託されゆくもの
金色の装飾が施された純白亜の壁が遥か天高くまでそびえ立ち、その天頂からは太陽のように温かく、月のように柔らかな光が降り注ぎ、一帯を神々しい光で満たしていた
その光が降り注ぐ室内は、壁と同じく純白亜の床が広がっており、その中には透き通るような清流が巡っている
現実感がないほどに美しいその場所は建物の中とは思えないほどに荘厳で、塵や染みはおろか、影すら存在しない一点の翳りもない世界だった
そして、その白く神聖な世界の中心――室内を環望できる中央の高座には、この荘厳な光景すら霞むほどの神々しい人物が静かに佇んでいた
僅かな翳りさえない新雪のような白い肌に、それ以上に白いドレスの様な衣。腰の位置よりも長く、癖のない金色の髪は淡く金白色に発光しており、そこからは時折蛍のような燐光が零れて空を舞っていた
まるでその美しさのあまり、時すらもが見惚れてしまっているかのように、その女性がいる空間は静寂にも見た神聖な時間が支配していた
「創造神様」
その時、不意に聞こえた女性の澄んだ声に、淡く発光する金色の髪を持つ女性――「創造神・コスモス」は視線を向ける
神々の頂点。創世の起源――光の神位第一位「絶対神」たるその女性は、あまりにも美しい女神だった
慈愛に満ちた柔らかな眼差しに、完璧なほどに整った顔立ち。想像の余地さえも許さない美貌は、この世にありながらこの世のものではない矛盾にも似た完全性を感じさせる
髪だけではなく、瞳、その睫毛までもが全て金白色で、まるで存在そのものから光が溢れているようなその姿は、あまりにも神々しいものだった
「天照神」
神全な美そのものである顔を向け、艶やかな唇を開いた創造神コスモスは、空気を清めるかのような聖浄な声音で自分を呼んだ人物の名を呼ぶ
そこにいるのは、巫女服と振袖を合わせたような純白と赤が美しい和装の霊衣に身を包んだ輝くように美しい女神だった。腰まで届く朱緋色の髪を揺らめかせた絶世の美貌を持つ女神は、創造神の声に恭しく一礼する
創造神に声をかけた朱緋色の髪の女神の名は、「天照神・コロナ」。光と闇、それぞれに二柱ずつしか存在しない神位第三位「極神」の一柱たる神。
その名の通り「光」を司る女神である天照神は、今現在創造神に仕える神の中で最も位が高く、最も近くに控えることを許された神だった
「えぇ。まいりましょう」
天照神が何かを言うまでもなく、ここへやって来た要件を把握している創造神は、厳かな声音で一言そう呟くと、淡く燐光する金色の髪を翻してゆっくりと歩き出す
足元を隠すほどに長い純白のドレスの裾が純白亜の床を流れるように進んでいくのに合わせ、硬質な音がそれに続く。ただ歩むことによって刻まれるだけの足音も、創造神が行えば、さながら天地創造の調のように建物の中に木霊する
天照神を背後に従え、ゆっくりと流れるように歩を進めた創造神がやがて一つの扉の前へとたどり着くと、それに応えるように重厚な扉が開いていく
金色の意匠が施された壁と同じ純白亜の扉は、まるで自らの意思があるかのように両側に大きく開いていき、閉ざしていた外界との隔たりを繋げる
その先に広がっていたのは、最奥に金色の意匠が施された白い玉座が鎮座するその広大な部屋。純白の壁と天井に鮮やかな赤い絨毯が敷き詰められた床は、この場所が玉座の間であることを雄弁に物語っており、水晶のようなシャンデリアに影一つなく照らし出される室内には、すでに数十人にも及ぶ男女が創造神を待ちわびていた
跪いた姿勢で自分を出迎えた者達にわずかに目を細め、創世の女神の慈笑みをたたえた創造神は、淡く燐光する金白色の髪を揺らめかせながら、玉座の前まで移動する
その手の中に収束する光が形を織り成し、玉座に前で足を止める頃には、その手に身の丈にも及ぶ白い杖が顕現していた
「『摂理神』」
「はっ」
玉座の前で足を止め、その石突で軽く床を吐いて澄んだ音を響かせた創造神の呼びかけに、玉座の一段下に控えていた男の神が顔を上げる
