神の寵愛者
「――……」
痛みに耐え、感情を押し殺すように可憐な唇をつぐんで顔を伏せた黒髪の淑女――「撫子」は、遠くに見える地獄界の居城「鬼羅鋼」城の敷地内に生じた純黒の闇をその双眸に映す
「お前の言ったとおりになったな」
思念通話によって桜と対話し、先程あらかじめ御守りの形として託しておいた「神器・アンシェルギア」を起動した撫子は、その声の主に視線を向けて小さく苦笑めいた微笑を浮かべる
撫子の隣で事の成り行きを見守っているのは、その伴侶である「ロード」。両腕を組み、地獄界の中枢から吹き荒れる病の神の力をはらんだ風に長い黒髪を揺らすロードは、その真意を読み取れない表情を浮かべながら目を細める
「『神の寵愛者』。――〝神の伴侶〟か」
神器を介し、神魔とその神能を共鳴させている桜を遠巻きに見据えたロードは、淡白な声で呟く
「通常、神と交わった者がその力を得るが、お前の妹の場合すでに〝全てを滅ぼすもの〟――つまり、神魔の存在を受け入れていた。
あのまま、神魔が完全に覚醒すれば、魂に宿っていた力が神のそれとなった影響によって消滅してしまうのは目に見えていたからな」
桜に渡された神器「アンシェルギア」は、神の寵愛者――その名の通り、神の伴侶となり、契りを交わした者の証。
伴侶となった全霊命は、存在を共有し、互いの命を共鳴させることができるようになる。
伴侶という以上、当然後天的にしかその力の受け渡しがおこなれることはないのだが、桜の場合その相手である神魔――全てを滅ぼすもの――が、未覚醒のままだったために、悪魔の魔力として存在を共有してしまっていた
しかし、このまま神魔が完全に覚醒すれば、すでに桜の中に浸透し、神透しているその力が一気に本来の神格を得ることになってしまう。いかに神の写し身にして、神に最も近い全霊命であろうと、神そのものの神格と共鳴してしまえば、その力に存在を蝕まれてしまうのは必然。
アンシェルギアとは、神の伴侶となった者が神と存在を共鳴させるための干渉の媒介となり、神の力を受け入れるための緩衝となる力を持つものなのだ
「ですが、少々桜さんも急ぎ過ぎですね。アンシェルギアの本当の力はそうやって使うのではないのですから」
ロードの言葉に耳を傾けていた桜は、物悲しげな笑みを浮かべて視線を戻すと、神魔と魔力を共鳴させた妹を見て口元を綻ばせる
淑やかに微笑みながら、どこか涙をこらえているような表情と声音で言う撫子に、ロードは無言のまま目を伏せてその視線を追う
「なに。後で教えてやればいいだろう。――今のままでも十分だ」
桜はこれまでと同じように共鳴を行ったが、アンシェルギアの真の能力はそれとは異なるもの。
正しくその能力を使うには、今の桜の使い方では不十分だ
しかし、それを差し引いても、今の桜が神魔の力の影響を受けているのは明白。それが分かっているロードは、それを特に気にも留めずに撫子に優しい声音で語りかける
「何しろ神魔は、全てを滅ぼすもの――『もう一人の破壊神』なんだからな」
※
「魔力共鳴!」
その左手薬指に顕現した神器「アンシェルギア」を介して魔力を共鳴させた桜と神魔から、純黒の魔力が放出される
共鳴によって強化された魔力は一点の曇りもない純黒の暗黒となって迸り、世界を吞み込まんばかりのその力を振るう
「っ!」
(前よりも、ずっと魔力が強くなっている!? これはもう、下手をしたら〝王〟よりも――)
桜から放たれる共鳴魔力を知覚した瑞希は、その神格の高さと強大さに驚愕を覚えてその麗悧な目を軽く見開く
つい先日、地獄界に来たばかりの頃に知覚した神魔と桜の魔力共鳴を遥かに超える神格を得たその力は、最強の全霊命である原在すら凌駕しているのではないかと思えるほどだった
(いえ、それよりも――)
神魔と桜の魔力共鳴を知覚する瑞希は、その瞳に険な光を灯して、世界を塗り潰す暗黒の力を見据える
「――……」
(かなりの神格だな。……だが、それ以上に妙だ。魔力の中に、何かがある)
知覚してもその全容を掴み切れないような、どこまでも深く暗い闇を思わせる共鳴魔力の奔流を肌で感じながら、厄真はその眉を顰めて思考を巡らせる
力を共鳴させた桜から放たれる先程以上の神格を持つその魔力は、魔力でありながらなにかが違うことを知覚が厄真へと訴えかけていた
いかに神能を共鳴させようと、これまで持っていなかった能力や特徴を備えることなどないのだが、純黒の力の奔流から感じられるその「なにか」は、厄真の本能に警鐘を鳴らして居た
(やはり、あれが原因か? そもそもあれはなんだ――!?)
