魔を殺すことになるかもしれないが、九世界にも十世界にも失うものなどはない。必要なのは決断だけだ
「姫の力と神眼があれば、此奴らが望む多くを知ることができる。なれば姫の望む奴を救う術も、九世界が望む世界を救う術も知ることができるはずだ」
重厚な声音で愛梨と言葉にる全員に語りかけた覇国神は、その顔を上げて瞳のない双眸で今度子を神魔をはっきりと捉える
「姫が一言命じれば、今ここ我らが力ずくででも奴を取り押さえ、神眼を手に入れてみせよう」
「――ッ!」
戦争、そして征服を司る異端の神がその闘志をむき出しにすると、猛々しく唸り上げた力の波動がこの場にいる全員に叩き付けられる
その力を知覚した大貴、そして灯やロギア――紛れもなく最強の全霊命に属する者達は、自分達でさえ足元にも及ばないその力を目に、恐怖と戦慄に身を震わせる
「神位」と呼ばれる神の神格を持つ存在は、同等以上の神の神格を持つ存在以外に害されることはない。いかに知恵を振り絞ろうと、どれほどの数を――それこそ、九世界全員が力を合わせようと、その力に届くことはない
それが〝神〟の領域。
そして、そんな神の神格の中でも、神位が一つ違えば、それは絶対的に覆ることのない格の差となる。
ロギアや灯は神位第六位に匹敵する神格を得る「神威級神器」を有し、大貴も太極の力による共鳴でその領域に至ることはできる。
だが、円卓の神座たる覇国神は、〝神位第五位〟。神位第六位たる「神」と、神位第五位である「主神」には神と神ならざるもののそれに等しい差がある。それはつまり、いかなる手段を用いても、この戦の神に抗う術がないことの証左だった
「駄目ですよ、覇国神さん」
ただそこにいるだけで勝利を確約する戦争の神の宣言を、愛梨はむしろ窘めるかのように普段と変わらぬ穏やかな声音で応じる
予想していたことだったとはいえ、納得しかねるか一瞬表情を渋いものにした覇国神は、放っていた覇気を抑え込む
「では、一晩の後にまた伺うことにいたします。その時までに結論を出していただけますか?」
今すぐにでも世界の歪みに対処したい気持ちを露にする覇国神を諌めた愛梨は、その美貌に慈愛に満ちた笑みをたたえてその場にいる全員に対して語りかける
十世界が行おうとする全てを滅ぼすももの――「世界の歪みの根源」に対する対応は、現状神眼によって情報を獲得し、共有し合うことだけ。
あえて九世界が失うものがあるとすれば、神眼――そして、何の対応手段もなかった時に限り、神魔の命ということになる
(その時までに――か。なにかができるわけでもない我らにとって、その時間ほど虚しいものもないな)
九世界側も、殺すことで発生しうる不利益などの問題を考える必要もないため、事実上その提案を断る理由はない
そのことを理解している邑岐は、毅然とした態度を崩すことなく、心の中で自嘲めいた笑みを零す
「分かった。では、明日のこの時間に」
「はい」
十世界の提案を断ることの方が大きな不利益を生じてしまう以上、事実上答えが決まっているようなその提案に対して了解の意を示した邑岐の苦々しげな声に、愛梨は穏やかに微笑んで応じる
「……!」
話がついたところで、覇国神、そして自分へと視線を向けられたアリシアは、そこにいったん撤退する愛梨の意志を感じ取って、マリアへと視線を向ける
それが先程の提案――「共に十世界へ行こう」という言葉に対する答えを希望するものであることを理解しているマリアだが、こちら側にあるものと決別することへの葛藤に懊悩する
「――では、今日は私が退きましょう」
決断できずに悩み苦しんでいる娘に心を痛めたアリシアは、自身が退くことを決めてマリアに微笑みかける
「ですが、また明日、姫と一緒に来ます。その時に答えを聞かせてくれると嬉しいです。もし、明日までに決められなくても、あなたが――マリアが決められる日が来るまで、母は待ちますから」
幼い頃に一度、聖人界で二度、そして三度となる娘との別れに胸を締め付けられるような思いを抱きながら、アリシアはマリアの意志を何よりも優先して語りかける
噛みしめるようにマリアの名を呼び、今更ながら自らを母と恐る恐る呼称したアリシアは、母娘揃って暮らせる日を思い描きながらその純白の翼を広げて空に舞う
「――……」
腕からすり抜けていく母の温もりに一瞬手を伸ばしそうになったマリアだが、それをすんでのところで押しとどめると、愛梨達が空間の扉を開いて消えていくのを見送る
時空を空間を操る神器「空領土」によって全霊命のそれとは異なる世界の道を作り出した愛梨が姿を消すと、その場にいた全員から安堵の息が零れる
