滅びの始まり
互いの信念と尊厳、誇りをかけて戦い、その結果勝利を手にした神魔は、自らの手で命を奪った実の父――死紅魔が魔力の残滓となって世界に溶けて行くのを見届けると、静かに瞼を閉ざす
(僕が、世界を滅ぼす……か)
その神魔の胸中に訪れるのは、勝利の喜びでもなく、遠い昔に父に殺されかけた心の痛みを晴らした清々しさでもなく、まして実父を殺めた悔恨の念などではない
死紅魔が語った自分を殺そうとした理由――「このままでは、自分という存在が世界を滅ぼす」という言葉がその心に重くのしかかってくる
その言葉が本当に意味するところは、神魔には分からない。だが、死紅魔はそれを確信し、世界を滅ぼすものを滅ぼすためにあの場に立っていた
そしてそこには、かつて滅びを滅ぼそうとして自分の前に立ちはだかった最愛の妻「深雪」への深い愛情があった
そしてそれは神魔も同じ。例え自分がなにものであろうと、今の段階でそれを受け入れることは到底できない。くしくも先程の戦場には、神魔にも死紅魔にも譲れない同質の一線があったのだ
幼い頃から今日まで引きずられてきた死紅魔との因縁は、一応の決着を見た。しかし、自分が死紅魔に告げたように、この一見はなにも終わっていない。――否、むしろ、その真実を自分が知った今から、始まったのだと神魔は実感していた
「神魔様」
その時、先程の戦いで刻み付けられた無数の小さな傷から血炎を立ち昇らせている自身の手を見つめていた神魔の意識を、聞き慣れた声が現実に引き戻す
「桜」
その声の方へと視線を向けた神魔は、そこにいる自身の伴侶――「桜」の姿を見止めて、苦笑混じりに応じる
淑やかで穏やかな心安らぐ桜の聞き慣れた声は、普段の静けさを綻ばせ、あふれ出しそうな感情で感極まったその心情を容易にうかがわせるものだった
「……そんな顔をしないの」
いつもと同じ、約三歩分の距離を保ちながら淑やかに佇む桜の美貌は、複数の感情に彩られていた
神魔が生きていてくれたことへの喜び、実の父をその手で殺めた神魔の心情を慮る思い。様々な感傷に浸っているであろう神魔に、今自分が声をかけることへの逡巡――そんな様々な思いを抱いているために、桜はその場で立ち止まって一歩を踏み出すことができずにいた
「桜」
そんな桜らしい気遣いと遠慮をその表情から読み取った神魔は、手にしていた大槍刀を消失させると、いつものように優しく微笑んで軽く手を開く
それを見た桜は、その花顔を綻ばせて微笑を浮かべると、身体に染みついていることが分かるほどに自然な流れるような動きで神魔の腕の中にその身を委ねる
「ご無事で何よりでした」
「ん」
腕の中にしっかりと感じる桜の温もりを慈しむように、その身体を包み込んだ神魔は、伴侶からの労わりの言葉に小さく頷く
自分が抱きしめているはずなのに、不思議と包み込まれているような安らぎを覚えている神魔は、腕の中の桜の存在に自分の変えるべき場所に帰ってきたという思いを噛み締めていた
「お怪我の方はいかがですか?」
神魔の腕の中に身を委ねる桜は、死紅魔との戦いで大小さまざまな傷を負って血炎を上げている傷を案じて、痛ましげな声音で訊ねる
まるで傷を受けた自分以上に痛みを覚えているような桜の様子に苦笑を浮かべた神魔は、抱擁を解いてその場にゆっくりと腰を下ろす
「そうだね。一日、二日はのんびりしてたいかな」
「はい。是非、そうしてください」
神魔の言葉に慈しむように目を細めた桜は、その隣りにゆっくりと腰を下ろすと、身体をそっと寄りかからせて優しく囁く
「空間隔離、解いてないんだ」
その桜の横顔へ視線を向けた神魔が軽く天を仰ぐと、この世界がまだ隔離された空間であることが見て取れる
神魔のその言葉に、この空間隔離を作り出している桜は熱を帯びた瞳を隠すようにその目を細め、慈しむように言の葉を紡ぎ出す
「しばらく、二人きりになりたかったものですから」
「そっか」
