病神浸蝕
天を衝く力の柱が立ち昇り、そこを中心に空間が軋むような圧力が世界全体を揺らしている。
太極と戦、病、そして悪意――四つの神の力がぶつかり合い、そこに込められた神の意志が世界に顕現して天地を揺るがすその様は、まるで神の力の神格に耐え兼ねて悲鳴を上げているかのようだった
「――大貴」
晴れているというのに、嵐よりも荒れている天を見上げ、先程まで自分達がいた場所へと視線を向ける詩織は、その中心へ残してきた大貴の身を案じて呟く
あの場にいたのは、大貴を除けば戦の神の神片である帝王と、病の神である罹恙神、そして純悪と呼ばれ、虐殺などを司る「狂楽に享じるもの」――いずれの面々も、九世界の知識がない詩織にさえも分かるほどに凶悪な存在だ
「彼なら大丈夫」
そんな存在がひしめき合っている場所に残してきた大貴を心配するなという方が無理な相談だろうが、瑞希はそんな詩織の心中を察した上であえて凛とした声音で励ますように言う
「帝王と、狂楽に享じるものは十世界に所属している。いくら彼らでも、光魔神である彼を殺したりはしないわ」
「瑞希さん」
気休め程度でしかないことは分かっているが、その瑞希の心遣いを感じ取った詩織は、わずかに胸中の憂いを晴らして頷く
「……はい」
「それよりも問題は――……」
かなりの距離を離れ、魔力の結界に守られていても、そこを通して伝わってくる神の神能の波動に気圧される詩織がその表情を強く引きしめて頷いたのを見止めた瑞希は、その表情を険しいものに変えて天を仰ぐ
そう言って剣呑な表情で顔を上げた瑞希が向けた視線の先には、大貴達がいる場所から一直線にこちらへと向かって来る一人の赤髪の悪魔の姿が映っていた
「逃がすと思うかよ!」
その人物――英知の樹の幹部天樹管理臣が一人「厄真」が巨大な片刃の大剣を携えて向かってきているのを見た瑞希はその場で足を止めて身を翻す
「桜さん、ここはお願い」
その両手に自身の武器である細身の双剣を携えた瑞希は、そう言うなり詩織を守る結界を展開している桜に声をかけて厄真へと向かっていく
背中越しに発せられた瑞希の言葉に、先程の霊雷との戦いで死に至る寸前の深手を負い、未だ赤々とした血炎を立ち昇らせている神魔に寄り添っている桜は神妙な表情で頷く
その声を背に受けながら、その神格に許された神速を以って地を蹴った瑞希は、時間と空間を超越して厄真と肉薄し、その刃をぶつけ合う
瑞希の双剣と厄真の大剣の斬撃がぶつかり合うと、その漆黒の魔力に込められていた純然たる殺意が解き放たれ、世界に破壊として顕現する
「ハハハハッ! やるじゃねぇか!」
「――ッ!」
互いの刃がぶつかり合い、空が悲鳴を上げて大地が砕け散る中、嬉々とした表情で吠える厄真の斬撃を受け止める瑞希は、その凛然とした美貌を苦悶に歪める
(重い……っ)
長身の厄真の身の丈にも及ぶ大剣を受け止める瑞希の細い双剣は、その斬撃の威力と圧に軋み、腕を介してその衝撃を魂の髄まで響かせてくる
それぞれの神格と神能が顕現した武器同士がぶつかり合って生まれる威力は、そのまま二人の力の差に等しい。英知の樹という世界でも特に危険視される組織の幹部を務める悪魔の力は、それに恥じないほどに強大なものだった
「ちょっとくらいは遊んでやってもいいんだが、まずは神眼を回収しねぇといけないんでな」
その斬撃の一振りで瑞希を圧倒した厄真は、獰猛な笑みと共に空いている左手に魔力を収束し、それを相対する黒髪の麗女へと叩き付けようとする
「桜」
それを見据えた神魔は、再生力に優れた闇の全霊命を以ってしても、未だ収まることなく血炎を立ち昇らせながら桜に声をかける
