理は心に能わず
漆黒の光が天を穿ち、解放された力に込められた純然たる神格の意思が天地を響かせる破壊の衝撃波となって顕現する
抜けるような蒼天と、光魔神によって食い尽くされた聖議殿の門の一角が黒の光に染め上げられる
その漆黒の力の奔流を冷めた視線で見据えるのは、十世界に所属する堕天使「ラグナ」。その武器である身の丈にも及ぶ両刃の斬馬刀を携えた闇に染まった聖なる天使は、後頭部で結わえられた金髪と黒い翼をその風に遊ばせていた
「グ……ッ、ゴ、アアアアアッ!」
額に漆黒の一本角を持つ堕天使の双眸が見つめる先にある黒い力の爆発――それを引き裂いて咆哮を上げたのは、聖人界三大党派の一つ軍党院の代表を務める聖人「オーヴァン」。
平均の身長が役三メートルになる聖人の中でも特に大柄で、筋肉質の身体が一回り以上その存在を大きく見せる鬣のごとき白髪と顎鬚、褐色の肌が特徴的な大男は、その武器である大戦斧を手にラグナへと突進してくる
「この忌まわしい堕天使めがァ!」
声を上げ、オーヴァンが大戦斧と共に最上段から振り下ろされた力の塊を、ラグナは軽々と斬馬刀の刃で受け止める
ラグナの身の丈にも及ぶ斬馬刀も、聖人の武器と比べれば枝のように細く頼りなくみえる。だが、オーヴァンの一撃はラグナのその刃によって受け止められ、闇色の光と正義の光が相殺し合って火花を散らしていた
「そんなに喚くなよ。何度も言わなくても聞こえてる」
怒りと感情に任せたオーヴァンの咆哮を嘲笑うように一蹴したラグナは、斬馬刀を一閃させてその巨躯を大戦斧共々弾き飛ばす
「ぐッ」
ラグナの一閃で大戦斧の刃を弾き上げられ、その巨躯を揺るがしたオーヴァンは憎々しげな視線を向ける
瞬間、空間に生じた無数の光の星から理力の檻が生じたかと思うと、ラグナをその内側へと閉じ込める
「これは……封印か」
光の空間に捉えられたラグナは、身体に絡みつく閉塞感と錘を付けられたような息苦しさに淡泊に声を零す
意識を送らずとも、半永久的にその効果を発現し続けることができる理力の特性を持つ聖人が得手とする封印が、ラグナの力と戦力を奪うためにその身体に絡みついていた
「オオオオッ!
そしてオーヴァンの攻撃はそれだけにとどまらない。全霊の理力を纏わせた大戦斧を横薙ぎに打ち払うことで、結界ごとラグナを両断しようとする
だが、その斬撃が届く寸前、漆黒の光によって封印の檻と錘を破壊して引きちぎったラグナが、斬馬刀の刃でその一撃を打ち払う
「く……ッ!」
封印を破壊し、迎撃したラグナにオーヴァンはその厳格な表情を忌々しげに歪めて、漆黒の光を行使する堕天使を睨み付ける
光の力は、闇の力に比べてその規模が弱い代わりに強い優位性を誇っている。強大な力を持つ闇を光は清め、打ち消す力を持っているのだ
だが、堕天使だけは違う。元々天使であった堕天使は、光の力の優位性を消し去ることができる。即ちそれはそのまま堕天使の光の存在に対する優位性と直結しているのだ
「これが、お前の――お前達の正しさか」
砕け散った自身の理力が世界に溶けて行くのを視界に収めながらオーヴァンが静かに口を開くと、黒光を纏ったラグナを見据える
二人が戦う周囲は、元々白亜よりも白い純白の聖議殿の一角だった。だが、太極の力に食われ、これまでの激しい戦いでその形は完全に失われており、砕け、裂け、隆起した大地には聖人達が何人も倒れ伏している
なぜか死者こそ出ていないが、本来なら命を落としていて然るべき損傷を受けた聖人達は、かろうじて残った力で自身を癒しながら、今も再び戦線に復帰しようとしていた
「滑稽だな」
無数に展開した結界でラグナの光魔力による爆撃を阻み、そのお返しとばかりに大戦斧で切り返したオーヴァンは言い放つ
「争いを望まず、対話による世界統一を図る……その結果がこれか。世界の中枢に攻め入り、破壊をもたらしておいて、何が〝平和〟か!?」
