終わりの始まり
時空によって世界を隔てる時空の狭間。――様々な世界の光景を映し出し、無秩序に混成させるその泡沫のような世界の一つに、英知の樹の拠点たる「博界館」がある
大地から生えた天を衝く大樹に抱かれるようにめり込んだその館の最奥では、天井と床を結ぶ水晶の中に閉じ込められた亜麻色の髪の美女が眼下に広がる空間見下ろすように見渡していた
「厄真が死んだ」
「――!」
水晶の中の女性を背に、その淡い輝きに照らされる席に座った英知の樹の首領――「フレイザード」が鷹揚な口調で言うと、それに息を呑む気配が伝わってくる
今この場にいるのは英知の樹の首領である「フレイザード」と、それに次ぐ幹部「天樹管理臣」と一部の腹心だけ
そして、その天樹管理臣の一人にして、英知の樹最強であった厄真の訃報を受けたメンバー達は、それぞれ困惑を露にしていた
「厄真を倒したのか? 不死の神器を持つ奴を――」
永遠の命を約束する神器を持っていたはずの厄真が死んだという事実が信じ切れないのか、天樹管理臣の一人である悪魔――「王路」が確認の意味を込めて訊ねる
「ああ。詳細は不明だが、死んだのは間違いない。大方、光魔神辺りに神器ごと取り込まれたか、地獄界王の神威級神器で殺されたんだろう」
「――……」
その問いかけに答えたフレイザードの言葉に、眉根を寄せた王路は顎に手を当てて、思案するような姿勢を見せる
いかに全霊命とはいえ、世界を隔てて起きた事象を把握するのは不可能。加えて、戦闘ちゅに解放された罹恙神によって世界が感染し、〝病〟の力によって異変と異常をきたしていたために、その戦いの詳細は不明だった
その条件下で、不死の存在となった厄真を倒しうる最も可能性が高い推測は、光魔神の太極の力が神器の力さえも取り込んだと考えるか、地獄界王黒曜が神威級神器の力しかない
フレイザードが語った至極もっともな意見に、再び一瞬の静寂に包まれたその時、軽く手を上げて王路の隣に置かれた椅子に座る桜色の長い髪の女性が答える
「彼に憑いていた罹恙神はどうなったのでしょう?」
王路と同じく天樹管理臣の一人である桜色の髪の女性から投げかけられた疑問に、フレイザードは首だけを動かして答える
「不明だ。ただ地獄界をはじめとした世界で病の力が振るわれている気配はない。つまり――」
「滅ぼされたか、封じられたか」
答えを推測させるような言い回しで答えたフレイザードの話の内容を正しく受け取った桜色の髪の女性は、その言葉を引き継ぐような形で口にする
病の神である罹恙神は、存在するだけで世界に異変と異常をまき散らす神。全霊命に感染し、その命を糧にしなければ存在できないという点はあるが、その力が振るわれていないのならば、現界していないことだけは確実だ
そして、その場に光魔神や神に対抗する力を持った王がいたことを考えれば、その可能性は十二分に予測できる
「確証はないがな。一応警戒はしておくに越したことはないだろう――まぁ、仮に罹恙神が生きていても、その力による被害が目に余るようなら、かつてのように司法神が封じ込めるだろう」
「そういえば、罹恙神は厄真が向かうまでは司法神に封印されていたのでしたね」
その性質上、極めて危険な力を持つ罹恙神は、かつて円卓の神座の一角である司法神に封じられていた
厄真が罹恙神の依り代になったのは英知の樹に入る前の事だったため詳細はここにいる者達でも知らないが、病の神が封じられていたことだけは、神の力を求める組織の性質上把握していたのだ
「なら、当面は様子見ということか?」
「そうなる」
両腕を組んで深く椅子に腰かけた姿勢でその話を聞いていた王路は、確認の意味を兼ねてした問いかけに対するフレイザードの答えに、わずかに視線に鋭い光を灯す
「……神眼はどうする?」
あの場に厄真が行ったのは、光魔神達と行動を共にしている神器「神眼」を回収するためだ
全ての神器を使うことができる奏姫を擁するがゆえに、英知の樹は十世界と神器を奪い合う関係にある。このまま手を引けば、みすみすその貴重な神器を十世界側に譲ることになる可能性が高まるのは必定だった
