緋い綴
「ハァ、ハァ……」
破壊された大地に自身の武器である剣を突き立て、肩で息をする一本角の赤鬼――「火暗」は、一面を埋め尽くしていた真紅の花の花弁が舞い散る中、どこか夢のような、しかし紛れもない現実を実感しながら剣を引き抜く
その手に残るのは、命を奪った確かな感触。その意思に刻み付けられたのは、非現実めいた勝利の事実だった
先程火暗が殺め、命を奪って滅ぼしたのは「天上界王・綺沙羅」。――九世界の一つ、天上界を総べる王であり、神から生まれた最初の全霊命たる原在の一人だった
地獄界王である黒曜との戦いで弱り切っていたことに加え、いくつかの偶然と奇跡が重なって天上人の祖であり、最も強い天上人でもある綺沙羅を討ち取った火暗は、その現実をゆっくりと自覚して大きく息を吐き出す
「ふぅ――」
天上界王を討ち取る大金星を挙げたとはいえ、火暗には感慨や喜びのような感情はない。結果的に勝利を収めたが、それは綺沙羅が満身創痍だったからできたようなものだ――無論、今は戦争中であり、それを含めての戦いでもある。半死状態だったとしても、王を討ち取ったことは誉以外の何ものでもない
故に今の火暗が感じているのは、満身創痍で弱り切っていたとはいえ、死と紙一重で勝利を収めることができたことへの安堵と死した天上界王への敬意と追悼の意だけだった
「――……」
先程のわずかな攻防によって破壊された時空の狭間の一つである世界の風景――一面を赤い花が埋め尽くす大地を見回し、天上界王・綺沙羅が先程まで存在していた場所を見つめていた火暗は、顕現させていた剣を収めて身を翻す
「帰るか」
地獄界で待っている家族の事を思い浮かべ、火暗は一時の安寧を得た様な安らぎを胸に世界から離脱しようとする
「!?」
しかし、今まさにこの狭間の世界を離脱しようとした瞬間、火暗の背後に青白い炎のような光が燃え上がる
「なんだ、これは――!?」
突如出現した炎光に目を瞠り、背後を振り向いた火暗の目の前で、それが収束して形を結んでいく
その炎光の中から現れたのは、長い翠金の髪に、額にある月桂冠を思わせる金色の装飾、領巾の付いた白絹のような霊衣を纏った佳麗な女性の姿
頭上に浮かぶ光輪が九世界を総べる全霊命の一角たる〝天上人〟であることを証明するその女性は、紛れもなく今まさに火暗が命を奪ったはずの天上界王「綺沙羅」だった
「な――っ!?」
突如生じた光の中から再生――否、転生した「天上界王・綺沙羅」に、火暗は、戦慄と驚愕を露にして目を見開く
確かに光の全霊命には癒しの力がある。確かに半霊命程度の霊格を持つ存在ならば、生き返らせることは可能ではあるが、同等以上の神格を持つ全霊命に殺された場合には、それもできない
「死」の理は「生」の理よりも強い。いかに神能が事象を拒絶し、望むままに現象を顕現させるとしても、世界を成す理の序列を否定することはできない。同じ神格で与えられた死と復活ならば死が勝るのが必然なのだ
「馬鹿な!? 確かに今、俺はお前を――」
この世の理と常識を否定し、その身体に刻み付けられていた傷の全ては完全に治癒した状態で世界に降臨し、その二本の足で地に降り立った綺沙羅の澄んだ双眸に映された火暗は、その手に大剣を具現化して声を上げる
「殺した」――そう続けようとした火暗だったが、それを口にしてしまうと先程の現実が虚構になってしまうような錯覚に寸前まで込み上げていた言葉を呑み込む
「そうですね。確かに今、私はあなたの手によって殺されました」
本当に先程自分は天上界王を殺したのか――幻覚を見るはずのない全霊命の身でありながらそんなことさえ考えてしまっていた火暗の疑問に答えるように、綺沙羅はそれを肯定し、微笑と共に言葉を続ける
