世界鳴動
「マキシム様」
聖浄匣塔から瑞希を連れ出すと同時に聖人界から逃げるように離脱した光魔神と愛梨をはじめとする十世界――その姿を呑み込んだ時空の門が消えた空を見上げていた最強の聖人「マキシム」は、背後から声をかけられて視線を移す
「どうした?」
そこにいたのは、この戦いを終えて運よく動けるほどの傷しか追っていない聖人の男。その人物が警軍に所属する者であることを思い出したマキシムが問いかけると、その場で膝をついていた聖人がそれに答えて口を開く
「先の襲撃によって、破壊された聖浄匣塔から囚人たちが次々に脱走しています」
「――! 逃すな。今の奴らには、私の封印の枷を破壊する力はないはず。動けるものを総動員して囚人たちを捕らえるんだ」
その聖人から報告を受けたマキシムは、その表情に厳格な色を浮かべると覇気がにじみ出ているような重低音の声で命じる
神魔と桜が強引に侵入し、内側にいた看守の聖人達をも戦闘不能にしてしまったために、今聖浄匣塔は完全にその機能を失ってしまっていた
おそらく、ある程度こうなるように仕組んでの事だったのだろうが、それは戦力をほぼ壊滅させられている今の聖人界にとっては極めて重要な問題だった
「はっ!」
「――……」
その言葉に意気を強めて頷いた聖人が即座に移動したのを見て取ったマキシムは、背後を一瞥して先程までロード、撫子、神庭騎士の三人がいた場所を見据えて目を細める
「とんだ置土産を残してくれたものだ」
他の誰にもその存在を悟らせず接触を図り姿をくらました三人がいた場所を双眸に映したマキシムは、一言そう独白するとその巨躯を翻し、先程の聖人の応援に向かうべく神速でその場から移動するのだった
戦いの爪痕を残し、未だ終わらぬ問題を抱えている聖議殿を遠巻きに見ることができる山脈の上に立ち、その光景を睥睨するロードは、自身の斜め後ろに淑然とした佇まいで控えている撫子に声をかける
「さて、そろそろお前の妹も疑念を確信に変えつつあるようだな」
ロードに声をかけられた撫子は、その澄んだ瞳に聖議殿の純白亜の城街を映しながら、そこに自身の妹――「桜」の姿を幻視して瞼を下ろす
自身の大切な妹のことを思いやってその美貌に沈痛な色を差した撫子は、ロードの問いかけに答えるように、その可憐な花唇を開いて言の葉を紡ぐ
「夫のことは妻の身となった者にはよくわかりますから――桜さんの性格を考えれば、自身の異常にもすでに気づいているでしょう」
実の妹であり、長い年月あっていなかったとはいえ、先日の再開で同じように貞淑で愛する人に尽くす桜の性格を知り尽くしている撫子の言葉にロードは肯定の意を声に変える
「神魔は急速に神格を高めた。それは、奴が『全てを滅ぼすもの』としての覚醒を見ていることに他ならない。だが、伴侶までが神格を高めることなどありはしない」
「神魔さんの神格が急激に高くなったのに合わせて、桜さんの神格も高くなっています。――それは、魔力共鳴をしている二人が一番自覚しているでしょう
いかに契りを交わして命を分け合った伴侶であるとはいえ、相手の神格と共に自身の神格が影響を受けて強化されることなどありえないのですから」
神魔と桜のこれまでの戦いの全てを知っているロードと撫子は、互いに言葉を発してその事実を明瞭に浮かび上がらせて共有する
神魔と桜の魔力共鳴はもはや最強の全霊命である原在と互角以上に渡り合えるまでに強化されている
だが、その現状は実は異常なのだ。急速な成長により、神格を強化した神魔に対し、桜は今までのように世界最高といっても過言ではないほどの相性で当然のように共鳴を行っている
