桜花満開
「神魔さん!」
その身体を縮こまらせ、顔を強張らせる詩織は青褪めた表情で周囲へ視線を配りながら引き攣った声で想い人の名を呼ぶ
詩織の目の前で魔力の結界を展開するその人物――神魔は、先の霊雷との戦いで負った傷からおびただしい量の血炎を上げながら佇んでいた
詩織を怯えさせるのは、神魔が展開した結界の外一面に張り付いた青白い顔を持つものの群れ。底の見えない穴のような黒窩の目と口に、ミイラのようにやつれた生気の感じられない白蝋の顔は見ているだけで本能的な恐怖を掻き立てる
円蓋状に展開された魔力の結界に張り付くのは、正常と死の狭間――異常を司る異端神「罹恙神・ペイン」のユニットである「感染者」達だった
世界にまき散らされた病神の眷族達は、その存在意義を証明するかのごとく、全霊命、半霊命問わずこの場にいる全ての命を害さんと、満身創痍の神魔、戦う力の無い詩織にまでもその牙をむいていた
『解せヌ』
結界を破ろうと触れるものに感染し、異常をもたらす病闇の力を解き放つ感染者達だったが、神魔の魔力はその浸食を完全に阻んでおり、その病の力が入り込む余地さえも与えはしなかった
生命として完全に近い全霊命はまだしも、存在的に死の要因が多い半霊命――それも、最弱のゆりかごであるはずの詩織にさえ自分達の力がなんの影響も与えていないことに、感染者達は地の底から響くような悍ましい声音で唱和しながら、結界の中を覗き込む
「大丈夫、詩織さんは僕が守るよ」
結界にその身を張り付け、中を覗き込みながらなんとか侵入と感染を試みる感染者達に怯える詩織を励ますように言った神魔は、握りしめた大槍刀の柄を強く握りしめる
軽く視線を動かし、罹恙神と同じ顔をした感染者達を見据える神魔は、これらの目的が単に自分達を病で殺すことだけではなく、詩織の中に宿った神器「神眼」にあることも理解していた
しかし、神魔が守るのは、あくまでも神眼ではなく詩織の方。傷つき、まともに戦えない自分にできることを成すべく結界を維持する神魔は、その知覚で桜と瑞希を捉えて小さく歯噛みする
(なんで……なんで、魔力共鳴ができないんだ?)
※
「神魔様……っ」
感染者の山に結界ごと埋もれている神魔を視界の端で捉える桜は、魔力と病の力が入り混じった破壊の奔流をその身を翻らせて回避しながら、動揺と混乱に意識を焦がす
(神魔様と繋がっているのは分かるのに、共鳴だけができないなんて……)
伴侶としての契りを交わして命を交換し合った神魔の存在は、今も桜の魂の根幹に根付き、はっきりと感じ取ることができる
しかし、つい最近までは間違いなくできていたはずの魔力の共鳴が、なぜかできなくなってしまっていることに、桜は混乱を隠せなかった
(どうして、こんなことが……!?)