「私の切り札、神威級とは別に保有している自分自身を転生させる神器『廻魂舟』です」
「自分自身を転生させる、だと――?」
綺沙羅の口から紡がれたその事実に、火暗は息を呑んで眼前に再臨した天女を真紅の視線で射抜く
天上界王をはじめ、神から生まれた最初の全霊命――「原在」の筆頭は、自界防衛のために神威級神器を有している
だがそれは、あくまで異端神をはじめとする神の領域にあるものから世界を守るための防衛の手段であり、同じ全霊命を相手にそれが使われることはない。たとえその命が死に脅かされてもそれは同じだ。何故ならそれが、神から世界を任された全霊命の誇りだと王達は考えているからだ
だが、当たり前の話ではあるが、神威級神器を持っているからといって、他の神器を扱うことができないわけではない。
神器は人を選ぶ。一つの神器を使えるからといって別の神器を使うことができるわけではないが、一度に複数の神器に見初められることがあるのもまた事実――そして、綺沙羅は後者だったということだ
「はい。つまり、私は何度殺されても死なないということです」
「な……っ!」
あえてその身に宿る神器の能力を話した綺沙羅の言葉を反芻した黒曜に、天上界を総べる天上人の王たる翠金の髪の美女は、神妙な面差しと厳かな声音で答える
綺沙羅の身に宿る神器「廻魂舟」は、輪廻転生を司る神器。その能力は死を引き金に発動し、自分自身をこの世に転生させて絶命を免れる――殺されても死なず、再び世界に回帰することができるというもの
そしてそれは、何度綺沙羅を殺しても、その命が絶えることなく復活することを意味している。――つまり、いかなる手段を用いても、本当の意味で綺沙羅を殺せないということだった
「申し訳ありません。折角のあなたの武勲を踏み躙るような真似をしてしまって」
自身の説明に驚愕を露にする火暗を見据えた綺沙羅は、苦笑めいた面差しを浮かべて言葉を紡ぐ
本来ならば、致命傷を負っていたとはいえ天上界王たる綺沙羅を殺した火暗には、その戦功に見合った評価と褒賞が与えられて然るべきだ
しかし、死んでも生き返ることができる神器を持っているために、本来得られたはずの武勲や称賛を得られないことに対し、綺沙羅は自分を殺した相手だというのに謝罪の言葉を送る
「この神器の事は知られたくなかったのですが……」
申し訳なさそうに火暗に語りかけた綺沙羅は、自分を一度殺した事へ敬意を払うかのように、聞かれてもいないことを語りかけていく
「ご存知のように、私達天上人の原在である『八光珠』は、もはや私一人しかおりませんので、万一の時のためにこのような手段を用いております」
神から生まれた天上人の原在は「八光珠」と呼ばれ、その名の通り八人存在していた
しかし、創界神争から連綿と続く戦いの中で次々と命を落とし、この段階で天上界王綺沙羅一人を残すのみとなってしまっていたのだ
最後の八玉である綺沙羅が死ねば原在を失った天上界と天上人がどうなるか想像もつかない。そういった危惧を持つ天上人の強い懇願もあって、偶然にも適性があった転生の神器「廻魂舟」を使用し、本当の意味で死を拒絶しているのだ
「このことは、黒曜はもちろん天上人でさえ限られたごく一握りの者しか知りえません――おそらく、あなたが私の秘密を知った初めての人です」
憂いを帯びた微笑を浮かべ、その身に宿る廻魂舟について語る綺沙羅からは、全ての者が等しく一つの命にその全てをかけて戦う志を、王たる自身が否定することに責めを覚えているのが伝わってくる
「それは光栄だな」