だが、いかに互いの命を分かち合っているとはいえ、伴侶の神格が強くなったからといって、自分の神格までもがそれに比例して強くなるわけではない。
本来なら、神魔の魔力の神格が高まろうと、桜が何らかの手段で神格を高めない限り、最悪共鳴する魔力に齟齬が生じてしかるべきなのだ
だが現実にはそんなことは起こらず、神魔が高めた魔力に対して桜は当然のように対応している。もちろん陰ながら努力しているのもあるのだろうが、それにしても異常に早く神格を成長させた神魔と同等以上の速度で神格を高めた桜の成長速度は通常ではありえないと言わざるを得ないだろう
「やはり、神魔の――『すべてを滅ぼすもの』の影響を受けているのだろうな」
「はい」
ロードの言葉に撫子は淑やかな声音で応じる
契りを交わすことで、伴侶の全霊命は互いの神能、命、存在の一部を共有することができる
桜が通常ではありえないほどの神格の上昇を得た最大の要因は、神魔との関係に起因し、その神格の一部たことによる影響を受けているからであろうことはロードと撫子――否、この世界に生きる存在にとっては、想像に難くないことだった
「『アンシェル』か」
ロードの口から零れたその言葉に、撫子はわずかに反応を示すが、その美貌に浮かぶ表情に変化を見ることはできない
「ですが、よろしいのですか? 神魔さんは――」
伏せていた視線を上げ、言の葉を紡いで問いかける撫子の言葉に肩越しに振り返ったロードは、その金色の双眸を細めて小さく息をつく
あえて最後の言葉を発しなかった撫子だが、ロードにはその部分が「まだ生きている」――即ち「神魔はまだ生きている」というものであることを理解している
「全てを滅ぼすもの」である神魔を殺すことこそがロードと撫子――そして、その協力者たちの目的。大切な妹の最愛の人であり、また自身にとっても義理の弟。そうでなくとも実の弟のような親愛の情を神魔に対して抱いている撫子からすれば、あまりその言葉を自分の口から積極的に告げることは避けたいのだろう
だが、神魔を殺さなければいずれこの世界とそこに住まう全ての命が滅び去る。そのために神魔を殺すことを許容はしていても、望んではいない撫子の心情がその反応には現れているかのようだった
「なに。そう焦ることでもない。急がなくても、早いか遅いかの違いでしかないんだからな。それに……状況を考えればまだ早すぎるくらいだ」
沈痛な面持ちで言う撫子に、ロードは軽く息をついて答える
「元々マキシムに話を持ちかけたのは、神魔の覚醒を促す意味合いの方が強かった。だから、無理にここで覚醒をもたらす必要はない
神魔を確実に殺すのは、奴らが〝鍵〟の在処に気付いてからでいい。それまでは、本腰を入れる必要はないさ」
「意地の悪いお方ですね」
どこか含みのある笑みを浮かべるロードの言葉を聞いた撫子は、その内容にはさすがに非難めいた色を滲ませているが、諦めと呆れの方が強く感じられる
ロード達がマキシムに〝すべてを滅ぼすもの〟の事を教え、十世界と接触するように促したのは、神魔の器を完成させるための一助とするためだった
そして結果愛梨が連れてきた死紅魔によって、九世界を巡る戦いの中で急速に成長し、完成されつつあった「器」がほぼ完成したことになる
ロード達の計画では、最初からここで神魔を覚醒させる予定はなかった。そうなっても構わなかったが、無理にここで成就される必要もないことだった。――少々当初の見込みより、前倒しで器の完成が促されたに過ぎない
そういった訳であくまで結果論に過ぎないが、聖人界での一連の戦いはロード達からすれば、死紅魔という存在を呼び寄せるためには役に立った以外にさほど重要ではなかった
一連の聖議殿や聖浄匣塔での戦いと聖人界の被害は、そのための尊い犠牲だ
