天の落日
「なにしてるの!」
「っ」
開口一番、強い口調で咎める黒鬼「椿」の言葉に、それを受けた赤の戦鬼――「示門」は、わずかにたじろぐ
(……ん?)
その様子を知覚されないよう、限界まで光力を抑えて見ていたクロスは、予想だにしないことの成り行きに思わず怪訝な表情を浮かべる
「今日は、光魔神様達の歓迎の宴席だから、ちゃんと出てってお願いしたでしょ!?」
腰に手を当て、眦を吊り上げて穏やかな表情を険しくする椿に窘められる示門は、ばつの悪い表情で視線を逃がし、詰め寄ってくる黒髪の鬼を躱そうとする
「きっと、御門様だって出て欲しいと思ってたはずよ。わ、私だって――」
だが、そんなことで話を終えるつもりなど毛頭ない椿は、吐息がかかるのではないかと思うほどに距離を詰めて、拗ねた様子でその双眸を覗き込む
若干背が低いため、下から覗き込むような形で視線を注ぐ椿は、言葉の終わりをわずかに言い澱みながら、視線を逸らす
「私だって、示門に来てほしいって思ってるのに……」
先程までの強い語調から一転し、消え入りそうなか細い声で告げた椿の頬は、熟れた果実のように赤らんでいる
「……誰だ」
そんな椿の様子に困惑した表情を浮かべ、かける言葉が出て来ずに迷っていた示門は、軽く空を仰いだ時に宙に浮かんでいる人影を見据えて低い声で威嚇する
(見つかったか)
示門の緋色の双眸が自分をはっきりととらえているのを感じ取ったクロスは、もはや隠れている意味はないと、抑えていた光力を解き放って二人の許へゆっくりと降りていく
「――あ」
そんなクロスの姿を見止めた椿は、自分達の逢瀬を見られていたことを理解して視線を伏せる
「悪い。あんたが出ていくのが見えて、つい……気になってな」
その反応を見たクロスは、存在を隠してまで椿を尾行し、この場面を目撃してしまったことを後悔しながら弁解する
「いえ。私の方に非があるのは明白ですから」
クロスのその言葉に、光魔神達を筆頭とする異世界からの客人達の世話係を任じられている黒鬼の少女は、私事で離れた責任を理解して深々と頭を下げる
「申し訳ありません。大変お見苦しいところを見せてしまって」
「いや、こっちこそ悪かった」
互いに謝罪を述べ、この一件をそれぞれの胸の内に収めたところで顔を上げた椿は、隣にいる一本角の赤鬼を軽く手で示してクロスに紹介する
「改めてご紹介させていただきますが、こちらは『示門』。御門様の弟で、私とは――昔からの幼馴染のようなものです」
クロスに示門の事を紹介した椿は、それと同様に逆の紹介も行う
「こちらはクロス様。光魔神様の同伴者のお一人として来られた御客人よ」
クロスの事を紹介された示門は、予想がついていたのか、特に目立った反応を見せることなく、軽くその場で目礼する
「どうも」
それに応じて社交辞令的に会釈を返しながら、クロスは椿が密会してきた赤鬼の姿を見据えて、思案を巡らせる
(――にしても、コイツは何でここに一人でいたんだ?)
