長い闇を抜けて
世界の狭間に浮かぶ、巨大な大陸。無数の小さな浮島と最も大きな大陸に、それぞれの大きさに見合った荘厳な建築物を乗せたその場所の名は、「大界議場」。
最強の異端神である円卓の神座№11「司法神・ルール」の神殿にして、九世界における絶対中立、絶対非戦領域だ
その中で、最も大きい大陸にある城神殿こそが、大界議場の中心。意匠がこらされた法の神の神殿の内側へと通じる巨大な扉をくぐったその先には、明かりに照らされた長い廊下が続いており、その先には巨大な議場が待ち構えている
六対十二方へと伸びた天秤を彷彿とさせる光源に照らし出されるその空間は、まるで奈落へと続いているかのような巨大な穴が口を開けている
その穴の周囲を取り囲む席は幾重にも折り重なっており、入り口から果てが霞んで見えるほど巨大な円座は、一体何十億の人間が座れるのか想像もつかないほどだった
しかし、今日はその円卓席には空席しかない。本日会議を交わす人物達がいるのは、中央に空いた巨大な奈落の穴の上に浮かぶ議席だった
その場へと続く道さえない浮議場が見える大穴の縁で足を止めると、眼前に広がる果ての見えない奈落の下から、純白のヴェールを纏う女性が金色の光に包まれてゆっくりと浮上してくる
顔の上半分を鎧で隠したその女性は、まるで彫刻のようだった。司法神のユニット――「法仕者」の一種であるその女性は、その身体の質感などが明らかに異なっており、生物というよりも命を得た彫像と言った方が適切であるように思えた
「人間界王様と、そのお連れの方でございますね?」
司法神に使えるその白い女性に問いかけられたヒナは、軽く胸に手を添えて敬意を表すると共に応じる
「はい」
世界の法そのものと言ってさえ過言ではない司法神に仕える女性は、人間界王「ヒナ・アルテア・ハーヴィン」の答えに、厳かな声で応じる
「お待ちしておりました。お席の方へどうぞ」
「ありがとうございます」
その言葉を合図として、ヒナ達の眼前に扉が生じる。純白に天秤を思わせる金色の意匠を施された扉が開くと、それは部屋の中心にある議席へと続いていた
「遅いぞ」
空間を超える扉をくぐったヒナとリッヒが部屋の中へと一歩足を踏み入れると、すでに席についていた巨大な体躯を持つ男が視線を向けてくる
この場にいるメンバーの中で、群を抜いて一際大きな身体を持つその男の名は、聖人界界首「シュトラウス」。机に両肘を置き、手を組んで半目を向けてくる聖人の代表に、ヒナは楚々とした佇まいを崩さずに深く一礼する
「申し訳ありません。人間は、皆様のように軽々と世界を越えられるわけではありませんので」
全霊命のように、気ままな時空間移動を行えない自分達の力を卑下するでもなく、当然のこととして告げるヒナを見て、席に顔を押し付けるようにして突っ伏していた男がゆっくりと頭を上げる
「ってか、人間界王ってこんなだったか?」
「失礼ですよ。虚空様」
顔を上げ、眠たそうな視線でヒナを見る妖界王「虚空」が怪訝そうに眉を顰めると、その背後に従者として控えている片目を髪で隠した女の妖怪――萼が窘めるように言う
大界議場は、一切の戦闘を許可しない完全中立区域。そして、その中に在るこの議場は、特殊な結界に包まれており、例え世界を越えて通信することができる伴侶や至宝冠を以ってしても外界と連絡を取ることができなくなっている
ここでは、全霊命も半霊命も、光の存在も闇の存在も関係なく、誰もがただ公平かつ公正に議論を交わすことのみが許されており、九世界王会議においては例外なく各世界の代表と補佐一名のみが入場することができる
人間界王はリッヒ、妖界王は萼、聖人界界首はマキシムを随伴し、他の王もそれぞれの補佐を連れていた
