桜語り
「詩織」
薫の声に我に帰った詩織は、その声の方へと視線を向ける。
「お母さん……?」
「大丈夫?」
「うん」
案じるように見つめてくる薫に、詩織は小さく首を縦に振る。
「他の皆は?」
周囲を見回すと、そこには自分と母の二人しかいなくなっていた。しばらくの間、何も意識に入ってこないほどのショックを受けていたらしい。
「もう戻ったわよ」
「そう、じゃあ私も部屋に戻るよ」
「そう……」
薫は、何も言わずに肩を落とす娘の姿を見送る。
(まあ、仕方ないわね……まさか好きな人が妻帯者だってここに来て分かるなんて……。少し考えればその可能性に気付けそうなものだったけど、迂闊だったわ)
詩織の背を見送りながら、自分たちよりもはるかに長い時間を生きる全霊命である神魔が独り身ではない可能性に気付かなかった自分を責める
「でも……」
薫の脳裏に甦るのは、神魔に寄り添う桜の姿。今日始めてあったはずの桜が、今までも神魔の隣にいたように思える。
それほどに二人は自然に、当然のように寄り添っていた
(ちょっと、勝ち目は薄いんじゃないかしら……)
クロスから全霊命と半霊命の婚姻について聞いている薫は、詩織が完全に失恋した事に安堵しつつも、その身を案じずにはいられない。
(本当……この世の中はままならないわ)
内心で肩を落として、薫は目を伏せて詩織を見送った
※
その頃、食事を終えた神魔と桜は、先ほどの言葉通り二人揃って同じ部屋にいた。
「ここが神魔様のお部屋ですか」
「いいところでしょ?」
「はい」
神魔の借りている屋根裏部屋を見回して微笑んだ桜は、座っている神魔の背後に膝を下ろすと、そっと神魔の隣に寄り添う
「桜?」
「よろしいですか?」
「……もちろん」
神魔の許可を得た桜は、そっとその華奢な身体を神魔に預ける。
「ありがとうございます」
神魔の腕の中に身を委ねた桜の腰に神魔がそっと手を回し、二人は互いに身体を寄り添わせる
「こうさせて頂くのは随分と久しぶりの事ですね」
神魔の温もりを確かめるように、桜は熱を帯びた目をうっとりと細める
「そうだね、もっと早く帰るつもりだったんだけど……ごめんね」
「いえ、神魔様をお待ちするのも、妻の役目ですから」
「ありがとう」
「いえ、当然の事です」
神魔の言葉に頬を赤らめた桜は、神魔の存在を確かめるように、その身体をさらに密着させて微笑む
「桜の方から甘えてくれるなんて珍しいね」
「わたくしだって甘えさせていただきたい事くらいございます」
「そっか」
「はい……ぁ」
桜の言葉に苦笑した神魔が、癖のない桜色の美しい髪をそっと手ですきながら、その白く柔らかな頬に触れると、桜は幸せそうな恋色の表情でされるままに身を任せる。
大和撫子を絵にかいたような性格の桜は、神魔に甘える事はあっても、基本的に自分からスキンシップを求める事はない。常に神魔を想い、神魔に求めてもらう事を信条にしている桜が自分から身体を密着させるには、百年に一度あるかないかという珍しいものなのだ。
「本当に、桜は可愛いね」
「か、からかわないで下さい……」
神魔の言葉に頬を赤らめる桜がわずかに身をよじるたびに、癖のない桜色の髪が揺れる
「……神魔様、一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「何?」
「神魔様は、詩織さんの事をどう思っておられるのですか?」
「どうって……?」
桜の言葉に神魔は手を止めて、自分の腕の中の桜に視線を向ける
「神魔様は、詩織さんの事を随分と気に留めていらっしゃるようですので」
「そう?」
「はい。思念会話でも、随分と気にしたように話されておりました」
「そう、かもね……詩織さんは、僕にとって特別だから」
腕の中の桜の言葉に、神魔は少し思案して呟く
「特別、ですか?」
「そう、特別」
桜の言葉に、神魔は目を細めえる
「その理由は、わたくしがお伺いしてもよろしいものでしょうか?」
「もちろん。……詩織さんって似てるんだよね」
「どなたに、ですか?」
桜の問いかけに、神魔はどこか遠くを見る様な視線で応じると、優しくも儚げで、どこか物悲しい表情を浮かべる
「『風花』に」
「……っ!」
神魔の言葉に、桜はかすかに目を瞠る
「どこがって訳じゃないけど……雰囲気って言うか、纏ってる空気が風花にそっくりなんだよ。だからかな……詩織さんを見てると風花の事を思い出すんだ」
「風花さん、ですか……」
神魔の言葉に合点がいったのか、桜は目を伏せて神魔の声に耳を傾ける
「ごめんね。桜にこんな話して」
