朱い泪
異変と異常を司る病の神たる異端神「罹恙神・ペイン」。――その眷属たるユニット「感染者」には、他の同属と融合することで異常の力を悪化させる〝合併症〟ともいうべき能力があった
一つの異常で死に至ることはなくとも、無数の異変が積み重なることでそれは絶命の力として高まっていく――そして、無数の感染者と融合し、その凶悪さを増したそれが、火暗と緋毬の前に立ちはだかっていた
「なんて凶々しい力だ」
「病の眷族も馬鹿ではないわ。あなたが、この戦場でも厄介な人物だということが分かるのでしょう――現に、刈那様達のところにいる奴らも同様に凶化しているもの」
罹恙神と全く同じ姿だった最初とは全く異なる二足歩行の異形の姿となり、異変と異常――病という命を侵し、死へと誘う悍ましい力を体現したかのようなそれへと変貌を遂げた合併症感染者を前に、火暗と緋毬は眼前の病から視線を外さずに言葉を交わす
病の神たる罹恙神とその眷属には理性がないと言われているが、それはある意味で正しく、ある意味で間違っていない
事実、病の神はただそこにある正常に感染し、異常をもたらすことしか考えておらず、心を通わせることができない。だが、心を通わせることができないことは決して言葉が通じないということではない。
これまでの戦いが証明しているように、病の神とその眷属は言葉と心が通じずとも彼ら自身がそれを保有しているのは厳然たる事実
故に、その存在意義のままに病をまき散らす病神達には、一般的な全霊命達が持つそれとは異なる理性と知性があるのだ
眼前の敵を見て分析し、いかにすれば病の力で侵すことができるかを考えて判断し、行動する知性。地獄界王城「鬼羅鋼」の城門前に集まった地獄界と十世界の存在達を病で侵食するために知恵を巡らせることは必然だった
――そうして感染者が最も排除するべきと考えたのが、鬼の原在である刈那や、神器「神差衡」を以って立ちはだかる火暗だった
「神器の相性が悪いからって、弱気にならないでよ」
「誰がだ」
相手の強さと数でその力を変動させるため、融合しても神格の変わらない合併症を相手にするには分の悪い火暗は、冗談めかした声で軽く笑いかけてきた緋毬に不満気に鼻を鳴らす
そんな拗ねた様な火暗の反応に微笑を零した緋毬は、その表情を凛と引き締めて口を開く
「――心配しないで。あなたのことは私が守るわ。だから、私のことはあなたがちゃんと守って頂戴」
全幅の信頼を置いた声音で語りかけてきた緋毬の言葉に笑みを浮かべた火暗は、共に戦う伴侶に一瞥を向けて言う
「下手に触れるなよ」
「えぇ」
複数の異変が一体となった合併症は、一度の攻撃でその数だけの異常をもたらしてくることを身体で確認している火暗の忠告を受けた緋毬は、自分を心配してくれているが故のその言葉に愛おしげに目を細めて答える
瞬間、それを待っていたかのように神速で肉薄してきた合併症感染者が歪み捩じれた突撃槍を振う
異変と異常をもたらす病の力が凝縮された斬撃を鬼力の結界で防いだ赤鬼の番は、同時にその力を刃へと変えて斬撃と共に放つ
放たれた鬼力の波動が合併症感染者の放つ罹痛の力とぶつかり合い、相殺して衝撃をまき散らす
二重の真紅と病闇の力の残滓が折り重なって漂う中、無数に伸びた病みの道が、合併症感染者の身体を運び、火暗と緋毬に全方位から多角的に襲いかかる
「くっ」
「……ッ!」
まるで、距離を取って戦いたい思惑を見通しているかのように積極的に肉薄し、近距離から異変と異常の力を持つ病闇によって干渉することで、病神の眷族は番の赤鬼の鬼力と身体を害していく
さらにそれだけではない。〝増殖〟の力を持つ感染者達はこの瞬間も、まるで自身を複製するようにその数を増やしているのだ
「火暗様! 緋毬様!」
その時、二人の息子である御門、示門と共に少し離れた場所で戦っている黒の護鬼――「椿」の鋭い警戒の声が飛び、それにつられるように視線を向けた火暗と緋毬は、新たに生まれた感染者達が、自分達を融合させ新しい合併症として生誕しようとしているのを見止めて息を呑む