「その言われ方は心外だな。とはいえ、楽観もしてはいられないだろう――」
撫子の視線と言葉を受けながらも、微塵も態度を崩すことのないロードは軽く空を仰ぐと、世界を隔てた先にいる神魔へと意識を向けて口を開く
「死紅魔が死んだ今、奴が今まで抑えていた神魔に因縁の深いやつが、次の世界では出てくるだろうからな」
※
世界を隔てる時空の狭間に浮かぶ城塞都市そのものを乗せた巨大な大陸――「十世界」が本距地としているその一角では、暗い闇の中で一人の男がその口端を吊り上げ、愉悦の色を浮かべていた
十世界に所属する悪魔達の頂点に立つその男――悪魔の原在たる「五大皇魔」の一角である「ゼノン」は、暗闇の中で膝まずく影を一瞥して口を開く
「そうか。厄真も動いたか……では、何としても――」
視線を交わすことなく暗闇に溶け込んでいる「影」に語りかけていたゼノンは、ふとそこで話を止めると
その視線を部屋の一角――ここと外を繋いでいる扉へと向ける
「来たか」
その言葉を証明するように、しばしの間をおいて扉の向こうから声がかかったのを確認したゼノンが許可を出すと、その人物が室内へと足を踏み入れてくる
「よく来てくれた」
全霊命にとって、明かりがないことなど何ら視界を妨げる条件にはなりえないが、真っ暗な部屋で迎え入れるつもりもなかったゼノンは、明るくした部屋でその来客を迎え入れる
その人物は、黒髪にやや中性的な印象を受ける端正な顔立ちの眉目秀麗な青年だった。全体的に細身な身体つきではあるが、細すぎるということはなく男性らしい力強さと磨き上げられた刀身を思わせる力強さを感じさせる
理知的な光を宿す切れ長の目でゼノンを見据えるその人物は、最強の悪魔へ敬意を表しながら水色の蛍光色の線が目を引く、足元まで届くような黒い縁取りがされた純白のコートを見せつけるように翻す
「いえ、我らの祖たるゼノン様らのお招きとあらば――それで、どういったご用件でしょうか?」
ゼノンの歓迎の言葉に、どこかわざとらしさを感じられる声音と仕草で仰々しく答えたその悪魔の青年は、鋭い眼光を向ける
その様子に小さく鼻を鳴らしたゼノンは、この組織にいる者の多くが知っている感情を灯した双眸を睥睨して小さく鼻を鳴らして口を開く
「死紅魔が死んだ」
「聞き及んでおります」
とりあえずとばかりに切り出したゼノンのその言葉に、黒髪の悪魔は特に何も感じていない様子で淡泊に答える
この悪魔の事情を知っている者からすれば、惜しむことはなくとも喜びそうな気もするのだが、そういった心境を見せるような態度を取ることはなかった
「そのため、奴の分の指揮権は一時的に俺に上がってきている。そこで、だ。私怨を捨てて、十世界のために働けると誓うか?」
死紅魔の死によって失われた指揮権は、その唯一の上役であるゼノンが引き継いでいる。――正確には、引き受けてきたのが正しいのだが、ゼノンはその権限を以って恭しく頷く悪魔に問いかける
「誓います」
そしてその問いかけに、黒髪の悪魔は打てば響くような声音で強く答える
その姿を睥睨したゼノンはその口端に薄く笑みを刻むが、それを即座にかき消して厳格な表情を作ると共に厳かな声音で語りかける
「ならば、お前に働いてもらおう『霊雷』。――光魔神が向かった次の世界、『地獄界』へと赴いてほしい」
「!」
ゼノンの言葉を受けた黒髪の悪魔――「霊雷」は、それに一瞬目を瞠ると共に、その場に片膝をついて恭しく頭を下げる
「喜んで。必ずや姫と十世界のために力を尽くします」
そう言って己が意気を示した霊雷の口元がわずかに綻び、不敵な笑みを浮かべているのを見落とさなかったゼノンは、あえてそれを黙殺して口を開く