「世界を守らんとする我らは、世界の異変を前に手をこまねくことしかできず、結局十世界と神の力を借りて対応を決めるしかないとは――」
世界を守り、維持することこそがその世界を総べる王と、そこに暮らす者達の務めであるというのに、今世界を守る九世界の執行者たる自分達には現状を打開する術などは無い皮肉に、邑岐は自嘲じみた声で独白する
世界を救うのが、世界を守ろうとしている自分たちではなくこの世界を変えようとしている十世界である皮肉と無力感を胸に宿した邑岐は、愛梨達が消えた場所と黒翼を広げる堕天使達が舞う空を仰いで深く息を吐く
「まったくもって嘆かわしいことだ」
一方、天を仰ぐ邑岐とは裏腹に、愛梨達が消えた空間へ射るような視線を向ける四煌天使の一人「ノエル」は、先程の言葉を思い返して思案を巡らせる
(一旦退いたとはいえ、明日には十世界は奏姫、そして覇国神を伴ってここへやってくる。結果がどうであれ、その時私達は何を成せるというの? ――)
今回は引き下がったとはいえ、明日には再び十世界がここへやってくる。そしてその時、仮に九世界側が十世界と敵対する決定を下したとしても、あちらに覇国神がいる以上こちらに抗う術はない
だが、王の持つ神威級神器でさえ及ばない力を持つ覇国神に唯一対抗できる可能性を秘めた者がこの場にはいる。――そう、その身に神位第五位を誇る神を宿した禁忌の混濁者が。
(もはや、一刻の猶予もないのかもしれませんね)
さりげなくその視線をマリアへと向けたノエルは、母アリシアと再会して心を揺らすその姿を見て、その瞳に怜悧な光を灯す
そのノエルの脳裏に甦るのは、先程のアリシアとマリアのやり取り。そして、今のマリアは母アリシアの提案に心を揺らし、同行するかもしれない可能性を滲ませている
(神の器を十世界に奪われることだけは避けなければ)
世界の歪みへの対処を十世界に任せるとしても、天界の切り札である神を宿した真の神器――マリアを渡すことだけはできない
(そのためには――)
「――……」
静かな面持ちでマリアを見据え、深く思案を巡らせるノエルを横から一瞥したリリーナは、言い知れぬ不安を覚えてその表情を曇らせる
「天上界王」
一連の事態に場が重い沈黙に落ちているのを見て取ったロギアは、この状況で自分たちだけが無理に行動を起こす気にもなれずに、灯に声をかける
「は、はい」
「我らも事のなりゆきを見守らせてもらう。そのために、しばらく天上界に滞在させてもらいたい」
もはや今から戦うつもりのないロギアが事の成り行きを見守るために天上界への滞在を要求すると、灯は天を覆いつくすほどの堕天使達を見上げて困惑気味に応じる
「えっと、その人数を、ですか……?」
「いや。フィアラ、デュオス、ザフィール、オルク、カトレア。――それと、ロザリアと深雪も残れ」
不可能ではないが、これだけの数の堕天使を滞在させることに戸惑う灯の心中を察したように、ロギアは天を埋め尽くす黒翼の軍勢から数人を抜擢する
「レグザ。後の指揮はお前に任せる。明日の定時に全軍を率いて再びここに来い。もし不測の事態が起きれば、カトレアから連絡を出す」
「かしこまりました」
そして、堕天使界でも屈指の実力を持つレグザに残り全ての堕天使達を任せたロギアは、再び灯に視線を向けて口を開く
「我々を特にもてなしてくれる必要はない。城の端の辺りを貸してもらえれば十分だ」
「かしこまりました」
かつての天界たる最強の堕天使にそこまで言われては、天上界としても無下にはできない。邑岐に一瞥を受けて首肯を得た灯は、それを受け入れる決断を下す
「感謝する」
堕天使達が空間の門を開き、自分達の拠点としている別の世界へと移動していくのを背で感じながら、ロギアは天上界王灯に感謝の言葉を述べる
「――……」
堕天使王と天上界王のやり取りの傍らで、この世界に滞在するように命じられた二人の堕天使――「ザフィール」と「オルク」は、深雪と共に空の上に佇んでいる神魔を見て口を開く
「――あの時の悪魔が世界の歪みの元凶だったとは。数奇な縁もあったものだな」
「ですね」
かつて妖界で相まみえ、そして世界の歪みに関して神魔に告げた張本人でもある堕天使ザフィールは、その時に告げた人物こそが、自分達がロギアから命じられて探していた人物であったことになんともいえぬ感慨を覚えていた
当然、そんな二人の堕天使に気付いている神魔は、一瞥を向けてその姿を視界に収めると共に小さく嘆息する
※
「終わっ、た……?」
天上界王城の外で繰り広げられていた一連のやり取りを結界の中に映し出される画面のようなものを介して見届けた詩織は、一触即発だった雰囲気が和らいだことに安堵の息を漏らす