今、鬼羅鋼城内の鬼達は、光魔神の歓迎のために本丸御殿の広間に集まっている
永遠を生きるが故に、全霊命は永く生きていればいるほど平穏と退屈を持て余すもの。
悠久の日常を苦痛に感じることはないが、特に城にいるような者達は、こういった刺激的なことが起これば興味本位で覗きたくなるものだというのを、クロスは経験的に知っていた
「最も忌まわしき者の片割れの示門だ」
そんなクロスの心中を察したのか、小さく鼻を鳴らして自虐的に笑って見せた示門は、眼前に立つ天使に向かって語りかける
「!」
「示門!」
示門が自ら告げたその言葉にクロスが目を見開くと共に、椿がそれを非難するように声を上げる
それは、そのことを告げてはいけないからではなく、そうやって自分を卑下する示門に対するものであるのは、その声音が物語っていた
「どういう、意味だ……?」
その言葉に驚愕を露にするクロスに対し、椿は大きく息を吐くと、その重い口を開く
「――本人が言った通り、示門は天上界王様の双子の弟として生まれた〝鬼〟です」
「!」
椿の口から告げられたその言葉に、クロスは自分を緋色の瞳に映す禁忌の赤鬼の姿を、驚愕に彩られた様子で見つめるのだった――
※
その頃、せめてこの宴が終わるのを待っていた大貴は、いつまでも終わる気配のない宴会に、小さくため息を吐いて重い腰をあげる
その足で向かったのは、地獄界王を中心として並ぶ六つの席の一つ。大半の面々が宴席の輪に加わっている中、黒曜と共に残っている唯一の六道――赤の戦鬼の許だった
「話、させてもらっていいか?」
「もちろんだ」
一人酌をして、この場を楽しんでいた赤の六道「戦」は、大貴の声に崩していた姿勢を正して、鮮やかな赤の瞳を向ける
そのやり取りは、宴席にいる全ての者達が気付いているが、あえてそこに割り込むことはしない。それをさせないだけの雰囲気が二人からはそこはかとなく立ち昇っていた
「最も忌まわしき者について。それと、十世界の火暗って奴についてだ」
九世界の目論見として十世界と戦う身として、そしてこの世界に関わると決めた自らの意思として、知るべきこと、知っておきたいことを訊ねた大貴の言葉に、戦は手にした器の中の透明な液体を呷って飲み干すと共に言う
「熱心というか、真面目というか……少しは、うちの王にも見習ってほしいものだ」
その視線をさりげなく黒曜へと向けた戦は、左右非対称色の双眸から注がれる大貴の真摯な視線に答えて口を開く
「あまり言いふらしたい話でもない。少し、外に出るか」
「ああ」
そう言って立ち上がった戦は、紫の六道である桔梗と軽く視線を交わしてから大貴と共に部屋を出ていく
宴会場のある階を出て歩く戦は、鬼羅鋼城の中層にある剥き出しの舞台へと大貴を誘う
柔らかく、冷たい夜風が赤い髪を揺らす戦が足を止めると、それを見計らったかのように、大貴の背後から神魔、桜、瑞希、マリア、リリーナ、詩織が姿を見せる
「――クロスは?」
「ちょっと夜風に当たってくるって出て行ったっきりで……思念通話で呼んだんですけど、今取り込んでいるからって」
その場に一人だけいない天使の事を訊ねる大貴に、マリアは申し訳なさそうに答える
先程の一瞥で桔梗に客人達を連れ出し、他の鬼達がこちらにこないように頼んだ戦は、そこから見える鬼羅鋼城の敷地へと視線を向けて目を細める
「あっちは問題ないだろう。椿と示門がいるようだからな」
クロスが今、どこに、誰といるのかを知覚で見て取った戦は、そう告げると身体を反転させて大貴達へと向き合う
「最も忌まわしきものと火暗の事を聞きたいんだったな?」
これから話す要件を、大貴以外の全員と確認して共有した戦は、軽く目を伏せてその意識を遠い昔へと馳せながら、ゆっくりとそれに対する答えを言葉にしていく
「火暗は、赤鬼ということもあって、俺の直属の部下だった。優しい性格で、実力も確かで人望もあったんでな、六道の腹心のような立場を任せていた」
まずその口から告げられたのは、地獄界の十世界総督「火暗」という鬼についての簡単な為人についてだった