「――っ!」
何体もの眷属が融合し、新しく生まれた合併症感染者達は一体や二体ではない。そしてその全てが無数の感染者達を従えて、一斉に火暗と緋毬に襲いかかる
無数の触手と転移、感染と蔓延の力を駆使して襲い掛かってくる罹恙神と同じ姿をした感染者達と、異形の怪物の如き外見を持つ無数の合併症感染者が一斉に全方位から赤鬼の番へと向かっていった
「く……ッ!」
自分達に襲いかかるおびただしい数の病の神が向かって来るのを知覚と五感の全てで捉える火暗と緋毬は、互いの武器を重ねて鬼力を共鳴させると同時に、その力を一気に解き放つ
永い間離れていたというのに、思念通話など使うまでもなく互いの心を通じ合わせた火暗と緋毬の番が放った共鳴鬼力の波動が、周囲一帯を呑み込んで赤い力で世界を塗り潰す
純然たる滅殺の意志が込められた真紅の鬼力の共鳴が病を吹き飛ばし、破壊の力の奔流を世界に顕現させる
だが、天空に生じた巨大な真紅の力は、何かを患ったかのように所々から黒く染まり、それが広がって染みへと変わり、やがて爛れ落ちるようにして消失させられる
「!」
自分達の鬼力の波動が病の力で殺されたのを見て取ったのと同時、火暗と緋毬の周囲に漆黒の道が奔り、そこから何体もの感染者達が一斉に姿を現す
身体さえも切り離しての変幻自在の攻撃。しかも、それを武器で受けてしまえばそれにまで感染してくる特性を持つ凶悪な力の暴風に赤鬼の夫婦は臆することなく迎え撃つ
一本角の夫と二本角の妻が敵を斬り伏せ、互いの背後に迫る病の影から伴侶を守って打ち払う。悍ましく歪んだ武器を躱し、時には力任せに打ち払う二人の周囲には病神の眷族達の身体から零れた血炎が真紅の鬼力と共に舞っていた
(こいつは、傷を負わせた者同士で融合する。なら――)
(一撃で滅してしまえば、融合はできないはず!)
互いに融合する病神の眷族の力を正しく把握している二人は、確実に一撃で殺せるように同等の神格を持つ異形の者達を斬り捨て、撃ち滅ぼしていく
しかし、倒せば倒すほど、殺せば殺すほどのその病の力は二人の身体にわずかづつでも影響を与え、武器を、身体を、力を、魂を穢していく
「母上……っ」
その戦いを地上から見上げる赤の戦鬼「御門」も助成に向かおうとするが、自分達を囲む感染者の群れを振り切ることができず、歯がゆい思いを噛みしめる
共に戦う腹違いの弟「示門」と、黒の護鬼「椿」もまた、各々の武器を振るいながら、御門と同じ感情を抱いて、自分達を周囲に蔓延る異変と異常の化生に力を振るうしかなかった
「――……」
そんな三人の視線を受けながら迫りくる病神の眷族を打倒していた赤鬼の夫婦だったが、緋毬は蓄積する異変の力に徐々に押され始めていた
その武器である鉄棍はもちろん、鮮やかな霊衣と白い肌までもが所々黒ずんでおり、その存在が病闇の力によって確かに浸食されていることを証明していた
「緋毬」
「大丈夫」
その身を案じて声をかけてきた火暗に気丈に応え、鉄棍を握る柄に力を込める緋毬は、自身に迫る異形の怪物――合併症感染者の歪んだ剣を打ち払ってその柳眉を顰める
「く……っ」
複数の病が融合した合併症の攻撃は、一撃で複数の異常をもたらしてくる。その力を自身の存在そのものである武器で受けた緋毬は、己の力を穢す病の力に当てられていた
しかし、そんな病闇の力による浸食を振り払うように表情を引き締めると、渾身の力を振り絞って合併症の感染者の胸の中心を鉄棍で貫く
「――!」
身体を穿ち砕き、また一人病神の眷族を倒したのを確信した瞬間、緋毬は自身の腹部に熱い衝撃が奔ったのを感じる
それにつられるように視線を落とすと、その腹には歪み捩じれた突撃槍の矛先が突き刺さっていた。そしてその刃は、今まさに自身が打倒した合併症感染者の身体から生えていたのだ
(自分を、別の仲間に感染させて……!)