契りを交わし、魂と存在を共有した全霊命の伴侶は、互いの神能を共鳴させてその力を高めることができるようになる
伴侶が命を落とした以外の理由で神能の共鳴ができなくなるなど聞いたことがない桜は、まるで神魔との繋がりが断たれてしまったような不安を覚えながらも、自身の渾身の魔力を注ぎ込んだ薙刀を振るう
神速で振るわれた薙刀の刃をその視界に捉えながらも、厄真はそれに構わずにその力を解放して迎撃する
渾身の力が込められた桜の斬撃も回避するつもりのない厄真は、当然のように神器「永遠存在権」によって永遠の命を攻撃を得ている身体で受け止めると、そのまま反撃の大剣を横薙ぎに振るう
「――ッ!」
死なないがゆえに死を恐れることなく刃を身体で受けた厄真が振りかぶる刃を、桜は後方へと飛んで回避する
しかし、宿主として罹恙神と一体化している厄真の魔力には、罹痛の力が混じっており、病闇と闇の混じったその身体へ喰いこんだ桜の薙刀の刃には、わずかな感染が発生していた
「……っ」
自身の魂の戦う形そのものである薙刀の刃を黒く穢す病闇の力に桜がその美貌をわずかにしかめる中、厄真は、病を帯びた魔力を注いだ大剣を手に神速で肉薄してくる
「させないわ」
「!」
しかし、その寸前に横から割り込んできた瑞希が、純黒の魔力を放出する双剣を振り抜いて、その喉元へ容赦なくその刃を閃かせる
純然たる殺意に染められた魔力の双閃は、翼を広げた様な軌跡を残しながら厄真の首と胴を切り離す
「ありがとうございます、瑞希さん」
「気にしないで。それより――」
桜の感謝の言葉を軽く流した瑞希は、その麗悧な視線で首の切り離された厄真を見据えながら淡泊な声音で応じる
いかに不死性の高い全霊命であろうと、さすがに同等以上の神格を持つ者に首を斬り落とされては生きていられない。しかし、その存在を不滅とする神器を宿す厄真にはそれでさえ決定的なものにはなりえなかった
「……あァ、痛ぇなぁ。何べんやっても無駄だって言ってるだろうが」
まるで何事もなかったかのように癒着し、完治している首を軽くほぐすように動かしながら低く抑制した声で言う厄真の言葉に、瑞希は凛としたその表情をさらに凍てつかせる
「まったく、殺しても死なないなんて困ったものね」
(やはり、魔力共鳴ができなくなってるのね)
殺しても死なないというだけでも厄介だというのに、なぜか桜が神魔と魔力を共鳴させることができなくなっているのを知っている瑞希は、軽く一瞥を向けて思念を言葉として伝える
《やっぱり、魔力共鳴ができないのね――けれど、一体何が? ……もしかして、この力の所為?》
どちらかが死んだわけでもないというのに、魔力共鳴ができなくなるという未知の事態に思案を巡らせる瑞希は、その一つの要因として周囲を満たす病の力――罹恙神やその眷属達の罹痛に理由があるのではないかと考える
病や傷の神である罹恙神の力は、異常と異変をもたらすもの。ならば、その力の影響によって正常に作用するはずの魔力共鳴が異変をきたしている可能性は皆無とは言えないだろう
《違うと思いますが、確信もございません》
神魔と突然繋がれなくなってしまった動揺に困惑しながらも、桜は努めて平静を保とうと自分に言い聞かせるように瑞希に語りかける
桜がその事実に気付いたのは、瑞希と共に詩織の中にある神眼を狙う厄真と戦い始めた時。
この戦闘で勝利するため、傷ついた体を押して詩織を守る結界を展開してくれている神魔の一助になろうと、魔力共鳴を行った際、それが発言しなかったからだ
以降、この戦いの中で何度も神魔との魔力共鳴を図ったにも関わらず、なぜか今まで当たり前にできていたそれだけができなくなってしまっていたのだ
「なぁ、もう諦めろよ」
その時、思念で会話していた桜と瑞希を対話を遮るように厄真が口を開いて、どこか気だるげな口調で語りかけてくる
「もう分かっただろ? 俺を殺すことはできない。何度やってもどれだけやっても時間を浪費するだけだ。こっちは神眼さえ渡してくれれば、さっさと引いてやるんだぜ?」