「もちろん手に入れる。しかし、英知の樹の中で最強だった厄真を退けたとなると、手段を考える必要はあるだろう
闇雲に戦力を送っても下手をすれば返り討ちになる上、貴重な神器持ちの同胞達を失うのは望ましいことではないからな」
王路のもっともな言葉に答えつつも、フレイザードは慎重な意見を以って応じる
英知の樹は多くの神器を保有しているが、その中で実際に使用者を得て使っている者は数限られている
何しろ、神器と呼ばれるものの大半が使用者を選ぶものであり、かつ一つ使えるからといって二つ目以降を使えるわけではないというのが大きな理由だ
奏姫がいる限り、どんな神器でも使える十世界とは違う以上、貴重な神器使いを下手に送り込んで失い、あまつさえそれを奪い返される様なことは避けねばならなかった
「では、しばらくは様子見ということで?」
「そういうことだ。――我々の悲願へと続く最も大きな道を前に口惜しいことだがな」
そのやり取りを聞いた桜色の髪の女性が口を開くと、フレイザードは小さく頷いて目を伏せる
しかし、そうは言いながらフレイザードの表情には苦々しさや口惜しさといった感情は浮かんでいるようには思えず、その真意が言葉の通りなのかどうかは天樹管理臣達にも分からなかった
確かに神眼は貴重な神器ではあるが、英知の樹の真の目的は「究極の神器」にある。
神眼はそこへの最速の道のりの可能性に過ぎないことを考えれば、戦力温存も戦略として間違ってはいない。無論、世界の万象を見通す神眼の力によって十世界が究極の神器へと至る可能性を考えなければ、だが。
「――……」
厄真の死を告げ、今後の英知の樹の方針を決定したところで解散したフレイザードは、一人玉座に腰かけながら不敵な笑みを刻む
背後にそびえ立つ水晶柱の中に眠っている長い亜麻色の髪の女性に見守られるように座るフレイザードが軽く顔を上げると、それに答えるようにその傍らに一人の男が姿を現す
「思惑通りにいったようですね」
長い髪を持つ中性的なその人物――円卓の神座№7「鏡界神・ミラー」の穏やかな声に視線だけを向けて応じたフレイザードは、頬杖をついて玉座に腰かけた不遜な姿勢で口端を吊り上げる
「あぁ。邪魔者にはさっさと退場してもらわなければ困るからな。――神どもには、この世界を狂わせる〝全てを滅ぼすもの〟を滅ぼすために精々頑張ってもらわなければな」
天に向けて手を広げたフレイザードは、まるでそこに乗った賽子を転がすように揺らしながら不敵な笑みを浮かべる
神さえも手の平の上で操っている優越感に浸っていたフレイザードは、隣にいる鏡界界にそこまで告げると、何かを掴み取るように広げていたその手を強く握り締める
「この世界を手に入れるために」
「――……不死の神器を持つ者を倒した。光魔神であれば確かにそれも可能なのでしょうが……」
フレイザードが一人で部屋で策謀を巡らせている頃、博界館の中を一人歩く女の堕天使がいた
膝裏まで届く緩やかなウェーブのかかった金色の髪と新緑色の瞳に、司祭服を思わせる霊衣を纏った四対八枚の黒翼を持つ麗しき女堕天使は、その白魚のような細指を口元に当てて思案を巡らせる
《カトレア》
その時、思案を巡らせていた金髪八枚翼の女堕天使――「カトレア」の脳裏に、自身が有する世界を超えて、あらゆるものにその言葉と意思を届ける力を持つ水晶質の花飾りをした神器「通神界路」から声が聞こえてくる
「――堕天使王様」
その声に小さく息を呑んだカトレアは、世界を越えて言葉を通わせる力を持つ神器から聞こえてきたその声の主の名を口にする
さすがに博界館の中では周囲の目もあるために跪くことはないが、その声には確かな敬服の意が込められていた
《こちらへ戻ってこい。英知の樹への潜入は終わりだ》
《よろしいのですか?》
英知の樹に来てからこれまで呼びかけてくることがなかった堕天使王からの通信の内容にカトレアが心の中で確認の意味を兼ねて訊ねる
最初こそ思わず声に出してしまったが、通神界路の力ならば、思念通話のように心の中でも世界を隔てる空間を越えた界話をすることが可能としている