「私達からすれば、あなたがここに来ていることの方が珍しいですよ? いつも代理の方を立ててばかりではありませんか」
小さく微笑を零し、虚空に語りかけたのは妖精界を総べる王「アスティナ」。乳白色の蝶翅を持つ精霊の王は、その背後に長い橙色の髪を二つに束ねたアスティナと同じ日輪の精霊――「アイリス」を従えて、たおやかに微笑む
妖界王「虚空」は、九世界の王の中でも最も人見知りで怠惰な王。自分の世界である妖界の運命も、三巨頭という妖怪たちに実質的に一任してしまっているのはこの場にいる王達には周知の事実だ
そんな性格からなのか、この九世界王会議さえ代理を立てて欠席し、滅多に顔を出すことはない。そんな妖界王がこの場にいることに、事情を知らないヒナ以外の王は少なからず心中で感嘆の声を漏らしたものだ
「そうだったか? そういえばそうかもしれないな」
妖精界王の視線を受けた虚空は、一瞬虚を衝かれたような表情で目を丸くするが、よくよく思い返してみると思い当たる節があるのか、納得した様に独白する
その様子からは、散々九世界王会議を欠席していることに対する罪悪感や反省の色は感じられないが、それを咎めるような反応をみせるものもこの場にはいなかった
「いえ、お気になさらず。先日父から王位を譲り受けたばかりですので」
九世界創世の頃から生きる最強の全霊命達の会話にも、ヒナは同じ九世界の王の一人として余裕のある振る舞いと微笑みを忘れずに応じる
そして、そのまま自分達の指定席へと腰を下ろす姿を三つの瞳で見据える男が、わずかに口端を吊り上げながら不敵に笑う
「人間界はぽんぽんと王が変わるからなァ」
「冥様」
その言葉に、新たな人間界王となったヒナを三つの目で観察する冥界を総べる死神の王――「冥」を、背後に控えている時雨が窘める
全く悪気はないのだが、受け取り方によっては他の九世界の王を軽んじているともとられかねないその発言に、冥の伴侶でもある時雨は、普段とは違う公的な呼び方で言い咎める
「仰る通りです。冥界王様。ですが、私も王を授かった身。その責務に恥じぬように努めさせていただく所存です」
そんなやり取りをしている冥界の王に、ヒナは後進の身として誠意と謙虚な姿勢を示す
だが、その言葉はただこの場を取り繕うためのものなどではない。人間界王となったヒナ自身の決意を示すものだ
「おお。頑張れよ」
それが伝わったのか、冥はヒナの言葉に分け隔てのない友好的な笑みを浮かべて応じる。その後に、他世界の王に対する礼のなっていない口調を時雨に咎められたのはご愛敬といったところか
そんな冥の言葉に一礼を返したヒナの視界には、壮観な景色が広がっている
中央が開いた円卓の議席に座るのは、数多存在する世界を頂点に立つ九つの世界を総べる者達。
「天界」からは、天界王「ノヴァ」。その補佐は天界王の伴侶にして天使の原在――「十聖天」の一人である「アフィリア」
「魔界」からは、共に悪魔の原在「五大皇魔」である魔界王「魔王」と、その伴侶であるシルエラが補佐として訪れている
魔界と同じ闇の世界である「妖界」からは、妖界王「虚空」と補佐「萼」。
「冥界」からは冥界王「冥」が、伴侶の「時雨」を補佐として同行させていた
今回の王会議の招集をかけた「聖人界」――その代表を務める聖人「シュトラウス」が、最強の聖人「マキシム」を随伴して、会議が始まるのを静かに待っている
「妖精界」からは、妖精界王「アスティナ」が「アイリス」という名の日輪の精霊を補佐として従えて、ここにいる王達の中で最も穏やかで友好的な笑みを湛えていた
そして、その隣りに座っているのが九世界を構成する四つの光の世界の最後の一つ「天上界」を総べる、天上界王「灯」とその補佐として来ている厳格な顔立ちをした壮年の男だった