その言葉に、ラグナは「攻撃を仕掛けてきたのはそちらだ」という当たり前の反論をすることはない
オーヴァンの嘲蔑の言葉は、それを含めてのものであることが分かっているからだ
「我らがお前の達の言葉に耳を傾けなかったからか!? 自分達の言い分が受け入れられないからといって力に訴えるなど、所詮、貴様らの語る理念が聞えのいいだけの下らぬ幻想であることの証だ!」
そして、そんなラグナの考えを肯定するようにオーヴァンが声を上げ、大戦斧を振り下ろす
「誰かのためと言いながら、己を真っ先に守っている。それが貴様らの理念の正体だ! お前達が守ろうとしているのは、世界でもなんでもない。ただ、なんの正義もない自分達に都合のいい理想だけだ!」
その神格の許す限りの神速と力を以って金色の光と共に叩き付けられる大戦斧とラグナの黒光が相殺し合って力の火花が舞い散る
「法と正義を免罪符に好き勝手やってる奴らの言い分とは思えないな」
自身の倍ほどもある巨躯から振り下ろされる暴虐の力の塊を斬馬刀で弾き飛ばしたラグナは、オーヴァンのその言を嘲笑う
時空の狭間などを主に、世界各所で行われている聖人達の正義執行が九世界からはあまりよく思われていないことを踏まえた上でのその言葉に、オーヴァンは憤慨を露にする
「我々は、世界にあまねく者達のために常に己を律しているのだ!」
十世界の理念のように自分達の理想のためではなく、世界の調和のために法を執行していることを誇るオーヴァンが全霊の力を込めて振り下ろした最上段からの斬撃をラグナは斬馬刀で受け止める
金と黒の光が弾け、そこに込められた純然たる意思が世界に破壊を顕現すると、その粉塵の中に佇むラグナの双眸がオーヴァンを射抜く
「それは、聖浄匣塔の最下層にいる奴を含めてか?」
「!」
糾弾するように発せられたラグナの言葉に、オーヴァンはその目に宿る光をさらに剣呑なものに変える
「当然だ。かの者がもたらした罪は、死ですら生温い。正しく正義の下に罰せられねばならん」
その言葉に当然のように返された厳粛なオーヴァンの言葉に、ラグナの双眸に明確な不快感を宿した光が灯る
斬馬刀の刃が閃き、自身に倍する刀身を持つ大戦斧を弾き飛ばしたラグナに、即座に体勢を立て直したオーヴァンが低く抑制された声で訊ねる
「聞かせてもらおうか。その情報は誰から提供された?」
それは、今回の件で十世界が聖人界を訪れた際、最初に語った訪問理由。だが聖浄匣塔の最下層に捕らえているその人物については、聖人界でもほんの一握りしか知る者がいない。にも関わらず、十世界がそのことを知っていることがオーヴァンには腑に落ちなかった
オーヴァンが訊ねたことは、今は聖人界の中で急々に特定が急がれていることだった。聖浄匣塔最下層にいるその人物のことを知る人物が十世界と通じ情報を流していたとなれば由々しき事態 聖人界と聖人の正義が許せるものではない
「うちの姫は、神器使いだ」
その質問に答えたラグナの斬撃はオーヴァンの結界に阻まれ、放たれた理力の光矢に漆黒の翼をはためかせながら距離を取る
「侮るな。そんなことをする女ではないことくらい分かっている」
「……随分と信用があるようで何よりだ」
だが、さも当然のように発せられたラグナの言葉が嘘であると看破したオーヴァンは、それに憤りを露にしてその力を解き放つ
「そんなふざけたやり取りに興じてやるほど儂の気は長くないぞ! これは、貴様らの理念とは無縁の、我らの正義の問題のはずだ。さっさと質問に答えろ!」
「そんなわけにはいかないな。それじゃ、姫が不誠実になっちまう」
斬撃に合わせた放たれた理力の斬波動を斬馬刀の黒閃で両断したラグナは、厳かな声音で厳格な正義を語るオーヴァンを見据える
その協力者を教えれば、それはその信頼を十世界が――愛梨が裏切ったことになる。それが無関係なはずはない
「まあ、知らないものは教えてやれないけどな」