「いえ、風花さんが神魔様にとって大切な女性であった事は、わたくしも承知いたしておりますから」
神魔の言葉に、桜は静かに応じる
「ここに来て詩織さんを初めて見た時は、本当に驚いたよ……それに何より、詩織さんが救いを求めてた。……あの時、詩織さんと風花が重なって見えたんだ。我ながら未練たらしいけどね」
自嘲するように言った神魔の言葉を、肯定も否定もせずに桜はその言葉に耳を傾ける
「だから……詩織さんを守ろうとしていらっしゃるのですか?」
「うん。詩織さんが風花じゃないなんて事は分かってる。……でも、風花の事は僕の中でずっと引っかかってきた事なんだ。
だから、詩織さんを守る事ができたら、あの日からずっと、この胸につかえてるモノに答えを出せるような気がしたんだ」
「そうでしたか……」
神魔の言葉に目を伏せて、桜は自分自身を神魔に委ねるように体重を預ける
「だから、詩織さんを守っているのは僕の自己満足だよ。……詩織さんからしたら、いい迷惑だろうけどね」
自嘲するように微笑んだ神魔の言葉に、桜は穏やかに微笑む
「……そうでしょうね。なぜか自分を大切にしてくださる殿方が、実は会った事すらない昔の女性を自分に重ねているだけだとしたら、とても非道いお話です。
――ましてや、それで詩織さんが神魔様に好意を持っていただいていると勘違いをされていたら尚の事ですね」
「それはないよ? そういう事がないようにちゃんと距離は取ってるし。……詩織さんは特別だけど、桜と同じ意味で特別じゃないんだから」
そう言って神魔は、桜の華奢な身体を抱きしめる腕に少しだけ力を加える
「神魔様……」
(御自覚はないのですね……詩織さんもお気の毒ですね)
神魔の腕に身を任せて、桜は内心で同情と哀れみを詩織に向ける
「構いませんよ」
桜は穏やかな声で応じると、神魔の手に白魚のような細い指をそっと添える
「わたくしにとっては、詩織さんのお気持ちなど取るに足らない事です。神魔様のお望みならば、誰がどれだけ不幸になっても構いませんから」
その言葉に苦笑する神魔は、桜に意地の悪い笑みを向けて優しく微笑む
「ところで、桜。――もしかして妬いてた?」
神魔の言葉に桜は、口元を手で隠して小さく微笑む
「もちろんです。こういう申し上げ方は不遜かもしれませんが、神魔様がわたくし以外の女性をこれほど気にかけておられるのを始めて拝見いたしましたので。
神魔様が気にかけておられる詩織さんを気にかけるのは当然の事です。何しろ……」
神魔の腕の中で体勢をわずかに変えた桜は、やや上目遣いに神魔を見上げる
「神魔様の二人目の奥方になられる方かもしれませんから」
「僕は桜がいてくれれば十分なんだけどな……」
溜め息混じりに言った神魔は、淑やかな微笑を浮かべている桜に視線を向ける。
「それは大変光栄です。ですが神魔様は素敵な殿方ですから、神魔様に恋慕の情を寄せる女性がわたくし以外にも大勢現れるのは致仕方のない事です」
「……随分と過大評価してくれてるんだね」
「そうですか? 妻としての贔屓目なしで申し上げたつもりなのですが……」
「仮に僕が、二人目以降を持つ事になったとしても……詩織さんはないよ」
桜の言葉に神魔は苦笑交じりで答える。
それが神魔の本心である事は、長い時間を共に過ごしてきた桜には手に取るように分かる。少なくとも今現在、神魔が詩織に対して異性としての特別な感情を持っていない事は明白だった。
神魔にとって詩織は、過去に抱えた傷の象徴。神魔にとって詩織を大切にし、守る事は過去の傷に向かい合い、乗り越える事と同じ意味なのだ
「そうですか……ぁ」
静かに答えた桜を、神魔は優しく抱き寄せる
「神魔様……」
「そういう話は今日は終わり。折角久しぶりに会ったんだから、もっと楽しい話しよ?」
「……はい」
神魔の言葉に、桜は頬を染めて頷いた
翌朝。身支度を整えた詩織は、自分の部屋に置いた鏡に自分自身の姿を映す
(大丈夫。うん)
桜と神魔の事を考え、それを振り払うように頭を振って詩織は自分で、自分を励ます
(いつも通りに……いけばいいんだから……)
何度も深呼吸を繰り返して、自分自身を落ち着けた詩織は、扉のノブを回して部屋を後にする
「いい匂い……」
一階にあるリビングに下りていく詩織を、朝食がかもし出す極上の香りが出迎える
「あら、詩織。おはよう」
「おはよう……あれ?」
リビングに下りていった詩織を、机に座って薫が出迎える。
普段は詩織が下りて来ると、座っていても席を立ち、朝食を持って来てくれる母が席についても動く気配すら見せない事に詩織が怪訝そうに眉を寄せる