数段高い位置にある創造神の玉座、そこから一段下に控えていた男は、それに準じる位の高さを持っていることは明白。それは、創造神を送り届けた天照神が、男と同じ高さにまで降りて跪いたことからも明白だった
線は細めで、それでいて野性的な雄々しさと理知的な冷静さが同居した男らしい精悍な面差し。腰まで届く白い髪は、光の当たる角度によって微妙に色合いを変える真珠とも宝石とも取れる輝きを宿しており、その身を橙金色の鎧と白のコートで包んでいる
その神の名は「摂理神・プロヴィデンス」。――二柱しか存在しない光の神位第三位「極神」の一柱たる神だ
「機は満ちました。我々も動くときです」
「準備は整っております」
すでに何をするかを理解している臣下の神々に確認するように語りかけた創造神の言葉に、摂理神は恭しく応じる
その言葉に頷いた創造神は、玉座の間に集った者達を見回す
今この場にいるのは、創造神に属する光の神々。神位第一位に次ぐ神格を持つ天照神、摂理神を筆頭に、神位第四位「至高神」の四柱、神位第五位、第六位の神々と、神臣たる二柱の異端神――円卓の神座№10「護法神・セイヴ」とそれに列なる六人の神片達がいる
(ようやく、この時が来たのですね『破壊神』――)
眼下に集った自身の眷族達を見据え、たおやかに微笑んだ創造神は、一拍の間を置いて森羅万象この世の全てを見通すその金色の瞳に、この世界とは違う場所にいる目的の人物を映す
その瞳が捉えるのは、数えきれないほどに存在する世界の一つ「地獄界」においてその力を振るう黒髪の悪魔――「神魔」の姿
「では始めましょうか――」
その姿を映した創造神は、艶やかな花唇を綻ばせると、厳かかな声音で光の神々に告げる
「二度目の創界神争を」
※
「ぐ――うゥッ」
自身から吹き上げられた血炎の柱を瞳のない白目に映した戦の神の神片――「帝王」は、苦悶の声を噛み殺しながら、自身へと太刀を見舞った大貴から距離を取る
金色の力を牽制のために放ち、太極の黒白がそれを取り込む間に距離を取った帝王は、自身に刻み付けられた深い傷を見て忌々しげに眉を顰める
先に感じた滅びの恐怖に竦み、金色の王笏杖を握る手が微かに震えてしまっているのを見据えた帝王は、苦痛に耐えながら太極の力を纏う大貴をその視線で射抜く
しかし、その瞳に映っているのは先に大貴から受けた斬撃によるものではない。帝王を恐慌させるのは、その前に大貴によって共鳴させられた神魔と桜の純極黒の魔力によるものだ
(……気のせい、か)
先程共鳴させられた滅びの力から解放された自身へと知覚を巡らせた帝王は、自身をたらしめる存在が失われていないことを確かめて、恐怖を打ち消すように強く拳を握り締める
神魔と桜の共鳴魔力と太極の合一によって同化させられた帝王は、自身という存在が闇に呑み込まれて滅却される様を確信した。
覇国神の眷族全ての力を持ち、それらすべてによって存在が支えられているがゆえに、覇国神のユニット全てを根絶やしにしなければ完全に滅びるはずのない自分という存在が、その価値を失い、同胞達との繋がりを消されて消滅する――自身が感じたものが錯覚であったことを確かめた帝王は、安堵の息を吐くと同時に戦慄を覚えていた
(いや、違う。あれは予見――あの力が余に向けられたときに、この身に訪れる約束された現実だ)
先程感じた死は、ただの錯覚などではない。この世の根源足る霊的な力を捉えることで、世界の真理を見通す知覚能力が見せた結果――もし、その力が自分へと向けられたときに起こる確定した事実なのだと帝王は理解していた
魂の髄に刻み込まれた圧倒的な恐怖に身を震わせる帝王は、軋むほどに強く歯を食いしばって、それを振り払う
「――今日は、貴様に譲ってやろう」
傷口から血炎を立ち昇らせ、覇国神の眷族の証である瞳のない眼で大貴を睨み付けた帝王は、一言そう言い捨てると同時に姿を消す