天上界を総べる光の全霊命――「天上人」は、頭上に光輪を戴く種族。それを総べる天上界王は、輝くような翠金の長髪を持ち、白を基調とした衣に身を包み、その身体に薄桃色の羽衣を纏っている
周囲のやり取りになどわれ関せずとばかりに俯いた姿勢を守り、終始沈黙を貫く天上界王へと視線を移したヒナは、ふと気づいたことを口にする
「まだ、地獄界王様がおみえではないのですね」
「あぁ。あそこは今、光魔神が滞在しているからな。その関係で遅くなるのだろう――まあ、それはあなたの方が詳しいだろうが」
この場に八つの世界の代表しか揃っていないことを見て取ったヒナの言葉に、魔界王が流すように視線を向けて答える
至宝冠の権能を知っているらしい魔界王の反応にたおやかな笑みを返したヒナは、その情報の出どころは他の王か、同行している魔界の手の悪魔――瑞希辺りであると当たりを付ける
「噂をすれば、来たようだぞ」
その時、まるでタイミングを見計らっていたかのように空間を繋ぐ扉が生じ、天界王の言葉に応じるようにそこから、地獄界王「黒曜」が補佐として紫の六道を伴って姿を見せる
「俺達が最後か」
部屋に入るなり足を止め、そこに揃った錚々たる面々を見回して気だるげに呟いた黒曜は、そのまま空いている最後の席に腰を下ろす
「随分、遅い到着だな」
「苛立つなよ。時間通りだろ」
聖人界界首の鋭い言葉も軽く鼻で笑い飛ばし、背もたれにもたれかかるようにして黒曜が嘲笑めいた視線を向ける
「全員、お揃いですね」
その時、円状に並べられた机の中央に空いた穴に、小さな法仕者が厳かな声音と共に姿を現す
その外見は、全方位を見回せる球形の頭部に手足のない胴体がついているという、およそ人型とはかけ離れたもの。
世界の全てを視野に捉える単眼を頭部の四方に備えたその存在は、宙空に浮かびながら、周囲を囲む九世界の王達を見回して言う
「では、これより九世界王会議を始めさせていただきます。今回議会に立ち会わせていただきます『代行者』と申します。
今回の会議は、聖人界界首様より持ち込まれた案件に関する審議となりますので、私はあくまで公平、かつ中立に皆様の会議に立ち会う立場ですので、会の進行などは一切行いません。その旨ご了承のほどよろしくお願いいたします」
「代行者」と呼ばれる司法神の眷属は、そうやって告げると自身の周囲に九つの宝珠を生み出し、それを席につく各王の前へ移動させる
今回の話し合いの内容は、九世界が内輪で決めた約定に関すること。――即ち、九つの世界がどう対応するかという問題でしかなく、その話し合いの結果が世界の法等に影響することはない
この場に集まったのは、あくまでも話し合いにおける決着を求めるためであり、こういった対話の場にこの場所の主であり、法を司る司法神が出てくることはない
故に、この話し合いに関して遣わされることになったのが「代行者」の名を持つ司法神の眷属。司法神の代行としてこの場に立ち会い、必要とあらば中立的な立場から法的な意見を述べるのがその役目だ
とはいえ、表立って干渉してこないだけで、ここでの会話は代行者の目と耳を通して司法神にも伝わっている
しかし、そんなことは今この場にいる九人の王には関係のないこと。九世界を総べる王は、王としての誇りをもって、ここに対話をしに来ているのだから
九人の王の前に自身が生み出した宝珠を一つ置いた代行者が上空へと浮かび、円形に並んだ議席の中央に留まるのを視界と知覚の端で見届けた聖人界界首――「シュトラウス」が待ちかねたように口を開く
「本日は、忙しい所足を運んでもらって感謝している」
集まった八人の王達へ視線を配りながら、社交辞令的に感謝の言葉を淡泊な声音で述べたシュトラウスは、神妙な声音で言葉を続ける
「では、早速本題に入らせてもらう。今日、皆に集まってもらったのは他でもない――」