その言葉に目を伏せた神魔は、自身の肩に寄りかかっている桜と共にこのかけがえのない一時に身を任せるのだった
※
「――!」
(これは……)
自身の内側からかけがえのないものが消失する感覚に、目を見開いたのは、黒髪の女悪魔――「深雪」。神魔の実母であり、死紅魔の伴侶である人物だ
天頂に座す月によって照らされる夜闇の中、一人静かにこの世界の空気に身を晒しながら佇んでいた深雪は、見開いた目を震わせて声を押し殺すように唇を引き結ぶ
契りを交わし、命を交換した全霊命の伴侶は、互いの神能を共鳴させて力を増す以外に、その存在をどこにいても知覚することができるようになる
世界を隔てていても、その命が内側にある以上、その生を確信していた深雪は、それが失われたことの意味を正しく理解し、その貌に悲壮の色を浮かべる
全霊命は涙を流すことはできない。例え涙を流しても血炎のように形を失ってしまうため、無色透明のそれは誰の目にも映ることなく消失してしまう
そのため、睫毛を震わせる深雪の瞳は、愛する人を失った深い悲しみで彩られ、心で泣いていながらも涙を流してはいなかった
「死紅魔……逝ってしまったのですね」
愛しい人が失われた事実に打ちひしがれる深雪は、今にもその場に崩れてしまいそうなほどに弱々しい姿で口元を手で押さえ、嗚咽にも似た声を零す
こうして行動を別にしている以上その覚悟はしていたが、実際にその時が来ると、まるで自身の存在の一部が欠落してしまったような喪失感が深雪の心を深く痛めつけていた
「ああ」
だが、深雪が悲しみに浸っている間もなく、その嗚咽に対する淡泊な声が返される
先程の深雪の言葉は、誰かに聞いてもらうために発せられたものではない。だが、思わず口をついて出てしまったその声に答えを返された深雪は、気丈に振る舞っていつの間にか背後に出現していたその人物達を視界に収める
「あなた方ですか」
振り返った深雪の目に映ったのは、そこに並んで立つ見知った顔の二人――「ロード」と「撫子」の姿だった
その姿を視界に収めた深雪は、同時に二人がここにいる理由にも思い至っていた。自分が口を開くのを待っているらしいロードの撫子に、深雪は死紅魔を失って小さくない動揺を覚えている心を落ち着けて、ゆっくりと口を開く
「神魔君は?」
「生きている」
打てば響くように返されたロードの言葉に、深雪はその柳眉を顰めて唇を引き結ぶ
「……そうですか」
死紅魔が世界の滅びそのものである神魔を殺し損ねたことを理解し、その心情を思ってか沈痛な面持ちを見せる深雪に、ロードは淡泊な声で言葉を続ける
「だが、いよいよ猶予はなくなった。適切な機を逃せば、お前の夫の死も無駄になる。――言っている意味は分かるな?」
その言葉に唇を引き結んだ深雪は、伏せたその瞳に深刻な色を浮かべると、十秒以上の間を置いてその重い口を開く
「あなた方が神魔君を?」
「その予定はない。その前にあいつは殺されるからな」
要点を隠した深雪の質問を、ロードの抑揚のない声が否定する
〝全てを滅ぼすもの〟である神魔は、滅ぼさなければならない。死紅魔が神魔を殺し損ねたということは、誰かがそれをしなければならないということだ
深雪の質問は、「それをロードと撫子がするのか?」という意図を含んだもの。だが、当人たちはそれを否定し、それが実現することを確信しているかのようだった
「……」
ロードのその言葉にその隣りで淑然とした佇まいで沈黙を守っている撫子へと視線を向けた深雪は、その表情から一切の思惑を読み取ることができずに小さく嘆息する
ロードは、「その前に神魔が殺される」と告げた。それは、時間が経過して神魔が全てを滅ぼすのではなく、何者かの手によって命を落とすことを意味している
ロードと撫子の思惑は分からないが、死紅魔が失敗したこのタイミングで自分の前に表れたということは、その役目を自分に渡すためではないかという考えが深雪の中にはあった