その神能によって世界を隔てる時空の門を開き、存在ごと移動した帝王がこの地獄界から完全にいなくなったのを確認して、大貴は小さく息を吐く
「ふぅ……」
相手の不意を衝いた紙一重での勝利を収めた大貴は、その左右非対称色の瞳で自身の手を見据える
「やっぱ、影響なしってわけにはいかないか……」
眉根を顰め、小さく舌打ちをするように言った大貴の視線の先では、その手が小さく震えていた
それは、帝王に太極の力で神魔と桜の共鳴魔力を合一させたときの名残。たとえ自分自身と融合させなくとも、太極を介してそれを行ったことは変わらない。――故にその時の力が、大貴にも少なくない影響を残していたのだ
直接融合したときほどではなかったが、その間大貴自身にもその力の影響が干渉してきており、先程帝王の撤退を許したのも、身体が思うように動かなかったのが大きな一因だった。無論、そこまで徹底的に殺すつもりがなかったことも事実だが。
「――……」
存在そのものである神能で構築された身体の震えは、その魂に刻まれた恐怖の表れ。それを打ち消すように強く拳を握り締めた大貴は、ふとその視線を鬼羅鋼城の一角で渦巻く純黒色の魔力へと向ける
その発生源にいるのは、言うまでもなく魔力を共鳴させて感染者と討滅している神魔と桜の二人
(神魔、桜。お前達は一体――)
罹恙神が封じられ、帝王が退いたことで、この戦いも一気に終息に向かうのは間違いない。しかし帝王との戦いに勝利した大貴の表情は、決して晴れやかなものではなかった
「――……」
そしてそれと同様に、この戦いを行く末を見守っていた反逆神の神片――「狂楽に享じるもの」は、何か思いつめたような深刻な表情で、十世界の拠点へと帰還する
そして、それを遠巻きに見届けた神の意志を託された救世主――「シルヴィア」は、罹恙神を封じ込めた結晶を手に、世界を開く門を開いてこの地獄界を後にするのだった
※
英知の樹に属していた罹恙神が封じられたこと。
帝王、狂楽に享じるものの二人が撤退したこと。
そして、十世界地獄界総督たる赤の六道たる戦鬼――「火暗」が命を落としたこと。
これらの理由によって、 九世界、十世界の者達が協力し合い、先の戦いでこの世界に蔓延した病神の眷族――「感染者」を全て滅ぼしたところで今回の戦いは必然的に終わりを向かえる
「――しかし、こっぴどくやられたもんだ」
身体に感染していた罹痛の病の力が、神能による復元能力と全盛を維持する力によって抜けていくのを見据える赤の六道――「戦」は、苛立ちの混じったやるせない声で言う
感染者が死に絶えてもその力で穢された世界そのものまでは完全に治らない。特に正常な生命を蝕み、死をもたらす異変と異常の力の影響を受けた地獄界の半霊命達の被害は甚大だった
大自然を内包し、緑と生命に満ち溢れていた景色は、枯れ果て朽ち落ちた死の世界へと変わり、鬼羅鋼城本体も、大半がその影響を受けて崩壊してしまっていた
「そうね。昔を思い出したわ」
自分達が暮らす世界に、無残な死を振りまかれた苛立ちを滲ませる声に同意を示した黄の六道たる戦鬼――「刈那」は、それに応じるように嘆息する
六道――鬼の原在である二人は、神から生まれた最初にして最も神に近い神格を持つ最強の鬼。それであるが故に、世界を創造した創界神争を実際にその身で経験しており、神々の力を目の当たりにしている
懐かしさすら覚える神の力を目の当たりにした二人は、地獄界と十世界――どちらも多くはないが少なくもない犠牲を払った者達の姿を確かめる
そこにいるのは、共に死へ至る病と戦い、生き抜いた者達の姿。互いの信念ゆえに敵対する陣営に所属しながら、一時の共闘を結ぶ中で確かに芽生えた戦友として、互いの生を称え合う者達の一時の安寧だった
「刈那様、戦様」
「桐架」
その時、二本の角を持つ黄眼黄髪の鬼が二人も許へと歩み寄り、丁寧な声音で恭しく頭を下げる
近くとは言っても、戦と刈那から数十メートルは離れた位置。それでも、鬼の神能たる鬼力によって届けられるその声は、病の掃討を終えた赤と黄色の六道の耳に明瞭に届いていた