神魔に寄り添い、その身を労わっていた桜は血にまみれた伴侶の視線を注がれると、そこに込められた意思を瞬時に理解し、そして同時にその名と同じ桜色の長い髪を翻らせていた
「はい」
そう答えるが早いか、神魔の許を離れた桜は自身の存在が武器として具現化した薙刀を、今まさに瑞希にその魔力を叩き付けようとしていた厄真へ向けて投擲する
「――!」
全霊の魔力が込められた桜の薙刀の一撃に気付いた厄真は、半身を反らせてその一撃を回避すると共に、瑞希からも距離を取って地面に降り立つ
「……桜さん」
そのまま地に降り立った瑞希は、天を貫き、雲をかき消した薙刀をその手に携えていつの間にか自身の隣に佇んでいる桜へと視線を向ける
まるで風に舞う花弁のように長い髪を揺らめかせる桜は、自身の武器である薙刀を構えて厄真を見据えながら、瑞希の視線に一瞥と微笑を返す
「お怪我はございませんか?」
桜の澄んだ瞳に見つめられた瑞希は、その視線をゆっくりと背後に向け、詩織を守る結界を展開している神魔を映す
厄真は、瑞希の力では勝算の方が低いほどに強く、苦戦は免れ得ない。だが、今の神魔は深い傷を負った瀕死にも等しい満身創痍の状態であり、まともに戦うのは困難だろう
神魔の性格を考えれば、桜に戦わせずに自分が戦いたかったのだろうが、それでは逆に足手纏いになってしまうと考えたからこその決断であるのは容易に想像がつく
桜は神魔の十全の状態と同等程度の強さを持っている。少なくとも、今の弱り切った神魔とは比べるべくもない強さの持ち主だ
厄真の神格と比してもその実力は遜色はなく、その強さも信頼しているのだろうが、神魔としては愛する桜だけを戦わせている状況は歯がゆいものだろう
「えぇ、助かったわ」
詩織を守りながら、桜の背を見守るように視線を送っている神魔を見据え、そんな断腸の思いを幻視した瑞希は、二人の深い愛絆に肩を竦めるとその麗貌に微笑を浮かべる
いつの間にか、神魔に一人の女として惹かれていた自分に気付いている瑞希は、そんな二人の在り方に羨望の念を抱きながら、桜と肩を並べて口を開く
「私でごめんなさいね」
普段ならば神魔と肩を並べ、魔力を共鳴させて戦っている桜に、瑞希は視線を厄真へと向けたまま厳かな声音で語りかける
「いえ。とても心強いです」
嫉妬にも似た心に刺さる棘のような感情と、親しみと敬意が込められた声音で語りかけた瑞希に、淑やかに微笑んだ桜が応じる
「できれば、できればあいつの手を確認しておきたかったんだけれど……」
厄真は、神器を集めることを目的としている組織「英知の樹」の幹部。すでに罹恙神の依り代であることは分かっているが、それとは別に何かの神器を持っている可能性も十分にある
その可能性を見極めるためにも率先して先陣を切った瑞希だったが、その素の力にも苦戦を強いられ、目的を果たせなかった己の実力不足を悔いて言う
「いえ。気になさることではありませんよ」
そんな瑞希の心中を察している桜は、たおやかに微笑んで答える
(あなたは――あなたも、神魔様のために戦われたのですよね)
神器に対応するには客観的な視点でそれを見て、分析するのが最良。だからこそ、瑞希は率先してその役目をこなしたのだろうが、桜にはそれだけでないことが分かっていた
瑞希は神魔を愛している。だからこそ、相手の神格が自分より勝っていることを分かっていながら、満身創痍の神魔を守るために厄真の前に立ちはだかったのだ
「ここからは二人で戦いましょう」
「そうね」
