純悪
「純悪……?」
突如天を歪めて現れた褐色に近い色の肌に、漆黒の刺青のような紋様を持つ筋肉質の男――最強の異端神、円卓の神座№2「反逆神・アークエネミー」の力に列なる存在悪意を振りまくものの一人である神片を指して、瑞希が震える声で紡いだ呼び名に、大貴と詩織が怪訝な表情を浮かべる
「さっき、帝王は、あの男の事を〝ウォール〟と呼んだわ。ならば、あいつの名は、『狂楽に享じるもの』――享楽の悪意よ」
先程帝王が呼んだ名を思い返した瑞希は、その身を嫌悪と恐怖にかすかに強張らせながら、険しい視線を「ウォール」と呼ばれた男へ向ける
「享楽……?」
背中越しに向けられる瑞希の言葉に、その魔力で構築された結界の中から「ウォール」と呼ばれた悪意の神片を見る詩織は、怪訝そうに言う
あの「ウォール」が反逆神の眷属だとしても、享楽という言葉からはそれほど恐ろしい印象を受けない。だが、その存在を前にして神魔、桜、瑞希が見せた反応はこれまでにないほどのものであり、詩織にはそれが何を意味しているのか、判然としなかった
「……神敵が司る悪意は、神から生まれた全霊命にも、少なからずあるものよ」
そんな詩織の心中の疑問に答えるように、瑞希は精神を集中するように深く息を吐きながら、意図して
抑制した声音で語りかける
「神敵」と呼ばれる存在であったとしても、反逆神もまた異端神の一柱。その起源を辿れば、世界最初の大戦――「創界神争」において、光の神位第一位「創造神」と闇の神位第一位「破壊神」の戦いによって生まれ出でた存在だ
それは、神の理をなぞり、そのままに生きる傀儡としてではなく、確固たる自由意思を生み出すための根源――「神への反逆心」の顕現と言えるだろう
これまでも、「生死の理に反して、死んだ愛する者を蘇らせようとする者」や、「神に挑もうとした者」が少なくともいたように、いかに世界で忌み嫌われていようと、神に敵対する反逆神の性質は、全霊命、半霊命問わずに少なからず存在している
「けれど、反逆神の神片の中に二体だけ、悪意の眷属しか持ちえない悪意を司るものがいる。――それが、〝純悪〟。悪意の中の悪意。最も忌むべきものよ」
「……!」
長い黒髪を揺らめかせ、恐れと嫌悪に彩られた双眸で「ウォール」――「狂楽に享じるものを見る瑞希の言葉に、詩織は小さく息を呑んで理解する
「それが、〝自殺〟の悪意『自らを殺すもの』と、あいつ――〝享楽〟の悪意『狂楽に享じるもの』よ」
かつてまみえた「弱さを振り翳すもの」が、「己の弱さを理由に、自らは何もせずに強者から搾取する悪意」であったように、反逆神の眷属たる十体の神片――「悪意を振りまくもの」は、それぞれが一つずつ悪意を司っている
神に最も近い存在である全霊命でさえもが持つ神への反抗心たる悪意。だが、その中に九世界の存在が持ちえない悪意を司るものがいる。悪意と、そして悪意の眷属たるゆりかごの存在だけが持つ最も忌むべき、悪意の片割れ――それが「享楽の悪意」だ
「享楽は、道徳と倫理を踏み躙り、残虐な愉悦を愉しむ悪意。弱さによって他者に振るわれる暴虐――つまり、いたぶり、嬲り殺す〝虐殺〟や〝拷問〟、〝強姦〟を司る悪意よ」
「――ッ!」
口にすることさえ悍ましいと感じていることがありありと分かる声音で言う瑞希の言葉に、詩織はその恐怖を理解して、身体を強張らせる
(そうか。だから、神魔さんは桜さんを庇って……)
享楽の悪意は、強者が弱者を蔑み、弱者が強者を僻み、妬み、自身の鬱屈した感情を発散する卑屈な在り方。
他者が苦しむ姿を愉しみ、他者を虐げることに優越感を覚え、己の愉悦のためだけに他の命さえ弄ぶ〝享楽〟――愛する者にしか開かれない全霊命の身体、すなわち神能を犯し、その心と身体の尊厳さえ蹂躙する権能さえも有するそのあまりに残虐で身勝手な悪意が忌み嫌われ、恐れられるのは当然のことだろう