「そうか、期待しているぞ」
激励の言葉を送り、扉を開いて部屋を出ていく霊雷を見送ったゼノンは、その魔力が遠く離れていくのを知覚で確認すると、抑えていた笑みを零す
「――演技の下手な奴だな」
自分の思惑通り、偽りの忠誠を誓った霊雷の姿を見送ったゼノンは、誰にともなくそう呟くと部屋に置かれた椅子に腰を下ろす
「ようやくだ」
その頃、ゼノンの部屋を出た霊雷は、隠しきれない狂悦をその表情に浮かべて、深く暗く黒い憎悪と怨嗟に染まった表情を浮かべる
「ようやくあいつを――神魔を殺せる」
無人の廊下にその足音を響かせながら歩く霊雷は、冷え切った声音でそう独白する
抑え込む必要のなくなった憎しみに染まった魔力を剥き出しにする霊雷は、その時を想像して隠しきれない愉悦の狂笑を浮かべていた――。
※
聖人界の中枢たる街城「聖議殿」。その中心にそびえ建つ聖王閣は、激しい戦いによって破損していた
この街の創造主である天支七柱の一人――「ワイザー」が生きている以上、いずれ再生されることになるが、さすがにこの短時間ではまだその力は発現されず、聖人界の景色が一望することができる破壊の爪痕を残している
「すまないな。どうやら、囚人の一人に逃げられたらしい」
世界の空気にさらされるその部屋で、聖人界の代表たる界首「シュトラウス」は己の秘書を務める聖人――「スレイヤ」に治癒を施されながら、世界唯一の全霊命専用監獄「聖浄匣塔」の統率者であるマキシムからの報告を受けていた
「……囚人?」
「『石動』。〝天使狩り〟だ」
その不穏な話に眉をひそめたシュトラウスの視線に、一つ頷いたマキシムは騒ぎに乗じて聖浄匣塔から脱走した囚人の中で唯一再確保できなかった人物の名を告げる
「奴か。よりにもよって厄介な奴を取り逃がしたものだ――」
マキシムの報告を受けたシュトラウスは、忌々しげに歯噛みして聖人界有史以来の大敗にして失態と呼べる現状に舌打ちをする
聖浄匣塔に収監されている囚人は、基本的に聖人界が独断で捕らえ裁いた者達だ。この世の理を法を犯し、罪を犯した全霊命達の罪状は様々であり、そしてその行動もまた決して同一のものではない。
「天使狩り」の異名を持つ石動は、好んで光の世界の住人を攻撃する極めて気性の荒い攻撃的な性格の囚人。聖人界以外の他の世界ならば、間違いなく極刑を下されているであろう重犯罪者だ
そんな人物が解き放たれたとなれば、また聖人、あるいは他の光の全霊命達がその刃の餌食になることは免れえないだろう
「あれには、お前の封印があったのではないのか?」
「ああ。そのはずだがな――。さすがに、封印空間の外でなら時空の門を開くこともできる。あれを壊せるものはそうはいないだろうが」
シュトラウスに確認の視線と言葉を向けられたマキシムは、それに鷹揚に頷いて神妙な声音で応じる
聖浄匣塔の囚人には、その力を封じ込める枷がマキシムによって施される。とはいえ、神能そのものを完全に無力化仕切ることはできないため、マキシムによって作られた封印空間でもある聖浄匣塔の外へ出られてしまうと、時空の門を開いて逃亡することが可能になる
だが、聖人の原在であるマキシムがその神能によって作り出した枷は、並の全霊命には破壊することなどはできない
実際、今回脱獄した囚人の九割は他の世界へと逃亡を図っているが、彼らが罪人であることは事実。そのまま自分の出身世界へ帰っても、今度はその世界で裁かれるか、悪ければ行きずりの誰かに殺されてしまうだろう。そのため、逃亡犯たちは一人の例外もなく、時空の狭間へと逃げており、再度捕らえることが
可能になったのだ
「なら、十世界に連れ出された奴はともかく、石動に関してはしばらく放っておいて、こちらの問題を先に片づけてもいいかもしれないな」