その原因へと思案を巡らせる厄真が真っ先に原因、あるいは要因として考えつくのは、突如桜の左手薬指に出現した銀の指輪にしかない
推測の域を出ないが、おそらく間違ってはいないことを予感しながら、世界の全てを呑み込むかのような黒く黒い純黒の力の中で厄真が口を開く
「なァ。それはなんだ?」
「わたくしにも詳しいことは分かりません。ただ一つ申し上げられることがあるとすれば――」
視線と、軽くしゃくった顎で左手薬指を示唆する厄真の問いかけに、自身のそれを一瞥した桜は淑やかに微笑んで答える
「これは、わたくしがあの方のお傍にいるために必要なものだということです」
撫子から、その指輪が「アンシェルギア」と呼ばれるものであること、「全てを滅ぼすもの」である神魔と共鳴するためのものであることは聞いているが、それ以上のことは聞いていない
先の説明では十分に全てを理解したわけではないが、神魔と共にいるためにこの指輪が必要なのは確かであり、そして桜にとってはそれが全てだった
神魔が何であろうとどうなろうと命尽きるまで共に在り、命の続く限る尽くす――それだけが桜の願いであり、その生き方なのだ
「そうか。なら、調べさせてもらうだけだ!」
その表情を見れば、その心情は十分に伝わってくるが具体性のないその言葉では指輪の正体を掴めないと考えた厄真は、そう言って罹痛の病闇の力を宿す漆黒の魔力を吹き上げる
「オラァアッ!」
次の瞬間、神格が許す限りの神速を以って桜に肉薄した厄真は、全てを滅ぼす滅意とあらゆるものを異常に染める病の力を持つ魔力に満たされた大剣の刃を力任せに叩きつける
あらゆる法則を越え、理を滅する力を持つ斬閃が閃くと同時に、桜もまたその武器である薙刀を振るって厄真の斬撃を弾き飛ばす
「――ぐッ」
(重ぇ! さっきまでとは段違いの力だ)
共鳴していなかったとはいえ、先程までとは別人のような神格と威力を持つ桜の斬撃の衝撃を大剣の刃を通して感じ取った厄真は、顔をしかめて心中で吐き捨てるように言う
知覚で分かっていたことではあるが、想像以上に強力なその力に歯噛みしていた厄真は、胸を貫くような痛みにつられ、自身の刃が刃毀れしているのを見止める
「――なっ!?」
(俺の武器が、こうも簡単に――!?)
自身の存在、神能の戦闘顕現である剣が先の一合で刃毀れしているのを見止めた厄真は、信じ難いその事実に目を見開いて驚愕を露にする
全霊命武器はその持ち主の神格と心の強さに比例する。そのため神格に極端な開きがあったり、精神的な迷いでもない限り簡単に破壊されることはないのが常だ
にもかかわらず、厄真の武器は共鳴して強化されているとはいえ、さして神格に開きのない桜の攻撃によって破損していた
「――ッ!」
自身の武器が破壊されたことで存在にまで損耗を負った厄真が口端から血炎を零す中、さらに舞うように振るわれた追撃の一閃がその首筋を掠める
本能で危険を察知し、紙一重でその斬撃を回避した厄真は、病闇と混じった魔力の斬撃を桜へと叩き付けて、それを目眩ましにして後方へと飛びずさる
「っ!」
しかし、完全に回避しきることができずその首筋に一筋の横一文字の傷を負った厄真は、そこからうっすらと血炎を断ち昇らせながら息を呑む
「傷が、治らない……!?」
その身に宿った神器「永遠存在権」によって永遠の命を得た厄真は、命を落とそうとも、欠片も残さずその存在を消滅させられようとも即座に復活することができる。その復活能力は、もはやこの世の理の範疇にない
故に本来なら、先程桜につけられた傷も一瞬で復元して完治するはず。――だというのに、その傷は一向に回復する兆しを見せていなかった
(神器の力が働いていない!? ……いや、永遠存在権の力を無効化した!?)