その言葉に端的に答えた火暗は、自身の鬼力を注ぎ込んだ剣を伸ばして佳憐に佇む綺沙羅の胸の中心を穿ち貫く
「――!?」
光背による防御も、天力による結界も武器による撃墜もせずに甘んじてその胸の中心に刃を受けた綺沙羅に、火暗は驚愕を隠せずに目を瞠る
その刃が暴れ閃き、綺沙羅の身体を斬り裂くと、先程に続いて二度目の死を得たその存在は、再び天力の粒子となって崩壊し、世界へと溶け消えていく
しかし、それからしばらくの時を置いて再び青白い炎光が生じたかと思うと、そこに傷一つない姿で綺沙羅の存在が死から回帰してくる
「チッ」
「何度やっても同じです」
神器の能力が嘘ではないことを見せつけるように簡単に命を差し出して見せた綺沙羅に軽く舌打ちをした火暗は、全霊の鬼力を込めて破壊の力として解き放つ
鬼力が収束された破滅の砲撃がまたもそこに佇んだまま一切の反撃をしない綺沙羅を呑み込み、その存在を完全に消滅させる
「――……!」
純然たる滅意と、それを実現する鬼力の波動によって完全に消滅した綺沙羅だったが、それでもやはりその命は絶えることなく、何度でも火暗の前へと転生を果たす
「申し訳ありません」
「……なぜ戦わない?」
神器の力によって復活した綺沙羅が浮かべる表情は、自分を殺した相手の名誉と誇りを労わる心優しいもの。死んでも生き返る力を持っているとはいえ、自分の命を奪う相手に対してまで心を砕くその姿勢に剣の切っ先を下げた火暗は、一向に反撃をしてこない綺沙羅へ抑制の利いた声を向ける
いかにその力が火暗の武勲を穢す者であろうと、復活の力を持つ神器を有しているからといって、何度も殺されるとは思えない。その真意を訊ねる言葉に対し、綺沙羅は優しく目元を綻ばせて自身の胸に手を置く
「この神器の弊害として、転生すると、まともに戦うことができないほどに弱ってしまうのです」
火暗の問いかけに微笑んだ綺沙羅は、自身の神器が持つ欠点を隠すことなく教える
綺沙羅の身に宿った神器「廻魂舟」は、その所有者から死による終焉を取り除き、何度でも復活することができるようにする力を持つ
死という、生命に約束された絶対の理を覆すその力は、しかしその代償として、それによって復活した者――綺沙羅は、限界まで消耗しきった状態で復活するため、まともに戦闘を行うことができないほどに弱ってしまうという難点を抱えていた
霊衣のような身を守る本能的な力、そして神格と神能が持つ数々の特性は失われてはいないが、今の綺沙羅の力は一介の全霊命にも劣る。
まして、全霊命として間違いなく上位に位置する火暗と戦ってもまともに戦うことができないのだ
「さっきといい今といい、本当に答えるなんて律儀な奴だな」
自身の神器の能力を告げたばかりか、本来ならば隠しておきたいであろうその能力に伴う弊害までを答えた綺沙羅に、火暗はどこか呆れた様な響きを帯びた声音で言うと、その手を掲げる
「なら、お前を封じるだけだ」
「!」
その言葉と共に鬼力が鎖のようになって迸り、無防備に佇んでいる綺沙羅に絡みついて動きを封じ込めた上で、結界のような力場の中へと閉じ込める
復活をしたばかりで限界まで存在を消耗している綺沙羅には当然それを引きちぎる力もなく、なすすべもなくそこに拘束されてしまうしかなかった
(どうやら、さっきの話は嘘じゃないらしいな。あとは、思念通話でこの場所を緋毬に知らせれば――)
自身の鬼力による封印と拘束から逃れようとする様子さえ見せない綺沙羅の様子に、先程の神器の対価に関する話が嘘でないことを確認した火暗は、思念通話を開こうとする
通常、いかに全霊命であろうと世界を隔ててしまえば思念通話は届かなくなってしまうが、同じ命を共有した伴侶に限れば、世界の壁を越えて通じ合うことが可能になる