マキシムの枷を壊せるものは、原在と異端神くらいのもの。ならば、今のまましばらく置いておいても問題はないのではないかと思案するシュトラウスに、マキシムは問いかける
「ウルトとアレクはどうするつもりだ?」
マキシムの重低音の声音で問いかけられたシュトラウスは、わずかにその眉を強張らせるとともに、自身を睥睨する最強の聖人に視線を返す
「とりあえず監視を付けている。とはいえ、あの二人の性格を考えれば、逃げることもないだろうがな」
光魔神に協力して聖浄匣塔から罪人を不法に連れ出す手伝いをしたウルトと、十世界と通じていたアレクは今、マキシム以外の原在――「ワイザー」、「ツェルド」、「ミスティル」、「ビオラ」によって監視されている
光魔神と十世界が世界を去ったのを見届けた二人は、目的を成し遂げた充足感と共に、その罪を正しく受け入れ、抵抗もせずにおとなしく身柄を拘束されていた
「本来なら、すぐにでも法廷を開いて裁きたいところなのだが、今回の一件で九世界の王に招集をかけている。二人の判決はその後だ」
この世界始まって以来の甚大な被害をもたらした二人に、シュトラウスは義憤と個人的な憤りの入り混じった感情を向け、マキシムに答える
聖人界では、議会を通さずに世界としての方針に関わる何かを決定することは許されない。ウルトもアレクも、正しく大聖廷で裁かれたのちに、しかるべく聖浄匣塔に収監されることになるだろう
だがシュトラウスは、今回の一件――光魔神による聖人界への反抗に対し憤懣冷めやらぬ中、他の世界の王へ招集をかけている。さすがにそちらを優先せざるを得ないというのが現状だった
「そうか」
マキシムが感情の読めない淡泊な反応を返すのを見たシュトラウスは、その視線を最強の聖人へと向けて話を続ける
「いつものようにあなたにも同席してもらいますよ」
九世界の王たちが行う会議では、あまりに仰々しい数の同伴者を連れて行くことは禁じている。とはいえ、人間界と天上界を除けばそこに来るのは最強の全霊命である原在ばかり
世界の代表とは言っても戦闘力そのものは上の中から上の下でしかないシュトラウスが、自身の護衛に最強の聖人を指名するのは必然ともいうべきことだった
「分かった」
シュトラウスの言葉に簡潔に応じたマキシムは、その巨躯を翻して世界の代表たる聖人に背を向ける
「なら、出発する時間になったら呼んでくれ」
その一言を残すと、マキシムはシュトラウスの部屋を後にする
(九世界王会議――世界全体の秩序を定める実質的に世界最高の司法会議……)
シュトラウスの私室を後にしたマキシムの脳裏を締めるのは、先程界首から告げられた会議のことだった
今世界の者達が準じている法律は、世界を創造した神々が定めたのではなく、この世界の頂点たる九つの世界と、それ以外の世界の代表を集めた九世界王会議で定められる。
現在の必要最低限での世界感傷の在り方のような世界交流の政治体制から、全霊命と半霊命、異なる存在、種族同士での婚姻、混濁者の存在を禁忌と定めたのもこの会議だった
「緊急に行われるのはいつ以来だったか――……」
この世界王会議は一定の年数ごとに定期的に行われるが、近年――とはいっても、兆を遥かに超える年数になるが――はただ形式的に集まって、話し合うことも変更することもなく終わっていたものだった
それが今回、聖人界界首シュトラウスの呼びかけによって、臨時にとり行われることとなった。それは、九世界の創世以来、指で数えられる程度しかなかった異常事態でもある
「光魔神の事といい、奴らといい、世界は今これまでとは違う動きを見せつつある。もしかしたら今回の会議、荒れるかもしれんな――」