《あぁ。お前に任せていた件――世界を滅ぼす原因となるものは見つけた。これ以上そこにお前を置いておく意味もない》
その力で言葉を交わすカトレアに、堕天使界王ロギアは低く抑制した声で答える
元々カトレアは、堕天使王ロギアに忠誠を誓う堕天使。こうして英知の樹に所属しているのは、この世界の歪みに気付いていたロギアがその正体を探るためだった
異なる存在が愛し合い、その間に子供が生まれる――あり得るはずのない世界の理の歪みをもたらすことができるのは神の力をおいて他にない。神器を集めている英知の樹ならば、その情報が手に入るかもしれないと考えてのことだった
《かしこまりました》
自分の潜入任務が終わったことを理解したカトレアが帰還の命令を了承したのを受けて、堕天使王ロギアはゆっくりとその視線を動かす
「〝世界を滅ぼすもの〟――か。お前の息子らしいが、やれるのか? 深雪」
遠く、英知の樹の本拠地にいるカトレアとの通信を終えたロギアが視線を向けた先には、片膝をついて頭を下げている一人の女の姿があった
ロギアを王として戴く堕天使が支配する世界にあって、その女性には堕天使の証である黒い翼がなく、その存在を構築するのは、純粋な闇の力――「魔力」だった
「無論です」
ロギアに声をかけられた黒髪の女悪魔――「深雪」は、顔を上げて真摯な眼差しで応じる
「あの子は夫をも手にかけました。あの子が世界を滅ぼすならば、母である私が引導を渡さなくてはなりません」
契りを交わし、互いの命を共有しているからこそ、愛する夫――「死紅魔」の死をこの世界にいながら知った深雪は、長くその胸に秘めてきたことをロギアに打ち明けた
「私は息子を――神魔を殺すことを拒み、夫と道を違えました。しかし、あの人が倒れた今、私があの人の意志を受け継ぐと決めたのです」
愛する人を殺めた愛する息子。世界と息子を天秤にかけて迷い続けてきた深雪が下した決断に目を細めたロギアは、しばし何かを思案するような間を置いてその重い口を開く
「よく決断してくれた」
跪く深雪を見据え、ただ一言そう告げたロギアが瞼を伏せると、その機を待っていたかのようにその背後から純黒の翼を持つ堕天使の女が姿を見せる
「ロギア様、此度の遠征、私も同行させてください」
「……ロザリア」
胸に手を当て、深く礼をした女堕天使ロザリアの言葉に、ロギアはその双眸に剣呑な光を灯す
「かの地には、彼が来ます。でしたら、私も会いにいきたいと思います。それが、彼に光魔神を託した私の責任だと思いますので」
かつて白い翼だった自分が、十世界――反逆神から盗み出した異端神を封じた人物へと思いを馳せながら言葉を紡ぐロザリアは、強い意志の籠った視線を向けて言う
「よかろう」
頭を下げ、深い礼を示しながら長い金色の髪を揺らすロザリアを見据えていたロギアは、肩の力を抜いてため息にも似た吐息を零す
「ありがとうございます」
その言葉に深く一礼して感謝の言葉を述べたロザリアから視線を外したロギアは、その身を翻すと厳格な響きを持った声を張り上げる
「出立の準備を整えろ。全てを滅ぼすものを討ち滅ぼし、世界を救う戦の始まりだ」
その声が向けられる先には、堕天使界の広大な空が広がっており、そこには数十や数百にも及ぶ黒い翼の天使達が王の声を待ちわびていた
声を発し、その意思を示したロギアに付き従うように現れたのは、堕天使の王の腹心ともいえる「フィアラ」と暗橙色の髪の堕天使「レグザ」。その声を聞く堕天使たちの中には、デュオスや「ザフィール」と「オルク」といった面々が顔を揃えている
それら数々の堕天使達を見回したロギアは、自らの意思に仕え、その力を貸してくれる同胞達を見回して
吼えるように世界を守る戦いへと出陣を告げる
「目的地は〝天上界〟。そこで、全てを滅ぼすものを討つ!」
ロギアのその声を険しい表情で受け止める堕天使達は、これから自分達が向かう戦場へと思いを馳せ、改めて世界を守る決意を自身の心に刻み付けるのだった
※
十世界、罹恙神との戦いから二日。――闇の全霊命である「鬼」が総べる地獄界の中枢たる鬼羅鋼城は、二日前の負った傷から徐々に復興しつつあった