火暗には、契りを交わして繋がり合い、命を共有している伴侶である緋毬が地獄界にいる。ここから緋毬に連絡をすれば、綺沙羅を封じ込めるために意識と力を裂いたままの状態でも、十分に救援を望むことができる
「もうやめませんか」
しかし、その時鬼力の結界と拘束に捕らえられていた綺沙羅が、おもむろに口を開いて物悲しげな声で火暗に語りかける
復活の神器を持っている者が命乞いなどはしないだろうと、その声に視線で反応を見せた火暗に、綺沙羅は静かな声音で語りかける
「私を地獄界に差し出しても、戦争は終わりませんよ」
「――……」
まるで、自分の心を見透かしているかのように語りかけてきた綺沙羅の言葉に、火暗はわずかに身じろぎをしてしまう
「分かりますよ。あなたの刃は、私を殺してもずっとそれを求めていましたから」
火暗が欲しているのは、天上界王を殺した武勲でも名誉でもなく、ただの戦争の終結。そして家族の安寧と安泰だけ。
その想いに訴えかけるようにして語りかける綺沙羅は、何度もその身で受けた刃に込められた火暗の心を思い返し、噛みしめるようにして答える
「この戦いはどうしたら終わるのでしょうか?」
鬼力の結界に囚われたまま、その封印結界を生み出している火暗を見据え、綺沙羅は一言一言をゆっくりと紡いでいく
「私のような〝王〟を殺した時でしょうか? それとも、光か闇、どちらからがどちらかを滅ぼしつくした時でしょうか?」
視線を交錯させ、綺沙羅の言葉に耳を傾ける火暗は、そこから伝わってくる厳格な意志を感じ取っていた
事実、ここで天上界王である綺沙羅を殺したからといって、この戦争が終わるとは限らない。確かに闇の全霊命達からすれば、強力な敵がいなくなり、優位に戦いを進められるかもしれないが、その仇を討たんと戦いの激しさが増す可能性さえ捨てきれない
「この戦争は、理由があって理由のないものです」
自身の言わんとしていることを正しく汲み取って理解している様子を見せる火暗に、綺沙羅は抑制された声音でゆっくりと語りかけていく
「私達が戦っているのは、光と闇の存在だから――それは、私達全霊命を生み出した神にまで遡り、全霊命という存在の存在理由にさえ等しいものでしょう」
封印の結界に囚われ、鬼力の鎖で身動きを封じられながら言葉を紡ぐ綺沙羅は、王としての威厳に満ちており、その眼差しや声に含まれる気高い志が、それがこの場凌ぎの言い訳や命乞いの言葉でないことを伝えてくる
光と闇の全霊命は、それぞれが創世の神々に列なる存在。神々の戦、そして後の世のためにその存在から生まれた神の写身でもある
光と闇、生と死、善と悪――相反し、敵対する概念を体現する神々に列なるが故に争わずにはいられず、しかしそれであるからこそ互いが互いの存在を補完し合い、世界とそこに流れる神の理を体現しているともいえる
「光と闇の全霊命は戦わずにはいられない――その是非を語ることを今はしませんが、今の私達は振り上げた刃を下ろす機会を失ってしまっているのです」
自身こそが神に最も近い存在であるからこそ分かる綺沙羅は、間近で見たこともある〝神〟の在り方を思い返しながら言葉を紡いで語りかけていく
「この戦いも、最初は小さな小競り合いでした。ですが、その火種が大きくなり、今や世界全土さえ巻き込むほどに大きくなってしまっているのです」
鬼力の封印と結界の中から、今静かな静寂に満たされているこの場所の外――あまねく世界で繰り広げられている世界と世界の争いを憂いながら、綺沙羅は火暗に語りかける