「今回は、予期せぬ横槍が入ってしまいました。犠牲も少なくなく、皆もこれ以上の戦いは望んでいないでしょう。――ですから、今日のところは退かせていただきます」
「そうしなさい。私達も、今この機に乗じて追撃をする気にはならないわね」
突如乱入してきた英知の樹の幹部、そしてその身に宿って持ち込まれた罹恙神による被害と、激しい戦いを終えたばかりの地獄界と十世界は互いに激しく消耗しすぎている
そういった理由から撤退の意志を提案した桐架に、戦と刈那は、同様に消耗した同胞達を見てそれを受け入れる
「感謝いたします」
これ以上の追撃や掃討が行われない言質を得た桐架が感謝の意を述べると同時、少し遅れてその背後に二人の鬼――黒の戦鬼「八雲」と、緑の護鬼「宇羅」が現れる
「今後は、私達三人が、火暗様に代わって、十世界に属する鬼達を纏めていくことになると思いますので、これからもよしなによろしくお願いいたします」
「黒曜にはそう伝えておく」
これまで自分達を率いていた火暗が死んだことで、順当に考えればそれに次ぐ位にあった自分達がその役目を担うことになると考えた桐架は、火暗の腹心として最後の役目を果たす
その言葉を、皮肉とも誠意とも取れる言葉で受け取った戦の声を聞く桐架は、同時に喪失感を隠せない表情で一礼する
「感謝いたします。火暗様には及ばぬでしょうが、精一杯十世界の矜持を以ってお伺いさせていただきます」
十世界に属する鬼達にとって、火暗は実力の上でも精神的な面でも、最も重要な柱となる人物だった。
しかし、火暗とその力を失ってしまった今、これまでのようにはいかない。しかし同時に、これからが始まりでもあることを強く己に言い聞かせる桐架は、深い一例と共に花のような笑みを二人の六道に向ける
「最後に一つ。念のために、声をかけさせていただいてもよろしいでしょうか?」
あえて重要な単語を省いた桐架の言葉に、一瞬眉を顰めた戦と刈那だったが、深い思慮を宿した目を伏せてそれに答える
「……好きにしろ」
「では、これにて」
二人からの承認を得たところで再度一礼した桐架は、鮮やかな黄髪をなびかせて身を翻すと同時に、八雲、宇羅の二人と共に姿を消す
神速の移動によって桐架達三人が目的の場所へ向かうのを見送った二人の六道は、その人物がいる場所へと視線を向けて、彼の答えを見極めようとしていた
「はぁ、しんどかった」
一体に蔓延っていた罹恙神の眷属――感染者を滅ぼし、地獄界を界癒させた示門は、その場に腰を下ろして天を仰ぐようにして言う
死んだ火暗から受け継いだ神器「神差衡」の力を存分に振るい、世界を守った世界にあることを許されない〝最も忌まわしきもの〟が充足感に満ちた様子で言うと、そこに黒髪を揺らめさせた椿が歩み寄る
「お疲れ様、示門」
「あぁ」
上から覗き込むようにして呼びかけてきた椿の声に顔を上げた示門は、自分に注がれる黒曜の瞳と柔和な笑みに顔を赤らめ、照れ隠しをするように顔を背ける
そんな示門の反応に苦笑を浮かべる椿と、少し離れた場所から見守る御門、緋毬が微笑ましげに目元を綻ばせていると、不意にその家族の鬼達の表情が険しいものに変わる
「――!」
全員の視線が向けられたその先に、まるでタイミングを見計らったかのように、黄色、黒、緑の三人の鬼が姿を現す
「お前達は……」
「十世界の!」
突如現れた三人の鬼――「桐架」、「八雲」、「宇羅」の三人を前に弾かれたように飛び起きた示門がその武器である戦斧を構えると、箒槍を顕現させた椿が危機感を露ににした表情で言う
「待ってください。戦うつもりは――いえ、そういうことでは内容ですね」
武器を向けて牽制され、軽く両手を上げて戦う意志がないことを示した桐架だったが、示門はともかく、椿は自分達の思惑を見透かした上でそうしているのだと理解して、口元を綻ばせる
自分達がここに来た理由が分かっているからこそ、武器を向けてきているのだと見抜いた椿は、その絆に敬意を表しながら、示門へと視線を移す