「まぁ簡潔に言えば、鬼達のまとめ役みたいなものだ。今はその後を奴の息子の御門が継いでいるのだから、因果なものだ」
地獄界では、六道がそれぞれの長として、同色の鬼達を束ねている。赤の戦鬼である火暗もその例に漏れず、赤の六道たる戦の配下だった
その能力と為人を信頼された火暗は、戦はもちろん、六道全体の腹心――つまり、他の鬼達を纏める将のような立場にあった
その役職は一人だけに与えられるでわけはなく、能力的に優れた人物から何人か選抜される。つまり、火暗は、それに選ばれるだけの実力と人格を持っていたということだ
「随分前――おそらく、聖魔戦争の頃だ。その時に、あいつは傷ついた天上人の女を助けたらしくてな。それがきっかけだと聞いている」
さすがに全てを見てきたわけでもなく、知っているわけでもないのだろう、戦の語り口は、あくまでもそれを見ていたのではなく、後天的に得た情報などから推測を交えて話されるものだった
「最初は、ただ傷ついた女を殺す気になれなかっただけなのかもしれない。あるいは、その時すでに気があったのかもしれないが……本人にもその辺りは分からなかったらしい」
戦場で傷ついた敵と出会う。そんなことは、古い大戦の時には珍しいことではなかった。その時にどうするのかは人それぞれで、殺したとしても咎められるものでもない
ただ火暗という鬼は、いかに敵とはいえ、傷ついた相手――それも女を手にかけることはしなかった。
「その時に助けた天上人が――当時の天上界王『綺沙羅』だったんだ」
「!」
戦の口から告げられたその事実に、大貴はもちろんその場にいた全員が大なり小なり驚愕を露にする
傷ついた天上人の王。それを殺さずに助けた火暗の心中は知る由もないが、ただそれが全ての始まりにして終わりだったことだけは間違いない
「何があったのかは当事者にしかわからないが、そんな風に出会って、二人は恋に落ち――そして、綺沙羅は、生まれえてはならないはずの命を宿した――それが、今に言う最も忌まわしき者だ。『在ってはならないもの』だとか、多少違った色々な呼び方はあるがな」
その色とは異なり、冷たく硬質な印象を感じる戦の表情からは、抑えようとしても隠しきれない複雑な心境が滲みだしていた
嫌悪、蔑意、敵意、怒り、恐怖――複雑に絡みったその心色は、少なくとも、憐憫や同情はあっても、好意的な感情は一つもなかった
だがそれは、異なる種族と愛を交わした同胞に対して抱かれる必然的な感情でもあった。
「その話を聞いたときには、さすがに戦慄を覚えた。何しろ、光と闇の異なる種族同士の愛情だけではなく、できるはずのない命が二つも生まれていたんだからな」
存在の禁を犯し、それ以上の禁忌をこの世にもたらした者のことを思いながら、あくまで平静に語る戦の口から語られた言葉に、大貴が訝しげに眉を顰める
「二つ?」
大貴と詩織ばかりでなく、それ以外の面々――天界の姫であるリリーナさえも――が小さく驚嘆を浮かべる中、戦が口を開く
「綺沙羅が生んだのは、双子の姉弟だったんだ。――しかも、天上人と鬼の」
「!」
その言葉に目を瞠る異世界からの客人達を見渡した戦は、満天の星を抱く夜天へ視線を移すと、朱い双眸にそれらの瞬きを映す
「二人は、当初それを隠していた。――当然だ。それを知られれば、親子共に殺されるのがこの世界の理なんだからな」
おそらく、子を孕んだ時、当事者達も驚愕を隠せなかっただろう。光と闇の存在の間に子供は生まれないというこの世の理を無視して宿った命なのだから。
だが、二人はその命をこの世に産み落とすことを選んだ。それは、綺沙羅と火暗の愛情の深さの証明でもあり、同時に世界の理への反逆の意志の証明でもあった
「俺達がそれを知ったのは、『緋毬』がそのことを教えてくれたからだ」
「緋毬……?」
「火暗の伴侶、つまり御門の実母だ」
新しく出てきた人名らしい単語に眉を顰める大貴に、戦はそれの答えを簡潔に告げる
「それを聞いた俺達は、総出で二人を狩り出した。幸い、天上界王が不在ということで、天上人の侵攻は緩んでいたからな」
その時のことを思い返しながら言う戦は、腕を組んだまま大貴達を見据え、そしてその指に力を込めて言う