「く、ああっ」
病神の眷族達は、自身の病闇の力によって身体の一部、あるいは全体を移動させる〝転移〟の能力を有している
自身が仕留めた敵が、別の感染者によって感染し、その身体を運んでいたのだと理解した瞬間、突き立てられた歪槍から侵入した病闇の力が、内側から緋毬を攻撃する
「緋毬!」
歪槍から注ぎこまれる異変の力によって侵された鬼力が暴れ、それによって構成された自身の身体が炸裂したように衝撃を生じさせると、緋毬は、噴き出す血炎と共にたまらず苦痛の声を上げる
命を落としたことでその身体が力の粒子となって崩壊していく合併症感染者の背後に、感染していた別の合併症感染者が顕現し、緋毬を貫いた槍を引き抜く
「く……っ」
病に侵され、苦痛に表情を歪める緋毬を楽しむように、そこに顕現した合併症感染者は、更なる痛みを与えるべく、一度引き抜いた歪槍を再び突き立てんとする
「――っ!」
自身へと迫る合併症感染者の歪み捩じれた突撃槍の矛先が迫り、自身の身体へと吸い込まれていく未来を幻視した緋毬は、しかし次の瞬間温かな温もりに包まれる
それが、懐かしくも忘れ得ない火暗の温もりだと気付いた瞬間、緋毬は大きくその目を見開く
「あなた……」
戦慄に見開かれた緋毬の目に映るのは、自分を庇ってその身に歪み捩じれた突撃槍の矛先を突き刺された火暗の姿。
その返しに、合併症感染者の頭部から腹部までを剣で両断している火暗は、腕の中に抱きしめた緋毬に優しく微笑みかけると、その身体を鬼力で包み込んで下で戦っている示門達の許へ向けて投げ捨てる
「っ!」
それに声を上げようとした緋毬は、背を向けた火暗の背に刻み付けられた無数の傷を見て言葉を失う
自分を助けるために、どれほどその身を犠牲にして駆け付けてくれたのかを理解してしまった緋毬が顔を歪める中、優しく微笑む火暗の姿がすかさず襲い掛かって来た病神の眷族達と病闇の力によって覆い隠される
「ぁ、あああああっ!」
賢明に抗うも、無数に集って来た病神の眷族に呑み込まれていく火暗の姿を目の当たりにした緋毬は、悲鳴とも叫びともつかない声を上げて、その塊へ向かって突進していく
「母上!」
「――っ」
それを見ていた御門が声を上げ、示門、椿も息を呑んで視線を向けるが、自分達が相手にしている感染者を振り切ることはできない
そんな息子たちの視線と声など聞えていないかのように、身の丈にも及ぶ鉄棍を振り回す緋毬は、なりふり構わず感染者に呑み込まれた火暗――愛する伴侶の許へと突き進んでいく
当然、それを見逃す感染者達ではない。火暗を呑み込んだ一団、そしてそれとは別の感染者達が手傷を負いながら向かって来る緋毬へ向けて、罹痛の病闇が凝縮された触手のような力を槍のようにして放ってくる
「っ!」
全方位から容赦なく襲いかかる病闇の触手槍を全霊の鬼力を込めた棍の一閃で弾き飛ばし、砲撃で迎撃する緋毬だが、その全てを捌き切ることはできず、その身体を病の力が傷つけ、血炎を上げさせて身体を浸食していく
その眼前で、火暗を呑み込んで巨大な塊となった感染者達が地上へとゆっくりと垂れ落ち、世界さえも異変に侵す病の力をまき散らす
「母上!」
正常を侵す異常の力によって生あるものを死へと近づける罹痛の力によって世界が死んでいくのを見据え、火暗を呑み込んだ病神の眷族達の塊を見据える緋毬を横から神速で飛来した御門が抱えて飛ぶ
「――っ!」
瞬間、先程まで緋毬がいた場所を病闇の力が駆け抜けていく
あと数舜助けるのが遅れれば、緋毬はその病神の力の餌食になっていただろう
「御門、火暗が……」
「分かっています! ですが――」
腕の中で切羽詰まった悲壮な声を上げる母の声に答えた御門だが、火暗を呑み込んだ感染者達の塊へ迂闊に近づくのは死を意味するのは明白