「貴様……ッ!」
不敵な笑みを浮かべたラグナの言葉に、オーヴァンが眉間に一層深い皺を刻む
そもそも、今回の情報の提供者が誰なのかラグナは知らないし、知りたいとも思わない。ただ知らないものを教えることはできないというだけの事だ
それを嘲笑うように広げられたラグナの黒翼から無数の黒光が生まれ、そこから放たれた闇色の閃光が縦横無尽に天を奔り、オーヴァンの眼前で炸裂し、極大の爆発を引き起こす
「ぐ……ッ」
眼前で炸裂した黒光の爆発に呑み込まれたオーヴァンの知覚は、全方位を包むラグナの力のみに支配され、一瞬その力そのものである堕天使を見失う
(知覚を潰しに来たか)
それは、全霊命同士の戦いにおいては、もはや一種の定番と言っても過言ではない戦法。故にオーヴァンはそれに動じることなく冷静に対応する
(愚かな。返り討ちにしてくれる)
理力の特性を利用し、自身に無数の結界を展開したオーヴァンは、ラグナの攻撃を防ぎ、即座に反撃できるよう、自身の武器である大戦斧に全霊の理力を注ぎ込む
そうして準備を万端に整えたオーヴァンの眼前に神速で肉薄したラグナが、堕天使の神能である「光魔力」を収束させた斬馬刀を最上段から振り下ろす
「――ッ!?」
ラグナの斬馬刀の刃が振り抜かれ、多重に展開された結界ごとオーヴァンの巨躯を切り裂く
(ば、馬鹿な……ッ!)
いかに堕天使の光が光の力の優位性を受けないものとはいえ、これほど容易く自身の結界が両断されるとは思っていなかったオーヴァンは、漆黒の翼を翻らせるラグナを驚愕に染まった視線で見下ろす
「――終わりだ」
そのままオーヴァンの巨躯が地響きを立てて倒れるのを見届けたラグナは、静かに言い放つと共に、斬馬刀の刀身に纏われた漆黒の光を振り払う
(やっぱ、あいつの時みたいにはならないな)
オーヴァンを下しながらも、心晴れない表情で眉をひそめたラグナは、かつて神魔と戦ったときの事を思い返して目を伏せる
あの時に感じた力と魂の高鳴り。自身の目的を果たすため、更なる強さと高みを目指すラグナは、この戦いでそれを得られなかったことを惜しみながら背後を振り向く
「悪いな」
その視線の先には、多くの聖人を斬り倒した十世界に所属する悪魔――「紅蓮」が興味深げな表情を浮かべて佇んでいた
紅蓮が戦闘狂で強者との戦いを望んでいることを知っているラグナが、強者の相手を譲ってもらっていたことに淡泊に言葉を述べる
「お前、いい感じだな。いつか俺とも戦ってくれよ」
だが、その言葉を受けた紅蓮の興味はすでにオーヴァンではなく、ラグナの方へと向いていた
口端を吊り上げる紅蓮の姿を横目で見たラグナは、自分とは違う形と目的で強さを求めるその姿に目を伏せて、背を向ける
「――……必要に迫られればな」
「ああ、楽しみにしてるぜ」
その言葉にラグナと背中合わせになった紅蓮は、オーヴァンを倒されても尚怯むことなく武器と手にしている聖人達にそれぞれの武器を向ける
※
天秤槌杖から放たれた真紅の二枚皿が円盤のように回転しながら天を翔け、十世界盟主――愛梨へと向かっていく
だが天支七柱の一人にして、聖人界議会「法党院」の代表たるミスティルが放った一撃は、愛梨の力が注がれた杖に迎撃されてしまう
「――っ」
最強の全霊命である原在の神格が込められた一撃の重さに、その攻撃を防いだ愛梨は整った美貌をわずかに歪める
「先程までと寸分違わぬ力……やはりあなたは、奏姫なのですね」
その様子を全てを見通すような澄んだ瞳で見据えていたミスティルは、弾かれた天皿を十字杖へと呼び戻すと、槌となったその武器の石突で地面を突いて口を開く
今目の前のいる愛梨は、神器の力によって生み出された愛梨の同一人物。心も身体も同じ人物が二人以上同時に存在することは、この世の理に矛盾している