「示門様」
敵意のない視線と声音で示門の視線と意識を自分へと向けさせた桐架は、敬意を表するように一礼して口を開く
「火暗様の腹心を任せていただいておりました。『桐架』と申します。お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
「話をしたいから時間を取ってほしい」と告げた桐架の言葉に、それを聞いていた椿、御門、緋毬がわずかに表情を強張らせる
その表情は、桐架達の要件を正しく推察しているが故のものであり、そして示門がそれに答えてしまうのではないかという一抹の不安から来るものだった
「十世界につけって話しなら断らせてもらうぞ」
「!」
しかし、そんな椿達や桐架達の考えを見越したように、その赤い髪を掻くようにしながら答えた示門は、息を呑む反応を見て、自身の予想通りだったことを確かめる
桐架が示門に会いに来たのは、示門を十世界へと誘うため。
考えてもみれば、示門は光と闇の全霊命の間に生まれた、「最も忌まわしきもの」。この世界から忌み嫌われ、普通ならばその存在さえ許されない人物
その実父である火暗からその想いと力を託されたばかりであることからも、この世界を変えようとする十世界の理念に共感してくれる可能性は決して低いものではなかっただろう――無論、桐架はそういった打算だけで示門に声をかけたわけではないが。
「俺は、十世界の仲間にはならない」
自分の言葉を聞き入れ、静かにその場に佇んでいる桐架と八雲、宇羅の三人に、示門はもう一度はっきりと自分の意志を告げる
「親父が守りたかったもののためには、世界を変えなきゃいけなかったかもしれない。けど、俺の大切なものは、そんなことをしなくてもここにある」
たとえ、同じ神能をしていても火暗と自分は違う。単純な反発からではなく、自分にとって大切なものがなんなのかを見極めた上で、示門は自分の周囲にいる家族達を思いながら答える
緋毬、御門、そして椿。――示門にとってこの世界は、この大切な人達によって満たされていた。
たとえ自分の存在を世界が認めなくとも、自分は自分のまま生きていく。それが、示門の出した答えだった
「――……」
そんな示門の強い決意の籠った視線を受けた桐架は、その目元を優しく綻ばせ、かつて遠い日に交わした火暗の言葉を思い返していた
《俺になにかあったら、息子たちを頼む》
いかに、神の尺度によってどんなに強い敵と戦おうとも、必ず同じ強さになれる「神器・神差衡」の力があるとはいえ、自分達が戦うのは最強の鬼達。――いつ、なにがあるかわからないことを覚悟していた火暗は、その願いを桐架に託していた
(火暗様。やはりこの方は、あなたのご子息です)
その時の約束を果たさんと声をかけた桐架だったが、今目の前にいる示門は自らの意志で、大切なもののために生きることを決めた。同じ道を歩んでこそいないが、そんな示門の姿に、桐架は火暗の姿を重ねずにはいられなかった
(そして、それがあなたの優しさだったのでしょうね)
神差衡を使った時、最も忌まわしきものである示門は、世界そのものから敵視されているがゆえに、原在と同等以上の力を発現して見せた。しかし、火暗にはそれができなかった
それはつまり、火暗自身が心の底で、大切な家族の存在を認めない世界を敵視しきれていなかったことの証。――あるいは、地獄界に残してきた緋毬や御門と示門を愛するが故だった
優しく、強いがゆえに家族のために世界にから離れ、世界を変えることを望みながら、一方で愛する者達がいる世界を守ることさえ望んだ火暗という鬼の在り方だった
「そうですか……残念です」
父として、男としての生き方を貫いた火暗同様、息子として、男としての生き方を通そうとする示門に哀愁の念を抱きながら、桐架は少しだけ寂しそうな笑みを浮かべる