「おはようございます。詩織さん」
その疑問に答えたのは、台所の方から歩み寄ってきた桜だった。
「っ! お、おはよう……ございます」
その手に持ったお盆の上には、詩織を出迎えた極上の香りを漂わせる食事が乗せられており、桜は席についた詩織に朝食を差し出す
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「今日のご飯は桜ちゃんが作ってくれたのよ」
「桜さんが……?」
「はい。お口に合うかは分かりませんが、神魔様共々お世話になるのですから、せめてこのくらいはさせて頂きたいと思いまして」
おしとやかな笑みで言う桜の言葉に、詩織は胸を締め付けられるような感覚を覚える
(神魔さん、共々……)
「詩織?」
「なんでもないです。……いただきます」
案じるような薫の言葉に、努めて明るい表情を作った詩織は桜に出された料理を口に運ぶ
「――ッ!」
桜の料理を口に入れた瞬間、桜はその身体を強張らせる
「お、おいしい……」
(何これ? ……こんなに美味しいものがこの世にあるなんて……)
目を見開いたまま硬直した詩織は、舌の上でとろけ、身体中に染み渡っていくような極上の料理の味に空いた鼓を打ち、その味の余韻に浸る。
「びっくりするくらい美味しいでしょ?」
「……ぅん」
苦笑混じりに言う薫に、詩織が頷く
ご飯に、味噌汁。簡単な和え物を添えただけの何の変哲もない和風の朝食。しかし、平々凡々な見た目に秘められた味の威力は、想像を絶するものがあった。
「お父さんにも、大貴にもすごく絶賛されてたわ……色々微妙だけど」
薫の表情に一瞬哀愁の色が浮かぶ。
「……すごく美味しいです。今まで食べた事がないくらい」
「ありがとうございます」
「何か、隠し味とかがあるんですか?」
感動すら覚えて、いつの間にか目を輝かせている詩織に桜は優しく微笑む
「いえ、特にはございませんよ」
「え!? でも……」
「薫さんにお借りした、このお料理の本に書いてある通りに作らせていただきました」
桜が見せたのは、「簡単に出来る家庭料理」という、朝、昼、夕に使える基本的な料理と、そのレシピが乗った本。
「それで、こんなに美味しくなるモノなんですか?」
「……わたくしはこの本の通りに作っただけですから」
軽く首を傾げる桜の言葉を聞いた詩織が視線を向けると、料理の一部始終を見ていたらしく主婦暦約二十年の薫のプライドを一瞬にして打ち砕かれた薫が、それを生気の抜けたような表情で首肯する
「……料理、得意なんですか?」
「得意とまでは申しませんが、好きですよ。神魔様によく作らせて頂いておりましたから」
「……そうですか」
桜の口から出た言葉に、詩織はご飯を口に運ぶ
「やっぱり、愛情を込めているから美味しいんでしょうか?」
「そのような事はございませんよ?」
詩織の言葉を、桜は即座に否定する
「え?」
「愛情を込めただけで、お料理が美味しくなるなら、誰も苦労はしませんから」
「まあ、そうかもしれませんけど……」
当然のように言う桜の言葉に虚を衝かれた詩織は、唖然として桜を見つめる
「もちろん、召し上がっていただく方が喜んでくださるように、お好きな味などを研究すれば美味しく作れるようになるとは思います。
ですが、『愛情が料理を美味しくする』というのは、その方に喜んでいただくために研究をして、その方のお口に合うように作らせていただくからです。――愛情を入れたから美味しく作れる訳ではありませんよ」
「は、はぁ……」
嗜める様に言う桜に、詩織と薫は目を丸くする
「『美味しいですか?』とお尋ねすれば、大抵の御方はよほどでない限り『美味しい』と言ってくださると思います。ですが、それでは自己満足に過ぎません。
より喜んでいただくために何をすればよいのか?好き嫌いはもちろん、味の好みを考え、工夫をして、お尋ねすることなく美味しいと言って頂いて始めて、意味があるのです」
目を細め、幸福に頬を染める桜に、詩織と薫は言葉を失う
「もっとも、中々言ってくださらない方もいらっしゃいますが」
「さ、参考になります……」
((まさかここまでとは……))
「ですから、御二人がわたくしのお料理をおいしいと思ってくださるのなら、それはきっと、年季の差です。わたくしは、御二人の何百倍もの時間を神魔様に美味しく召し上がっていただくために費やしてきましたから」
そう言って、桜は大切なモノを噛みしめるように優しく微笑む
(この子、お嫁さんにほしい!)