だが、今目の前にいる愛梨は、神器によって生み出されたものでありながら、それ以前相対していた愛梨と力も心も寸分違わない。この世の理そのものでありながら、理を超えた矛盾さえも実現してしまうのが神の力。そしてその断片たる神器の力なのだ
「あなたは何故、今回に限ってここまでの事をするのですか?」
石突で地面を突くとともに、ミスティルは天空に顕現させた煌めく理力の星々から、力を収束した閃光を放つ
縦横無尽に天を奔り、全方位から取り囲むようにして向かって来る理力の流星、愛梨は結界を展開して防御する
「対話に我々が耳を傾けないことなどいつもの事。撤退するなり、光魔神様達を諌めるなりすることもできた――いえ、これまでの十世界の理念から考えれば、そうするべきだったはずです」
祝神鐘によって強化された神格さえ揺るがす天支七柱の理力の衝撃に存在の髄まで揺さぶられる愛梨の耳に、ミスティルの厳かな声が力に乗って届けられる
「にも関わらず、あなたは自衛のためという理由はあれど、戦う事を選択した。なにか、心変わりでもあったのですか?」
止むことなく生み出される数百を超える粛聖の光に耐え兼ね、結界に亀裂が入ったのを見て取った愛梨は、それが砕け散る前に光の中に飛び込む
多少の傷は覚悟の上で征滅の光の中を強引に突破した愛梨は、その身を焦がし苦痛に歪めながらも、その瞳に言ってんの曇りもなかった
「いえ。私はなにも変わっていませんよ」
回避されても、与えられた意思のままに永続的に追尾してくる光を回避し、迎撃しながらそう答えた愛梨の言葉に続き、ミスティルの背後に浮かんでいた光珠が消失する
「――!」
何らかの手段を用いて光砲撃の発生源が破壊された事にわずかに柳眉を顰めてミスティルに、軽やかに地面に降り立った愛梨が慈愛に満ちた声音で言葉を紡いでいく
「私が願う世界は、光も闇も、全霊命も半霊命も関係なく、世界に生きる全ての人が幸せで笑顔になれる世界です。自分と違う人を許し、自分と違う人を認め、そして手を取り合って生きていける世界です」
決して自分から攻撃を仕掛けることはなく、愛梨はミスティルの攻撃を捌き、防ぐことだけをしながら凛とした口調で語りかける
その身体に傷を負い、血炎を立ち昇らせながらもその理念を損なうことなく佇む愛梨は、言葉を差し伸べ、手を取ることを求め続ける
「でも、私達は完全無欠ではありませんから、やっぱりどうしても相性の悪い人や好きになれない人もいます――ミスティル様は私のことがお嫌いですか?」
「ええ」
打てば響くように返されたミスティルの容赦ない反応に肩を竦め、苦笑を浮かべた愛梨はそれを受け入れて尚穏やかな慈笑を浮かべてその胸に手を添える
「それでも、私の事を嫌いではないと言ってくださる方も見えます。私とそんな方々が手を繋ぎ、そしてその方々を私を嫌っている皆さんとが繋がって、それぞれを大切に思えたら、きっととても素敵な世界になると思うのです」
愛梨は、理念を語るが理想に目が眩んでいるわけではない。正しさを肯定し、正しさを否定し、その矛盾の中で世界のある痛みを嘆き、理想を説き続けていた
「私は、〝敵は自分の心が生み出すもの〟だといつも言っています。そして、嫌いであるということは、きっと敵であるということではないと思います」
人が分かり合えないことも分かっている。人が分かり合えることを知っている。戦いがなくならないことを知っている。戦いをなくせることを信じ、願っている
自分とは繋がり合えなくとも、自分と繋がった誰かと繋がり合うことができる。例え拒まれても全ての人と親しくしたいと祈っている
「人と人が分かり合うというのは、とても難しいことですね」
現実を理解していながら、諦めることなく理想を抱き続ける愛梨の姿に、ミスティルの瞳にほんの一瞬
同情と敬意の入り混じった光が灯る
愛梨の願いは誰でも知っていることだ。だが生きている内に誰もがそうではないことを思い知り、そして諦めてしまう