その存在を不滅のものとする神器の力によって完全な不死の力を得ている厄真は、魔力と命を蝕む病の力が混じり合った闇を纏う剣を地面に突き立てて不敵に笑う
そしてそれは、二人への脅しでもある。――なにしろ、桜と瑞希に厄真を殺すことはできないというのに、厄真は桜と瑞希を殺すことができるのだから、こんな理不尽なことはないだろう
(――長すぎる)
桜と瑞希の命と詩織の命を天秤にかけ、その目的である神眼を要求する厄真だったが、不敵な笑みを浮かべた表情とその心中は決して等しいものではなかった
(全霊命の結界でも感染者から出ている病の力の影響までは完全に防げないはず。ゆりかごの人間如き、とっくに罹痛の力でくたばっててもおかしくねぇ――やっぱ、奴の力か)
桜、瑞希と戦いながらも、それ以上に厄真が気を取られているのは、感染者達が集まっているその中心にいる神魔と詩織のことだった
病とは無縁の全霊命とは異なり、半霊命――それも、最弱のゆりかごの人間ならば、罹痛の力の持つ異変の力の影響を受けて絶命していてもおかしくない
だが、実際には生きとし生けるすべてのものに影響を与えるはずの罹痛の病闇は神魔の魔力によって完全に遮られており、詩織を守っていた
「このままじゃ、あいつらもいつまで保つかわかったもんじゃねぇ。あんた達にとって、あの中にいる悪魔と悪意の小娘のどっちが大事だんだ? 悪い取引じゃねぇだろ」
軽く一瞥を向け、感染者達が集まる中心にいる神魔と詩織を意識させた厄真は、それぞれの命を選ぶように桜と瑞希に語りかける
悪魔を始めとする闇の存在は、最も大切なもののためにそれ以外の全てを切り捨てることができる。今日桜達に会ったばかりの厄真にその関係を推し量ることはできないが、同じ悪魔と悪意の神の眷族であるゆりかごの人間どちらが大切なのかなど、考えるまでもないことだった
「お断りいたします」
「それはできないわ」
しかし、武器を携える桜と瑞希が迷うことなく揃って返す答えに、厄真は怪訝に眉を顰める
「……なぜだ?」
その問いかけに、間合いを保って薙刀の切っ先を向ける桜は、感染者の山の中にいる神魔へと想いを寄せながら、神妙な面持ちで口を開く
「まだ、諦めるには早すぎるます。神魔様が、その傷ついた体を押して戦っておられるというのに、わたくしたちが神魔様の命を惜しんでそのお心を無下にすることはできませんから」
「そういうことよ」
単にその命を守るために簡単に他者を諦めるのではなく、絶対の忠愛と信頼を以ってそれに答えることを優先する桜と、それに同意を示した瑞希の言葉に、厄真は辟易とした表情を浮かべて盛大にため息を吐く
確かに闇の存在は最も大切なもののために他の全てを切り捨てることができる。だが、率先してそうするほど薄情な存在でもない
桜にとって最も大切なものは神魔だ。だが、その命を守るだからとはいえ、足掻くこともせず簡単に詩織の命を切り捨てるつもりもないのだと、その揺るぎない意志を宿した魔力が答えている
「ったく。面倒くせぇなァ!」
桜に神魔のために、詩織を捨てさせるにはまだ状況と追い詰め方が足りていないことをその眼差しと声音から感じ取った厄真は、吠えるように声を上げる
苛立ち以上に、その口端を戦揚に歪めた厄真が、魔力と罹痛の入り混じったうろの力を吹き上げる大剣を振り上げるのを見据えた桜と瑞希は、合わせたかのように同時に地を蹴って神速で肉薄する
《桜さん》
「――っ!」
時間と空間の存在を許さない絶対の速度世界の中で、瑞希と共に天樹管理臣の一人である厄真と薙刀の刃を打ち合わせた桜は、突如思考の中に響いた声に軽く目を瞠る
《お姉さん……!?》
その声の主が、自身の姉である「撫子」であることを確信した桜は、思いもよらぬ再会に息を呑んで軽く意識を巡らせる
命を交換した伴侶出ない限り世界を越えて思念通話を結ぶことができない。それは姉妹であろうとは例外でなく、今思念通話が結ばれているということは、つまりこの世界に撫子がいるということの証拠そのものだった
(桜さん……?)