その理由を思案した厄真の脳裏に浮かんだのはたった一つの可能性。あり得るはずがないというのに、それ以外には考えられないたった一つの理由だった
「馬鹿な! 神の力を無効化したとでもいうのか!?」
そして、その理由へ思い至ってしまった厄真は、恐慌に似た感情のままに思わず声を荒げて言い放つ
神器の力が働かないのならば、その理由は神器の力が働いていないとしか考えられない。しかし、それは同時に一階の全霊命に過ぎない桜の力が、欠片でしかないとはいえ〝神〟の力の一端に打ち勝つ力を示したことの証左でもあった
そしてその時、さらに追い打ちをかけるように信じられない事実を前に吠える厄真の視線の先で、極純黒の力が吹き上がり、そこに集まっていた感染者達を滅びの闇で呑み込む
「っ!?」
「神魔様」
全てを滅ぼす純黒の闇の力によって、病神の眷族達が一瞬にして消滅するの知覚し、目を見開いた厄真はその中から立ち上がる影に慄く
(馬鹿な、一瞬であの数の感染者を……)
相手の神能に対して感染し、異常をもたらす病状を変化させる罹痛の力を持つ感染者達が成す術もなく一瞬で滅ばされたことに驚愕を禁じえない厄真とは対照的に、それを感じ取った桜は淑然としたその美貌に安らかな微笑を浮かべる
「傷が……」
(治っている)
そして、それを見ていた瑞希は、病神の眷族を一刀の下に斬滅してみせた神魔の姿を見て、思わず息を詰まらせる
神魔の身体には、先の霊雷との戦いで刻まれた深い傷があった。全霊命としての治癒力を以ってしても完治に遠い瀕死の傷が、魔力共鳴によって完全に消え去っている事実に瑞希は驚愕を禁じ得ない
「神魔さん……」
「大丈夫。詩織さんはここにいてください」
魔力の結界の中、完全に復活を遂げた神魔の背を呆けたような表情で見ていた詩織は、背中越しに向けられた普段通りの微笑に安堵の息つく
そして、背後に庇った詩織に優しく微笑みかけた神魔は、その表情を引き締めると手にした大槍刀の切っ先を下げて、ゆっくりと前へ歩みだす
「ッ、馬鹿な!?」
詩織を魔力の結界に残したままそこをすり抜け、純黒の滅闇と化した魔力を放ちながら平然と佇む神魔に戦慄を覚えた厄真は、そのままよろけるように数歩後退する
全霊命の力である神能は、その神格に等しい事象を純然たる意思の力によって制御している。そのため、聖人の理力のような一部の例外を除けば、複数の事象を発現するために意識を振り割らねばならなくなってしまう
しかし、今の神魔は詩織を守る結界を維持死ながらも、その力は微塵も衰えることはなく、十全たる力を振るうことができるであろうことが見受けられる。しかしそれは、悪魔の神能である〝魔力〟の力の範疇を越えたものだった
「お前達は、一体なんだ!?」
魔力――悪魔としてあり得ないことを平然と成す神魔と、不死の自分を害してみせた桜へと交互に視線を向けた厄真は、切羽詰まった声で言う
その抑制された声音は、自身の混乱を押さえようとしているようでもあり、神魔と桜の特別な力を見極めようとする意識をはらんでいた
「結界を維持しているのに、魔力が衰えていないなんて……」
当然のように詩織を結界で守ったまま外へと移動した神魔を見て呟く瑞希の視線に気づいたのか、不意にその金色の視線が返される
「瑞希さん。お願いします」
優しく微笑んで語りかけてきた神魔の言葉に、一瞬その意味を掴みあぐねた瑞希が眉根を顰める中、それに応じるように桜の優しく淑やかな声がその耳に届く
「共に戦ってください」
その声に桜へと視線を向けた瑞希は、薙刀を構えて戦闘態勢を取る姿を見て、先程の神魔の言葉の意図を正しく理解する
それは先程まで桜と瑞希が戦っていた厄真との決着を、傷が治ったからといって自分が戦うことはしないという神魔の意図表示だったのだ
「そう。折角花を持たせてくれるというのだから、お言葉に甘えさせてもらおうかしら」
自分と桜の勝利を確信していてくれる神魔の意志をその言葉から受け取った瑞希は、その想いに答えるべく、手にした剣を構えて厄真に向き直る