「そう怯えるなよ。俺は、今世界に平和を訴える十世界に所属する愛の使徒だぜ? 自分の本分を忘れる訳じゃねぇが、やりたい放題やるほど考えなしじゃねぇよ」
瑞希の言葉を聞いた詩織と、同様にそれを聞いていた大貴から非難と忌避の視線を向けられた狂楽に興じるものは、喉を鳴らすようにして笑いながら、それに答える
全ての存在が幸福に生きることのできる恒久的平和世界の実現を目指すことが十世界の目的。いかに、神敵たる反逆神の眷属とはいえ、自分達の神が愛梨に従っている以上、その悪辣な享楽の悪意をある程度自嘲する意思があることを示すように言う
その言葉をどこまで信じるべきか慎重に伺っている大貴の姿を見て、軽く肩を竦めたウォールは、軽く背を仰け反らせるて胸を張る様な体勢を取ると、尊大な表情で口端を吊り上げる
「まあ、いいさ。とりあえず自己紹介をしておこうか、光魔神。悪意を振りまくものの一人、『狂楽に享じるもの』だ」
大貴を睥睨し、あらためて名乗った享楽は、自身へと注がれる冷たく射抜くような視線を感じ取って、その声の主――戦の神の神片である「帝王」へと向き直る
「そんな怖い顔で睨むなよ」
「随分と、都合のいいタイミングで出てきたものだ……先のあの男に、何か仕込んでいたな?」
軽く肩を竦め、嘲笑しているともおどけているとも取れるような声音で言うウォールに、帝王は、嫌悪感を隠そうともせずに言う
帝王が言う先のあの男が、神魔に斃された霊雷のことを指しているのは明らかだった
思い返してみれば、霊雷は神魔へと向けられていたその憎しみの矛先を「苦しめるため」という理由で、敵が最も大切に想っているもの――「桜」へと向けていた
その発想や思考は、極めて悪意に近いもの。特に、相手に絶望を与えて喜悦を得るその在り方は、目の前にいる悪意が司っている「享楽の悪意」の一端だと言える。
その上、図ったかのようなタイミングで現れた狂楽に享じるものの事を考えれば、それを結びつけて考えるなという方が難しいことだろう
「仕込んだっていうのは語弊があるな。そんなことをすれば、さっきの戦いを見ていたお前が気付かないはずはないだろ?」
覇国神の眷属の証である瞳のない目から送られる射抜くような帝王の視線を、横長の瞳孔を持つ瞳で受け止めるウォールは口端を吊り上げて嗤う
帝王の言葉を肯定しているに等しいその言葉と、悪びれもしない態度からには一切の悪気が感じられず、むしろそれを愉しんでいるような愉悦に享じるその心中が透けて見えるかのようだった
「あいつを悪意に堕としたのはあいつ自身の復讐心だ。姫に外に出してもらえずに、復讐心を滾らせていたあいつ自身の心が、それを望んだんだよ」
そんな態度に一抹の不満を覚えてつつも、一切それを表に出さずにいる帝王に対し、ウォールはそんな心中さえも見透かしたかのように、悪意に満ちた笑みを浮かべて言う
ウォールの言うように、もし悪意の神能――「反逆」の力によって霊雷に何らかの影響を与えていたのなら、それに帝王が気付かないはずはない
先の悪意を育てたのは、霊雷自身だった
「つまり、奴に接触して悪意を感染させたというわけだな」
「世間話をしただけだ」
目を背けたくなるほどに醜悪な力を纏うウォールの悪意に、帝王は表情を変えることなく冷たい声を向ける
その内に秘めていた暗い感情を見抜かれ、死紅魔によって十世界の拠点に軟禁状態にあった霊雷は、神魔を前にして何もできないことに苛立ち、憎悪を募らせていた
そんな中、霊雷に接触を図ったのが、他ならぬ狂楽に享じるもの――「ウォール」だった。
「面白そうな奴がいたから、ちょっと話してみただけだ。それで、俺の力に感染したことを責められても、俺には関係のない話だ。――それは、あいつ自身の問題なんだからな」