「この戦争は、私の命一つ取ったところで収めることはできません――いえ、もはやその程度では収められないほどに、大きく、王と呼ばれるものにすら御しきれないほどに拡大してしまっているのです」
世界大戦にまで発展してしまったこの戦いの理由はあるといえばあった、だが、それはきっかけに過ぎない。今世界を呑み込む戦火は、元々あるべきものが現れたというものでしかないのだということを、綺沙羅は分かっていた
だからこそ、例えここで自分を殺しても戦争は収束しないことも、予感にも似た確信として予見することができていたのだ
「このままでは、光か闇、どちらかが滅びるまで争い続けることになってしまいます」
もはや、戦っている者達にさえ止める術が見出せないほどに増長してしまった戦争に心を痛め、己の無力を恨めしく思いながら綺沙羅は、断言するように予言する
その瞳が映す世界の未来に、その光景が広がっているかのような口調で言う綺沙羅の言葉に、火暗は険を込めた視線と共に言葉を返す
「ならどうする? 光も闇もどちらも退くつもりも負けるつもりはないんだ。負けてくれなんて言っても耳を貸す奴なんて誰もいない――それとも、光の軍勢がわざと負けてくれるのか?」
仮に綺沙羅の言うように、どちらかが滅びるまで終わることのない戦なのだとしても、この戦争で戦い、多くの同胞や親しいものを失った者達はその刃を収めることはできないだろう
この戦争に負けるくらいならば、例え相手を滅ぼすことになったとしても、勝利を得たいと思っている者
の方が圧倒的に多いはずだ
「そうですね。あなたの言う通りです。だからこそ戦争を終わらせるのです。――勝敗ではなく、別の形で」
「別の形……?」
赤い鬼力の封印の中から訴えかけてくる綺沙羅の言葉に、火暗は怪訝そうに眉を顰めて問い返す
「戦争を有耶無耶にしてしまうのです。決着も勝敗も何も決めず、いつの間にか戦いが沈静化していた――というのはどうでしょう?」」
「ふざけているのか?」
結界の中から向けられるその言葉に火暗がわずかに眉を顰めるが、綺沙羅は微塵も臆した様子を見せず、真剣な眼差しで応じる
「私はいたってまじめです」
自身へ苛立ちにも似たささくれだった感情に染まる眼差しを向けられた綺沙羅は、凛と澄んだ声音で答えると、自分の考えを言葉として紡いでいく
「戦いとは、何かを守るために、得るために行うものです。それは戦争であっても変わりません。一つ目は自分や大切な人の命を守るために、次は自分達の暮らす場所や心を守るために
戦争がしたくてしているものなどほとんどいません。ただ、戦いを始めた以上、負けたくないからこそ争いは熾烈なものとなるのです」
この戦い、そこに身を置く者、傷つく者、命を落とした者――今も世界の至る所で続いている戦乱とその中にいる者達へ想いを馳せながら綺沙羅は、火暗へと言葉を送る
いかに戦うために生まれ、それが存在理由であるからといって、全霊命は戦いを好んでいるわけでも望んでいるわけでもない
それは、光であろうと闇であろうと同じ。それぞれが自身の大切なものを守るために、戦うという信念と行動を貫いているだけだ。だからこそ、負けたくはないに決まっているし、死にたいはずもないのだから
一対一の戦いならば、生死で決着がつく。しかし、特定の誰かではなく、世界とそこに生きるものと戦う戦争では、単純な生死で戦いを終わらせることはできない。だからこそ、この戦争は今日に至るまで世界を呑み込んで続いてきたのだ
「ですが、〝負けたくない〟が必ずしも”勝ちたい”と同義ではないでしょう? この戦争はもはや争うために争っているだけの状態でしかありません。