自分と同じ想いを持ち、自分と違う形でその想いを示す桜と瑞希は、それぞれに相手への敬意を示して各々の武器を構える
共に同じ人を愛する二人の女が肩を並べ、桜色と漆黒の長い髪をその魔力に揺らめかせるその様は、荒れ果てた戦場に気高く咲く二輪の花のようだった
「――これはこれは。この別嬪さん達を倒すのには、ちょっとばかり時間がかかるかもしれねぇな」
桜と瑞希、美しくも強い意志をその存在で体現する二人と相対した厄真は、その充溢した魔力を知覚して、不測のない相手だと獰猛に笑う
「そんなことはないわ」
「!?」
武器を構え、純然たる戦意に満ちた笑みを浮かべた厄真が再びその力を振るおうとした瞬間、凛と澄んだ女性の声が一体の空間を震わせる
目の前にいる二人の女とは違う声にその表情を険しくした厄真が身体を動かそうとしたまさにその時、その胸の中心が穿たれる
「ぐ……ッ!?」
突如胸の中心を穿たれた厄真は驚愕に目を見開き、次いで半瞬遅れてやって来た激痛に顔を歪めながら、口から大量の血炎を吐き出す
「ここをどこだと心得ているの?」
その巨躯が力を失い、ゆっくりと崩れ落ちていく中、桜と瑞希は厄真の背後に長い緑色の髪を翻らせている人物を見て息を呑む
「私達の城内で不埒な真似を働くことは許さないわよ」
そう言って弓を手にして倒れ伏した厄真を冷ややかな視線で睥睨しているのは、額に二本の角を持つ緑の護鬼――緑鬼の六道「静」だった
「まったく、黒曜にこの城を預かっているのに言い様だわ。――できれば、あっちにも出て行ってほしいのだけど、私じゃ百人いても一瞬も保たないもの」
虚を衝かれたかのように肩に入っていた力を抜き、自分へと視線を向けてくる桜と瑞希に、静は肩を竦めて苦笑めいた笑みを返す
静達六道は、この場所――地獄界の中枢たる王の居城「鬼羅鋼」を地獄界王「黒曜」不在の間預かっている
先の神魔と霊雷の戦いでは、青の六道「皇」が展開していた結界をすり抜けてきた手の内を探るために様子を見ていたところ、神片である帝王が出現したことで出るに出られない状態になっていたのだ
「今頃になって、のこのこ出てくるなんて恥知らずもいいところでしょうけれどね」
「いえ、そのようなことは……」
何もできないと分かっていて、何もできずにいた自身を蔑むように自嘲めいた言葉で誹った静の言葉に、桜は否定の言葉を返す
この世界において、力の格は絶対的なもの。知覚で相手の方が自分の力を上回っていると分かれば、よほどのことがない限り望んで相対することなどありえない。それは、もはや自ら命を捨てているに等しい行いだからだ
たまたまその標的が神魔だったからこそ、先の場では逃げ出すことをしなかっただけ。もしこれが別の誰かだったならば、不干渉を貫いていたかもしれないと思うと、桜も瑞希も静を責める気持ちなどなかった
「あ゛ぁ……痛ってぇなァ」
「――ッ!?」
桜の言葉と、それに続く瑞希の首肯に静が謝罪と感謝の言葉を込めて目を細めた瞬間、三人は地面に倒れ伏している厄真の低い声に弾かれたように顔を向ける
それに応じるように、胸に巨大な穴を穿って倒れていた厄真は、その傷口からおびただしい量の血炎を立ち昇らせながらゆっくりと立ち上がる
「うそ……っ」
胸に大穴を穿たれながらも、平然と立ち上がった厄真に詩織が絶句し、同様に桜と瑞希――そして、その一撃を見舞った本人である静も目を瞠って驚愕を露にする
いかに全霊命の生命力が強かろうと、胸に大穴を穿たれれば生きているのは極めて困難。まして、それを行ったのが神格的に上回っている人物ならばなおのことだ