そんな中、今日まで城に滞在していた大貴は、天界の姫であるリリーナと連れ立って、鬼羅鋼城の謁見の間へと足を踏み入れていた
「わざわざ呼びつけて悪かったな」
大貴とリリーナが室内へ入ると同時、一段高くなっている場所から地獄界を総べる王――「黒曜」が声をかけてくる
額から生えた一本角。無明の闇を凝縮したような黒髪とその名を思わせる黒曜の如き双眸で、光魔神と天使の姫を見比べた地獄界王は、かしこまった礼を取ろうとする二人を軽く手を上げて止めて話を続ける
「楽にしてくれていい。これは、堅苦しい話でもないからな」
その声に優美な所作で頭を下げようとするリリーナと、まだどこかぎこちない所作でそれをまねようとしていた大貴が動きを止めて黒曜へ視線を向ける
「改めて、先日の一件では世話になった。この世界を代表して改めて感謝を申し上げる」
この場にいる自分を含めた六道、この場にいない鬼達を代表して何度目かになる感謝の言葉を発した黒曜に、大貴とリリーナは各々頭を下げる
「いや、そんな……俺たちがいなければ英知の樹の奴らや神片はこなかっただろうし」
自分が不在の間に十世界のみならず、英知の樹までをも退けたことを感謝してくれる黒曜だったが、自分達がいなければ少なくとも厄真や罹恙神がこなかったであろうと考える大貴からすれば、その感謝の念を素直に受け入れるのは難しいことだった
「それはそうかもしれないが、それを理由に実際この世界を守ってくれた恩人を悪く言うような男にはなりたくないのでな」
「はぁ」
それが事実であろうとなかろうと、あくまでたらればの話でしかないことに責任を追及する気がない黒曜が不適な笑みを浮かべると、どこか納得のいっていない表情を浮かべる大貴に真摯な視線を向ける
「さて。ところでお前達には、この後天上界に行ってもらうわけだが、その前にお前達二人には話しておかなければならないことがある。――これは、先日の王会議で決まったことだ」
「――!」
先程までの友好的で砕けた態度から、王としての威厳に満ちた厳格な声音に即座に切り替えた黒曜から告げられた言葉に、大貴は小さく目を瞠る
そんな大貴とは異なり、この場に大貴と共に呼びつけられた時点で、ある程度その内容を予想していたリリーナは、その言葉に眉一つ動かさずに耳を傾ける
「どうだ。光魔神として覚醒できそうか?」
「――いや、それは……」
開口一番に投げかけられた言葉に、大貴は動揺しながらも表情を曇らせる
大貴が今九世界を巡っているのは、九世界を知り、十世界までをも含めた世界の在り方を知るためのもの。王達の思惑では十世界と光魔神たる大貴を敵対関係を構築することで最低でも中立を保つようにしたいと考えていることも知っていた
だが、それとは別に王達が期待していることがある。
それは大貴が光魔神として完全に覚醒すること。
今の上位の全霊命と同程度の力しかない大貴ではなく、最強の異端神円卓の神座の№1――神位第五位と神位第四位の境にある現行世界最強の神格を手に入れることだ
しかし、ゆりかごの世界で覚醒してから、この地獄界を訪れたこれまでの戦いの中でも一向に光魔神として完全に覚醒するには至っていない
太極の力によって神の力を取り込むことで神位第六位相当の神格を得ることはできるが、それでも光魔神本来の力には遠く及んでいないのが現状だ
「もうすぐ九世界全てを一通り回り終える。その間にお前が光魔神として覚醒するか否か、それによって我らの行動も変わってくる」
「それは、どういう意味だ?」
黒曜から告げられた今後の方針についての内容に、大貴の口から思わず険を帯びた声音が発せられる
場合によっては咎められかねない大貴の言葉を聞いても、黒曜はそれを特に咎める風もなく、むしろ一見クールな中に見える直情的な純朴さを好ましく感じた様子で口元を緩める
「お前の意志いかんでは、最終決戦もあり得るという話だ」
「……!」
頬杖を突き、その心中を図ることのできない不敵な笑みを浮かべる黒曜の言葉に、大貴はわずかに息を呑む