机の上に肘を置き、両手を組んで八世界の王達を見回すシュトラウスは、怜悧な瞳の奥に隠しきれない激情を灯しながら言う
「世界の法を貶めた光魔神とその同行者たちの処遇についてだ」
※
青い空を映す凪いだ湖面に自身の姿を映した詩織は、不意に生じた小さな波紋がそれをかき消すのを見て、ゆっくりと背後を振り返る
「神魔さん」
そこに一人だけ立っている神魔を見据えた詩織は、意を決して呼びかける
短い時間ではあったが、鬼羅鋼城を簡単に見て回り、椿と示門の二人と別れて、今こうして神魔に時間を作ってもらっているのだ
神魔の優しげな金色の双眸をまっすぐに見つめた詩織は、視線を外すことなく自分の心の中にある想いに意識を沈めていく
初めて出会った時、それから過ごした日々、そしてその間の自分の苦悩――次々に浮かんでは消えるその想いを噛みしめた詩織は、意を決して口を開く
「私には、今まで怖くて聞けなかったことがあります」
そう言って話を切り出した詩織は、神魔を見据えて言う
「神魔さんは、どうして私のことを守るって言ってくれたんですか?」
「……!」
真剣な眼差しを向ける詩織の言葉に、神魔はわずかにその眉をひそめる
「地球にいたころから、神魔さんは光魔神じゃなくて、私の方を気にかけてくれていました。でもそれは、私が弱いからとかそういう理由じゃないのも分かります
だから、知りたいんです。なんで神魔さんが、私みたいな何の変哲もない人間を、そんなに気にかけてくれるのか」
詩織が神魔に好意を抱くようになったのは、まだゆりかごの世界――地球にいた頃からだ。そして、その頃から神魔が詩織を特別扱いしていた
それが理由で神魔に心奪われたとまでは言わないが、自分を特別扱いしてくれていることに、胸をときめかせたことは多い――だが桜が現れ、共に過ごしている内にその気持ちがなんなのか分からなくなってしまった
神魔と桜は愛し合っている。だが、自分は神魔を愛しているが、神魔が自分に向けている感情は、桜に向けるそれとは違うことも詩織は分かっていた
「……それを聞いてどうするの?」
「ずっと知りたかったからです」
ならば、神魔が自分に向ける感情は何なのか――その疑問は、いつの頃からか漠然とだが、心の中に芽生えていた
だが、それを訊ねることはできなかった。その理由を知る勇気が出なかったからだ。
それを知ってしまえば、自分が信じてきた何かが失われてしまうような実体のない恐怖が、その疑問を詩織の心の奥底に張り付けてしまっていた
「今まで色々迷って、悩んで、吹っ切れたんですけど、中々聞く機会がなくて――だから今、聞きたいんです」
声を震わせ、両手を固く握りしめながら声を絞り出した詩織は、神魔から目を離すことなく強い語気で言い放つ
桜と比べるのをやめ、ありのままの自分として神魔と向かい合うことを決意した詩織は、ようやく心の奥にあったその思いに向かい合う決意をしたのだ
「神魔さんにとって、私が何なのか」
詩織が今までどんな思いでいたのか、神魔には分からない。
なぜなら、神魔が詩織を見る目と詩織が神魔を見る目には違いがあり、そして詩織から向けられる感情に神魔が全く気付いていなかったからだ
そして、今真剣に自分という人間の弱さと向かい合い、決意を以って訊ねる詩織の真摯な想いが届かないほど神魔も無関心ではない
「僕の個人的なことだし、なんて言っても詩織さんに悪いから、あんまり話すようなことじゃないんだけどなぁ」
困ったように軽く頭を掻きながら視線を逸らす神魔の言葉に、詩織は自身の決意を再確認するように呼吸を整える
詩織の疑問に答えることは、神魔にとって自分の中だけの問題。詩織が無関係だなどと言うつもりはないが、それを告げることも憚られることであるのも間違いない