「では――」
だが、そういった様子をロードからも撫子からも感じ取れなかった深雪は、しばしの逡巡を以ってその言葉を口にする決意を固める
神魔は自分がお腹を痛めて生んだ愛しい息子。例えその存在が全てを滅ぼすと言われても、深雪にはその決断を下せなかった結果、その重荷を全て死紅魔に背負わせることとなってしまった。
その事を後悔している。だが同時に、今この場で自分が神魔を殺すなどと口にしたくはなかった。だが、ロードと撫子は、そんな深雪の心情を知ってか知らずか、なにも説明してくれない。故に意を決して訊ねる他なかった
「どうした、深雪?」
「――ッ!」
その時、横から呼びかけられた深雪は、目を瞠って視線を向ける
ロードと撫子に気を取られていたというのもあるが、それ以上に唯一の伴侶である死紅魔の死によってその知覚に油断を生じていた深雪は、力を抑えているわけでもないその人物が近づいてきていることに気付くことができなかった
そこにいるのは、暗橙色の髪を持つ堕天使「レグザ」。肩にかかるほどに伸ばした髪と二メートル近い長身に、かつては天使のそれであった闇色に染まった上下で異なる二対四枚の黒翼が特徴的だ
上側にあるのは、一対二枚の天使のそれと同じ形状の黒翼。その下にある一対二枚の黒翼は、皮膜で形作られたもの。堕天使という存在が持つ二種類の翼を持ったレグザは、それを折りたたんだ状態で深雪から離れた場所に佇んでいた
「……いえ。なんでもありません」
表情の起伏が小さいその表情に警戒の色がないことに気付いた深雪が、さりげなく視線を向けるとそこにはすでにロードと撫子の姿はなかった
この場所――光の全霊命でありながら、闇の力に染まった堕天使が支配する「堕天使界」の中枢たる王城に侵入者がいたとなれば一大事だ
だが、ここまで当たり前のように侵入していたロードと撫子の存在に、レグザが気付いている様子がないのを見て取った深雪は、二人がここにいたことが誰にも気づかれていない確信を覚えて簡潔に答える
「……どうした? 表情が硬いようだが」
だが、わずかに強張った声と表情を隠しきれなかった深雪の様子に、レグザは淡泊な声音た尋ねる
そこに疑いや警戒の色はない。ただ純粋に深雪の心中を見透かそうとする冷静で思慮深い視線があるだけだった。その前で下手に嘘をつくのは危険だと判断した深雪は、大きく深い息をついて視線を伏せる
「……先程、夫の力が消えたのを感じたもので」
深雪のその言葉は決して嘘ではない。ロードと撫子との密会以上に、その心を締め付けるのは自分の中から消えてしまった死紅魔の命のことだ
「そうか。それは悪いことを聞いたな」
夫婦であれば、世界を隔てていてもその生死を知ることができる。それを知っているレグザは、これ以上の追求をせずに一言謝罪の言葉を述べて身を翻す
元よりロードと撫子が感づかれるとは思っていなかった深雪は、レグザの目を逃れたことに息をつくと、そこから見える世界の風景に視線を向ける
「私は、もう少し風に当たっていきます」
「分かった」
黒髪を靡かせ、静かに言う深雪の言葉を聞いたレグザは、それを了承して二人がいる場所――「堕天使界王城」の中へと戻っていく
(もう、出てきませんか)
レグザが知覚から遠ざかっていったのを確認し、そのまま数十秒佇んでいた深雪は、ロードと撫子が姿を現さないのを見て取ると、静かに息をついて意識と思考を落ち着ける
突然の闖入者によって遮られていた想いへと再び意識を戻した深雪の胸中にあるのは、空白。心の奥底、魂と存在の根底を形作る一片――そこを満たしてくれていたはずの最愛の人を失った喪失と、その虚無は感情と意識の全てを注いでも二度と埋めることはできない
「私があなたの意志を継ぎます」
まるで心に空いた穴を埋めようとするかのように自身の胸に両手を添えた深雪は、遠く自分の目の届かな場所で永遠に届かない所へと旅立った死紅魔に葬送の言葉を送る