光魔神、十世界、そして先日接触を図ってきたロードと撫子達。確実に今までとは違う何かが動いていることを実感しながら、マキシムは世界が目に見えるほどの早さで動いているような感覚を覚えていた
「世界がどう動くのか、見届けさせてもらうとしよう」
期待、不安、動き始めた世界を感じ取るマキシムは、その肩で風を切りながらまだ見ぬ未来の世界へと向かうように、悠然と歩を進めていくのだった
※
上下左右さえ存在せず、果てなく続く空間に開いた光の門をくぐると、そこには一面に広がっている蒼天と豊かな緑が広がっていた
穏やかな風に緑の木々が枝葉を揺らし、花がその花弁をそよがせる。光を受けて輝く泉と川は穏やかにせせらぎ、そこには小さな鳥や虫、そしてそれを狙う中型、大型の獣型半霊命がその命を輝かせていた
「――っ!」
桜の作り出す魔力の結界に包まれ、その空間へと躍り出た詩織は、息を呑むほどに美しいその自然の原風景を見て思わず息を呑む
「ここが、『地獄界』……!」
そんな詩織の視線の先にあるのは、天頂に輝く神臓の光に照らし出される純白の雲を纏う巨大な山脈の頂に作られた巨大な城だった
「神社……っていうか、お城?」
眼前にある山に作られた巨大な城を見た詩織は、思わず率直な感想を口にしていた
遠近感が狂うほどに巨大な城は、一見目の前にあるようだが、おそらく詩織の足では徒歩で一日かかっても到着できるかどうか分からないほどの距離があるのは一目瞭然
そして遠目に見えるその城の周囲には、黒い瓦と白壁で作られた塀が取り囲んでおり、その果てははるか地平まで広がっている
おそらく城の敷地を表しているのであろう高い塀の向こうには、赤、黒、白、青と様々な色の鳥居が立っており、山頂のそれほどではないが、遠目にも巨大であることが見て取れる瓦葺の屋根で作られた屋敷が建ち並ぶ
最も大きく高い城を中心に、屋根のついた回廊で結ばれた大小様々な無数の社や城が縦と横に荘厳にそびえ広がっている様は、まさに圧巻の一言だった
「ああ。なんていうか、和風って感じだな」
詩織の独白を聞いた大貴は、眼前に見える城を前に姉の言葉に同意を示して頷く
「あれは地獄界王様がおわせられる城――『鬼羅鋼城』です」
「なんか、お洒落な名前ですね。まあ、地獄界王城っていうのもちょっとおどろおどろしい気はしますけど」
視線の先にある山頂に建つ城――「鬼羅鋼城」を見据えた瑞希が言うと、詩織はこれまでとは違う響きに苦笑混じりに答える
これまで訪ねた九世界の各世界で、その世界を総べる王が住む城は「~界王城」という名称でよばれているる多かった
先の聖人界では、聖議殿、聖王閣などと名前がついていたが、聖人界は王制ではなかったために、「聖人界王城」とは名付けられなかったと考えれば、それは珍しいことのように詩織には思えた
「それに、『地獄』なんて物騒な響きの割には、凄く綺麗なところよね。まあ、いつものことだけど」
さらに眼の前に広がっている世界の景色を見た詩織は、「地獄」などという恐ろしい響きで呼ばれているにも関わらず、豊かな自然の広がっている世界の景色に感嘆の声を漏らす
「まあ、でも油断しない方がいいですよ? 地獄界の半霊命の『凶獣』は九世界の中でも凶暴で獰猛なことで知られてるから」
「そうですね。詩織さんがうっかり一人になってしまわれると、その胃袋に収まってしまう可能性は他の世界よりも高いと思いますよ」
詩織のその言葉を聞いた神魔がさりげなく忠告をすると、桜もそれに同意を示す
地獄界に住まう半霊命「凶獣」は、九世界の中でも屈指の攻撃性と凶暴さ、それに見合うだけの戦闘力を備えていることで知られている