今袂を別つているからといって、実父である火暗を見殺しにするもりはないが、そのために自分や母の命を危険に晒すことなどできなかった
「くそ、うじゃうじゃと……」
「示門!」
母を抱えたまま一瞥を向けた御門は、病神の眷族達と戦う示門と椿の姿を捉えるが、二人もまた増殖する能力をも備えたおびただし数の感染者を前に攻めあぐねているところだった
「――ッ! 火暗……っ」
火暗を呑み込んだ病神の眷族の塊を見据えていた緋毬は、自身の魂の根源に奔った刺すような痛みと不安感に、その顔を青褪めさせる
伴侶として契りを交わし、互いの命を共有していることによって火暗の存在を世界の誰よりも強く感じている緋毬がみせたその反応が何を意味しているのかを否応なく理解した御門は、なにもできない現状に苦々しげに歯噛みする
(くそ……ッ、なにも、できないのか……っ!?)
父を助けたい意志とは裏腹に、自分を守るだけで精一杯の御門が成す術もなく己の無力を呪うように、緋毬、示門、椿もまた同様の思いに駆られていた
「あ……っ、あ、ぁ」
火暗の伴侶である緋毬が病神の眷族達の濃密で凶々しい病闇の力を前に、絶望にその表情を染め上げる
「――ッ!」
瞬間、漆黒の斬閃が閃き、天を切り裂く純黒の力によって塊になっていた感染者達が一掃される
「な……っ!?」
突然の出来事に目を瞠った示門が視線を向けると、その視線の先には先の黒閃斬を放った人物が悠然と佇んでいた
異変と異常をもたらす罹痛の力が世界を満たしているために、今この瞬間までその存在を気取られることのなかったその人物はその目を細めて不快感をにじませると、柔らかな表情で御門や緋毬、示門らに語りかける
「遅くなったな」
額から伸びる一本の角と、黒い髪と霊衣の羽織を世界を蝕む病風に揺らめかせて佇むその人物は、手にした黒太刀を下ろすと厳かな声で示門達に語りかける
「黒、曜様……」
その顔に険しい表情を浮かべた人物――地獄界を総べる最強の鬼にして、黒の六道たる原在「黒曜」の姿に、緋毬は思わずその名を口にしていた
その傍らには、黒曜と共に九世界王会議へと赴いた紫の六道――「桔梗」が静かに佇んでおり、地獄界を蝕む病変にその眼差しを顰めている
「……っ」
安堵とも虚無感とも取れる声音と視線で自分達の王の姿を瞳に映した緋毬は、次いでその視線を虚ろに動かして先の黒き一閃によって打ち払われた場所へ向ける
黒曜の先程の一戦によって集まっていた感染者が討ち滅ぼされたその場所には、全身に黒い痣のようなものが刻み付けられた火暗が力なく横たわっていた
「ぁ……あぁ……っ」
神能によって顕現する身体に膨大な病の力を注ぎ込まれた火暗は、その存在を蝕まれ、限りなく死に近い領域にまで異変に侵されていた
力なく倒れている火暗を双眸に映す緋毬は、御門の手を離れると、その足でゆっくりと愛しいその人の許へ歩み寄っていく
「会議も終わって帰ってこようと思ったら、何かの力に阻まれて空間転移もままならない。仕方なくその影響のない座標まで空間をずらして帰って来たのだが――」
異変と異常の神能に喰われ、地面に横たわったまま起き上がってくる気配のない火暗の許へ歩みよる緋毬から再び一体に増殖を始めた感染者へと視線を向けて、その名と同じ黒曜の瞳を抱く目を鋭くする
九世界王会議のために地獄界を離れていた黒曜は、罹恙神の異変の力によって世界が歪められ、通常の空間転移を阻まれたことで、鬼羅鋼城へ帰還することができなくなってしまっていた
そのため、病の浸食が及んでいない座標へと一旦移動し、そこからここまで移動してきたのだ。結果的にそれが感染者の軍勢に呑み込まれた火暗を救う結果となったのだが
「随分と好き勝手をしてくれたようだな」
低く抑制した声で憤りを露にした黒曜は、自身の住まう王城、そしてこの地獄界そのものを汚染し、増殖する病神の眷族を睨み付ける