その桜の様子に、頬を染めながら薫は内心で感動し、声を張り上げる。
「さぁ、冷めない内にどうぞ」
「あ、はい」
(これは……あまりにも強すぎるんじゃないの? 詩織)
そんな母の心配をよそに、詩織は朝食に舌鼓を打っていた
※
「まったく、大貴ったら先に行っちゃうなんて……待っててくれればいいのに」
朝食を終えた詩織が登校しようと玄関に向かっていると、小さな縁側で礼儀正しく正座した桜が一人で風に吹かれているのが目に止まる
(桜さん……?)
「……っ」
日向ぼっこでもしているのか、休憩しているのかは分からないが、正座をして外の風と光を浴びている桜に詩織は思わず目を奪われる
(でも桜さんって本当に綺麗……顔立ちもすごくいいし、肌だってあんなにきめ細かくて。それに、風に揺れる髪はまるで風に舞う桜の花弁みたいで……)
そこまで桜に見惚れて、詩織は我に返る
「――っ!」
(って! 見惚れてどうするのよ。私の馬鹿!)
心の中で悶絶していると、いつの間にか桜が、その優しい視線で詩織を見つめていた
「どうかなさいましたか?」
「あ、いえ! えっと……桜さん、綺麗だなって……」
(私の阿呆ぉ……)
思わず取り繕った詩織の言葉に、桜は小さく微笑みを浮かべる
「ありがとうございます」
「性格もいいですし、料理も上手だし……髪とかすごく綺麗で……本当、神魔さんが好きになるのが分かります……」
自分で言いながら自己嫌悪に陥って、目に見えて落ち込んだ詩織に、桜は目を伏せると流れるような所作で立ち上がる
「お褒めに預かり光栄です。……ですが、詩織さん。男性も女性も、魅力というものは人それぞれですよ」
「それは、そうかもしれませんけど……」
言い篭る詩織に、桜は話を続ける
「わたくしには、わたくしの。詩織さんには、詩織さんの魅力があります。ですから、詩織さんの魅力に気付き、愛してくださる方もいらっしゃいますよ」
「そ、そうでしょうか……?」
「ええ」
苦笑交じりに桜に応じた詩織は、内心で神魔に想いを馳せる
(でも、私は、いつか現れるかもしれない誰かじゃなくて、神魔さんと……)
そこまで考えて、詩織はその思考を止める
(って駄目! 私何考えてるの!? 桜さんは神魔さんの奥さんなんだから……)
目の前にいる桜は神魔と愛し合った人。自分が欲しくてたまらなかった神魔の愛情を一身に受ける人物。
完璧に近い容姿。おしとやかで家事万能な桜はまさに理想の女性であり、自分とは比べるべくも無い美女。桜のような素晴らしい女性が妻ならば、自分などに気を取られるはずがないと思ってしまう。
「ただ、全霊命と半霊命では、色々と違うのでしょうが」
「ですね」
桜の言葉に、詩織は苦笑してみせる
寿命も、老いもなく、死ぬまで最盛期を維持できる全霊命と、それらの制約を受ける半霊命では恋愛感は大きく異なっている。それはどうする事もできない事実だ
「ですから、そんなに思いつめる事はないと思いますよ。わたくしだって、詩織さんを羨ましく思っているのですから」
「え!?」
劣等感しか抱けない相手が、自分の事を羨ましいと言う事に、詩織は驚愕を隠せずに目を見開く
「――例えば、この黒髪です」