十世界に所属している者は、その理念に共感した者と姫自身を気に入っている者、あるいは十世界を利用しようとしている者ばかり。その中に隠しきれない私怨に駆られた者がいれば、目につくのは必定
悪意の存在として、そんな霊雷に興味を持ったウォールが接触を図ったのは当然のことだった
事実、その時にウォールは何もしていないどころか、悪意を正しく忌み嫌う霊雷に邪険にされる形で退散している
しかし、神位第六位に等しい神格を持つ狂楽に享じるものの悪意は、復讐の炎に魂を焦がしていた霊雷に影響を及ぼしていた
「悪意の感染……忌々しいことだ」
ウォールの言葉を受けた帝王は、その真偽のほどに関わりなく、忌々しげに舌打ち混じりに言い捨てる
悪意は感染し、広まっていくという特性を持っている。悪意とは堕落であり、己の弱さを糧に生まれる鬱屈した叛逆の意志。生まれ、芽吹いた悪意は波及し、その心と力の弱さが、自らを正当化して、平等、権利といった聞こえのいい言葉で飾られて暴虐の限りを尽くす
自らの弱さを正すことをせず、自らを弱さを肯定することをせず、強いものを妬み、僻み、自分と同じ弱さまで引きずり落とそうとする。
この世で強い者は限られている。だからこそ、誰の弱さにも悪意は潜んでいる。そんな弱さと共鳴し、悪意は膨張して、やがて自らを殺すまでに横暴になっていくのだ
「ま。そういう訳で、俺は奴になにもしてねぇ。ここへ来たのは、確かに偶然じゃないがな」
横長の瞳孔を抱く瞳を抱く目を細めながら、自分が意図してここへやって来たことを告げたウォールは、金色の王笏杖を手にした帝王に視線を向ける
「そんなことより、お前は何をしようとしてたんだ?」
「先の戦いの一部始終を見ていたのなら分かるであろう? そこにいる者を処断するのだ」
聞くまでもなく分かっているはずだというのに、悪意に満ちた笑みを浮かべて訪ねてくるウォールに、帝王は軽く鼻を鳴らして、その瞳のない目を神魔へと向ける
不可侵の神能を持つ神器「神覇織」を、真正面から打ち破ってみせたただの悪魔。「全てを滅ぼすもの」としての神魔の存在を知らずとも、この世の理を否定するその力の片鱗を見れば、その存在に脅威と危険を覚えるのは当然のことだ
それを世界のために排除しようとするのは、ある意味当然の考えであり、普通に考えれば帝王の思考に同調するべきであるともいえる――ただしそれが、十世界に所属していなければ、だが。
「さすがに、それは姫の意思に反するんじゃねぇのか?」
「……」
ウォールの口からからかうように告げられた言葉に、帝王はわずかに眉根を寄せてその表情を険しいものに変える
十世界盟主たる「奏姫・愛梨」は、世界の恒久的平和を重んじ、あまねく存在の調和を望んでいる。この理念が実現した世界では、現在の世界で忌避されるばかりか、原則として即殺の対象である「多種族との愛と婚姻」、「混濁者の受け入れを認めようとしている
そんな愛梨ならば、いかに神魔が危険な存在であると説いたところで、分かり合うことを望んでその命を奪うことを是としないであろうことは明白だ
それに加えて、帝王がこの場に来ているのは、霊雷の信念と生き様を見届けることを、愛梨に許可を取った戦王から託されたからだ
そうなれば、霊雷の処遇に関して一定の裁量はあっても、今神魔を世界と十世界の大義のために殺す正当性は帝王にはない
「貴様がそのような殊勝なことを言うとはな」
ウォールの言い分は、至極もっともだ。悪意から告げられた反論の余地のないその言葉に自嘲するように応じた帝王は、しかしその表情とは裏腹に冷ややかな視線を送っていた
神魔が危険で不確定な要素であるのは間違いない。ウォールの言葉を否定するためには、一度愛梨に連絡を取って、その抹殺の許可を仰ぐ必要がある。――だが、それを伝えたところでそれに返される答えは「否」であることは分かりきっている