「大元はあそこか」
そのまま視線を動かした黒曜は、その知覚によって鬼羅鋼の敷地内で噴出する病神の力を捉える
神位第六位の神格がぶつかり合う戦場を見据えた黒曜は、感染者の塊から解放された火暗に駆け寄った緋毬に声をかける
「緋毬」
「はい」
その存在を異変と異常の力に蝕まれ、血炎とは違う漆黒の斑に侵された火暗の傍らに膝をつく緋毬は、戦場を見たままで語りかけてくる鬼の王の言葉に神妙な面差しで応じる
「そいつは、十世界で鬼達を総べる立場にある重要人物だ。もはや虫の息ではあるが、確実に最期を見届けろ」
あえて冷たく突き放すような言い回しをしているが、それが「その死を看取ってやれ」であることを、緋毬はその声音や言葉遣いから感じ取っていた
「……はい」
しかしそれは、王からの死亡宣告に等しいものでもある。自身の知覚でも感じ取っていたことだが、改めてその残酷な事実を告げられた緋毬は、俯いて王の背中へ視線を向ける
そこに横たわっている火暗は、罹痛の力によって浸食され、神能で構築されたその身体――存在そのものを汚染されている。そしてそれは、鬼の再生力を以ってしても治癒する気配はなく、すでにその命が死の領域へと踏み入れていることを証明していた
「桔梗、ここは頼む」
「かしこまりました」
一瞥も向けずに淡泊な声音で黒曜に任された桔梗は、それだけで王の意図を察すると、恭しく目礼を返して応じる
「〝八咫電〟」
厳かな声音と共に紡がれた桔梗の声に呼応するように、その神能が武器として顕現する
それは、両の手の携えられた紫金の水晶の意匠が施された一メートルほどの撥状の棍と、その背後に浮遊する八つの円筒――金色の装飾で覆われた鼓を思わせる飛翔体だった
自身の武器を顕現させた桔梗が紫棍撥を掲げると、まるで意志を持っているかのように八つの鼓盾が飛翔し、全方位へとその面を向ける
それと同時に桔梗が裂帛の気合が込められた声と共に紫の鬼力を注いだ撥棍を一閃させると、その力を受け取った八つの鼓盾から極大の砲撃が全方位へ向けて放たれる
桔梗の鬼力と同期し、それを放出する力を持つ鼓盾が放った紫色の鬼力砲が神速で世界を穿ち、感染者達を薙ぎ払っていく
「――……」
桔梗がその力を以って、一帯に蔓延る病神の眷族と戦闘を始めたのを見て取った黒曜は、静かに目を伏せて視線を移動させる
「……愚かだな」
病神の力に侵され、その身体に黒い斑を刻み付けて血炎を思わせる黒煙を立ち昇らせながら緋毬の膝の上で横たわる火暗を一瞥した黒曜は、憂うように小さく呟いて軽く地を蹴る
当人たちに聞こえないように物憂げに呟いた黒曜は、次の瞬間には表情を引き締めて自身の進路を遮るように集まって来た感染者達を睨み付ける
地の底から響くような呻き声に似た声を上げ、歪に歪んだ武器を携えた感染者と合併症に、黒曜はその速度を緩めることなく、城内で渦巻く神の力へと向かっていく
いかに最強の全霊命たる原在であろうと、この数の病神の眷族を侮ることはできない。しかし、そんなことなど意にも介していないと言わんばかりの表情で感染者達が集まる病巣へと向かっていく黒曜は、王としての誇りをもってその力を解き放つ
「〝終死末〟!」
瞬間、黒曜の身体から純黒色の滅闇が解き放たれる
それは、鬼の原在「六道」の筆頭にして最強の力を持つ地獄界王黒曜が有する神威級神器。――神位第六位〝神〟と同等の神格を得る神の欠片の力の発現だった
「オオオオッ!」
神器によって得た神の神格と全てを滅ぼす力をその武器である太刀に注ぎ込んだ黒曜は、世界を侵す病神の眷族達を刃の一振りと共に消滅させる
ただの一撃で無数の感染者達を葬り去ってみせた黒曜は、そのまま神々の戦場へと向かっていくのだった
※