それが神魔の気遣いや優しさであることが分かっている詩織は、これから告げられる内容が自分が望んでいたものではないことを予感しつつも、それを知ることを求めて頷く
「構いません。聞かせてください」
詩織の確固たる決意に満ちた視線を向けられた神魔は、その意思を汲んでゆっくりと口を開く
「詩織さんって、僕が守れなかった人に似てるんです」
「!」
神魔の口から告げられた言葉に、詩織は小さく息を呑む
その詩織の反応を見逃すはずもない神魔は、当然の弁明を図るべく話を続ける
「外見とかじゃなくて、雰囲気とか気配とかが。もちろん、詩織さんとその人を重ねてるつもりはありませんし、詩織さんを代わりにしてるつもりなんてないです。――ただ、他人の空似って切り捨てることもできなかったって感じですかね」
どこか他人事の様に淡々と言う神魔の言葉を無言で聞く詩織は、その内容に心のどこかで妙に納得していた
(あぁ、そうか――)
「まあ、どんな言い訳をして詩織さんには失礼なことだし、言いふらしたりするのも、そう思われるのも嫌だったから言わなかったんですけど……すみません」
その言葉を聞いた詩織は、神魔が言う〝その人物〟が神魔にとって、何か特別な意味を持つ人だったのだろうと感じられた
「守れなかった」という一言からも、その人物が神魔の記憶の中で暗い影を落としているのは間違いない。だからこそ、安易に話すことを憚ったのだろう
(きっと神魔さんは、その大切な人のことを、私の心に住まわせるのが嫌だったんだ)
神魔は、詩織が〝その人物〟に似ていたから特別に思っていたわけではない。だが、〝その人物〟に似ていることがきっかけで詩織を気に掛けるようになった
だが、だからと言って詩織に〝その人物〟の姿を重ねているわけでもなければ、代わりにしているわけでもない。それは、詩織に対しても〝その人物〟に対しても失礼なことだ
しかし、説明が不足だったり、受け取る側がそう思わなければ、説明しても角が立つ。素直に告げても信じてくれなければそこまでの事でしかないのだから。
(神魔さんは、ずっとその人に似てる私自身をちゃんと見てくれていたんだ)
故に、今詩織に求められているのは、神魔の言葉を疑わないこと。自分に答えてくれた神魔の気持ちと隠していた誠意を正しく汲むことだ
神魔が守ろうとしてくれていたのは、あくまでも自分。決して自分をその人に見立てて、守れなかったことを贖っていたわけではない。
「自分を〝その人物〟に重ねていた」などと憤るのは、傲りが過ぎるというものだ。自分は〝その人〟などではない。――桜の存在に囚われ、その影を追い続けてきた詩織には、それがよく理解できた
「いえ。謝らないでください。……おかげで、すっきりしました。なんだか胸のつかえがとれた気分です」
申し訳なさそうに謝罪の言葉を述べる神魔に、詩織は不思議と安堵したような思いを抱いていた
(地球にいたいから、その理由にするために適当にそういう設定をでっち上げたとかじゃなくてよかった)
神魔はそう思わないかもしれないが、これは詩織が求めていた通りの答えだった。自分が神魔に愛されていないことなど分かりきっている。――ならば、何故自分を特別に思ってくれていたのか、神魔は誠実な答えを示してくれた
(でも――少しくらいならいいよね)
だが同時に、詩織の心の中にほんの少しばかりの嗜虐心というか、悪戯が顔をのぞかせても来る
確かにすべては自分の勘違いだ。だが、そんな思わせぶりな態度や言動をされれば、乙女心も少なからず反応してしまうというもの。それに振り回された自分の気持ちを少しばかり八つ当たり気味にぶつけたい衝動に駆られてしまうのも仕方のないことだろう
「じゃあ、失礼ついでに私も聞いちゃうんですけど、その人って神魔さんの彼女か何かだったんですか? 女の人……ですよね?」