神魔は殺さなければならない。しかし、個人としてならばともかく、十世界の意思として神魔を危険だと半出して殺す判断を下すことはできず、許可を得ようとすればそれを拒否される――そんな三つの選択肢の前に、帝王はただ沈黙を守ったまま立ち尽くす事しかできなかった
「いや、本音を言えば面白そうだからってのが、一番大きな理由なんだがな。なんたって、何の理由もなく神器を壊す奴だ。それが、この世界に――神にとってどれほどの脅威なのか、神敵としては気になって仕方ねぇ」
しかし、先の正論の中で身動きが取れなくなっている帝王が、そこに含まれる真意を見抜いていることを感じ取っているウォールは、笑みを噛み殺しながらそれを肯定して笑ってみせる
確かに、先程う帝王に告げた言葉は、十世界のあるべき姿という意味では正しい。だが、それが建前でしかないこともまた、隠すつもりもないその表情と言葉が物語っていた
狂楽に享じるものは反逆神の神片。神に叛逆うする神敵として、この世の理を崩す存在が殺されるのをみすみす指を咥えて見ていることなどできるはずもない
「貴様……」
その言葉を聞いた帝王が苛立ちを露にして、金色の王笏杖を握る手に力を込め、その神能に戦意を強く滲ませると、ウォールはそれを待ちわびていたかのように口端を吊り上げて軽く舌なめずりをする
そしてそれと同時に、ウォールの手の中にその悪意の神能が武器として顕現した巨大な大鎌が出現する
蝙蝠の翼を思わせる形状をした漆黒の刀身に骨のように白い柄には、その石突から伸びる鎖が絡みついている
その凶々しさを強調するように、棘や磔台を思わせる装飾が施されたその大鎌は、まさに弱者を弄び、強者を嬲り、その心身を蹂躙する凶器と拷問具を複合させているかのようだった
「オイ。死にたくなければ逃げろ――この頭でっかちは俺が足止めしてやる」
口端を吊り上げ、遊興に興じるだけの悪意に満ちた笑みを浮かべたウォールの言葉に、桜を庇うようにしている神魔は、その視線に険を乗せる
「ってわけで、ちょっと付き合ってくれよ。王様」
顎をしゃくり上げ、見下すような視線を向けて皮肉混じりに言うウォールの言葉は、誰が見ても挑発しているようにしか思えない
当然その程度で簡単に吊られるような性格はしていないが、最も醜悪な悪意の欠片からのその挑発的な態度に、さしもの帝王も小さくない不快感を抱いているようだった
「神魔様」
互いに向かい合い、一触即発の様相を呈している戦と悪意――二人の神片の力と戦意が高まっていくのを知覚して、桜は神魔へと声をかける
「……全然嬉しくないんだけど」
確かに命拾いをしたのは間違いないが、悪意の眷属に庇われたという現状は、神魔からしても歓迎するべきこととは言えない
その胸中に渦巻いているであろう複雑な心境を押し殺した神魔は、この絶好の機会を逃すべきではまいと判断して小さく頷いて、先のウォールの言葉に従う意志を示す
「…………」
そうして、神魔達が撤退を始めようとするのを視界と知覚の端で捉えながら、帝王は、武器を構えて不敵な笑みを浮かべているウォールを見て小さく歯軋りする
いかに神敵である悪意であろうと、今は十世界に所属する輩。私的な感情のみで攻撃することはできない帝王にとって、この場でその力を振るうためにはウォールから攻撃してきてくれることが望ましい
だが、そんな帝王の思惑を十二分以上に把握しているウォールは、ただその前に戦意を以って立ちはだかっているだけで十分すぎるだけの成果を上げることができる
「逃がさぬ」
「おっと」
帝王がその力を以って瞬時に空中に顕現させた無数の檻が神魔を捕らえる前に大鎌の一閃と共に相殺して見せたウォールは、悪意に満ちた笑みを向ける
「……ッ」
「いいねぇ、その顔。王様に反逆するのも、悪意の醍醐味だ」
自身が作り出した金色の檻を粉砕され、それが力の欠片となって世界に溶けていくのを忌々しげに瞳のない目に映す帝王に、ウォールは軽く舌なめずりをして王の意思に背く反逆の悪意の愉悦を噛みしめる