「そして、二人を捕らえた俺達は、それ以上の恐怖を覚えることになった」
「それ以上の、恐怖……?」
表情を変えることなく告げられた戦の言だが、その端々からにじみ出る悍ましさを隠すことはできていなかった
それがあまりに鮮烈なことだったのか、それから永く長い時が過ぎているにも関わらず、戦の表情は、心なしかわずかに青褪めてさえいるように見える
「奴らから生まれたのは、子供なんかじゃなかったんだ」
「?」
そこに込められた心境に引き摺られるように息を呑んだ大貴達に、戦はゆっくりと口を開いて、重苦しい声音で言う
「あれは……〝奴ら自身〟だった」
「――ッ!?」
「人格は違うし、見た目も少し違う。だが、その子供たちが放っていた神能は、あいつらのそれと寸分違わずに同じだった」
その事実を告げる戦の瞳は険しい光をたたえ、その時の戦慄と恐怖を今にはっきりと表していた
「つまり、奴らは自分達自身を生んだんだ」
あらゆる負の感情をないまぜにして血を吐くように言う戦の言に、それを聞く誰もが大なり小なり蒼白な表情を浮かべたまま立ち尽くすしかなかった
それが、いかに異常で恐ろしいことか、詩織にさえ理解できる。生命として生まれるはずがない命が生まれ、そしてそれが両親の現身そのもの。
光と闇の禁断の愛、その愛によって生まれた子供、そして同一の神能が存在しないという三重の禁忌。――この世の理を蹂躙して生まれたその存在に唾棄するような忌避感を抱くのは当然の事だ。
「特に恐れられたのは、姉の灯だった。綺沙羅と全く同じ神能ということは、最強の天上人が二人になったようなものだったからな」
まさに「最も忌まわしい」という冠飾に相応しい生い立ちに大貴と詩織をはじめとした誰もが言葉を失う中、戦はさらに言葉を続けていく
火暗はまだしも、その伴侶である綺沙羅は光の存在「天上人」の原在であり、その中で最強の力を持っていた。
最も忌まわしい者として生まれたその愛娘――「灯」は、当然それと全く同じ神能を持っていることになる。それが何を意味するのかなど、考えるまでもないことだ
「まあ、その後は知っての通り、結局二人の子供は殺されず、灯は天上界へと引き渡され、そこで新しい王になっている」
腕を組んだまま、軽く天を仰いだ戦は、天頂で輝く神臓の月を見据えると、そこにかつて見た忌まわしい者を幻視して眉根を寄せる
「そして、そのことが後に世界三大事変の一つ――〝天の落日〟のきっかけにもなった」
「――!」
(三大事変……)
戦の口から告げられたその言葉に、大貴と詩織は軽く目を瞠って息を呑む
世界三大事変は、創世から現在までの九世界の歴史の中で、世界三大戦争と並んで大きな目安となっているものだ
「ロシュカディアル戦役」、「ヘイルダートの悪夢」と並んでその一つに数えられる「天の落日」は、この「最も忌まわしき者」を発端にして起こったのだ
「天上界王様が、同じ天上人達によって殺害された事変。――後にも先にも、九世界の王が同属に殺されたのは、これ一度きりです」
その呼称こそ聞いたことはあるかもしれないが、この中でそれがどんなものなのかを知らない大貴と詩織に向け、天界の姫であるリリーナがそれを説明する
全霊命が治める八つの世界に人間界を加えた九世界と呼ばれる九つの世界の中で、王が変わったことがあるのは、「人間界」、「聖人界」、「天上界」、「天界」の四つ。
だが、その王の中で、自身と同じ者達に討たれて王位を譲ったのは、長い歴史の中で後にも先にも天上界王「綺沙羅」ただ一人。
天上人による天上界王の処刑――未だ、歴史において一例しかないそれを、「天の落日」と呼ぶのだ
「もう、分かるだろう?」
リリーナの説明に大貴と詩織が息を呑んだのを見て、戦は口を開いて、厳かな声音で語りかける
「火暗が、十世界に入って何を成したいのか」
その問いかけを受けた大貴は、自身へと向けられる赤の六道の眼差しに、一つ息を呑んで左右非対称色の双眸から視線を返す
「子供達を、認めさせること」
「そうだ」
重い声音で告げられた大貴の答えに、戦は淡泊な声で肯定する