この声が届くことはもう無い。この想いを二度と届けることはできない。世界を吹き抜ける風に、長い黒髪を揺らめかせる深雪は、ゆっくりと空を見上げて静かに――強い意志の込められた瞳で亡き最愛の人に向けて言葉を紡ぐ
「もし、この出会うことがあったならば、私が神魔君を――」
天を夜に閉ざしていた神臓が薄明の光を灯し、世界に当たり前のように夜明けをもたらし、朝を運んでくる
その光に照らされて立つ深雪は、力の残滓となって世界に溶けた死紅魔に自分の声が届くように優しく、厳かな声音でその決意を表明するのだった
※
「神魔様が、世界を滅ぼす……ですか」
天頂に輝いていた神臓が太陽へと変化をはじめ、空が白んでくる中、未だ隔離された空間の中で二人の時間を過ごしていた桜は、神魔の言葉に怪訝そうな視線を向ける
今の神魔は正座した桜の膝に頭を乗せた姿勢でくつろいでおり、桜色の髪を持つ伴侶を視界で横向きに映している
「あの人が言うにはね」
身体を休め、傷を癒しながら二人だけの時間を過ごす神魔は、戦いの中で死紅魔とした話を一通り説明して自嘲じみた笑みを零す
「あの人ではなく、〝お父様〟でしょう?」
そんな神魔の表情を見下ろす桜は、右の手を伸ばして自身の膝の上にある愛しい人の左頬に白魚のような細指で触れると、窘めるように言って微笑みかける
深く優しい響きを感じさせる声音で、慈しむように言う桜と視線を交錯させた神魔は、目を閉じて小さく首を横に振って呟く
「いや、僕にそんな風に呼ぶ資格はもうないよ」
その命を奪った自分が、どの口で父と呼ぶのか――自嘲するように言う神魔の言葉に耳を傾ける桜は、それでもその心を包み込むような穏やかな微笑みを浮かべて、愛おしさを噛み締めるように囁く
「では、わたくしが許します」
「!」
その言葉に、小さく目を瞠った神魔の視線を受け止めた桜は、愛しい人に触れる指先をそっと動かしながら、もう一度たおやかな声音で微笑みかける
「わたくしが許します。ですから、どうかお義父様のことを、お父様と呼んで差し上げてください」
憎しみや敵意、後悔といった念は薄いが、神魔の瞳に罪悪感や痛みを宿っているのを見透かしている桜は、愛する人の重荷を支えられるように、そっと己の心を寄り添わせて語りかける
その言葉に、伏せられた神魔の瞳が迷いや戸惑いの色を浮かべるのを見て、桜は慈愛に満ちた声音で言葉を紡いでいく
「あなたは、確かにお義父様を手にかけました。ですが、それは決して絆を絶ったということではないはずです
神魔様とお義父様は、お互いに守りたいものが違っただけです。それに、神魔様がそのようなことを仰っては、わたくしがお義父様と呼べなくなってしまいます」
諭すように語りかけ、神魔の心を優しく労わった桜は、次いで自分の我儘へと言葉を続けて小さく肩を竦めて見せる
苦笑めいた微笑を浮かべる桜は、自分が神魔の伴侶であるのならば、その実父である死紅魔とも家族なのだという己のおこがましさに言葉の下で呆れていた
それは、神魔には父と仲良くしていて欲しいという桜の我儘であり、そしてその中に自分もいたいというささやかで自分勝手な願いだった
「桜……」
だが、それは決して建前ではない。桜の言葉からはそんな個人的な感傷以上に、神魔と死紅魔の父子の絆を自分の事のように大切に思い、守ろうとしてくれていることが伝わってくる
「わたくしは、幼い頃に両親を奪われましたから。お慕いする方のご両親――神魔様のご家族とお近づきになるのが夢だったのです。ですから、どうかお父様と呼んで差し上げていただけませんか?」
神魔を想い、そこにささやかな自分の願いを忍ばせる桜は、膝で受け止めた愛しい人が自身の思惑にある程度気付いているのを分かった上で話を続けて行く
桜は、悪魔の原在――「五大皇魔」の一角、「久遠」と「涅槃」の娘。だが、最強の悪魔である二人は、同じくその一人であるゼノンによって命を奪われた。