そしてそれは大貴だけではなく、同席しているリリーナ、九世界王会議に出席していない紫の六道を除く全員の反応だった
これまで大貴達は九世界の内大半を回り終え、あとは次の天上界、魔界、天界を残すだけになっている。――とはいえ、一度天界には赴いているため、実質あと二つの世界で九世界の九つの世界を回り終えることになる
そうして九世界を訪ね終えたとしても、九世界の王達の思惑が完全に達せられたわけではない。十世界を滅ぼせなくとも、光魔神として大貴が完全に覚醒していれば世界は次の段階へ行動を移すことが可能になる
「俺は、十世界の言い分は嫌いじゃない」
黒曜の言う最終決戦が、光魔神を擁した九世界と十世界による討滅戦争を指していると受け止めた大貴は、声を絞り出すようにして言う
「あいつらとは分かり合えないかもしれない。でも、共存はできるはずだ。わざわざ滅ぼす必要はないだろ?」
確かに姫――愛梨が掲げる十世界の理念は、絵空事のような綺麗ごとでしかない。しかし、現実に実現できるかどうかは別として、同調はできないが共感はできるというのが大貴の考えだった
九世界と十世界の望む世界の形は確かに相反するものだ。しかし、九世界と十世界は決して殺し合わなければならないようなものではないと大貴は感じていた
「そうか。それがお前の考えならば、それはそれで尊重しよう。……確かに理想は尊い。だが、それと現実を混同してはならないことが分かっていればいい」
一見九世界の王達の意見に異を唱えるようなものでしかない大貴の意見にも、黒曜はその考えを認めた上で一応忠告を述べるだけに留める
だがそれは、決して最強の異端神である光魔神を自分達の手元に置いておきたいからというご機嫌取りからの言葉ではない。王として、守るべきものと戦うべきものを見極めた上でのものだ
理想は決して叶わぬ夢ではない。これまでの歴史から、経験から、そんなことはできないのだと諦めるための言い訳にしてはならない。
しかし理想ばかりを夢見ていても、現実がついて来るわけではないのも事実。理想と現実の境界を見誤らない限りは、それは最大限尊重されるべきものだ
「ところで光魔神。なぜ、俺がこの話をお前達二人にするか分かるか?」
十世界と同じ道は歩めなくとも、その在り方を否定したくはないと考えている大貴の意志を受け取った黒曜は、おもむろにその微笑を消して真剣な眼差しを向ける
「……!」
その黒曜の双眸に見据えられた大貴は、そこに宿る王としての責任感と意志を感じて喉を鳴らす
この場に大貴とリリーナしかいないのは、二人だけしか呼ばれなかったからだ。必要最低限の人数しか呼んでいないとしても、先導役を務めてきた瑞希が呼ばれていないことを大貴はずっと思考の端で疑問に思っていた
「お前達と行動を共にしている〝神魔〟という悪魔だが……どうもあれが世界を狂わせる元凶らしいという情報が入ってな」
「……ッ!」
黒曜の口から発せられたその言葉に、大貴は驚愕に目を剥き、リリーナと六道達もその心の内を押し殺した様子で息を呑む
「異なる存在の間に生まれるはずのない愛情とその結晶――混濁者。究極的に言えば、最も忌まわしきものを生み出すに至ったその要因があの悪魔なのだそうだ」
「……」
黒曜の口から淡々と言葉が紡がれる度に心臓を握り潰される様な圧迫感を覚えながら、大貴は懸命に平静を装う
神魔が「全てを滅ぼすもの」であることは大貴も知っている。本来ならばそんなことはないと否定したいところだったが、先日の戦いで帝王が告げた言葉の数々、そして自分の身と力で感じた異質な力を思うと、強く否定できずにいた
「地獄界王様。差し出がましいようですが、それは信頼できる情報なのでしょうか?」
黒曜の口から神魔がその存在が世界に刻み付けてきた理を侵す事象の数々と危険性が告げられると、リリーナが耐え兼ねたように口を開く
リリーナにとって神魔はそこまで親しいわけではないが、これまで遠巻きに見てきた姿を思い返せば、その言葉をすんなりと信じることが躊躇われる程度の信頼は抱いている