一見穏やかでおおらかな泰然とした自然が広がっている地獄界だが、その生態系の過酷さは九世界でも屈指のものであることが知られている
さすがに全霊命を襲うことはないが、詩織のような弱い半霊命はそれらからすれば、格好の餌食になるであろうことは疑いようがない
「……はい」
神魔と桜の言葉にこの場にいる全員を見回した詩織は、この世界について無知な大貴を除く全員が無言の肯定を示しているのを見て、わずかに顔を青褪めさせながら応じる
「心配しなくても、私達と一緒なら大丈夫ですよ」
そんな詩織の様子を見たマリアが優しく励ましの言葉を投げかけると、話が一段落ついたのを見計らった瑞希がこれまでと変わらない声音で口を開く
「じゃあ、早速鬼羅鋼城へ向かいましょうか」
聞き慣れた淡々とした凛麗な声音でありながら、何かが変わったように感じられる涼やかなその響きと共に、大貴達は目の前に見えるこの世界の王が住まう城へと向かって移動を始めるのだった
(これが、この世界の全霊命の神能か……。この位置からでも、かなりきてやがるな)
桜が詩織を結界で包み込み、それぞれの神能による神速で移動しながら、地獄界王城たる鬼羅鋼城へと向かう大貴は、そこから伝わってくる強大な力を知覚して表情を険しくする
(問題は、この世界が今の俺達をどう扱うか、だな。聖人界でやってきたことは言い逃れできないし、十世界とも協力しちまったしな……最悪、いきなり攻撃を仕掛けられる可能性もある)
普段ならそこまで警戒するところではないが、先の聖人界で行ってきたことを思い返すと、大貴は今までのように楽観的に城へと向かう気持ちにはなれなかった
自分達なりの信念に基づいて行動したとはいえ、聖議殿の襲撃と監獄からの罪人の奪取、十世界との関係と、聖人界でしてきたことは否定できない
いかに聖人界が九世界――特に闇の世界から嫌われている鼻つまみ者であるとはいえ、九世界の一角をなす世界に対して敵対したことを簡単に不問に帰すことができるのかという疑問と不安は拭えない
(――やっぱ、神器は返さない方が良かったか?)
今更ながらに、十世界と決別するために神器を手渡したことをわずかに後悔していた大貴の前に、|鬼
羅鋼城の入り口に当たる巨大な門がはっきりと見えてくる
黒い瓦と白塗りの壁で作られた、城の敷地を囲う城壁の中、最も高い本丸御殿の正面に当たる位置に作られた門は、縦に十メートルはあろうかという巨大なものだった
「――!」
この世の理を超越する神速で移動したために、さほど時間もかからず門へと近づいた瞬間、大貴達は自分達に向けて放たれる神能の力を知覚して進行を止める
「止まれ!」
その声と共に、大貴達と鬼羅鋼城の間に、二つの影が立ちはだかるように降り立つ
一人は後頭部で束ねられた腰まで届く逆立った真紅の髪と瞳。額から伸びる金色の一本角に、狩衣と袴を思わせる霊衣を身に纏い、身の丈にも及ぶ片刃の大剣を担いだ男。
もう一人は、その人物よりも一回り身体が大きく、額から天を衝く黒い二本角を生やした青髪青目の益荒男然とした大男。
一同の前に立ちはだかった二人は、共に殺意や敵意とは違うが、並々ならぬ覇気に満ちた神能を放出しながら大貴達を威圧していた
「こいつらが――」
「はい。彼らが地獄界を支配する闇の全霊命――」
肌を焼くような力を知覚しながら、いつでも応戦できるように身構えた大貴が左右非対称色の瞳に赤と青の髪をなびかせる二人を見据えて言うと、同様に武器こそ顕現させないものの、臨戦態勢に入っているリリーナがその可憐な口を開く
「〝鬼〟です」
その言葉と共に、この地獄界を総べる闇の全霊命――「鬼」の二人は、王城へと近づこうとする大貴達をその瞳に映していた
聖人界編―了―