それ以上食い下がるようなことはせず、示門の意志を尊重して受け入れた桐架は、その場で身を翻して立ち去ろうとするが、おもむろに何かを思い出したように足を止めて肩越しに視線を送る
「ですが、気が向いたら、是非私達のところへお越しください。もちろん、皆様全てお持ちいたしております」
示門だけでなく、ここにいる全員、そしてここにいないすべての者に対して声をかけた桐架は、八雲、宇羅の二人と視線を交わして口を開く
「全員撤収します」
鬼力によって戦場の全てにその声を届けた桐架の言葉を合図に、この場にいた十世界に属する者達が次々に時空の門を開いて、この世界から離れていく
時空の門が地獄界の空に無数に生まれては消えるその様は、まるで瞬く星の海のように、幻想的な光景を作り出す
そして、十世界に属する者が全員この場からいなくなったのを確かめた桐架は、最後に八雲、宇羅の二人と共に世界を渡る扉を開いて地獄界を後にするのだった――。
※
「――……」
地獄界から十世界の拠点である時空の狭間に漂う大陸都市へと帰還した悪魔――紅蓮は、どこかやるせない表情で思いため息を吐く
戦いにこそ己の存在意義と生きる喜びを見出す紅蓮がそんなため息を吐く理由はたった一つ。出会ったその瞬間から今日まで強敵として、好敵手として求め続けてきた大貴のことだった
(いつかはこんな日が来ることは知っていたが――やっぱり、悔しいもんだ)
大貴は光魔神。異端神の中でも最強と呼ばれる円卓の神座、その№1。今は不完全で、通常時では少々強い全霊命程度の力しかないが、完全に覚醒したその力は神位第五位「主神」を遥かに凌ぎ、神位第四位「至高神」にさえ迫る力を持っている
そうでなくとも所詮一介の全霊命に過ぎない紅蓮にとって、神の領域の力には手も足もでないものだった
そして、今では大貴は多少の条件は必要となるが、〝神〟――神位第六位の神格を以って戦えるほどに成長している。そしてそれは、その力の前に自分が無力となったことの証明に他ならない
(神の力の前じゃ、俺なんざ問題にならねぇ。力の差があり過ぎるんじゃ、それはもう戦いじゃない)
わずかに目を細め、自分の力が及ばない領域へと進んだ大貴へと思いを馳せた紅蓮は、自身の無力に歯噛みして肩を落とす
紅蓮が求めているのは、あくまでも強者との戦い。そして、戦いとは最低でもそれなりに力の差――神格が近くなければ成立しえない
だが、神の力はあまりにも隔絶しすぎている。神を神たらしめる神以外に害することのできない絶対的な存在と力の定義の前で、悪魔である紅蓮の力は塵芥と評することさえ憚られるほどに劣ったものでしかないのだ
「決着を付けたかったな」
通常なら、相手にもならない「神」。しかし、不完全の存在であるがゆえに、自分と等しい神格を以って存在する大貴は、紅蓮にとってまさに得難い敵だった。
この世にいるいかなる全霊命とも違う、光と闇を等しく持つ唯一の神能。そして異端とはいえ神である存在。――それは神威級神器とも神片とも違うものであり、戦いを求める紅蓮にとって、これからの人生でもう二度と巡り合うことができない最高の相手だった
これまで追い続け、戦いを求め続けてきた自分の願いがもはや叶わないかもしれないと考えて力を落とす紅蓮の背後で、硬質な足音を以って近づいてきた人物が足を止める
「戦いたいか?」
「――ゼノン、サマ」
その声に振り向いた紅蓮は、自分に声をかけてきた人物――十世界魔界総督「ゼノン」。悪魔の原在「五大皇魔」の一角にして、最強の悪魔「魔界王・魔王」に次ぐ力を持つその人物に、声を強張らせる
同じ十世界に属しているからといって、全ての者と言葉を交わすわけではない。特に魔界総督であるゼノンは、十世界での活動を自身の副官であった死紅魔に任せていたこともあり、紅蓮もほとんど言葉を交わしたことがない――故に知覚では気付いていたが、まさか声をかけられるとは思っていなかった
「無理をしなくてもいい」
明らかに使い慣れない敬語を聞いて肩を竦めて見せたゼノンは、身体の向きを変えて自分に相対した紅蓮に向けて話を続ける