想いを寄せる人に信頼されていることを誇らしくさえ思いながら武器を構える瑞希は、自分のこの想いが
伝わることを祈って自身の想い人の伴侶である桜と一瞥を交わした瑞希は、魔力を解放する
瞬間、地を蹴った瑞希は、同時に最高速の神速を生み出し、時間と空間を超越して厄真へと肉薄して斬撃の乱舞を見舞う
二つの剣を流れるように踊らせ、舞うようにあらゆる理を無視した縦横無尽が乱舞し、厄真の斬撃とぶつかり合って魔力の火花を散らす
「不死身になるというのも考えものね。久しぶりに自分の命を脅かすかもしれない相手が現れて、気になって仕方ないのではないかしら?」
「ハッ! 勘違いするんじゃねぇよ。てめぇじゃ力不足ってだけだ」
一撃一撃が世界創世と滅亡を可能にする破壊力を持つ斬撃の舞を、先の桜の一撃によって刃の一部が欠けたままとなっている大剣で弾く厄真は、ぶつかり合う力の残滓を視界に映しながら、挑発するような瑞希の言葉を一笑に伏す
永遠の命を得る神器「永遠存在権」によって不死を得て死への危機感が薄らいでいたのは否定できない。
しかし、今その永遠の命を脅かす存在が現れたからといって、それに必要以上の恐怖など覚えていなかった
戦いは戦い。誰もが等しく死への恐怖と殺すことへの恐怖と戦いながら、己の信念のために力と刃を奮い立たせ振るうことは変わらない。たとえ不死だったとしても、厄真は死線に命を晒すその感覚を忘れたことなど一度もないつもりだった
「――ッ」
その言葉を証明するように、一切の恐れや惑いのない純粋な意志に彩られた力が迸り、一合ごとに瑞希の魂を斬撃の衝撃が揺さぶる
罹恙神の依り代であることで、その異変と異常の力を併せ持つ魔力の奔流が存在そのものである武器を介して自身を浸食しようとする感覚位、瑞希は不快感を得てその柳眉を顰める
《瑞希さん》
「――!」
その時、心の中に響く声に身響かれるように距離を取った瑞希と入れ替わるように、その名と同じ桜色の長髪を翻した桜が厄真へと肉薄し、共鳴する純黒の魔力を帯びた薙刀を一閃させる
「――ぐ……ッ」
(くそ疾ぇ上に、破壊力が桁外れにヤベェ……!)
魔力を共鳴させた桜の神格は、原在と同等以上にまで高まっている。その神格から生み出される神速は、厄真の力で回避しきれるものではなく、何とかその攻撃を防ぐことで精一杯だった
しかもその斬撃の破壊力は純然な意志と神格で形作られている武器を軽々と刃毀れさえ、一合ごとに確かな損亡を厄真に与えてくる
(こんなのと、まともに戦り続けてられるか!)
「オオオオオッ!」
このまま武器をぶつけ合っていれば、直ぐにでも自身の戦う形である大剣が破壊されることを確信する厄真は、咆哮と共に魔力を放出して桜へと真正面から叩き付ける
自身の魔力に宿っている病神の感染さえ一切受け付けない桜に歯噛みしながら全霊の力を叩き付けた厄真は、一旦距離を取るべく後方へと飛びずさる
「っ!?」
自身が放った病原を帯びた純黒の力の奔流が薙刀の一閃によって軽々と斬り滅ぼされる様を双眸に映した厄真は、次の瞬間自身に生じた熱に思わず目を見開く
それにつられるように視線を落とした厄真は、自身の腹から生える二本の刀身を目に映し、いつの間にか己の背後へと移動していた瑞希の姿を睨みつける
「――ッ」
(俺が捉え損ねた!? いくら桜に気を取られていたとはいえ、瑞希からも意識は離してねぇぞ……!)
自身の腹部を貫く二本の刃を感じながら瑞希を睨み付ける厄真は、その心中を焦燥に焦がす
自身の神格を軽々と破壊し、更に神器による不死性まで脅かす桜の力と共鳴して高まった神格に気圧されていたのは間違いないが、厄真は確かに瑞希への注意も怠っていなかった
不死の神器を害せるからこそ、それが囮となる。それが十分に分かっていた厄真は、桜と戦いながらも意識と知覚を張り巡らせ、瑞希や神魔――周辺へも気を配っていた
しかし、その上で瑞希は厄真の注意をすり抜け、自身の身体に刃を突き立ててきた。――その事実が厄真にとっては信じ難いものだった
(まさか、この魔力が俺の知覚まで――!?)