「――私は、知っていたわ。あなたは、私達や、あの人達を選んだのではないのよね」
王として、世界を脅かす異端神を討ち滅ぼすべく神の力を発現させた黒曜の姿が遠ざかっていくのを知覚と視界の端で捉えながら、しかしそのようなことは気にも留めずにいる緋毬は、自身の膝を枕にして横になる火暗へ涙を押し殺したような声音で優しく語りかける
痛む心でようやく自身の腕の中に帰って来てくれた愛しい人を見つめる緋毬は、その白魚のような指で火暗の赤い髪を優しく梳くように撫でる
「あなたは私達も、あの人達も守ろうと――家族になろうとしてくれていた」
そう言って語りかけた緋毬は、先程まで奮戦していた自分達に代わり、病神の眷族と可憐に戦う紫の六道によってこちらへ向かうように指示された御門、示門、椿の存在を見てその目を細める
自分だけではなく、子供達にも父の死に目を看取らせてくれようとする桔梗の心遣いに感謝しながら緋毬は、一時も愛しい火暗から目を離さずに言う
「私達を置いて十世界に行ったのは、私達を守るためでもあったのでしょう? 彼女達のために私達まで世界に叛逆させるわけにはいかないって、そう思ったのよね」
指先で火暗の赤い髪を弄び、愛おしげに目を細めて語りかけた緋毬は、異常の力によって蝕まれたその姿に唇を引き結ぶ
「本当、ひどい人」
いつの間にか歩み寄り、たったまま自分達を見守っている御門、示門、椿の存在を感じながら、緋毬は火暗に泣いているような笑みで囁きかける
「私達を置いて、十世界に行ってしまったと思ったら、今度は私を置いて手の届かないところへ行ってしまうなんて……」
声を震わせ、絞り出すようにして言葉を紡ぎ出す緋毬の言葉に、その膝に頭を預ける火暗もまた視線を向けたままで受け止める
その声に、その言葉に込められているのは剥き出しの緋毬の心そのもの。火暗に残され、心を痛めながら戦ってきた傷ついた一人の女の本心そのもの
「あなたはそういう人よ。――でも、でもね……」
誰よりも、火暗という男を理解していたからこそ、緋毬はこの地獄界に留まり、十世界に与した夫と戦う道を選んだ
火暗の願いはたった一つ。緋毬と御門と示門と――もうこの世にいなもう一人の伴侶「綺沙羅」とその忘れ形見である「灯」を含めた家族全員で暮らすこと
そのために十世界に入り、自分達が暮らせる世界と息別れた娘を求めた。だがそれは、決して緋毬や御門、示門より灯が大切だったからではない。どちらも選べないほどに大切だったからこそ、孤独に泣いている愛娘のために、自身を捧げたのだ
闇の全霊命は、最も大切なもののためにそれ以外を切り捨てることができる。だが、それを決して望んで、当然ように行うわけではない。最も大切なものを守るために、守れないものを心を痛めながら切り離していくのだ
そして、選ばなければならないものが、どちらにも決められないほどに大切であったからこそ、火暗は苦悩し、全てを守らんとする決意を固めた――〝世界〟よりも、家族を選んだのだ
「私は、一緒にあなたに〝俺と一緒に来い〟って言ってほしかったわ」
嗚咽にも似た声でその心の内を吐露した緋毬は、膝の上で横たわり、もはや自分達の手の届かない死を迎えようとしている火暗に歪んだ表情で訴える
火暗がそう望んだように、緋毬もまた家族で暮らすことを望んでいた。もし、火暗が求めてくれたなら、共に十世界に身を置くことを緋毬は躊躇わなかっただろう
そんな緋毬の気持ちを見透かしていたからこそ、そして独りよがりに愛する者を守ろうとしたからこそ、火暗は一人で道を歩んだ
だからこそ、緋毬はそれが恨めしくてならない。ようやく自分の許へと帰って来てくれた愛する人が命尽きようとしているのだから、尚の事だ
「きっとあなたは、そんなことできないでしょうけど」