下手をすれば、あのまま天上界と堕天使達が入り乱れての混戦になっていたであろう戦場は落ちつきを取り戻し、ひとまずの安寧を確保している。だが、その戦いの種は翌日以降へ繰り越されただけに過ぎず、何の解決にも至っていない
(でも……)
そして、結界から送られてくる情報によって先程のやり取りを見ていた詩織は、胸の中心を掴んで思案を巡らせる
愛梨は詩織の中に宿った神器神眼を渡すように要求してきた。それはつまり、自分の中にあるものが神魔――想い人の運命を決める鍵となるということだ
(もし、神魔さんが本当に世界の歪みの中心で、殺さなければ世界が救えないってわかったら――みんなが神魔さんを……)
詩織の中によぎるのは最悪の結末。世界の歪みの元凶が神魔であり、その命を奪うことで世界が救えるのだとすれば、おそらく多くの人がそれを成そうとする。
それは、これまで九世界を大貴達と共に巡り、その在り方を目の当たりにしてきた詩織が感じる確信に近い予測だ
そして、そうなれば天上界の人達、そればかりではなく、これまで出会ってきた多くの人達が神魔を殺そうとするということにもなりかねない。そう考えると、詩織は胸を締め付けられるような痛みを覚えずにはいられなかった
(せめて、神魔さんが救われる方法がありますように――!)
「これは、随分と異常な光景ですね」
「――!?」
神魔の無事を祈り、自分の中に宿る神器に願掛けとも取れる願望を願っていた詩織は、その時おもむろに背後から聞こえた声に振り返る
「これは、失礼。驚かせてしまいましたね。私の名は、〝叢雲〟。天上界で宰相を任せていただいております」
そこにいたのは、頭上に光輪を浮かべる天上人の男性。長い薄青色の髪をなびかせ、そこに髪留めのように金色の装飾が絡みついており、そしてそれがまるでアンダーリムの眼鏡のようになっている
その所為もあるのか、知的な印象を受ける面差しを持ったその天上人――「叢雲」は、その足で結界に守られた詩織の許へと歩み寄ると、何人も侵入を許さない結界に指先で触れる
「……魔力であるにも関わらず、こうして離れたまま展開されている。――この魔力をみるに、あの神魔という悪魔のものですね」
弾かれるということはないが、その強固さが容易に想像できる神格で構築された結界を確かめた叢雲は、感嘆と驚嘆の入り混じった様子で独白する
叢雲が知覚で読み取ったように、詩織を守っている結界は堕天使の襲来と同時にやってきた神魔が展開していったもの。
本来、全霊命の意志の力によって世界にその力を示す神能は、聖人の理力のようにそういった特性を備えていない限り、使用者の意識が別のところにあるほどに弱くなってしまう性質を持つ
故に、この結界を展開した神魔も、本当ならばこの結界の維持に必要な分の神格を常に割り振っていなければならないはず。――だというのに、この結界はその神能の条理を無視してこの場に独立した永続的な効力を以て存在していた
「…………」
同等以上の神格を持つ力で破壊されるか、神魔が解除するまで詩織の身を永久的に守る効能を発揮する魔力の結界を凝視し、その目を鋭いものに変える叢雲の姿に、詩織は思わず息を呑む
魔力の効果として本来あり得ない力で構築された結界を見据える叢雲の瞳は一瞬凍り付いたように冷たくなる
それがどういった意味を持つのか確信を得られなかった詩織だが、少なくともこんな力を持った神魔を警戒したであろうことだけは直感的に感じ取っていた
「ありがとうございました」
そんな詩織の視線に気づいたのか、意図してその目を細めて微笑んだ叢雲は、その場で長い薄青色の髪を翻して背を向けると、その場から歩き去っていく
「……?」
(あれ? そういえばあの人、なにしにここに来たんだろう……?)
叢雲の姿が見えなくなり、安堵の息を吐いたところで、落ち着きを取り戻し始めた詩織の思考は、根本的な疑問に思い至る
だが、思念通話の術も持たない詩織に、もはやその姿が見えなくなってしまった叢雲に、その真意を訪ねることはできず、ただ誰もいない空間へ視線を向けることしかできなかった
一方その頃、詩織の許を離れた天上人――叢雲は、天上界王城の外壁を歩きながら、一触即発の雰囲気から解放された天上界の面々と大貴達客人、そして堕天使王を筆頭とする黒い翼の天使達を視界に映す
「……これは厄介そうですね」
そう言って小さく呟かれた叢雲の声を聞いている者はこの場には誰一人いない。小さなその声は、白い雲の大地に吸い込まれるように、天上界の空気へと溶けていくのだった