「黒髪?」
「はい。わたくしは、黒い髪に憧れているんですよ」
「え? でも桜さんのその髪、すごく綺麗なのに……」
桜のトレードマークとも思える、癖のない艶やかな桜色の髪を見て詩織は呆然として呟く。
「もちろん、この髪が嫌いというわけではございませんよ。――実はわたくしには、姉が一人いるのですが、その姉がとても綺麗な黒髪なんです。わたくしにとって姉は、心から尊敬する人でしたから……その黒髪にはとても憧れているんです」
桜は、遠くを見るような目で、詩織に優しく語り掛ける
(髪の色か……。桜さんが私に憧れるのは、そんな事位かな……)
内心で自嘲して、詩織は目を伏せる
(本当、私って嫌な女……。桜さんの事、すごく妬んで……)
どうしても桜と自分を比べ、自分が手に入れられなかったモノを当然のように持っている桜を妬んで、羨んで、桜を貶めようとしている自分があまりにも惨めで、詩織の目に熱いものがこみ上げてくる。
「きっと、桜さんと同じですごく綺麗なお姉さんなんでしょうね……」
懸命に搾り出して言う詩織に、桜は優しく微笑む
「いいえ。わたくしなど、足元にも及びませんでした。わたくしは、何でも出来る姉に劣等感ばかり抱いていたのです」
「!」
詩織はその言葉に、小さく目を見開く
性格、容姿、能力、全てにおいて完璧に思える桜の予想外の言葉に、詩織は思わず聞き入ってしまう
「姉は神魔様ともお知り合いなのですが、神魔様がわたくしを愛してくださったのは、『姉によく似たわたくしを代わりにしたのではないか』と、昔はそんな邪推をした事もございます。……お恥ずかしい話ですが」
「……!」
(私と同じ……)
恥らいながら微笑んだ桜を前にして、詩織は時が止まったように、呆然と視線を送る
「――ですが、今では、姉は姉、わたくしはわたくしだと思えるようになりました。ですから、詩織さんもいつか、そう思えるようになります」
(桜さんも、私と同じだったんだ……)
自分から見れば、全てが完璧に思えた桜の告白に、詩織は少しだけ心が軽くなったような感覚を覚え、小さく口元に笑みを浮かべる
「そのお姉さんは、どうしてるんですか?」
「分かりません」
「え?」
詩織の言葉に桜は、表情を変える事無く目を伏せる
「両親が殺された時に離れ離れになったきりです」
「ご、ごめんなさ……」
「気になさらないで下さい。姉は元気だというお話を伺っておりますから、気に病まれる事ではありませんよ」
「でも……」
目を伏せる詩織に、桜は優しく微笑む。
「九世界は争いの絶えない世界ですから、家族や親しい人を失うなど日常茶飯事です。全霊命の半分以上は、そういった経験があります。もちろん神魔様も」
「……!」
(桜さんは、私が知らない神魔さんを知ってるんだ……分かっていても、やっぱり悔しいな)
「そんな世界なら……」
「はい」
思わず口をついて出た声に、桜が優しく応じる
それに、一瞬声を出した事を後悔した詩織は、すぐに意を決したように桜を真正面から見つめる
「そんな世界なら、桜さんはどうして今まで、神魔さんを待っていたんですか?他の悪魔と戦っている事を知ってたんですよね?