しかし、現実に厄真は胸に大穴を穿たれながらも平然と立ち上がり、何事もなかったかのように平常に振る舞っている
「惜しかったな。本当なら、今の一撃でお前達が勝ちだったぜ」
反射的に飛びずさって距離を取った美女三人が驚愕に顔を染めているのを愉しむように口端を吊り上げて獰猛に嗤った厄真の言葉と並行するようにその胸の傷が瞬く間に塞がり、次の瞬間には完全に復元して健常な状態へと回帰する
身体に空いていた大穴が瞬く間に塞がっていくのを見て息を呑む桜達を見て愉悦に目を細める厄真は、更に口を開いて言葉を続けていく
「罹恙神は〝異常〟の神。それを宿す者は、命を吸い取られ、全霊命であっても命を落としちまう」
大剣を地面に突き立て、その手で何かを掴むように手を平を上に向けて軽く握る形にした厄真は、桜、瑞希、静の三人を見据える
厄真が依り代となっている異端神「罹恙神・ペイン」は、異常と異変の神。故に罹恙神が司っているそれは病や怪我をはじめとした正常を害う事だ
そして、それらはその身体に異変と変調をきたし、最悪の場合は命さえも奪ってしまう。――ならば、それそのものであるといっても過言ではない罹恙神が、依り代にとって有益なものであるはずがない
罹恙神の依り代となったものは、常にその正常を害われる。あらゆる異常がその身を蝕み、やがてはその命をも喰らい尽くす。その期限は長くても一年。
神の一柱である罹恙神の力を一時得られる代償として差し出されるものは、決してそれに見合ったものではない
「だが、俺はそうはならない。――何故だか分かるか?」
「まさか……神器!?」
宿しているだけで命を削られる罹恙神と平然と付き合い続け、今も何一つ異常をきたしていない自身の存在を誇示するように問いかけた厄真の言葉に、その答えへ至るのは必然だった
瞬時に桜と静が同様の答えに思い至り、瑞希が思わず声を発すると、我が意を得たりとばかりに一層笑みを凶悪なものに変えた厄真は声を上げる
「そうだ! 神器『永遠存在権』。俺の身体に宿った神器は、俺に永遠の命を与える。つまり、俺は不死にして不滅! お前達の力じゃあ、どうあがいても俺に死を与えることはできねぇんだよ!」
「――っ!」
もはや勝利を確信したかのように咆哮めいた笑声を上げる厄真の言葉に絶句する桜と瑞希を横目に、静はその双眸に剣呑な光を灯す
英知の樹の幹部「天樹管理臣」の一人である厄真
は、その身に罹恙神を宿しているだけではなく、神器にさえ選ばれている――否、正確にはその神器を持っていたからこそ、罹恙神をその身に神染させていられた
神器「永遠存在権」。その命を永遠のものし、その存在を不滅のものとなす神器。その身に宿しているだけで命を喰らわれる罹恙神でも、依り代が永遠の命を持っていれば、喰らい尽くすことはないのは自明の理だとも言えるだろう
「だが、六道相手はさすがにやべぇ! ならこっちバッ――」
自身の不死を掲げ、凶猛な笑みを浮かべる厄真の言葉を遮り、その頭部を神速で放たれた静の矢が吹き飛ばして、言葉を止める
いかに神器の力によって永遠の命を得ていようとも、その神格が強くなるわけではない。個人としての厄真の強さでは、鬼の原在である静と戦うのは困難だった
「無駄だって言ってるだろうが!」
頭部を吹き飛ばされ、それでも絶命することなくその命を有している厄真は、その傷口を瞬く間に復元させながら、またしても一撃必殺の矢を放った静へ咆哮を叩き付ける
「それが、攻撃の手を緩めない理由にはならないでしょう? それに、とりあえずあなたのような相手に出会ったら、一度は試してみないといけないじゃない」