傷つき、弱った緋毬の姿をその膝を枕にして見上げる火暗は、たまらずに力の入らない腕を伸ばす
「緋毬」
罹痛の力に蝕まれ、黒く変色した手を伸ばした火暗は、自分のそれとは違う緋毬の鮮やかな赤い髪を指先でかき分け、白い肌に触れる
互いにパートナーの事を分かっていたがゆえに、道を別かつことになってしまった番の赤鬼は、ほんの一時の懐かしい触れ合いに心を委ねる
「すまない」
その手を緋毬が取り、病闇に浸食された指先を頬に押し当てて声を震わせる姿に、火暗は謝罪の言葉を向ける
愛する者達を守るために、最も安全な場所に残してきたことを後悔するつもりはない。しかし、それが緋毬達を傷つけてしまっていたこともまた事実
たった一つの些細な願いのために、光の存在と会い合い、その間に子をなして禁忌に染まった自身の存在を賭けた火暗は、それすら成せずに消えていく自身の存在を感じながら、愛する人に感謝と謝罪、そしてその心を伝える
「……仕方のない人」
そんな火暗の言葉の真意を正しく受け取っている緋毬は、目を細めてそう言うと、今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべる
「でもいいのよ。だって私は――いいえ、私達は、そんなあなたを好きになったんだもの」
病神の力に侵された火暗の手を両手で包み込むようにして握り、自身の頬に押し当てなが慈しみの情に満ちた声で微笑む
その〝私達〟という言葉が、緋毬自身と、もう一人の伴侶である綺沙羅を表しているのは明白。一人の女としての共感も孕んだその言葉は、禁忌となる天上人を火暗の伴侶として、自身と対等以上の関係だと認めるものでもあった
「あなたは、私達のために命をかけてくれた。けれど、私はあなたのために命はかけてあげない。待って……ずっと、向こうで待ち続けて、私の気持ちを少し思い知るといいわ」
「……あぁ」
その言葉に虚を衝かれて目を丸くしていた火暗は、流れるように続けられた皮肉めいた緋毬の言葉に、噛みしめるような声で応じる
その言葉が、そのままの意味ではないことなど手に取るように分かる。決して良い夫ではなかったであろう自分を今でも変わらずに想いを向けてくれる緋毬を、火暗は感謝と深い愛情で
受け入れていた
「示門。こっちへ来い」
しばらくそうやって緋毬と視線を交わしていた火暗は、自身の身体がわずかに揺らぎ、形をおぼろげにしたのを見て取って、示門を呼びよせる
「手を……」
自身の許へ歩み寄り、膝をついて覗き込むようにしている示門へと手を伸ばした火暗は、その手を取るように促す
介添えするように支えた緋毬に助けられ、示門と手を握り合った火暗は、それを介してその身に宿っていた力を受け渡す
「〝神差衡〟をお前に託す」
「!」
一瞬の後に、自身の中に何かが入ってきたのを感じ取り困惑した示門は、それに対する答えを受けて目を瞠る
神器「神差衡」は、あまたある神器の中でも、比較的その能力を使える使用者が多く選ばれることでも知られている
まして示門は、〝最も忌まわしきもの〟の片割れ。禁断の愛情で結ばれた天上人との間に生まれた生まれるはずのない存在にして、火暗と全く同じ神格を持っている。ならば、神差衡が同じように使えるのは何ら不思議なことではない
「――頼む。家族を、守ってやってくれ」
握りしめた手を介して渡された神器に、自身の中に二つ目の心臓が脈打つような感覚を覚えているであろう示門を見据えた火暗は、自身のただ一つの願いを託す
他の誰でもない、この世で唯一光と闇の全霊命の間に生まれた「最も忌まわしきもの」の片割れである示門だからこそ、火暗はそれを希う
自分が守れなかったものを同じように失わせないために、少しでも幸せになってもらうために、示門にとって大切な者を守る力を残すことが今自身にできる最良のこと