魔力を乗せた薙刀を振るい、厄真の刃を弾きながら立ち回る桜の様子に変化が生じたのを感じ取った瑞希は、横目でその様子を伺いながら双剣を振るい、魔力の刃を炸裂させる
巨大な力の奔流が渦巻き、破滅の魔力に込められた純然たる意思が破壊として現界する中、厄真から距離を取り、その名と同じ桜色の髪をなびかせるサクヤは、周囲に撫子の存在が感じられないのを見てとって、心の中に響く声の方へと意識を向ける
《わたくしがお渡ししたものを覚えていますか?》
前置きなどをあえて省いて用件だけを伝えてきた撫子の言葉に、桜は以前妖精界で再会した姉からもらったお守りの形をしたもののことを思い返す
以前撫子から渡されたそれは、宝珠が列なった連環の数珠に繋げられているそ花とも鳥とも取れる紋様の形状をしたペンダントのような装飾具であり、おそらく神器だった
《はい。ですが、申し訳ありません――確かに持っていたはずなのですが、なぜか消えてしまっているのです》
撫子の言葉にそれの事を思い返した桜だったが、いつの間にかそれを紛失してしまっていることを申し訳なく告げる
撫子から託された花鳥の紋のお守りを失っていることに桜が気付いたのは、先の神魔と霊雷の戦いの最中だった
神魔が霊雷に追い詰められ、覇国神の神片である帝王によって参戦を阻まれていた際、愛しい人を助けるために大貴に神格を得るための媒体としてもらうことを考えた時だった
《いいえ。それでいいのですよ。なぜなら、あれはそのためにあなたに託したものなのですから》
確かに持っていたはずの御守りが無くなってしまっていたため、大貴にそれを差し出すことも神魔の力になることもできなかった歯がゆさと姉からもらったものを失くしてしまったことを思い返して声を曇らせる桜に、撫子のたおやかな声が伝えられる
《どういうことでしょうか?》
魔力と罹痛の入り混じった厄真の攻撃を捌き、瑞希と共に戦いながら、桜は脳裏に響く撫子の言葉の意図を尋ねる
《あなたは、疑問に思っていたはずですよ》
刃と力がぶつかり合い、純然たる殺意に満ちた力がせめぎ合う傍らで、撫子の声が優しく桜に語りかけてくる
《九世界を回るようになってから、神魔さんの神格は急激に上昇していきました。それこそ、つい数か月前の神魔さんとは別人としか思えないほどに。――だというのに、あなたはその神格に、当然のように魔力を共鳴させることができていたことを》
《――っ、それは……》
淑やかな撫子の声で告げられた言葉に、桜は息を呑む
確かに撫子の言う通り、地球への不法滞在の罪によって魔界王に極刑を言い渡され、自分達が生き残るために光魔神と九世界を回り始めるようになってから、神魔の力は急激に上昇している
これまで、億ではきかないほどの年月を神魔と共に過ごしてきたが、これほどの短期間で魔力と神格が上昇したことなどなかったし、それ以上に常識的に考えて異常な成長だった
だが、それ以上に疑問だったのは、そんな神魔につられるようにして桜自身の神格も強化されていたことだった
確かに全霊命の番は、自分達の神能を共鳴させることができるが、力の差がありすぎるとその共鳴にも偏りが出てしまう
神魔と共に戦うためにそれを危惧していた桜だったが、そんなことは杞憂とばかりに伴侶に導かれるようにして自分も力を増していた
しかし、本来伴侶が強くなろうと、それで自分の力までが上昇することはない。桜自身そこに疑念を抱いていたというのは間違いない
《その理由は至極簡単です。あなたが、神魔さんとその命を一つにしているからです》
《――!?》
その時、そんな桜の疑念を払拭するように撫子の厳かな声音が響く
《あなたは契りを重ねていく中で、彼の存在の影響を受けていたのです――〝全てを滅ぼすもの〟である神魔さんの存在の本質を》
自身の疑念を解消するかのように語られる撫子の言葉に、桜は思わず息を呑む
桜の神格が上昇していた理由は、契りによって魂――その存在を神魔と交換していた事により、その影響を受けていたからという単純なもの。
無論通常の全霊命ならばそのようなことはないが、神魔が「全てを滅ぼすもの」であるがゆえに、その力が桜の存在そのものにまで干渉し、影響を与えていたのだ――全霊命と交わった半霊命が、その高い神格の影響で存在を病み、命を落とすのと同じように