盟主愛梨への好意で動く者が大半を占める十世界の中に於いて、数少ない十世界の理念を成そうとする鬼の総督。
その目的は「すべての種族が許し合い、手を取り合う」理念を実現させることで、最も忌まわしき者として忌み嫌われる自分の子供達を世界に許させることだ
「そっか、自分の子供のために……」
大貴の言葉でそれを理解した詩織は、物憂げな表情で独白する
その生まれと在り方から、世界に忌まわしいものとして拒まれる自分達の子供のために戦う――それは、子供の幸福を願う親心以外のなにものでもない。詩織にも、その心境はある程度まで察することができた
決して望んで禁忌の存在として生まれてきたのではない子供達。それ以上に、生まれてくることを望み、幸せになってくれることを望む子供達のために世界を敵に回す親の愛こそが、世界に弓を引く原動力なのだと思うと、どうしてもやるせない思いに駆られてしまう
「でも、なんでそんなことが……」
ここまでの話で、当初の疑問は解決されたが、その代わりに湧きあがってきた別の疑問を口にした大貴は、思案げな表情で眉根を寄せる
そもそも、なぜこの世の理としてあり得るはずのないことが起きたのか、という根本的な疑問を抱く大貴に、背後からその答えの一助となる言葉がかけられる
「世界の歪み」
「!」
神魔の口から告げられたその言葉に、その場にいた全員が小さく目を見開く
神魔と桜は、かつて妖界で堕天使「ザフィール」から歪みの話を聞いたときにその話を聞いている。
大貴達に説明した時は、あえて話す必要はないと省いていたが、その話となればそれを答えない理由はない
「知っていたのか」
その言葉にわずかな驚きを滲ませる戦は、直ぐに平静を取り戻すと、真剣な眼差しで頷いて応じる
「そうだ。可能性としては、それが一番高いと考えている」
神魔の言葉に首肯を以って応じた戦は、大貴達を双眸に映して神妙な面差しで語りかける
「世界の歪み――それは、いつの頃からあるのか分からない、だが今の世界にいつの間にか根付いて広がっている危険な〝もの〟だ。
原因不明、詳細不明――ただ、原在のように、創世の頃……神がいた時代から生きている者には、それが分かる」
神から生まれた最初の鬼の一人である戦は、間近で神を見て、創世されたばかりの世界をも見ている。だからこそ、この世界の根底に生じている歪みが誰よりも鮮明なものとして見えていた
「神が相手である場合を除き、全霊命には光と闇はもちろん、光同士、闇同士でも愛情は生まれない。まして、子供など生まれない。
だが、何らかの歪みが世界に根を張り、それを成してしまっている。悠久の時間に隠されたその歪みが、〝最も忌まわしい者〟として形になった――そう考えるのが、ある意味最も自然だ」
この世の理に照らして最も不自然なものを、最も合理的に説明できる推論を述べた戦の言に、ここまで静かに話を聞いていた詩織は、恐る恐る手を上げて訊ねる
「あの……そもそも、その歪み? の原因は何なんでしょうか?」
詩織の至極もっともな質問を受けた戦は、最も忌まわしき者を生み出した理由として考えられる世界の歪みの原因について、その重い口を開く
「分からない」
端的に、その結論を口にした戦は、しかしその視線で大貴達を見回してから真剣な眼差しで言葉を続ける
「だが、間違いなく〝神〟が関係していることだけは断言できる。――それが、神の意思なのか、あるいは神さえ意図せぬことなのか、もしくは神器という形なのかまでは分からないがな」
神から生まれ、神に最も近い神格を持つ世界最高位の存在。であるからこそ、逆説的に神の力でなければ、いかなる理由があろうと全霊命という存在に影響を与えることなどできるはずはない
全霊命という存在の定理を無視できるのは「神」だけ。そうでなければありえないからこそ、歪みの戦には――否、世界にいる原在達には、世界の歪みの根幹に神、あるいは神の力が絡んでいることが確信できていた
「そんなことがあり得るのか?」
「事実、存在するだけで世界を滅ぼす神はいる。例えば――」