不安が解消された安堵感からか、ふと湧き上がってきた気持ちに自分の中で納得した結論を出した詩織は、意を決して問いかける
これまで話を聞いた感覚では、〝その人物〟は神魔にとって特別な意味を持っている人物であろうことは間違いない
ならば、神魔が自分に重ねていた名も知らない〝その人物〟がどんな人物なのか、知りたいと思うのが女心であり、恋心というものだ
自分に似ていると言われたから女だと判断したが、男だったらどうしようかと思いながら訊ねた詩織の視線に、神魔は軽く肩を竦めて応じる
「そうなってたかもしれない人、っていうのが一番近いのかな? 家族くらいには親しくて、特別な関係には一歩届かないくらいの人だよ」
もし、答えたくないと言われればそれ以上追及するつもりはなかったが、神魔は特に拒絶するような医師や嫌そうな顔を見せずに詩織の質問に答える
「……」
そう言って答える神魔の懐古の思いに彩られた眼差しが優しさと寂しさを入り交ぜた色を強く浮かべているのを見て取った詩織は、初めて見るかもしれないその顔を心に焼き付けて目を細める
「きっと、素敵な人だったんですね。――なんといっても、私に似てるんですから」
どこか得意気に発せられた詩織のその言葉に一瞬虚を衝かれたように目を丸くした神魔だったが、直ぐにいつもと同じ表情を浮かべて答える
「そうだね」
それが自分の心の傷を労わり、励ますためにかけてくれた言葉であることを見通した神魔は、苦笑を浮かべて言う
朗らかなに笑って言う神魔からは、先の詩織の言葉をどこまで真剣に受け止めているのかは分かりづらいが、全く否定しているという訳でもなかった
「……でも、なら注意しないといけませんね」
少なからず自分の事を好意的に捉えてくれていることが伝わってくる神魔のその言葉を聞いた詩織は、顔を上げて微笑む
本当は、こんな迂遠な質問をしなくても分かっていた。神魔は、自分をちゃんと「界道詩織」という一人の人間として、一人の女として見てくれていることを。――そして、決して〝その人物〟の代わりや身代わりなどではないのだということも。
確かに神魔は、自分にその人の面影を見ているのかもしれない。だが、それと同じかそれ以上に、その面影の中に自分を見てくれている優しい人であることを、今日までずっと神魔のことを見続けてきた詩織は分かっていた
「なにを?」
その言葉の意図を掴みあぐね、小首を傾げた神魔を見据えた詩織は、深く深呼吸をするとともに、ゆっくりと人差し指を立てた手を向ける
「あんまり私の事ばかり見てると、桜さんにやきもちを妬かれちゃいます」
「ああ、なるほど」
詩織のその指摘に合点がいったように言いながらも、どこか嬉しそうに言う神魔は、その言葉の通りのことを幻視し、わずかばかりの期待を抱いているだろうことがありありと分かるものだった
「それに――」
その時、神魔の言葉を遮って詩織の言葉が響く
それに導かれるように視線を向けた神魔は、自分へと注がれる輝かんばかりの詩織の視線と表情に、息を詰まらせる
「その人に気を取られて、あんまり私に夢中になっていると――」
言いながら、ゆっくりと唇に人差し指を当てた詩織は、神魔の瞳の奥へと視線を注ぐように柔らかな笑みを向ける
「私のこと、好きになっちゃいますよ」
「……!」
鏡のような湖面に反射した光を背に浴びながら言う詩織の声には、自分の気持ちが届くように、祈るような願いが込められていた
あまりに想像だにしなかった言葉を向けられた神魔は、そんな詩織の姿を丸くした瞳に映して呆けた様な表情で見つめる
「なんか、してやったりです」
そんな神魔の表情を見て噴き出すように笑った詩織は、唇に触れていた指を丸め、口元を隠すようにして上目づかいに言う