《ご存知だったのですか――!?》
自身が強くなった理由以上に、桜は撫子が神魔のことを知っていることに驚愕を露にする
自分で疑問に思ったことだというのに、神魔の事が話題になった瞬間にそれを二の次にしている桜の反応に優しい息遣いで微笑んだ撫子は、話を続ける
《元々あなたにお渡ししたのは、その後天的な神格の変化に対し、あなたの存在が影響を受けない様にするための媒体とするためのものでした
それが消失したのは器として完成し、全てを滅ぼすものへと覚醒する引き金を引いた神魔さんとの共鳴による浸食から、あなたを守るための機構にほかなりません》
《――!》
以前渡してくれた御守りの形をした神器が、こうなることを見越してのものだったと告げる撫子の言葉に、桜は息を詰まらせる
全てを滅ぼすものである神魔の神格は、契りを通して桜の神格――魂や存在にさえ影響を与えている。そして、完全に覚醒した神魔の神格の変化が与える影響はこれまでの比ではないことを撫子は知っていた。
神魔の神格の変化に伴って、桜の存在の根源に宿ったその命の欠片は、もはや桜の存在に影響を与えすぎてしまうほどになっている。それから桜を守るために撫子が渡した神器が存在の共鳴を阻害しているのだ
神魔が全てを滅ぼすものの器として完全に覚醒したのは、聖人界でお父様を倒した時。そして、その存在が桜の存在にまで影響を与えるようになったのは、先の霊雷との戦いにおいて、〝全てを滅ぼすもの〟としての覚醒を始めたからだった
《今から、あなたは選ばねばなりません》
《選ぶ――?》
神魔が覚醒を始めているという事実に不安を覚え、胸を締め付けられていた桜は、淑厳に響く撫子の言葉を反芻する
《もはや神魔さんは世界を滅ぼすものとなり果てました。彼は、この後世界から敵として狙われるでしょう。ですが、今ならばあなたは――》
《どうしたら、神魔様と一緒にいられますか?》
淑々と紡がれる撫子の言葉を、桜は途中で遮ってその意思と答えを示す
《迷うことなどありません。たとえ、神魔様が世界を滅ぼすものになろうと、世界と敵対しようと、わたくしはこの命尽きるまで、共に在り続けると決めております》
「全てを滅ぼすもの」がどういうものなのか、桜は知らない。しかし、ただ一つ言えることは、神魔と共にあることだけが自身の望みであるということ。
例え世界が全て敵に回ったとしても、神魔がそれを望まなくとも、命尽きるまで添い遂げること――それだけが自身の望みであり存在理由なのだと、桜は勝手に決めつけて確信していた
《桜さん……》
話を聞くまでもないとばかりにその想いを告げた桜に、撫子はどこか物悲しい憂いを帯びた声音で答える
桜の姉であり、先日の再開でその心の在り様に直に触れていた撫子には、桜がこのように答えるであろうことが分かっていた
《やはりあなたは、わたくしと似ていますね》
もし仮に自分が桜と同じ立場だったなら同じようにしたであろう自覚と自身がある撫子は、自嘲めいた声音で小さく独白すると、一拍の間を置いて話を続ける
《あなたに渡した神器は、あなたを〝アンシェル〟へと変えるためのものです》
《アンシェル……?》
《そうです》
聞き慣れない言葉に桜が怪訝に応じるのを聞きながら、撫子は思念を通じてその心に直接語りかけていく
《本来、アンシェルの力は後天的にしか得られないものなのですが、あなただけは先天的にその力を宿してしまっています。
今は、先日お渡しした神器がその繋がりを断ってあなたを守っている状態なのですが、それは同時に神魔さんとあなたの神格を繋げる触媒へと変化させることが可能です。
その力を使うことで、あなたは神魔さんの力を――その存在に隠された本質の力を借り受けることができるようになるでしょう》
桜が得ている「アンシェル」の力は、本来後天的にしか得られないもの。しかし、桜はそれを先天的に獲得してしまっている。
今は、撫子が渡した神器が神魔との共鳴を阻むことで、その影響から桜を守っているが、それは同時に神魔と正しく繋がり合うための触媒――〝鍵〟としての機能も備えていた
《そのためには、神魔さんとあなたの存在と力を結びつけるための形を定める必要があります》