その話を聞いていた大貴が根本的な疑問を述べると、戦はそれに対して即座に視線を返す
「円卓の神座№0『無極神・ノウト』とかな」
「!」
あくまでも例としてだが、その可能性の一つとして提示された円卓の神座に名を列ねる異端神の名に、大貴は小さく目を瞠る
「とはいえ、それも可能性の一つ。推測の域は出ない――神器は十世界にも英知の樹にもあることだしな。いずれにしろ、軽はずみに動けば世界にいらぬ混乱を招く恐れもあるということだ」
永きに渡り、世界の深淵に横たわってきた問題について答えた戦は、そこで話を止めると大貴へと視線を向ける
「さて、とりあえず、これで聞きたいことには答えられたか?」
「――あぁ。助かった。ありがとう」
地獄界の立場からすれば、あまり言いたくないであることも素直に答えてくれた戦に、大貴は感謝の言葉を述べる
(世界の歪みの方は分からないが、色々と収穫はあったな)
分からないことも増えたが、当初の目的を達した大貴は、この世界の十世界と相対する上で必要になるであろう最低限の情報を獲得し、自分がどうするべきかを考えるために、意識の隅にそれを刻みつける
「話は終わったか?」
その時、夜風が吹き抜ける舞台で話している一同の背後から、漆黒の長い髪を揺らしながら、この地獄界を総べる最強の鬼が姿を見せる
「黒曜」
その姿を見止めた戦は、「今頃来たのか」と言いたげな不満の色が浮かぶ視線と声音を向けてくるが、当の黒曜はそんなことなど気にも留めず、大その名を連想される黒曜石のような黒い双眸に大貴の姿を映す
「光魔神。聖人界から、九世界王会議の要請が入った」
おもむろに告げられた黒曜の言に、その意味が分からない大貴と詩織以外の面々が小さく身じろぎする
「そこで、お前達の処遇に関する話になるだろう」
「――っ!」
そして、次いで黒曜の口から告げられた言葉に、その言わんとする意味を理解した大貴は小さく息を呑むのだった――。
※
「――……」
地獄界王城「鬼羅鋼」から遠く離れた洋上に浮かぶ城艦の甲板の上。世界に等しく光の恩恵をもたらす月光の源を睨み付けている黒髪の男に、背後から声がかけられる
「苛立っているようだな」
その声に視線だけを向けた黒髪の男――十世界に所属する悪魔の一人である「霊雷」は、怜悧な瞳に鋭い光を灯して口を開く
「ええ、〝宇羅〟様。一刻も早く殺したい相手がいましてね」
背後に立つ緑の護鬼――「宇羅」に語りかけた霊雷は、すぐさま視線を戻すと海の向こうにある桁外れに大きな鬼力が集まっている場所へと知覚と意識を注ぎながら言う
そこにあるのは、この地獄界の中枢にして、地獄界王たる鬼が鎮座する鬼羅鋼城。そして、霊雷の標的がいる場所でもある
「殺したい相手、か」
「変ですか?」
緑の髪を潮風になびかせ、宇羅が懸念を表するように言うのを聞いた霊雷が逆に嘲るように訊ねる
「我らは十世界だ。その理念に、私怨は合わないのではないか?」
これまでの歴史を考えれば、この世界で生きている者に大なり小なり私怨があるのは当然の事であり、場合によっては仇や殺したいほど憎い相手がいるのも当然の事だろう
今日まで培われてきた種族、世界、個人での憎悪と敵意を失くすべきだとは言わない。だが、それを声高に叫ぶのは世界の友和と恒久的平和を理念とする十世界にとして看過できることではないのも事実だった
「ですが、それを語らず平和を成すというのも難しいでしょう? 過去はなかったことにできないのですし、するべきでもないのですから」
そう言って意地の悪い笑みを浮かべた霊雷は、分かりきったことを言われた宇羅へと視線を向けてそれに対する言葉を待つ
「そんな当たり前のことを言って何か楽しいのか?」
「――!」
だが、霊雷のその言葉を受けた宇羅は、得意げに言い放たられたそれに、辟易したようにため息をついて、軽蔑したように言う
「もっともらしい言葉を述べるのは勝手だが、そう思うのならなぜおまえは十世界に入った? 姫の理念を否定するのも、笑うのも勝手だ。――だがそれが、お賢い言葉を並べて十世界組織を利用していい理由ではないぞ」