動揺し混乱しながらも、冷静に不意打ちの攻撃を受けてしまった理由へ意識を巡らせていた厄真は、周囲を呑み込んで塗り潰している強大な神格を持つ桜の魔力に思い至る
知覚もまた感覚。大きなものの影に人が隠れれば見えにくくなるように、強大な神格が満ちる空間では、その運だけ他の弱い力を知覚しにくくなる
戦闘状態にある瑞希の神格は、いかに高められた桜の神格の中でも見失うほど小さくないとはいえ、攻撃を受けるまで知覚できなかった理由を未知の力が宿った桜の魔力に見出すのは、決して不自然な結論ではなかった
(だとしたら、この力は一体――)
「ハアアアッ!」
周囲を満たす桜の魔力に思考を奪われた一瞬の隙を衝き、二本の刃から瑞希の魔力が解き放たれ、厄真を身体の中から滅し尽くさんとする
「ぐ、オオオオオッ!」
いかに不死であろうと苦痛がなくなっているわけではない。体内から自身を破壊しつくさんとする魔力の力に苦悶の声を上げながら、厄真は力任せに大剣を振るって瑞希を離れさせる
力任せの斬撃を直前で双剣の柄を離して回避した瑞希は、鼻先を掠めていく刃の軌道を見送りながら、黒い髪をなびかせて後退する
「――!」
しかし、その斬撃によって瑞希を振り払った厄真は、天を衝き、地を震わせ、世界を塗り潰す純黒の力の奔流につられるように視線を向ける
その先にいるのは、その武器である薙刀に全霊の魔力を注ぎ込んだ桜の姿。その名と同じ桜色の髪と純白の羽織をなびかせて淑やかに佇む桜は、厄真の視線を受けると同時に軽やかに地を蹴って肉薄する
神魔との共鳴によって高められた神格の許す限りの神速を以って時間と空間を超越した桜は、その手に携えた薙刀を振るう
神速を以って振るわれたその刃は、速さという概念や事象さえ超えた一閃。その純黒の斬閃さえ残さぬほどの閃きとは対照的に、癖のない長い桜髪と着物状の霊衣を翻らせる桜の姿は、時が止まったような美しさに満ちていた
「――な、ん……!?」
(反応できなかった、だと……)
一連の桜の動きは、厄真の神格ならば決して捉えきれないものではない。現に、先程までは桜と斬撃の応酬をすることができていた
しかし、それであるというのに、今振るわれたその静かな一閃は、厄真の知覚と神格を超越し、反応することさえ許さない斬閃となってその身体を武器ごと真っ二つに両断していた
まるで、神格による防御が一切働かなかったかのような一閃によって、一切の抵抗なく身体と武器を切り裂かれた厄真は、目を瞠って淑やかに佇む桜を見据える
刃を振り抜いた姿勢で留まる淑凛とした可憐でたおやかな桜の姿を双眸に焼き付ける厄真は、斬断された身体がずり落ちて視界が移動していく中、遅れてやってきた死の実感にその目を細める
「ガ――ッ」
(悪いなゼノン……どうやら、俺はここまでみたいだ)
自身の身体同様に斬り落とされた大剣が形を失って消滅し、魂を蝕む痛みと共に血炎を口端から零した厄真は、次いで生じた己の消滅の中で、同志へと思いを馳せる
神器永遠存在権によって、不死と永遠の命が約束されているはずの厄真
に、桜の力は確かな死と、その存在の終焉を与えていく
自らの存在と一体化していた神器が破壊され、その機能を失うのを感じ取った厄真は自身の死の実感を噛みしめながら、己の終わりの時を感じる
(頼むぜ。お前は、やり遂げろよ)
闇よりも深く暗いものに取り込まれ、身体を動かすこともできないまま意識が黒く染まっていく中で、厄真は声にならない声で願う
心の中で同志たる男の姿を思い返しながら、自分達の願いを託した厄真は、視界がぼやけて失われていく様を見届ける
自身の存在が消失していくに伴って失われる視力と視界に自分を殺した桜を映しながら、厄真は己の命が完全に尽きて最期を迎える
その表情には怒りや憎しみといったものはない。ただ、自身の死を受け入れ、自分を殺した桜への賞賛にも似た感情を向けながら、厄真は両断された身体が地面に落ちるよりも早く消滅し、その命を終えたのだった