神片は、反逆神の悪意の欠片であり、狂楽に享じるものならば「享楽」というように、それぞれが一つずつ悪意の形を司っている。
だが、他の悪意と全く互換性や関係性がないわけではない。程度の差はあれど、悪意の眷属はすべての悪意を兼ね備えているのだ
「その小癪な悪意を王として制圧してやってもよいのだぞ」
「ハハッ! いいねぇ。そうでなくちゃいけねぇ!」
自身のそれと違う悪意を愉しみながら叛意を露にするウォールを冷たい視線で睥睨した帝王は、その力を純然たる戦意で染め上げながら金色の王笏杖を軽く構える
「……!」
「ぁん?」
しかし、そこまでで充溢していた戦気を緩めた帝王に倣うように、ウォールもまたその顔をしかめる
「……なんだ?」
それを知覚で感じていた大貴が、突如互いに向け合っていた殺意と戦意を緩めた帝王とウォールへ一瞥を向けると、二人は揃って地獄界の空――その天頂に輝く神臓の太陽を見ていた
「なにか来やがるな」
楽しみを邪魔されたことが不満なのか、不貞腐れたような表情を創るウォールが横長の瞳孔を持つ瞳に太陽を映しながら独白する
「…………」
それを聞いた帝王は、その言葉に答えることはせず、沈黙を守ったまま表情を変えることなく蒼く澄んだ空を見つめていた
※
「――っ……」
真紅の鮮血が燃え上がり、地獄界王に属する赤の戦鬼――「示門」の渾身の斬撃を受けた赤髪の男がよろめく
鮮やかな赤い髪にそれと同色の双眸は、地獄界を総べる闇の全霊命である「鬼」、その六色の種族の一つである〝赤鬼〟の証。そして、額から生える一本角は二つの系統の一つ戦鬼の特徴でもあった
そんな赤の戦鬼である男は、先の一撃を以って額に傷をつけた鬼「示門」の実父にして、十世界地獄界総督を任される人物――「火暗」だ
「……浅い」
苦々しげに吐き捨てる示門の前に、その斬撃によって顔に刻み付けられた袈裟懸け傷から赤い血炎を立ち昇らせる火暗が、その武器である片刃大剣の剣鞭を暴れさせる
まるでのたうつように奔る剣の鞭を回避し、後方へと飛びずさった示門がその武器である大戦斧を構えると、先程の一撃で傷を負った顔を手で押さえながら、火暗が口端を吊り上げる
「見事だ」
指の隙間から示門、そして示門と共に戦っている示門の実父にして、腹違いの兄「御門」と、自身の伴侶にして御門の実母である「緋毬」を見据えた火暗
は、その視線を、はるか遠く――自身へ一撃を見舞うきっかけを作った黒の護鬼へと向ける
自身の血を分けた二人の赤の戦鬼と、命を分かち合った伴侶たる赤の護鬼。そして、黒の護鬼――「椿」。自身の前に立ちはだかった者達を前にした火暗の瞳は、自分を傷つけた者に対して、誇らしさを覚えて輝いていた
「虚を衝いたとはいえ、それはお前達が息を合わせていたからだ。そうでなければ、俺はこんな傷を負うことはなかっただろう」
火暗は、〝神の尺度〟を能力とする神器「神差衡」を保持している。相対し、敵と認識した存在と同じ強さとなるその力は、敵が強ければ強いほど、多ければ多いほど火暗に力を与えてくれる
だが、先の一合は、椿が介入してきたとはいえ、示門、御門、緋毬、椿が息を合わせ、互いの力を活かし合ったからこそ、確かな一撃を受けたのだと火暗は確信している
「ごめんなさい、示門。――御門様も」
もはや機を窺う意味はないと判断し、空間を跳躍してその巫女服のような霊衣の裾を翻しながら降り立った椿は、絶好の機会を逃してしまったことを示門と御門に謝罪する
「いや、気にすることはない。あの人に傷をつけることができたのは、椿のお陰だ」
「ああ。しくじったのは俺だ。だから、気にすることはない――次はきっちり決めればいいだけだ」
そんな椿を励ますように声をかけた御門と示門は、火暗に向けたままの各々の武器を持つ手に力を込める