無論、其れでもいいと思う者がいる。そんなことを意に介さない者もいる。だが、刃を向けられながら、己を否定されながら、それでもその心が近しくあらんと欲して歩み寄ることがいかに困難で、勇気がいることなのかはかり知ることはできない
「確かに私は戦いを望みません。ですがそれは、戦いでの解決を望まないということであって、戦いでの対話を否定するばかりのことではないのです」
胸に手を添え、そう語る愛梨の姿は戦場の中にありながら、戦火に焼かれることなく凛と咲く一輪の花を思わせるものだった
ミスティルを見据える愛梨の瞳は、その願いが相手を説き伏せることでも、従わせることでもないのだと雄弁に物語っている
「戦いを避けているばかりでは、結局力を示す方々から逃げ続けるだけです。悲しいことですが、それでは何も変わりません。――ですから、私は私達の想いを示すために、こうしてあなた達と言葉を交わすためにここにいます」
「矛盾していますね」
戦いを望まないと願いながら、戦うことで対話を求めるという愛梨の施政にミスティルは、静かに目を伏せて言う
その面差しはどこか物悲しげな憂いを帯びており、この世界の不条理を身に染みて知っている経験を思い出しているかのようでもあった
「いいえ。私は、私の想いを届けたいのです」
そのミスティルの言葉に小さく首を横に振った愛梨は、強い視線を返して想いを言葉として紡ぐ
戦いを避けているだけでは、結局戦う意思と力を持つ者だけが望む世界を作り上げるだけ。だからこそ、戦わない意思を持ちながら、その前に立ちはだかる覚悟を持つことが肝要なのだと愛梨は、全霊の誠意を込めてミスティルに訴えかける
「私は、とても我儘で贅沢です」
勝つためではなく、伝えるために戦う意思を示した愛梨は、一度深呼吸をすると自嘲するような笑みを浮かべて話を続ける
「戦いで人が死ぬことが悲しいです。大切な人を失った人が、怒りに身を焦がすことがつらいです。その人が仇を取ることが痛ましいです。
――私は、この世界からそんな悲しみと憎しみと痛みの連鎖を消し去りたい。全ての人が幸せになれるようにしたい」
その理想を誇り、慈しむように噛みしめながら語りかける愛梨の言葉に、ミスティルは無言のままで耳を傾ける
それが例えどれほど実現できず、夢物語りに過ぎずとも、愛梨のその理想を笑うことなど――笑う者などいるはずがない。特に、世界を動かす立場にある者ならなおのことだ
「私は、『こうしたら平和になる』という道を歩いているつもりはありません。多くの人が無理だと言うそんな平和を願っているくせにどうしたらいいのかも分かっていないのです。
でも、分からないからと立ち止まっていることもできない――そんな私は今、色々な人に助けてもらって、支えてもらってここに立っています。だから私も、この世界にいる全ての人を支えたい」
ミスティルと向き合った愛梨は、志を分け合い、信頼を委ねあ合った仲間達に想いを馳せながらその思いを口にする
見えているのに見えず、手が届きそうで届かない。歩めば歩むほど遠ざかっていく理想へ続くと道筋のない道を進む意思と覚悟を言葉に乗せて、愛梨はミスティルに語りかける
「皆さんが語ってくださる正しいことは、とても胸に刺さります。でも私は、世界はこんなものなのだと、受け入れてしまうことは耐えられません」
これまで、何度も正論で理想を否定されてきた。それを否定するのではなく、受け入れそれでもその道を歩くことを願いながら自分の気持ちを素直に言葉に変えた愛梨は、慈愛に満ちた笑みを浮かべて微笑む
「見てください」
そう言って軽く手を広げた愛梨は、この戦場にいるかけがえのない仲間達と、大貴達を示して言葉を紡ぐ
「私達は、ほんの少し――ゆっくりですが、分かり合えています。今はまだ本当の意味で分かり合ったとは言えませんが、それでも諦めずに想いを伝え続ければ私達は、分かり合っていくことができるのです」