おそらく、自分の言葉の真意が神魔に伝わっていないことが詩織には分かっていた。神魔にとって自分は、決して一人の女として特別なわけではない。――それは、今も変わらないだろう
だが、今までは詩織の方が、神魔の気持ちが分からずに苦悩してきた。しかし、今の神魔は自分の気持ちが分からずにいるだろう
それは、自分から気持ちを伝えないという桜との約束に触れるかどうかという範囲で先の言葉を告げた詩織は、それがもたらした結果に、ささやかだが胸がすくような感覚を覚えていた
「?」
案の定というべきか、怪訝な表情を浮かべている神魔の許へと歩み寄った詩織は、その腕を取って肩を並べると、晴れやかな表情で語りかける
「さ、そろそろ帰りましょ」
「……うん。そうだね」
少し低い位置から向けられる詩織の視線に促されるように、神魔は小さく頷いて先程の言葉の意味や意図を心の隅に留め置きつつ、普段通りの表情で頷く
「はい。――あ、さっきの話、桜さんには内緒ですよ? 怒られちゃいますから」
神魔のその言葉に応じた詩織は、冗談めかした軽い口調でそう言うと、再度先程とは違う意味で人差し指を唇に沿えてみせる
そんな詩織の視線を受けた神魔は、金色の瞳を抱く双眸を優しく細めて頷く
「……そうだね。さっきのは僕達だけの秘密にしよう」
「はい」
神魔のその言葉に答えた詩織は、自分の内に湧きあがってくる気持ちを噛みしめながら、慈しむように目を細める
その反応から、自分の気持ちが全て正しく伝わってはいないことは分かっていた。だがそれ以上に、神魔が神魔なりに自分の気持ちを汲んでくれたのだということも伝わってきた詩織には、それが何よりも嬉しく感じられていた
「――やっぱり、私神魔さんのこと、大好きなんだ」
隣にいる想い人に聞こえないように、声にならない言葉で口ずさんだ詩織は、ほんのりと頬を赤らめてその隣りにいる幸せを噛みしめる
(うわ~。なんか恥ずかしい……もう、神魔さんの方見れないよ)
懸命に勇気を振り絞り、今できる限りの気持ちを伝えた詩織は、その恥ずかしさと嬉しさで赤くなった顔を神魔に見せまいと、俯いて視線を伏せる
「何か、詩織さん本当に変わったね」
「そ、そうですか?」
その時、おもむろに横からかけられた神魔の声に、詩織は顔を伏せたまま、わずかに声を上ずらせながら応じる
「うん。なんて言うのかな……前よりも魅力的になったっていうか、可愛くなった? うまく言えないけど、今の詩織さんは、僕が知ってる今までの詩織さんの中で一番いいと思うよ」
うまく表現する言葉を見つけられずに言い澱みながら、神魔は一世一代の告白を終え、顔を伏せている詩織に向けて言う
そこにその言葉以上の意味がないことを詩織は知っている。だが、その言葉は神魔との関係がわずかに――だが、確かに変わったことを感じさせ、変わっていけることを予感させるのに十分すぎるものだった
「……ありがとうございます」
わずかとはいえ、自分の思いが報われた喜びにうっすらと涙を浮かべた詩織は、神魔の方へ視線を向けることもできないまま、その胸中に満ちている想いを噛みしめるように言う
自分でも驚くほどしおらしく答えた詩織は、さりげなく隣にいる神魔へと視線を向けてその表情を窺う
そこにあるのは、自分が良く見知っている――今までずっと見てきたそれと同じ神魔の横顔。
だが、それが当たり前のように自分の隣にあることが、今の詩織には何よりも尊いことなのだと思える
まだ、この想いは届かない。気付いてもらえてもいない。だが、それでも自分の中にある想いは揺るがないどころか、一層強くなっている
この想いが届く日が来るのか、もし届いたとしたらどうなるのか――先の見えない未来を抱きながら、軽く空を仰いだ詩織の瞳に、天の中心で輝く神臓の太陽が強く差し込んでくるのだった