家族を失い、先日妖精界で再会するまでは長く唯一の肉親である姉「撫子」とも離れていた桜にとって、肉親とは一種の憧れに近いものがあった
理不尽に奪われた桜とは違い、神魔はその手で殺めている。だが、桜はその戦いの根底にあった父と子の絆だけは守りたいと願っているのだ
「……ところで、どう思う?」
花のような優しい笑みを向けてくる桜の視線から、ばつが悪そうに視線を逸らした神魔は、あえてそれには答えずに話題を戻す
そんな神魔の言葉に、目元を優しく綻ばせた桜は一度瞼を閉じることで視覚を遮り、その視線を自分の内側へと向けて己の心と向き合う
「わたくしには、事の真偽は分かりかねますが……わたくしがすべきことは分かっているつもりです」
再び瞼を開いた桜の瞳にはその心が写し取られており、強く揺るぎない意志の宿ったたおやかな視線を神魔へと注ぐ
「神魔様。このようなことを申し上げれば、あなたは御気分を害されると思いますが……わたくしは、あなたに殺められるのであれば本望です。ですが、わたくしを殺めることで神魔様がお心を痛めてしまわれるのは耐えられません」
神魔へと視線を向け、その手を触れたまま語りかける桜の声音は、まるで自分の声が愛しい人の心に届くことを願う敬虔にも似た意思が籠められていた
普段ならば、決して口にすることはない本心を言葉にしているのは、神魔に伝えなければならない想いがあるからだ
神魔が世界を滅ぼすということの本当の意味は桜には分からない。だが、桜にとっては自身がすべきことはなにも変わらない。
桜にとって一番大切なものは神魔だ。もし神魔が世界を滅ぼすのだとしても、その命に比すれば、それ以外の全ては価値がない。
桜にとっては、神魔の命が世界の全てよりも重いのだ
故に自身で告げたように、もし神魔に愛想をつかされ、自分が邪魔になって殺されるのならばそれを甘んじて受け入れる程度の覚悟は桜にはある。だが、神魔が望まずに自分を殺めることは耐えられない。
今も昔も、同じ。神魔と出会い、心を通わせ、そして共にあると誓ったその日から、桜の最も大切な願い
は変わらない
「わたくしは、あなたのお傍におります」
遥か昔に誓った言葉のまま、変わらぬ思いを言葉にして再び告げられた桜の言葉に、神魔はその瞳を見つめて、その思いを受け取る
例え神魔が世界を滅ぼすのだとしても、どのような選択をするのだとしても自分は最後の時までずっと一緒にいる――桜の瞳は雄弁にその心の内を語っていた
「それがわたくしの願いです」
膝の上に乗せた神魔の重みを感じ、その頬に触れたままで微笑みかける桜の言葉は、深く健気な愛色に染められていた
ある意味で桜らしい言葉に笑みを零した神魔は、わずかに緊張していたその目元を緩めてゆっくりと口を開く
「僕は、死ぬのは嫌だよ」
「はい」
左頬に触れている桜の手に自分に自分の手を重ねて軽く握った神魔の視線と言葉に、桜も穏やかな声音で答える
仮に自分が死紅魔の言うとおりであっても、世界のために死ぬことは受け入れ難かった。自分の命を世界のために捨てることは難しく、桜を残して死ぬことはそれ以上に耐えられなかった
神魔は自分が間違ったことをしたとは思っていない。だが、もし自分が死紅魔の立場で、その対象が桜ではなかったら、おそらく同じ結論を出していただろうとも思っている
先の戦いは、世界を守るという信念と、世界のためであっても死にたくない意思によるもの。ただ、生きたいという独りよがりで当たり前の願いに、それを阻むものの力が及ばなかった結果、今の神魔だといっても過言ではない
「あの人……父さんの言葉を信じなかったわけじゃないし、仮にそうだとしても死にたくないから、生きるために戦ったんだ」
桜の願いを聞き入れ、己の手で殺めた死紅魔を父と呼んだ神魔の声は、淡々とした語り口調でありながら、慟哭を押し殺しているようにも聞こえる
(神魔様……?)