光の存在は闇の存在を滅ぼしたいのでしょうか? いいえ、それは違います。闇の存在は光の存在を滅ぼしたいのですか?」
一言一言を噛みしめるように言葉へと変え、確認するように質問を向けてきた綺沙羅に火暗は一拍の間を置いて答える
「少なくとも、俺はそこまでは思っていない」
「ありがとう」
どこかつっけんどんにも聞こえる様な声音で答えた火暗の言葉に優しく微笑んで応じた綺沙羅は、自分を殺した赤鬼にも深い慈しみの情を感じさせる視線を向けていた
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私は〝綺沙羅〟と申します。あなたのお名前を教えていただけますか?」
「……火暗だ」
九世界の王であり、これまでのやり取りでもそれを知っていることを答えていた。しかし、それを分かった上で改めて名乗るまでもない自分の名を名乗った綺沙羅の礼に答えるように、火暗は息を衝いて応じる
今更になって自己紹介をして互いを知る第一歩を踏んだ綺沙羅は、その慈笑をたたえたまま火暗に語りかける
「では、火暗さん。光と闇の存在とではなく、〝戦争〟と戦ってみませんか?」
改めて互いの名を知り合った火暗に、綺沙羅は優しく微笑んで語りかける
ただの命乞いなどではないその言葉を受けた火暗は、自身の封印で捕らえた天上人の王に至極当然の疑問を向ける
「なんで、そんなことを俺に言う? 黒曜様に言えばいいだろう」
その言い分がどうであれ、一介の鬼でしかない自分よりも、先程まで戦っていた地獄界を総べる王「黒曜」にその話を持ち掛けることもできたはず。だというのに、そんな素振りを一切見せなかった事に疑問を覚えた火暗は率直に疑問をぶつける
この戦いの前、綺沙羅はその黒曜と戦っていた。ならば、その時にその話をすることもできたはず――その当たり前の疑問に、綺沙羅は苦笑めいた笑みを浮かべて応じる
「彼は、戦場に生きているようなところがありますから」
「…………」
その言葉に、戦場で生き生きと刃を振るう王の姿を思い返した火暗は、反論の余地も見いだせずに沈黙するしかなかった
そんな火暗の反応を見ながら、その美貌に憂いの影を落とした綺沙羅は、自身の心境をなぞるように一言一言を紡いでいく
「ただ、あなたの言うことも尤もです。きっと私は、これを口にすることが怖かったのです。そんなことを言ってもなにも変えられない……実現できるはずなどない絵空事だと思っていたのかもしれません」
命をかけて戦っている者、散っていった者の想いを背負う王という立場から、簡単に戦いと勝利を諦める
ことができなかった綺沙羅の心中を幾ばくか察しつつ、火暗はその言に耳を傾ける
そうして自身の中にあった弱気と迷いと理想を吐露した綺沙羅は、自分を殺した赤い鬼と視線を交錯させる
「それでも、あなたにこのことを話したのは命が惜しいからというのもありますが、きっとそれ以上に……あなたの赤い髪と目が、とても優しくて綺麗だったから、でしょうか」
「…………」
優しい面差しを浮かべ、微笑むようにして言う綺沙羅から発せられた思わぬ言葉に、火暗は面喰ったように目を丸くする
「火暗さん。まずは、私達が手を取り合うことから始めてみませんか? 勝利のためでも、敗北のためでもなく――戦いを終わらせるために」
天上界王であり、天上人最後の原在である綺沙羅を押さえれば、戦争の戦況が有利に傾く可能性は高い。だが、光の世界――特に、天上界は自分達の王を取り戻すべく決死の抵抗を試みるだろう
そうなれば戦況は大いに混乱し、勝利どころか戦争の終結もままならない状況になってしまうかもしれない――自身がすべきこと、したいことを思い浮かべながら思案を巡らせる火暗は、自身の力で封じ込めた綺沙羅へと視線を向けて口を開く