しかし、威圧めいた厄真の声にも、その不死性にも怯むことなく、微笑をたたえて佇む静は、不気味なほど穏やかな声を紡ぐ
「なにを――!?」
その言葉に厄真が息を呑んだ瞬間、神から生まれた神に最も近い全霊命の隔絶した神能が世界を塗り潰す
純然たる滅意に染め上げられた鬼力を解放した静は、すでにその傷を完全に復元している厄真を見据えて、花唇を微笑の形に吊り上げる
「その身体、魂を跡形もなく滅し飛ばしたら、どうなるのかを」
「!」
その言葉に厄真が目を瞠ると同時に、静は和弓型をした自身の武器から鬼力を収束した矢を放つ
その神格に比例する神速で放たれた矢は、その射出までの動きが見えないほどに速く、そしてそれと同じ速度で天を射抜く鬼力の矢は、時間と空間を超越して標的――厄真の身体へと吸い込まれるようにして炸裂する
「チィッ」
全霊を以って放たれた鬼力の矢を大剣の一閃を以って弾き飛ばす厄真だが、六道の一角である静の一撃は、その神格を遥かに上回り、炸裂した衝撃によって大剣が腕ごと弾き飛ばされてしまう
そして、その一瞬の隙に、連続で放たれた静の矢が厄真の腕を吹き飛ばし、瞬間的に展開された魔力の結界さえも穿ってその身体を次々と消し飛ばしていく
「――ッ、っ……!」
神器による再生の隙さえ一切与えず、撃ち込まれる鬼力矢によって厄真の魔力結界をことごとく破壊した静は、その刹那の間すら存在しない連続射撃の間に仕込んでいた力を発現させる
静の意思に答えるように、空中に飛散していた鬼力矢の残滓がさらに二度目の息吹を与えられ、厄真を全方位から取り囲む無数の球へと変化する
「終わりよ」
厳かな声で呟いた静が弦を鳴らした次の瞬間、鬼力の球が矢となって迸り、全方位から厄真を射抜いて炸裂する
収束した鬼力は一つとなって天を貫く力の柱を生み出し、その内側にある厄真の身体を、欠片も残さずに消滅させていく
全霊命の身体は、その神能によって構築されているもの。その身体が完全に消滅すれば、それはその神能――即ち、魂と力存在そのものが完全に消滅した
に等しいことになる
鬼力の炸裂によって打乱れた翠緑の力の奔流が消失し、厄真の身体が完全に消滅したのを確認した静は、その端麗な美貌を崩すことなく微笑を刻む
「――参ったわね。彼の力が消えない」
身体を跡形もなく滅し飛ばしたというのに、厄真の魔力が全く衰えることなくこの場にとどまり続けているのを知覚した静が、わずかに声を引き攣らせて言う
その言葉が事実であるのを桜と瑞希もまた同様に知覚しており、そしてそんな三人の女性達の前に魔力が揺らぎ、完全にその肉体を世界から焼失していたはずの厄真が形を成していく
「今度は、こっちの番だぜ」
何もない空間に魔力を揺らがせ、その身体を形作っていく厄真は、口が再生されると同時に不適に笑い、そして桜、瑞希、静を睥睨しながら自身に感染している神に呼びかける
「罹恙神!」
※
《行くのか》
一歩踏み出した足を止めるように背後からかけられた言葉に、神庭騎士「シルヴィア」は、肩ごしにその声の主に視線を向ける
「えぇ。享楽の悪意が離れた今、あの状況を放置しておけば神器を奪われることになってしまいますので」
その声の主――「ロード」へと一瞥を向けたシルヴィアは、結界の中から見える戦場へと視線を向けて言う
そう言って、視線を向けた先では大貴、帝王、罹恙神が三竦みの状態になっている
先程までその場にいた狂楽に享じるものは、厄真か罹恙神――英知の樹が神眼を手に入れるのを待って横取りしようと、その場を離れてしまっている