「あなたの言うそれはとても脆いものよ。あなたがいなくなれば、すぐに瓦解する」
愛梨の言葉を受けたミスティルは、澄んだ瞳にその姿を映してそう断じる
そのことは、九世界の誰もが知っている。「十世界」は、愛梨による愛梨のための組織だ。愛梨が中心となってようやくその体を成している
本人はそんなつもりではないだろうが、愛梨がいなくなれば十世界がたちまち崩壊するであろうその事実は間違いない
「そうかもしれません。ですが、それに価値がないわけではありません」
ミスティルの冷ややかな言葉を受けた愛梨は、一度瞼を伏せてから再び顔を上げる
「私は、私と私に力を貸して下さる方々が作り上げた十世界を誇りに思っています」
胸を張り、澄んだ瞳に慈愛に満ちた穏やかな笑みを浮かべた愛梨は、ミスティルを見据えて毅然とした態度で言う
「今は、まだミスティル様の仰るように脆く、全ての方が私の理念に同調してくださっているわけではありません。ですが、少しずつ、一人ずつ分かり合って、そしてその輪を世界全てに広げて全ての人が幸せに笑って暮らせる世界を作りたいです」
理想の未来を幻視し、幸福な未来を夢見て微笑みながら自身の想いを語った愛梨は、まっすぐにミスティルを見て言葉を締めくくる
「ですから、私は今ここでこうしています。皆さんと、分かり合うために」
その純粋で純真で穢れない瞳を受け止めたミスティルは、現実を理想で否定するのではなく、現実の先に理想の可能性を信じ続ける愛梨を見据え、ゆっくりと瞼を閉ざす
「やはり、あなた達とは分かり合うことはできそうにありません」
厳かな声音で可憐な唇がそう言の葉を紡いだ瞬間、ミスティルを中心に光が円形に広がり、戦場全体を呑み込む
天蓋状に広がったミスティルの理力は、戦場全体に行き渡ると同時に収束をはじめ、それが通り過ぎた後には聖人以外の全員を結界の中へと封じ込めていた
「これは……!」
その対象は愛梨も例外ではなく、二重の結界の中に閉じ込められた慈悲深き十世界の盟主が身体にかかる理力の重圧に目を瞠る
「封印か……っ、くそ」
「しかも、これどんどん小さくなってきてる!」
聖人以外の全員を包み込んだ理力の結界は、封印の力を以って天使、堕天使、悪魔を一斉に拘束し、さらい球体が徐々に縮んで内側に捉えた人物を押し潰そうとしていた
光力、光魔力、魔力――光と闇の力が結界内で炸裂し、懸命に破壊しようと試みるが、天支七柱の一人であるミスティルの力を粉砕することは叶わない
「まさか、このために時間を稼いで……」
それを知覚で捉え、視線を巡らせた愛梨は、静謐に佇むミスティルを見据えてその柳眉を顰める
愛梨のその言葉に返されたミスティルの沈黙は、先の言葉が的外れではないことに対する何よりも雄弁な答えだった
「――……」
言葉を交わしながら、この戦場を制圧する準備を整えていたミスティルに、全身を理力を拘束と封印で押さえつけられ、縮小していく結界によって押し潰される重圧に見舞われる愛梨は、その表情に苦悶の色を浮かべながらゆっくりと顔を上げる
「今は、お互いの言葉で矛を収めることはできないのですね」
そう言って寂しげな笑みを浮かべる愛梨は、ミスティルの行動を非難するのではなく、想いが届けられなかったことを悔いて言う
「今だけではないわ。これからもずっとよ」
それに返されたミスティルの淡泊な声に、愛梨は結界と封印の重圧の中で苦笑を浮かべる
「それを、素直に聞き入れられるほど素直な性格はしておりませんので」
「――!」
そう言って自分を見据える愛梨の瞳に、これまでとは違う強い覚悟の意思が宿っているのを見て取ったミスティルは息を呑む
「ですから、この戦いはこの場で幕を引かせていただきます」
天秤杖を握る手に改めて力を込め、緊張感を高めるミスティルにそう告げた愛梨は、その右腕に金色の環輪を顕現させる