「俺は、あんたの思うようにはできない」
火暗から神器と共にその思いを託された示門は、その輪郭がおぼろげになり始めた父の姿を見据えて、淡白な声で言う
それは、火暗が十世界に入ってまで成そうとしていた、天上界にいる愛娘にして示門の双子の姉「灯」と共に暮らせる世界を作るという願いを引き継ぐことはできないという示門の答えでもあった
「……それでいい。お前はお前だ」
しかし、そんな示門の答えを見越していたかのように、火暗は小さく笑ってその意思を肯定する
自分が守りたかったものと示門が守りたいものは違う。それが、最も忌まわしきものの片割れとしてこの世に生を受け、これまで生きてきた示門が出した答えならば、それこそが示門がこの世界でこれからも生きていく力となる
心から安堵したような表情で語る火暗の面差しに優しく見守ってくれる父親の在り方を感じ取った示門は、沈痛な表情を浮かべて強く拳を握りしめる
「もっと早くこういうことしろよ……クソ親父」
これまで家族のために自分一人で戦ってきた火暗が最期の時になってみせたその姿に、示門は絞り出すような声で言う
これまではその背を見ていることしかできなかった父が、自分と肩を並べ、あるいは背を押してくれるような感覚――それは、自分が火暗に認められた証のように示門には思えた
「御門」
おそらく示門がずっと求めていたものを、今頃になってようやく与えてやることができな滑稽さに自嘲めいた穏やかな笑みを浮かべた火暗は、次いでその視線を自分と緋毬の息子である御門へと向ける
「はい」
「母さんたちを頼む」
御門に対して、火暗が語れることは少ない。もう、御門は親の手を離れて立派に一人で生きている〝男〟だ
そんな御門だからこそ、自分がいなくなった後のことを、そして自分が残していってしまう愛する人を任せることができる
「はい」
示門にしたように何かを託すのではなく、任せていく火暗の思いを正しく受け取った御門は、それに息子として、一人ん男として恭しく答える
その言葉を聞いて安堵したように一度頷いた火暗は、最後にこれまで家族のやり取りを
見守っていた椿へと視線を向ける
「息子たちを頼んだ」
「はい」
ただ一言、そう頼まれた椿は、その言葉に敬意を以って応じる
火暗が、示門と御門に対する自分の想いについてどこまで知っているかは分からないが、家族が別れを交わす今この場にいることができているということに椿は、自身が認められていると感じ、誇らしささえ覚えていた
「――……」
別れの言葉を交わし、満足したように小さく息をついた火暗は、緋毬の膝の上で力を抜くと、潤んだ赤瞳で見つめてくる伴侶に見守られながらゆっくりと瞼を閉じる
「俺にしては上々な最期だ」
緋毬と御門、示門、椿に見守られながら、その膝の上で瞼を閉じた火暗は、ゆっくりと崩壊を始めていく自身の命の終わりの時に身を委ねる
こうして家族に看取られて死ぬことができる。それは、多くの全霊命が迎えられない最期だ
散々自分の願いのために家族を振り回してきた自分が、その家族に惜しまれながら逝くことができることがどれほど幸福なことなのか――火暗にはその幸福がよく分かっていた
「お別れだ」
瞼を閉じ、迫りくる命の期限に身を任せた火暗の言葉に答えるように、その身体が崩壊を始め、鬼力の粒子となって世界に溶けていく
愛する妻、愛しい子供達、そして新しい家族に見守られながら火暗は、自身の死を安らかな笑みと共に受け入れる
(今いくぞ。長く一人にして悪かったな……綺沙羅)
意識が世界に溶け、その存在が失われていく中、火暗は自分達よりも先にこの世を旅立ったもう一人の伴侶を想う
こうして、火暗は、愛する伴侶の膝の上で永遠の眠りを迎え、もう一人の伴侶の許へと旅立っていった――。