「お前は、あの光魔神に執心のようだな。だが、奴は覚醒に近づき、最早その戦いのステージは神のそれに移ったと言っても過言ではない」
これまでの戦いの情報なども知っているのだろう――まるで見てきたように、自分の心を見透かされた紅蓮は、できるだけ気付かれないように唇を引き結んで拳を握り締める
ゼノンが言うように、もはや大貴の敵は全霊命ではなく、異端神や神片といった神の神格を持つものに移りつつある。
今でこそまだ、何らかのきっかけが必要だが、いずれそう遠からぬ内にその領域に到達するのは確定的だといえた。
「口惜しいだろう?」
世界の恒久的平和とすべての存在の共存を謳う十世界に属すがゆえに、大貴と決着を着ける機会は失われたといっても過言ではない焦燥と喪失感を覚えている紅蓮に、ゼノンはそう言って軽く手を差し伸べる
「どうだ。俺に力を貸してくれるならば、お前に奴と――光魔神と戦えるだけの神格を与えてやろう」
「なに!?」
手を伸ばしても届かない距離で自分に手を差し出したゼノンが不敵な笑みを浮かべるのを見た紅蓮は、その信じ難い提案に眉を顰める
「そんなことできるはずがないとでも思っているのか? 神威級神器、真の神器。――神の力を得る術はいくらでもあるぞ?」
表情からその懸念や疑念を読み取ったらしいゼノンの言葉に、紅蓮はその表情を険しいものに変えてその真意を探るべく、それに応じて口を開く
「手段があるってのと、できるってのは別の話だろ」
確かにゼノンの言う手段を用いれば、神の力を得ることができる。全ての神器を使う能力を持つ奏姫たる愛梨の許には、彼女を慕う十世界の者達が世界中から集めた
神器が献上されて来た
それを知り、さらにその中で奏姫が使うことのできない「真の神器」を預かって来たゼノンにならば、その可能性はあるかもしれないが、手段があるからといってそれが可能だとは言えない
「姫を裏切るのか?」
何よりも、今ゼノンが口にしていることは十世界の盟主たる姫――「奏姫・愛梨」の意志とは紅蓮には到底思えなかった
当然十世界に属する者にも独自の裁量などは与えられており、紅蓮もまた戦いをするために十世界に所属しているため、ゼノンを一方的に非難することはできないが、それでも愛梨を裏切るつもりはない
「お前はお前の意志で命尽きるまで光魔神と戦えばいい。ただそれだけのことだ」
隠しきれない敵意をのぞかせる険しい表情で自分の真意を探ろうとする紅蓮の様子に苦笑を浮かべて応じたゼノンは、ただそう一言告げる
「解せねぇな。あんたが言ってることを信じろっていうのか?」
まるで自分がその提案を受け入れることを確信しているかのように不敵な笑みを浮かべるゼノンの言葉に怪訝に眉を顰めた紅蓮は、警戒心を剥き出しにして言う
ゼノンの話は、いくら大貴との戦いを何よりも望んでいる紅蓮であろうとも二つ返事で受け入れられるものではなかった
「まさかあんた。こんな風に組織の連中に声かけて、自分の仲間に引き込んでるんじゃねぇだろうな?」
その時、不意に脳裏をよぎった可能性に紅蓮が上司に向けるには不釣り合いなほど強い敵意を発したのを見て取ったゼノンは、小さく嘆息する
《もういいゼノン》
「――!?」
その時、不意に響いた聞き慣れない男の声に紅蓮が目を見開いた瞬間、眼前に佇むゼノンの背後の空間が裂け、その中に満ちる悪魔でさえも見通せない闇の中に人影が浮かぶ
それに紅蓮が目を見開いたと同時に、ゼノンはその場で片膝をついて、空間の裂け目の中に満ちた闇に浮かぶ影に跪き、恭しく何かを仰ぐように首を垂れる
《あの言葉で動かないならば、どこまでいっても結果は変わらない。ならば、奴自身に確かめさせればいいだけのことだ》
闇の中に浮かんだ影は跪いたゼノンへ一瞥を向けてそう告げると、次にその視線を紅蓮へと向ける
「――っ!」
その瞬間、紅蓮は自身の魂が呑み込まれる様な感覚に見舞われ、身を強張らせる
(なんだ、こいつ――ッ!?)