「さぁな。情報源はそれなりに信頼できるが、その内容については今のところ確信はないといったところだ」
もっともなリリーナの質問を受け、わずかに剣呑な光を宿した双眸を細めた黒曜は思わせぶりな言葉で応じる
「だが――」
一から十までその言葉を信じているわけではないらしいことに大貴が胸を撫で下ろしたのも束の間、黒曜はそれを打ち消すような硬質な声で話を続ける
「もし、それが真実なら――そしてあいつが世界を滅ぼす存在ならば、お前は奴を殺せるか?」
「……ッ」
射抜くような視線で睥睨してくる黒曜の言葉に、大貴は息を呑んで唇を引き結ぶ
黒曜の「殺せるか?」は物理的にという意味ではなく、精神的にという意味であることは明白。
つまり、神魔が本当に世界を滅ぼす存在ならば、世界を守るためにその命を奪う覚悟があるのかと問いかけられた大貴は、答えに窮するだけで言葉にすることができなかった
「天界の姫よ」
神魔を滅ぼすと即座に答えられなかった大貴の心境をその重苦しい静寂と沈黙から受け取った黒曜は、その視線を隣にいるリリーナへ向ける
「は」
答えを求めず、しかしその時までに答えを出すことを暗黙の内に求めた黒曜は、あえて話題だけを変えてリリーナに語りかける
「天界王からの言葉をそのまま伝える。――〝次の天上界に、天界からの迎えを待たせておく〟とのことだ」
「――っ!」
なんの抑揚もなく事務的な口調で告げられたその言葉に、リリーナは先程の話でもほとんど崩さなかった美貌に、明らかな狼狽と動揺を浮かべる
「――っ」
(まさか、マリアちゃんを……)
その混乱のままに、その真意を訪ねようとしたリリーナだったが、寸前のところでその言葉を呑みこんで、自身を見据えている黒曜に恭しく一礼する
「かしこまり、ました……」
傍から見ている限り、黒曜は天界が誰を、なぜ待たせているのかを知っているように思えるが、ここで地獄界王を問いただしても何も変わらないことをリリーナは良く知っている
父である天界王が、天使と人との混濁者であるマリアを生かしておいたのには、それなりの理由がある。いかにリリーナが天界の姫であるからといって、意味もなくその決定に意を唱えることはできない
天界王がマリアを生かしておいた理由を知っているマリアからすれば、いつかは来ると覚悟していたことでありながら、素直に受け入れるわけにもいかないことだった
「いずれにしても、この世界ではこれらのに関して何かをするつもりはない。だが、次の世界からどうなるかまでは保証できない。そのことを心に止めておいてくれ」
今はそのことについて何かをする気はないが、今後はそうとは限らないと告げた黒曜は、次いでその視線大貴へと向けて静かな声音で語りかける
「特に光魔神。もしも、神魔という悪魔が情報の通り世界の歪みの原因であるならば、九世界全てが滅ぼそうとするだろう」
「――っ」
神魔がこの世界の歪みをもたらしている元凶だとして、それを排除すればこの世界が正常に戻るならば九世界全てがそれを行うという予言にも似た事実を告げられた大貴は、強く唇を噛み締める
世界の理を歪める元凶を、たとえ力ずくででも排除するのは、世界を守り司る王として、決して間違った判断ではない。
個人的に言えば大貴は神魔に生きていてほしいと思っている。しかし、この世界を滅ぼすものがいたとして、それを守るのが正しいことだとは言い切れなかった
たとえ全てを滅ぼすものにその意思がなくとも、その存在が世界を滅ぼすならば守るべきかのか、そしてそうすることでこの世界そのもの、あるいは世界にい居る者達に害が及ぶとしても、それでも守るべきなのか――大貴は、答えのない疑問が巡る
「せめて、他の方法があるなら、それを俺に探させてほしい」
世界全てのために神魔を殺すべきか否か――その答えを出せない大貴にできるのは、苦し紛れにその一縷の可能性を信じることだけだった
苦しみ迷いながら絞り出すように告げた大貴の言葉に、目を伏せた黒曜は、王としての威厳に満ちた泰然な居住まいで鷹揚に応じる
「お前の思いは汲もう。だが、時間の猶予がどれだけあるかもわからない現状で、いつまでそれを待てばいい?