なら、いつ神魔さんが戦いで大怪我をするか、もしかしたら死んじゃうかも知れなかったのに、どうして近くに来ようとしないで待っていられたんですか!?」
「…………」
詩織の声に、桜は小さく息をつく
(それに、それに……もっと早く来てくれていれば、最初からあなたがいたら、私はこんな気持ちにならなかったかもしれないのに……)
八つ当たりに近い感情に任せて、詩織は桜を見つめる
「私なら、私がもし桜さんの立場だったら、待っていられないから……」
自分だったら、遠くに好きな人がいたら……その人が命を落とすかもしれない戦いに身を置いていて、自分にそれを助けられる力があったのなら、呼ばれるまで待つなどできない。
少なくとも一度は、無事を確かめに会いに来る。
自分は、自分だって「桜に負けないくらいに神魔を愛している」という気持ちを込めて詩織は問いただすような少し強い口調で桜に言い放つ。
「そうですね。それは価値観の差としか申し上げられませんが……」
感情をあらわにして小刻みに震えながら言う詩織とは対照的に落ち着いた様子の桜は、一拍置いてからその透き通った紫色の瞳で真っ直ぐ詩織を見つめて優しく微笑みかける。
「一つだけ、確かに申し上げられる事がございます」
「……?」
桜は、まるで自分の心に語りかけているかのように自分の胸にそっと手を置いて、詩織に向けてその偽りのない本心を言葉として紡いでいく。
「わたくしは、神魔様が愛しくて、愛おしくてたまらないのです。何をしていても、何もしていなくても、神魔様のことばかりを考えてしまうほどに」
「……!」
ほんのりと頬を朱に染め、瞳に深く純粋な愛を灯し、溢れ出る幸福に微笑む桜の表情に、詩織は胸を締め付けられるような感覚に見舞われる
「神魔様は、わたくしの存在理由そのものです。わたくしが、わたくしである事。わたくしとしてこの世界に存在する事ができているのは神魔様がいて下さるからです。
わたくしにとって大切なのは、ただ神魔様のお傍にいさせていただく事だけです。ただ神魔様の事を考えるだけで、わたくしはどうしようもなく神魔様を愛しているのだと、愛させていただいているのだと感じさせていただけます。」
桜が幸福に満ちた穏やかな声音で囁きかける。
「神魔様にお仕えさせて頂くことがわたくしの幸福。神魔様のお傍にいさせていただける事は至福。神魔様の意に副うことだけが、わたくしの願いです」
神魔を愛している。自分でもどうしようもできないほどに。
桜のその想いが、言葉としてはっきりと、確かに伝わってくる。
「それだけでよかったはずなのに、それだけで十分だというのに……わたくしは幸運にも神魔様のご寵愛を賜る事ができました。
ですが、それはこの身に余るその幸福なのです。ですからわたくしは、わたくしの存在の全てを以って神魔様にお仕えし、少しでもこの幸福のお返しをさせていただきたいのです」
多くを求めてなどいなかった。
ただ、傍にいて、ただ同じ時間を過ごす事ができれば満足だったのだ。
しかし、神魔と愛し合い、結ばれ、時を過ごす事で、桜はもう、それだけではいられなくなってしまった。
「わたくしはもう、身も心も神魔様に染められてしまっているのです」
抑えきれずに、溢れ出る愛情と、幸福に満ちた聖母のような優しく、満ち足りた表情で桜が微笑む
「わたくしの心も身体も、ただ神魔様のためだけにあります。そうでないわたくしなどわたくしではなく、この世界に在る意味すらないのです」
「っ……」
その様子に、詩織は息を呑む
桜の言葉、表情、仕草、その全てが、桜が神魔を心から愛している事を否が応でも詩織に認識させてくる
「申し訳ございません。このような惚気話を聞かせてしまって……」
「い、いえ……」
頬を染めて微笑む桜に、詩織は全力で平静を装って応じる
「つまり、わたくしが申し上げたかったのは、愛情は誰もが持つ気持ちですが、その形は人それぞれだという事です」
「……!」
詩織は目を見開く
「ですから、わたくしは神魔様の御心に副うようにしていたのです。ですから、詩織さんが仰った事も間違っているとは思いません。
ただ、これがわたくしなりの愛し方だと、ご理解願えますか?」
「……っ」
桜の言葉に、詩織は何も言い返せずに沈黙する
「それと、このお話は神魔様には秘密ですよ?」
「え?」
「先程までのお話は全て、わたくしの勝手な想いですから。神魔様が知っていてくださらなくともよい事です」
「わ、私……学校に行きますね」
「つまらないお話をお聞かせしてしまいましたね。お気をつけて行ってらしてください」
「はい」
消え入りそうな声で答えた詩織は、桜から逃げ出すように家を出る。
扉を閉め、学校へ向かう道のりを家を振り返ることもできずにひた走る。
(駄目、絶対に勝てない……)
溢れ出そうになるモノを堪えて、詩織は学校へ逃げ込もうとしているかのように懸命に走る
(桜さんは、何よりも神魔さんの事を考えて……なのに私は、神魔さんの気持ちなんて考えずに自分の事ばかり……)
詩織の脳裏に甦るのは、神魔と寄り添う桜の姿。そこには自分が入り込む余地などなく、その資格すらないのだと思い知らされた
「っ、私は……」
懸命に走る詩織の目から、一筋の涙が流れた。
逃げ去るように家を出た詩織を見送った桜は、小さく溜息をつく
「わたくしとした事が、少々惚気すぎましたか……」
目を伏せた桜は、軽やかに身を翻す
「罪作りなお方ですね……神魔様」
桜は小さく呟くと神魔の元へと向かうのだった。