「――……」
(これが、神魔様のお力)
自身の刃によって命を奪った厄真が完全に消失するのを見届けた桜は、小さく息を吐いて姿勢を正すと、共鳴した純黒の魔力が立ち昇る自身の手へ視線を落とす
自身の左手、その薬指にはまった簡素な銀色の指輪――「アンシェルギア」を映し、神器の力さえ無効化して見せた神魔の力の片鱗を感じ取る桜は、一抹の不安を抱きながら瞼を伏せる
「桜」
「神魔様」
一瞬にも満たないその思案を目を開くと同時に振り払った桜は、歩み寄ってきていた神魔に呼びかけられて微笑む
命を共有しているため、生きていることが分かっていたとはいえ、愛しい人の声と存在をあらためて確かめられたことで、桜の心を穏やかな安らぎが満たしていく
「お疲れ様」
「もったいないお言葉です。神魔様も、お怪我の方はもうよろしいのですか?」
神魔から労いの言葉を賜った桜は、それに恐縮して頭を下げてから、顔を上げて想い慕う伴侶の姿を確認してその身を案じる
神魔の身体には、先の霊雷との戦いで受けた瀕死の傷がいくつも刻まれ、悪魔の再生力を以ってしても癒え切らずに、大量の血炎を立ち昇らせていた
しかし、今の神魔からはその傷の一切が消えており、外見からは怪我をしているようには見受けられない
「う~ん、なんか大丈夫みたい。さっき共鳴したら、傷が一瞬で治ったんだ」
桜のもっともな疑問にすっかり傷や痛みの消えた自分の身体を見回した神魔は、疑問を抱きながらもあっけらかんとした口調で応じる
「左様ですか……」
その言葉に安堵の息を吐きながらも、それとは別の事を案じてその美貌を曇らせた桜に、神魔は優しく微笑んでそっと手を差し伸べる
「そんな心配しないで。今のところは何も問題ないよ」
簡単に癒えるはずのない傷が消えていることに、先程までとは別の不安を抱いている桜を安心させようと、神魔はその手で髪を優しく桜色の髪を梳きながら語りかける
「……はい」
愛しい人に優しく髪を梳かれる感覚に愛おしげに目を細める桜は、淑やかに微笑んでその花貌に浮かんでいた憂いを消し去ると神魔へ微笑み返す
「悪いんだけれど、こっちも手伝ってくれないかしら」
思慕の情で染まった瞳で見つめ合い、互いの情感を確かめ合っていた神魔と桜は、横から届いた淡泊な瑞希の声に顔を上げる
その声に視線を向けた神魔と桜は、厄真がいなくなっても存在している感染者達を双剣で牽制する瑞希、合併症と戦っている緑の六道と青の六道を見て苦笑を交わす
「そうだね」
その言葉に桜と照れくさそうに視線を交わした神魔は、純黒の力を纏う大槍刀を軽く振るって周囲を取り巻く病神の眷族達を見据える
「なんか、今すごく調子がいいんだ。悪いんだけど、ちょっと付き合ってもらおうかな」
先程まで負っていた瀕死の重傷から解放され、共鳴する魔力の昂ぶりと共に高揚する神魔は、大槍刀を一閃させて、そこに宿る滅意に染まった魔力を解き放つ
瞬間その斬撃と共に、これ以上黒い黒など存在しえないと思えるような絶対なる黒き力が奔流となって病神の眷族達を呑み込んで一瞬の内に消滅させる
「――……」
異変と異常をもたらし、害を成すはずの病さえ介在できない破滅の闇が渦巻く様を地獄界の遥か上空から見下ろす悪意の神片――「狂楽に享じるもの」は横長の瞳孔を抱く目を細めて、眉根を顰める
「オイオイ、何だよコイツは」
普段浮かべている人を喰ったような笑みが消え去った余裕のない表情で顔をしかめるウォールは、地上に佇む神魔に視線を向けられて、軽く鼻を鳴らす
「世界でも滅ぼすつもりか」
神位第六位に等しい自分を簡単に見つけ出した神魔の金色の双眸に地上を睥睨するウォールは、絶黒の魔力を纏うその姿を見据えて、小さく吐き捨てるように言い放つのだった
※
禍々しくどす黒い力が渦を巻き、世界を歪ませる。その重圧に耐えかねて空間が軋む様は、世界が悲鳴を上げているかのようだった