「とりあえず、具体的に話してみろ。その内容次第では考えてやる」
火暗のその言場に目を細めて穏やかに微笑んだ綺沙羅は、口を開いてその心中に秘めた思いを言葉として表していく
これが後に結ばれ、最も忌むべきものを生むことになる二人の出会い、その愛の始まりとなった
※
「――……」
(お前が死んだと聞いたとき、俺には分かったよ。――お前は、あの力を灯に託したんだな)
綺沙羅と知り合った時の思い出を思い返す火暗は、一つに融合し異形の人型となった病神の眷族――感染者へと切っ先を向ける
「天の落日」――現在ではそう呼ばれる世界三大事変の一つは、天上界王綺沙羅を天上人が処刑した事件。世界で唯一、九世界の王がその臣下に討たれた異常事態
だが、綺沙羅と愛し合い、自分達そのものである子供をこの世界に産み落とした火暗だからこそ、その死に込められた意味を理解していた
綺沙羅はその身に宿る神器の力によって、何度死んでも甦ることができた。だが、それがないということは、その神器が今は別の場所にあるということ――そして、その所在を考えれば思いつく場所はたった一つしかなかった
現天上界王「灯」。天上人と鬼の間に生まれた、生まれるはずのない混濁者。「最も忌むべきもの」とまで呼ばれる世界の理を超越した存在――そして、綺沙羅と火暗の愛娘だ
灯は、その神能の性質と存在、魂の神格が綺沙羅と全く同じ。ならば、綺沙羅が使える神器が使えても何ら不思議はない
(なら、俺もお前が護ろうとした者を守る。お前の夫として、灯の父親として)
自身の命をかけてまで娘を守ろうとした綺沙羅の想いを受け取った火暗は、父として、男として一度は守れなかった者を守り抜く確固たる決意と共に武器の柄を握りしめる
十世界に入り、緋毬や御門と示門と敵対してでも最後の家族である「灯」を世界から取り戻したいと願う火暗は、その想いを新たにして複数の病が融合した合併症感染者へと向かっていくのだった――。
※
地獄界の中枢鬼羅鋼城の敷地内。そこでは、無数の感染者が一つに融合して生まれた巨大な合併症の病神の眷族が、その力を振るっていた
その背に生やす無数の腕にそれぞれ一本ずつ、捻じれた槍を携えた合併症感染者がその力を放つと、天を奔った無数の槍撃は澄んだ青い力の一閃によって薙ぎ弾かれる
「――……」
口から吐き出される息遣いと共に、無数の手を生やした病神の眷族を睨み付けるのは、額に二本の角を持った青髪青眼の鬼――鬼の原在〝六道〟の一人である青の護鬼「皇」だった
神に最も近い最強の全霊命である皇に対抗し、異変をもたらすために融合した感染者は、その凶悪さを増した異形の姿となっている
身の丈に及ぶ巨大な戟を携えた皇は、自身にさえ感染してくる病の力に眉を寄せると、その視線を軽く横へずらす
そこにいるのは、翡翠色の髪をなびかせた二本角の鬼――六道の一人である緑の護鬼「静」。その武器である和弓のような弓を手にした静香は、それによって自身に向かってくる感染者
を薙ぎ払うと、新緑の鬼力を矢として放つ
神速で放たれた鬼力の矢の先にいるのは、静と戦うために融合した合併症感染者。鎧に身を包んだような重装甲と静の倍はありそうな巨躯を持つ病神の眷族は、悪性の増した病闇の力を纏う巨大な大盾で静が放った緑の矢を軽々と防いでみせる
「――……」
自身の放った鬼力の矢を阻んだ重鎧の感染者を、先の一撃にも劣らぬ鋭い視線で射抜いていた静は、皇の視線に気づいたかのように一瞥を向けてくる
(このままでは――)
視線を交錯させ、言葉もなく静と意思を交わした皇は、眼前に佇む多腕の合併症感染者と、神と同じ姿をした通常の感染者を見渡しながら忌々しげに歯噛みする