十世界の理念に同調してもいないというのに、組織に所属しているということを嘲りながら、抑制された声で告げた宇羅は、背を向けたままの霊雷を睥睨する
今更言われるまでもなく、愛梨の理念が理想に過ぎないことなど多くの者が分かっている。それをどう思うかは個人の自由だが、どうせそんなことはできないと決めつけて、組織を私怨のために利用されるなど容認することはできない
「分かっていますよ。――少々気が立っていただけです」
背後から注がれる宇羅の強い視線に肩を竦めた霊雷は、そう言ってその話題を打ち切る
「ところで、何かご用ですか?」
「明朝、黒曜が九世界王会議に出向いて城を留守にする。――その後に動くとのことだ」
霊雷の視線に瞼を閉じた宇羅は、これ以上の話をするのは無意味だと言わんばかりに簡潔に用件だけを告げる
「分かりました」
霊雷の言葉を聞くが早いか、その身を翻して背を向けた宇羅は肩ごしに視線を向けて小さく鼻を鳴らす
「何を恨んでいるのかは知らないが――独り相撲を取っているようにしか見えないな」
霊雷の後ろ姿を新緑の双眸に映した宇羅は、滑稽なその姿を本人に聞こえないように嘲笑し、小さく言い放つ
「小物め」
潮騒にさらわれたその言葉は、海の果てにいる仇を睨みように佇んでいる霊雷の耳に届くことなく、月光に白波を輝かせる黒い海原に溶けるようにかき消されていった
※
一面を埋め尽くす緑と、色とりどりの花が咲き乱れる小高い丘。――一点の曇りもない純白亜の四阿が佇むその場所で、その人物は流れる風に長い金色の髪をなびかせていた
その身を包むのは白の霊衣。足元まで届くドレスに半透明のヴェールのような羽織を重ねたその女性は、均整の取れた整った顔に、穏やかな微笑をたたえている
陽光と風に目を細め、静かに佇むその女性の背後に静かに降り立った戦乙女を彷彿とさせる出で立ちの女性は、その背に十数歩といった程度の距離を取ると、その場で恭しく片膝をついて首を垂れる
「神庭騎士・シルヴィア。ただいま戻りました」
頭を深く下げ、閉じていた目をうっすらと開いて眼下に咲く一輪の花を見据えたシルヴィアは、仰ぐ金髪の美女へ向けて、言の葉を紡ぐ
「――『護法神様』」
その呼びかけを受けた金髪の女性――異端神円卓の神座№10「護法神・セイヴ」は、金色の髪と半透明のヴェールをオーロラのように揺らめかせて振り返ると、傅いた自らの眷属たる戦乙女に慈愛に満ちた微笑を傾ける
「手間を取らせますね」
「そのようなことはございません。我が神のためならば、喜んで馳せ参じます」
透明感のある声色でシルヴィアをねぎらった護法神は、傅いている騎士へ優しく視線を注ぎながら、さらに言葉を織り紡いでいく
「神庭騎士・シルヴィア。あなたに任せていた〝全てを滅ぼすもの〟の監視を、次の
段階へ移行させます」
「は」
頭上から響く自らの神たる護法神の啓言に、シルヴィアは深く頭を下げて毅然とした声音で答える
「『祈祷司』」
「はい」
護法神が紡いだ清らかな声に答え、純白の司祭服に身を包んだ女性が、長い緋色の髪を揺らしながらその背後から姿を現す
護法神は、「覇国神・ウォー」と対となる異端神。七人の神片と神庭騎士をはじめとする、眷属を持っており、ユニットの構成も酷似している
そして、「祈祷司」は、覇国神で言えば「祭祀」に相当する存在。護法神に仕え、その眷属に神の恩寵をもたらすものだ
「あなたに、〝神託〟を授けます」
「――! 謹んでお受けいたします」
祈祷司を傍らに控えさせたセイヴが厳かな声音で語りかけると、シルヴィアは小さく目を瞠って一層深い敬意を示す
「これより、我らも動きます。一層の活躍を期待していますよ」
身の丈にも及ぶ金色の錫杖を具現化し、周囲の領域を光で包み始めた祈祷司を横目に、護法神はシルヴィアに、穏やかな声音で語りかける
「はッ! 必ずやご期待に応えてみせます」
「ええ、お願いしますね――」
顔を上げたシルヴィアの双眸にその姿を映す護法神は、祈祷司の光を吸収して淡い燐光を纏う自らの眷属たる戦乙女にたおやかに微笑みかけると、その手の平に金色の光珠を呼び出す
「我らが神と、滅びゆく世界のために」