「分かってて、それでも父さんと戦って――殺した」
しかし、神魔の言葉に耳を傾ける桜は、その声の中にやり場のない感情の発露以外のものを感じ取ってわずかにその柳眉を顰める
神魔のことをずっと見ている桜だからこそ気付き、見抜くことができる自罰的な響きを帯びた伴侶の心の声に違和感を覚えたのはほんの一瞬だった
「けど、僕はまだ本当の意味で父さんに勝ってない」
淡白だった神魔の声が不意に力強さを帯び、桜の意識を引き寄せる
「僕が全てを滅ぼすって信じた父さんの考えを僕自身が打ち破って、初めて僕の勝ちだと思う」
「はい」
まっすぐに向けられる神魔の視線を受け止める桜は、その言葉に込められている思いを正しく受け取って淑やかに微笑む
確かに死紅魔との戦いには勝利を収めた。だが、その言葉が真実であったなら、今のままでは神魔が世界を滅ぼす事実は変えられない
世界が滅びる運命を変えられないと信じて神魔を殺そうとした死紅魔に本当の意味で勝利を収めるには、それ以外の道で解決できたのだと示す必要がある
先の戦いでは、それを示す言葉も、術も、時間もなかった。だからこそ、神魔は桜と共にこの世界で生きていくために、その術を見つけて示さなければならない
「だから、なんていうか……桜に、力を貸してほしいなって」
わずかに口ごもり、照れ混じりに言う神魔の言葉に、桜はその美貌に花のような微笑を浮かべる
「無論です。わたくしにできる限りの事をさせていただきます」
「ありがと」
桜のその笑みを見ていた神魔は、小さく苦笑じみた笑みを零す
「――やっぱり、悪くない」
「なにがでしょう?」
その口をついて出た小さな言葉に桜が小首を傾げる
それは、神魔が死紅魔と戦いの最中に交わした言葉。自分も、死紅魔も、自分が惚れた女に頭が上がらないが、それを悪いと思わないどころか、むしろ悪くない気分だということ
だがそれは、二人が愛した女がそれだけ素晴らしい女性だからこそ生まれる気持ち。――つまり、二人はあの時、互いに言葉を交わしていたのだ
――「お互い、いい女に恵まれた」と。
「なんでもないよ」
瞼を閉じ、安らかな表情で言う神魔の言葉に、桜はまるでその心中を見透かしたように穏やかに微笑みかける
「あら、それは気になりますね」
その言葉を聞いていた神魔は、表情を引き締めると膝枕をしてくれている伴侶を顔を見据えてその名を呼ぶ
「桜」
「はい」
神妙な響きを持つその声に視線を落とした桜は、神魔の真剣な眼差しに、その内に秘められた意思を感じ取って居住まいを正す
自分の様子から何かを感じ取って背筋を伸ばした桜を見る神魔は、ゆっくりと息を吐き出すと、自分に向けられてる伴侶の瞳を見つめて、重い口を開く
「もし、全部終わって生きていられたら……また子供でも作ってみよっか?」
その言葉に桜は小さく目を見開き、次いでその表情を柔らかなものに変えて微笑む
「はい。では、ちゃんと生き残らなければいけませんね」
「もちろんだよ。桜は死なせない」
かつて、一度だけ神魔との間に命を授かったとき、桜は戦いの中でそのかけがえのないものを失ってしまった
それから長い時間が経ち、今となってはその時の痛みは過去の記憶となっている。「またいつかは」とは思っていたが、神魔を愛おしく想うあまりその機を逃していた
「神魔様のお言葉はとても嬉しいのですが、わたくしは子供にもやきもちを焼いてしまうかもしれませんよ?」