御門は視線を向けて優しく。示門は火暗を睨み付けたまま、ややつっけんどんに、しかしその気遣いが感じ取れる不器用な声音で言うと、椿はその言葉に目を細めて応じる
「はい」
椿にとって、御門と示門は特別な想いを寄せる人達。そんな二人を肩を並べ、それぞれの優しさと心遣いを感じ取った椿は、示門と御門の信頼に答えるべく、己の戦う力の形そのものである箒杖を構える
「…………」
そのやり取りに火暗と緋毬は、それぞれ目元を綻ばせて、互いに視線を交錯させる
御門はまだしも、示門は火暗と先代の天上界王「綺沙羅」の間に生まれた子供にして、二人と全く同じ存在である「最も忌まわしきもの」――この世界の理の上で生まれてくるはずのない存在だ
そんな許されざる存在を受け入れ、あるいは共に在ろうとしてくれている椿に、火暗は、心から感謝をする
「どうやら、息子たちが世話になっているようだな」
「ぁ、いえ」
示門と御門――自身の大切な子供達と肩を並べるその姿に火暗が穏やかな声音で言うと、そこに含まれるものを正しく受け取った椿は頬を赤らめながら応じる
自身の心の内を見透かされたかのような感覚に恥じらう椿がさりげなく両隣を見ると、示門と御門は共に特に反応を示すことなく、火暗と相対していた
「まだ戦うつもり?」
その真紅の双眸に火暗を映す緋色が、愛しい人と刃を向け合う痛みに表情を曇らせながら訊ねる
火暗は、十世界の掲げる全ての存在が許し合い、調和して生きる恒久的平和世界を実現することで最も忌まわしきものと呼ばれる示門と、自分とは別に愛した女性との忘れ形見――現天上界王「灯」を守ろうとしている
ただ、家族を愛するがゆえに戦う火暗に立ちはだかる緋毬は、未だに微塵も翳ることなくある愛情と、伴侶としてその行いを止めなければならないという使命感に、心を痛めながら戦っていた
緋毬の願いはただ一つ。愛してやまない人と、またかつてのように伴侶として寄り添いあいながら生きていきたいという、あまりに純粋な一人の女としての願いだった
たとえそれが、火暗に一人天上界にいる愛娘を見捨てさせるものであるとわかっていても、緋毬は、愛する人を求めずにはいられない
「当然だ。俺はまだ負けていない――次は、先程と同じ手が通じると思うなよ」
自分の思いが子供達を、そして緋毬をどれほど深く傷つけているのかを知りながら、火暗は、今刃を向けている家族を含め、本当の意味で家族全員が幸せに暮らせる未来を求めて戦意を高める
先程は、椿が神器の能力の範囲に数えられていなかったが、ここからは示門、御門、緋毬、椿四人分の強さが火暗の強さとなる
「上等だ。何度だって、その独りよがりな親心を叩きのめしてやる!」
その事実を分かっていながら、微塵も怯むことなく示門が抑制された強く口調で言い放つと、それを受けた火暗は、自嘲めいた笑みを浮かべる
「耳の痛いはな――なんだ!?」
示門のためでも、灯のためでもない。ただ家族全員と暮らしたいという願いを一刀の下に切り捨てられた火暗は、「耳の痛い話だ」と続けようとした言葉を止めて天を仰ぐ
「――っ!?」
そしてそれは、火暗だけではなかった。示門、御門、緋毬、椿はもちろんのこと、地獄界の中枢たる「鬼羅鋼城」の門前で戦っていた全てのの者がそれに気づいて空を見上げていた
「時空の門……!」
純白の翼を羽ばたかせ、天空を飛翔していたクロスとマリア、そして天界の姫たるリリーナもが見つめるその先では、天頂に輝く神臓の太陽の光を遮るように、青い空がこじ開けられ、世界と世界を結ぶ空間の扉が出現する
さながら、空が開くようにして顕現した時空の門が口を開くと同時、その中から飛び出したものが、なんら臆することなく、二つの勢力がぶつかりっている戦場の中心へと落下する
一条の閃光となって地面へと突き刺さった閃きは、次の瞬間に爆発を引き起こし、大地を砕いて粉塵を天高く舞い上げる