闇の中にいる影は、その姿さえ判然としないばかりか、目の動きも分からない。だというのに、今この瞬間紅蓮はその影に見つめられて、見通されているのだとはっきり理解できた
同時に、その視線を向けられた瞬間、紅蓮はその存在が途方もなく強大なものであると理解できた。自身の存在の核が恐怖に震え、呼吸など必要としないはずの全霊命が息苦しさに圧迫される
(この感覚は、まるで――)
少し力を入れて見つめられれば――あるいは、その闇の帳が取り払われてしまえば、自分が存在ごと消されてしまうような圧倒的な存在感を感じた紅蓮は、本能的に闇の中にいるものの正体に思い至る
存在だけで生殺与奪を握られたようなこの感覚は、まるで全霊命を前にした半霊命がみせる感覚に酷似していた。それはつまり、目の前にいる存在と自分達にそれだけの神格の差があるということの証ともいえた
(まさか、あれは――いや、あの人は……っ)
《紅蓮といったな》
その時、闇の中にいる影が口を開き、魂の髄にまでのしかかってくるような重圧を感じさせる声で語りかけてくる
低すぎず明らかに男のそれだと分かるその声音はどこまでも穏やかなもの。しかしそれを聞いた紅蓮は無意識に平伏してしまいそうな威圧感と威厳を感じていた
《我らの話を聞いてどうするかはお前の自由だ。元々この接触は、誰にも――奏姫はもちろん、反逆神にさえ知られていない。そして、お前が我らの提案を断った時、ここでの記憶は失われる》
あまりの圧迫感に喉が詰まったように声を出せずにいる紅蓮に構わず、闇の中の影が淡々とした口調で語りかけてくる
その口から語られることは、おおよそ信じ難いものではあったが、紅蓮はその言葉に偽りがないことを確信していた――否、むしろその影の正体が自分の予想通りならば、当然のことだと受け入れていた
《よく聞くがいい――》
「――交渉成立だな」
そして、影から語られた話が終わった頃、そういって笑みを浮かべたゼノンの視線の先にいる紅蓮には、話を聞くまで浮かんでいた警戒心や敵意がなかった
「あぁ」
ゼノンの言葉に承服の意を込めた言葉で紅蓮が応じると、闇の中に潜む影がゆっくりと手を伸ばす
「『破滅播種』」
まるで世界の終わりを告げるかのような厳粛で厳かな声音と共に、世界に生じた裂け目の向こう側から送り込まれて来た〝闇〟が紅蓮へとまとわりつき、その存在の奥へと染み込んでいく
「ぐ、ぐ、ううう……ッ!」
魂――存在の奥底にまで浸透してきた闇によって自分が作り変えられていく感覚に、紅蓮は苦悶の声を上げる
《期待しているぞ、紅蓮――いや、『スレイ』。我らが神の復活のために》