故に、今その戦場では何としても神魔を消そうとする帝王と、神器を狙う罹恙神を前に、大貴が動けない状態になっていた
「もう、神眼はどうなってもいいんだぞ」
「ならば尚のことです。関係のない彼女の命を犠牲にすることはできません――元々あれば、囮なのでしょう?」
暗に、詩織を見捨て、神眼を奪われても構わないという意図の言葉を述べるロードの言葉にも一切反応せず、シルヴィアは高潔に悪意の眷属である脆弱な命を助けることをいとわなかった
「そうか。ただ、あいつらと戦うために神託の力を使えば、もう誤魔化せないぞ」
目的のために犠牲を出すことは許容しても、関係のない犠牲を出すことを望まない守護者としての在り方と意思を正しく貫かんとするシルヴィアは、念を押すように向けられたロードの言葉に、一瞥さえ向けることなく地を蹴る
「分かっています。ですが、もう隠す必要もないのでしょう?」
守護の力を以って戦場へと続く空間の扉を開いたシルヴィアは、背後から視線を向けてくるロードに誇り高い言葉を残して、自身が開いた道へその身を躍らせた
「ご心配せずとも、軽々しく吹聴して回るような真似は致しません」
「――」
自身がここへと赴くことになったやり取りを思い返すシルヴィアは、護法神の神片――「救世主」として、神位第六位に等しい神格を得た自身の武器を構える
その高潔にして清廉な魂の在り方を映したような白銀のハルバードを構え、怜悧な視線で眼前の敵を射抜くシルヴィアは、相対する罹恙神がこれまでとは違う挙動を見せるのを見逃さなかった
《罹恙神!》
たとえ、身体から本体が離れていても、その病みである罹恙神は、厄真の声を正しく感じ取ることができる
目的を緑の六道に阻まれた厄真に呼びかけられた罹恙神は、その願いに応えるべく、自身の力を解放する
「オォォォォォォォッ!」
罹恙神の背中から翼のように噴き出した罹痛の神能が枝のような形状を以って空に病闇の線を張り付けていく
「――!?」
まるで張り巡らされた神経のように天空に刻まれ、更に樹や菌のように広がりを以ってその範囲を拡大していく病闇の枝木にそれを横目に帝王と戦っていた大貴も思わず息を呑む
「これは……っ」
罹恙神が何をしようとしているのかを瞬時に理解したシルヴィアは、その行いを阻止するべく、守護の神力を宿したハルバートを振るい、光の斬閃を放つ
神速で振るわれた刃から放たれた斬閃状の力の波動は、あらゆるものを守り、害をなすものを滅ぼす守護の光の収束だ
しかし、神の神格を得たシルヴィアが放った護光の斬波動は、大地に感染してその勢力を拡大していた罹恙神の病巣の力によって阻まれ、その身体に届く前に相殺され、無に返される
空に、大地にさえ侵食し、その力を広げる罹痛の力は、今や菌糸のように周囲一帯を呑み込んでおり、その意思によって自在に好き場所からとその力を解放することができるまでになっていた
「――っ!」
自身にさえ感染しようする力を、守護の光で退けているシルヴィアだが、無限の増殖と感染拡大を広げる
力は、罹恙神の周囲に十全に張り巡らされており、攻撃と防御の領域を作り上げていた
そんな罹恙神の力に苦々しげに歯噛みするシルヴィアの視線の先では、天空に張り巡らされ、さらに鬼羅鋼城全体よりも広がった病闇の枝木に、果実が実らんとしていた
「くっ」
唇を引き結び、その端麗な美貌に険しい表情を浮かべたシルヴィアが地を蹴り、罹恙神にその斬撃を撃ち込もうとするが、その足元、そして本体から放たれる罹痛の病闇の力がことごとくその接近と攻撃を阻む