天に次々と生じる黒い力の奔流は、異変と異常を司り、あまねくものを死へと誘う病傷の神たる異端神――「|罹恙神・ペイン」の力によって引き起こされるものだった
その力である罹痛の力が凝縮された鉈のような矛を振るうのは、闇が凝縮したような漆黒の
身体に純白の鎧を纏った人型の存在
それは、その武器である「病理神」に感染し、武器そのものを身体として操る罹恙神だった
「――我ガ依り代が滅びたカ」
その力によって世界を歪め侵す罹恙神遥は、自身が感染していた依り代である厄真の消滅を感じ取り、淡白な声で独白する
その声には依り代であった厄真の死に対する感情は一切宿っておらず、ただその事実を事実として受け入れた無機質な響きだけが宿っていた
「早々ニ、次の依り代を見つけねばならないナ」
罹恙神は異変と異常の神であり、それそのもの。故にその存在は、健常な存在によって成り立っている。
即座に身体を維持できなくなるということはないが、依り代がなくなれば、遠からぬ内に顕現している自身の存在を保てなくなってしまう。その前に新たな宿主へと感染する必要があった
「――ッ!」
罹恙神がそう呟いた瞬間、その完全で蠢いていた病闇の神力が内側から純銀の浄光によって滅され、その中からハルバートを手にした戦女神が姿を現す
「そうはいかないわ。あなたはここで終わりよ」
その戦女神――円卓の神座№10「護法神・セイヴ」から力を授かり、その神片の一角となった救世主・シルヴィアは、異変と異常に侵された世界に荘厳なほどに美しく映えていた
「オオォオォォオオッ」
厳かな声音で言うと同時に天を蹴って神速で飛翔するシルヴィアに、罹恙神の身体から放たれた病闇の力の無数の触手のようになって襲い掛かる
自身へと迫る病闇の力の奔流に臆することなく、シルヴィアは舞うような軽やかな動きでハルバートを振るって相殺していく
あまねくものに異変をもたらす病神の力とは対照的な救済の力を持つ神託の救世主の身が病闇を浄滅させて神々しい救世の輝きを放つ
相手に対して変質する性質を有する異変の病闇の力が、救世主となったシルヴィアに異変をもたらそうとその意を振るうが、その存在から放たれる清烈な光は病闇の中にあって、一切翳ることはなかった
(見える。希望の道筋が)
ハルバートの閃閃を以って、自身へと襲い来る異変と異常の力を吹き払うシルヴィアは、肉体そのものを武器としている罹恙神を見据える
シルヴィアに託された護法神の神片である「救世主」の力は、神から託された救世と救済の力。
救世主の力は、絶望の中にあって救いをもたらすもの。いかに病神の異変と異常の力を以って、抗うべくのない闇で閉ざされようとも、その中に一筋の希望の光として輝き、決して塗り潰されることはない
病に世界を閉ざされ、異変と異常が渦巻く中にあって尚、シルヴィアの瞳には自らの進むべき道が――この絶望を抜けるための奇跡の軌跡がはっきりと映っていた
希望が絶望の中でこそ輝くように、病闇の力を切り抜ける中でその力の包囲を抜け出す導を見い出したシルヴィアは、自神にしか見えないその導きに光となって従う
「ハアッ!」
「グ……ウッ!?」
神聖な光のとなって翔け抜けたシルヴィアの刃が叩き付けられ、罹痛の力で形作られた罹恙神の身体に一筋の傷が刻み付けられる
罹痛の力によって具現化した武器そのものである身体は、傷つけられても血炎を立ち昇らせるわけではない。しかし、その存在を戦うための形として顕現させた身体を傷つけられた罹恙神はそれによって武器破壊と同様の痛みを魂に覚えていた
「――さぁ、最終局面よ」
自らが希望の灯として、光よりも速い一条の光と化して罹恙神にダメージを与えたシルヴィアは、ハルバートを構えて凛とした声音で言い放つ
その言葉の通り、厄真の死によって確実に戦況は傾き、異端の神々さえもが争うこの戦いは終息へ向けて動きだしていた