「それは怖いね。じゃあ、そうならないように気を付けないと」
頬を朱に染め、淑やかに微笑む桜の花顔を見上げる神魔は、優しく苦笑して答える
自分の左頬に触れていた桜の右手に自身の左手を添えていた神魔は、そのままその手を取ると、指を絡ませ合うようにして手を繋ぐ
「はい」
互いに見つめ合い、絡み合う手を介して互いの温もりを交換して幸福の笑みを浮かべる神魔と桜を、天頂で輝く朝日が優しく照らしていた
※
世界と世界を隔てる時空の狭間。そこに浮かぶ無数の建造物を乗せた巨大な浮遊大陸――十世界の本拠地の一角に一つの影が佇んでいた
「そうか。死紅魔が死んだか」
小さく独白し、目を伏せたのは十世界魔界総督にして、悪魔の原在、「五大皇魔」の一角を成す最強の悪魔の一人「ゼノン」。
その声は失意に彩られていたが、それは感傷などというよりも、十世界内で自身に次ぐ地位を持ち、愛梨からの信頼も厚い有用な部下を失ったことに関する意味合いの方が強かった
「まだあいつの利用価値は高かったんだがな」
思い通りにならない現実の難しさに小さくため息をついたゼノンは、その視線を背後へと向け、闇に溶け込むようにして潜んでいる一つの影を見る
「『厄真』に伝えてくれ。〝『神の眼』の回収に力を貸してほしい〟と」
身じろぎ一つせず、ゼノンの言葉を受けたその影は、それに沈黙と首肯を以って応じると共に闇の中へと溶けてその姿を消失させる
『ゼノン』
その時、まるでその気を見計らっていたかのように男の声が響き、空の一部に一メートルほどの暗黒の面を形作る
そこに映し出された形の判然としない影を見たゼノンは、何の迷いもなくその場で片膝をついて深々と小部を垂れて、恭しい敬服の意を示す
その様子を見た者がいれば、驚愕のあまりに言葉を失っただろう。なぜならゼノンが見せたのは、十世界の盟主である愛梨にさえ示したことがあるのか分からない程の忠誠の態度だったのだ
悪魔の原在の一人であり、最強の全霊命の一角でもあるゼノンが当然のように跪くその姿を睥睨する黒闇の中の影が、一拍の間を置いて言葉を発する
『まだ例のものは見つからないのか?』
「申し訳ありません。手を尽くしてはいるのですが……」
闇の中に映る影の言葉に、ゼノンは恭しい所作を崩さないままで答える
『〝我ら〟は不可神協定によって、世界に干渉することができない。我らが力を使えば、もう少し簡単になるのだろうが、そのようなことをすれば奴らに見つかってしまうだろう
一度攻撃を仕掛けているこちらとしては、あのお方が復活を遂げられる前にその力を行使されるのは面倒だ。故にお前達の力を借りねばならん』
静かで抑制の利いた声の中に、ささくれ立つような苛立ちや敵意が垣間見える闇の声に耳を傾けていたゼノンは、頭を下げたまま口を開く
「はい。必ずや、我らがあのお方がこの世界に残した〝鍵〟を手に入れて見せます。そのために、十世界の姫を利用しているのですから」
『頼んだぞ』
ゼノンの忠誠に溢れる言葉に満足したのか、闇の影は最後にそう告げると自身を映し出していた空間の画面ごと消失する
完全にその気配が消えるのを待って立ち上がったゼノンは、その場で身を翻すとゆっくりと闇の中へと姿を消していく
誰も居なくなったその部屋には、不気味なほどの静寂だけが残されていた。それはさながら、この世界に静かに忍び寄っている破滅の足音のようだった