放出された罹痛の神力は、罹恙神本体をも呑み込み、まるでその鎧のように病巣の力で構築された巨大な肉体を形作って、シルヴィアを迎撃する
「病の鎧躯――! これが、感染と増殖の力」
病的なほどに白い十メートルを越える巨大な身体に、四つの目。そして肥大した肉塊のように病闇の力が密集した肉体から伸びる太く長い無数の手のような触手に打ち据えられ、守護の結界でその連打を凌いだシルヴィアは忌々しげに言い捨てる
そしてその病巣の鎧躯に身を包んだ罹恙神の背後では、世界に張り巡らされた病闇の枝のいたるところに、無数の果実が実り、そして見る見るうちに膨らんでいく
「なんてこと……」
それを防ぐことのできなかったシルヴィアの前で、病闇の木枝に実った果実が変化し、それが罹恙神と全く同じ姿をしたものを生み出していく
しかもそれだけにとどまらず、罹痛の力から生まれた罹恙神の分身は、そこからさらにまた一つ、また一つとその数を増やしていき瞬く間に数百を超える同容の存在を生み出していた
「なんだ!?」
「罹恙神のユニット能力――〝感染者〟だ。神格こそ落ちるが、ほぼ無限に増殖する」
一瞬にして数百を超えて増殖した罹恙神を目にして驚愕を露にする大貴に、武器を向け合って牽制していた帝王が淡泊な声音で応じる
罹恙神が生み出したのは、そのユニット能力である「感染者」。神格こそ通常の全霊命級となるが、無限に増殖する特性と罹痛と同様の能力を備えている
「まさか、あれを戦場にばらまくつもりか!?」
帝王から、それが何なのかを聞いた大貴が罹恙神の目的に気付いて声を上げるのと同時に、それを肯定するように病闇の木から生まれた感染者達は、全方位へと飛び散っていく
次々に産み落とされる感染者達が、そのまま鬼羅鋼城の各地へ、そしてその枝の届く全ての領域へと落ちていく様は、まるでこの世の終焉のようだった
「させません……っ!」
自身の分身を以って世界を病まさせようとする罹恙神の思惑を阻むべく、解放した守護の神力による浄滅を試みるシルヴィアだったが、病巣の力が密集し、凝縮した鎧躯の一撃がそれを阻む
同じ神格を持っていても、神片であるシルヴィアにユニット能力はない。その最大の差異を利用した罹恙神の攻撃には、さすがの救世主も手が及ばなかった
そんなシルヴィアをあざ笑うかのように、罹恙神と全く同じ姿をしたおびただしい数の病神の眷属達は、鬼羅鋼城全体に降り注いでいくのだった
※
「ご心配せずとも、軽々しく吹聴して回るような真似は致しません」
その声が消えるよりも早く戦場へと飛び込んでいったシルヴィアを見送ったロードが小さく嘆息すると、これまで沈黙を守っていた撫子が、憂いを帯びた声を向ける
「ロード様」
その美貌に隠しきれない負の心情を滲ませた撫子に呼びかけられたロードは、戦場へと視線を向けてそれに答えるように口を開く
「神魔はすでに器として完成している。だが、先の戦いで半端に死に臨したせいで、箍が外れてしまったのも事実だ」
ロードのその言葉に、撫子は沈黙という肯定の意を示して、その先が声になるのを淑然とした居住まいを崩さずに待つ
霊雷との戦いで神魔が負った傷は、全霊命にとっても致命傷で、人によっては命を落としていてもなんら不思議ではないほどのものだった
それを紙一重で生き延びて命を繋いだはいいが、死に瀕したことで神魔の「全てを滅ぼすもの」としての器が開きつつある
「撫子。お前が妹に託した保険を使うときだ」
ロードが戦場となっている鬼羅鋼城を見据えながら静かな声で語りかけると、その傍らに淑やかに佇む撫子は、その美貌に憂いを浮かべて頷く
「はい」