《神魔様とわたくしを結ぶ、形……》
心の中に響いて来る撫子の声と言葉を聞く桜は、自身の存在の内側に灯り、優しく己を温めてくれる神魔の存在を感じながら呟く
それを事実だと証明するように、突如桜の魂の根源からあふれ出した力が、その身体に染み渡り広がっていく
自身の存在の根源と、そこに染み込んだ最愛の神魔の存在の力を纏ったそれは、桜の最奥から多幸感となって溢れ出す
それは、桜の内側に宿り神魔との繋がりを封じていたものが新しく二人を結びつける懸け橋として生まれ変わろうとする予兆――胎動だった
《これは――っ》
自身の内側から広がり満たしていく力の拍動を感じて息を呑む桜に、撫子がそれを確かな形にするためにすべきことが告げられる
《定めてください桜さん。神魔さんとあなたが繋がるための神器「アンシェルギア」の形を》
(アンシェルギア……)
「神魔様と、繋がるための形……」
撫子の思念通話を聞きながら、その言葉を実際に小さく呟いた桜は、魔力と罹痛が混じった
闇の力を纏う厄真に薙刀の斬閃を見舞う
身の丈にも及ぶ大剣を振り回し、その不死の存在を以って瑞希と自身を責め立てる厄真を見据える桜は、罹恙神の眷族達に呑み込まれた神魔を案じて一瞥を向ける
「――!」
感染者達に呑み込まれた神魔を案じ、神魔に守られているであろう詩織の事を考えた瞬間、桜は小さく目を見開いてとある記憶を思い返す
※
「なぜ、指輪を交換しているのですか?」
それは、桜が神魔と共にまだゆりかごの世界――「地球」にある詩織の家に居候していた時のこと。詩織がリビングで見てたドラマの結婚式のシーンで、指輪の交換をしているシーンが流れた時それをたまたま目にした桜は、その行動に首を傾げる
「夫婦になった人は、ああやって左手の薬指に指輪を付けるんです。桜さん達の世界ではそういうことしないんですか?」
魔界を始め、九世界では結婚指輪という概念がない。テレビの中の登場人物達がなぜそんなことをしているのか分からなかった桜の問いかけに、詩織はドラマを見ながら答える
「わたくしも全ての世界の風習を知っているわけではないのでわかりかねますが、魔界や天界にはそういった風習はございませんね」
九世界にも世界ごとに様々な結婚の風習がある。地球と同じように指輪を交換する世界もあるかもしれないが、少なくとも桜が知りえる全霊命が治める世界では、全霊命にも半霊命にもそういった文化はなかった
「なぜ、左手の薬指なのですか?」
「大昔の人は、左手の薬指が心臓と繋がってるって思ってたらしいですよ。だから、お互いの心を繋げるみたいな感じじゃないでしょうか?」
自身の疑問に返された詩織の答えを聞いた桜は、自身の左手薬指へ視線を落とす
「心を一つに――」
指輪など嵌められていない白く細い指を見つめる桜の眼には、しかしそこに自分と神魔との繋がりが映っていた
※
「指輪を。左手の薬指に」
かつて何気なくした他愛ないそんなやり取りの記憶を呼び起こした桜は、思念で通じる撫子に、自身の願いの形を求める
瞬間、それに答えるように存在の奥底から湧き上がった力がその望みのままに桜の左手薬指に収束し、特に装飾などのない簡素な銀の指輪として具現化する
その指輪は、桜自身の魂とそこに宿った神魔の存在の欠片を紡ぎ結ぶもの。愛によって通じ合った二つの存在を一つに繋ぐ概念の結晶たる神器だった
「!」
(なに!?)
対話のやり取りの大半を思念通話で行っていたため、突如桜の指に銀の指輪が出現したのを見た瑞希は、その目を瞠った小さく驚きを表す
「なんだ、それは……?」
同様にそれを見ていた厄真が怪訝に眉を顰める中、自身の左手薬指に輝く銀の指輪に視線を落として愛おしげに目を細めた桜は、その淑貌を引き締めて口を開く
「神魔様、お願いいたします」
魔力に声を乗せ、実際の声と思念通話の声として神魔へとその言葉を届けた桜は、神器「アンシェルギア」によって再び結ばれた存在の力を解放する
桜のその声は、全方位を感染者に囲まれ、詩織を守る魔力の結界を展開している神魔の耳と心に確かに届いており、それに即座に答える意思が返される
「魔力共鳴!」
瞬間、左手薬指に嵌められた指輪が桜と神魔の存在を共鳴させ、純黒の魔力を吹き上げた