世界の歪みが今後大きくならない保証はない。そしてその原因を排除しても、歪められた理が戻らない可能性もある。取り返しのつかないことになる前に、決断を下さなればならない時が来るだろう」
全てを滅ぼすものが世界に理の歪みをもたらしているとして、それがこの先大きくなり、更なる異常をもたらさないとは限らない
仮に全てを滅ぼすものを滅してもその歪みが癒えないならば、少しでも被害が少ない内に結論を下すべきだと考えるものも多いだろう
その選択にどれだけの時間と選択肢が残されているかは分からないならば、その中で何を守るべきか、何を守りたいのかを考え、選び、切り捨てなければならない
「その覚悟だけはしておくことだ」
滔々と語った黒曜は、その一言で大貴への言葉を締めくくる。
諦めずに救う方法を模索するのは構わない。だが、どれだけ力を尽くしても変えられないこと、叶えられないことはある。黒曜の口から告げられたその残酷な事実は、大貴の心に確かな棘となって突き刺さるのだった
※
「あ、大貴」
黒曜の話が終わり、部屋を出た大貴とリリーナが自分達が泊まっている城の区画を訪れると、帰りを待っていたらしい面々が顔を並べていた
神魔、桜、瑞希、クロス、マリア――そしていの一番に口を開いた詩織に呼びかけられた大貴は、ゆっくりと顔を上げる
「……姉貴」
自分を呼ぶ声に応じて詩織へ視線を向けた大貴の目には、双子の姉の背後にいつものように桜と寄り添い合っている神魔の姿が映る
「…………」
先日の戦いで同調したときに感じた得体のしれない力、そして九世界全てが神魔を滅ぼすために動くかもしれないという黒曜の話が脳裏をよぎり、わずかにその表情に暗い影が差す
「話って何だったの?」
そんな大貴の様子に神魔がどの程度疑問を覚えたかは分からないが、それよりも早く小走りに駆け寄ってきた詩織が質問をしてくる
大貴とリリーナだけが呼ばれたというのに、これまで九世界を巡る先導を務めてきた瑞希が呼ばれていないという事態に何か思うところがあったのか、そこにいた面々がその内容に興味があるとばかりに視線を向けてくる
「あぁ、これからの事を色々とな。……完全な覚醒はできそうか? って聞かれただけだよ」
「そう」
その問いかけに、どれだけ話すかを逡巡した大貴だったが、結局神魔についての話は一切せずに自分についての話だけをする
そんな大貴の意志を尊重してくれたのか、リリーナもそれについて言及することはなく、聖楚で楚々とした居住まいを崩さずにそのやり取りを見守っていた
「確かに。お前がいつまで経っても覚醒できないってのは妙な話だな」
その時、大貴の話を受けたクロスが思案気な表情で口を開く
「お前からはもうゆりかごの毒を感じない。ってことは、いつ覚醒してもおかしくないはずだ」
当初、ゆりかごの人間――神敵たる悪意の眷族だった大貴には、反逆神の力の影響があり、それが光魔神としての覚醒を阻んでいると思われていた
しかし、今の大貴は九世界を巡る戦いと太極の力との親和が進んだことにより、その存在から完全に反逆神の影響が消えている。だというのに、その存在が完全な光魔神として神化しないのには確かに違和感がある
「何か別の要因があるのかもしれませんね」
「別の要因?」
クロスの言葉を受けて口を開いたマリアの言葉に、大貴と詩織の視線が注がれる
「例えば――」
大貴が完全な光魔神として覚醒するために何が足りないのか思案を巡らせていたマリアは、ふとその答えを口にしようとして、思わず声を呑み込む
「……?」
マリアが言葉を止め、数秒にもわたる沈黙を作り出すと大貴達はその様子に怪訝に首を傾げる。――ただ一人、その沈黙の意味を察しているリリーナだけは、目を伏せてその静寂を噛みしめていたが
「すみません。思いつきませんでした」
やがてしばらくの間を置いて苦笑混じりに口を開いたマリアは、場の綻んだ空気に同調して朗らかな笑みを浮かべて大貴に微笑みかける
「でも、きっといつか覚醒できますよ」
「あぁ、そうだな――」
その言葉に、どこか含みのある声で応じた大貴は、その左右非対称色の瞳に一瞬だけ悲哀の色を浮かべて遠い記憶と世界の果てに思いを馳せる
(そうだったな。今ここにいるのは、ゆりかごの人間の俺じゃない。光魔神としての俺だ――)
光魔神として目覚めたあの日、大貴はすでにゆりかごの人間ではなくなった。その存在から全く異なる人間、そして光魔神となった大貴は、もはや大貴であって、地球にいた頃の大貴ではなくなってしまっている
そして、光魔神としての自分こそがすでに本物の自分の在り方になっている今の大貴は、十五年の月日を過ごしていた地球、家族との団欒にもう戻れないだろうことを不意に思い返し、郷愁の念を噛みしめる
(俺はもう、あの場所では生きられないんだ)
地獄界編―了―