正常を害し、命を死に近づける〝病〟――異変と異常を司る病の神「罹恙神・ペイン」の眷族たる感染者には、増殖するかのように増える特性がある
これまで皇や静が何百何千、あるいはそれ以上の数を滅ぼしてはいるが、感染者達は、それ以上の速度で増えており、一向に数が減る気配はなかった
(急げよ、光魔神。このままではここにいる全員が病の餌食だ)
同じ鬼羅鋼城の中、ここからは遠く離れた場所で感染者達の病原にして病の神である罹恙神と同じ戦場にいる光魔神へと意識を向けながら、皇は心の中だけで言う
神に等しい神位第六位の神格を発現している光魔神と覇国神の神片である「帝王」、大貴の救援に現れた護法神の神片「救世主」と異端神の一角である罹恙神の戦いの結果が、そのままこの世界の運命になる
それが分かっている皇は、神速で肉薄してきた多腕の感染者を戟槍の一閃を振るって迎撃しながら、その視線を静とは別の方向へ向ける
「ウラァアアアアアッ!」
咆哮と共に振るわれた巨大な鉈刀が世界を斬り裂き、漆黒の斬閃を刻み付ける
「――っ」
しかし次の瞬間、その黒色の斬閃から軽やかに逃れ、桜色と漆黒色の二輪の花が咲く
だがそれは、花などではない。ただ粗暴に命を刈り取るための刃を回避した二人の女性の髪が翻って作り出した光景だった
桜色の髪と漆黒の髪――それぞれを戦闘の風になびかせるのは、二人の悪魔の女性。淑やかな存在感を持つ桜色の髪の大和撫子「桜」と、凛々しくも涼やかな麗しさを持つ黒髪の美女「瑞希」
自分達へと放たれた粗暴な斬撃を軽やかに回避した桜と瑞希は、その長い髪を翻しながら薙刀と双剣による斬撃と魔力の刃を放つ
「はあッ!」
その刃を放ったのは、燃える様な炎色の髪をした悪魔――英知の樹の幹部天樹管理臣の一角にして、罹恙神の宿主「厄真」。
魔力だけではなく、その身に宿した罹恙神の罹痛の力まで用いる厄真は、桜と瑞希の斬閃を回避することなくその身に甘んじて受ける
「……ッ」
薙刀と双剣の刃をその身に受け、赤い血炎を立ち昇らせながらも全く怯むことなく刃を風る厄真に、瑞希はその麗貌を忌々しげにしかめながら距離を取る
(死なないからって、何て戦い方をするのよ……!)
その身に宿す神器「永遠存在権」の力によって永遠の命を得ている厄真は、絶対的な不死性を最大限に利用し、桜と瑞希の攻撃を躱すことなく反撃を繰り出してくる
どんな攻撃を受けても殺せない相手と戦い続けるというのは、いかに全霊命であろうと永遠の徒労感と虚無感を禁じえないものだった
「――……」
瑞希が刃を回避し、魔力と罹痛の混じった黒い斬撃が掠めていくのを見届けた桜は、薙刀を携えながら、軽くその視線を逸らす
桜は、無数の感染者が折り重なるようにして集っているその場所をその双眸に映すと、焦燥に駆られたような表情で厄真へと向き直る
《神魔様、もう一度お願いいたします》
《分かった》
思念通話で互いの命を分け合った最愛の伴侶へと呼びかけた桜は、神魔から返されたその言葉に淑貌を引き締めて、魔力を研ぎ澄ませる
「魔力共鳴」
伴侶、番――心から認め合い、愛し合った者だけが至ることの出来る神能の共鳴による神能の共鳴と強化。
特に相性が良い上にここ数日の戦いによってその神格を高めた神魔と桜の共鳴は、原在にさえ迫る
「――っ!?」
しかし、本来なら共鳴して強化されるはずの二人の魔力はその反応を起こすことはなかった
何度やっても失敗する魔力共鳴に、瑞希は一瞥を送り、桜は息を呑んで微かな動揺と混乱を露にして目を瞠る
(やはり。神魔様と魔力の共鳴ができない……!)