「この神能は魔力ね。まったく、次から次へと地獄界に入り込んできて……!」
その土煙と粉塵を巻き起こした存在が何ものなのかを知覚した鬼の原在――「六道」の一角黄の戦鬼である〝刈那〟は、そのあどけない面差しに不快感を露にして視線を鋭いものに変える
この場で戦っていても、鬼羅鋼城の中に出現した二人の神片の存在には気づく
戦の神の眷属に加え、よりにもよって悪意の神片が入り込んだことに忌避感とそれに伴う憤りを覚えていた刈那が、新たな闖入者に不快感を覚えてしまうのは必然だと言えるだろう
「ふぅ。いけねぇ、いけねぇ。丁度いい時を見計らっていたら、思わず居眠りしちまったぜ。カカカ」
そんな中、戦場にいる全ての者の視線を集めたその人物は、自身で巻き起こした土煙を一瞬で吹き払い、その姿をさらすと共に豪気に笑う
鬣のようにたなびく逆立った真紅の髪に浅黒い肌。攻撃的な意志を感じさせる吊り上がった目には、空色の瞳が抱かれている
そんな髪と肌を際立たせるかのように、白を基調とした霊衣を纏うその大男は、その空色の双眸で全方位に広がる戦場をひとしきり見回す
「なんだ、あいつ?」
誰もが思っているであろうことを誰かが呟いたのは聞こえなかっただろうが、その真紅の髪の男は、口端を吊り上げて獰猛な笑みを浮かべる
「さぁて。一丁暴れさせてもらうか」
その言葉と同時に、男の魔力がその手の中に身の丈ほどにも及ぶ剥き出しの刃となって顕現すると、そこにいた全員が一気に緊張感を高める
「――ッ!」
そもそもこの真紅の髪の男が誰なのかさえ知らず、その様子を窺っていた面々は、それが敵意の表れであると確信するや否や、各々に臨戦態勢を取る
「自己紹介をしておこうか。英知の樹天樹管理臣が一人、〝厄真〟だ!」
自身の声を魔力に乗せ、戦場の端々にまで届けた赤髪の悪魔――「厄真」の口上に、その場にいた全員が息を呑む
「英知の樹……!」
「しかも、天樹管理臣といえば、その幹部じゃないか!」
十世界と並び、九世界で最も危険視されている組織の幹部が突然現れたことに、戦場の各地は動揺に揺れていた
地獄界に属する者も、十世界に属する者も例外なく驚愕を覚えている中、厄真は、その力を一気に解き放つ
「さぁて、神眼を回収させてもらうぜ」
「……っ!」
獰猛な獣を彷彿とさせる笑みを浮かべた厄真が小さく独白した声をその光力によって拾っていたクロスとマリア、リリーナはその目的を知って戦慄する
「神眼」――それは、かつて人間界に保管され、現在は詩織と一体化している神器の名称。即ちそれは、厄真の標的が詩織であることを確信させるものだったのだから。
「く……ッ」
それを聞いたクロス達が行動を起こすよりも早く、厄真の身体から、悍ましくどす黒い力が放出される
「これは……ッ!?」
「魔力じゃない!」
まるで沸騰しているように、無数の瘤状の隆起を発生させ、脈動するその力が地上に出現した黒雲のように瞬く間に戦場を満たす中、クロスとシャリオは――否、この場にいる全員が困惑を極める
「なんだこの力は!? 空間が……いや世界が、歪む!?」
厄真から噴出された力が空間を歪め、世界を軋らせるのを知覚した紅蓮が声を周囲を見回すと、ドス黒い神能がその威を各所で示し始めていた
「ぐわあぁぁぁッ!?」
「!」
その苦悶の叫び声にリリーナが鮮やかな朱色の髪を翻しながら視線を向けると、そこでは十世界に属する鬼の身体が爛れたように変化して身体を蝕んでいた
それはその男だけではない。九世界側、十世界側を問わず、戦場にいる鬼達の身体を――即ち、鬼の神能である「鬼力」を、それを生み出しているその魂、存在そのものを害していた
「まさか、この力は……」
戦場の至るところで発生したその異変を認識した刈那は、自身の知覚さえ害するこのあまりに悍ましく、強大な力の根源に思い至って息を詰まらせる
「『罹恙神・ペイン』!」