「神器『天上輪』」
手首に触れていないにも関わらず、そこがその存在位置であるとばかりに中空にとどまり続けている金輪は、愛梨の求めに応じてその力を発現させ、神秘的な光を放つ
瞬間、この戦いで破壊されていた聖議殿――その純白の街並みが復元されていた
「なっ!?」
失われていた白亜の街並みがまるで夢のように再現されたかと思った次の瞬間、愛梨達を拘束していたミスティルの結界が砕け散り、その封印と拘束が失われる
突然のことに、この場にいる全ての者が驚愕する中、ただ一人の例外――その力を行使した張本人である愛梨が自身の武器を閃かせ、再び再生した純白の街を斬り刻む
「――っ!?」
だが、愛梨によってもたらされた破壊は即座に消失し、それに代わるようにミスティルを含めた全ての聖人達の身体が斬り裂かれ、血炎を吹き上げていた
「な……ッ」
(こ、これは……)
全身から血炎を上げ、その場に崩れ落ちたミスティルは、苦痛にその美貌を歪めながら整然と佇む愛梨へ射抜くような視線を向ける
「事象を編纂する力……『自由神』様の概念選別能力!」
「ご明察です」
一撃の下に天支七柱を含めた聖人界全軍を壊滅せしめた愛梨は、静かに頷く
神器「天上輪」は、ミスティルが看破した通り光の神「自由神」の神力の欠片から生まれたもの。
その力は事象の編纂。とある事実の中から特定の現象を分解し、接続し直して思うままに事象を顕現させることができる。
街の〝破壊〟を結界の〝破壊〟という事象へと置き換え、〝斬った〟街をミスティル達を〝斬った〟という事象へ置きかえて顕現させる。結果、破壊されていた聖議殿が復元し、斬ったはずの街がその破壊を損なったのだ
「く……っ」
「ご心配には及びません。今、この場所では誰の身にも死の災いが起こりえません」
身体がほとんど動かせないほどの損傷を受け、血炎を立ち昇らせながら柳眉を歪めて苦悶の表情を浮かべるミスティルへ、愛梨は穏やかな声で語りかける
その言葉に答えるように、愛梨の頭上――聖議殿の空が歪んで、そこに金色の輪がいくつも重なった天球儀を思わせるものが顕現する
その底には翼を思わせる装飾を施された両刃剣のような垂針がついており、赤、青、緑――色とりどりの宝珠が煌めきながら、天球儀の輪が歯車のように巡っていた
「神器『憲理章』。ごく狭い領域に限りますが、限定されたその空間の中の世界の理を支配することができます。この力で私は、〝この戦場ではどんな傷を受けても命を落とさない〟という理を展開しています」
穏やかに微笑んだ愛梨は、天空に浮かぶ天球儀――神器「憲理章」の能力を優しい声音で説明する
神器「憲理章」は、ごく限られた領域を支配し、その空間の理を意のままに設定することができる天地創造に等しい、神の権能の欠片
死も、命も、その内側では神器の使用者の意のままになる。その力を以って、この戦場から死を排したからこそ、この場の戦いでは死人が出ることはなかったのだ
「なぜ、殺さないのですか?」
それほどの力を持ちながら、あるいは今の絶好の機会に自分を殺さないことを気丈な表情で訊ねてくるミスティルに、愛梨は小さく首を横に振って言う
「私は、あなた達を殺めたいわけではありませんし、あなた達に勝ちたいのでもありませんから」
このような終わり方になってしまったことを嘆き、その美貌を憂いに曇らせる愛梨は、その視線を聖議殿の中心にそびえ建つ聖王閣へと向ける
「もうしばらく、このままでいてください。それまで傷を癒しながら待っていていただければ幸いです――界首様の許へ向かわれた私が全てを終わらせるまで」
今は神器によって一時的に「死」が訪れないが、その力が絶えればミスティルや聖人達に生命の終焉がもたらされることになる
神器によって分けられた自身である愛梨は、その場所にいる自分自身へと思いを馳せてゆっくりと瞼を落とすのだった